- D.尾久の原公園ルート
- コース 踏破記
- 今日は荒川区の「D.尾久の原公園ルート」を歩きます。荒川区立原公園をスタート地点として、都立尾久の原公園を一周してから、「尾久の原防災通り(都市計画道路補助第306号線)」を明治通りの冠新道入口交差点まで往復します。最初に歩いたのは2022年の1月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年11月に改めて歩きました。なので、冬と晩秋の写真が入り交じっています。
D.尾久の原公園ルート
コースの概要
市街地を南北に貫く道路と都立尾久の原公園を周遊する一周約4.67kmのルートです。隅田川の水辺や四季折々の植物を楽しめる尾久の原公園、人情あふれる住宅街など変化に富んだルートを楽しく歩き、さわやかに健康づくりをしましょう。
「D.尾久の原公園ルート」の歩行距離は約4.7km(約6、714歩)、歩行時間は約1時間11分、消費カロリーは約210Kcalです。
スタート地点:荒川区立原公園
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- ポイント1 尾久の原公園
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野鳥や約30種以上のトンボやザリガニ・カエルが生息し、葦など湿生植物が生い茂り自然が多く残されています。また、園内北側には、シダレザクラも植樹され、毎年4月初旬には、「シダレザクラ祭り」が開催され、シダレザクラの名所として多くの人々に親しまれています。
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- ポイント2 隅田川(スーパー堤防)
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隅田川の護岸は、高潮による被害を防ぐために、いわゆる「カミソリ堤防」が構築されました。その結果、地域住民は隅田川の水辺と隔てられることになりました。その後、堤防の耐震性を向上させ親水性を取り戻すために、緩やかな斜面を持つスーパー堤防への造り替えが進められています。川面を行き交う小船を眺めたり、ゆりかもめとたわむれてみてはいかがでしょう?
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- ポイント3 日暮里・舎人ライナー
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日暮里・舎人ライナーは、交通の利便性の向上及び交通渋滞の緩和等を目的として建設され平成二十年3月に開業しました。日暮里駅と足立区の見沼代親水公園駅間9.7km(全13駅)を約20分で結びます。車両は自動制御され、ゴムタイヤを使用した「新交通システム」を採用しています。
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- ポイント4 都立大荒川キャンパス前
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- ポイント5 都市計画道路(補助第306号線)
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密集する住宅地内を南北に貫く補助第306号線は、災害時の避難路や延焼遮断帯など防災上重要な役割を担っています。また、電線類を地下に埋設したことで、美しい街並みが形成され、広くて歩きやすい歩道ができあがりました。安全で快適なウォーキングをお楽しみ下さい。
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- ポイント6 都電荒川線
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都電荒川線は、早稲田〜三ノ輪橋を結ぶ路面電車です。発車前に「チンチン」という昔ながらの発車合図音を聞くことができます。沿線には約140種類、約1万2800株のバラが植えられ、荒川バラの会により、手入れがされています。毎年5、6月にかけて色鮮やかなバラが咲き乱れ、「荒川区の顔」として親しまれています。
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- ポイント7 満光寺
