- 21.荏原七福神コース
- コース 踏破記
- 今日は品川区の「21.荏原七福神コース」を歩きます。品川区の七福神のひとつ「荏原七福神」は、JR京浜東北線の大井町駅をスタート地点として、立会川緑道沿いの七福神を巡ります。最初に歩いたのは2022年のお正月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年10月に改めて歩きました。なので、お正月と秋の写真が入り交じっています。
21.荏原七福神コース
荏原七福神
荏原七福神は、万葉集にも記されている「荏原」の歴史と、当地の由緒ある7つの社寺に触れる機会のひとつとして、平成三年(1991年)に始まりました。七福神の開帳期間は、1月1日から1月7日です。期間中は参拝記念の色紙が有料で頒布され、各社寺にある朱印(スタンプ)をすべて押すと、満願絵馬が贈呈されます。なお、朱印は1月8日以降も各社寺に置かれており、無料で押すことができます。また、平成二十七年(2015年)からは、七福神をモチーフにしたキャラクターのスタンプを集める「もう一つの荏原七福神めぐり」が始まりました。このキャラクターは、一般応募によるデザインコンテストで選ばれています。
七福神各社寺
福禄寿 大井蔵王權現神社
昆沙門天 東光寺
布袋尊 養玉院
弁財天 上神明天祖神社
惠比寿 法蓮寺
壽老人 摩耶寺
大国天 小山八幡神社
七福神巡りの歴史
「七福神めぐり」は、江戸時代の町人文化が隆盛を極めた文化・文政年間(1804年〜1830年)の頃に各地で行われるようになりました。当時は、正月の松の内までの間に七福神に詣でることで、特にご利益が得られるとされ、人びとは近くの七福神に足を運んだと言われています。また「七福神めぐり」では「七福」にあやかり、各月の七日にお参りするのも良いとされています。
「21.荏原七福神コース」の歩行距離は約6.7km(約8,375歩)、歩行時間は約2時間3分、消費カロリーは約555Kcalです。
スタート地点:JR京浜東北線大井町駅中央口
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- ポイント1 大井蔵王権現神社
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創建時期は不明ですが、江戸時代には権現神社の天狗のお陰で大井村は大火や疫病に遭わずに済んだ、という言い伝えがあります。
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- ポイント2 東光寺
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天文十三年(1544年)、什仙上人によって開山されました。本尊は阿弥陀如来で、参道には東司というトイレ守護のお堂があります。
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- ポイント3 養玉院
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芝高輪の如来寺と下谷坂本の養玉院が、大正十二年(1923年)に合併して当地に移ってきました。五体の大仏(おおぼとけ)が鎮座しています。
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- ポイント4 上神明天祖神社
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元享二年(1322年)に白蛇が住む龍神社で行われた雨乞いの断食祈願により、大干ばつから逃れられたことを感謝して建立されました。
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- ポイント5 法蓮寺
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文永年間(1264年〜1275年)に日蓮聖人の孫弟子が開山し、この地の豪族・荏原氏の館に創建されたと言われています。
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- ポイント6 摩耶寺
