- E.歴史と文化のルート
- コース 踏破記
- 今日は荒川区の「E.歴史と文化のルート」を歩きます。荒川区立日暮里南公園をスタート地点として、日暮里繊維街を経て、日暮里の寺町を巡ります。最初に歩いたのは2022年の1月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年11月に改めて歩きました。
E.歴史と文化のルート
コースの概要
区立日暮里南公園を起点・終点とし、日暮里地区を周遊する一周約3.9kmのルートです。様々な生地織物店が立ち並ぶ日暮里繊維街、区の拠点地区として整備している「ひぐらしの里」、歴史ある寺社などを巡る歴史と文化が盛りだくさんのルートを楽しく歩き、健康づくりをしましょう。
「E.歴史と文化のルート」の歩行距離は約3.9km(約5、571歩)、歩行時間は約59分、消費カロリーは約177Kcalです。
スタート地点:荒川区立日暮里南公園
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- ポイント1 夕焼け小焼けの記念碑
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誰もが口ずさんだことのある童謡「夕焼け小焼け」。この詩は、童謡詩人・中村雨紅(1897年〜1972年)が大正五年(1916年)に第二日暮里小学校(現在)へ教師として赴任、そして第三日暮里小学校(現在)へ転勤した後の大正八年(1919年)に作詞した作品です。荒川区立第二日暮里小学校には、この童謡にちなんだ記念碑があります。
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- ポイント2 日暮里繊維街
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道路の両側約1kmにわたって生地織物の店が軒を連ねています。日暮里繊維街では、和装、洋装、紳士・婦人服地、繊維製品、服飾関連の小物や付属品など、生地織物に関するあらゆる物を取り扱っています。また、日暮里繊維街の名を全国にアピールするため、デザインコンテストを兼ねたファッションショーが毎年開催されています。
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- ポイント3 高村光太郎記念碑
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荒川区立第一日暮里小学校校門前に石碑とフクロウの像があります。同校創立百周年の際に造られたもので、石碑「正直親切」は同校卒業の高村光太郎直筆によるものです。
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- ポイント4 富士見坂
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日暮里の富士見坂から実際に美しい富士山の姿が見られることから、「関東の富士見百景」に選定されています。秋から冬の空気が澄んでいる晴れた日が見頃です。
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- ポイント5 夕やけだんだん
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買い物客で賑わう谷中銀座商店街に通じる階段は「夕やけだんだん」と呼ばれています。この一風変わった名称は、一般公募によって命名されました。名前のとおり、この階段からは美しい夕焼けを眺めることができます。「夕やけだんだん」の下に広がる商店街の明かりやそこに集まる人々。どこか懐かしい気持ちにしてくれます。
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- ポイント6 下御隠殿橋・トレインミュージアム
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日暮里駅の東西を結ぶ跨線橋の下御隠殿橋。この橋の中ほどには、トレインミュージアムと呼ばれるバルコニーが設置されています。ここからは、その名のとおり、数多くの列車の通過を見ることができます。JRの新幹線や特急列車を始め京成線など、1日に20種類、約2、500本の列車が行き交います。
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ゴール地点:荒川区立日暮里南公園
スタート地点の荒川区立日暮里南公園から歩き始めます。日暮里南公園は日暮里駅から徒歩10分のところにあり、大きな広場や遊具のあることから、多くの人に親しまれています。園内には、噴水広場・芝生広場・ふれあい広場・ちびっこ広場と大きく4つの広場に分けられます。園内には常緑樹や四季折々の草花が溢れ、緑がとても豊かな公園です。春にはたくさんの桜が咲き、絶好のお花見スポットになります。アスレチックもあるので、子ども連れでも楽しめます。園内に彫刻が多いのも特徴のひとつで、子どもが喜びそうなユーモラスな作品もあります。また、8月の第3週目の土・日には盆踊り大会が開催され、多くの人で賑わいます。
噴水広場は、建設省(現在の国土交通省)により大臣表彰され、「小さなふれあい広場三十選」の「手づくり郷土(ふるさと)賞」を受賞しました。
- ポイント1 夕焼け小焼けの記念碑
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日暮里の繊維街通り沿いにある荒川区立第二日暮里小学校は、この地で100年以上もの間地域の人々に親しまれている伝統校です。元々あった日暮里地区の寺子屋から、最初に第一日暮里小学校(当時は日暮尋常高等小学校)ができ、明治二十四年(1891年)の11月にその分教場として第二日暮里小学校が誕生しました。令和6年(2024年)は、創立115周年になります。
繊維通りに面した植え込みの一角に「夕焼けこやけの石碑」があり、学校のシンボルになっています。この歌の作詞者の中村雨紅が教師を務めていたという関係で、第二日暮里小学校は「夕焼けこやけの発祥の学校」と言われています。校長室には、中村雨紅直筆の歌詞が掲げられています。
ゆうやけこやけ
ゆうやけこやけでひがくれて
やまのおてらのかねがなる
おててつないでみなかえろ
からすといっしょにかえりましょう
こどもがかえったあとからは
まるいおおきなおつきさま
ことりがゆめをみるころは
そらにはきらきらきんのほし
日暮里繊維街を進みます。
- ポイント2 日暮里繊維街
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日暮里繊維街は、大正から昭和の終わり頃までは問屋街として地方の専門業者に卸売りをするお店が建ち並ぶ街でしたが、時代の変化と共に小売り対応するお店が増えてきました。現在、日暮里駅から日暮里中央通りを中心に両側約1kmに亘って約90店舗(約60社)の生地織物の店が軒を連ね、ファッション・手芸・ものづくりを楽しむ人達(デザイナー・アパレルメーカー・作家・学生など)が材料を探しに訪れています。メインの通りである日暮里中央通りには、和装・洋装・紳士婦人服地・繊維製品・服飾関連の小物から付属品に至るまでファッションや手芸に関する全てのものを取り揃えた品揃え豊富なお店が並んでいます。また、繊維資材を中心に革・付属・ボタン・型紙・縫製・アクセサリー等の様々な専門店が増えてきています。メイン通りから外れた裏路地や建物2階にある「裏にっぽり」・尾竹橋通りを越えた「奥にっぽり」などにも1軒1軒の品揃えが異なる面白い素材を揃えたお店があります。近年では海外の人も多く訪れ、国内だけでなく世界中の人達から注目を集めています。
「TOMATO」は、トマト本館・インテリア館・アーチ館・ノーション館・セレクト館の5店舗を展開し、日暮里繊維街の中でも一番規模が大きなお店です。一番人が群がってるのは、1m100円の生地のコーナーです。
ボタン専門店もあります。私はここでオーバーのボタンを買いました。あまりに種類が多く、選ぶのに苦労しました。ハギレのお店では。使い方次第で化ける掘り出し物が見付かるかも。
日暮里繊維街から高村光太郎記念碑に向かいます。尾久橋通りの西日暮里二丁目交差点の先で左折し、路地に入ります。常磐線の踏切を渡り、京成本線の高架下を潜ってそのまま進みますと、西日暮里駅に出ます。駅前の飲食店が建並ぶ一角に、1971年創業の老舗スペイン料理専門店の「アルハムブラ」というお店があります。本格的なスペイン料理と圧巻のフラメンコライブショーが楽しめ、国内外の有名なダンサーやアーティストがステージに登場します。スペインの下町をモチーフにした広々とした店内には、ショーを観ながらお食事を楽しめる席のほかに、落ち着いた雰囲気のカウンター席とテーブル席もあります。自慢のパエリアを始め、プリプリ海老やジューシーな若鶏を使用したアヒージョや蟹とアボカドのサラダなど、多彩なスペイン料理を味わえます。
西日暮里駅西口の脇から線路沿いに、諏訪台地にある西日暮里公園の石塀に沿って南に上がる坂があります。間の坂(あいのさか)は。長さは約100mほどで、坂上近くで右方向に直角に曲がっています。
坂上の右手に西日暮里公園があります。この場所には、かって旧加賀藩の前田家墓地がありました。
青雲寺境内と前田家墓地
かつてこの地には、太田道灌の砦に荷を運んでいた舟人が目印にしたという舟繋松があり、荒川(現隅田川)の雄大な流れ、筑波・日光山の山影を望むことができる景勝地として、多くの人びとが訪れた。花見寺の一つ青雲寺(西日暮里三丁目六番)の境内の一部で、金毘羅社なども祀られていた。明治七年(1874年)、この一帯が旧加賀藩前田家に売却され、同家墓地となった。前田家十二代当主の斉泰から四代にわたって神式の墓地として使われたが、昭和四十七年(1972年)に国許の金沢(石川県)に改葬され、翌四十八年、その跡地にこの西日暮里公園が開設された。なお、この地にあった日暮里舟繋松の碑や滝沢馬琴筆塚の碑などは、現在の青雲寺本堂前に移されている。
Precincts of Seiun-ji Temple and the Maeda Family Graveyard
There used be Funa-tsunagi-no-matsu here, that is said to be a landmark pine tree as a guide for boatmen delivering goods to the fortification built by the military commander Ota Dokan in the 15th century. The site was formerly part of the precincts of Seiun-ji Temple, one of the temples known as Hanami-dera (Flower-viewing Temple), mainly located at the foot of the height. The views of the Arakawa River (now Sumida River) and the distant Mt. Tsukuba and Nikko mountains attracted many sightseers.
