G.チャレンジコース  

コース 踏破記  

今日は荒川区の「G.チャレンジコース」を歩きます。日暮里駅東口をスタート地点として、三河島駅から荒川区役所を経て、三河島水再生センターの広大な敷地を縦断します。尾久の原公園から都電荒川線の線路伝いに進み、ゴールのあらかわ遊園に至ります。最初に歩いたのは2022年1月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年12月に改めて歩きました。

G.チャレンジコース

「G.チャレンジコース」の歩行距離は約6.5km(約9、286歩)、歩行時間は約1時間38分、消費カロリーは約294Kcalです。

スタート地点:日暮里駅東口
ポイント1 せせらぎの小路
ポイント2 サンパール荒川
ポイント3 荒川自然公園
東京都の「新東京百景」に選ばれた、荒川区立では最大の公園です。荒川区の地形をかたどった白鳥の池には、無数の鯉なども泳ぎ、本物の白鳥も優雅に羽を休め、人々にも憩いの時間を与えています。
ポイント4 三河島水再生センター
日本初の近代的下水処理施設です。
※見学には予約が必要です。

      Mikawashima Sewage Treatmenr Plant
The site of Japan's first modern sewage treatment plant.
※A reservation is needed to visit.
ポイント5 尾久の原公園
野鳥や約30種以上のトンボやザリガニ・カエルが生息し、葦など湿生植物が生い茂り自然が多く残されています。また、園内北側には、シダレザクラも植樹され、毎年4月初旬には、「シダレザクラ祭り」が開催され、シダレザクラの名所として多くの人々に親しまれています。
ポイント6 都立大荒川キャンパス前
ポイント7 都電熊野前
ポイント8 荒川遊園スポーツハウス

ゴール地点:あらかわ遊園


スタート地点の日暮里駅東口から歩き始めます。



駅前広場には、太田道灌の銅像が建っています。



銅像の脇には、「回天一枝」と題した石碑が置かれています。

「回 天 一 枝」

橋本活道

道灌の「山吹の一枝」の故事にちなんで、それを契機に文の道に目覚めた道灌が、まさに「回天」の勢いで文の道を極めていったことを表現しようと「回天一枝」という作品名を、作者の橋本氏と鈴木俊一元都知事がこの太田道灌騎馬像に命名いたしました。

−山吹の里の伝説−
若き日の太田道灌が狩りの途中で雨に遭い、一軒のあばら家に立ち寄り、蓑(みの)を借りようとしました。しかし、少女は無言で山吹の一枝を差し出し、道灌は怒って雨の中を帰りました。その後家臣から、少女は「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」という古歌に寄せて、蓑一つない貧しさを山吹に託したのでしょうと聞き、己の無学を恥じ、歌道にも励むようになったと言われています。




広場の奥には、道灌と向き合うように少女の銅像が建っています。

太田道灌 山吹の里伝説

鷹狩りの途中で道灌が急な雨に遭遇し、路傍の農家に立ち寄り、蓑を借りようと声をかけると、一人の娘が出てきて、黙って一枝の山吹を捧げた。

   「七重八重 花は咲けども 山吹の
      実のひとつだに なきぞ悲しき」
         (後拾遺和歌集・兼明親王)

「山吹」の意を得ずに、憤り帰った道灌は、家臣から「山吹」の意を告げられる。娘が古歌に託して「実の」に「蓑」をかけ「お貸しできる簔もございません」と詫びていたことを知った道灌は、この後、和歌の道に精進するようになったと言われている。荒川区周辺は、道灌の鷹狩りの場であり、花の木(現在の荒川六丁目)辺りに住んでいた高畠三左衛門の娘が、山吹の枝を差し出したと伝える。なお、この山吹の里伝説は、荒川七丁目の泊船軒、豊島区高田、新宿区新宿、埼玉県入間郡越生町など、各地にその伝承地がある。

太田道灌(1432年〜1486年)
室町時代中期の武将。名は資長。道灌は出家後の名。扇谷上杉氏に仕えて、武蔵南部と相模の国で勢力を拡大し、江戸城の他に、川越・岩槻にも築城したとされている。荒川区周辺では平安時代から続く豊島本宗家を滅亡させた。軍事は言うまでもなく詩歌に長け、万葉集九ら学僧や歌人とも親交が深かった。区内西日暮里には道灌に由来する伝承がいくつも残っている。道灌山(西日暮里四丁目)の地名は、江戸城の出城に由来すると伝え、道灌の子孫、掛川藩太田家の菩提寺の本行寺(西日暮里三丁目)には、物見嫁のあったことを伝える道灌丘碑が立つ。その他、西日暮里公園には、物資を運ぶ際に目印にした船繁松があったと伝え、出城の鎮守・諏方神社等がある。




