- F.コミュニティバス[さくら]コース
- コース 踏破記
- 今日は荒川区の「F.コミュニティバス[さくら]コース」を歩きます。南千住駅西口の荒川区コミュニティバス[さくら]バス停をスタート地点として、荒川区コミュニティバス[さくら]のルートを辿って、荒川区の北東部を一周します。最初に歩いたのは2022年の1月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年11月に改めて歩きました。
F.コミュニティバス[さくら]コース
「F.コミュニティバス[さくら]コース」の歩行距離は約5.8km(約8、286歩)、歩行時間は約1時間27分、消費カロリーは約261Kcalです。
スタート地点:荒川区コミュニティバス[さくら]南千住駅西口バス停
↓
- ポイント1 荒川ふるさと文化館(南千住図書館)
-
↓
- ポイント2 町屋駅
-
↓
- ポイント3 荒川区役所前
-
↓
- ポイント4 荒川総合スポーツセンター
-
↓
ゴール地点:荒川区コミュニティバス[さくら]南千住駅西口バス停
スタート地点の荒川区コミュニティバス[さくら]の南千住駅西口バス停から歩き始めます。運行ルートは2通りあって、今日は「南千01」の左回り循環コースの道筋を歩きます。
駅前広場には、松尾芭蕉の銅像が建っています。松尾芭蕉は千住から奥の細道に出立しましたので、荒川区には芭蕉関連の記念碑が多く建っています。
奥の細道 矢立初めの地 千住
元禄二年(1689年)三月二十七日、松尾芭蕉は、ここ千住の地から奥の細道の旅へと出立しました。この像は、矢立初めの句を詠む芭蕉の姿を表現したものです。
千じゅと云ふ所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。
行く春や 鳥啼き魚の 目は泪
是を矢立の初として、行く道なをすゝまず。人々は途中に立ちならびて、後かげみゆる迄はと、見送なるベし
「おくのほそ道」より
荒川区は、「俳句のまち」を宣言しています。
荒川区俳句のまち宣言
「行春や鳥啼魚の目は泪」
元禄二年3月 この句を矢立初めの句として 松尾芭蕉は その生涯をかけ「奥の細道」へと旅立ちました
芭蕉が渡った千住大橋は 江戸と東北の地を結び 私たちを 俳句の世界へと いざなう大橋として 昔も いまも これからも 隅田川に架かります
私たちの暮らすまちには 人々が行き交い 芭蕉の想いと 四季折々の美しさに導かれ 子規が 一茶が 山頭火が この地で俳句を詠みました
「五・七・五」17文字の無限に広がる世界の中で 私たちは 思いを伝える力をもちます 新しいものを創りだす力をもちます 世界中の人たちと心を結ぶ力をもちます
荒川区は 俳句の魅力を次代につなぐ架け橋として 子どもから大人まで 俳句文化のすそ野をひろげ 豊かな俳句の心を 未来に伝えることを誓い 「俳句のまち あらかわ」を宣言します
駅前広場から「コツ通り」に出ます。現在のコツ通リは、旧日光街道の道筋になります。
日光道中
日光道中は、日本橋を起点に日光を終点とする江戸時代の五街道の一つである。日光街道ともいう。地元では、周辺の古い地名「小塚原(こつかっぱら)」の略称を冠して「コツ通り」と呼ばれている。寛永元年(1624年)、幕府により整備が始められ、全国的な主要幹線として多くの人馬が行き交った。区内では、現在の泪橋交差点から千住大橋までの道筋がこれに相当する。江戸の入口にあたり、日光道中の初宿である千住宿(下宿)が置かれた。明治六年(1873年)からは国道陸羽街道と称し、主要幹線として機能したが、昭和二十七年(1952年)の新道路法の施行により、特例都道第464号言問橋南千住線となった。なお、昭和三十七年以来、日光街道の名称は、国道四号線の宇都宮以南の東京都通称道路名として使われている。
Nikko Dochu Road
Nikko Dochu is one of the five major roads in the Edo period (Tokaido, Nakasendo, Nikko Dochu, Oshu Dochu, and Koshu Dochu). Because it started in Nihonbashi and ended in Nikko, it is also referred to as the Nikko Kaido. Locally, it is called "Kotsu
Dori Street", which is derived from the old name of the area "Kotsukahara" (Kozukappara). In 1624, the Shogunate started constructing the Nikko Dochu and, because it was principal thoroughfare of the country, many people travelled along it on foot and horseback. In Arakawa City, the road section from Namidabashi Intersection to Senju-Ohashi Bridge corresponds the Nikko Dochu Being the entrance to Edo,
Senju-shuku was established as the first posting station of the Nikko Dochu.
