I.三三日コース  

コース 踏破記  

今日は荒川区の「I.三三日コース」を歩きます。日光街道上の南千住警察署入口交差点をスタート地点として、日暮里駅・三河島駅を巡り、荒川区の最南端を周回します。最初に歩いたのは2022年の1月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年12月に改めて歩きました。

I.三三日コース

「I.三三日コース」の歩行距離は約5.2km(約7、429歩)、歩行時間は約1時間18分、消費カロリーは約234Kcalです。

スタート地点:日光街道上の南千住警察署入口交差点
ポイント1 ジョイフル三の輪
ポイント2 日暮里駅
ポイント3 三河島駅
ポイント4 荒川区役所

ゴール地点:日光街道上の南千住警察署入口交差点


スタート地点の南千住警察署入口交差点から歩き始めます。「三三日」の意味はよく分かりませんが、「三ノ輪」と「三河島」と「日暮里」の頭文字をとったのではないかと思います。



日光街道に面して、巨大な黄金色に輝く観音様が立っておわします。円通寺は、延暦十年(791年)に坂上田村麻呂が開創したといわれています。明治維新の頃の慶応四年(1868年)に起きた上野戦争で亡くなった彰義隊の隊士を円通寺の住職が現在上野公園の西郷隆盛像があるあたりで火葬し、円通寺に遺骨を埋葬して墓も造られました。その縁で明治四十年(1907年)に上野寛永寺の総門(黒門)が円通寺に移設されました。黒門には、彰義隊が新政府軍と戦った上野戦争の際の激しさを今も伝える弾痕が数多く残っています。また、昭和三十八年(1963年)3月に当時4歳であった村越吉展ちゃんが誘拐された「吉展ちゃん誘拐殺人事件」では、昭和四十年(1965年)7月に円通寺の敷地内の墓地から白骨化した吉展ちゃんの遺体で発見されたことでも知られ、敷地内に慰霊地蔵が設置されています。

円通寺

史跡
 彰義隊士墓
 旧上野黒門
 小塚原旧跡

百観音 円通寺 は東都の古刹にして

延暦十年(西暦791年) 坂上田村麿将軍により開創せらる。
本尊・聖観世音菩薩(聖徳太子 一刀三礼御作)。屋上聖観音像 全長12m 原形一寸八分(当寺蔵) 高村光雲 大正十二年作。
八幡太郎義家 奥羽征伐して賊首四十八を得て還り、ここに埋め首塚四十八基を築いた。
それから この地を「小塚原」と呼ばれる。旧町名「通新町」は円通寺新町に由来する。
寛永三年三代将軍家光 放鷹の日、円通寺の松に止まる「鷹見の松」と名づけらる。
上野戦争(慶応四年五月十五日)彰義隊士の遺体二百六十六を上野で火葬し当寺に収骨した。
太政官の許可状に「懇に供養すべし」を口実に、大ぴらに賊軍の法要ができる当時日本唯一の寺であった。その因縁で旧上野黒門を帝室博物館より明治四十年十月当寺に下賜さる。




山門を入った広場の奥に、黒門が再建されています。

荒川区指定 有形文化財・歴史資料
旧上野の黒門

この黒門は、元、上野山内にあった。寛永寺の八門のうちで表門にあたる。慶応四年(1868年)五月十五日に旧幕臣の彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争では、黒門前でも激しい攻防が繰り広げられた。無数の弾痕が往時の激戦を今に伝えている。戦いの後、埋葬されずにいた多数の彰義隊士の遺体を、当時の円通寺住持だった仏磨和尚と神田旅籠町の商人三河屋幸三郎が火葬した。以来、円通寺は旧幕府方の戦死者供養の拠点となった。その機縁で、黒門が明治四十年(1907年)に帝室博物館より円通寺に下賜された。




黒門には多数の弾痕が残っています。266名もの戦死者がいたことも頷けます。



黒門の裏側に、上野戦争で戦死した彰義隊士の墓地があります。

あらかわの史跡・文化財
彰義隊士の墓

慶応四年(1868年)五月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山から敗走した。累々と横たわる隊士の遺体をみた円通寺の仏磨和尚は、官許を得て、寛永寺御用商人三河屋幸三郎とともに遺骸を火葬して円通寺に合葬した。これが縁となって、明治四十年、寛永寺の黒門が円通寺に移された。昭和六十年に修復工事が行われている。

Graves of the Shogitai Warriors

The Shogitai warriors (on the Bakufu side) who were killed in the Battle of Ueno, which took place in May 1868 at the end of the Edo period, were buried here. Having assembled at Kan'ei-ji Temple, a family temple of the Tokugawa Shogunate, the troops were defeated in a fierce battle with the new government's troops and fled from the mountains of Ueno. The priest Butsuma of Entsu-ji Temple, who saw the bodies of the soldiers strewn everywhere, obtained official approval to cremate the corpses and bury the ashes on the grounds of Entsu-ji Temple, jointly with Mikawaya Kozaburo, a purveyor of Kan'ei-ji Temple. By virtue of this event, the black gate of Kan'ei-ji Temple (designated cultural property of Arakawa City) was transfered to Entsu-ji Temple in 1907.