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開山は寛文年間(1661年〜1673年)とされています。本堂左側に、釈迦の生母である摩耶夫人像を祀る摩耶堂があります。
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- ポイント7 小山八幡神社
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社伝では鎌倉幕府の頃に創立され、口伝では長元三年(1030年)には旧小山村本村の氏神として崇敬されていたとあります。
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ゴール地点:東急目黒線西小山駅
こぼれ話
立会道路は、立会川を暗渠にして下水道を整備した上に作られた道です。
旗の台駅〜西小山駅の桜並木は、立会道路の誕生時に植えられました。それ以前は柳があったそうです。
スタート地点のJR京浜東北線大井町駅中央口から歩き始めます。
立会川緑道の一画に2匹の猫の銅像があります。
「花子と太郎」像
この「花子と太郎」像は、大正十四年頃、大井町に住んでいた詩人・萩原朔太郎(1886年〜1942年)にちなんで建てられました。朔太郎は大正から昭和期にかけて活躍し、口語自由詩を完成し、日本における近代詩の確立に大きな足跡を残しました。大正十四年(1925年)二月、三十八歳の時に妻子と共に郷里の群馬県(現在の前橋市)から上京。この大井町で初めての都会生活をはじめました。この地での生活はわずか二ヶ月ほどでしたが、その経験から、「大井町」と題した詩を発表しています。昭和四十八年に立会川を蓋がけし、上部を児童遊園として整備する際、朔太郎の代表的な詩集「青猫」をモチーフとしてこの像を作成し、この場所に設置しました。
- ポイント1 大井蔵王権現神社
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大井蔵王権現神社は、大井権現台の地名の由来となった神社です。何度かの移転を重ね、現在は周辺をビルに囲まれた立会道路沿いに鎮座しています。
大井蔵王権現神社御由緒
御祭神 金山毘古命・金山毘売命(商売繁盛・夫婦円満・金鉱)
建速須佐男命(開運招福・縁結び・社運隆昌・家内安全)
福禄寿尊(荏原七福神−幸福家庭円満・出世財運・健康長寿)
大黒天(商売繁盛・開運招福・金運・財運・無病息災・厄除)
大井蔵王権現神社は十世紀(平安時代)に現在のJR東日本工場である権現台に鎮座し一郷の鎮守として住民の信仰を集めています。起源は定かではなく、大井一郷では「権現様」として親しまれています。明治四十三年(1910年)権現台を造成し、現在の品川操車場埋め立て工事の際、東大井の来福寺に移遷し、大正十四年(1925年)十月三日、日本理化工業株式会社の御好意により社有地に遷座されるに至りました。現在の神社は昭和六十三年五月に氏子一同により新しく竣工遷座しました。遷座二十周年にあたる平成二十年と、十年後の遷座三十周年に神幸祭を賑々しく執り行いました。蔵王権現は六世紀後半、役小角行者の開祖より奈良県吉野山の金峯山寺に本尊としてお祀りしている「蔵王大権現」であり、神社の起源は開祖様のお弟子により山岳信仰の拠点として当社を創建したと思われます。神社の主祭神の金山毘古命、金山毘売命は吉野の大峯山麓の金峯山神社に、建速須佐男命は出雲大社にお祀りされている神として親しまれています。現在神社奥殿に残されている石堂は「蔵王大権現」寛政五年(1793年)と刻まれています。神社宮御輿胴部分には「太平記」に登場する吉野南朝の後醍醐天皇と天皇を守護した楠正成・正行親子の絵巻が唐絵(極彩色)で描かれ、東京では大変珍しいお御輿です。大正十四年十月三日この地に遷座することに尽力された名和長憲男爵は後醍醐天皇に縁の名和家の子孫に当たり権現神社と縁のある奈良県吉野山に関係すると思われます。社紋は吉野ゆかりの桜紋です。境内のお堂に祀られている「福禄寿尊向拝宮」は平成三年に発足した「荏原七福神」の「福禄寿」です。南極星人とよばれ、現世の福(幸せ)、禄(出世・財運)、寿(長命)を授けていただけるありがたい福の神です。
御輿の唐絵は珍しいですね。
展示の神輿は大井一丁目十四の八に鎮座、大井蔵王権現神社の宮神輿です。よく見て頂くと胴に彫り物がしてあり、極彩色が施してある非常に珍しい神輿です。??右胴部分の彫り物は、神社にゆかりのある南北朝時代(千三百年代頃)の後醍醐天皇とその忠臣楠木正成・正行親子と云われています。神輿は例大祭(毎年四月の第三、土・日・・・今年は二十日、二十一日)の時に天狗神輿と隔年で町内を巡行します。??年は展示のみです。
