- B.隅田川の川沿い散策ルート(往復)
- コース 踏破記
- 今日は荒川区の「B.隅田川の川沿い散策ルート(往復)」を歩きます。隅田川の土手に設けられた遊歩道を始点から白鬚橋西詰交差点まで往復します。最初に歩いたのは2022年の1月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年11月に改めて歩きました。なので、冬と晩秋の写真が入り交じっています。
B.隅田川の川沿い散策ルート(往復)
「B.隅田川の川沿い散策ルート(往復)」の歩行距離は約4.6km(約6、571歩)、歩行時間は約1時間9分、消費カロリーは約207Kcalです。
スタート地点:さくら堤遊歩道始点
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- ポイント1 さくら堤通り
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- ポイント2 石浜神社
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神亀元年(724年)、聖武天皇の勅願によって鎮座され、1280年余の歴史を持つ神社です。かつて、源頼朝が藤原泰衝征討の折、この神社に祈願して大勝の目的を果たしたので、後日社殿を造営寄進しました。
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ゴール地点:さくら堤遊歩道終点
スタート地点のさくら堤遊歩道始点から歩き始めます。
- ポイント1 さくら堤通り
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さくら堤通りは、隅田川沿いのリバーパーク汐入入口交差点から千住汐入大橋南詰交差点までの区間の道路の愛称です。隅田川の堤沿いに桜の木が植えられていて、特に「オオカンザクラ」はソメイヨシノより一足早く満開になりますので早々とお花見が楽しめます。
さくら堤通りから土手に上がって遊歩道の始点に向かいます。
今回は遊歩道の折り返し点を往復するコースなので、往路は河川敷を、復路は土手上の遊歩道を歩くことにします。遊歩道の開始点には距離の表示もされています。片道2、300mで、往復すると4、600mになります。
土手上から河川敷に下りますと、コンクリートブロック敷きの遊歩道が整備されています。上流側には、JR常磐線・つくばエクスプレス・地下鉄日比谷線の鉄橋が連なっています。
隅田川の対岸には、長らく工事中だった千住関屋ポンプ所が完成しています。千住関屋ポンプ所は、浸水被害を軽減するために雨水を地下の巨大水槽に一時的に貯留し、隅田川に放流するための施設で、荒川と隅田川で囲まれた流域の7割をカバーしています。貯留可能容量1万7600立方メートルで、標準的な25mプールに換算して約50杯分の雨水に対応できる国内屈指のポンプ所です。工事に際しては「ニューマチックケーソン工法」が採用され、全体の掘削面積は約5千u、沈下深度は約50mに及びました。15階建てのビルを地中に収めてしまうようなダイナミックな工事でした。
隅田川の全長は23.5kmありますが、この地点は河口から11kmの距離になります。
千住汐入大橋の下を潜ります。千住汐入大橋は、隅田川に架かる24番目の橋として、平成十八年2月に開通しました。この場所は、かつて「汐入の渡し」が行き交い、荒川区と足立区を結ぶ交通の要となっていました。汐入の渡しは、現在の千住汐入大橋付近にあり、明治二十三年(1890年)から昭和四十一年(1966年)まで、汐入(現在の荒川区南千住八丁目)と千住曙町の鐘淵紡績会社を結び、女工たちの通勤用として運行されていました。それ以前にも渡しはあったようですが、隅田川で最後まで運行されていた渡しでした。
[注記]
現在、隅田川で運行されている渡船は足立区新田にある日本化薬東京が運行する従業員専用の渡船のみとなっています。この渡船は川によって会社の敷地が分断されているために運行されているものであり、起終点共に工場敷地内にあるため一般の人々が乗ることはできません。
隅田川の対岸に伊澤造船株式会社のドックがあります。創業は明治十年(1877年)で、創業した明治初期には隅田川だけで20〜30の造船所があったそうですが、徐々に姿を消して、唯一この会社だけが残っているのだそうです。現在の業務は殆どが整備のようですが、時々新造も行われているとのことです。
隅田川の川岸と河川敷の遊歩道の間にビオトープが設置されています。ビオトープとは、生物群集の生息空間を示す言葉です。元々はドイツで発祥した生物学の概念ですが、都市化や産業活動によって生物が住みにくくなった場所において、周辺地域から区画して動植物の生息環境を人為的に再構成した環境という意味でも使われています。公園や学校の中にもビオトープを設置しているところが見られます。
水神大橋の下を潜ります。水神大橋は隅田川にかかる都道461号線の橋で、荒川区南千住八丁目と墨田区堤通二丁目を結んでいます。橋名は東岸にある「隅田川神社(水神宮)」に因んでいます。この場所の100mほど下流には、かって真崎稲荷と隅田川神社を結んでいた「水神の渡し」という渡船場がありました。
遊歩道の脇に、かって隅田川に築かれていた防潮堤の一部が保存・展示されています。
隅田川旧防潮堤
東京の東部低地帯には、およそ三百万人の都民が生活し、莫大な資産が集積しています。また、この地域は軟弱な沖積層に厚くおおわれ、大半が海面下となっているため、昔から多くの水害を被ってきました。東京都は、この地域を高潮や洪水から守るため、昭和三十二年から防潮堤や水門の建設に着手し、隅田川の防潮堤は昭和五十年度に概成しました。この防潮堤が完成して以降、水害は発生することなく、地域の安全に大きく寄与してきました。現在、隅田川ではより安全で環境にも配慮したスーパー堤防の整備を進めており、この白鬚西地区においても平成十八年二月に完成を迎えました。このスーパー堤防の完成にあたり、これまで幾多の台風、豪雨から地域を守ってきた旧の防潮堤を後世に伝えるため、その一部を保存するものです。
瑞光橋の下を潜ります。といっても、河川敷の遊歩道はこの橋で一旦途切れます。瑞光橋は隅田川に架かる橋でなく、隅田川に通じる入り江に架かる橋なのです。なので、入り江に沿ってぐるりと回り、再び隅田川の遊歩道に入る訳です。