墓地内には、彰義隊の墓碑だけでなく、旧幕臣関係の石造物もあります。

荒川区指定 有形文化財・歴史資料
彰義隊関係追弔碑群

旧幕臣らによって建立された墓碑を含む彰義隊・旧幕臣関係の三十九基からなる石造物群。慶応四年(1868年)五月十五日の上野戦争直後に、当時の円通寺住職武田仏磨が、官軍に敗れて戦場に放置された彰義隊士の遺体を現地で火葬し、遺骨を円通寺に持ち帰って供養した。その際、彰義隊戦死者墓が建立され、彰義隊供養の拠点となった。以降、この墓塔の周囲に戊辰戦争戦死者及び彰義隊関係者の追弔碑・墓碑が建立、あるいは他所から移設され、彰義隊ゆかりの寺としての景観が形成されていった。




円通寺には、かって百体の観音像が安置されていたのだそうです。

あらかわの史跡・文化財
百観音 円通寺

延暦十年(791年)、坂上田村麻呂が開創したと伝える。また、源義家が奥州を鎮定したとき、討ちとった四十八の首を寺城内に埋めて塚を築いたので、このあたりを小塚原とよぶようになったという。江戸時代、下谷の広徳寺・入谷の鬼子母神とともに「下谷の三寺」とよばれた。秩父・坂東・西国霊場の百体の観音像を安置した観音堂があったことから「百観音」の通称で親しまれたが、観音堂は安政二年(1855年)の大地震で倒壊した。境内には、石造七重塔、彰義隊士の墓、永仁四年(1296年)銘をはじめとする板碑四墓(区指定文化財)などがある。

Hyakkan'non Entsu-ji Temple

It is said that this temple was founded in 791 by Sakanoue no Tamuramaro, a military commander of the Heian period. Also, when Minamoto no Yoshiie, another military commander during the Heian period, conquered Oshu (present-day Fukushima, Miyagi, Iwate, Aomori, and part of Akita Prefecture), he built a mound on the temple grounds by burying the heads of the 48 adversaries he had defeated. Therefore, this area is called Kozukappara (literally "small mound field"). The temple was popularly known as "Hyakkan'non (100 kan'non/Avalokiteshwara)" because it had Kannon-do (hall) that housed 100 Kan'non statues from hallowed grounds in Chichibu, Bando and Saigoku. However, the Kan'non-do collapsed in the earthquake in 1855. On the temple grounds, there are a seven-storied stone pagoda, graves of Shogitai worriers and four stone stupas (Itabi) inscribed with the year 1296 (designated cultural property of Arakawa City).




源義家が供養のために築いた首塚があります。小塚原の地名の由来となったものです。



塚の上には石造りの七重の塔が建っています。

荒川区指定 有形文化財・歴史資料
石造七重塔(享保七歳次壬寅端午日銘)

享保七年(1722年)、円通寺中興開山の観月徹禅が伽藍の再興を記念して造立した石造七重塔。基礎に造立銘「重興円通寺記并塔銘」がある。この銘文は、円通寺の縁起を記したものであり、源義家が後三年の役の後に当地に築いた「四十八塚」に由来するという小塚原の地名伝説が含まれる。軸部に四方仏をあらわさずに火灯窓を開ける形状で、類例が少ない。明治期には「小塚原旧蹟七重塔」と称し、昭和十五年(1940年)、紀元二千六百年を記念して基壇が補われた。昭和五十七年(1982年)、「四十八首塚」と名付けた築山を築いた際、頂上に移設した。




板塀はどこにあるのか分かりませんでした。

荒川区指定 有形文化財・歴史資料
板碑四基(永仁四年十月日銘他)

円通寺の板碑四基の内、三基は鎌倉時代末期の紀年銘をもち、区内に現存する板碑の中でも古い時代に属する。とりわけ永仁四年(1296年)十月日銘は、日慶寺の正応二年(1289年)銘に次いで二番目に古い年号を有し、南千住における鎌倉時代の人びとの生活を知るうえで貴重である。また、嘉暦四年(1329年)正月二十九日銘は、薬研彫りで精巧な彫刻が施され、造形的にも優れている板碑といえる。




円通寺の隣に真正寺があります。

あらかわの史跡・文化財
真正寺門前町

寛文元年(1661年)真正寺が浅草から当地に移転してきた時に、真正寺門前町も同時につくられた。東西二十間三尺、南北二十四間二尺(面積約千六百平方メートル)ほどの土地であるが、本区におけるただ一つの門前町である。町奉行支配地で、寛延二年(1749年)三月に類焼の後、家作と畑地に分けられた。明治二年(1869年)地名を下谷真正寺町と改めたが、同十二年(1879年)下谷通新町に合併された。

Shinsho-ji Temple Monzenmachi (Temple Town)

In 1661 when Shinsho-ji Temple moved from Asakusa to this area, this monzenmachi formed at the same time. The town area totaled about 1600 square meter. It was the only monzenmachi in Arakawa City.