尾久橋通りを横断して、「あやめ通り」に入ります。あやめ通りの愛称の由来については分かりませんが、銭湯や町工場なんかが点在する素朴な下町らしい通りです。ちなみに、「あやめ」は漢字で書くと「菖蒲」になります。しかし、「菖蒲」は「しょうぶ」とも読めます。「あやめ」の名の由来は、「花びらに網目の模様があることから、文目(あやめ)と呼ばれるようになったといわれています。一方で、「しょうぶ」は飛鳥・奈良時代には「あやめぐさ」と呼ばれていた歴史があります。「しょうぶ」を「あやめぐさ」と呼ぶようになった理由は諸説ありますが、「しょうぶ」を使った邪気払いの儀式をしていた女性を「あやめ」と呼んでいたことが理由といわれています。このように複雑な歴史と成り立ちがある「しょうぶ」と「あやめ」ですが、決定的な違いは、「しょうぶ」がショウブ科であるのに対し「あやめ」はアヤメ科に属している点です。外観の似ている「はなしょうぶ」や「かきつばた」もアヤメ科に属しています。ややこしいですね。あやめ通りは常磐線の三河島駅に突き当たって終点となります。



ポイント1 せせらぎの小路

せせらぎの小路は、三河島駅南側に隣接した緑道です。高架の線路と道路に挟まれた細長い公園で、せせらぎが流れる水路が作られています(現在は水は流れていないようですが)。



せせらぎの小路には、街なか花壇があります。日本古来の品種を多く栽培するというテーマを持って花壇づくりに励んでいるそうです。



緑道の中ほどに「BLACK uniform」というタイトルの少女像が建っています。この作品は荒川区縁の彫刻家の浦山一雄氏の作品です。せせらぎの小径は山・村・町の3つのエリアで構成されていて、この像は町のエリアに設置されています。



三河島駅は尾竹橋通りに面しています。江戸時代には、三河島周辺は江戸城から鬼門の方角とされ、屠殺場などの地域とされていました。そのために、戦後は精肉工場などの工場街となったようです。その後、朝鮮人が出稼ぎに来たことで駅周辺は東京有数のコリアンタウンになったといわれています。三河島駅といえば、事故の大きさと犠牲者の多さから「国鉄戦後五大事故」のひとつに数えられる三河島事故が駅構内で起きたことが思い起されます。昭和三十七年5月3日21:37分、列車のダイヤが乱れ、三河島駅構内で停止信号を行き過ぎてしまった貨物列車が脱線し、本線上に飛び出しましました。そこへ取手行普通列車が衝突してさらに脱線しました。多くの人が線路へ脱出しましたが、今度はそこに上り列車が突っ込みます。この上り列車は多くの人をはねた上に、脱線した列車に衝突し、車両はそのまま高架下に落下しました。その結果、死者160名・負傷者296名を出す大惨事となったのです。この事故を機に、自動列車停止装置 (ATS) が計画を前倒しにする形で国鉄全線に設置されることになり、昭和四十一年(1966年)迄に一応の整備を完了しました。



尾竹橋通りを横断して、横丁の「荒川仲町通り」に入ります。通りの両側は「荒川なかまち通り商店会」のお店が並んでいます。



荒川仲町通りから明治通りに出ます。荒川警察署の隣にお地蔵様を祀った小さな祠があります。

地蔵堀の石地蔵

この石地蔵は、地蔵堀と呼ばれた用水堀の傍ら(現、サンパール荒川)に南向きに立っていた。大正十四年、現在位置へ移され北向きになった。地蔵堀は今は道路になっている。石の台には元文五年(1740年)に浄正寺十三世、寛誉が願主となり、三河島村の村人の尽力で再建されたことが刻まれている。当時、ここは三河島村の集落のはずれで、付近のよい目じるしになっていたばかりでなく、村人が旅立つ際に道中の安全を祈願したといわれる。今も交通安全祈願の地蔵として祀られている。




