- M.明治通り沿い都営バスコース
- コース 踏破記
- 今日は荒川区の「M.明治通り沿い都営バスコース」を歩きます。大関横町都営バス停をスタート地点として、明治通りに沿って尾久駅前都営バス停まで歩きます。最初に歩いたのは2022年の1月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年12月に改めて歩きました。
M.明治通り沿い都営バスコース
「M.明治通り沿い都営バスコース」の歩行距離は約3.8km(約5、429歩)、歩行時間は約57分、消費カロリーは約171Kcalです。
スタート地点:大関横町都営バス停
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ゴール地点:尾久駅前都営バス停
明治通りに面したスタート地点の大関横町都営バス停から歩き始めます。大関横丁の名前の由来は、「大関」を冠していることから、相撲に関係するのかと思いきや、江戸時代の下野国黒羽藩(現在の栃木県那須地方の一部)の大関氏が幕府から下屋敷として拝領したことが始まりになっています。この下屋敷があった現在の第六瑞光小学校の傍に由来の碑が建てられていて、そこには第十一代藩主である大関増業公の偉業を讃える文言が残っています。つまり大関横町は人名由来ということになります。史跡の案内板が常磐線のガード下にあるそうですが、見逃しました。ちなみに、第六瑞光小学校の傍に立っている由来の碑には次のように書かれているそうです。
大関横丁由来之碑
下野国黒羽藩大関増業公は、智徳兼備の英傑にして藩政を行ふに教育を以てし、自一千余巻の書を著しているが、特に黒羽藩日本書紀三十巻同文字錯乱備考三巻より六吏兵随二十三巻を経て止才枢要五百二十九巻に主たるものを体系の根巻とした。中でも、止才枢要は百七十六巻を伝記資料篇三百五十三巻を本文とする科学的編慕法による構想雄大内容充実世界に誇るべき不朽の名著と云はれる。在職十三年にして病の為引退して此処箕輪の別邸乗化亭に住み括嚢齋と号し、奇方歌道茶道等に精通し、人心救済に盡力したが、弘化二年(1845年)三月十九日六十五歳の生涯を終った。大正十三年(1924年)三月十一日、特旨を以て正四位を贈られた。世人大関公の偉徳を讃えて此処を呼ぶに大関横丁と稱へた。
また、常磐線のガード下にある案内板には次のように書かれているそうです。
あらかわの史跡・文化財 大関横町
大関横町は、下野黒羽藩主の大関信濃守下屋敷(南千住一丁目一〜八番付近)の南と西を取囲んでいた道である。南側の道は現在の明治通り。西側の道をはさんで伊予新谷藩主加藤大蔵少輔下屋敷(荒川一丁目三十六〜三十八番付近)があった。明治通りに拡張される前の道幅は、約ニ間(約四メートル)で、大関横町から三河島道(区立第一中学校の南側の道)に入ると前方に地蔵堀の石地蔵などを望むことができたという。
大関横町バス停のすぐ先で、常磐線の高架橋が明治通りを斜めに横断しています。
ガード下の両面には長大な壁画が描かれています。壁画には、黒羽藩大関増業公のストーリーが再現されています。増業公が研究した織物(染色法)や甲冑が配置されています。この壁画は、平成二十五年(2013年)に制作されました。
明治通りから「ゆいの森通り」が分岐する交差点角に、サンパール荒川があります。サンパール荒川は、地域文化の高揚を図るために区民の文化活動の拠点として設けられた施設です。大小のホールや会議室として利用できる集会室・宴会場などを備えています。
荒川警察署の隣にお地蔵様を祀った小さな祠があります。
地蔵堀の石地蔵
この石地蔵は、地蔵堀と呼ばれた用水堀の傍ら(現、サンパール荒川)に南向きに立っていた。大正十四年、現在位置へ移され北向きになった。地蔵堀は今は道路になっている。石の台には元文五年(1740年)に浄正寺十三世、寛誉が願主となり、三河島村の村人の尽力で再建されたことが刻まれている。当時、ここは三河島村の集落のはずれで、付近のよい目じるしになっていたばかりでなく、村人が旅立つ際に道中の安全を祈願したといわれる。今も交通安全祈願の地蔵として祀られている。
明治通りに面して荒川区役所があります。荒川区役所本庁舎は、昭和四十三年(1968年)に竣工しました。既に築56年を経過していますが、荒川区はこれまで「築80年まで長寿命化が可能」として、延べ38億円をかけて耐震補強工事などを実施してきました。しかし、平成三十一年/令和元年(2019年)に建替えのための「早期検討」に着手し、令和十三年(2031年)に新庁舎建設を着工し、令和十五年(2033年)に竣工、令和十六年(2034年)から使用開始という計画を立てています。現庁舎は内側に彎曲した独特の外観をしていて、他の区役所庁舍にない雰囲気を醸し出しています。
区役所の前の荒川公園の隣には恐ろしく古びた一軒家が建っています。外観からは人は住んでいないようですが、地震に耐えられるのでしょうか?実は、この昔ながらの木造家屋は長屋の一部で、端っこの棟だけを残して更地になったのです(バス停の後ろが空き地になっています)。何故右端の棟だけを残したのかは謎ですが。
右側の写真が解体前の長屋の外観です。