江戸時代に流行った火事や疫病から大井村の人々を救ったのが権現神社の天狗です。その感謝の念が「大井蔵王権現太鼓」の発祥となって今なお残っています。例大祭は毎年4月第3土・日に行われ、巨大な天狗の顔が鎮座する神輿をおしろいをつけた男たちが赤やピンクの長襦袢姿で担ぐという異色のお祭りは、通称「天狗祭り」と呼ばれています。町の有志が神社の天狗伝説をもとに約30年前に始め、まちの祭りとして定着しています。
荏原七福神の福禄寿を祀っていて、お正月は多くの人出でにぎわいます。
荏原七福神の各社には、期間中にそれぞれの七福神の顔ハメ看板が設置されます。
大井蔵王権現神社から立会道路を進んで東光寺に向かいます。
- ポイント2 東光寺
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久遠山不動院東光寺は、戦国時代の天文十三年(1534年)に創建された天台宗のお寺です。ご本尊は阿弥陀如来で、現在の本堂は文化十年(1813年)に建てられました。梵鐘は同年に浅草田町の上総屋喜兵衛らが寄進したものです。
東光寺は「二葉」にありますが、町名の変遷を記した案内板が慰霊碑の後ろに掲げられています。
村より町へ
昔は東京府下荏原郡平塚村大字下蛇窪と称した。昭和七年に市制が引れて、東京市荏原区下神明町となった。昭和十六年四月一日より、東京都荏原区二葉町となり、昭和廿三年旧品川区と合同して新しい品川区となる。
現在、
東京都品川区二葉一丁目十四番十六号
参道の中程に、東司(とうす)と呼ばれるお堂があります。東司は寺院のトイレのことです。お堂の中央には不浄除けの神様「鳥瑟沙摩大明」が安置されており、その回りにトイレが並んでいます。中央の「おまたぎ」という便器をまたいでお参りすると下の病にならない、下のお世話にならないといわれています。
東光寺は荏原七福神の毘沙門天をお祀りしていて、元旦〜1月7日までの期間は七福神めぐりの参拝者で賑わいます。
東光寺から養玉院に向かいます。西大井駅の裏手に、立派な門構えの伊藤博文公墓所があります。伊藤博文(1841年〜1909年)は長州藩の下級武士の子として生まれ、幕末期に高杉晋作らと倒幕運動に参加しました。明治維新後は初代内閣総理大臣を務め、明治四十二年にハルビンで暗殺されて国葬が行なわれた後、大井に居館があったことからこの地に葬られました。伊藤門と呼ばれる門柱と門扉は、昭和二十五年に伊藤博文公宅から譲り受けたものです。門柱には、「大勲位伊藤博文公墓所」と刻まれています。
墓所は、高さ約2メートルの円墳の前に鳥居を配した神式で、隣にはやや小型の梅子夫人の墓があります。墓所は一般的な霊園やお墓と違い、歴史的な文化財として保全されています。通常は非公開のため入れませんが、文化財ウィークの毎年11月の一般公開日には数日限定で公開されます。伊藤博文公墓所は、しながわ百景に選ばれています。
墓所内には立ち入れませんでしたが、広い敷地には伊藤博文公の胸像や案内板が建っています。
案内板の文字は望遠レンズでも読み取れませんが、ネットで探しましたら画像がみつかりました。
品川区指定史跡
伊藤博文墓
伊藤博文は、天保十二年(1841年)に長州藩(山口県)の武士の子として生まれ、松下村塾で学んだ。若くしてイギリスに遊学し、帰国後は海外の状勢をもとに、新政府の樹立に力を尽した。明治の新政府では要職を歴任し、その間に三度も欧米諸国を巡って各国の制度を視察して、憲法制度や行政組織などの内閣制度の基礎をつくった。明治十八年(1885年)にわが国初の総理大臣となり、長期間にわたって国政の発展に貢献した。明治四十二年(1909年)十月に、中国のハルピンで朝鮮の独立運動家によって狙撃され、六十九歳で没した。
- ポイント3 養玉院
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東海道新幹線と横須賀線の高架を潜った先に養玉院があります。でも、手元の地図には「如来寺」と表示されています。実際に見てみますと、山門前の石標は「大佛 如来寺」となっていますが、山門の表札は「天台宗養玉院」と書いてあります。現在の養玉院は、かつて上野にあった養玉院と芝高輪にあった如来寺の2寺が1926年に合併して成立しました。なので、両方の寺院の名称を併せて「帰命山養玉院如来寺」と号しています。宗教法人としての登録名は「養玉院」ですが、このような経緯から「養玉院如来寺」とか「如来寺」とも呼ばれているのです。