ポイント2 サンパール荒川

交差点の向かいに「サンパール荒川」があります。サンパール荒川は、地域文化の高揚を図るために区民の文化活動の拠点として設けられた施設です。大小のホールや会議室として利用できる集会室・宴会場などを備えています。



サンパール荒川は、かって区庁舍があった跡地に建てられました。

旧区庁舍跡

ここは、荒川区役所旧庁舎のあったところです。荒川区が誕生した昭和七年当時、区庁舎は、旧三河島町役場(現荒川二丁目8番)に置かれました。その後、昭和十一年、ここに、建設された旧庁舎は、昭和四十三年に現庁舎へ移るまで、永く区民に親しまれてきました。ここに、この碑を建て、記念とします。
区制施行60周年記念
平成四年11月




荒川区役所の庁舍の東側に、「実のなる木広場」があります。

実のなる木広場について

この実のなる木広場では、四季折々の果実を身近に観察してもらうため、アンズ・リンゴ・モモなどを植えております。散歩の際には、開花から結実までの自然の変化をお楽しみ下さい。




ポイント3 荒川自然公園

荒川自然公園は、東京都下水道局三河島水再生センターの上に人工地盤を造って設置された公園です。このような下水処理施設の上に造成した公園は、新宿区の落合中央公園に次いで都内で2番目です。1982年には「新東京百景」に選定され、東京都を代表する景勝地の一つになっています。公園は3期に分けて工事を行い、次のように形成されました。

第一期:1974年にテニスコート・野球場の運動施設を中心に児童公園・プール・芝生広場のある中央部分が開園しました。

第二期:1979年には公園南側にアスレチック広場・水辺広場・野草園・昆虫観察園のあるエリアが開園しました。その際に、それまでの「三河島処理場公苑」という名前から区民公募により「荒川自然公園」という名称に変更しました。

第三期:その後、1996年に公園北側に交通園や芝生広場が完成し、現在に至ります。

たくさんの種類の樹木や野草などがあるため、昆虫や鳥など様々な生き物が生息していて、自然観察の場として利用できます。又、園路ではウォーキングや散歩も楽しめます。



園内は北側と南側の大きくふたつのエリアに分かれていて、南側のエリアには水辺広場や白鳥の池などがあり、園内には多くの樹木や草花が植えられています。



水辺広場には、湿地帯や水路も設けられています。



白鳥の池には2羽の白鳥がいます。池の形状は荒川区の地形を模しているのだそうです。



白鳥には、それぞれ名前が付けられています。

白鳥の名前

2021年の3月、公園にコブハクチョウが2羽やってきました。皆さんに親しんでもらえる素敵な名前です!

レオ

<特徴>
オス(2017年生まれ)
・くちばしの色が濃い
・くちばしの上のコブが大きい

サクラ

メス(2014年生まれ)
<特徴>
・くちばしの色が薄い
・くちばしの上のコブが小さい




北側のエリアには、交通園やアスレチックや無料のプールなど子どもたちが楽しめる施設も充実しています。



また、薔薇園にはよく手入れされた薔薇の花が咲いています。



ポイント4 三河島水再生センター

三河島水再生センターは、日本で最初の近代的な水再生センターです。敷地内は緑が豊かで、春には旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場施設の赤レンガと桜が美しい景観を作り出します。処理区域は、荒川・台東区の全部、文京・豊島区の大部分、千代田・新宿・北区の一部で、面積は3、936haです。処理した水は隅田川に放流しています。また、一部は東尾久浄化センターで濾過し、更に綺麗にして隅田川に放流するほか、三河島水再生センター内の機械の洗浄・冷却などに使用しています。発生した汚泥は、東部スラッジプラントへ圧送し、処理しています。また、春には「さくら鑑賞会」が開催されています。

三河島水再生センター

旧三河島汚水処分場喞筒場施設
わが国最初の近代下水処理場である旧三河島汚水処分場の代表的遺構として、国の重要文化財(建造物)に指定されています。

第一沈殿池
2〜3時間かけて下水をゆっくり流し、下水に含まれる沈みやすい汚れを沈殿させます。

反応槽
微生物の入った泥(活性汚泥)を加え、空気を送り込み、6〜8時間ほどかき混ぜます。下水中の汚れを微生物が分解し、細かい汚れも微生物に付着して、沈みやすいかたまりになります。