In 1874 the land was sold to Maeda family, ex-lord of Kaga Domain. It was used as the family's Shinto graveyard from the time of the 12th through the 15th head of the family, but in 1972 it was transferred to the Nodayama Cemetery in Kanazawa, Ishikawa Prefecture. And the following year the former graveyard became Arakawa City Nishi-Nippori Park. A number of steles that stood on this site, including the one commemorating the Nippori Funa-tsunagi-no-matsu and Takizawa Bakin's Brush Mound Stele were moved to the site in front of the main hall of Seiun-ji Temple.
園内には、大きなパネルが置かれています。
各パネルには、かっての道灌山の様子が記されています。
道灌山
道灌山は、上野から飛鳥山へと続く台地上に位置します。安政三年(1856年)の「根岸谷中日暮里豊島辺図」では、現在の西日暮里四丁目付近にその名が記されています。この公園を含む台地上にひろがる寺町あたりは、ひぐらしの里と呼ばれていました。道灌山の地名の由来として、中世、新堀(日暮里)の土豪、関道閑が屋敷を構えたとか、江戸城を築いた太田道灌が出城を造ったなどの伝承があります。ひぐらしの里は、江戸時代、人々が日の暮れるのも忘れて四季おりおりの景色を楽しんだところから、「新堀」に「日暮里」の文字をあてたといわれています。道灌山・ひぐらしの里は、荒川区内で最も古い歴史をもつ所です。このあたりから出土した土器や、貝塚・住居址などは、縄文時代から数千年にわたって人々の営みが続けられたことを物語っています。道灌山・ひぐらしの里は、江戸時代の中頃になると、人々の憩いの場として親しまれるようになりました。道灌山の大半は秋田藩主佐竹氏の抱屋敷になりますが、東の崖ぎわは人々の行楽地で、筑波・日光の山々などを展望できたといいます。また薬草が豊富で、多くの採集者が訪れました。ひぐらしの里では、寺社が競って庭園を造り、さながら台地全体が一大庭園のようでした。
さくら鯛より酒のさかなには
みどころ多き曰くらしの里 十返舍一九
雪見寺(浄光寺)・月見寺(本行寺)・花見寺(妙隆寺<現在は廃寺>・修性院・青雲寺)、諏訪台の花見、道灌山の虫聴きなど、長谷川雪旦や安藤広重ら著名な絵師の画題となり、今日にその作品が伝えられています。明治時代、正岡子規も道灌山・ひぐらしの里あたりをめぐり、「道灌山」という紀行文を著しました。
山も無き武蔵野の原をながめけり
車立てたる道灌山の上 子規
昭和四十八年、ここ西日暮里公園が開園し、区民の憩いの場となっています。
挿絵は、安藤広重画(安政年間【1854年〜1859年】)の「江戸百景」です。
江戸時代から明治時代にかけて、道灌山は虫の鳴き声を聴く名所でした。
道灌山虫聴
江戸時代から明治時代にかけて、道灌山は虫聴きの名所でした。「江戸名所花暦」(文政十年【1827年】刊行、文は岡山鳥で、絵は長谷川雪旦)には、つぎのように書かれています。
虫
「道灌山 日暮より王子への道筋、飛鳥山の続なり。むかし太田道灌出城の跡なりといふ。くさくさの虫ありて、人まつ虫のなきいつれはふりいて、なく鈴虫に、馬追ひ虫、轡虫のかしましきあり。おのおのその音いろを聞んとて、袂すゝしき秋風の夕暮より、人人是にあつまれり。また麻布広尾の原、牛嶋もよし。」
虫聴きの名所は、道灌山が最も有名で、とくに松虫が多く、澄んだ音色が聞けたといいます。このほか、真崎(南千住の白鬚橋たもと)、隅田川東岸(牛島神社あたり)、三河島辺(荒木田の原あたり)、王子・飛鳥山辺、麻布広尾の原が虫聴きの名所でした。
「東都歳事記」によれば、旧暦七月の末、夏の終わりから秋の初めにかけて、「虫聴」がさかんだったと記されています。道灌山虫聴の絵は、雪旦、安藤広重、尾形月耕が描いた三種類があります。広重の絵は公園入口脇に模写したものがあります。尾形月耕は、明治期に活躍した画家で、岡倉天心らとともに、美術界発展に尽くした人です。新聞の口絵・さし絵が有名でした。この絵は、道灌山に月が昇る頃、中腹にむしろを敷き、虫かごに虫を入れて鳴かせ、たくさんの虫に音色を催促しています。坂を上ってくる女性が足音をしのばせている姿もほほえましく感じます。この絵は、明治末頃の作と思われますが、秋の夜長に涼を求めて、老若男女がここに集まり、自然の美しさ、すばらしさを楽しんでいたのです。
挿絵は、「大日本名所図会」尾形月耕画の「道灌山虫聴」です。
道灌山の松の木は、船人の目印になっていたそうです。
道灌船繋松
道灌船繋松のことは、「江戸名所図会」(天保七年【1836年】刊、斉藤幸雄、幸孝、幸成[月岑]の三代三人が文章を書き、長谷川雪旦が絵を描く)にくわしく書かれています。
「青雲寺の境内、涯に臨みうっそうとしてそびえたり。往古は二株ありしが、一株は往んじ安永元年の秋大風に吹き折れて、今は一木のみ残れり。(中略)或人云く、往昔このふもとは豊島川に続きし入江にて、道灌の砦城ありし頃は、米穀その外すべて運送の船より、この松を目当にせしものにて、つなぐといふもあながち繋ぎとどむるの義にはあらず、これは舟人の詞にして、つなぐといふは目的にするなどいえるに同じ心とぞ。よってその後道灌山の船繋の松と称して、はるかにこの所の松を目当にせしを誤りて、道灌船の松と唱ふるとぞ。」
「道灌船繋松」は、日光山の直ぐ下に「舟つなき松」として描かれています。確かに目印にはなりますね。
日暮里惣図
長谷川雪旦は、「日暮里惣図」と題し、この地域を七枚の絵に描いています。道灌山から諏方神社、浄光寺、養福寺、本行寺まで、当時の様子がわかります。道灌船繋松は、この絵の中で台地上に高くそびえています。安永元年(1772年)の秋大風のため一本が折れ、残り一本になってしまったようです。この松をなつかしんで、「日暮里繋舟松之碑」が道灌山に建てられましたが、現在は、青雲寺本堂脇に移されています。建碑の年月はわかっていません。天明五年(1785年)に鳥居清長の描いた墨版「画本物見岡」の「日暮里青雲寺境内」の絵に、この石碑を眺めている人たちの姿がみられることから、石碑は、安永元年から天明五年までの十三年間に建てられたことがわかります。道灌山の船繋松は、ここのシンボルであり、近在の人たちに親しまれ、大切にされていました。
挿絵は、「江戸名所図会」長谷川雪旦画の「日暮里惣図」です。
園内には松の巨木がありますが、船繋松の子孫でしょうか?
