C.汐入ぐるっとコース  

コース 踏破記  

今日は荒川区の「C.汐入ぐるっとコース」を歩きます。南千住駅東口にある通称ドナウ広場を出発点とし、JR貨物の隅田川駅の北側・東側を回り、隅田川の遊歩道から素盞雄神社を経て、コツ通り経由で出発点まで戻ります。最初に歩いたのは2022年の1月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年11月に改めて歩きました。なので、冬と晩秋の写真が入り交じっています。

C.汐入ぐるっとコース

「C.汐入ぐるっとコース」の歩行距離は約4.7km(約6、714歩)、歩行時間は約1時間11分、消費カロリーは約210Kcalです。

スタート地点:ドナウ広場
ポイント1 ドナウ広場
ポイント2 都立汐入公園
ポイント3 素盞雄神社

ゴール地点:ドナウ広場


スタート地点のドナウ広場から歩き始めます。ドナウ広場は、南千住駅東口広場の愛称です。



ポイント1 ドナウ広場

南千住駅東口の「ドナウ広場」とそれに続く道路「ドナウ通り」は、荒川区とオーストリア共和国ウィーン市ドナウシュタット区との交流を記念して命名されました。ドナウシュタット区内にも「東京通り」や「荒川通り」と命名された街路があり、両区の交流は平成八年(1996年)10月21日に結ばれた友好都市提携から今も続いています。ドナウ広場には、ドナウ広場命名記念モニュメントが置かれています。台座には、両区の永遠の友好を願う旨のメッセージが書かれています。

Donauplatz

Zwischen Wien-Donaustadt und Arakawa besteht seit 1996 eine Partnerschaftsbeziehung.




「ドナウの調べ」と名付けられたブロンズ像も設置されています。このブロンズ像は、待ち合わせや行き交う人達にやさしいメロディを奏でます。羽をぴんと伸ばした可憐な天使が二人、笛とハープを奏でています。妖精めいた女性像で知られる彫刻家・御正進氏の作品です。



「ドナウの調べ」像は地球を模した球体の上に立っていて、球体には荒川区とドナウシュタット区の永遠の友好を願って」との碑文があります。ドナウシュタット区は、荒川区の姉妹都市で、オーストリアの首都「音楽の都」ウイーン市の第22区のことです(ウィーン市には東京都と同様23の区があります)。ドナウ川に面した緑豊かな自然と高層住宅が並ぶ都市とのふたつの顔をもつ街です。区内には、国際原子力機関(IAEA)や国連工業開発機関(UNIDO)などの国連の機関の他、オーストリア最大級のショッピングセンター「ドナウセンター」もあります。

荒川区とドナウシュタット区の
永遠の友好を願って

Auf ewige Freundschaft
zwischen Donaustadt und Arakawa!



球体の地図には、ドナウシュタット区の位置に小さな穴が開けられています。


ドナウ広場から都立汐入公園に向かいます。ドナウ通りに面して広大なJR貨物の隅田川駅があります。隅田川駅は、主に東北本線や上越線などのいわゆる北・東方面発着の貨物列車の終着(始発)駅であり、東京貨物ターミナル駅と並ぶ東京の二大貨物駅です。隅田川駅は常磐炭田からの石炭の受け入れを行うために明治二十九年(1896年)に開業し、主に石炭・木材・砂利などの荒荷を取り扱い、隅田川の水運と連絡して東京の市街地への輸送を行っていました。このために水路が隅田川から引き込まれ、構内中央付近には水扱積卸場が存在していました。戦後はこうした荒荷の取り扱いが減少し、さらに水運との連絡も減少したため、水扱積卸場を埋め立てて構内を改良し、コンテナ扱いに対応した整備を進めることで、首都圏の東北・北海道方面との貨物輸送の拠点として使われてきました。首都圏の新聞や出版産業で消費される紙も隅田川駅で取り扱われています。



ドナウ通りに沿って、2004年4月8日に開業した大型スーパーと28の専門店から構成される三井ショッピングパーク「LaLaテラス南千住」のモールが連なっています。スーパーには、新潟県寺泊港を拠点とする角上魚類のお魚コーナーがあります。丸のままのお魚が並んでいて、注文すればその場で捌いてもらえます。



ドナウ通りの両側と中央分離帯には、初夏にはツツジが一斉に咲き誇り、秋にはオーストリアの街路樹であるモミジバフウの圧巻の紅葉が見られます。



隅田川駅の敷地に沿って進みます。橋場橋通入口交差点の手前にお地蔵様を祀った小さな祠があります。「隅田川地蔵尊」というのだそうです。

隅田川地蔵尊縁起

明治三十年四月一日開驛以来過つて船渠(せんきょ:係船や荷役作業などのために掘り込んで築造された湾入状の土木構造物)に墜死せられたる人方の菩提を弔ひ、冥福を祈り、併せて爾今以後一切の災禍を根絶せんが為め此處に大地の寶蔵延命地蔵菩薩を建立して、一唱一禮(礼)功徳現示せんことを冀ふ。
南無延命地蔵尊




橋場橋通入口交差点を左折し、交番交差点からマンションの脇の小道に入ります。左手に小さな広場があります。広場の脇には小さなせせらぎが設けられています。マンションの屋根に降った雨水を貯めて水路に流し、ポンプで循環させているのだそうです。広場は、マンションの建物の間を隅田川駅方向に向かって延びていて、隅田川駅と隅田川を結んでいたかっての水路の跡地かもしれません。

この流れは こうして できています

・流れの水は、建物にふった雨水を利用しています。
・雨水は、太陽エネルギーで発電した電力を使い、ポンプにより、じゅんかんしています。
・このように雨水を利用してつくられた水辺は、ここに住む草花、鳥、虫たちの大切な生活の場所となります。
・流れの水は雨水を利用していますので、飲まないでください。