南千住交差点で国道4号線を渡り、素戔雄神社の脇から小路を進みます。
- ポイント1 荒川ふるさと文化館(南千住図書館)
-
荒川ふるさと文化館は、荒川区の歴史・文化に関する情報の発信基地として、平成十年5月1日に開館しました。郷土の歴史・文化を楽しみながら学び、探求する場で、文化財の保護・普及の拠点として様々な活動を行っています。常設での通し展示のほか、企画展示や伝統工芸ギャラリーでの区の職人による伝統工芸品の展示を行っています。また、区の歴史・文化に関連する講演会等も随時実施しています。
荒川ふるさと文化館(南千住図書館)は、瑞光小学校の跡地に建てられました。
あらかわの史跡・文化財
瑞光小学校跡
明治十九年(1886年)、当時の北豊島郡長、本橋寛成の勧めにより、千住南組の戸長、渡辺太三郎および、川村治兵衛・田中午太郎などの有志が、公立瑞光小学校の設置願を東京府知事に提出した。寄付金を募集して建設資金にあて、翌二十年(1887年)十二月に開校した。南千住地域では最初の公立小学校だった。五つの教場を構え、当時としては豪華な校舎であったという。大正時代初期、南千住一丁目に移転した。跡地はいくつもの学舎の変遷を経て、平成十年五月には区立南千住図書館・荒川ふるさと文化館が開館した。瑞光小学校の跡地にあった学校は次の通りである。
・第一瑞光小学校 大正九年〜昭和二十一年
・第二中学校 昭和二十五年〜昭和三十三年
・都立上野高校荒川分校 昭和二十五年〜昭和三十五年
・都立荒川高校 昭和三十五年〜昭和三十八年
・南千住中学校 昭和三十四年〜平成元年
(「荒川区教育史」による)
Former Site of the Zuiko Elementary School
Built with donations, the first Public Zuiko Elementary School was opened in the Minamisenju area of Arakawa City in 1886. It is said that the school had a luxurious building at that time with five classrooms. The school was moved to Minamisenju 1-chome in the early Taisho period. Later, the building was used by subsequent several schools. After serving as the Arakawa City Minamisenju Junior High School, the Minami Senju Library and Arakawa Furusato Museum opened on the site in May 1998.