西日暮里公園の直ぐ先に、荒川区立第一日暮里小学校があります。
- ポイント3 高村光太郎記念碑
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校門の前には、フクロウの像と石碑が建っています。これらは第一日暮里小学校の創立百周年の際に造られたもので、石碑「正直親切」は卒業生の高村光太郎による直筆の揮毫です。第一日暮里小学校の卒業生には、高村光太郎の他に女優の芦田愛菜さんや池波志乃さんもいます。
創立百周年記念
高村光太郎書「正直親切」の記念碑
「正直親切」の文字は、本校卒業生である高村光太郎の直筆で、昭和二十六年岩手県山口小学校の児童のためにかかれたものを、高村規氏、財団法人高村記念会のご好意により、創立百周年記念碑に使わせていただきました。高村光太郎は、明治二十三年に、下谷正練塀小学校から日暮里小学校(当時は、現在の福祉館の場所に校舎がありました)に転校、ここで勉強し小学校を卒業しました。その後、彫刻家として、すぐれた作品をつくり、また、詩や絵もかき、立派な書を数多く残しています。ここで大切なのは、それらの作品を通して、光太郎が、人を愛し、自然を愛する人間としての生き方を教えていることです。先輩光太郎が、心をこめてかいた「正直親切」の文字が、母校に学ぶ児童一人ひとりの心のなかに、いつまでも生き、その成長を支えることを望みます。
「フクロウ」の像は、石彫家飯田雅光氏の作で、本校校歌にもある”諏訪の森かげ、みどりの風に”ふさわしい《森の知者》として、一日小の子どもたちのシンボルとなり、永く親しまれることを願っています。
フクロウの像の土台には、高村光太郎直筆の「君たちに」と題するプレートが貼られています。
君たちに
君たちに手渡す 百年
君たちが築く 未来
いっしょに此処で語り合おう
あしたの世界を
限りない時の流れのなかで
百年はまたたく間だが
ここで無限の夢をはぐくんだ
万余の仲間たちがいる
その仲間たちの思いをこめて
いま二十一世紀を歩む
君たちに願う
自分に 正直であれ
人には 親切であれと
高村光太郎記念碑から富士見坂に向かいます。
- ポイント4 富士見坂
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富士見坂は長さが約120mほどのかなり傾斜のきつい坂で、花見坂・妙隆寺坂とも呼ばれています。坂上から富士山を望むことができたためにこの坂名が付けられました。東京には16カ所の“富士見坂”があるといわれています。しかし、高層ビルの建設などにより、実際に富士山が見られる坂は、この「日暮里の富士見坂」と「大塚の富士見坂」の2ケ所のみとなりました。更に、2013年に建てられたマンションによって日暮里の富士見坂からも富士山は見えなくなってしまいました。大塚の富士見坂からの眺望も富士山の全体は見れず、左半分だけとなっています。
富士見坂
坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺(修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と呼ばれたことから、この坂も通称「花見坂」、または「妙隆寺坂」と称された。都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、現在でも富士山を望むことができる坂である。
都心にいくつかある富士見坂のうち、最近まで地上から富士山が見える坂でした。「関東の富士見百景」にも選ばれています。
Fujimi-zaka Slope
The area of this slope was originally inside the precincts of Myoryu-ji Temple (Nichiren sect, later merged with Shusho-in Temple). Myoryu-ji Temple was known as
Hanami-dera (Flower-viewing Temple). Thus the slope was also known as Hanami-zaka and/or Myoryu-ji-zaka. This is the last one of Fujimi-zaka slopes in the heart of Tokyo where we can view Mt. Fuji from the top of the slope until recently. It
was selected as one of the Kanto Region Hundred Views of Mt. Fuji in 2005.
この富士見坂から眺める富士山は時代と共に見え方は変わっていましたが、2000年まではビルの合間に富士山のほぼ全景が望めました。しかし、2000年の暮れに新築されたマンションによって、富士山の左下部分が隠れて見えなくなってしまいました。更に、2013年6月に建てられたマンションによって富士山は完全に視界から消えてしまったのです。
現在は富士山は全く見えません。
坂道の途中には、様々な時点で撮られた富士山の写真がパネルに貼られています。その中には、このような過去から引き継がれてきた眺望が失われないように呼びかけるパネルもあります。このままではいずれ“富士山の見えない富士見坂”になってしまうと危機感を持った地元民たちが「日暮里富士見坂を守る会」を結成して景観保存運動に乗り出したのです。残念ながらマンション建設を止めることは出来ず、富士見坂は富士山の見えない坂になってしまいました。
荒川区が取り組む 眺望保全の呼びかけ
古来から富士山は、我が国を象徴する山として誰からも愛されてきました。現在、都心部には16箇所の富士見坂と呼ばれる坂があり、この中で唯一名前の通り富士山を眺望できる場所は、日暮里富士見坂だけです。日暮里富士見坂は、平成十六年に国土交通省より「関東富士見100景」に選ばれ、「東京富士見坂」として選定されるなど、荒川区のみならず、東京都の貴重な歴史的風景遺産として、将来に引き継いでいくことが大変重要なことであると認識しております。また、平成二十四年5月には、イコモス(国際記念物遺跡会議)から、荒川区をはじめ、新宿区、台東区、文京区、豊島区及び東京都に対し、日暮里富士見坂からの眺望の保全に関する要請書が送付されました。荒川区としては、このイコモスの決議を重く受け止めているところであります。こうした中、日暮里の富士見坂から富士山を望むビスタライン上の関係者の皆様には、この主旨を御理解のうえ、建築計画にあたっては、是非とも、御協力をお願い申し上げます。
平成二十五年(2013年)6月発行「眺望保全パンフレット」より 荒川区長 西川太一郎
富士見坂の直ぐ先に、諏訪神社があります。
諏方神社
信濃国(長野県)上諏訪社と同じ建御名方命を祀る。当社の縁起によると、元久二年(1205年)、豊島左衛門尉経泰の造営と伝える。江戸時代、三代将軍徳川家光に社領五石を安堵され、日暮里・谷中の総鎮守として広く信仰をあつめた。旧暦七月二十七日の祭礼では、囃屋台・山車をひきまわし神輿渡御が行われた。神田芋洗橋までかつぎ、そこから船で浅草・隅田川を経て、荒木田の郷で御神酒をそなえて帰座したと伝えている。拝殿の脇には元禄十二年(1699年)銘・元禄十四年(1701年)銘の灯籠型の庚申塔が並んで建てられている。
Suwa-jinja Shrine
Suwa-jinja Shrine enshrines Takeminakata-no-Mikoto, same as the one of Kami-Suwa-sha Shrine in Shinano Province (present-day Nagano Prefecture), and was built by Toshima Tsuneyasu in 1205. It was a collective tutelary shrine of Nippori and Yanaka according to the written account of the shrine. A festival formerly held on July 27 of the lunisolar calendar involved a procession of floats and mikoshi portable shrines. The mikoshi were carried as far as Imoarai-bashi Bridge (now Shohei-bashi Bridge, in Sotokanda 1-chome, Chiyoda City), then placed on boats and taken down the Kanda River and up the Sumida River via Asakusa, to Arakida-no-Go (now Machiya 7-chome, Arakawa City), where sake was offered up to them, before returning to Suwa-jinja.