ポイント1 ジョイフル三の輪

「ジョイフル三の輪」は、荒川線の終点三ノ輪橋停留場付近から荒川一中前駅までの線路の北側を線路と並行して伸びているアーケードに覆われた全天候型の三の輪銀座商店街の通称です。ガイドには、「ジョイフル三ノ輪」と表記されていますが、「ジョイフル三の輪」が正しいようです。荒川線の停留場名が「三ノ輪橋」なので混同したのかも。ジョイフル三の輪は、荒川線の前身である王子電気軌道の開通が大きく影響して形成された大正時代から続く商店街です。西側の商店街入口付近には荒川七福神のひとつ、中島弁財天が祀られています。昔ながらの青果店や精肉店・衣料品店などの他、スーパーなど様々な店が軒を連ねています。特に夕方は人通りが多く、手頃な値段の総菜店が人気です。毎月11日は「中島弁財天の日」として大売り出しが行われる他、随時イベントも開催されています。映画「万引き家族」やTVドラマ「三匹のおっさん」のロケ地としても使われていて、昭和レトロな商店街です。



ジョイフル三の輪には惣菜の激安店があります。「とくとく弁当」は驚異の280円!弁当だけでなく、お惣菜も安くて種類が多いです。



「とりふじ」の「日向鶏紅しょうがからあげ」も美味しいです。別の惣菜店に「紅しょうがの天ぷら」が売られていますが、こちらも絶品です。



最近、業務スーパーが開店したようで、昔ながらのお店とは雰囲気が異なりますが結構賑わっています。あちこちの業務スーパーを巡って見付からなかった「ケイジャンスパイス」が三ノ輪店にありました!「ケイジャン」とは、祖先が北米東部のアカディア地方(カナダ南東部のノバスコシア地方)に入植したフランス人の直系で、イギリス人によってアカディアから追放されたのち、最終的に主にアメリカ合衆国ルイジアナ州南部に永住した人々を指します。同じフランス系のクレオールと区別され、クレオールと異なり貧しい暮らしを強いられる人が多かったそうです。私がニューオリンズで食べて感激したケイジャン料理は、基本的に地元で手に入る食材を生かした素朴でシンプルな庶民の料理をいいます。タマネギ・セロリ・ピーマン(合わせて「聖なる三位一体」と呼ばれます)を炒めたものを料理のベースとすることが多く、これはフランス料理のミルポワと関係があります。パンやコーンブレッドも食べられますが、主食には米を多用しています。ケイジャン料理の中では、肉や野菜などの具が入り、チリペッパーなど香辛料が効いた炊き込みご飯「ジャンバラヤ」や刻み野菜と魚介類・鶏肉・ソーセージを煮込み、フィレパウダー(サッサフラスの葉を粉にしたもの)またはオクラでとろみをつけた「ガンボ」などがよく知られています。エビやカキ・カニを中心に魚介類がふんだんに使われることが多く、またケイジャンは長い間自給自足せざるを得なかったため、ザリガニやアメリカアリゲーターやカエルといった土着の食材もよく使われます。「ケイジャンスパイス」は、唐辛子・クミン・クローブ・シナモン・ガーリックなど複数の香辛料を混ぜ合わせてできたスパイスで、アメリカ南部のルイジアナ州発祥です。このスパイスは、ルイジアナに移住したアカディア人(アメリカ北部の植民地で暮らしていたフランス系カナダ人)のことをケイジャンと呼ぶ歴史的背景から生まれました。ルイジアナへはヨーロッパのさまざまな国の人々が移住したため、異なる食文化が合わさりました。彼らは調理に工夫をこらす中で、複数の香辛料を混ぜ合わせてケイジャンスパイスを創り出しました。そして、近くの川や海からとれたシーフードに味付けをして、調理していました。日本で売られているケイジャンスパイスは、チリペッパーやパプリカや唐辛子が入っているものが多く、辛さを連想させる赤色です。配合量の違いによって、オレンジがかった色のものや、茶色っぽいものもあります。また、スパイスの挽き具合にも違いがあり、細かい粉末タイプから粒の粗いものもあります。ケイジャンスパイスはミックススパイスということもあり、調合具合によって味わいは異なりますが、一般的にはピリっとした辛味が特徴的です。ガーリックパウダーやオニオンパウダーやブラックペッパーが含まれているものもあり、これらを料理に加えることでパンチのある味わいになります。私のお勧めは魚のケイジャンスパイス焼きです。普通魚は塩焼きにしますが、ケイジャンスパイスを振りかけて焼くと奥深い味になります。但し、かけ過ぎると塩辛くなりますのでほどほどに。ちなみに、お値段は1缶100円位で、普通に使えば1年間は持ちます。



ジョイフル三の輪から日暮里駅に向かいます。ジョイフル三の輪から大関横丁に抜け、明治通りを渡って路地を進み、正庭通り交差点で右折し、「かんかん森通り」に入ります。「かんかん森」とは妙な名前ですが、これは「神々森」に由来するそうです。この辺りは、正保三年当時は谷中辺りまで含めて「新堀(のちの日暮里)」と呼ばれ、僅か63戸しか住民がいなくて、その大半が農民という長閑な田園地帯だったそうです。その頃からこの地には猿田彦命を祀る社があり、それを取り囲むようにして森があったそうです。ひとつの畦道がこの森に通じている様子が弁天森のような威厳があり、その様子が神々しかったので神々森と呼ばれたと伝わっています。その畦道が現在のかんかん森通りになったのでしょう。