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もと、天台宗でありその創建は南北朝末か室町時代と伝わります。浄土宗寺院として開山は智天上人。開祖は上野二葉村(現:台東区)名主二葉和泉守。上野不忍池付近にあったものが、寛永寺の造営で、この地に移転しました。境内には永和元年(1378年)銘を始めとする板碑や庚申塔、二葉地蔵、二羽稲荷、二葉閻魔大王等があります。
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- ポイント8 慈眼寺
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開山は慶長三年(1598年)と伝わります。朝日薬師は眼病や産婦の乳の出がよくなる等に効験があり、村人たちの崇敬を集めていたと言われています。境内には寛文三年(1663年)銘及延宝六年(1678年)の如意輪観音を刻した石塔ほか多数の石造物があります。
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- ポイント9 ぬりえ美術館
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日本で唯一のぬりえ専門の美術館です。ぬりえを文化として保存するため平成十四年8月に開館。ぬりえ全盛期は昭和二十〜三十年代で、娯楽の少なかった時代の少女たちを夢中にさせていました。蔦谷喜一氏の作品のほか、戦前のものや海外のものが展示されている常設展と企画展で構成されています。
注記:ぬりえ美術館は、2022年10月30日に閉館しました。
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ゴール地点:荒川区立原公園
スタート地点の荒川区立原公園から歩き始めます。Dコースでは、100m毎に路面上にスタート地点からの距離数が表示されています。コースを外れずに歩いているか、また全体の中でどの位まで進んだかが一目で分かります。
原公園に隣接して、ツインシティという2棟の高層住宅が並んで建っています。この地には、かって立体交差のあるあらかわ交通公園がありましたが、1998年に公園跡に区住棟・都住棟からなる双子の賃貸住宅が建てられました。原公園は、ツインシティの敷地内に開園した児童公園です。なお、あらかわ交通公園は、下水道局三河島処理場に蓋をして造られた荒川自然公園の第3期工事の際、自然公園内に交通園として引き継がれ、平成七年4月1日開園しています。
- ポイント1 尾久の原公園
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尾久の原公園は、大正時代から続いた旭電化(現:ADEKA)尾久工場跡地に造られた荒川区内では唯一の都立公園です。戦後、東京都が工場跡地を買収し、敷地の東半分が公園として整備され、平成五年(1993年)6月1日に開園しました。敷地面積は約6万u以上あり、サクラ・アシ・チガヤ・ミソハギなど、512本・1、986株の樹木が植樹されています。公園は、豊かな水辺の環境を活かして整備され、雨水が溜まってできた池と湿地の周辺はアシなどの湿生植物が生い茂り、希少植物の生育地となっています。野鳥や約30種類のトンボ、池にはザリガニやカエルなどが生息し、東京都のレッドリストにも掲載されています。また、芝生広場・水辺で遊べる流れ・じゃぶじゃぶ池が整備されていて、遊具などの施設はあまりありませんが、四季折々の自然に触れながら遊ぶことができます。
尾久の原公園一帯は、かって十三坊塚と呼ばれていました。
十三坊塚
この付近はかつて十三坊塚と呼ばれていた。文政十一年(1828年)刊の「新編武蔵風土記稿」によると、上尾久村に高さ五尺(約150cm)ばかりの塚が四ヶ所、下尾久村に高さ五尺、周囲七・八尺(約210cm・240cm)の塚が八ヶ所あり、それらを「十三坊塚」と呼んだという。この内、下尾久村にあった砂利塚からは太刀と具足が出土したと記されている。この塚は両村の境にあったと思われ、上尾久村には「十三房」という小字があった。十三坊塚は全国に分布し、境界の目安や、村境において災いや疫病・害虫の進入を防ぐ役割を果たしていたものと推測されている。塚は大正六年に旭電化の敷地となって消滅した。「旭電化通り」の名は、この地にあった旭電化工業尾久工場にちなむ。
公園を散策します。流れ(じゃぶじゃぶ池)は、毎年7月下旬から8月末頃の夏休みの期間に稼働します。期間中は多くの子供達が遊びに来て、一日中賑わう施設です。
芝生広場では、ピクニック気分でシートを広げてお昼寝をするなど、憩いの場となっています。