では、何のためにこの入り江は存在するのでしょうか?その答えは古びたコンクリートの構造物の脇で草木に埋もれた案内板に書いてあります。
木の枝をかき分けて案内板をのぞき込みますと、どうやらコンクリートの構造物はかっての水門の一部らしいことがわかりました。JR貨物の隅田川駅構内に昭和四十五年頃まであった水扱積卸場と隅田川を繋ぐ水路の水門だったんですね。入り江の奥は埋め立てられて今はその水路の面影はありませんが、隅田川に面した所だけが入り江として残ったみたいです。
汐入水門跡
この汐入水門跡は、隅田川貨物駅(現、JR貨物隅田川貨物駅)と河川流通の関係を知る唯一の遺構であり、水害と闘った南千住の歴史を伝えている。汐入水門は、隅田川貨物駅構内に掘り込まれた運河の水位を調節し、駅構内と周辺地域を水害から守るため、昭和二十八年に誕生した。隅田川貨物駅は明治三十年に石炭の集散地として開設された駅である。鉄道(常磐線)と隅田川の水運を結びつける構造をもち、そのための運河が造られた。元来この地域は土地が低く、運河の護岸は荷物の揚げ下ろしの関係上、低く造られていたため、満潮時には付近に浸水し、さらに台風などの異常な高潮時には南千住ばかりでなく、浅草方面まで被害をこうむっていた。水門は、この水害を防ぐために建造されたのである。しかし貨物の輸送が船による河川輸送から鉄道・トラックによるコンテナ輸送に切り替わると、運河は不用となり昭和四十五年頃には全て埋め立てられ、水門もその役割を終えた。
河川敷の遊歩道は行き止まりになり、階段を登って土手上の遊歩道に出ます。ここから先の河川敷には草花が繁茂し、サンクチュアリー区域になっているのだそうです。
サンクチュアリー区域に生息する生き物たち
このあたりで見られる鳥たち
ユリカモメ(冬羽)、カワウ
ワンド内にいる魚たち
ボラ、スズキ、マハゼ、クロベンケイガニ、テナガエビ
サンクチュアリー区域内の植物たち
バッコヤナギ、ヨモギ、ヨシ、ヌルデ
(赤色区画)サンクチュアリー(※1)区域
この区域は、生き物(動物及び植物)が安心して成育できる場を目指しています。
緊急以外は、人の立入りを禁止します。
※1 「鳥獣の保護区」又は「聖域」の意味
(青色区画)ワンド(湾処)(※2)
ワンド内は、潮の満ち引きによる水位の変動があるものの、隅田川(本川)のような水の流れがありません。流れのないこの区域に多くの魚類等が好んで入り込み、生息しています。
※2 「川のよどみ」又は「水たまり」の意味
白鬚西地区の再開発の歴史と隅田川の堤防整備について案内板が立っています。汐入公園は工場跡地に造られたんですね。
白鬚西地区のまちづくりと隅田川の堤防整備
○白鬚西地区の変遷
「白鬚西地区」は、明治末期から大正にかけて大規模工場が進出し、大日本紡績(株)[現ユニチカ(株)]や鐘淵紡績(株)[現カネボウ(株)]がありました。これらの工場は、昭和四十六年(1971年)から昭和五十一年(1976年)にかけて移転したため、東京都が跡地を買い取りました。
同地区は、住・商・工が混在する密集市街地であり、建物は戦災を免れ老朽化がすすみ、道路幅も狭く、防災性の向上が課題となっていました。そこで、東京都は昭和六十三年(1988年)から市街地再開発事業に着手し、現在の街並みに生まれ変わりました。
「白鬚西地区」とは、市街地再開発事業の名称で、隅田川に囲まれた地区北側の土地は「汐人」と呼ばれていました。
○スーパー堤防等の整備
白鬚西地区のまちづくりとあわせて、隅田川の堤防を従来のコンクリートでできた防潮堤(カミソリ堤防)から土でできた幅の広い堤防(スーパー堤防)等に切り替える工事を行っています。
隅田川(白鬚西地区)の堤防整備延長 約2.3km
|陸側が汐入公園の区間:スーパー堤防整備 約1.0km
内訳−|
|陸側が汐入公園以外の区間:緩傾斜型堤防整備 約1.3km
土手上の遊歩道の右手には、住宅地の中に三基の巨大なガスタンクが聳えています。かってはこの地でガスを製造していたそうですが、今はどこから入ってくるのでしょうか?私は都市ガスは海外から輸入された天然ガスをそのまま使っているものとばかり思っていました。
白鬚橋西詰交差点の手前で遊歩道を折り返します。
ついでに周辺を散策します。隅田川に架かる明治通りの橋は白鬚橋(白髭橋ではありません)です。
白鬚橋の袂に「対鴎荘跡」の案内板が立っています。
対鴎荘跡
隅田川畔の橋場一帯は、風光明眉な地であり、かつては著名人の屋敷が軒を連ねていたという。対鴎荘もそのひとつで、明治時代の政治家三条実美(一八三七年〜一八九一年)の別邸であった。「征韓論」をめぐって、政府内に対立が続いていた明治六年(一八七三年)の十月、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この別邸で静養していたが、同年十二月十九日明治天皇は病床の実美を気遣い、この邸を訪れている。隣の碑は、この事跡を顕彰して、のち対鴎荘の所有者となった一市民の尽力によって建立されたものである。高さ三メートル余。側面に「昭和六年歳次辛末五月建之石井久太郎」、裏面に「多摩聖蹟記念館顧問中島利一郎謹撰 上条修徳謹書」の碑文が刻まれている。対鴎荘は、昭和三年(一九二八年)、白鬚橋架橋工事に伴い、多摩聖蹟記念館(多摩市連光寺)に移築された。
(注記)対鴎荘の「鴎」の字は当て字です。本当の文字はUnicode形式になるので便宜的に「鴎」の文字を使いました。
REMAINS OF TAIOSO
Taioso was the villa of sanjo Sanetomi (1837-1891), statesman in the Meiji Era. He fell ill in Octoder of 1873 and rested quietly in this villa. the Emperor Meiji
was very anxious about his health and visited this villa himself to comfort Sanjo. This monument was created by a citizen who owned the villa later to commemorate
the Emperor's visit . The villa was relocated to the Tama-Seiseki-Kinenkan at Tama City to allow the construction of the Shirahige Bridge in 1928.