荒川公園の向かいに三峯神社があります。境内にある「袈裟塚の耳無不動」は、仙光院住職第九世光慧の建造とされています。光慧と吉原の遊女との波乱に満ちた悲劇的情愛物語が地域に伝わっています。山東京伝の「三河島御不動之記」という黄表紙に別のお話としても登場します。袈裟塚の上に建てられた不動明王は、左耳が無く、耳の病などにご利益があると伝えられ、穴をあけたお椀を奉納する慣わしがあります。
袈裟塚耳無不動
光三郎(仙光院九世住職光慧)とお絹の情愛物語は、袈裟塚の耳無不動伝説として今も伝承されている。伝承によれば、悪い病いで耳が落ち腰も抜けた光慧は、仙光院門前に袈裟塚をつくり不動明王を安置して、村内の五穀豊穣と往来安全を祈願したという。宝暦十年(1760年)建立のこの不動尊台座には、「東叡山領」や道しるべの文字が刻まれている。また、この不動を題材に、江戸の戯作者山東京伝の「三河島御不動記」という黄表紙が寛政元年(1789年)に板行された。明治二十九年、明治通り北側から三峰神社内に移された。
Kesazuka's Earless Fudo
The pure love story of Senko-in Temple's 9th chief priest Koe (Kozaburo) and Okinu has been handed down to today as the legend of the Earless Fudo (Acala) of Kesazuka mound. According to the legend, Koe lost ears and energy due to severe illness. Then he buried dirty surplice into a mound in front of the Senko-in gate, placed the stone Fudo on it, and prayed for a good harvest of grains and safe travels. This Fudoson was built in 1760, engraved with "Toeizan Territory" and the characters for signpost. Also, the illustrated entertainment book "Mikawajima Gofudoki" written by Santo Kyoden, a writer in the Edo period, was published in 1789 based on the subject of this Fudo. In 1896, the Fudo was moved from the site on the north side of Meiji Dori Street to Mitsumine Shrine.
袈裟塚の耳無不動の脇にも案内柱が立っています。
荒川区指定 有形民俗文化財
袈裟塚の耳無不動
もと仙光院(廃寺)の門前(荒川二丁目四番付近)にあったが、明治二十九年(1896年)当地に移された。耳無不動には仙光院九世光慧と新吉原遊女紅山の伝承がある。悲恋のすえ悪病にかかった光慧は不動のお告げを得て、自分の衣を埋め、その上に石不動を安置したと伝える。山東京伝は、この不動を題材として黄表紙「三河島御不動記」を著した。台座は宝暦十年(1760年)銘、道標も兼ねる。耳病に効目があると、今も厚い信仰の対象となっている。
明治通りを荒川区役所から宮地交差点に向かって少し歩いたところに、2020年8月7日にオープンした餃子博物館なるお店があります。餃子以外にも、様々な本場の北京創作料理が食べられるそうです。ちなみに、西太后は餃子が鉱物だったとか。
西太后(シータイホウ)
西太后は、清の咸豊帝の側妃で、同治帝の母、清末期の権力者です。中国史上屈指の美食家と称された西太后は蒸し餃子が大好きです。西太后を喜ばせる為、料理人たちは工夫を凝らし、西太后が好きな雛鳥の肉と食用菊を餡にした蒸餃子を出しました。西太后は非常に喜んで賞賛しました。現代研究によりその蒸餃子は美味しいだけでなく、西太后の美と健康も支えてきたことが判明しました。疲れ目の対策に役立つ「ビタミンB1」と老化対策に役立つ「ビタミンE」が食用菊に多く含まれているわけです。
法界寺は、長保年間(999年〜1004年)に長盛居士が開基し、慶長十八年(1613年)に明誉善海によって中興されました。江戸時代には、徳川将軍が鷹狩(鶴御成)のために江戸郊外のこの地を度々訪れていて、法界寺は観音寺とともに「御膳所(休憩場所)」になっていました。
延宝八年銘の阿弥陀如来立像(法界寺)
長盛山道慶院という浄土宗の寺。長保年間(999年〜1004年)長盛居士開基と伝える。慶長十八年(1613年)明誉善海によって中興された。本尊の阿弥陀如来に「延宝八歳(1680年)九月三日、当寺五代海誉」と記されている。江戸後期〜幕末まで、将軍の「鶴お成り」の際のご膳所にあてられた。境内には、寛永六年(1629年)三月建立の清水外記の墓、眼病に効き目があるという長盛薬師などがある。なお、荒川区役所裏の「うなぎや墓地(荒川2−18)」出土の応永三十一年(1424年)銘の板碑を所蔵している。
境内には、石刻の仏で眼病のご利益があるという長盛薬師が祀られています。碑文が読み取れませんが、板碑は右側の写真の石碑でしょうか?