公園の中央には、昔湿地だった名残としてトンボ池と呼ばれる池があります。数多くのトンボの貴重な生息地となっています。
水面は見えませんが、葦の生い茂ったところは自然の池になっています。
尾久の原公園の水辺の案内
●尾久の原公園の水辺は工場跡地に生まれた湿性地の保護に重点を置いて多様な生物生育環境の創出を図るのを目的として、公園の整備をしています。
●水辺の水源は、主に園内に降った雨水です。多様な環境を作り出すため、水深は均一にしてありません。また、大雨の時は、外に水を流す仕組みになっています。
●この水辺は、【水辺T】と【水辺U】の区域にわけることができます。
【水辺T】は防水シートや補助水源(工業用水)によって、常に水がある状態の区域です。ここでは乾燥が続いても、トンボ等の水生昆虫生育に適した、一定の水位を確保しています。
【水辺U】は従来どうり自然の摂理にまかせた区域です。時期によっては水が無くなることがあります。
ちなみに、2022年1月に訪れた時は葦が枯れて僅かな水面が顔を出していました。
公園の園路に沿って、公園を取り囲むように区民などが植樹した木を含めておよそ200本のソメイヨシノやシダレザクラが立ち並び、毎年4月には「シダレザクラ祭り」を開催され、毎年多くの方が花見を楽しんでいます。
公園と道路を挟んだ先に馬頭観音を祀った祠が並んでいます。かつて、このあたりは秣場(まぐさば)と呼ばれていて、その中に上尾久村の馬捨場がありました。そこに祀られていた馬頭観音や荒川区内最古の庚申塔などがスーパー堤防の建設によって平成十二年(2000年)にこの場所に移設されました。
あらかわの史跡・文化財 上尾久村の馬捨場跡(馬頭観音)
馬捨場の本来の位置および範囲は、東尾久七丁目3612番地、3484番地あたり(西方五十メートルのところ)と推定される。平成十二年、スーパー堤防の建設に伴って小祠や石造物がここに移設された。かって、荒川沿いのこのあたりは、秣場と呼ばれていた。秣場とは、田畑への施肥である刈敷きや、牛馬の飼料とする草の共有の採取地のことをいう。江戸後期には、新田開発されていくが、その呼称は地名として大正時代まで使われていた。この秣場の中に、馬捨場があった。牛馬は、田畑を耕すため、荷物の運搬に欠かせない動物であり、特に馬は、軍事用、宿駅の維持のために重視された。しかし、年老いたり、死んだ際には、ここに持ち込まれ、解体されて、武具・太鼓などの皮革製品や、肥料・薬品などの製品として活用されることになっていた。こういった馬捨場は他の各村々にも存在し、生類憐み令では、解体後の丁重な埋納が求められた。明治時代になって、馬捨場は使命を終えるが、荷を運ぶ運送業者の信仰を集めたり、戦争で使用された馬を供養する場ともなり、跡地は別の意味合いを帯びていくようになっていった。近年まで、馬の供養のための絵馬を奉納したり、生木で作ったY字型のイヌソトバを供える習俗が残っていたという。現在、天保十二年(1841年)及び大正時代の馬頭観音のほか竹駒稲荷などが祀られ、また、開発によって移された石塔類も置かれている。この内、寛永十五年(1638年)十二月八日銘の庚申塔は荒川区最古のものである。
祠の前には、左右に各地から集められた石仏や石碑が並んでいます。
案内板にある馬頭観音と荒川区最古の庚申塔は右側の祠内に納められているようで、見ることは出来ませんでした。ネットから転載させて頂いた右側の写真の手前左の駒型の馬頭観音は天保十二年(1841年)の馬頭観音で、奥に立つ板碑型の石仏は寛永十五年(1638年)12月に造立された荒川区最古の板碑型庚申塔です。
馬頭観音から隅田川の河川敷に降りていきます。隅田川は、街と川辺を直立ではなくなだらかな坂でつなぎ、川沿いをテラスのように歩けるようになっています。このテラスは「隅田川テラス」と呼ばれています。隅田川テラスというと屋形船が通る浅草の辺りが有名ですが、実は隅田川が通る幾つもの区にまたがり、総延長32kmにわたって整備されています。
- ポイント2 隅田川(スーパー堤防)
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尾久の原公園から隅田川テラスに降りた辺りに、「隅田川旧防潮堤」のモニュメントが建っています。スーパー堤防の整備の際、昭和三十二年から昭和五十年にかけて建設されたコンクリート製の防潮堤の一部を残し、これまで幾多の台風や洪水から地域を守ってきた直立の防潮堤を後世に伝えるために保存・展示しているものです。