航空高専前交差点を右折して「くすのき通り」に入ります。



くすのき通りの右手には、瑞光橋公園があります。公園の一画に太った魚が立っています。何の魚でしょうか?「鱸:スズキ」だそうです。シーバスとも呼ばれていますが、「セイゴ」→「フッコ」→「スズキ」と大きさによって呼び名が変わる出世魚としても知られ、全長は最大で1mを超え、大きな口で吸い込むように小魚や甲殻類を捕食します。魚屋さんでも見かけますが、せいぜい30cm位の大きさで、こんな巨大なスズキは見たことがありません。てか、そもそもこんな巨大な魚は魚屋さんでは扱えないでしょう。

Lateolabrax

岡村 貴正
東京藝術大学卒業・修了制作作品
第10回荒川区長賞受賞

鱸の美しさは、私の人生の歯車を狂わせた。その感動を求め、作り上げた作品は新しい出会いと感動を与えてくれた。




瑞光橋公園から隅田川に向かって入り江が続いています。入り江の手前には古びたコンクリートの構造物が残されています。



構造物の脇に、草木に埋もれた案内板があります。木の枝をかき分けて案内板をのぞき込みますと、どうやらコンクリートの構造物はかっての水門の一部らしいことがわかりました。JR貨物の隅田川駅構内に昭和四十五年頃まであった水扱積卸場と隅田川を繋ぐ水路の水門の遺跡のようです。入り江の奥は埋め立てられて今はその水路の面影はありませんが、隅田川に面した所だけが入り江として残ったみたいです。先ほど見たマンションの敷地の広場も入り江の奥に位置していますので、このルートがかっての水路跡と考えて間違いなさそうです。

汐入水門跡

この汐入水門跡は、隅田川貨物駅(現、JR貨物隅田川貨物駅)と河川流通の関係を知る唯一の遺構であり、水害と闘った南千住の歴史を伝えている。汐入水門は、隅田川貨物駅構内に掘り込まれた運河の水位を調節し、駅構内と周辺地域を水害から守るため、昭和二十八年に誕生した。隅田川貨物駅は明治三十年に石炭の集散地として開設された駅である。鉄道(常磐線)と隅田川の水運を結びつける構造をもち、そのための運河が造られた。元来この地域は土地が低く、運河の護岸は荷物の揚げ下ろしの関係上、低く造られていたため、満潮時には付近に浸水し、さらに台風などの異常な高潮時には南千住ばかりでなく、浅草方面まで被害をこうむっていた。水門は、この水害を防ぐために建造されたのである。しかし貨物の輸送が船による河川輸送から鉄道・トラックによるコンテナ輸送に切り替わると、運河は不用となり昭和四十五年頃には全て埋め立てられ、水門もその役割を終えた。




くすのき通りの終端を左折して隅田川沿いの都道314号線を進みます。左手には屋上にパラボラアンテナが据えられた特徴的な外観の産業技術高専の校舎が聳えています。汐入に荒川キャンパスがある東京都立産業技術高等専門学校は、都立工業高等専門学校と都立航空工業高等専門学校の統合により、平成十八年(2006年)4月に設置されました。都立大学工学部と同じく、府立電機工業学校を源流に持ち、また前身校の工業高等専門学校と航空工業高等専門学校は最初期に設立された14の高専のうちの2つであり、高等専門学校としても長い歴史を持っています。開校と同時に5年制の本科(準学士課程)の上に2年制の専攻科(学士課程)が設置され、本科学生数1、607人、専攻科学生数79人の計1、686人の学生がものづくり教育を受けています。「航空実習館 汐風」は、汐風を受けて大空にはばたくイメージを基に命名された建物です。



都立産業技術高等専門学校の隣には巨大な体育館のような建物があります。正式名称を「白鬚西ポンプ場」といい、大雨のときに下水管に流れ込んだ大量の水を川に放流して浸水を防いだり、 地下には学校プール40杯分・約1万2000立方メートルの雨水貯留池なんかもあるそうです。汐入せせらぎ広場の水の流れも、雨水貯留池から供給されているのかもしれませんね。



白鬚西ポンプ場に隣接して、広大な都立汐入公園があります。

ポイント2 都立汐入公園

平成十八年4月1日に開園した都立汐入公園は、荒川区東端の南千住八丁目付近に位置する白鬚西地区市街地再開発事業によって整備された公園です。面積は12.9haで、再開発事業地区(面積48.8ha)のほぼ中央及び東側に位置し、隅田川に隣接しています。平常時には広く都民の憩いの場所として、また災害時には近隣の住民を含め約12万人の避難広場として広域避難場所の指定を受けていて、ふたつの性格を有する総合公園です。汐入公園は、「豊かで多様な水辺と緑に彩られた活力と潤いのある川辺のひろば公園」を基本テーマとしています。展望広場、ふれあい広場、ピクニック広場や多目的広場など多様な広場とともに、テニスコートなどのスポーツ施設や野外ステージ、噴水、日時計、複合遊具等を設け、のびのびと楽しめる安全な広場公園となっています。また、地区に隣接する隅田川は、古くから都民に親しまれてきた東京を代表する河川です。公園と隣接する約1kmの区間については、高いコンクリートでできた防潮堤をスーパー堤防化しました。これにより貴重な水辺空間と一体となった公園整備を行い、眺望の開けた、快適で水にも親しみやすい、緑豊かな広大な都市空間を生み出しました。



汐入公園は、災害時の復旧や救援活動の拠点としての機能を確保するため、防災備蓄倉庫、非常用トイレ、非常用照明、非常用放送設備、非常用電源、非常用炊き出し場(バーベキュー広場)、ヘリコプター臨時離発着場(多目的広場)など、さまざまな防災施設を備えています。