エントランスの前の巨大な岩に、芭蕉を偲んだ俳句が書かれています。
荒川千住 芭蕉主従に 春の花
この句は、俳人の金子兜太氏から俳句のまち荒川区にお寄せいただいた作品です。これを記念して奥の細道矢立初めの地である南千住にこの句碑を建立します。
荒川ふるさと文化館の敷地の一画に小さなお堂が建っています。橋本左内は福井藩士で、大阪の適塾で蘭方医の緒方洪庵に師事し、後に帰藩して藩医に列せられました。安政元年(1854年)に江戸に遊学して蘭方医学を学びますが、窮迫した時勢に接するうちに次第に藩や国の政治に大きな関わりを持つようになりました。十四代将軍を巡る将軍継嗣問題では、福井藩主の松平春嶽を助けて一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えました。安政五年(1858年)、大老となった井伊直弼の手により安政の大獄が始まり、松平春嶽が隠居謹慎を命じられると、将軍継嗣問題に介入したことを問われて取り調べを受け、親戚の朧勘蔵の邸に幽閉され、謹慎を命じられました。取り調べの際に、「私心でやったのではなく藩主の命令である」と主張したことが井伊直弼の癇に障ったらしく、遠島で済む刑罰が重くなり、安政六年(1859年)10月7日に伝馬町牢屋敷で斬首となりました。享年26歳でした。
荒川区登録有形文化財(歴史資料)
橋本左内の墓旧套堂
この套堂(さやどう)は、昭和八年(1933年)に橋本左内の墓(区登録有形文化財<歴史資料>)を保護する(納める、覆う)ために造られた建造物です。大正十二年(1923年)の関東大震災後に耐震性と不燃性の観点から注目されるようになった鉄筋コンクリート造で、規模は方一間(柱間1.94メートル)、宝形造の屋根、軒裏および柱・梁等の軸部には、表面に人造擬石洗出・研出仕上げを施しており、伝統的な建築の意匠と近代的工法との折衷を図った近代仏教建築といえます。もとは回向院(南千住五丁目)境内入口にありましたが、平成十八年、套堂のみ区に寄贈され、同二十一年、ここに復元されました。当時、套堂の施主となったのは、橋本左内を追慕し、遺徳を広く発揚することを目的として、明治三十五年(1902年)に設立され
た景岳会で、事務所は福井県出身の学生を育英するため設けられた輔仁会内に置かれました。設計には、同会会員で建築家でもあった原田正があたり、歴史学者黒板勝美(古社寺保存会委員・東京帝国大学教授)に助言を求め、日本建築史を体系化した建築家伊東忠太(東京帝国大学教授・史蹟名勝天然記念物保存協会評議員)の監修を受けています。また、正面に据え付けられた陶製の橋本家の家紋のデザインは、福井県出身で、日本の陶彫のさきがけとして知られる沼田一雅(東京美術学校教授)によるものです。当代一流の学者の知識・技術・感性が結集した近代の貴重な文化財といえます。
橋本左内の座像は、陶製だそうです。
荒川区内には福井県縁の史跡が多くあり、荒川区と福井県は交流が盛んに行なわれています。
橋本左内の墓旧套堂復元と福井県との交流を記念して
「橋本左内の墓旧套堂」(区登録有形文化財<歴史資料>)は、もと回向院(南千住五丁目)の境内入口にあったものです。平成十八年、同院の境内整備の際、荒川区に寄贈されることになり、同二十一年、ここに復元・保存されました。南千住には、この套堂ばかりではなく、福井県ゆかりの史跡や幕末の史跡が多く所在しています。回向院境内北側に新たに設けられた史跡エリアには、福井藩士橋本左内の墓、小浜藩士梅田雲浜の墓があり、また、同院内には、小浜藩医杉田玄白らの「ターヘルアナトミア」の翻訳と「解体新書」の刊行を記念してつくられた観臓記念碑があります。これらは、地域の人びとにとって身近なものであり、福井県にとっても重要な史跡となっています。多くの方々のご協力を得て、この地に復元が叶った今、「橋本左内の墓旧套堂」は地域の歴史を伝えるモニュメントとして、また荒川区と福井県との交流の場として、新たなスタートを切ることになりました。
荒川ふるさと文化館(南千住図書館)から町屋駅に向かいます。通りは都立荒川工科高等学校の前でクランク状になっています。荒川工科高等学校は、昭和二十三年(1948年)4月1日に都立上野高等学校三河島分室として開校し、何度かの改称を経て、令和五年(2023年)4月1日に現在の校名になりました。「工業」でなく、「工科」となっている理由は分かりませんが、都立高校唯一の電気系専門学科のみを設置しているのが特徴です。
高校の敷地に沿ってぐるりと回り込みますと、長い煉瓦塀が続いています。2024年11月に再訪した際には日本語の説明文には触れられていませんが、英語の説明文には跡地の一画に「東京スタジアム」という野球場が出来たと書かれています。
千住製絨所跡と煉瓦塀
この煉瓦塀は、明治十二年(1879年)に創業された官営の羊毛工場、千住製絨所の西側の煉瓦塀である。工場建設用地として強固な基盤を持ち、水利がよいことから、隅田川沿いの北豊島郡千住南組字西耕地(現南千住六丁目38〜40、45付近)が選定された。明治二十一年に陸軍省管轄となり、事業拡大とともに南に向かって拡張し、最終的に現在の荒川総合スポーツセンター・南千住警察署付近を含む32000坪余に及ぶ広大な敷地となった。明治三十七年には、南千住と三河島(現荒川地区)を結んでいた菅苗道も取り込み、その際に設置された西門の門柱も現存している。敷地を囲む高い煉瓦塀は、地域にとっての近代化の象徴であった。