隅田川の土手の植え込みの中に、ふたつの案内板が立っています。
ひとつは、先ほど見た「対鴎荘跡」の案内板です。文面は異なっています。
対鴎荘跡
対鴎荘は白鬚橋西詰の地に明治六年(1873年)明治の元勲三条実美の別邸として建築された。
いそがしき つとめのひまを
ぬすみ来て 橋場の里の
月をみるかな
三条実美が京都風の優雅さをこの地に求め、橋場の地を愛して詠んだ歌である。橋場の地はその歴史も古く、明治初年にいたるまで、閑静な土地であった。この河岸から見渡す向島一帯は、うっそうとした樹木の前面に土手の桜並木が見えて、情緒豊かな風景を楽しむことができたのである。
Former Site of the Taioso Residence
The Taioso was built around here in 1873 as a suburban residence of Sanjo Sanetomi, a leading politician in the Meiji period. He sought elegance similar to that of Kyoto and wrote poems expressing his admiration for the landscape in Hashiba. Hashiba has a long history and was a quiet area until the early years of the Meiji period. From this riverbank, people were able to enjoy the idyllic scenery of the Mukojima area where a row of cherry trees stood on the bank in front of a dense forest.
もうひとつは、「橋場の渡し」の案内板です。
これより東へ約二十メートル
橋場の渡し
対岸の墨田区寺島とを結ぶ、約百六十メートルの渡しで、「白鬚の渡し」ともいわれていた。「江戸名所図会」によると、古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ、「伊勢物語」の在原業平が渡河した渡しであるとしている。しかし、渡しの位置は、幾度か移動したらしく、はっきりしていない。大正三年(1914年)に白鬚木橋が架けられるまで、多くの人々に利用された。
Hashiba Ferry
This is a ferry crossing from Hashiba to Terajima in Sumida City on the opposite bank some 160 m away. It was also called "Shirahige Ferry". According to "Edo Meisho
Zue", it was called "Sumida River Ferry" in the olden days and story has it that Ariwara no Narihira, whose romancing is said to have inspired the "Ise Monogatari" (The Tales of Ise), crossed the Sumida River via this ferry. However, the boat launch had moved several times around here and it is difficult to determine the exact position. It was used by many people until the bridge was built in 1914.
川の手通りを渡った角に、石浜城址公園があります。石浜城は、中世の武蔵国に存在した日本の城ですが、正確な所在地については意見が分かれています。現在の台東区浅草七丁目付近、あるいは荒川区南千住三丁目付近が候補地となっています。石浜(石濱)は浅草の北側にある古利根川(現在の隅田川)右岸地域の呼称であり、この付近に武蔵国と下総国(千葉県)の境目をつなぐ「隅田の渡し」があったとされています。築城年代は不明ですが、中世には江戸氏一族の石浜氏が本拠を構え、南北朝時代の文和元年(1352年)には、新田義興の追撃を受けた足利尊氏がこの地で武蔵平一揆に迎えられて追撃を退けています(武蔵野合戦)。室町時代中期の享徳の乱に伴って発生した千葉氏の内紛では、宗家の生き残りである千葉実胤(千葉兼胤の孫)が下総国を追われて扇谷上杉氏の庇護下に入り、石浜城を拠点としました(武蔵千葉氏)。この際、弟の自胤も赤塚城に逃れています。ですが、下総回復は達成できず、扇谷上杉氏の没落後は後北条氏に従って同氏一族の千葉胤村を当主に迎え、豊臣秀吉による天正十八年(1590年)の小田原征伐によって没落し、石浜城も廃城となりました。石浜城は、曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」にも登場しています。
あらかわの史跡・文化財
石浜神社と隅田の渡し
ここより北方に石浜神社がある。石浜神社は聖武天皇の神亀元年(724年)に創祀され、中世においては千葉氏などの崇敬を集めて大いに栄えたと伝えられている。また朝日神明宮とも称し、伊勢詣でのかわりに参詣する人々が絶えなかったという。隅田の渡しは、平安時代の編纂物の「類聚三代格」や、歌物語である「伊勢物語」にも記される渡しで、この辺りは古くから交通の要衝の地として賑いをみせていた。石浜神社境内には、隅田の渡しを背景にした歴史と光景を偲ばせる「伊勢物語の歌碑」や「亀田鵬斎の詩碑」(区指定文化財)が残る。
Ishihama Shrine and Sumida Ferry
From here you can see Ishihama Shrine. It was founded in 724 and is said to have prospered greatly in medieval times being an object of worship by the Chiba Clan and others. Ishihama Shrine was also called Asahi Shinmei-gu, and there were a number of people who visited this shrine instead of making a pilgrimage to Ise Shrine. The Sumida ferry was recorded in the collection of laws and regulations compiled during the Heian period and in the narrative "Ise Monogatari (The Tales of Ise)". This area has long been prosperous as a hub for transportation. On the precinct of Ishihama Shrine, there are the Poetry Monument of Ise Monogatari, and the Poetry Monument of Kameda Hosai (designated cultural property of Arakawa City) that remind us of the history and site of the Sumida ferry.