ちなみに、しながわ百景には、「68 養玉院(如来寺)」という名前で登録されています。併記されている「69 大仏の千灯供養」とは、迎え盆の8月13日に境内に設置された1000個の堤灯に次々と火が灯され、幽玄な情趣を醸し出す供養の行事のことです。
養玉院は、「大井の大仏(おおぼとけ)」として知られています。朱塗りが鮮やかな五智如来堂の「瑞應殿」には、木造五智如来坐像が鎮座しています。五智如来像とは、密教の主尊である大日如来の有する5種の智恵を象徴したもので、薬師如来・宝勝如来・大日如来・阿弥陀如来・釈迦如来の5体の仏像のことです。
木造の仏像としては都内最大級の3メートル超の五智如来は高輪の大仏と呼ばれ、江戸有数の名作として評判となりました。薬師如来を除いて他の4体は享保十年(1725年)と延享二年(1745年)の火災で焼失しましたが、延享三年(1746年)頃に再興されました。現在は大井の大仏として親しまれています。
品川区指定有形文化財
木造五智如来坐像(五躯)
五智如来堂(瑞應殿)内に、向かって右から薬師如来、宝生(勝)如来、大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来の五体が安置されている。いずれも像高三メートルにも及び、「大井の大仏」と呼ばれている。五像は、木食但唱が弟子と共に信濃国で造立し、寛永十三年(1636年)江戸芝高輪に如来寺を建てて安置した。如来寺は、明治三十年代に、大井村(現在地)に移り、大正十五年養玉院と合併したが、五智如来は、如来寺伝来のものである。薬師如来以外は、火災で諸堂と伴に焼失し、宝暦年間(1751年〜1764年)に再建されたが、壮観な姿は江戸庶民の信仰と結びつき、由緒ある如来像は貴重である。
養玉院は東海七福神の布袋尊をお祀りしていて、お正月には初詣や七福神巡りの人々で賑わいます。
養玉院から上神明天祖神社に向かいます。立会道路を横断し、三間通りに入った先で左折します。民家の前に町名由来板が立っています。
蛇窪村
現在の二葉、豊町、戸越、西大井の一部は、江戸時代初期までは蛇窪村と呼ばれていました。鎌倉時代、この地に生息していた白蛇が、地元の人の夢枕に現れ、お告げにより弁天社を建立されました。現在、この地に暮らす人々や町会、商店街、企業などが手を結び、「スネークタウン」として街おこしを行っています。
- ポイント4 上神明天祖神社
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文永八年(1272年)、北条四朗左近大夫陸奥守重時は五男の時千代に多数の家臣を与え、蛇窪に残ってこの地を開くよう諭し、自らはこの地を去りました。その後、時千代は法圓上人と称して大森に厳正寺を開山し、家臣の多くを蛇窪周辺に居住させました。それから50年ほどを経た元亨二年(1322年)、武蔵の国一帯が大旱魃となり、飢饉の到来は必至と見られました。この時、厳正寺の当主だった法圓の甥の第二世法密上人はこの危機を救うため、厳正寺の戌亥(北西)の方向に当る森林の古池の畔にあった龍神社に雨乞いの断食祈願をしました。上人の祈願により大雨が沛然と降り注ぎ、遂に大旱魃の危機を免れることができました。これに感激した時千代の旧家臣たちは蛇窪に神社を勧請し、これが現在の蛇窪神社の縁起とされています。当初は神明社と称していましたが、村社に昇格した際に「天祖神社」に改名し、令和元年(2019年)5月1日に別称として使用していた「蛇窪神社」を通称表記に格上げしました。「蛇窪神社」を冠した大鳥居は、同年末に建立されたものです。上神明天祖神社は、荏原七福神の弁財天を祀っています。
大鳥居縁起
◎旧檜の大鳥居
大正初期、土地の有志が発起人となり、建立されました。昭和二十年の空襲で、本殿や境内建造物、樹木等が丸焼けになりましたが、大鳥居のみが戦禍を免れ、その不思議な神の御加護により氏子全体をご照覧くださいました。昭和四十九年、氏子篤志氏家の熱意により、銅で修復され、歴史とともに約百年、平成三十年8月に安全性を考慮して、惜しまれつつ解体されました。
◎新檜の大鳥居
蛇窪神社鎮座七百年記念事業(奉賛募金期間 平成三十年12月20日〜令和三年12月20日)の一環として、地域発展のシンボルとなる大鳥居が、今和元年12月26日氏子崇敬者各位の御奉賛により建立されました。