Former Site of the Senju Wool Factory
In this area around, government operated Senju Wool Factory was founded in 1879. This area along the Sumida River was selected because it had good ground condition for the construction of the factory, and good water resources. The project was huge with the site area totaling 27,438 square meter and the building area totaling 5,847square meter. The factory was placed under exclusive competence of the Army Ministry of Japan in 1888. Then, the factory expanded the area as far as the present-day Arakawa Sports Center, along with expansion of production. The grounds not only hosted production facilities, but were also equipped with research and welfare facilities, making the factory the cutting-edge of modern industry. It was transferred to the private sector after World War II and, in 1962, a part of the site was used to build a ballpark "Tokyo Stadium", which was strongly welcomed by the people. A part of the remaining brick wall reminds us of the days gone by.
でも、2022年に訪れた際の案内板にはちゃんと「東京スタジアム」についても触れられていました。日本語の案内板は新しく作り変えられたのですけど、英語の案内板はそのままだったみたいです。
千住製絨所跡
この付近一帯には、明治十二年(1879年)に創業された官営の羊毛工場である千住製絨所があった。工場建設用地として強固な基盤を持ち、水利がよいことから、隅田川沿いの北豊島郡千住南組字西耕地(現南千住6−38〜40、45付近)が選定された。敷地面積8、300余坪、建坪1、769坪の広大なものであった。明治二十一年(1888年)に陸軍省管轄となり、事業拡大とともに、現荒川総合スポーツセンターあたりまで敷地面積が拡張された。構内には生産工場にとどまらず、研究施設や福利施設などが整備され、近代工場の中でも先進的なものであった。戦後民間に払い下げられ、昭和三十七年、敷地の一部は野球場「東京スタジアム」となり、人々に親しまれてきた。一部残る煉瓦塀が往時を偲ばせる。
荒川工科高等学校と道路を挟んで「若宮八幡宮」があります。
若宮八幡神社と八幡太郎義家伝説
若宮八幡の名のとおり仁徳天皇を祭神とする。平安時代、奥州攻めに向かう八幡太郎義家(源義家)が、荒川の「渡裸川の渡し」を渡る際、目印に白幡を立てたとも伝える。足立区千住仲町の白幡八幡は、この白幡が納められた神社という言い伝えを持ち、この付近が古くから渡河点であったことを推測させる。婦人の病に効験があるとされ、祈願して治った時には二股大根を描いた絵馬を奉納するという。近隣の崇敬を受け、平成十四年に社殿の新造営が行われた。
Wakamiya Hachiman Shrine and Legend of Hachimantaro Yoshiie
It is said that, in the Heian period, when Hachimantaro Yoshiie (Minamoto no Yoshiie) crossed the Arakawa River during the march to suppress the Oshu rebellion, he placed a white flag here to spot the river crossing. This leads us to believe that this area was a crossing point since olden times. This shrine is known for curing women's illnesses if people pray. Therefore, it became customary to dedicate votive tablets (ema) depicting forked radish if a woman's illness was healed after praying. In 2002, the shrine was rebuilt with reverence and cooperation from local people.