かんかん森通りに面して小さな神社があります。鳥居の前には住宅地には不釣り合いな銀杏の巨木が聳えています。



神々森猿田彦神社は、汐入の胡録神社の分霊を勧請して祀ったと伝えられ、第六天社と称していましたが、明治に入ってから胡録神社、次いで猿田彦神社に改称しています。

カンカン森通りと猿田彦神社

江戸時代に「第六天社」と称した当地を「神々森」と呼んだ。かつて、神々森は音無川沿いに開けた田圃の中にあり、竹藪が茂る寂しい所であったという。神社の前の「カンカン森通り」の名はこれに由来する。以前は「第六天通り」とも呼んでいた。近代になり、第六天社は胡録神社に改称し、その後、現在の猿田彦神社に改めた。土地の作神、守護神として旧金杉村の人々に崇拝されている。境内に文化七年(1810年)銘の手水鉢、胎蔵界大日如来の種子(梵字)を刻む享保十三年(1728年)銘の庚申塔がある。本殿内には自然石に「猿田彦太神」の銘を刻んだ年未詳の庚申塔があり、台石に「峡田領金杉村大塚講中」の十四名の名前が刻まれている。講名の大塚は金杉村の小名に因む。毎年九月一日に四ヶ町の氏子によって例大祭が行われる。

Kankanmori-dori Street and Sarutahiko-jinja Shrine

In the Edo period, Sarutahiko-jinja Shrine was also known as Dairokuten-sha or as Kankanmori (Kankan Woods). Today the street that runs past the shrine is popularly known as Kankanmori-dori. The shrine was later renamed Koroku-jinja, then Sarutahiko-jinja. Residents of the former Kanasugi-mura Village worship Sarutahiko-Okami as their local tutelary deity. Until the early 20th century, Kankanmori was a lonely bamboo grove set among the rice fields alongside the Otonashi River. In the temple grounds can be seen a Koshin-to tower inscribed 1728, a water basin donated by the residents of Negishi in 1810 and, in the main hall, a Koshin-to tower inscribed 'Sarutahiko-Okami' (all Arakawa City registered tangible cultural properties). The main hall is opened once a year, during the annual festival held on September 1.




拝殿は簡素ながらも格式があります。猿田彦神社の由来と胡録神社との関わりを記した案内板が立っています。

猿田彦神社縁起

天孫降臨の際 天八衝(あめのやちまた)に立ち迎えて 皇孫?々杵尊を筑紫の日向高千穂の楼蝕(くしふる)之峰に導き奉りのち天鈿女命(あめのうずめのみこと)に送られ伊勢長田(ながた)五十鈴川上に到りたもうた神にて天照大神が五十鈴川の川上に鎮座也らたもうたのもその幽契りがあったと中世神道説で(い)われている。

中世猿田彦神の猿が申に通ずるところら庚申信仰の習俗が生れ又同神が天之八衝に立たれた故事ら道祖神と結びいてこの神の信仰が盛んになった。

猿田彦神の鎮座の年代は 寛永三年 今を去る約四百年前徳川三代将軍家光が僧天海の薦により寛永寺を設立東叡山と称し其の後天保十三年十月(約参百七十年前)東叡山領を定め、現荒川区はそのうちの峡領、岩淵領に含まれ 当時日暮里町は新堀村と云れ 風景非常に良く之を望むる時 霊輝(れいこん)の西に傾くを忘る。故里民して日暮しの里と云い後人之ち唱えて日暮里と称す。当時の伝統に峡田領、岩淵領の領界に拾五寸角長さ二間の杭を打込み領界を明らかにする為其の上猿田彦神を御祀りしたとある。(現在の神々森猿田彦神社)

社には正徳二年(約参百年前)及び享保三年(弐百八拾年前)の庚申供養塔が現存して居る 旧金杉(現台東区下根岸)と日暮里の一部の村民は、作神として尊崇し霊験灼かなる神にて威徳之慕い村民は土地の守護神として祭した。大正末期まで田圓の中に森が在り百年以上も経た老松覆い繁げり現在の敷地の数倍を有し森に入った人影は周囲り見えず茂みは昼尚暗きの為神々しさに人呼んで俗に神々森と云った。月次祭は毎月一日 例祭は九月一日である。

胡録神社

当神社は汐入の胡録神社の分家と云われ、大正十五年頃御祀りせしものと伝えられる祭神は面足尊(おもたるのみこと)と惶根(かしこねのみこと)である。第六天と称されたが、明治年神仏分離の際に今の名称に改められたものにて元来 第六天は「仏法の破却する第六天魔王」で忌むべき方角の地に阿修羅を祀り鎮めて 村落生活の安全を期す為に祀りしたものである。