- ポイント2 石浜神社
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石浜神社は神亀元年(724年)に創建され、隅田川の西岸(石浜と呼ばれた長く伸びる微高地)に鎮座しています。源頼朝が奥州征討の折に戦勝を祈願し、また元寇の際には朝廷から鎌倉幕府七代将軍・惟康親王を勅使として戦勝を祈願させました。いずれの戦役にも勝利したことから、中世以降は関東武士を始め多くの人々の崇敬を集めることになりました。この地域には中世の鎌倉・南北朝時代から安土桃山時代頃にかけて石浜城が存在し、石浜神社付近が城跡候補地のひとつとされていて、東京都の遺跡地図上では石浜神社北側が埋蔵文化財包蔵地となっています。
都鳥は在原業平の和歌ですが、その案内板が藤棚の脇に立っています。
都鳥
名にし負はば いざ言問はむ 都鳥
わが思ふ人は ありやなしやと
この有名な和歌は、平安時代初期の歌人である在原業平が京の都から、石浜の辺りを訪れた際に詠んだもので「伊勢物語 東下り」と「古今和歌集」に収録されて(い)ます。業平が隅田(橋場)の渡しにて隅田川を渡る際に京都では見慣れぬ鳥を見かけ、渡守に問いかけたところ「都鳥です」と答えた。そこで、「都という名を負っているならば、さあ尋ねよう都鳥よ。私の恋い慕う人は無事に過ごしているであろうか」と望郷の念を込めて詠みました。当社境内には、文化二年(1805年)に建立された都鳥の歌碑があり、碑には波をあしらった渡し船の図を配し、流
れるような見事な仮名書きで「伊勢物語」本文の一節も刻まれています。古代から「都鳥」と呼ばれ親しまれてきたこの鳥は「ゆりかもめ」のことで東京都の鳥に指定されています。現在も毎年冬になると石濱神社付近の隅田川川畔にも数多く飛来して来ます。
藤棚の手前には、手水鉢を兼ねた水琴窟が保存されています。
水琴窟
手水鉢から注ぎ落ちた水滴を地中に伏せた甕(かめ)に注ぎ落とし、その際に発せられる琴のような音の響きを愛でるものです。竹にそっと耳を当ててお楽しみ下さい。
江戸の風雅”水琴窟の水音”
古来、日本には遠方からの梵鐘の余韻を楽しんだり、松風の音に喜んだりするようなわずかな反響や余韻を純粋に鑑賞しようとする嗜好があり、人々は極めて繊細な感覚をもっていた。この風雅な感覚が水琴窟を造らせたものであろう。水琴窟は庭の手水鉢(ちょうずばち)や蹲裾(つくばい)などの近くに小さな洞窟を造り、そのなかに水滴を落として、水音を洞窟の壁面に反響させ、地上に漏れてくる幽かな響きを楽しむ装置である。日本庭園の趣をより高めようとする技法であり造園技術の最高傑作の一つと言えよう。水琴窟が庭園を構成する技法として用いられたのは、江戸時代のことだといわれている。江戸時代中期の作庭で、国の名勝に指定されている鳥取県東伯郡羽合町の尾崎氏庭園には、縁先の手水鉢の前に現存している。明治時代になって盛んに取り入れられたようであるが、漸次衰退の一途をたどり、現在では、全国でも残存しているもの
は数少ない。
境内にふたつの案内板が立っています。
ひとつは、石浜城址の案内板です。
石浜城址(石浜神社)
石浜城は、室町時代の中ごろ、武蔵千葉氏の居城となり、戦乱の世に百年あまり続いた城である。天正年間(1573年〜1591年)、城主千葉胤村(北条氏繁三男)を最後に、後北条氏滅亡の後、廃城となったと思われる。石浜城の位置には諸説あるが、石浜神社付近は有力な推定地の一つとされる。石浜神社は、聖武天皇の時代・神亀元年(724年)の創建と伝える古社で、源頼朝・千葉氏・宇都宮氏らの崇敬を受けたという。江戸時代の夏越の祓(六月三十日)は、その壮麗さにおいて名高く、天保九年(1838年)刊行の「東都歳事記」の挿絵に夏の風物詩として紹介されている。
Site of Ishihama Castle (Ishihama Shrine)
Ishihama Castle was home to the Musashi Chiba Clan in the middle of the Muromachi period and lasted for more than 100 years in the war-torn era. The castle was thought to be abandoned after the lord Chiba Tanemura's residence from 1573 through 1591.
Although there are various arguments about the location of Ishihama Castle, the area around Ishihama Shrine is considered to be one of the more likely places. Ishihama Shrine is an ancient shrine that is said to have been founded in 724 during the rein of Emperor Shomu and revered by Minamoto no Yoritomo, Chiba Clan, Utsunomiya Clan, and others. The "Nagoshi no Harae (annual Shinto ritual of purification)" held on June 30th in the Edo period was famous for its splendor and was introduced as a summer feature in the illustration of the 1838 edition of "Toto Saijiki (Eastern Yearbook)".