若宮八幡神社の境内にある若宮八幡児童遊園の中に記念碑が建っています。
板紙発祥の地
明治二十一年8月10日 東京板紙会社 社長佐久間貞一が、この地に工場を設立し、翌二十二年(1889年)6月新式抄紙機械を英国から輸入するとともに外国人技師を雇い、稲藁を原料としてボール紙の生産を開始した。わが国に於いて本格的にボール紙(板紙、段ボール原紙等)を機械製造したのは、これが最初のことである。以来需要は年を追って増加し、昭和六十三年(1988年)には、1000万屯を超えるに至った。原料も故藁工品(空俵類)から故紙へと変遷した。その間に多くの関連業界が成長し、地域の発展にも寄与した。このたび、荒川区のご協力により旧工場跡地に製造開始100年を記念するとともに、先人達の苦労に深い敬意と感謝を表して之を建立した。
隅田川のスーパー堤防に面して、日本で一番贅沢な気持ちのいい超高級マンションと自称されるアクロシティの住宅棟が並んでいます。高層階の眺望は素晴らしいとのことで、富士山を始め、東京及び近郊の花火がほとんど楽しめるそうです。アクロシティには、有名人・IT社長・大学教授・芸能人・医者・コンサルタント社長・弁護士などが多く住んでいることでも有名です。国松警察庁長官が狙撃された現場としても知られています。
隅田川の土手に突き当たったところで左折します。この付近の護岸はスーパー堤防と呼ばれています。
土手の上にスーパー堤防の案内碑があります。
東京都のスーパー堤防整備
(スーパー堤防は、皆さんの暮らしを守り、快適な生活空間を創造します。)
●東部低地帯を水害から守るために
東京の東部低地帯は地盤が低いため、これまでに何回も水害をうけてきました。東京都は、これらの地域を高潮や洪水から守るため、昭和三十年代後半から短期間のうちに防潮堤・護岸建設しました。その結果、東部低地帯の水害に対する安全度は向上し、多くの人々の生活や資産が守られるようになりました。
●変化する堤防の役割とスーパー堤防整備
東部低地帯を守る防潮堤・護岸は、なるべく早期に水害から人々の生活を守るため、どちらかと言えば水害に対する機能を優先して造られています。その結果、カミソリ護岸とも呼ばれ、河川から人々を遠ざけてしまいました。このため、現在の河川整備には、河川の親水性向上や自然環境機能の回復も強く望まれています。さらに、最近は、大地震時における地盤の亀裂・断層や液状化などの特異現象にも配慮した堤防の耐震性向上を図る必要があります。そこで、東京都は、隅田川など東部低地帯のカミソリ護岸をスーパー堤防に代表される土でできた河川堤防に改築していくこととしました。土の堤防は、大地震にみまわれても大きな損傷を受けることがなく、仮に損傷しても土でできているために応急復旧が容易に行えます。さらに、現在のカミソリ護岸を取り除くことができ、人々が河川に身近に接することができるようになります。スーパー堤防の整備は、河川背後地の土地利用の効率化と協力して実施しています。今回完成した南千住北地区は、河川背後地のマンション建設や周辺道路の整備などの住宅開発事業と一体となって整備することができました。
荒川区立第五中学校の前で左折し、三河島水再生センターに沿って藍染川通りを進みます。町屋の京成線沿いには、かつて藍染川が流れ、その先は隅田川に繋がっていました。藍染川は、大雨による洪水に備えて大正七年に造られましたが、昭和三十五年に暗渠化され、藍染川の流路は藍染川通りとなりました。
- ポイント2 町屋駅
-
藍染川通りに面して、京成町屋駅があります。地下には東京メトロの町屋駅があります。また、直ぐ近くには都電荒川線の町屋駅前停留場があります。なので、町屋駅といっても路線名を冠しないと特定できません。歴史的に見ますと、最初に開業したのは、大正二年(1913年)の王子電気軌道(現在の都電)の稲荷前停留場で、次は昭和六年(1931年)の京成電気軌道(現在の京成電鉄)の町屋駅、最後は昭和四十四年(1969年)の営団地下鉄(現在の東京メトロ)の町屋駅となります。駅前には晩杯屋があります。私も口開けに訪問しました。