旧防潮堤は、昭和三十二年から昭和五十年にかけ、隅田川の高潮や洪水を防ぐために造られました。まっすぐ上に向かって細くなるので、「カミソリ堤防」とも呼ばれたそうです。カミソリ堤防は安心ではあるものの、溢れた水だけでなく、隅田川の眺めも遮ってしまいました。江戸の昔から川辺を散歩したり、水遊びをしたり、舟で魚を獲ったりと人々が親しんできた隅田川から日常の暮らしを遠ざけてしまう結果になったのです。
隅田川旧防潮堤
東京都は隅田川の高潮や洪水の対策として、昭和三十二年からコンクリート防潮堤建設に着手し、昭和五十年に概成しました。その結果、隅田川は高潮や洪水に対する危険性が大幅に減少しましたが、川とまちは分断されてしまい、都民は隅田川から遠ざけられてしまいました。このため、現在、東京都では隅田川を高潮や洪水に対し、より安全で都民が河川と親しめる潤いのある水辺環境に配慮したスーパー堤防へと造りかえています。このモニュメントは隅田川スーパー堤防の整備にあたり、これまで幾多の台風、洪水から地域を守ってきた直立の防潮堤を後世に伝えるため、その一部を保存するものです。下の絵図は、「江戸名所花暦」に綴られている「尾久原桜草」です。隅田川では船に乗った人たちが網を引き、競って白魚を獲っています。河岸では一面に咲いた桜草を行楽客が摘んでいる様子が描かれています。
江戸時代の隅田川の風景です。
そこで持ち上がったのが、「カミソリ堤防」を「スーパー堤防」へと造り変える計画です。その背景には、下水道の整備などによって、昭和五十年代には汚染されていた隅田川の水質が戻り、中止されていた花火大会やレガッタ大会も復活するなど、川との繋がりを求める機運の高まりがありました。スーパー堤防とは、緩やかな丘で川と街を繋ぎ、氾濫から防ぐという安全面での目的をより高めつつ、人が川により親しみやすいように考えられた堤防です。この盛り土による対処には、地盤沈下で失った地盤の高さを取り戻すという考え方も含まれています。新たな堤防の事業は、隅田川のカミソリ堤防の完成から僅か5年後の昭和五十五年から開始されました。荒川区内では、8地区・約8kmのスーパー堤防の整備を進めていて、現在までに4kmの整備が完了しています。これは、隅田川沿いでは荒川区がスーパー堤防の整備率No.1の実績となっています。
隅田川(スーパー堤防)から都市計画道路(補助第306号線)に向かいます。土手の上に上がりますと、尾久の原公園の西側に洋風な建物群が並んでいます。東尾久浄化センターは、三河島水再生センターで高度処理した水をさらに高度処理し、隅田川へ放流する施設です。三河島水再生センターから自然流下で送られた水は、微生物膜を形成したろ材を有する砂ろ過施設(生物膜ろ過法)を通過することで、溶解性の浮遊物質などが除去されます。東尾久浄化センターで処理された高度処理水の一部は三河島水再生センターへ戻され、機械の冷却水やトイレ用水などとして利用されています。施設は可能な限り地下に構築し、地上構造物は隣接する都立公園やスーパー堤防との調和を配慮したデザインになっています。
- ポイント3 日暮里・舎人ライナー
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日暮里・舎人ライナーは、東京都交通局が運営する案内軌条式鉄道(AGT)で、荒川区の日暮里駅から足立区の見沼代親水公園駅までを結び、平成二十年(2008年)3月30日に開業しました。日暮里・舎人ライナーはコンピュータ制御による自動運転を行う新交通システムで、23区北東部の9.7km・13駅を結んでいます。ルートは、ほぼ全区間に渡って尾久橋通りの直上を通り、日暮里・西日暮里近辺や荒川付近を除いて概ね直線の軌道となっています。路線名は、東京都交通局と東京都地下鉄建設が一般公募を行い、選考委員会の審議を経て「日暮里・舎人ライナー」と決定されました。
ADEKAの本社の北東角で左折します。ADEKAは、化学品・食品・ライフサイエンス事業を担う創立100年を超える大手化学素材メーカーです。半導体材料や樹脂添加剤など数多くの中間素材で世界トップシェアを誇っています。「新しい潮流の変化に鋭敏であり続けるアグレッシブな先進企業を目指す」や「世界とともに生きる」という経営理念の下、中東・ブラジルといった地域への事業展開も進めていて、現在世界21の国や地域に58のグループ会社を有しています。ADEKAの旧社名は旭電化工業株式会社で、尾久の原公園・東尾久浄化センター・東京都立大学荒川キャンパスは、旭電化工業尾久工場の跡地にできたものです。
正門左手奥に神社が祀られています。扁額に「・・大明神」と書いてあります。どんな謂れがあるのでしょうか?