もうひとつは、真先稲荷と田楽茶屋の案内板です。
真先稲荷と田楽茶屋
真先(崎)稲荷は、天文年間(1532年〜1554年)、石浜城主千葉守胤によって祀られたと伝える。もと隅田川沿岸にあり、その門前は景勝地として知られていた。また、奥宮の狐穴から出現する「お出狐」は、対岸の三囲稲荷の狐と並んで有名であったという。江戸中期から参詣する人が多くなり、宝暦七年(1757年)ころには、吉原豆腐で作った田楽を売る甲子屋・川口屋などの茶屋がたち並んで、おおいに繁盛した。吉原の遊客もよく当地を訪れ、「田楽で帰るがほんの信者なり」など、当時の川柳に真先稲荷・田楽・吉原を取り合わせた句が詠まれている。
Masaki Inari Shrine and Dengaku Teahouses
Masaki Inari is said to have been worshipped by the Chiba Clan, the lords of Ishihama Castle, from 1532 to 1554. Originally, it existed on the Sumida River bank and the area in front of it was known as a scenic spot. Also, it is said that the emerging fox from the hole of the rear shrine was famous along with the fox in Mimeguri Inari
Shrine on the opposite bank. The number of people visiting Masaki Inari Shrine increased from the middle of the Edo period and, by the middle of the 18th century, there were many teahouses such as Kinoeya and Kawaguchiya that prospered selling dengaku (tofu baked and coated with miso) made from Yoshiwara tofu. Visitors to Yoshiwara often came to this place, and the Senryu Verses make references to Masaki
Inari, Dengaku and Yoshiwara.
石浜神社は、少し変則的な鳥居(笠木の断面がカマボコ型の神明鳥居)がある事で知られています。第一鳥居は1780年に建立され、荒川区の登録有形文化財になっています。笠木(一番上の横棒)の断面がカマボコ型になっていて、おそらく全国でも石浜神社だけで、石浜鳥居と俗称されています。
荒川区指定 有形文化財・建造物
石浜神社鳥居
安永八年(1779年)に、幕府御用呉服商の茶屋(中島)四郎次郎延貞が建立。銘の撰文と書は、国学者で歌人、能書家としても知られる同業の三島景雄(自寛)。石浜神社中興の神主鈴木(平)智庸の代に建立された。主石材は花崗岩、神明鳥居系の石浜鳥居と呼ばれる形式で、寛延二年(1749年)八月哉生明(陰暦三日)銘の鳥居(区指定有形文化財)とともに、笠木の小口が蒲鉾形で、柱の内転びが大きいといった特徴を持つ。江戸の歴史、文化、信仰を知る上で重要であり、鳥居研究の指標としても貴重である。
749年建立の第二鳥居も荒川区登録有形文化財になっていて、第一鳥居と同じく、笠木の断面がカマボコ型の石浜鳥居です。
荒川区指定 有形文化財・建造物
石浜神社鳥居(寛延二年八月哉生明銘)
寛延二年(1749年)八月哉生明(陰暦三日)の建立。主石材は花崗岩。建立者は石浜在住と推定される水埜則祐。銘の撰者は儒者の鳴鳳卿(成島錦江)。石工は小出氏。橋場町名主を含む商人等五十七人が寄進した。笠木の小口がカマボコ型で、柱の傾斜が大きいという特徴を持ち、同形式の安永八年(1779年)銘の一の鳥居等とともに神明鳥居系の石浜島居と呼ばれる。江戸の歴史、文化、信仰を知る上で、また鳥居研究において大変貴重である。
木造神明造の拝殿は、昭和六十三年(1988年)に造営されました。本殿は橿原神宮・平安神宮・明治神宮など多くの社寺建築を手がけた伊東忠太が設計し、昭和十二年(1937年)に造営されましたが、現在は覆屋で保護されて直接拝観することはできません。
拝殿の右手には、境内社の合社殿が並んでいます。拝殿側から、摂社・江戸神社(素戔雄尊)、末社・北野神社(菅原道真)、妙義八幡神社(日本武尊・誉田別命)、寿老神、宝得大黒天、真先稲荷神社(豊受姫神)の順番になります。江戸神社の祭神は天照大神の弟神・素戔雄尊で、もとは天文年間(1532年〜1554年)に江戸太郎重長が勧請した牛頭天王社です。橋場の地の鎮守様でしたが、後に江戸神社と称しました。北野神社の祭神は菅原道真公で、菅公の末孫27代目の高辻大納言が明和四年(1767年)6月5日に勧請しました。吉原の代表行事「にわか」踊りは、石浜神社に由来する梅祭りが元になったといわれています。妙義八幡神社の祭神は日本武尊と誉田別命(応神天皇)の二柱で、鎮座年代は不詳です。真崎稲荷神社の祭神は豊受姫神で、天文年間に石浜城城主となった千葉之介守胤がこの地に一族一党の隆昌を祈って宮柱を築き、先祖伝来の武運守護の宝珠を奉納安置して以来、「真先かける武功」という意味に因んで真先稲荷と称されて世に知られるようになりました。大正十五年(1926年)に石浜神社に合祀されました。