災害対策施設について

この公園は、災害時の指定避難場所です。

●ふれあい広場及び多目的広場は災害時に避難スペースとなります。
●大規模災害に備えて、駐車場に災害対応トイレを設置しています。
●バーベキュー広場は災害時の炊き出し場になります。
●管理所と駐車場の間付近には、災害時用の井戸ポンプを備えています。




汐入公園には、子ども達の冒険心を育むユニークな遊具が設置されています。



公園の高台に時計塔が建っていて、その袂に白鬚西地区再開発の歴史を記した記念碑が置かれています。



再開発事業の完成を記念した石碑です。

安心して住めるまちづくり
白鬚西地区
市街地再開発事業
完成記念碑
平成二十二年三月




再開発の経緯を記した石碑です。

白鬚西地区防災再開発事業完成記念に寄せて

昭和四十四年(1969年)に東京都が策定した江東再開発基本構想に基づく「白鬚西地区市街地再開発事業」は、41年余の長期にわたる時間の流れを経て、ようやく完成の日を迎えました。兵庫県南部地震(1995年1月)、新潟県中越地震(2004年10月)、岩手・宮城内陸地震(2008年6月)等頻繁に発生する大地震の怖さを思うにつけ、新しく安全なまちに生まれ変わった白鬚西地区の姿は感慨深いものがあります。構想発表の当初は、「私達住民が平穏に暮らしていた隅田川沿いのこの地に、なぜ再開発なのか」「防災拠点は必要だ」と賛否両論、大激論が巻き起こり、まちが二分されました。しかし、私達は一致団結して再開発事業に向き合うため「白鬚西地区防災問題対策連合会(初代会長 松本好實氏 第二代会長 冨岡利夫氏)」を結成し、粘り強い話し合いを重ね「震災に強いまち」「周辺住民の広域避難場所」のためにと、人道的見地により再開発事業に協力し推進するという決断をいたしました。そして、住民の生活再建、財産の保全・確保など、再開発事業に関わる全ての事について行政と同じ土俵で協議を行なうため、事業施行者の東京都、地元荒川区と私達住民による「白鬚西地区防災再開発協議会(都区住民協議会)」を設立し、官民が一体となって知恵を出し合い、幾多の困難を乗り越えて安全・安心のまちを築きあげて来ました。いま、私たちは、この大事業の完成にあたり、再開発に大きな一歩を踏み出した先人達の先見性とあらゆる困難を乗り越えてこの事業に協力してきた多くの住民、関係者の労苦に感謝すると共に、地域住民の団結力に思いをはせ、この大事業の目的と意義を永く後世に伝えるものであります。私たち住民は、この事業の歴史と教訓に学び、地域を愛する心、震災時の心構えの涵養に資するため、記念碑に永くこの意義を記すものです。




再開発の規模と事業のマイルストーンを記した石碑です。

白鬚西地区市街地再開発事業

●事業の概要
事業名称  東京都市計画事業白鬚西地区第二種市街地再開発事業
施行面積  48.8ヘクタール
事業施行者 東京都

この地域は、住宅・商店・工場等の混在する密集市街地で、建物は老朽化が進み、道路も狭く、また大規模工場の移転に伴って人口が大幅に減少していたことから、防災性の向上と地域の活性化が課題となっていました。東京都は、新潟地震(昭和三十九年6月)を契機として、江東地域の震災対策、生活環境の改善及び経済基盤の強化を図ることを目標とした防災都市づくり計画 「江東再開発基本構想」を策定しました。白鬚西地区は、この江東再開発基本構想において、隅田川を挟んだ対岸の白鬚東地区とともに「白鬚地区」として防災6拠点の一つに位置づけられました。また、施行区域が広大であり、権利者数が多く、また権利関係が複雑であることから東京都施行の第二種市街地再開発事業で行なうこととし、第一、第二、第三の3つの地区に分け、さらに17の工区に分けて、防災拠点の整備を行いました。事業実施にあたり、「住民参加のまちづくり」を基本理念とし、事業を円滑に推進するため、東京都、荒川区及び地元住民からなる「白鬚西地区防災再開発協議会(都区住民協議会)」を設置して、計画の策定から住民の生活再建までさまざまな内容に関する協議を行ないました。再開発計画素案発表以来、半世紀を経て、災害時には12万人が避難できる防災拠点、安全・安心なまちが完成しました。

●事業の経緯
昭和四十四年 11月 江東再開発基本構想策定
昭和四十八年 12月 白鬚西地区再開発計画素案発表
昭和五十八年  3月 都市計画決定(汐入地区を除く)
           環境影響評価書告示(東京都第1号)
昭和五十九年  6月 白鬚西地区防災再開発協議会発足
昭和六十年  11月 都市計画変更(汐入地区を編入)
昭和六十二年 10月 第一地区事業計画決定(約2.1ha)
昭和六十三年  4月 第二地区事業計画決定(約0.5ha)
昭和六十三年  7月 第三地区事業計画決定(約46.2ha)
平成元年    1月 都市計画変更(スーパー堤防の導入ほか)
平成十八年   3月 広域避難広場「都立汐入公園」完成
平成二十二年  3月 事業完了




再開発によってどのような効果がもたらされたのかを定量的に記した石碑です。いわゆる、事後評価報告書ですね。

生まれ変わったまち
事業の効果

事業施行前には地区内に混在密集していた住宅、商店、工場等の木造建物を集約し、用途純化を図りながら不燃中高層化しました。また、安全・安心のまちづくりを目指して学校、保育所、警察・消防施設、病院などの公共公益施設を整備しました。災害時に広域避難広場となる都立汐入公園は、隅田川スーパー堤防と一体化していることから安全で親水性が高く、応急仮設トイレや備蓄倉庫等の防災施設を備えています。また、公園に隣接して、水道の配水施設(10万トン)と災害時に応急給水の拠点となる給水所も整備しました。道路は、災害時の円滑な避難を考慮して幅員12m以上とし、地区幹線として都道3路線、生活道路として荒川区道12路線を整備しました。これにより、災害時には最大約12万人が避難できる防災拠点が完成しました。