平成弐十参年東日本大地震で塀が倒壊し昭和三十五年作成の物を参考に堀再建時に作成した。




第三日暮里小学校の裏手、東日暮里幼稚園の隣に小さな広場があり、「夕焼け小焼け」の歌碑と作詞者の中村雨紅の略歴を記した案内板が立っています。中村雨紅は大正期の詩人・童謡作家で、東京府南多摩郡恩方村(現在の東京都八王子市上恩方町)の出身です。代表作に、故郷恩方の風景を歌った「夕焼小焼」があります。大正八年(1919年)に作詞し、大正十二年(1923年)に草川信が作曲しました。大正五年(1916年)に東京府青山師範学校(現在の東京学芸大学)を卒業し、同年に東京府北豊島郡日暮里町第二日暮里小学校(現在の荒川区立第二日暮里小学校)の教師となりました。大正七年(1918年)に、日暮里町第三日暮里尋常小学校(現在の荒川区立第三日暮里小学校)へ転勤しました。代表作となる「夕焼小焼」は、雨紅が通勤時に恩方村から八王子駅までの約16km(1日で往復32kmを歩いた!)を歩いて通っていた時、帰り道に見た夕焼け空に幼い日の想い出や村の風景などを重ね合わせて描いた歌詞でした。ちなみに、荒川区立第二日暮里小学校にも「夕焼け小焼け」の歌碑がありますが、作詩した時期は荒川区立第三日暮里小学校に異動した後になります。



中村雨紅の略歴は次の通りです。

夕焼け小焼けの塔

作詞者 中村 雨紅先生の略歴

明治三十年  2月6日、高井 宮吉(本名)、東京府南多摩郡恩方村上恩方の宮尾神社境内社務所にて、生まれる。
大正五年   東京府立青山師範学校卒業。
       日暮里町第二日暮里小学校へ奉職。
  六年   南多摩郡境村相原のおば中村家の養子となる。
               (大正十二年養子縁組解消)
  七年   日暮里町第三日暮里尋常小学校着任(十三年3月まで)。
       第三日暮里小学校の児童の情操教育のために、同僚の訓導矢沢先生らとともに回覧文集を始め、
       童話の執筆を始めた。
  八年   童話童謡雑誌「金の船」(のちに「金の星」と改題)に童話数編が選に入り掲載された。
           しかし、教案を書く邪魔になると校長に叱られ、以後、道を歩きながらでも考えられる
           童謡製作に専念するようになった。
       野口雨情と出会う。その後、中村雨紅の筆名をもって、童謡を発表した。この筆名は、
       野口先生のようにえらくなりたいので「雨」の一字をもらい、「染まる」という 意味の「紅」をつけて
       雨紅としたのである。
       名曲「夕焼け小焼け」の詞もこの頃の作である。
  十二年  漢学者、本城問停の次女 千代子と結婚、根岸の「お行の松」の裏手に住む。
       文化楽社刊「文化楽譜−新しい童謡−」に「ほうほう蛍」「夕焼け小焼け」が掲載された。
       この名曲は、武蔵野音楽大学校長の福井直秋先生の依頼を受けて渡した時に、作曲者草川信先生に
       よって曲がつけられて誕生した。
           ほどなく関東大震災のため、多くの楽譜が失われた。 焼け残った13部の
           楽譜を元に「夕焼け小焼け」は歌い拡がっていった。
  十三年  板橋尋常高等小学校へ転任。
  十五年  滝野川高等小学校着任。
昭和元年   神奈川県立厚木実科高等女学校(後の厚木東高等学校)着任。
  二十四年 神奈川県立厚木東高等学校依頼退職、教職を終える。
  三十一年 雨紅の還暦を祝って、厚木東高校創立五十周年記念の体育祭において「夕焼け小焼け」の全校合唱が
       行われた。以後、雨紅ゆかりの各地にて「夕焼け小焼け」の歌碑が建てられている。
  四十七年 雨紅病気入院の報に、全国から見舞い・激励の手紙が寄せられたが、回盲部腫瘍のため逝去した。
       (享年75才)

       若き中村雨紅先生が本格的に童話・童謡創作活動を開始し、「夕焼け小焼け」等を作詞したのは
       第三日暮里小学校に勤務されていたころです。この縁を喜びとして、昭和五十九年、第三日暮里小学校
       の地域の方々によって「夕焼け小焼けの塔」が建てられました。




第三日暮里小学校前の交差点を右折した先に、「夕やけこやけふれあい館」があります。乳幼児から高齢者まで、地域のあらゆる世代の区民が交流し、自主的な活動ができる地域コミュニティの場として開館しました。「夕やけこやけ」と冠したのは、中村雨紅の業績を紹介する文学館ということではなく、単に第三日暮里小学校が近くにあるという理由なのでしょう。



日暮里中央通り(通称、にっぽり繊維街)に入ります。通りに面した荒川区立第二日暮里小学校は、この地で100年以上もの間地域の人々に親しまれている伝統校です。元々あった日暮里地区の寺子屋から、最初に第一日暮里小学校(当時は日暮尋常高等小学校)ができ、明治二十四年(1891年)の11月にその分教場として第二日暮里小学校が誕生しました。令和6年(2024年)は、創立115周年になります。