寿老神像については、境内に記念碑が建っています。寿老神像は、昭和五十二年(1977年)の浅草七福神の復活に際し、延命長寿の神として奉安されたものです。
浅草七福神巡り寿老人尊像復活の碑
昭和八年の頃を発祥に、かつて浅草(大黒天)より石浜神社(寿老人)に至る七福神詣での巡路があった。人も知る浅草という土地柄、信徒縁者の寄せる関心も極めて高かった。しかるに後第二次大戦の戦雲たちこめ国情不穏を招くに及び、やがて巡路は廃れ、石浜神社安置の寿老人尊像も戦火の陰に焼失の憂目に遭ったと聞く。こうした事情に鑑み、江戸当初以来石浜神社ゆかりの氏子としてお仕えした鴈豆屋こと当鈴木家では、かねて赤誠の微意を捧げる折あらばと念じていたところ、昨年末関係寺社の間に旧巡路復活の機運あることを耳にし、新たに深く感銘を得た。ついては、ここに昭和五十一年東京都改良住宅事業執行に際し、当家先祖伝来四百有余年の地橋場を去るに当り、寿老人尊像を奉納し、永代の神恩に感謝を捧げ、あわせて浅草七福神の復活を祈り申し上げるものである。
拝殿から階段を下りた右手にも末社が並んでいます。招来稲荷神社の祭神は豊受姫神で、真先稲荷の奥宮として祀られました。江戸後期の招来稲荷社繁栄の頃の狐に関する伝えは、白狐祠に因んでいます。
富士遙拝所は宝暦八年(1758年)に建立されました。当時普及し始めた富士信仰・講の記念のひとつです。富士遙拝所脇に建っている庚申塚は3塔あり、いずれも元禄の前後に起きた江戸の庚申塔ブームに近い頃のものです。
荒川区指定 有形文化財・歴史資料
冨士講関係石造物群
石浜神社は、古来、富士眺望の名所として名高い。江戸時代に富士塚が築かれたが、近代の開発による境内移転で移動し、その姿を変えた。現在の富士塚は、昭和六十三年(1988年)の隅田川スーパー堤防建設の際に新造されたもの。富士塚及び周辺には、浅草・橋場付近の瓦職人の富士講が奉納したと推定される宝暦八年(1758年)銘の標柱、安永四年(1775年)銘の手水鉢、年未詳の奉納石が置かれている。標柱は、宝暦八年に遥拝所として富士塚が築造された可能性を伝え、江戸で初めて造られた富士塚といわれる安永八年造立の高田富士(新宿区)よりも古い事例であることを示唆する。奉納石は、自然石の富士山形の石を用いたと思われる。江戸の富士信仰を研究する上で学術的に価値が高く、地域の民間信仰の歴史を伝える大変貴重な資料である。
本社・摂社・末社について、一覧にまとめた案内碑が建っています。
本社
石浜神社 元郷社 別称 朝日神明、石浜神明、橋場神明、真先神明、石浜皇大神宮
御祭神 天照大神 日本國の大祖神
豊受姫神 天下万民の衣食住の守り神
由緒 聖武天皇神亀元年(724年)九月十一日、勅願によってご鎮座。
文治五年(1189年)源頼朝奥州藤原泰衡征討の折当社に武運を祈り、
「神風や 伊勢の内外の大神を 武蔵野のここ宮古川かな」と詠み、
勝利に恵まれし後、社殿寄進したるが創建の基礎。神地十石一斗を領し、
伊勢参宮にかえ庶民当社に献幣す。
摂社
江戸神社 別称 八雲神社、牛頭天王
御祭神 素戔雄尊 天照大神の弟神 疫病退散、産業振興の神
由緒 天文年間(1532年〜1554年)、本社神職鈴木家一門の江戸太郎重長の勧請。
元橋場村の鎮守。汐入の押合い祭は当社の事なり。
大正九年末社疱瘡神社(祭神 素戔嗚尊)を合祀一社とす。
麁香神社 別称 本朝大工祖神
御祭神 手置帆負命、彦狭知命 工匠守護、家屋守護の神
由緒 「『みあらか』は宮殿を謂う。古、宮殿を作るに、材を御木に採り、匠を麁香に召す。
共に紀伊國名草郡に在り。」と社伝にあり。安永八年八月八日鎮座。わが國木匠の始祖。
幕府普請方(御触書寛保集成三十四諸職之部に記載)により当社に勧請す。
末社
真先稲荷神社 御祭神 豊受姫神 別名豊宇加之売神、倉稲魂神、大宜都比売神、宇賀神 家業繁栄の神
由緒 後鳥羽天皇在位の折(十二世紀末)、千葉之介兼胤家伝の神璽を身に帯し、
数々の戦に先馳けの功を得、その子季胤神璽を己の身に持するは恐れ多しと
新に霊璽を鋳造。これを戴き戦功あり。後、天文年中、兼胤の孫守胤石浜城主と
なり、宮殿を造営、鋳造せる霊璽を前立として安置。真先稲荷と崇敬す。
江戸期、延享年間一橋宗尹(吉宗の三男)篤く信仰、社殿を再建。
同家の祈願所とす。宝暦七年、境内に茶店出店。社運隆昌し、
隅田川畔の名社として江戸市民の崇敬を集む。
隅田川名勝八景に「真先夜雨」と賞され、地唄「紀伊国」にも詠まれ、
縁結びの神として親しまる。
招来稲荷神社(御出稲荷神社)、成長稲荷神社、御園生神社、長久稲荷神社等、境内稲荷五社を合祀。
由緒 もと真先神社の奥宮として祀らる。かって真先社。
徳川家の祈願所たりし時、一般庶民の参拝かなわぬ為、多くこの奥宮に詣ず。
北野神社 別称 北野天満宮、北野天神
御祭神 菅原道真公 公は天穂日命の裔野見宿祢の末孫で、初め土師と称す。
幼小より学才高く、詩歌に秀れ、学問の神と尊崇さる。