                  昭和五十九年5月   平成二十二年3月
オープンスペースの確保 道路・・・    3.8ha →   11.5ha
            公園・・・    1.2ha →   14.4ha
建築物の不燃化     ・・・・・       5% →     100%
土地の高度利用     ・・・・・      66% →     223%
住宅供給戸数      ・・・・・   1、471戸 →   4、397戸
定住人口        ・・・・・  約4、130人 → 約11、000人




都立汐入公園からさくら通りを進んで素盞雄神社に向かいます。



国道4号線(日光街道)に出たところに、千住宿の案内板が立っています。千住宿は、日光街道(日本橋から宇都宮までの道程は奥州街道と共通区間)第一の宿場でした。松尾芭蕉は、この先の千住大橋で船を降り、奥の細道に旅立っていきました。

千住宿

慶長九年(1604年)日本橋を起点として五街道が定められた。奥州道中の第一の宿場が千住宿である。大橋南側から「コツ通り」にいたるこのあたりに小塚原町・中村町があって下宿とよばれ、問屋・各種商店・旅籠などがたち並んでいた。江戸の宿場のなかでは、この千住宿(本宿と下宿)が最も長い宿場通りであった。

Senju-shuku (Posting Station)

In 1604, Gokaido (five major roads) starting from Nihonbashi were established. One of them, the road from Nihonbashi to the present-day Nikko City in Tochigi Prefecture is called the Nikko Kaido, and the first posting station from Nihonbashi is Senju-shuku. The area from the south side of the Senju-Ohashi Bridge through Kotsu Street was Kozukappara and Nakamura, which were collectively referred to as Shimo-shuku. It was home to many wholesalers, shops, and inns. Senju-shuku had the longest street among posting station towns around Edo.




ポイント3 素盞雄神社

素盞雄神社は、荒川区内で最も広い地域(南千住・三ノ輪地区・三河島地区・町屋地区)の61ヶ町に氏子を持つ神社です。

素盞雄神社

小塚原・三の輪・下谷通新町・三河島・町屋など、区内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「てんのうさま」とも呼ばれる。石を神として尊崇する信仰は全国各地にみられるもので、当社も石神信仰に基づく縁起を有する。延暦十四年(795年)、荊石が微妙な光を放ち、その光のうちに翁の姿をした二神(素盞雄命・事代主命)が現れて神託を告げたという。そのためその石は「瑞光石」と呼ばれ、出現した二神を祭神として祀る。宝暦年間(1751年〜1764年)頃まで行われていたという千住大橋綱曳は、その年の吉凶を占う当社の神事で、「東都歳事記」(天保九年)にその雄壮な様が描かれている。

Susano'o Shrine

This is a guardian shrine with the largest area of Ujiko (parishioners) in Arakawa City, including not only nearby areas but also Arakawa and Machiya Towns. It is commonly referred to as "Tennosama". According to the history of the shrine, in 795, a hallowed stone suddenly gave off a beautiful light that indicated a good sign, and two deities in the form of old men (Susano'o-Okami and Asuka-Okami) appeared in the light pronouncing divine messages. People began worshipping the two deities. The stone that gave off that auspicious light is called "Zuiko Seki". In June every year, the Ten'no-sai Festival is held in which a huge Mikoshi (portable shrine) is swayed from side to side. Until the middle of the 18th century, a quaint tug-of-war ritual was held on the Senju-Ohashi Bridge to divine harvest.




この素盞雄神社のある千住は松尾芭蕉が「奥の細道」の旅へ出発した地点として知られ、「奥の細道」には「千じゅと云所にて船をあがれば前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそゝぐ」と記されています。この時芭蕉が詠んだ「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の矢立初めの句の看板が門前の横にある交番の脇に立っています。



門前の壁には、素盞雄神社の案内板が掲げられています。

平安時代 延暦十四年創建 素盞雄神社

江戸の社寺や名所旧跡を紹介した「江戸名所図会」では、当社は「飛鳥社 小塚原天王宮」と紹介されています。「小塚原」とは御祭神が御姿を現された瑞光石のある小高い塚に由来するこの土地の古い地名で、「天王宮」は素盞雄大神の別名「牛頭天王」によるものです。

御祭神 素盞雄大神

「スサ」は「荒・清浄」を意味し、身に降りかかる罪・穢・災・厄などを荒々しい程の強い力で祓い清める災厄除けの神様です。

御祭神 飛鳥大神

別名 事代主神・一言主神。善悪を一言で判断し得る明智をお持ちです。後世には福の神「えびす様」として崇敬されています。

御鎮座1200有余年。平安時代延暦十四年(795年)4月8日、瑞光石に御姿を現された二柱の御祭神の御神託により創建されました。荒川区南千住・三河島(現在の荒川・東西日暮里一部)・町屋・台東区三之輪の区内で最も広い氏子区域61ヶ町の鎮守です。




門前の壁には、芭蕉を紹介した案内板も掲げられています。

奥の細道
矢立初めの地 千住
− 行く春や鳥啼き魚の目は泪 −

ここ千住は日光道中の初宿。当社より少し北上したところに架かる千住大橋は、江戸で最初に架けられた橋です。浮世絵のなかの大橋も行き交う人々で賑っていますが、旅を住処とした漂泊の詩人・松尾芭蕉も、ここ千住から「奥の細道」へと旅立ちました。この紀行から百三十年後の文政三年、千住宿に集う文人達によって旅立ちの地の鎮守である当社に句碑が建てられました。「奥の細道」矢立初めとなる一節を刻んだこの碑は、江戸随一の儒学者で書家としても高名な亀田鵬斎が銘文を、文人画壇の重鎮である谷文晁の弟子で隅田川の対岸関屋在住の建部巣兆が座像を手がけています。