第二沈殿池
反応槽でできた泥(活性汚泥)のかたまりを3〜4時間かけて沈殿させ、上澄み(処理水)と汚泥とに分離します。




「旧三河島汚水処分場喞筒場施設」については、詳細な案内碑が建っています。「喞筒」とは、ポンプのことです。

重要文化財(建造物)
「旧三河島汚水処分場喞筒場施設」

旧三河島汚水処分場は、隅田川中流に位置するわが国最初の近代下水処理場で、東京市区改正事業の一環として、東京市技師米元晋一を中心として建設が進められ、大正十一年三月に運用を開始した。

当時、東京市外であった荒川区域はこの施設を利用できなかったが、誘致したことで他区よりも 早く昭和三十年代にはほぼ区内全域で下水道が完備した。

重要文化財に指定された旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場施設は、処分場の代表的遺構として高い歴史的価値を有する。

また、阻水扉室、沈砂池などの一連の構造物も、旧態を保持しつつまとめて残っており、近代下水処理場囀筒場施設の構成を知る上で重要である。

指定施設          五所
 阻水扉室
 沈砂池及び濾格室
 濾格室上屋        一棟
 量水器室及び喞筒室暗渠
 喞筒室          一棟
  附 ヴェンチュリーメーター       一基

 附 土運車引揚装置用電動機室       一棟
   変圧器冷却水用井戸喞筒小屋      一棟
   門衛所                一棟

下水敷及び宅地

指定日 平成十九年十二月四日




三河島水再生センターが立地する場所には、かって妻夫塚と呼ばれていたふたつの塚があったそうです。

下水処理発祥の地(妻夫塚)

三河島字八千代田、宇次郎田前と呼ばれていたこの地に二つの塚があった。妻夫塚と呼ばれるもので、正平七年(1352年)、武蔵野合戦における戦死者を葬った所と伝わるが、詳細は不明である。明治四十三年に三河島処理場の敷地に編入され、現在では正確な塚の位置を確認することができない。日本で最初の本格的な下水処理施設である「三河島処理場」は大正三年、建設に着手した。同年から始まった第一次世界大戦の影響による財政面の制約などの理由から、工事の進行に打撃を受けたが、大正十一年(1922年)、完成した。荒川区のみならず、台東区の全部、文京・豊島区の大部分と千代田・新宿・北区の一部の下水処理を行う。赤煉瓦の処理場施設は建設当時からのもの。千住製絨所(日本羊毛工業)などとともに荒川区の近代化の担い手であった。

Birthplace of Sewage Treatment and Meotozuka Mounds

The construction of Mikawashima Treatment Plant, which is the first full-fledged sewage treatment facility in Japan, started in 1914. The progress of the construction was affected by financial constraints caused by the effects of World War I that began in the same year, but the plant was completed in 1922. The plant treats sewage not only for Arakawa City but also for Taito, most of Bunkyo and Toshima, and parts of Chiyoda, Shinjuku, and Kita. The red brick buildings constructed at that time still remain and are being used. Together with the Senju Wool Factory, etc., the plant played an important role in the modernization of Arakawa City. A part of the plant was designated an important cultural property of Japan in the name of the "Pumping Station at the Former Mikawashima Sewage Disposal Plant" There used to be two mounds called the Meotozuka in this area. It is said that war dead in the Battle of Musashino in 1352 were buried in the mounds, but the details are unknown. Since the mounds were incorporated into the site of the treatment plant in 1910, it is impossible to confirm their exact location at present.




三河島水再生センターの施設は、荒川自然公園から柵越しに見ることが出来ます。



三河島水再生センターから尾久の原公園に向かいます。荒川区立第五中学校の校門の脇に案内板が立っています。

ハンノキ山

区立第五中学校(町屋1−37)から都下水道局の町屋ポンプ所にいたる、隅田川に沿った一帯はかつて「ハンノキ山」と呼ばれた。ハンノキとはハリノキの変化した語。元来山野の湿地に生育する落葉高木で、高さ十五メートルほどになる。隅田川沿岸のハンノキの林は、護岸を目的に江戸時代に植えられたともいわれる。昭和の初めころまでこの付近には、数十本のハンノキが残っていた。小川や水留まりには小魚やカニ、蛙といった生き物がたくさんおり、子供たちにとっての格好の遊び場だった。