ADEKA本社の南側には、東京都立大学荒川キャンパスがあります。
- ポイント4 都立大荒川キャンパス前
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都立大荒川キャンパスには健康福祉学部と人間健康科学研究科が置かれていて、昭和六十一年(1986年)に開学した東京都立医療技術短期大学を改組して平成十年(1998年)に開学した東京都立保健科学大学を前身としています。平成十七年(2005年)に首都大学東京が開学した時に、保健・医療領域を専門とする学部として発足しました。令和二年(2020年)には東京都立大学に名称変更されました。
都立大荒川キャンパス前から大門小学校入口交差点までの通りは、この地にあった旭電化工業尾久工場に因んで「旭電化通り」と呼ばれています。大門小学校入口交差点を右折し、都市計画道路(補助第306号線)に入ります。
- ポイント5 都市計画道路(補助第306号線)
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荒川区の市街地を縦横に走る道路は、人流・物流を担う交通機能と共に、災害時における避難路や延焼遮断帯としての防災空間の機能を備えています。その整備に当たっては、バリアフリーに配慮することや自転車と歩行者がともに安全に通行できること、歩いて快適な景観であることなども求められています。荒川区では、利便性や防災性の向上のための都市計画道路や細街路の拡幅などの着実な整備、歩行者や自転車が安全で快適に通行できる道路空間の整備を推進するとともに、区内の拠点や軸、地域資源などを結ぶ道路ネットワークの形成を目指し、回遊性の向上にも取り組んでいます。都市計画道路は、都市機能の円滑な維持向上をはかる目的で、都市計画法において決定されています。東京においては、昭和二十一年に戦災復興都市計画道路として決定されたものが基本になっています。荒川区における都市計画道路は、37.2キロメートルが都市計画決定されていて、そのうち約60パーセントが完成しています。整備が完了した都市計画道路としては、道路を拡幅整備した「補助第107号線(千住間道)」や、住宅地の中に新しく道路を通した「補助第306号線(尾久の原防災通り)」などがあります。
道路際には消火栓が一定区間毎に設置されています。また、防災広場も設けられています。
道路の整備に合わせて無電柱化も実施されています。電柱や電線が視界からなくなると、空がスッキリ見えます。
都市計画道路(補助第306号線)は都電荒川線と交差します。
- ポイント6 都電荒川線
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この区間の荒川線は、道路の中央部に軌道敷が区切られたセンターリザベーション方式が採用されています。軌道敷内は一般車両は通行できず、道路との交差部を除いて横断もできません。都電荒川線は、第二次世界大戦前の東京市時代からの歴史を持つ都電路線が相次ぎ廃止された後も東京に残る唯一の都電で、三ノ輪橋停留場〜早稲田停留場間(12.2km・30停留場)を運行しています。愛称は「東京さくらトラム」で、地域の身近な足として長年親しまれ、沿線には、桜やバラなど花の見どころや歴史・文化に触れられる名所旧跡、生活感あふれる昔ながらの商店街など多様で魅力あるスポットが満載です。
満光寺前交差点を右折した右手に満光寺があります。
- ポイント7 満光寺
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「阿弥陀如来の光が満ちあふれる寺」という意味が寺名に込められている「満光寺」は、浄土宗の寺院で二葉山尾久院とも称されます。創建は南北朝末か室町時代と伝えられ、当初は天台宗の寺院でしたが、上野二葉村(現・台東区)の名主・二葉和泉守により浄土宗寺院として中興されました。寛永寺の造営により、上野不忍池付近から現在地に移転しました。赤い立派な山門と鉄筋コンクリート造のモダンな本堂が印象的ですが、これは昭和四十四年(1969年)に建て替えられたものです。
二葉家と満光寺の関係を記した案内板が立っています。
上野二葉家と満光寺