神楽殿には源為朝公を模した人形があるそうですが、見ることはできませんでした。
源為朝公の山車
この人形は山車にしつらえ御輿と共に巡行したもので、平安時代末期武勇に猛けた「源為朝」鎮西八郎為朝公を擬してある。製作年は安政(1854年〜1860年)とあるが作者は現在不詳。当時の日暮里諏方様の山車は、江戸の中でも有名であり且格式の高いものであった。特に日清戦勝の祝賀会が皇居前広場で行われた時、東京中の山車が勢揃した。その勢揃の順位が三番目、道中鳶頭連中が木遣りと芸者の手古舞を、二頭の牛車が引いて参列し絢を競ったといわれる。明治の終わり頃迄は本祭りのたびに牛と子供連中に曳せたが、その後土地の発展に従い電線等により不可能となり、氏子有志が組織した「祖崇会」が維持管理し人形だけ飾った。戦後からそれが自然と消滅して、人形は倉庫の中に保管したがその痛みが激しく、このままでは朽ち惜しいということで、金子正男・工藤三郎両氏相計い昔日の姿に復元したものである。
諏訪神社の隣には、江戸時代まで諏訪神社の別当寺だった浄光寺があります。浄光寺に鎮座する地蔵菩薩は正確には「江戸東部六地蔵」のひとつです。江戸東部六地蔵は空無上人が勧化した江戸東部の六地蔵のことで、江戸深川の地蔵坊正元が宝永三年(1706年)に発願して江戸市中から広く寄進者を得て江戸の街道出入口6箇所に造立した丈六の地蔵菩薩坐像とは異なります。ちなみに、現存する江戸東部六地蔵は浄光寺の他には千駄木の専念寺のみになっています。「将軍腰かけの石」は本堂の裏手にあったようで、見逃しました。
江戸六地蔵と雪見寺(浄光寺)
山門をくぐって左手に、高さ一丈(約3メートル)の銅造地蔵菩薩がある。元禄四年(1691年)、空無上人の勧化により江戸東部六か所に六地蔵として開眼された。もと門のかたわらの地蔵堂に安置されていたもので門前は「地蔵前」ともよばれる。浄光寺は、真言宗豊山派の寺院。法輪山法幢院と称し、江戸時代までは諏方神社の別当寺であった。元文二年(1737年)、八代将軍吉宗が鷹狩の際にお成りになり、同五年以降御膳所となった。境内に「将軍腰かけの石」がある。眺望にすぐれた諏訪台上にあり、特に雪景色がすば
らしいというので「雪見寺」ともよばれた。
The Six Jizo Bosatsu Statues of Edo and Yukimi-dera (Joko-ji Temple)
On your left as you pass through the main gate is a bronze statue of Jizo Bosatsu (Ksitigarbha Bodhisattva) around 3 meters tall. This is one of the Six Jizo Bosatsu Statues of Edo, which the monk Kumu collected donations to pay for and erected at six locations in eastern Edo in the 17th century. The Joko-ji is a temple of Buzan denomination of Shingon sect, also known as Horin-zan Hodo-in, and was responsible for the management of Suwa-jinja Shrine through the Edo period. From the 18th century, it was used by the Shogun as a resting spot during hawking trips. A stone on which Shogun have sat remains in the grounds. Joko-ji Temple is one of those temples featuring 'snow, moon, flowers' in Higurashi-no-Sato (Nippori); It was called Yukimi-dera (Snow-viewing Temple) because of its fine snowscape.
江戸六地蔵と比べますと、浄光寺の地蔵様は随分と小柄に見えます。
荒川区指定 有形文化財・彫刻
銅造地蔵菩薩座像
銅造地蔵菩薩坐像は、江戸の鋳物師として有名な西村和泉守の作で、像本体は文化六年(1809年)に造立された。願主は神田の町人足利屋勘七の母「浄仙」で、台座には願主を含め277名の戒名や俗名が刻まれている。台座には文化十年の銘があり、鋳造年代が像本体と異なることがわかる。浄光寺は地蔵信仰の寺院として知られ、本像の隣に、元禄四年(1691年)造立の江戸六地蔵の一つ、銅造地蔵菩薩立像(区指定有形文化財・彫刻)も安置されている。
富士見坂に戻り、坂を下って行きます。坂下の右側には谷中七福神の布袋尊を祀る修性院があります。
日ぐらしの布袋(修性院)
修性院の布袋は、谷中七福神の一つで、「日ぐらしの布袋」ともよばれる。谷中七福神めぐりは、江戸市中で最も古い歴史をもち、年始めにあたって江戸市民が行う年中行事の一つであった。江戸時代の中期ごろから、このあたり一帯は俗に「ひぐらしの里」とよばれ、江戸近郊の行楽地として賑わった。ことに修性院・妙隆寺(修性院に合併)・青雲寺は、境内に多数の花樹を植えて、「花見寺」の名にふさわしい庭園をつくり、四季折々の草花を楽しむことができたという。境内には、江戸時代の儒者・日尾荊山衣(巾に責:サク)碑がある。
Higurashi-no-Hotei and Hanami-dera (Shusho-in Temple)
Higurashi-no-Hotei at Shusho-in Temple is one of the Yanaka Shichi-fuku-jin (a group of Seven Deities of Good Fortune). Pilgrimage to the Yanaka Shichi-fuku-jin was known to be the oldest in Edo, and was one of annual customs among the citizens of Edo at the New Year, and is still observed. From the 18th century, this area was known as Higurashi-no-Sato, and was a popular excursion destination in the environs of Edo.