町屋八丁目アパートの植え込みの中に「荒木田の原」の案内板が立っています。

荒木田の原

町屋八丁目・同一丁目のあたりは、字荒木田の名でよばれたところである。この地一帯は荒木田の原といわれ、春ともなればスミレやレンゲなどが咲き乱れて、江戸後期の文化・文政のころは市民遊楽の地であった。とくにスミレは有名で「江戸名所花暦」(文政十年【1827年】刊)にも紹介されている。またこのあたりの畑土は「荒木田土」とよばれ、壁土や焼物用として珍重された。




ポイント5 尾久の原公園

尾久の原公園は、大正時代から続いた旭電化(現:ADEKA)尾久工場跡地に造られた荒川区内では唯一の都立公園です。戦後、東京都が工場跡地を買収し、敷地の東半分が公園として整備され、平成五年(1993年)6月1日に開園しました。敷地面積は約6万u以上あり、サクラ・アシ・チガヤ・ミソハギなど、512本・1、986株の樹木が植樹されています。公園は、豊かな水辺の環境を活かして整備され、雨水が溜まってできた池と湿地の周辺はアシなどの湿生植物が生い茂り、希少植物の生育地となっています。野鳥や約30種類のトンボ、池にはザリガニやカエルなどが生息し、東京都のレッドリストにも掲載されています。また、芝生広場・水辺で遊べる流れ・じゃぶじゃぶ池が整備されていて、遊具などの施設はあまりありませんが、四季折々の自然に触れながら遊ぶことができます。



尾久の原公園一帯は、かって十三坊塚と呼ばれていました。

十三坊塚

この付近はかつて十三坊塚と呼ばれていた。文政十一年(1828年)刊の「新編武蔵風土記稿」によると、上尾久村に高さ五尺(約150cm)ばかりの塚が四ヶ所、下尾久村に高さ五尺、周囲七・八尺(約210cm・240cm)の塚が八ヶ所あり、それらを「十三坊塚」と呼んだという。この内、下尾久村にあった砂利塚からは太刀と具足が出土したと記されている。この塚は両村の境にあったと思われ、上尾久村には「十三房」という小字があった。十三坊塚は全国に分布し、境界の目安や、村境において災いや疫病・害虫の進入を防ぐ役割を果たしていたものと推測されている。塚は大正六年に旭電化の敷地となって消滅した。「旭電化通り」の名は、この地にあった旭電化工業尾久工場にちなむ。




ポイント6 都立大荒川キャンパス前

尾久の原公園の先に、東京都立大学荒川キャンパスがあります。都立大荒川キャンパスには健康福祉学部と人間健康科学研究科が置かれていて、昭和六十一年(1986年)に開学した東京都立医療技術短期大学を改組して平成十年(1998年)に開学した東京都立保健科学大学を前身としています。平成十七年(2005年)に首都大学東京が開学した時に、保健・医療領域を専門とする学部として発足しました。令和二年(2020年)には東京都立大学に名称変更されました。



都立大荒川キャンパス前から都電熊野前停留場に向かいます。尾久橋通りの交差点上空には、熊野前陸橋と舎人ライナーの高架が通っていて、かなりの圧迫感があります。



ポイント7 都電熊野前

都電熊野前停留場は、大正二年(1913年)4月1日に王子電気軌道三ノ輪(現・三ノ輪橋)〜飛鳥山下(現・梶原)間の開業時に「熊ノ前停留場」という名称で開業しました。現在の駅名の「熊野前停留場」に改称された時期は不明ですが、「熊野前」の駅名の由来は、かって停留場の北側に存在した「熊野神社」に因んでいます。この神社は王子電気軌道開通前の明治十一年(1878年)に八幡神社へ合祀されて現在は存在しませんが、周辺商店街などに名前を残しています。昭和十七年(1942年)2月1日に王子電気軌道の東京市への事業譲渡により、東京市電(現・東京都電)の停留場となりました。当時は熊野前停留場が荒川線の起点で、三ノ輪橋方面は三河島線と呼ばれていました。その後、三河島線は荒川線に統合され、現在の路線となりました。



都電熊野前から荒川遊園スポーツハウスに向かいます。宮ノ前電停の真向かいに尾久八幡神社があります。宮ノ前電停の「宮」は尾久八幡神社のことです。尾久八幡神社の創建は不明ですが、鎌倉時代末期の正和元年(1312年)に尾久の地が鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進された頃だろうといわれています。「新編武蔵風土記稿」によれば、旧上尾久村・旧下尾久村・旧船方村の鎮守だったそうです。