上神明天祖神社は、しながわ百景に選ばれています。そのうちに「88 蛇窪神社」に書き直されるかもしれませんね。
現在の本殿は平成十年に建て替えられ、平成二十三年には屋根が改修されました。
本殿右奥に、蛇窪神社鎮座七百年を記念して令和三年4月1日に元宮として建立された「蛇窪龍神社」があります。蛇窪龍神社は蛇窪神社創建前の神社で、千年以上の歴史があると伝えられ、蛇窪の守護神と称えられています。七夕は蛇窪龍神社の水まつりの日です。鎌倉時代に龍神様が旱魃で苦しむこの地に雨を降らせて大飢饉を救ったことで、龍神様と水恩に感謝する日となっています。7匹の白蛇や全長8メートルの白龍は、昭和五十年2月5日に奉納されたもので、神様の使いである白蛇が八匹目で白龍になるという言い伝えを表しています。
蛇窪龍神社の左手に、白蛇辨財天の社があります。鎌倉時代、天祖神社の社殿の左横(現在の消防団詰所付近)に清水が湧き出る洗い場があり、そこに白蛇が住んでいました。時移り、いつのまにか洗い場がなくなり、やむなく白蛇は現在の戸越公園の池に移り住むようになりました。あるとき、土地の旧家森谷友吉氏の夢枕に白蛇が現れ「一日も早くもとの住みかに帰してほしい」と懇願しました。森谷氏はこの話を宮司に伝え、白蛇をもとに戻すよう願い出ました。宮司は辨財天社を建立することに決め、現在の駐車場に池を掘り、池の中央に小島を設け、その中の石窟に石祠を造って白蛇を祠ることにしました。古老の話によれば白蛇を迎える日の夜、いよいよお迎えの祝詞を奉上しようとしたとき、それまでの輝くばかりの星空が一天にわかにかき曇り、雷鳴とともに大風が立ち起こり、そのさまは身のすくむ思いだったということです。
白蛇辨財天の脇には「白龍の滝」と呼ばれる滝があり、そこから流れ出た水路には「夢巳橋」が架かっています。
白蛇辨財天の前には「銭洗い所」があります。これらの施設は、鎮座七百年を記念して令和三年4月1日に建替え・新設されました。
白龍の滝の横には、「蛇松」が植えられています。松葉が繁っていてよく見えませんが、松の木の枝が絡みあって蛇のような恰好をしています。
本殿の左手前に、境内社の「法密稲荷社」があります。元亨二年(1322年)に武蔵の国が深刻な大飢饉に見舞われた際に、厳正寺第二世法密上人は雨乞いの断食祈願をしました。そして豊作を祈るため、京都伏見稲荷大社の御分霊をお祀りし、稲荷社が建立されました。雨乞いが行われてから七百年目に当る令和四年11月1日に建て替えられ、稲荷社の由緒を後世に伝えるために「法密稲荷社」と改名されました。
法密稲荷社の参道脇に、土搗(づつき)石が祀られています。
土搗石(づつきいし)
この土搗石は江戸時代より武蔵国荏原郡上蛇窪村に伝わる石で村内で住居、納屋などの普請がある度に村人が交替で手伝い歌を歌いながら敷地を固めた石で(別名オカメサン)大正七年頃まで使用されました。平澤忠義氏より譲り受け社宝として後世に伝えるものです。
上神明天祖神社から法蓮寺に向かいます。
- ポイント5 法蓮寺
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荏原町駅正面口から踏切を渡った左手に法連寺があります。鎌倉時代中期の文永年間(1264年〜1274年)に此の地を治めていた豪族の荏原義宗(源義家の末裔といわれています)が篤く日蓮宗に帰依し、息子である徳次郎を日蓮の高弟・日朗の弟子とさせました。徳次郎は後に朗慶上人となり、荏原氏の居館跡に法蓮寺を開山しました。隣接する旗岡八幡神社と共に、源氏縁の寺として「八幡山」の山号が付けられています。
法連寺は、しながわ百景に選ばれています。
江戸時代、十一代将軍徳川家斉は鷹狩の際に人柄のよい住職を慕ってたびたび寺に立ち寄りました。住職は将軍を相手に勝敗手加減なく相撲を取ったことで気に入られたそうです。
将軍家斉と法蓮寺住職の角力伝承
ここ法蓮寺には、徳川十一代将軍家斉と当時の住職日詮上人が角力を取ったという伝承があります。家斉は品川か目黒筋への鷹狩の途中、中延八幡宮(今の旗岡八幡神社)に立ち寄られたという。そのとき別当寺であったここ法蓮寺の芝庭において、家斉は法蓮寺三十九世住職の日詮と角力を取ったとされ、このとき日詮上人は手加減せずに将軍を負かしたのでかえって賞されたというお話です。江戸幕府が編さんした歴史書「徳川実記」の中には、家斉が寛政から文政年間(江戸時代後期)にかけて幾度か品川周辺で鷹狩を行ったと書かれています。