The grounds of Shusho-in, Myoryu-ji (now merged with Shusho-in) and Seiun-ji temples
had gardens planted with many flowering trees and shrubs, which earned them all the name Hanami-dera (Flower-viewing Temple). Visitors flocked here to enjoy many seasonal flowers and the many literary steles. Nippori Shusho-in Keidai no Zu, Toto Meisho (nishiki-e, brocade picture)
お寺の壁にはふくよかな布袋様が描かれています。
修性院から谷中銀座に続く小路は「六阿弥陀道」と呼ばれています。この道標は、平成四年に南泉寺が設置したものだそうです。
南泉寺は、元和二年(1616年)に大愚宗築によって開山されました。大奥老女岡野の口添えにより、3、294坪の土地を境内地として幕府から与えられ、その後、岡野の遺言により30石の寄進を受けました。宝永元年(1708年)、旗本の明知遠山氏五代の遠山伊清は、戦国時代末期の天正十一年(1583年)に森長可によって磔刑に処せられた阿子姫(遠山一行の娘)と二人の老女の供養のためとして境内に「息心庵」を建立し、永代供養料として毎年米3俵を寄進しました。
美濃遠山氏の聖観音(南泉寺)
山号を瑞応山と称する臨済宗妙心寺派の寺。元和二年(1616年)、徳川家から境内3200余坪(約10、600平方メートル)を拝領し大愚が開創した。その後、将軍家光・家綱に仕えた老女岡野の遺言により貞享三年(1686年)、朱印地三十石を賜った。本堂内の木造聖観音立像は、美濃遠山氏の念持仏。厨子に遠山氏の家紋、「遠山家 息心菴本尊、正観音菩薩、安政四年丁巳星七月十日」の銘がある。上半身等に江戸時代の補修が加えられているが、鎌倉時代の作と推定される。その他、善光寺式阿弥陀三尊の一部と思われる銅造菩薩立像を所蔵。境内には、菅谷不動、講談師松林伯円の墓等がある。
The Sho-Kannon of Mino-Toyama clan (Nansen-ji Temple)
The Nansen-ji Temple, called Zuio-zan (by Sango), is of Rinzai Zen sect Myoshin-ji school. In 1616, the priest Taigu was bestowed the precincts of about 10,600 square meter by the Tokugawa Shogunate and reared the temple. In 1686, according to the will of late Okano (senior lady-in-waiting for the Shogun Iemitsu and letsuna Tokugawa), he was granted a 30-koku (a unit of crop yields) shuinchi (temple's estate). The wooden standing statue of Sho-Kannon was a nenjibutsu (a small statue for private worship) of the Mino-Toyama clan. The zushi (altar case) have inscriptions of Toyama's family crest and "The Toyama family, Sokushin-an Honzon (the principal image of Buddha), Sho-Kannon Bosatsu (Bodhisattva), July 10, 1857". The upper body and other parts were repaired in the Edo period, but it is estimated to be made in the Kamakura period. Also, the temple has a bronze standing statue of Bodhisattva, which is seemed to be a part of Zenko-ji type Amida Sanzon (Amida Triad). In the precincts, there are Sugatani Fudo (Acalanatha), tombs of a storyteller Hakuen Shorin and so on.
門前には、「東京都指定旧跡 初代二代松林伯円墓」碑があります。松林伯円は、幕末の講談師です。
南泉寺を進んだ先の右手に谷中銀座商店街が延びています。谷中銀座商店街は、風情ある建物や街並みが人気で、国内外から観光客が訪れています。谷中銀座商店街の通りの長さは170mほどで、約70もの多彩なお店が立ち並び、街歩きをじっくり楽しむことができます。
谷中銀座は猫の街だそうで、猫グッズ専門のお店もあります。
- ポイント5 夕やけだんだん
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谷中銀座商店街の向かいに、「夕やけだんだん」があります。夕焼けだんだんは長さ約30mほどの石段で、かなりな急階段になっています。坂名は、公募により谷中に居住する地元民の応募した名前が採用されました。階段上から眺められる夕焼けの美しさと、下町情緒が感じられる名前ということがその理由です。坂下には、2枚の板を打ちつけて「夕やけだんだん」と書かれた素朴な標識があります。
階段の上からは谷中の街並が一望できます。ビルに隠れていますが、雪を冠した富士山の頂上の片鱗が見えます。
夕やけだんだんのある一帯は、かって谷中初音町と呼ばれていました。谷中生姜発祥の地だそうです。
旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧谷中初音町三丁目
初音町という町名は、谷中初音町三丁目から四丁目にかけたところに鶯谷と呼ばれるところがあったことから、鷲の初音にちなんで付けられた。初音とは、その年に初めて鳴く鶯などの声のことである。谷中初音町は、はじめ一丁目から三丁目として誕生した。明治二年(1869年)のことである。四丁目ができたのは、それより少し遅い明治四年である。その後、谷中村、下駒込村、日暮里村の一部を合併して谷中初音町としての町域を確定したのは明治二十四年であった。谷中初音町三丁目は、慶安元年(1648年)に町屋が開設されてできた天王寺古門前町が改称された町である。むかし、この付近では生姜がつくられていた。次第に、その生姜は全国に広がり、いつしか「谷中生姜」とよばれるようになった 。
諏訪台通りの手前に、延命院があります。延命院は、江戸時代の享和年間に「延命院事件」と呼ばれる江戸中を騒がせる大事件の舞台となったことで知られています。この事件は、延命院の住職であった日潤の女犯事件で、相手に大奥の女中が含まれていたために、大奥を巻き込んだ一大スキャンダルになり、江戸中を揺るがせることとなりました。日潤は初代尾上菊五郎の子供であったと書かれている本もあり、男前であり、話も上手だったと言われています。そのために女性の信者に大変人気があり、大勢の女性信者が延命院に参詣するようになったことが事件の背景にありました。
七面大明神と延命院の大椎
日蓮宗の寺院で宝珠山と号する。開基は四代将軍徳川家綱の乳母三沢局。家綱出生の際に、安産を祈祷した慈照院日長が、三沢局の信施を受け、甲州(山梨県)身延山の七面大明神を勧請。慶安元年(1648年)、別当寺として延命院を開創したという。七面大明神には、胎内に慶安三年(1650年)法寿院日命が願主となり、仏師弥兵衛の手で作られたことを記した銘文がある。秘仏とされ、七面堂に祀られている。これにちなんで、門前から宗林寺(台東区)方面に下る坂は七面坂と呼ばれる。境内には、樹齢六百年を越えるといわれる大椎(都指定天然記念物)がある。
Shichimen Daimyojin and the Grand Chinquapin Tree of Emmei'in Temple
Emmei'in is a Nichiren Buddhist temple founded in 1648 by Misawa no Tsubone, the wet nurse of Tokugawa Ietsuna, 4th shogun of the Tokugawa Dynasty. A priest named Eshoin Nitcho prayed for a safe delivery when the shogun was born, and so Misawa no Tsubone made a donation to Eshoin and asked him to call upon and enshrine Shichimen Daimyojin (a guardian deity of the Lotus Sutra) from Mount Minobu in Koshu province (modern day
Yamanashi prefecture). In 1848, he established Enmei'in as a bettoji, a temple
attached to a Shinto shrine (normally temples and shrines are separate). On the inscription on the statue of Shichimen Daimyojin, it is stated that the statue's creation was ordered by Hojuin Nichimyo and sculpted by a priest named Yahe in 1650. The statue is ordinarily kept hidden from view and is enshrined in Shichimen-do Hall. The slope that runs in front of the gate towards Sorin-ji temple (Taito City) is called Shichimen-zaka Slope, named after this shrine. A large chinquapin tree (a designated Tokyo Metropolitan natural treasure stands on the premises and is said to be over 600 years old.