尾久八幡神社の前の歩道に古ぼけた板に書かれた案内板が立っています。八幡堀は、八幡神社を取り囲むように、王子・上中里・田端・日暮里と流れていた用水です。酒井新三郎抱屋敷と亀太郎屋敷との間(現在の西尾久3−4の周辺)を経て、荒川(現在の隅田川)に注いでいました。農業での活用の他、荒川を往復する船が八幡堀まで入り込んで交易を行い、神社の西側では下肥の積み下ろしも行っていたということです。案内板は古びて読みづらくなっていますが、次のように記されています。

八幡堀プロムナード

江戸時代、この地域には、石神井川から引かれた「八幡堀」と呼ばれる農業用水路が流れていました。昭和六十年に尾久宮前小学校の子どもたちが、今は見えない川となってしまったこの水路について学習をはじめ、それがやがて地域ぐるみの取り組みとなり、手づくりの絵本「ぼくらの音無川」にまとめられました。こうした地域活動は高い評価を得て、第四十回読売教育賞の中で最優秀賞を受賞しました。荒川区は、こうした貴重な財産を永く将来に伝えたいと考え、この水路を「八幡堀プロムナード」と名付けて整備を行いました。東京都も、この都道付近が水路跡の一部であったことから、道路の整備に合せて、水路をイメージした歩道の整備を行いました。この地域の歴史に関する活動を記念し、ここに古地図のレリーフを設置します。




案内板の隣には、銅製のプレート描かれた古地図と設置した経緯が書かれています。

尾久村絵図

荒川区立尾久宮前小学校の四年生が社会料の学習をする中でこの地図の水路に目をつけました。そして、尾久村は江戸時代に米づくりが盛んだったことや農業用水を確保するために苦心したことなど先人の??があったことを知りました。消えてしまった八幡堀とその水路を、再び町によみがえらせようと願った子どもたちの気持ちは、保護者と地域の人々の心を動かし、多くの人々の協力を得て、八幡堀ブロムナードとしてその姿の一部を実現することができました。このことは東京都はもとより、日本各地に知れわたり地域の中で育つ子どもの理想の姿として、大きな評価を得ました。




尾久八幡神社の境内にふたつの案内板が立っています。ひとつは八幡堀について、もうひとつは上尾久村の村絵図についてです。どうせなら、さっき見た案内板と古地図の横に並べて立てておけばいいのにね。

八幡神社と八幡堀

八幡神社の創建は不詳だが、鎌倉時代末期の正和元年(1312年)に、尾久の地が鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進された頃に遡ると考えられる。また、神社に残る棟札(荒川区指定文化財)から、至徳二年(1385年)には社殿が再建されたことが確認できる。江戸時代に幕府が編纂した地誌「新編武蔵風土記稿」(文政十一年成立)には、上尾久・下尾久・船方三村の鎮守と記されている。八幡堀は、王子・上中里・田端・日幕里と流れる用水が八幡神社をとり囲んでいたもので、酒井新三郎抱屋敷と亀太郎屋敷との間(現在の西尾久三・四周辺)を経て、荒川(現在の隅田川)に注いでいた。川を往復する船が八幡堀まで進み、交易で賑い、神社の西側では野菜や下肥の積みおろしも行っていたという。

Hachiman Shrine and Hachiman-bori Moat

Although it is unknown when Hachiman Shrine was founded, it is thought that the date of construction can be traced back to the time when the land of Ogu was donated to Tsurugaoka Hachimangu Shrine in Kamakura in 1312, in the late Kamakura period. Also, it can be confirmed from Munafuda (wooden plate) housed by the shrine that the shrine was rebuilt in 1385. The geographical book edited by the Shogunate during the Edo period, "Shinpen Musashi Fudokiko" (created in 1828), describes that the shrine was the local deity of three villages - Kamiogu, Shimo'ogu and Funakata. The moat that surrounded the shrine was called Hachiman-bori, which was a part of agricultural water that flowed from Oji to Kaminakazato, Tabata, Nippori and Ogu. Hachiman-bori was bustling with trade with boats traveling back and forth along the river, and the west side of the shrine was also used for loading and unloading night-soil fertilizer for agriculture.