町屋駅から荒川区役所前に向かいます。藍染川通りから花の木交差点の次の信号で左折して荒川西中央通りに入ります。昭和時代には商店街が賑わっていたのでしょうけど、今はその面影はありません。
荒川西中央通りは荒川中央通りに突き当たり、右折しますと明治通りに出ます。
- ポイント3 荒川区役所前
-
明治通りを進みますと、左手に荒川区役所があります。
区役所の前には荒川公園があります。園内には様々な彫像が置かれています。植え込みの中央には、長崎の平和祈念像で有名な北村西望氏の作品「夢」の彫像があります。この像は北村西望氏が80歳代に制作し、荒川区の区制施行50周年を記念して東京荒川ライオンズクラブから寄贈されました。昭和五十七年(1982年)11月4日に除幕式が北村西望氏立会いのもと行われました。その際、氏の挨拶の中で「この作品は、硬質アルミ製で大変丈夫にできています。荒川区民の皆さんにとって、これから50年、100年と区の発展のシンボルとして、愛されることを望んでいます。」と述べられました。
荒川区役所前から荒川総合スポーツセンターに向かいます。荒川区役所の直ぐ先に「サンパール荒川」があります。サンパール荒川は、地域文化の高揚を図るために区民の文化活動の拠点として設けられた施設です。大小のホールや会議室として利用できる集会室・宴会場などを備えています。
サンパール荒川は、かって区庁舍があった跡地に建てられました。
旧区庁舍跡
ここは、荒川区役所旧庁舎のあったところです。荒川区が誕生した昭和七年当時、区庁舎は、旧三河島町役場(現荒川二丁目8番)に置かれました。その後、昭和十一年、ここに、建設された旧庁舎は、昭和四十三年に現庁舎へ移るまで、永く区民に親しまれてきました。ここに、この碑を建て、記念とします。
区制施行60周年記念
平成四年11月
サンパール荒川前交差点は七差路になっています。交差点から延びる道路のひとつが千住間道です。千住間道は、サンパール荒川前交差点から国道4号線の南千住警察署入口交差点までの区間の道路の愛称です。現在の都電荒川線の荒川区役所前停留場は、かつて王子電気軌道時代は千住間道停留場という名称でした。沿道には南千住警察署・荒川総合スポーツセンター(東京スタジアムの跡地)・間道商興会の商店街があります。
- ポイント4 荒川総合スポーツセンター
-
千住間道に面して、荒川総合スポーツセンターの巨大な建物が建っています。荒川総合スポーツセンターは、旧東京スタジアムの跡地に1984年に完成しました。北島康介が幼少期に利用していて、彼がオリンピックで金メダルを獲得したことで荒川総合スポーツセンターの名も知られるようになりました。荒川総合スポーツセンターでは、バスケットボール・バドミントン・バレーボールなどが行える大体育室や小体育室、さらに温水プール・武道場・卓球場・ライフル場・会議室など、多彩なスポーツを楽しめます。全館空調完備で、快適なスポーツ環境を実現し、新たな機能を備え、魅力の高い運動・スポーツ施設を提供しています。
荒川総合スポーツセンターの先に、テレビのグルメ番組で度々紹介された「青木屋」という惣菜パン屋さんがあります。ジャンボパンに揚げたてのコロッケやハムかつやメンチやとんかつを挟んでその場で手渡してくれます。いつも行列が出来ていて、皆さん爆買いをしています。
私が買ったのは「とんかつパン」で、定規がないので大きさが実感できないと思いますが、ジャンボというだけあって、普通の惣菜パンの3倍ほどの大きさです。これ一個でお腹が満腹になります。小食の人なら。。。
ゴール地点の荒川区コミュニティバス[さくら]の南千住駅西口バス停に戻ってきました。
ということで、荒川区で六番目の「F.コミュニティバス[さくら]コース」を歩き終えました。次は荒川区で七番目のコースである「G.チャレンジコース」を歩きます。
戻る