延命院の境内には、都指定天然記念物になっている樹齢600年以上にも及ぶ椎の大木が聳えています。
東京都指定天然記念物
延命院のシイ
延命院は慶安元年(1648年)、慈照院日長上人の開山による宝珠山延命院と号す日蓮宗の寺院です。天保七年(1836年)開板の「江戸名所図会」巻五の「日暮里惣図(ひぐらしのさとそうず)」には、現在地と思われる位置にシイの姿が描かれています。延命院は七面大明神を祀る江戸庶民の祈願所でもあり、たくさんの人々が参詣に訪れたといわれ、境内にあるシイも当時から地域の人々に親しまれた老樹であることが伺われます。安政二年(1855年)の江戸の大地震によって「江戸名所図会」に描かれた堂宇は倒壊してしまいましたが、延命院のシイは生き残り、現在に至るまで都市化の進む日暮里の姿を見つめ続けています。かつては樹高16.2m、幹周り5.5mの巨樹でしたが、平成十四年(2002年)五月に幹内部の腐朽が原因で南側の大枝が崩落し、安全のため現在の樹形に保っています。
Natural Monument (Plant)
Enmeiin no Shii
Enmei-in, which is formally called Houjyu-san Enmei-in, is a temple of the Nichiren sect. In Higurashinosatosouzu in the 5th volume of Edomeisyozue (an illustrated guide book in Edo period), the catanopsis tree, Castanopsis sieboldii (Makino) Hatus.ex T.Yamaz.et Mashiba, is shown in the location which is presumed to be the current place. Enmei-in has been known for Schimendaimyoujin (female god) and many people visited to pray there during Edo period. It seems that people also got familiar with this old tree on the temple ground. Although the shrine buildings, which are also shown in Edomeisyozukai, were destroyed by the big earthquake in 1855, the catanopsis tree at Enmei-in has survived and stands until today as if it was watching Nippori, where urbanization has been progressing. This giant tree was 16.2 m high and had 5.5 m trunk circumference, but a big branch on the south side fell down in 2002 due to decay in the trunk and the current form of the tree is preserved for safety.
諏訪台通りを越えた左手に経王寺があります。経王寺は、明暦元年(1655年)の創建で、大黒山と号しています。
大黒天 経王寺
経王寺は日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称す。明暦元年(1655年)、当地の豪農冠勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるという。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、地域の人々の崇敬を広くあつめている。慶応四年(1868年)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。
Daikokuten Kyoo-ji Temple
Kyoo-ji is a Nichiren Buddhist temple. It is said that Kammuri Katsuhei, a local wealthy farmer, leader of Nippori Village, and ancestor of the Kammuri Gonshiro family, donated land in 1655 for the priest Yosen'in Nikkei, and upon which the temple was built. A statue of Daikokuten (Mahakaala, one of the Seven Lucky Gods), is enshrined in Daikokudo Hall, located next to the main hall. Said to be the work of Nichiren, the statue has been venerated by the local people as a guardian deity.
The main gate is a designated tangible cultural property of Arakawa City. In 1868, the fleeing Shogitai troops took refuge at the temple until they came under fire from the Imperial Army at the Battle of Ueno. To this day, bullet holes in the gate remain as a result of the conflict.
境内の大黒堂には日蓮上人作という大黒天が祀られています。旧谷中七福神のひとつです。
慶応四年(1868年)の上野戦争に敗れた彰義隊士が経王寺に隠れたため、新政府の攻撃を受けました。天保七年(1836年)建立の山門には銃撃を受けた弾痕が今も残り、当時の激しさを今に伝えています。
経王寺の先に本行寺があります。
月見寺(本行寺)
本行寺は、大永六年(1526年)、江戸城内平河口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経て、宝永六年(1709年)、現在地に移転した。景勝の地であったことから通称「月見寺」ともよばれていた。二十世の日桓上人(俳号一瓢級)は多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶はしばしば当寺を訪れ、「青い田の、露をさかなや、ひとり酒」などの句を詠んでいる。儒学者市河寛斎・書家米庵父子や、幕末・維新期に活躍した永井尚志などの墓がある。戦国時代に太田道
灌が斥候台を築いたと伝える道灌物見塚があったが、現在は寛延三年(1750年)建碑の道灌丘碑のみ残る。
Tsukimi-dera (Hongyo-ji Temple)
Hongyo-ji Temple was reared in the early 16th century near the Hirakawa-guchi Gate within the Edo Castle. It moved to Kanda then to Yanaka in the 17th century and finally to the current location in 1709. It was famous for its fine views; it was commonly called Tsukimi-dera (Moon-viewing Temple). Nikkan (pen name Ippyo), the 20th chief priest of the temple, kept company with many haiku poets. Kobayashi Issa composed 'Aoi ta no tsuyu wo sakana ya hitorizake', one of his haikus based on his
frequenting the temple. It is said that there once was an observation post (Monomiuka) set up by the military commander Ota Dokan (who built the original Edo-Castle), and now commemorated by a stele erected in 1750. There are also graves in the precinct such as Ichikawa Kansai, a Confucianist, Beian (father and son), calligraphers, and Nagai Naoyuki, a statesman active during the late shogunate and the Meiji Restoration.