八幡神社と上尾久村村絵図

上尾久村村絵図(荒川区指定文化財)は、神社を中心とする上尾久村の江戸時代の様子が窺える。図中には、農業用水の流路、七名の領主名と各領主付農民、村内の社寺などが記され、隣村の田端や中里との間で取り決められた用水に関する記述が三ヶ所ある。制作年代は記されていないが、嘉永元年(1848年)以後のものであると推定される。このほか享保十四年(1729年)銘の手水鉢(荒川区登録文化財)や南北朝期の至徳二年(1385年)銘をはじめとする棟礼(荒川区指定文化財)等を所蔵。同社の創建年代は不詳だが、棟礼の年号等から鎌倉時代末期には鎮守として勧請されていたと考えられる。

Hachiman Shrine and Kamiogu Village Picture Map

The Kamiogu Village Picture Map (designated cultural property of Arakawa City, not open to the public), housed in Hachiman Shrine, describes essential points of the village around the shrine. It depicts the flow path for agricultural water, the names of the seven lords and farmers working for their lords, and shrines and temples in the village. There are three quotes of agreements regarding irrigation water with the neighboring villages, Tabata and Nakazato. The year the map was drawn was not written, but estimates put it after 1848. The shrine also houses a stone wash basin inscribed with the year 1729.




都電荒川遊園地前停留場から荒川遊園通りを通って荒川遊園に向かいます。



路地の曲がり角に小さな祠があります。

日待供養塔二基と延命子育地蔵尊

ここには寛文九年(1669年)・宝永二年(1705年)銘の日待供養塔二基(区登録有形民俗文化財)をはじめ、寛永二十年(1643年)銘の地蔵菩薩像や庚申塔など、江戸時代に建てられたいくつかの石造物がある。なかでも日待供養塔は、江戸時代初期のものであり、現在のところ区内ではここ以外確認されていない。日待とは、決められた日に講中が集まって日の出を待ちながら一夜を明かす行事である。日待供養塔には上尾久村講中の村人の名が刻まれており、江戸時代、日待や庚申待などの民間信仰が存在していたことがうかがえる。延命子育地蔵尊は、かつて荒川遊園通りの西側にあったが、戦後、道の向かい側の現在地へ移転した。延命・子育にご利益があるといわれ、今も多くの信仰を集めている。毎月二日・十二日・二十二日の「二の日」に縁日があり、毎年七月十二日に祭りをおこなう。

Two Himachikuyoto Stupa and Enmei-Kosodate Jizo

There are several stoneworks made in the Edo period here, including two Himachikuyoto Stupas erected in 1669 and 1705, a Jizo Bosatsu statue, and a Koshinto stupa. The Himachi ritual is an event where the members of Ko (confraternity) spend a night waiting for sunrise on a designated day. On the Himachikuyoto are inscribed the names of the villagers of Kamiogu Village. These show that people practiced folk beliefs and gatherings such as Himachi and/or Koshinmachi in the Edo period. Enmei-Kosodate (life-prolonging and child-rearing) Jizo moved to the current position after World War II from far in the west across the Arakawa Yuen Amusement Park. It is said that the Jizo can prolong life and help with child-rearing, which is why it is still worshiped by many people. On the 2nd, 12th and 22nd of every month, a fair is held, and a festival is held on July 12th every year.




日待供養塔は、右側の写真の板碑型の石仏大小2体のようです。中央の2体の地蔵尊のうち、右側が延命子育地蔵尊とのことです。



荒川遊園通りに隣り合って、荒川遊園まで続くアプローチがあります。遊園地らしい飾り付けがあってワクワク感が高まります。



沿道には薔薇花壇が連なり、よく手入れされた薔薇の花が入園者を迎えています。荒川遊園だけではなく、荒川区内の町屋駅前・荒川二丁目南公園・荒川二丁目電停口・三ノ輪橋の都電荒川線の線路際にも薔薇の花壇が整備されています。

都電荒川線沿線のバラマップ

荒川区では、区の中央部分を東西に走る都電荒川線を「みどりの軸」と位置づけ、北区境から三ノ輪橋までの間の約4kmに140種のバラを植栽しています。色とりどりに咲くバラを是非お楽しみください。

Toden Arakawa Line Trackside Rose Map

Running across central Arakawa City, the Toden Arakawa Streetcar Line is a designated municipal "Green Corridor". 140 different varieties of roses have been cultivated along the 4-kilometer stretch from Kita City Limits to Minowabashi Station. We hope you enjoy these vibrant and colorful blooms along the way.