法蓮寺には、荏原七福神のひとつで、清廉で商売繁盛・福徳をもたらす神様として知られる恵比須様が祀られていて、門を入って左手に恵比寿様の祠があります。畏れ多くも、ご尊顔を拝見しました。
恵比寿神の顔ハメ看板があります。しかも、2枚も。
宝船もありますね。こちらは恵比寿神と大黒天と弁財天が顔ハメになっています。大人数用ですね。
法蓮寺から摩耶寺に向かいます。
- ポイント6 摩耶寺
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摩耶寺は、紫色に彩色された本堂が印象的です。
仏母山摩耶寺は寛文年間(1661年〜1673年)に開山した日蓮宗のお寺です。山号が示すように、お釈迦様の母摩耶夫人をお祀りしています。延宝六年(1678年)に造られた「木造摩耶夫人立像」は、精巧な彫刻で極彩色に塗られた高さ36.9cmの人形形式で、通常は本堂左側の釈迦堂(摩耶堂)(天保年間【1831年〜1845年】に建立)に安置され非公開となっています。区の文化財に指定されていて、11月の文化財ウィークに本堂で公開されます。毎年5月に行われる「摩耶寺の花まつり」には多くの参拝客が訪れます。
品川区指定有形文化財
木造摩耶夫人立像
摩耶夫人とは、釈迦の生母のことである。本像は、高さ36.9センチメートルの小型のもので、誕生仏を前に配し、飛雲の台座にのる立像である。極彩色を施し、頭に冠をいただく人形様式の極めて精巧な彫刻で、製作年代は像内の墨書から延宝六年(1678年)であり、製作主は本寺の日明と推定される。本像は、高さ61センチの厨子に納められており、摩耶堂に安置されている。保存状態は極めて良好で、江戸時代初期の人形彫刻の古い遺例として貴重なものである。摩耶寺は日蓮宗の寺で仏母山と号し、建立は寛文七年(1667年)、開山は立法院日了といわれている。
荏原七福神の寿老人をお祀りし、お正月には甘酒が配られます。
摩耶寺から直ぐ近くの小山八幡神社に向かいます。
- ポイント7 小山八幡神社
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長い参道(ただの道路?)の先に「しながわ百景」にも選ばれている小山八幡神社が鎮座しています。本殿に向かう石段の先にまた石段があり、「小山」の上に社殿が建っているような感じです。実はこの小山八幡神社は品川区内随一の高台にあり、標高は35mにもなります。この地域一帯の土地の名前はこの「小高い山」に因んで「小山」となりました。名前の由来だけではなく、品川区内にはこのような地域一帯を見渡せる場所はなかなかありません。そのため、魅力ある品川区の風景として「しながわ百景」にも選ばれています。
小山八幡神社は旧荏原郡小山村の鎮守で、長元三年(1030年)頃に源頼信が此の地に誉田別尊を氏神として奉ったのが始まりであるといわれています。後に妙見菩薩も誉田別尊と並んで祀られましたので、妙見八幡とも、此の地の旧名から池の谷八幡とも呼ばれていました。妙見菩薩は明治時代の神仏分離令により、隣接した摩耶寺に移されました。
境内の奥には甲子神社があり、大黒天が祀られています。提灯にも「甲子大國天」の文字が記されています。ちなみに、大黒天と大國天は同じ神様です。
境内には椎の木の大木があり、この椎の木は品川区指定文化財になっています。2023年5月に東急不動産を事業主として、この区指定天然記念物である樹齢約200年の椎の木を始めとした境内の樹木の殆どを伐採し、敷地に低層マンションを建設する計画が報道されました。その後の経緯は分かりませんが、神社の景観はどうなるのでしょうか?
品川区指定天然記念物
小山八幡神社のシイ(2)
本樹は境内の西北隅にあり、当社ではシイ(1)に次ぐ大木である。目通り(目の高さ)幹囲り2.9メートル、樹高16メートル、推定樹齢約百五十年である。樹勢は旺盛で樹姿も整っており、貴重な樹木である。シイはわが国中部以南の暖地に生じ、よく繁茂する常緑高木であり、庭木として広く生育している。都心や本区でも大木が多く見られたが、今は少ない。
ゴール地点の東急目黒線西小山駅に着きました。
ということで、品川区で最後の「21.荏原七福神コース」を歩き終えました。次は荒川区の最初のコースである「A.新しい街並み散策ルート」を歩きます。
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