日本には大きな交差点に住宅地に進入するための路地を追加するなどして、多叉路になった場所がいくつもあります。宮地交差点は、荒川区荒川にある宮地陸橋の下にある多叉路です。明治通りと尾竹橋通りの交差点に、道灌山通りと3本の細い道路が接続された8叉路です。この交差点は、昭和三十年代までロータリーだった場所で、幹線道路の明治通りや尾竹橋通りが交差点内で微妙に屈折しているのはその名残りです。
藍染川西通りに面して、京成電鉄の新三河島駅があります。新三河島駅は、昭和六年(1931年)12月19日に開設された島式ホーム1面2線を有する高架駅です。昭和四十六年(1971年)にホームが延伸され、明治通りにかかるようになりました。出入口と改札口は同じ一階にありますが、改札口とホームの間を連絡するエレベーターが設置されています。令和五年度(2023年)の1日当りの平均乗降人員は5、696人で、京成線全69駅中50位となっています。これは、都内にある京成線の駅では最も少ない人数です。
明治通りに面して、冠新道の入口があります。冠新道商興会は、戦後すぐから賑わいを見せ始めた商店街で、通りには肉屋・青果店・花店・洋品店などの物販の店が地元の人たちの暮らしを支えています。「イベント商店街」の別名を持つ冠新道商興会は、その名の通り一年中多彩なイベントで賑わっています。3月の桜まつり・7月の夜店市&盆踊り大会・9月の佐渡おけさ・10月のハロウィンなど様々な催しが実施されています。ちなみに、冠新道の名称の由来ですが、冠新道の「冠」は江戸時代に新堀村の名主を務めた冠家の名字に関係しています。冠家は、現在の西日暮里地区に多くの土地を所有していた大地主で、近代には冠権四郎氏が日暮里町の助役を務めるほどの地域の有力者でした。冠権四郎氏は、大正五年(1916年)に現在の西日暮里六丁目の辺りの所有地を区画整理して冠町一〜三丁目と名付けました。その際、同時に道路を新設したのですが、これが冠新道だったのです。つまり「冠町の新しい道」が、文字通り冠新道と命名されたのです。
「D.尾久の原公園ルート」を歩いた際に、冠新道入口交差点の直ぐ北側に、「消防道路」という石碑が建っていました。その時は碑文は読み取れませんでしたが、今回何とか解読に成功しました。ちなみに、現在の防災通りは戦時中に空襲による延焼防止を目的に建物を強制疎開させて造られた疎開道路の跡地を整備したものです。昭和四十八年(1973年)に地元で「消防道路」という名称になり、平成二十四年(2012年)に荒川区が「尾久の原防災通り」と命名しました。
沿革
この道路は元、戦時中の疎開跡地として荒川べりまで通っていました。附近には木工やセルロイド工場が多く、数度の火災を発生しました。そこで私ども相謀り火災予防や交通の立場からも之を道路として存置する運動を開始しましたが、いろいろな事もあってようやく二十二年後、茲にその完成を見、名も融和会と改め、火災や交通の災害から人命財産を守って明るい町作りに協力し合うことを誓いました。
消防道路(促進協力会)改め融和会、一同
田端一丁目交差点は五差路になっていて、田端駅に繋がる都道458号線も分岐しています。上空には、舎人ライナーが通っています。
とある民家の前に、キティちゃんとボーイフレンドのディアダニエルの人形が置いてあります。左が2022年1月当時、右が2024年12月のものです。住民の方は余程のキティちゃんファンなのでしょう。
尾久駅前を通ります。尾久駅は東北本線(尾久支線)の駅で、所在地は北区になります。尾久駅には、宇都宮線と高崎線の電車が停車します。ちなみに、駅名は「おくえき」ですが、地名は「おぐ」と読みます。注意しないと気が付きませんが、駅前広場に設置されているトイレの建物形状は遠くから見ると「OKU」の形をしています。
尾久駅前都営バス停に到着しました。
ということで、荒川区で最後の「M.明治通り沿い都営バスコース」を歩き終えました。次は久しぶりに都心に戻って、華の中央区で最初のコースである「Course1.銀座・築地 「ひと」と「話題」の中心地 」を歩きます。
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