満光寺は浄土宗の寺院で、二葉山尾久院と号する。もと、天台宗で室町時代の創建と伝える。浄土宗寺院としての開山は智天上人(慶長二十年没)、開基は上野二葉村(坂本村・現台東区)名主二葉和泉守。上野不忍池の付近にあったものが、寛永寺の造営で、現在地に移転したという。永和元年(1375年)銘をはじめ、天文年間(1532年〜1555年)にいたる六基の板碑や、二基の庚申塔を有する。また、紙本着色山越阿弥陀図、元禄十年(1697年)銘の木造智天上人坐像、満光寺文書などを所蔵。境内には二葉地蔵、二羽稲荷など、二葉家所縁のものが多い。木造閻魔坐像は二葉閻魔とも呼ばれ、頭部の内側に「元禄十六年未七月」の銘がある。
Ueno Futaba Family and Manko-ji Temple
Manko-ji Temple belongs to the Jodo sect and is called Futabasan Ogu-in. It is said that the temple originally belonged to the Tendai sect and was founded in the Muromachi period. Manko-ji Temple was founded by Chiten Shonin (died in 1615) as a
temple of the Jodo sect and kaiki (founding patron) was Futaba Izumikami, who was the village head of Ueno Futaba Village (Sakamoto Village, present-day Taito City). It is said that the temple used be located near Ueno Shinobazu Pond but was moved to the
current location due to the construction of Kan'ei-ji Temple. On the temple grounds, there are six Itabi steles made from 1532 to 1555 and two koshinto stupas, as well as many things related to the Futaba family such as Futaba Jizo and Futaba Inari Shrine.
案内板の横の祠に、二葉地蔵尊が祀られています。
満光寺は、明治時代の初期に華蔵院に場所借りをして開校していた上尾久村初の小学校「私立田辺小学校」が明治十五年(1882年)に満光寺に分校を開校し、後に「私立井上小学校」と改称し、田辺小学校と並んで現在の尾久小学校の前身となったことでも知られています。
私立井上小学校跡(満光寺)
下尾久村で初めての小学校が、明治十五年(1882年)、この地(当時の北豊島郡下尾久村九百二十七番地)に開校した。田辺勗が設立した「私立田辺小学校分校」である。明治十九年(1886年)一月、廃校となるが、この年、山口県から上京した井上孫次郎氏によって、同年三月、「私立井上小学校」が新たに誕生した。井上氏は校主と教員を兼ね、下尾久村の教育の発展に尽力したという。明治三十二年(1899年)までの存続が確認されているが、その後の経緯は不詳。この先の阿遮院に井上氏の墓がある。
Former Site of the Private Inoue Elementary School (Manko-ji Temple)
The first elementary school in Shimo'ogu Village opened here in 1882. It was a private school named "Tanabe Elementary School Branch" established by Tanabe Tsutomu. Although it was closed in March 1886, Inoue Magojiro opened a new private school named "Inoue Elementary School" in the same month. Inoue doubled as owner and teacher. He was
instrumental in the development of education in Shimo'ogu Village.
