J.常磐線コース  

コース 踏破記  

今日は荒川区の「J.常磐線コース」を歩きます。三河島駅をスタート地点として、せせらぎの小路からあやめ通りを経て、ゴール地点の日暮里駅東口に至ります。最初に歩いたのは2022年の1月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年12月に改めて歩きました。

J.常磐線コース

「J.常磐線コース」の歩行距離は約0.9km(約1、286歩)、歩行時間は約14分、消費カロリーは約42Kcalです。

スタート地点:三河島駅
ポイント1 せせらぎの小路

ゴール地点:日暮里駅東口


スタート地点の三河島駅から歩き始めます。三河島駅は尾竹橋通りに面しています。江戸時代には、三河島周辺は江戸城から鬼門の方角とされ、屠殺場などの地域とされていました。そのために、戦後は精肉工場などの工場街となったようです。その後、朝鮮人が出稼ぎに来たことで駅周辺は東京有数のコリアンタウンになったといわれています。三河島駅といえば、事故の大きさと犠牲者の多さから「国鉄戦後五大事故」のひとつに数えられる三河島事故が駅構内で起きたことが思い起されます。昭和三十七年5月3日21:37分、列車のダイヤが乱れ、三河島駅構内で停止信号を行き過ぎてしまった貨物列車が脱線し、本線上に飛び出しましました。そこへ取手行普通列車が衝突してさらに脱線しました。多くの人が線路へ脱出しましたが、今度はそこに上り列車が突っ込みます。この上り列車は多くの人をはねた上に、脱線した列車に衝突し、車両はそのまま高架下に落下しました。その結果、死者160名・負傷者296名を出す大惨事となったのです。この事故を機に、自動列車停止装置 (ATS) が計画を前倒しにする形で国鉄全線に設置されることになり、昭和四十一年(1966年)迄に一応の整備を完了しました。



ポイント1 せせらぎの小路

三河島駅南側に隣接して「せせらぎの小路」という愛称の緑道があります。高架の線路と道路に挟まれた細長い公園で、せせらぎが流れる水路が作られています(現在は水は流れていないようですが)。



せせらぎの小路には、街なか花壇があります。日本古来の品種を多く栽培するというテーマを持って花壇づくりに励んでいるそうです。



緑道の中ほどに「BLACK uniform」というタイトルの少女像が建っています。この作品は荒川区縁の彫刻家の浦山一雄氏の作品です。せせらぎの小径は山・村・町の3つのエリアで構成されていて、この像は町のエリアに設置されています。



せせらぎの小路から「あやめ通り」に入ります。あやめ通りの愛称の由来については分かりませんが、銭湯や町工場なんかが点在する素朴な下町らしい通りです。ちなみに、「あやめ」は漢字で書くと「菖蒲」になります。しかし、「菖蒲」は「しょうぶ」とも読めます。「あやめ」の名の由来は、「花びらに網目の模様があることから、文目(あやめ)と呼ばれるようになったといわれています。一方で、「しょうぶ」は飛鳥・奈良時代には「あやめぐさ」と呼ばれていた歴史があります。「しょうぶ」を「あやめぐさ」と呼ぶようになった理由は諸説ありますが、「しょうぶ」を使った邪気払いの儀式をしていた女性を「あやめ」と呼んでいたことが理由といわれています。このように複雑な歴史と成り立ちがある「しょうぶ」と「あやめ」ですが、決定的な違いは、「しょうぶ」がショウブ科であるのに対し「あやめ」はアヤメ科に属している点です。外観の似ている「はなしょうぶ」や「かきつばた」もアヤメ科に属しています。ややこしいですね。



尾久橋通りを渡って、日暮里駅に着きました。日暮里駅は、明治三十八年(1905年)4月1日に日本鉄道の三河島駅〜日暮里駅間が開通し、現在のルートが完成した時に開業しました。昭和六年(1931年)12月19日には京成電気軌道(現在の京成電鉄)の駅が開業しました。平成二十年(2008年)3月30日の日暮里・舎人ライナーの開通に伴い、都交通局の駅が開業しました。なので、現在は3路線が乗り入れています。



駅前広場には、太田道灌の銅像が建っています。



銅像の脇には、「回天一枝」と題した石碑が置かれています。

「回 天 一 枝」

橋本活道

道灌の「山吹の一枝」の故事にちなんで、それを契機に文の道に目覚めた道灌が、まさに「回天」の勢いで文の道を極めていったことを表現しようと「回天一枝」という作品名を、作者の橋本氏と鈴木俊一元都知事がこの太田道灌騎馬像に命名いたしました。

−山吹の里の伝説−
若き日の太田道灌が狩りの途中で雨に遭い、一軒のあばら家に立ち寄り、蓑(みの)を借りようとしました。しかし、少女は無言で山吹の一枝を差し出し、道灌は怒って雨の中を帰りました。その後家臣から、少女は「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」という古歌に寄せて、蓑一つない貧しさを山吹に託したのでしょうと聞き、己の無学を恥じ、歌道にも励むようになったと言われています。




広場の奥には、道灌と向き合うように少女の銅像が建っています。

太田道灌 山吹の里伝説

鷹狩りの途中で道灌が急な雨に遭遇し、路傍の農家に立ち寄り、蓑を借りようと声をかけると、一人の娘が出てきて、黙って一枝の山吹を捧げた。

   「七重八重 花は咲けども 山吹の
      実のひとつだに なきぞ悲しき」
         (後拾遺和歌集・兼明親王)

「山吹」の意を得ずに、憤り帰った道灌は、家臣から「山吹」の意を告げられる。娘が古歌に託して「実の」に「蓑」をかけ「お貸しできる簔もございません」と詫びていたことを知った道灌は、この後、和歌の道に精進するようになったと言われている。荒川区周辺は、道灌の鷹狩りの場であり、花の木(現在の荒川六丁目)辺りに住んでいた高畠三左衛門の娘が、山吹の枝を差し出したと伝える。なお、この山吹の里伝説は、荒川七丁目の泊船軒、豊島区高田、新宿区新宿、埼玉県入間郡越生町など、各地にその伝承地がある。

太田道灌(1432年〜1486年)
室町時代中期の武将。名は資長。道灌は出家後の名。扇谷上杉氏に仕えて、武蔵南部と相模の国で勢力を拡大し、江戸城の他に、川越・岩槻にも築城したとされている。荒川区周辺では平安時代から続く豊島本宗家を滅亡させた。軍事は言うまでもなく詩歌に長け、万葉集九ら学僧や歌人とも親交が深かった。区内西日暮里には道灌に由来する伝承がいくつも残っている。道灌山(西日暮里四丁目)の地名は、江戸城の出城に由来すると伝え、道灌の子孫、掛川藩太田家の菩提寺の本行寺(西日暮里三丁目)には、物見嫁のあったことを伝える道灌丘碑が立つ。その他、西日暮里公園には、物資を運ぶ際に目印にした船繁松があったと伝え、出城の鎮守・諏方神社等がある。




ということで、荒川区で十番目の「J.常磐線コース」を歩き終えました。次は荒川区で十一番目のコースである「K.千代田線コース 」を歩きます。




戻る