本行寺の由来を記したワープロの文書が山門の扉に貼り付けてあります。
長久山 本行寺の由来
本行寺は山号を長久山と称し、道灌山のつづき道灌丘に在り、月見寺とも呼ばれています。今より四百九十九年の昔、大永六年(1524年)に太田道灌公の孫、太田大和守資高公(天文十六年七月二十四日卒)によって武江城(江戸城)内平河口(現在の平河門、毎日新聞本社辺)に建立され、開山は明禅院日玄上人(永禄八年一月二十一日寂)で、太田家代々の菩提寺として帰依をうけた(宗派は日蓮宗に属している)。三代資高公は武州岩槻に居住し、北条氏綱の婿になって大永四年武江城内に移住した。その後、北条氏の勢力が増大し太田氏は何かにつけ圧迫され、そこで太田一族の勢力を道灌公の昔に返そうと計画したことが「寛政重修諸家譜」にみられます。それによると、「永禄六年の冬、資高の子康資は、弟資行を呼び家臣二十一人を武江城内の番神堂に集めて、北条氏康を討とうと謀議を巡らす。法恩寺の僧日匠が、北条氏の将、武江城代遠山直景に訴え、直景が康資を捕らえようとした時、本行寺の僧日玄が、ひそかに康資に告げて逃がした。」と記されています。命に及ぶところを日玄上人の力で危うく虎口を逃れ、房州里見氏を頼って落ち延びた。これより太田家は、日玄上人を徳として深く帰依したのである。よって本行寺も城内平河口に在ること八十年、慶長十年に神田に移って四十五年、慶安二年谷中清水町に移り六十一年間居て、その後宝永六年(1709年)に現在地の日暮里に移って三百十五年の歳月が経っております(令和六年現在)。頻繁に移転しているのは太田・北条・徳川と江戸における中心勢力移行の影響を受け当山も存続に苦心をしている事が窺えます。谷中清水町から移転したのは上野大仏殿建立によるもので、引料として当山へ六百九十一両、塔頭受泉坊に五十一両、同じく大乗院へ三十両が寺社奉行本多弾正より渡され、替地として1942坪を受けた事が記録に残っています(現在地)。当時の住職は十二世光勝院日忠上人でこの地を選ばれたのは、ここが太田道灌公ゆかりの地(道灌丘)であり道灌公が築いた砦跡(物見塚)あって、月見寺の名の通り高台で眺めも良く精舎建立にふさわしい処であったからです。また上人は、当山移転の大事業を完成し、本堂、書院、庫裡、番神堂、鐘楼、山門、宝塔、五十万部成就の塔、無縁塔などを建立されました。爾来、開山より約五百年の間、世の移り変わりにもかかわらず又、かの戦災にも焼けることなく、今日の隆盛を保っているのは、開山上人以来歴代先師のご遺徳と檀信徒先祖代々うけつがれてきた護持丹精の熱意によるものと感銘にたえません。
小林一茶も月見寺を度々訪れ、俳句を詠んだそうです。戦国時代に太田道灌が本行寺に斥候台を築いたと伝えられ、一茶は道灌物見塚を詠んで顕彰したのでしょう。
陽炎や
道灌どのの
物見塚
一茶
一茶の句碑の向かい側に種田山頭火の「ほっと 月がある 東京に来てゐる」の句碑があります。江戸時代に月見寺と呼ばれた本行寺ならではの句碑です。ちなみに、種田山頭火の句碑は東京では本行寺にしかないそうです。
太田道灌が築いたと伝えられる斥候台(道灌物見塚)は既になく、現在は寛延三年(1750年)建碑の道灌丘碑のみが残っています。
荒川区指定 有形文化財・歴史資料
道灌丘碑
長禄元年(1457年)、太田道灌(資長)が江戸城築城の際、眺めの良いこの地に「物見塚」という斥候台を造ったという。「江戸名所図会」の「日暮里惣図」によると、本行寺の境内裏手に「ものミ塚」があり、塚の脇にこの石碑が描かれている。本行寺は道灌の末裔とされる掛川藩主太田氏の菩提寺であり、寛延三年(1750年)に住職の日忠や太田氏にゆかりのある古屋孝長、四宮成煥らが、道灌の業績を記した碑を建てた。撰文は、儒者の石島筑波。小林一茶もしばしば訪れ、「陽炎や 道灌どのの 物見塚」と詠んでいる。物見塚は、明治時代の鉄道敷設でなくなったが、碑は山門を入った正面に移設されて今日に至る。
本行寺から日暮里駅に向かって坂が下っています。御殿坂は長さ約180mほどの幅広の坂で、別名を乞食坂といいます。坂名の由来は、「御隠殿」と呼ばれた輪王寺宮の隠居所がこの先にあったからといわれています。この坂を境にして、北側が荒川区、南側は台東区になります。南側の坂下に台東区が設置した案内柱が立っています。
御殿坂
文政十二年(1829年)に成立した「御府内備考」には、「感応寺後と本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とあるが、「根岸」の誤写の可能性がある。明治五年「東京府志料」には、長さ十五間(約27.3メートル)・ 幅二間(約3.6メートル)とあるが、現在の坂の長さは五十メートル以上あり、数値が合致しない。以前は、谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、日暮里駅やJRの線路ができた際に消滅したため、その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの先にあったからといわれるが、根拠は定かではない。
荒川区の案内板もあります。
御殿坂
西日暮里三丁目と台東区谷中七丁目の境を七面坂上から日暮里駅方面へ下る坂。江戸時代から用いられていた呼称である。当時の絵図などから、天王寺(現谷中墓地)の下を通り芋坂下に続いていたことがうかがえる。天保九年(1838年)刊の「炒めを奇談」は、寛永(1624年〜1644年)の頃、白山御殿(将軍綱吉の御殿)や小菅御殿(将軍御膳所)と同様の御殿がこのあたりにあったことにより付いたというが、坂名の由来は明確ではない。
Goten-zaka Slope
The name of the slope 'Goten-zaka' appeared in the Edo period map was said to be
derived from the 17th century shogunal villa (Goten) located in the area around, according to "Myomyo Kidan" which was published in the early 19th century. The slope ran on the foot of Tenno-ji Temple (Yanaka Cemetery of today) as far as the bottom of Imo-zaka slope.
- ポイント6 下御隠殿橋・トレインミュージアム
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御殿坂の坂下からJR線を跨いで長大な下御隠殿橋が架かっています。下御隠殿橋の中ほどには、トレインミュージアムという愛称のバルコニーが設置されていて、眼下に様々な電車を眺めることができます。
バルコニーの欄干には、かっての特急列車や夜行列車のレリーフが装飾されています。
バルコニーの中ほどには、下御隠殿橋とトレインミュージアムの由来を記した案内板が置かれています。
下御隠殿橋の完成にあたって
旧下御隠殿橋は、コンクリートと鋼板ででいた幅員が6mの橋で、昭和三年に建設されました。その後、昭和三十九年2月に都市計画決定された東京都市計画道路補助線街路第188号線の一部として、西日暮里二丁目と西日暮里三丁目及び谷中地域とを結ぶ重要な役割を果してきました。しかし、60余年に亘る長い年月と近年の車両交通の増加により、腐食やひび割れが著しく、通行の安全性を確保することが困難な状況になってきました。そのため、昭和六十三年2月に橋の幅員を15mとする都市計画変更を行い、損傷した橋を架け替えることになりました。架け替えにあたっては、周辺地域の人々をはじめ多くの関係者の叡知を集め、景観と眺望に優れた橋として建設しました。それは、日暮里・谷中地区に数多く残る古い神社仏閣や文学碑などを中心とした歴史的な風情に配慮すること、新幹線をはじめ数多くの種類の列車が1日約2500本も通過する日本有数のこ線橋としての特性を活かすこと、日暮里駅は荒川区の玄関口であり品位と格調をもった橋とすること、を基本的な考え方にすえて整備しました。新しい下御隠殿橋は、和風的なデザインで、バルコニー付きの広い歩道があり、列車ウォッチングができる生きたトレイン・ミュージアムとしてここに蘇りました。この橋が、街に新たな表情を与え、荒川区の活力ある発展に大きく貢献することをここに祈念します。
【橋の概要】 橋格 1等橋
形式 3径間鋼ラーメン橋
橋長 100m
幅員 15m
工事 平成元年7月〜平成七年3月
示方書 道路橋示方書・同解説(昭55)
日暮里駅前にやってきました。広場には、太田道灌の銅像が建っています。
銅像の脇には、「回天一枝」と題した石碑が置かれています。
「回 天 一 枝」
橋本活道
道灌の「山吹の一枝」の故事にちなんで、それを契機に文の道に目覚めた道灌が、まさに「回天」の勢いで文の道を極めていったことを表現しようと「回天一枝」という作品名を、作者の橋本氏と鈴木俊一元都知事がこの太田道灌騎馬像に命名いたしました。
−山吹の里の伝説−