由緒 明和四年六月五日菅原氏の末裔二十七代高辻大納言家長当社に勧請。
吉原「仁和加」は勧請を祝いたるが起源という。
妙義 八幡神社 御祭神 日本武尊、誉田別命(應神天皇)、外二柱神
日本武尊は小碓命とも申し、勇気と英知に溢れ、非凡な臂力を備え、
熊襲・蝦夷を平定さる。誉田別命は日本武命の御孫にして、仲哀天皇
の第四子。共に学芸、技芸上達、除災招福の神。
由緒 鎮座の年代不詳 大正九年妙義神社、八幡神社を合祀一社とす。
粟島 水神社 御祭神 大己貴命、少名彦名命、水象女命
大己貴命は大國主命・大物主命・大国魂命等とも称し、
素盞雄尊の六世の孫。少名彦名命と兄弟の契を結び、
共に國土開発・経営に当られ、又厄難・病魔を払わむと、
医薬の工夫に努め、医薬の神と尊崇さる。水象女神は水の祖神。
由緒 鎮座年代不祥。大正九年粟島神社・水神社合祀一社とす。
その他
霊舎 日本武尊の従臣勝人見命の末孫力麿、当社の神官として奉仕せる時以来六十三代の神職祖先を祀る。
富士遙拝所 宝暦八年(1758年)造営の富士信仰を象徴せる遙拝所
白狐舎 招来稲荷大神の使、白狐(尊像明和五年作)を祀る。
油揚を供し、白狐これを喰えば 願い叶うと。
大黒天 福徳円満 財宝守護の神
寿老神 浅草名所七福神の一。不老長寿の神。
拝殿下の左手に石碑が並んでいます。案内柱右側の亀田鵬斎詩碑の碑面には、江戸下町の名物儒学者亀田鵬斎の73歳の時の作の隅田川の詩2首が刻まれています。石浜城や頼朝・道灌の歴史のあとを切々と偲ぶ名詩です。亀田鵬斎は、宝暦二年(1752年)に神田で生まれ、博識多才・書画に秀でた江戸後期異色の文人墨客です。浅草周辺や石浜神社付近の隅田川とその岸の詩情を限りなく愛した人です。亀田鵬斎詩碑の右側の文化二年(1805年)に建立された都鳥歌碑には、平安初期の名門貴族で漂泊の歌人業平が京の都を捨て、はるばる大川のほとりに流れ来て、川面の都鳥を目にした時の望郷の思いを綴ったという「伊勢物語 東下り」の一節と和歌が記されています。
“名にし負はば いさこととはん 都鳥
わが思ふ人は ありやなしやと”
石浜神社を出て、隅田川の遊歩道に戻ります。復路は河川敷ではなく、土手上の遊歩道を歩きます。瑞光橋を渡った先から汐入公園に入ります。
左手には、屋上にパラボラアンテナが据えられた特徴的な外観の産業技術高専の校舎が聳えています。汐入に荒川キャンパスがある東京都立産業技術高等専門学校は、都立工業高等専門学校と都立航空工業高等専門学校の統合により、平成十八年(2006年)4月に設置されました。都立大学工学部と同じく、府立電機工業学校を源流に持ち、また前身校の工業高等専門学校と航空工業高等専門学校は最初期に設立された14の高専のうちの2つであり、高等専門学校としても長い歴史を持っています。開校と同時に5年制の本科(準学士課程)の上に2年制の専攻科(学士課程)が設置され、本科学生数1、607人、専攻科学生数79人の計1、686人の学生がものづくり教育を受けています。「航空実習館 汐風」は、汐風を受けて大空にはばたくイメージを基に命名された建物です。
汐入公園には多くの種類の桜の木が植えられています。1月ですが、河津桜の枝には早くも一輪の桜の花が咲いています。
河津桜
河津桜。静岡県河津町で発見されたカンザクラ系の園芸品種。花は散房状につき、淡紅紫色の5弁花です。バラ科。
汐入公園には冒険心を育むユニークな遊具が設置されています。
公園の高台に時計塔が建っていて、その袂に白鬚西地区再開発の歴史を記した記念碑が置かれています。
再開発事業の完成を記念した石碑です。
安心して住めるまちづくり
白鬚西地区
市街地再開発事業
完成記念碑
平成二十二年三月
再開発の経緯を記した石碑です。
白鬚西地区防災再開発事業完成記念に寄せて
昭和四十四年(1969年)に東京都が策定した江東再開発基本構想に基づく「白鬚西地区市街地再開発事業」は、41年余の長期にわたる時間の流れを経て、ようやく完成の日を迎えました。兵庫県南部地震(1995年1月)、新潟県中越地震(2004年10月)、岩手・宮城内陸地震(2008年6月)等頻繁に発生する大地震の怖さを思うにつけ、新しく安全なまちに生まれ変わった白鬚西地区の姿は感慨深いものがあります。構想発表の当初は、「私達住民が平穏に暮らしていた隅田川沿いのこの地に、なぜ再開発なのか」「防災拠点は必要だ」と賛否両論、大激論が巻き起こり、まちが二分されました。しかし、私達は一致団結して再開発事業に向き合うため「白鬚西地区防災問題対策連合会(初代会長 松本好實氏 第二代会長 冨岡利夫氏)」を結成し、粘り強い話し合いを重ね「震災に強いまち」「周辺住民の広域避難場所」のためにと、人道的見地により再開発事業に協力し推進するという決断をいたしました。そして、住民の生活再建、財産の保全・確保など、再開発事業に関わる全ての事について行政と同じ土俵で協議を行なうため、事業施行者の東京都、地元荒川区と私達住民による「白鬚西地区防災再開発協議会(都区住民協議会)」を設立し、官民が一体となって知恵を出し合い、幾多の困難を乗り越えて安全・安心のまちを築きあげて来ました。いま、私たちは、この大事業の完成にあたり、再開発に大きな一歩を踏み出した先人達の先見性とあらゆる困難を乗り越えてこの事業に協力してきた多くの住民、関係者の労苦に感謝すると共に、地域住民の団結力に思いをはせ、この大事業の目的と意義を永く後世に伝えるものであります。私たち住民は、この事業の歴史と教訓に学び、地域を愛する心、震災時の心構えの涵養に資するため、記念碑に永くこの意義を記すものです。