校舎の植え込みの一角に「夕焼けこやけの石碑」があり、学校のシンボルになっています。この歌の作詞者の中村雨紅が教師を務めていたという関係で、第二日暮里小学校は「夕焼けこやけの発祥の学校」と言われています。校長室には、中村雨紅直筆の歌詞が掲げられています。

ゆうやけこやけ

ゆうやけこやけでひがくれて
   やまのおてらのかねがなる
おててつないでみなかえろ
   からすといっしょにかえりましょう
こどもがかえったあとからは
   まるいおおきなおつきさま
ことりがゆめをみるころは
   そらにはきらきらきんのほし




日暮里繊維街を進みます。日暮里繊維街は、大正から昭和の終わり頃までは問屋街として地方の専門業者に卸売りをするお店が建ち並ぶ街でしたが、時代の変化と共に小売り対応するお店が増えてきました。現在、日暮里駅から日暮里中央通りを中心に両側約1kmに亘って約90店舗(約60社)の生地織物の店が軒を連ね、ファッション・手芸・ものづくりを楽しむ人達(デザイナー・アパレルメーカー・作家・学生など)が材料を探しに訪れています。メインの通りである日暮里中央通りには、和装・洋装・紳士婦人服地・繊維製品・服飾関連の小物から付属品に至るまでファッションや手芸に関する全てのものを取り揃えた品揃え豊富なお店が並んでいます。また、繊維資材を中心に革・付属・ボタン・型紙・縫製・アクセサリー等の様々な専門店が増えてきています。メイン通りから外れた裏路地や建物2階にある「裏にっぽり」・尾竹橋通りを越えた「奥にっぽり」などにも1軒1軒の品揃えが異なる面白い素材を揃えたお店があります。近年では海外の人も多く訪れ、国内だけでなく世界中の人達から注目を集めています。



「TOMATO」は、トマト本館・インテリア館・アーチ館・ノーション館・セレクト館の5店舗を展開し、日暮里繊維街の中でも一番規模が大きなお店です。一番人が群がってるのは、1m100円の生地のコーナーです。



ボタン専門店もあります。私はここでオーバーのボタンを買いました。あまりに種類が多く、選ぶのに苦労しました。革材料のお店では。使い方次第で化ける掘り出し物が見付かるかも。



ポイント2 日暮里駅

日暮里駅は、明治三十八年(1905年)4月1日に日本鉄道の三河島駅〜日暮里駅間が開通し、現在のルートが完成した時に開業しました。昭和六年(1931年)12月19日には京成電気軌道(現在の京成電鉄)の駅が開業しました。平成二十年(2008年)3月30日の日暮里・舎人ライナーの開通に伴い、都交通局の駅が開業しました。なので、現在は3路線が乗り入れています。



駅前広場には、太田道灌の銅像が建っています。



銅像の脇には、「回天一枝」と題した石碑が置かれています。

「回 天 一 枝」

橋本活道

道灌の「山吹の一枝」の故事にちなんで、それを契機に文の道に目覚めた道灌が、まさに「回天」の勢いで文の道を極めていったことを表現しようと「回天一枝」という作品名を、作者の橋本氏と鈴木俊一元都知事がこの太田道灌騎馬像に命名いたしました。

−山吹の里の伝説−
若き日の太田道灌が狩りの途中で雨に遭い、一軒のあばら家に立ち寄り、蓑(みの)を借りようとしました。しかし、少女は無言で山吹の一枝を差し出し、道灌は怒って雨の中を帰りました。その後家臣から、少女は「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」という古歌に寄せて、蓑一つない貧しさを山吹に託したのでしょうと聞き、己の無学を恥じ、歌道にも励むようになったと言われています。




広場の奥には、道灌と向き合うように少女の銅像が建っています。

太田道灌 山吹の里伝説

鷹狩りの途中で道灌が急な雨に遭遇し、路傍の農家に立ち寄り、蓑を借りようと声をかけると、一人の娘が出てきて、黙って一枝の山吹を捧げた。

   「七重八重 花は咲けども 山吹の
      実のひとつだに なきぞ悲しき」
         (後拾遺和歌集・兼明親王)

「山吹」の意を得ずに、憤り帰った道灌は、家臣から「山吹」の意を告げられる。娘が古歌に託して「実の」に「蓑」をかけ「お貸しできる簔もございません」と詫びていたことを知った道灌は、この後、和歌の道に精進するようになったと言われている。荒川区周辺は、道灌の鷹狩りの場であり、花の木(現在の荒川六丁目)辺りに住んでいた高畠三左衛門の娘が、山吹の枝を差し出したと伝える。なお、この山吹の里伝説は、荒川七丁目の泊船軒、豊島区高田、新宿区新宿、埼玉県入間郡越生町など、各地にその伝承地がある。

太田道灌(1432年〜1486年)
室町時代中期の武将。名は資長。道灌は出家後の名。扇谷上杉氏に仕えて、武蔵南部と相模の国で勢力を拡大し、江戸城の他に、川越・岩槻にも築城したとされている。荒川区周辺では平安時代から続く豊島本宗家を滅亡させた。軍事は言うまでもなく詩歌に長け、万葉集九ら学僧や歌人とも親交が深かった。区内西日暮里には道灌に由来する伝承がいくつも残っている。道灌山(西日暮里四丁目)の地名は、江戸城の出城に由来すると伝え、道灌の子孫、掛川藩太田家の菩提寺の本行寺(西日暮里三丁目)には、物見嫁のあったことを伝える道灌丘碑が立つ。その他、西日暮里公園には、物資を運ぶ際に目印にした船繁松があったと伝え、出城の鎮守・諏方神社等がある。