境内の左手には、二羽稲荷大明神と二葉閻魔大王が祀られています。稲荷のみ「葉」ではなく「羽」の字が使われていますが、2枚の羽が組み合わさった満光寺の寺紋「違い鷹の羽」に通じているようです。
境内には、永和元年(1375年)銘や天文年間(1532年〜1555年)銘の6基の板碑と2基の庚申塔があります。板碑とは、故人の供養のための石造りの卒塔婆のことです。鎌倉時代から江戸時代にかけ、主に関東・東北地方で作られました。
満光寺からDコースの折り返し点である明治通りの冠新道入口交差点に向かいます。「冠新道」は、明治通りの冠新道入り口交差点から直進して東北本線のガード手前までの区間の道路の愛称です。奇妙な名前ですが、これは、大正初期に冠という方が提供した土地に作られた道路ということに因んでいます。通りに沿って「冠新道商興会」という商店街が延びています。
冠新道入口交差点から折り返した直ぐのところに、「消防道路」という石碑が建っています。碑文は読み取れませんが、現在の防災通りは、戦時中に空襲による延焼防止を目的に建物を強制疎開させて造られた疎開道路の跡地を整備したものです。昭和四十八年(1973年)に地元で「消防道路」という名称になり、平成二十四年(2012年)に荒川区が「尾久の原防災通り」と命名しました。
荒川線の軌道を渡った先の路地奥にある慈眼寺に向かいます。
- ポイント8 慈眼寺
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慈眼寺は真言宗豊山派の寺院で、慶長三年(1598年)に開山しました。本尊の朝日薬師如来は、眼病が治ったり、授乳が止まり困っていた産婦の乳の出が良くなった等のご利益があるといわれ、地元の人々に崇敬されました。
朝日薬師(慈眼寺)
縁起によれば、同薬師は、眼病や産婦の乳の出が良くなるなどに効き目があり、村人の崇敬を集めていたという。別当は慈眼寺。医王山普門院と号し、真言宗豊山派で、慶長三年(1598年)の開創と伝える。「新編武蔵風土記稿」によれば、江戸時代、稲荷社二社を管理していた。もと、北方の町屋第二児童公園付近に所在。明治六年朝日薬師の地(現在地)に移転し、再興された。境内には、寛文三年(1663年)銘および延宝六年(1678年)の如意輪観音を刻した石塔ほか、多数の石造物がある。
如意輪観音を刻した石塔は見付けられませんでしたが、アンパンマンとピカチューの石像があります。合同供養塔の上に置かれた石像がそうだったのかな?
慈眼寺からぬりえ美術館に向かいます。
- ポイント9 ぬりえ美術館
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日本で唯一のぬり絵専門の美術館である「ぬりえ美術館」は、昭和二十〜三十年代に大きな瞳と優しい表情が特徴のぽっちゃりした女の子の絵で人気を博した「きいちのぬりえ」の画家蔦谷喜一の姪にあたる金子マサ氏により、ぬりえを文化として保存するために平成十四年(2002年)8月に開館しました。館内には「きいちのぬりえ」のほか、戦前や海外のぬり絵なども展示されていて、年2回の企画展も開催してきました。
蔦谷喜一は京橋の裕福な紙問屋に生まれ、幼い頃から人物画を好んで描きました。1940年に「フジヲ」の名で塗り絵の仕事を始めました。1947年から本名の「きいち」を名乗り、「きいちのぬりえ」の名で人気を博しました。ブームが去った1965年ごろからは美人画を描き、1978年に銀座で開いた展覧会をきっかけに再び脚光を浴びました。生涯に残した作品は2万点に上るといわれています。
しかしながら、約20年に亘って運営してきた「ぬりえ美術館」でしたが、2022年10月30日に閉館しました。2024年11月に再訪した時は看板は外され、壁にはタイルが貼られていました。
ゴール地点の原公園に戻ってきました。
ということで、荒川区で四番目の「D.尾久の原公園ルート」を歩き終えました。次は荒川区で五番目のコースである「E.歴史と文化のルート」を歩きます。
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