矢立とは携行用の筆記具のことで、「行く春や」の句は、「奥の細道」の本文に「これを矢立の初めとして」と記されています。




境内の人工の川の畔に石碑が並んでいます。奥の細道矢立初めの句碑は、川に架けられた石橋を渡った先の石碑になります。

素盞雄神社と文人たち

千住宿界隈や隅田川沿岸の社寺には、江戸の文人が残した碑が多く見られる。この境内にも、文人が建てた二基の碑がある。文政三年(1820年)建立の松尾芭蕉の句碑と、旗本池田家の主治医の死を悼んで、天保十二年(1841年)に建てられた森昌庵追慕の碑である。芭蕉の句碑は、谷文晁の弟子で関屋在の建部巣兆・儒学者で書家としても名高い亀田鵬斎らが、森昌庵追慕の碑は、「江戸名所図会」などの挿絵で知られる長谷川雪旦、この近隣に住んでいた俳人・随筆家の加藤雀庵らがそれぞれ建碑にかかわった。これらの碑は、文人たちの交流を今日に伝えている。

Susano'o Shrine and Literary Persons

There are many stone monuments left by literary persons in the Edo period at shrines and temples in the Senju-shuku neighborhood along the Sumida River. Two of those monuments (designated cultural properties of Arakawa City) exist in the precinct of Susano'o Shrine. The poem monument of Basho was erected in 1820 with the support of Takebe Socho who was a literati painter, a pupil of Tani Buncho and lived in Sekiya (Sumida City), Kameda Hosai who was a Confucian scholar and well-known calligrapher, and others. The monument cherishing the memory of Mori Shoan who was the attending physician of the Ikeda Clan, shogunal retainer, was erected in 1841 with the support of Hasegawa Settan who was a renowned illustrator in Edo, Kato Jakuan who was a haiku poet and essayist lived near the shrine and others. These monuments remind us the exchanges amongst literary people in the Edo period.




碑文は、建碑以来百七十有余年の風雨により剥落損傷が激しく、判読できないために、平成七年の素盞雄神社鎮座1200年祭に際して復刻されました。

千寿といふ所より船をあかれは前途三千里のおもひ胸にふさかり幻のちまたに離別のなみたをそゝく
行はるや鳥啼魚の目ハなみた (行く春や鳥啼き魚の目は泪)



川の脇には大銀杏の木が聳えています。

天王社の大銀杏

素盞雄神社境内は、古来より「あすかの森」と呼ばれ、銀杏などの大木が林立していた。「江戸名所図会」にも、境内に樹木が生い茂っている様が描かれている。この大銀杏は、幹の周囲約3.3メートル、高さ約30メートルである。この木の皮を煎じて飲むと、乳の出が良くなるという伝承を持つことから、絵馬を奉納祈願する習わしがあり、現在も続いている。

Great Ginkgo Tree in Ten'nosha Shrine

The precinct of this shrine has been called "Asuka Grove" since ancient times and there is a large grove of trees, mainly ginkgo, today. Still practiced today is the custom of offering votive tablets (ema) to make wishes based on the legend that a mother having a drink from brewed bark of this ginkgo tree may increase breast milk.




大銀杏は「子育ての銀杏」と呼ばれ、母乳の出ない婦人がその樹皮を煎じて飲み、周囲に米の研ぎ汁を撒いて幼児の無事成長を祈願しました。現在では、初宮詣(お宮参り)に際し、絵馬が奉納されています。



素盞雄神社の拝殿は、正面が裏通りに面し、側面が日光街道に面しています。


左側が正面、右側が側面になります。


側面の階段には、夥しい数の絵馬が奉納されています。大銀杏の樹に架けられていた絵馬です。

知っていますか?
天王様のこんなこと
《 七歳までは神の子 》

病死という概念が無かったその昔、「もののけ」という死霊が幼い生命を突然奪いにくると考えられていました。医学がまだ発達していない頃の乳幼児の生存率は低く、《七歳までは神の子》という言葉が伝わっています。それほどまでに乳幼児は死と隣合せだったのです。医療医学の発達したといわれる現代においても、子は「授かりもの」であり、生命は父母双方の先祖から脈々と流れ受け継ぐ「賜りもの」です。初宮諸氏子入りに際し「子育てのイチョウ」に奉納された絵馬は、7年間、御祭神の御加護を願いお供えいたしております。

御祝いのお子様が七歳となる最後の一年は、御神前に最も近い殿内にお供えいたします。そして7年間が過ぎた11月15日七五三詣の日に〔おかげさま〕の感謝の心を込めて浄火によりお焚き上げいたします。




神楽殿の中に何か飾られています。「桃の祓 なでもも」と書かれています。左から「後顧(こうこ)の祓」・「中今(なかいま)の祓」・「幸先の祓」と3つの緑の桃が置かれています。なでももというからには撫でることで御神徳が頂けるのでしょう。

知っていますか?
天王様のこんなこと
◆◆◆ 桃の祓 ◆◆◆

汝、吾を助けしが如く、
   葦原中国にあらゆる現しき青人草の、
      苦しき瀬に落ちて患い惚む時、助くべし。

イザナギノミコトは、死者の国から脱出するとき、桃の実3個を投げつけて追っ手を撃退し、難を逃れました。そして、桃の実に「自分を助けてくれたように、人々が苦しみ困っているときには助けなさい」と告げ、「災厄を祓う偉大なる神霊」という意味のオオカムズミノミコトと名前を授けたことが、我が国最古の歴史書「古事記」に記されています。桃は邪気をはらう霊木として、古くより信仰されています。その花を酒に浮かべて飲めば不老長寿の効があるといわれ、桃の節句や桃太郎の鬼退治、当社創建の4月8日疫神祭に江戸時代から伝わる災厄除けの白桃樹御守も関連するところです。