尾久橋通りを横断して、「あやめ通り」に入ります。あやめ通りの愛称の由来については分かりませんが、銭湯や町工場なんかが点在する素朴な下町らしい通りです。ちなみに、「あやめ」は漢字で書くと「菖蒲」になります。しかし、「菖蒲」は「しょうぶ」とも読めます。「あやめ」の名の由来は、「花びらに網目の模様があることから、文目(あやめ)と呼ばれるようになったといわれています。一方で、「しょうぶ」は飛鳥・奈良時代には「あやめぐさ」と呼ばれていた歴史があります。「しょうぶ」を「あやめぐさ」と呼ぶようになった理由は諸説ありますが、「しょうぶ」を使った邪気払いの儀式をしていた女性を「あやめ」と呼んでいたことが理由といわれています。このように複雑な歴史と成り立ちがある「しょうぶ」と「あやめ」ですが、決定的な違いは、「しょうぶ」がショウブ科であるのに対し「あやめ」はアヤメ科に属している点です。外観の似ている「はなしょうぶ」や「かきつばた」もアヤメ科に属しています。ややこしいですね。あやめ通りは常磐線の三河島駅に突き当たって終点となります。



三河島駅南側に隣接して「せせらぎの小路」という愛称の緑道があります。高架の線路と道路に挟まれた細長い公園で、せせらぎが流れる水路が作られています(現在は水は流れていないようですが)。



せせらぎの小路には、街なか花壇があります。日本古来の品種を多く栽培するというテーマを持って花壇づくりに励んでいるそうです。



緑道の中ほどに「BLACK uniform」というタイトルの少女像が建っています。この作品は荒川区縁の彫刻家の浦山一雄氏の作品です。せせらぎの小径は山・村・町の3つのエリアで構成されていて、この像は町のエリアに設置されています。



せせらぎの小路の先に尾竹橋通りがあり、通りに面して三河島駅があります。

ポイント3 三河島駅

三河島駅は尾竹橋通りに面しています。江戸時代には、三河島周辺は江戸城から鬼門の方角とされ、屠殺場などの地域とされていました。そのために、戦後は精肉工場などの工場街となったようです。その後、朝鮮人が出稼ぎに来たことで駅周辺は東京有数のコリアンタウンになったといわれています。三河島駅といえば、事故の大きさと犠牲者の多さから「国鉄戦後五大事故」のひとつに数えられる三河島事故が駅構内で起きたことが思い起されます。昭和三十七年5月3日21:37分、列車のダイヤが乱れ、三河島駅構内で停止信号を行き過ぎてしまった貨物列車が脱線し、本線上に飛び出しましました。そこへ取手行普通列車が衝突してさらに脱線しました。多くの人が線路へ脱出しましたが、今度はそこに上り列車が突っ込みます。この上り列車は多くの人をはねた上に、脱線した列車に衝突し、車両はそのまま高架下に落下しました。その結果、死者160名・負傷者296名を出す大惨事となったのです。この事故を機に、自動列車停止装置 (ATS) が計画を前倒しにする形で国鉄全線に設置されることになり、昭和四十一年(1966年)迄に一応の整備を完了しました。



尾竹橋通りを横断して、横丁の「荒川仲町通り」に入ります。通りの両側は「荒川なかまち通り商店会」のお店が並んでいます。



荒川仲町通りから明治通りに出ます。荒川公園の向かいに三峯神社があります。境内にある「袈裟塚の耳無不動」は、仙光院住職第九世光慧の建造とされています。光慧と吉原の遊女との波乱に満ちた悲劇的情愛物語が地域に伝わっています。山東京伝の「三河島御不動之記」という黄表紙に別のお話としても登場します。袈裟塚の上に建てられた不動明王は、左耳が無く、耳の病などにご利益があると伝えられ、穴をあけたお椀を奉納する慣わしがあります。

袈裟塚耳無不動

光三郎(仙光院九世住職光慧)とお絹の情愛物語は、袈裟塚の耳無不動伝説として今も伝承されている。伝承によれば、悪い病いで耳が落ち腰も抜けた光慧は、仙光院門前に袈裟塚をつくり不動明王を安置して、村内の五穀豊穣と往来安全を祈願したという。宝暦十年(1760年)建立のこの不動尊台座には、「東叡山領」や道しるべの文字が刻まれている。また、この不動を題材に、江戸の戯作者山東京伝の「三河島御不動記」という黄表紙が寛政元年(1789年)に板行された。明治二十九年、明治通り北側から三峰神社内に移された。

Kesazuka's Earless Fudo

The pure love story of Senko-in Temple's 9th chief priest Koe (Kozaburo) and Okinu has been handed down to today as the legend of the Earless Fudo (Acala) of Kesazuka mound. According to the legend, Koe lost ears and energy due to severe illness. Then he buried dirty surplice into a mound in front of the Senko-in gate, placed the stone Fudo on it, and prayed for a good harvest of grains and safe travels. This Fudoson was built in 1760, engraved with "Toeizan Territory" and the characters for signpost. Also, the illustrated entertainment book "Mikawajima Gofudoki" written by Santo Kyoden, a writer in the Edo period, was published in 1789 based on the subject of this Fudo. In 1896, the Fudo was moved from the site on the north side of Meiji Dori Street to Mitsumine Shrine.