再開発の規模と事業のマイルストーンを記した石碑です。
白鬚西地区市街地再開発事業
●事業の概要
事業名称 東京都市計画事業白鬚西地区第二種市街地再開発事業
施行面積 48.8ヘクタール
事業施行者 東京都
この地域は、住宅・商店・工場等の混在する密集市街地で、建物は老朽化が進み、道路も狭く、また大規模工場の移転に伴って人口が大幅に減少していたことから、防災性の向上と地域の活性化が課題となっていました。東京都は、新潟地震(昭和三十九年6月)を契機として、江東地域の震災対策、生活環境の改善及び経済基盤の強化を図ることを目標とした防災都市づくり計画 「江東再開発基本構想」を策定しました。白鬚西地区は、この江東再開発基本構想において、隅田川を挟んだ対岸の白鬚東地区とともに「白鬚地区」として防災6拠点の一つに位置づけられました。また、施行区域が広大であり、権利者数が多く、また権利関係が複雑であることから東京都施行の第二種市街地再開発事業で行なうこととし、第一、第二、第三の3つの地区に分け、さらに17の工区に分けて、防災拠点の整備を行いました。事業実施にあたり、「住民参加のまちづくり」を基本理念とし、事業を円滑に推進するため、東京都、荒川区及び地元住民からなる「白鬚西地区防災再開発協議会(都区住民協議会)」を設置して、計画の策定から住民の生活再建までさまざまな内容に関する協議を行ないました。再開発計画素案発表以来、半世紀を経て、災害時には12万人が避難できる防災拠点、安全・安心なまちが完成しました。
●事業の経緯
昭和四十四年 11月 江東再開発基本構想策定
昭和四十八年 12月 白鬚西地区再開発計画素案発表
昭和五十八年 3月 都市計画決定(汐入地区を除く)
環境影響評価書告示(東京都第1号)
昭和五十九年 6月 白鬚西地区防災再開発協議会発足
昭和六十年 11月 都市計画変更(汐入地区を編入)
昭和六十二年 10月 第一地区事業計画決定(約2.1ha)
昭和六十三年 4月 第二地区事業計画決定(約0.5ha)
昭和六十三年 7月 第三地区事業計画決定(約46.2ha)
平成元年 1月 都市計画変更(スーパー堤防の導入ほか)
平成十八年 3月 広域避難広場「都立汐入公園」完成
平成二十二年 3月 事業完了
再開発によってどのような効果がもたらされたのかを定量的に記した石碑です。いわゆる、事後評価報告書ですね。
生まれ変わったまち
事業の効果
事業施行前には地区内に混在密集していた住宅、商店、工場等の木造建物を集約し、用途純化を図りながら不燃中高層化しました。また、安全・安心のまちづくりを目指して学校、保育所、警察・消防施設、病院などの公共公益施設を整備しました。災害時に広域避難広場となる都立汐入公園は、隅田川スーパー堤防と一体化していることから安全で親水性が高く、応急仮設トイレや備蓄倉庫等の防災施設を備えています。また、公園に隣接して、水道の配水施設(10万トン)と災害時に応急給水の拠点となる給水所も整備しました。道路は、災害時の円滑な避難を考慮して幅員12m以上とし、地区幹線として都道3路線、生活道路として荒川区道12路線を整備しました。これにより、災害時には最大約12万人が避難できる防災拠点が完成しました。
昭和五十九年5月 平成二十二年3月
オープンスペースの確保 道路・・・ 3.8ha → 11.5ha
公園・・・ 1.2ha → 14.4ha
建築物の不燃化 ・・・・・ 5% → 100%
土地の高度利用 ・・・・・ 66% → 223%
住宅供給戸数 ・・・・・ 1、471戸 → 4、397戸
定住人口 ・・・・・ 約4、130人 → 約11、000人
汐入公園の桜について解説した案内板が立っています。隅田川沿いの土手には多くの桜の木が植えてあり、お花見のシーズンには芝生に腰を下ろしてゆっくりと桜を愛でることができます。
汐入公園と「お花見」
現在の隅田川が荒川と呼ばれていた江戸時代には、荒川区の地域は江戸の行楽地として知られ、お花見や紅葉狩りなどができる自然が豊富にありました。日本でお花見がはじまった歴史は古く、平安時代までさかのぼります。江戸時代に入ってから、お花見は一般庶民の間にも広まり、桜の品種改良も各地で盛んにおこなわれてきました。明治になり、汐入公園から北の方角にあった荒川堤には、サトザクラの古い品種が多く移植されました。それ以来、荒川堤はサクラの貴重な栽培場所として、数々の品種を育んできました。汐入公園には、荒川堤で栽培された品種を含めて、約三十種類二百五十本以上のサクラがあります。この公園では、江戸時代に一般庶民の楽しみであったお花見を、現在でも楽しむことができます。
ゴール地点のさくら堤遊歩道終点に戻ってきました。
ということで、荒川区で二番目の「B.隅田川の川沿い散策ルート(往復)」を歩き終えました。次は荒川区で三番目のコースである「C.汐入ぐるっとコース」を歩きます。
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