浄く明るく正しく直く
我が国では、穏やかに、そして清らかな気持ちで日々過ごすことを願い、祈ります。しかしながら、その暮らしの慌ただしさ忙しさのなかでは、知らず知らずに罪を犯し穢に触れ、本来の「浄・明・正・直」の心から遠ざかり、心身の乱れを呼び込むこともあります。「気淑く風和らぎ」の令和御大典を奉祝し、美術鋳金家菓子満氏に依頼し、撫で桃〔桃の祓〕を調製いたしました。3つの桃の実に後顧(こうこ)・中今(なかいま)・幸先(さいき)の祓を託し、《あと・いま・さき》を祓い清めて《清々しく》




拝殿前には対の狛犬が鎮座しています。尾の形が特徴的な狛犬で、左側は珍しい親子の獅子になっています。



素盞雄神社創建の起源となった「瑞光石」のある小高い塚に、元治元年(1864年)に富士塚が築かれ、浅間神社が祀られました。塚上には20基の奉納碑が伝存し、かっては門前の茶店で疫病除けの麦藁の蛇が土産に売られていたなど、富士参りの参詣者で賑わいをみせていたことが窺われます。毎年7月1日に山開きが斎行され、当日の一定時間に限り登拝が許されています(天候により中止の場合もあります)。

荒川区指定 記念物・史跡
富士塚

元治元年(1864年)、「瑞光石」のある小塚上に浅間大神を祀り富士塚としたと伝え、「お富士様」と呼ばれている。富士講の一つ、丸瀧講が築造。山肌をクロボク(溶岩)で覆い、山頂の浅間社、中腹の小御嶽、山裾の石尊、人穴等が設けられている。富士講によって築かれた典型的な形状で当初の形体をよく保っている。幕末から大正期に奉納された富士講等の石碑二十基も伝存。近代には「南千住富士」とも呼ばれ、東京七富士廻りの北廻りコースの一つに数えられた。六月朔日(新暦七月一日)の山開きには麦藁の蛇がお守りとして境内で売られたという。地域の民間信仰の姿を今日に伝えるばかりでなく、江戸時代から近代にかけて流行した富士信仰の学術資料としても大変重要である。




富士塚の登山道の入口の横に「瑞光石」が祀られています。

知っていますか?
天王様のこんなこと
《 瑞光石 》

御祭神すさのお大神・あすか大神が光とともに降臨した小塚の中の奇岩を瑞光石(ずいこうせき)といいます。文政十二年(1829年)編纂の「江戸近郊道しるべ」には、千住大橋架橋に際して、この瑞光石の根が大川(現・隅田川)まで延びていたために橋脚が打ち込めなかったという伝承が紹介されています。この瑞光石のある小さな塚から「小塚原(こつかはら)」の地名が起こり、「江戸名所図会」には「飛鳥社小塚原天王宮(あすかのやしろ こつかはらてんのうぐう)」と紹介され、弁天様を祀る御手洗池・茶屋など当時の情景をもうかがうことができます。元治元年(1864年)には富士塚を築き浅間神社を祀り、門前の茶店では疫病除けの麦藁の蛇が土産に売られるなど、富士参りの参詣者で賑わいました。なお、現在周辺小学校の「第●瑞光小学校」と冠された瑞光もこれに因むものです。




荒川区が設置した案内板も立っています。

瑞光石

瑞光石は、素盞雄神社の祭神が翁に姿をかえて降臨した奇岩といわれ、「瑞光荊石」とも称される。また、この塚を「古塚」と呼んだことから、小塚原の地名の由来をこれにもとめる説もある。嘉永四年(1851年)には周囲に玉垣を築き、元治元年(1864年)には浅間神社を祀った。万延元年(1860年)に編纂された「江戸近郊道しるべ」には、千住大橋架橋の際、この石の根が荒川(現隅田川)まで延びていたため、橋脚がうちこめなかったという伝承を紹介している。

Zuiko Seki (Auspicious Light Stone)

A hallowed stone suddenly gave off a beautiful light that indicated a good sign, and two deities in the form of old men (Susano'o-Okami and Asuka-Okami) appeared in the light pronouncing divine messages. People resultingly began worshipping the two deities. The stone that gave off that auspicious light is called "Zuiko Seki". The fence surrounding the hallowed place was built in 1851 and the Fujizuka mound was built in 1864. According to the geographical book in the Edo period, there is a legend that, when the Senju-Ohashi Bridge was under construction, the stone's roots extended to the Arakawa River (present-day the Sumida River), so the bridge piers could not be driven in the ground.




境内の奥に、お地蔵様を中心とした江戸時代の庚申塔三基(区指定文化財)・宝篋印塔などからなる石塔群があります。「江戸名所図会」にも、境内に「ちそう(地蔵)」の表記があり、往時の様子が描かれています。庚申とは一年に6回巡ってくる干支の「庚申(かのえさる)」のことで、この日には人の体内にいる「三尸の虫」が眠っている間にその人の罪を天帝に告げてしまうために徹夜して夜を過ごす庚申待の習俗があります。人々は講を形成して寄り合い、三年間で計18回の庚申待を行うと諸願成就するといわれ、その記念に建立されたのが庚申塔です。素盞雄神社の延宝六年(1678年)建立の庚申塔には、人の罪を「見ざる・言わざる・聞かざる」として三匹の猿と、早く朝が来るようにと二羽の鶏が刻まれています。