若き日の太田道灌が狩りの途中で雨に遭い、一軒のあばら家に立ち寄り、蓑(みの)を借りようとしました。しかし、少女は無言で山吹の一枝を差し出し、道灌は怒って雨の中を帰りました。その後家臣から、少女は「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」という古歌に寄せて、蓑一つない貧しさを山吹に託したのでしょうと聞き、己の無学を恥じ、歌道にも励むようになったと言われています。
広場の奥には、道灌と向き合うように少女の銅像が建っています。
太田道灌 山吹の里伝説
鷹狩りの途中で道灌が急な雨に遭遇し、路傍の農家に立ち寄り、蓑を借りようと声をかけると、一人の娘が出てきて、黙って一枝の山吹を捧げた。
「七重八重 花は咲けども 山吹の
実のひとつだに なきぞ悲しき」
(後拾遺和歌集・兼明親王)
「山吹」の意を得ずに、憤り帰った道灌は、家臣から「山吹」の意を告げられる。娘が古歌に託して「実の」に「蓑」をかけ「お貸しできる簔もございません」と詫びていたことを知った道灌は、この後、和歌の道に精進するようになったと言われている。荒川区周辺は、道灌の鷹狩りの場であり、花の木(現在の荒川六丁目)辺りに住んでいた高畠三左衛門の娘が、山吹の枝を差し出したと伝える。なお、この山吹の里伝説は、荒川七丁目の泊船軒、豊島区高田、新宿区新宿、埼玉県入間郡越生町など、各地にその伝承地がある。
太田道灌(1432年〜1486年)
室町時代中期の武将。名は資長。道灌は出家後の名。扇谷上杉氏に仕えて、武蔵南部と相模の国で勢力を拡大し、江戸城の他に、川越・岩槻にも築城したとされている。荒川区周辺では平安時代から続く豊島本宗家を滅亡させた。軍事は言うまでもなく詩歌に長け、万葉集九ら学僧や歌人とも親交が深かった。区内西日暮里には道灌に由来する伝承がいくつも残っている。道灌山(西日暮里四丁目)の地名は、江戸城の出城に由来すると伝え、道灌の子孫、掛川藩太田家の菩提寺の本行寺(西日暮里三丁目)には、物見嫁のあったことを伝える道灌丘碑が立つ。その他、西日暮里公園には、物資を運ぶ際に目印にした船繁松があったと伝え、出城の鎮守・諏方神社等がある。
駅前通りを日暮里南公園に向かって進みます。左手に善性寺があり、山門脇に案内板が立っています。
将軍橋と芋坂(善性寺)
善性寺は日蓮宗の寺院で、長享元年(1487年)の開創と伝える。寛文四年(1664年)六代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となった。宝永年間(1704年〜1711年)、家宣の弟の松平清武がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから、門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名がつけられた。善性寺の向い、芋坂下には文政二年(1819年)に開かれたという藤の木茶屋(今の「羽二重団子」)がある。
芋坂も団子も月のゆかりかな 子規
Shogun-bashi Bridge at Zensho-ji Temple and Imo-zaka Slope
The Zensho-ji is a temple of Nichiren sect, reared in 1487 according to the written account. In 1664 it became associated with the Tokugawa shogun's family after the sixth shogun lenobu's birth mother Chosho-in was buried there. From around 1704 to around 1711, Ienobu's younger brother Matsudaira Kiyotake lived there in retirement. lenobu visited there frequently, and the bridge over the Otonashi River, which flowed past the temple, became known as Shogun-bashi (Shogun Bridge).
Opposite Zensho-ji Temple was Imo-zaka slope, which led to Yanaka. At the bottom of the slope stood the Fujinoki Tea House (now the Habutae Dango shop), said to have opened in 1819. A haiku poet Masaoka Shiki, a novelist Natsume Soseki and other literary giants of the Meiji Period frequented the tea house.
Imo-zaka mo dango no tsuki no yukari ka na (Masaoka Shiki)
善性寺と向かい合って、泉鏡花の「松の葉」・司馬遼太郎の「坂の上の雲」・田山花袋の「東京近郊」・夏目漱石の「吾輩は猫である」・正岡子規の「道灌山」や「仰臥漫録」に「芋坂の団子」として登場する、1819年創業の老舗の団子屋さんの羽二重団子店があります。芋坂の焼団子はきめがこまかくて羽二重のようだと絶賛されたのが店名の由来です。生醤油を塗った焼き団子と、さらし餡を巻きつけた餡団子の二種類が通常は同数一組で販売されています。串団子ですが、粒の形が一般的な球形ではなく、厚みのある円盤状なのが特徴になっています。ちなみに、羽二重(はぶたえ)は、平織りと呼ばれる経糸と緯糸を交互に交差させる織り方で織られた織物の一種です。絹を用いた場合は光絹とも呼ばれます。通常の平織りが緯糸と同じ太さの経糸1本で織るのに対し、羽二重は経糸を細い2本にして織るため、やわらかく軽く光沢のある布となります。織機の筬の一羽に経糸を2本通すことからこの名があります。白く風合いがとてもよいことから、和服の裏地として最高級であり、礼装にも用いられます。日本を代表する絹織物で、「絹のよさは羽二重に始まり、羽二重に終わる」といわれます。
団子の由来
芋坂も団子も
月のゆかりかな
子規
江戸文化開花期の文化文政の頃、遙かな荒川の風光に恵まれたこの辺り日暮しの里は、音無川のせゝらきと小粋な根岸の三味の音もきこえる塵外の小天地でありました。文政二年、小店の初代庄五郎がこゝ音無川のほとり芋坂に「藤の木茶屋」を開業し、街道往来の人々に団子を供しておりました。この団子がきめが細かくて羽二重のようだと称され、そのまゝ菓名となっていつしか商号も「羽二重団子」となり、創業以来今も江戸の風味と面影を承け継いでおります。
尾久橋通りの東日暮里五丁目交差点の辺りに、先ほど渡った下御隠殿橋と似た名前の「御隠殿橋」の案内板が立っています。かって、ここには音無川が流れていたんですね。
御隠殿橋
御隠殿は、宝暦四年(1754年)上野寛永寺門主輪王寺宮の隠居所となった。御隠殿橋は、その正門前の音無川にかけられた橋であった。橋の長さ約2.7メートル、幅約3.9メートル、石材でつくられた立派な橋であったが、昭和八年音無川暗渠工事で取り除かれ、橋げただけが道路の下に残っている。往時、このあたりは水鶏の名所で、やや下流には水鶏橋がかかっていた。
Goinden-bashi Bridge
Goinden, the retreat of Rin-noji-no-Miya who was the chief priest of the Kan'ei-ji Temple in Ueno, was set up here in 1754. Goinden-bashi was bridged over the Otonashi River in front of the main entrance. The bridge was a fine stone structure approximately 2.7 meters long by 3.9 meters wide. It was demolished in 1933 when the Otonashi River was converted into a closed conduit, leaving only the bridge girders.
In the past, the area around was famous for Kuina (a waterbird of the rail family, Rallidae) and the Kuina-bashi Bridge stood a little way downstream.
ゴール地点の日暮里南公園に戻ってきました。
ということで、荒川区で五番目の「E.歴史と文化のルート」を歩き終えました。次は荒川区で六番目のコースである「F.コミュニティバス[さくら]コース」を歩きます。
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