ポイント8 荒川遊園スポーツハウス

荒川遊園スポーツハウスは、荒川遊園に隣接する荒川区立のスポーツハウスで、平成五年(1993年)7月24日にオープンしました。ドーム開閉式屋根のある25m×15m公認プールや15m×5m子供プールはともに温水仕様になっています。その他、アリーナやトレーニングルームを備えています。



ゴール地点のあらかわ遊園に着きました。荒川区立あらかわ遊園は、2022年1月に訪れた時は未だ改装のために長期休園中でしたが、令和四年(2022年)4月21日に再オープンしました。あらかわ遊園が開園したのは大正十一年(1922年)のことで、都内唯一の公営遊園地となっています。隅田川に面し、面積は約3万平方メートルです。アトラクションは定番ものが一通り揃っていますが、小学校低学年層に合わせたレベルで、激しい動作のアトラクションはありません。100円から200円程度という入園料やアトラクション利用料の安さが特徴です。アトラクション以上に小動物園やピクニック用の広場・遊具施設・水遊び場などが充実していて、園内の装飾やレイアウトも清楚で、全体的に大型の公園に近い趣きがあり、落ち着いた雰囲気を持っています。2022年の再開園後は、改装前よりも遊具の大型化やバリアフリーに対応し、観覧車のライトアップとイルミネーション、夜間開園も行なわれています。

煉瓦工場と荒川遊園

明治・大正期、荒川(現隅田川)沿いにはいくつもの煉瓦工場があった。土が煉瓦の製造に適していたことと、舟運が期待されてのことである。旭電化跡地(東尾久七丁目)付近にあった戸田・山本煉瓦工場、華蔵院(東尾久八丁目)付近にあった鈴木煉瓦工場などである。なかでも古いのが、明治五年に石神仲衛門氏が設立した煉瓦工場だという。後の広岡煉瓦工場である。その跡地にできた「あらかわ遊園」は、大正十一年に開園した都内でも古い民営遊園地で、大小の滝・築山・池・観月橋・総檜展望台などを備え、たいへんな賑わいをみせた。太平洋戦争中は高射砲の陣地となり一時閉鎖されたが、昭和二十五年、区立荒川遊園として生まれ変わった。

Brickyards and Arakawa Yuen Amusement Park

During the Meiji and Taisho periods, there were several brickyards along the Sumida River. It is because the riverbed clay is suitable for brick manufacturing and the Sumida River was expected to be the shipping route. These factories include the Toda Brickyard and the Yamamoto Brickyard near the Asahi Denka Industry (Higashiogu 7-chome), and the Suzuki Brickyard near the Kezo-in Temple (Higashiogu 8-chome). Among them, the oldest one was established by Ishigami Nakaemon in 1872, which was later called the Hiro'oka Brickyard. On the former site of the Hiro'oka Brickyard, the Arakawa Yuen Amusement Park was built and operated as a private business. Having opened in 1922, it was the oldest amusement park in Tokyo and drew throngs of people. There were large and small waterfalls, artificial hills, ponds, a bridge for moon viewing, observation deck and other amenities. During World War II, it was closed and became a site of anti-aircraft artillery. In 1950, however, it was reopened and operated by Arakawa City as the Arakawa Yuen Amusement Park.




大観覧車の直径は38mで、最高地点は40mと改装前よりも大きくなり、ゴンドラは1台6人乗りの計28台で、4台はガラス張りの「スケルトンゴンドラ」となっています。一周約9分で回り、ゴンドラにはクーラーと座席下のヒーターが搭載されています。



園内には様々な施設があるようです。



入口の横にはかって荒川線で運行されていた都電が展示されています。この車体は前照灯が1ヶ所であることから「一球さん」と呼ばれた都電6000形車両で、長く親しまれてきましたが、ブレーキ系統が1系統しかないことが問題となり、改修費用も高額になることから平成十三年(2001年)12月に廃車となりました。廃車後に保存を求める声が多数寄せられ、最終的にあらかわ遊園に静態保存されることになりました。あらかわ遊園の再開園後は、車両が改装されて「カフェ193(いっきゅうさん)」という都電喫茶店がオープンしました。昔懐かしいレトロな雰囲気で味わう自家焙煎コーヒーが楽しめます。



ということで、荒川区で七番目の「G.チャレンジコース」を歩き終えました。次は荒川区で八番目のコースである「H.都電とバラの花ルート(往復)」を歩きます。




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