荒川区指定有形民俗文化財
庚申塔群三基(寛文十三年銘他) 素蓋雄神社

江戸時代に建てられた3基の庚申塔で、向かって左から、延宝六年(1678年)銘、寛文十三年(1673年)銘、文化八年(1811年)銘があります。庚申塔とは、60日に一度めぐってくる庚申の日に、寝ずに夜を明かす行事「庚申待」を3年間継続した所願成就の証しとして建てられたものです。中央の寛文十三年銘の庚申塔は、聖観音が本尊です。聖観音の光背には「庚申講供養」と「念仏講供養」の文字が刻まれ、庚申信仰と阿弥陀信仰の習合が見られます。左の延宝六年銘の庚申塔は、如意輪観音が本尊です。月待信仰に関する勢至菩薩の種子が刻まれていて、庚申信仰と月待信仰との習合がうかがえます。施主として久兵衛、おとらなど男女15人の名が見えます。文化八年銘の庚申塔には「青面金剛」の文字が刻まれています。寛文十三年銘と延宝六年銘の庚申塔は、造形上も優れており、他の信仰との習合も見られ、また3基の庚申塔から近世の庚申塔の変遷がうかがえ、学術的にも貴重なものであるといえます。




素蓋雄神社から吉野通りに入り、ゴール地点のドナウ広場に向かいます。日光街道の南千住交差点から泪橋交差点付近までは「コツ通り」ともいわれています。「コツ通り」とは奇妙な名前ですが、道路名の由来については諸説あります。代表的な説は、昔々、一面に人間の背丈程の葦(あし)が生えていた原っぱ(浅韋が原:あさじがはら)に小さな山がところどころにあり、そこが小塚原(コツカッパラ)と呼ばれ【小塚とは、おわんを伏せたような小さな土の山の意味】、それが永い間人々に言い伝えられ、小塚原町という町の名前になり、人々が往来する通りの呼び名になったというものです。



JR線と日比谷線のアンダーパス手前に回向院があります。この辺りは江戸時代には小塚原といわれ、品川の鈴ヶ森とともに処刑場があったところです。寛文七年(1667年)に本所の回向院が牢死者や刑死者等を供養するため、この地に回向院を開創しました。

回向院

回向院は、寛文七年(1667年)、本所回向院の住職弟誉義観が、行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺で、当時は常行堂と称していた。安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎ら多くの志士たちが葬られている。明和八年(1771年)蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に立ち合った。後に「解体新書」を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して、大正十一年に観臓記念碑が建立された。

Eko-in Temple

Eko-in Temple was founded in 1667 by Teiyo Gikan, the chief priest of the original Eko-in Temple in Sumida City to hold services for people who died by the wayside or were put to death. At that time, it was called Jogyo-do. Many patriots including Hashimoto Sanai and Yoshida Shoin, who died in the Ansei Purge, were buried here. In 1771, Dutch studies scholars, Sugita Genpaku, Nakagawa Jun'an, Maeno Ryotaku and others attended the autopsies of persons who were executed here. As a result, they started translating the anatomy book known in Japan as "Tafel Anatomie", leaving behind great achievements in the medical history of Japan. In commemoration of this, the Kanzo Kinenhi Monument was erected in 1922.




杉田玄白や前野良沢らは、ここで刑死者の腑分けに立会い、それをきっかけに「ターヘル・アナトミア」を翻訳し、「解体新書」を刊行したといわれています。これを記念して、本堂入口右手に「観臓記念碑」が建てられています。



記念碑には、解説文が添えられています。

蘭学を生んだ解体の記念に

明和八年(1771年)三月四日に杉田玄白・前野良沢・中川淳庵等がここへ腑分を見に来た。それまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアを持って来てその図を実物とひきくらべ その正確なのにおどろいた。その帰りみち三人は発憤してこの本を日本の医者のために訳そうと決心し、さっそくあくる日からとりかかった。そして苦心のすえ、ついに安永三年(1774年)八月に、「解体新書」五巻をつくりあげた。これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめで、これから蘭学がさかんになり、日本の近代文化がめばえるきっかけとなった。さきに1922年奨進医会が観臓記念碑を本堂裏に建てたが、1945年二月二十五日戦災をうけたので、解体新書の絵とびらをかたどった浮彫青銅板だけをここへ移して、あらたに建てなおした。

道路拡張のためあたらしく設計された本堂の落慶式が今月十日におこなわれた。その機会に、この場所を解体記念碑のために提供されたので、よそおいをあらたにしてここに移し、今日除幕の式をあげた。それは解体新書の出版から二百年にあたる年にできたことになる。




回向院の本堂右手の一画には、安政の大獄で刑死した吉田松陰や橋本左内らの供養碑が並ぶ史蹟エリアがあります。

荒川区指定記念物(史跡)
小塚原の刑場跡 回向院

小塚原の刑場は、寛文七年(1667年)以前に浅草聖天町(現台東区)辺りから移転してきたといわれています。間口60間(約108m)、奥行き30間余り(約54m)、約1、800坪の敷地でした。日光道中に面していましたが周囲は草むらだったといわれ、浅草山谷町と千住宿の間の町並みが途切れている場所に位置していました。小塚原の刑場では、火罪・磔・獄門などの刑罰が執り行われるだけではなく、刑死者や行倒れ人等の無縁の死者の埋葬も行われました。時に刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も実施されました。また、徳川家の馬が死んだ後の埋葬地として利用されることもありました。そして回向院下屋敷(現回向院)はこれらの供養を担っていました。明治前期には、江戸時代以来の刑場としての機能は漸次廃止、停止され、回向院は顕彰、記念の地となっていきました。橋本左内や吉田松陰といった幕末の志士の墓は顕彰の対象となりました。また「観臓記念碑」は、杉田玄白や前野良沢らが、ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し「解体新書」を出版したことを顕彰するため建てられたものです。回向院境内にはこうした数多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えています。