袈裟塚の耳無不動の脇にも案内柱が立っていましたが、立木の奥に位置していたので写真は撮れませんでした。



荒川警察署の隣にお地蔵様を祀った小さな祠があります。

地蔵堀の石地蔵

この石地蔵は、地蔵堀と呼ばれた用水堀の傍ら(現、サンパール荒川)に南向きに立っていた。大正十四年、現在位置へ移され北向きになった。地蔵堀は今は道路になっている。石の台には元文五年(1740年)に浄正寺十三世、寛誉が願主となり、三河島村の村人の尽力で再建されたことが刻まれている。当時、ここは三河島村の集落のはずれで、付近のよい目じるしになっていたばかりでなく、村人が旅立つ際に道中の安全を祈願したといわれる。今も交通安全祈願の地蔵として祀られている。




ポイント4 荒川区役所

荒川区役所本庁舎は、昭和四十三年(1968年)に竣工しました。既に築56年を経過していますが、荒川区はこれまで「築80年まで長寿命化が可能」として、延べ38億円をかけて耐震補強工事などを実施してきました。しかし、平成三十一年/令和元年(2019年)に建替えのための「早期検討」に着手し、令和十三年(2031年)に新庁舎建設を着工し、令和十五年(2033年)に竣工、令和十六年(2034年)から使用開始という計画を立てています。現庁舎は内側に彎曲した独特の外観をしていて、他の区役所庁舍にない雰囲気を醸し出しています。



区役所の前には荒川公園があります。園内には様々な彫像が置かれています。植え込みの中央には、長崎の平和祈念像で有名な北村西望氏の作品「夢」の彫像があります。この像は北村西望氏が80歳代に制作し、荒川区の区制施行50周年を記念して東京荒川ライオンズクラブから寄贈されました。昭和五十七年(1982年)11月4日に除幕式が北村西望氏立会いのもと行われました。その際、氏の挨拶の中で「この作品は、硬質アルミ製で大変丈夫にできています。荒川区民の皆さんにとって、これから50年、100年と区の発展のシンボルとして、愛されることを望んでいます。」と述べられました。



荒川区役所の直ぐ先に「サンパール荒川」があります。サンパール荒川は、地域文化の高揚を図るために区民の文化活動の拠点として設けられた施設です。大小のホールや会議室として利用できる集会室・宴会場などを備えています。



サンパール荒川は、かって区庁舍があった跡地に建てられました。

旧区庁舍跡

ここは、荒川区役所旧庁舎のあったところです。荒川区が誕生した昭和七年当時、区庁舎は、旧三河島町役場(現荒川二丁目8番)に置かれました。その後、昭和十一年、ここに、建設された旧庁舎は、昭和四十三年に現庁舎へ移るまで、永く区民に親しまれてきました。ここに、この碑を建て、記念とします。
区制施行60周年記念
平成四年11月




サンパール荒川前交差点は七差路になっています。交差点から延びる道路のひとつが千住間道です。千住間道は、サンパール荒川前交差点から国道4号線の南千住警察署入口交差点までの区間の道路の愛称です。現在の都電荒川線の荒川区役所前停留場は、かつて王子電気軌道時代は千住間道停留場という名称でした。沿道には南千住警察署・荒川総合スポーツセンター(東京スタジアムの跡地)・間道商興会の商店街があります。



千住間道に面して、荒川総合スポーツセンターの巨大な建物が建っています。荒川総合スポーツセンターは、旧東京スタジアムの跡地に1984年に完成しました。北島康介が幼少期に利用していて、彼がオリンピックで金メダルを獲得したことで荒川総合スポーツセンターの名も知られるようになりました。荒川総合スポーツセンターでは、バスケットボール・バドミントン・バレーボールなどが行える大体育室や小体育室、さらに温水プール・武道場・卓球場・ライフル場・会議室など、多彩なスポーツを楽しめます。全館空調完備で、快適なスポーツ環境を実現し、新たな機能を備え、魅力の高い運動・スポーツ施設を提供しています。



荒川総合スポーツセンターの先に、テレビのグルメ番組で度々紹介された「青木屋」という惣菜パン屋さんがあります。ジャンボパンに揚げたてのコロッケやハムかつやメンチやとんかつを挟んでその場で手渡してくれます。いつも行列が出来ていて、皆さん爆買いをしています。



南千住警察署入口交差点に戻ってきました。



ということで、荒川区で九番目の「I.三三日コース」を歩き終えました。次は荒川区で十番目のコースである「J.常磐線コース」を歩きます。次からは、荒川区で最後に「お手軽コース」になります。




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