回向院の史蹟エリアは荒川区指定記念物(史跡)小塚原刑場跡として文化財となっていて、一般の方の墓地とは完全に分けられています。史蹟エリアの入口には「田中光顕歌碑」が建っています。碑文には、「偲ぶけふかな 花とちり雪ときえにし 桜田の ますらたけを 九十四叟 田中光顕」と書いてあるそうです。田中光顕は、江戸末期の勤王運動を経て明治政府に出仕し、貴族院議員や宮内大臣等を歴任しました。政界引退後は、維新烈士の顕彰に尽力しました。



史蹟エリアの一番手前には、「磯部浅一・妻登美子の墓」があります。磯部浅一は陸軍士官学校出身の軍人で、二・二六事件において決起将校らと行動を共にし、軍法会議で死刑判決を受けて刑死した人物です。



史蹟エリアの右手手前には、相馬大作の供養碑があります。盛岡藩士の下斗米秀之進を首謀者とする数人は、文政四年(1821年)に参勤交代の途中だった弘前藩主の津軽寧親を暗殺しようとしましたが、密告により未遂に終わりました。その後、江戸に逃亡した主犯の下斗米秀之進は「相馬大作」と名前を変えて隠れ住みましたが、捕まって文政五年(1822年)8月に小塚原の刑場で獄門の刑に処せられました。



相馬大作の供養碑の隣に、「悪役4人組」の墓石が並んでいます。「腕の喜三郎」の墓石は拳を握った片腕の形をしていて一風変っています。喜三郎は江戸時代の侠客で、寛文(1661年〜1673年)の頃、江戸神田で旗本奴と喧嘩し、相手を数人切りましたが自分も片腕を切られて落ちんばかりとなったのため、その腕を子分に鋸で切り取らせました。世間はその放胆さに舌を巻き、その後「腕の喜三郎」と名を改めて、その侠勇は四方に轟きました。



「腕の喜三郎」の供養碑の隣には、明治初期に最後の斬首刑により死刑が執行された「高橋お伝」の供養碑があります。稀代の悪婦として知られていますが、確かにお伝は殺人という重罪は犯しはしましたが、そこにはクズ男達に弄ばれたという同情すべき点も多くありました。



江戸時代後期の無頼漢で「天保六花撰」にも描かれた片岡直次郎の供養碑の隣には、同時代に大名屋敷を専門に荒らした有名な盗賊「鼠小僧次郎吉」の供養碑があります。鼠小僧の供述によると、十年間に荒らした屋敷は95箇所・839回、盗んだ金は三千両余りとのことでしたが、記録でも付けていたのでしょうか。



史蹟エリアの一番奥には、「橋本左内の墓」があります。「左内」は通称で、号を「景岳」といいました。

橋本景岳先生の生涯と墓所の由来

橋本景岳先生は、天保五年(1834年)三月十一日、福井藩の藩醫橋本長綱の長男として生れ、名を綱紀、通称を左内、号を景岳又は黎園といった。幼少の時から學問を好み、やがて藩儒の吉田東篁について儒學を學び、ついで大坂の緒方洪庵、江戸の坪井信良、杉田成卿等について蘭學を修め、その見識は當時の第一流の人々を驚かせるまでに至った。有名な「啓發録」は、嘉永元年、十五歳の時、自戒のために書いたもので、先生の人物、思想は、すでにこの著書の中に示されてゐる。嘉永六年(1853年)のペルリ来航以来、わが国は急速に内外の問題が多事多難となり、しかも藩主松平春嶽公は、幕政改革の先頭に立ってゐたので、この俊秀なる青年を抜擢してその側近に加へ、これより先生は公の理想の具現のために心血を注ぐこととなる。しかるに春嶽公の政策は、新たに大老に任ぜられた井伊直弼のそれと相容れず、公は幕命によって隠居慎しみを命ぜられ、ついで先生も幽因の身となり、翌六年十月七日、江戸傳馬町の獄内において死刑に處せられて、二十六歳の短い生涯を終へた。長州藩の吉田松陰とともに、安政の大獄において日本が失った最も惜しい人物である。先生刑死の日、同藩の長谷部恕連は、春嶽公の命を受けて先生の遺骸を小塚原の回向院、すなはちこの地に埋葬して、「橋本左内墓」と刻んだ墓表を建てたが、幕吏は刑人の墓を建ててはならないといつて、これを許さなかったので、改めて「黎園墓」の三字を刻んだものを建てた。しかるにその後、井伊大老は倒され、先生の罪も許されたので、文久三年(1863年)五月、この墓石は遺骸とともに福井に移され、善慶寺の橋本家墓所に改葬されたが、明治二十六年、その墓石のみ、再び回向院のもとの地にもどして再建され、さらに昭和八年、破損の甚しくなった墓石を風雨より守るために新たに套堂が設けられて今日に至つた。套堂の向つて右に聳えている巨碑「橋本景岳之碑」は、明治十八年、先生と信仰のあった福井藩士及び先生門下の人々によって建立されたもので、碑文は先生の盟友西郷隆盛の友人重野成斎の作により、巌谷修が書し、三條實美が蒙額したものである。




墓所の横には巨大な「橋本景岳之碑」が建てられています。明治十八年(1885年)、福井藩士及び門下の人々によって建立されたものです。



史蹟エリアの一番奥左に「吉田松陰の墓」があります。文久三年(1863年)、高杉晋作等の門人により長州藩主の別邸に改葬され、明治十五年(1882年)に松陰神社が創建されています。墓石は文化財として保存されています。



吉田松陰の墓石のすぐ右手に、安政の大獄により処刑された頼三樹三郎の墓があります。吉田松陰とともに改葬されていて、墓石は文化財として保存されています。墓石には、三樹三郎の号「鴨崖」の名が刻まれています。



ゴール地点のドナウ広場に戻ってきました。



ということで、荒川区で三番目の「C.汐入ぐるっとコース」を歩き終えました。次は荒川区で四番目のコースである「D.尾久の原公園ルート」を歩きます。




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