- Course1.銀座・築地 「ひと」と「話題」の中心地
- コース 踏破記
- 今日は中央区の「Course1.銀座・築地 「ひと」と「話題」の中心地」を歩きます。東京メトロ京橋駅から、中央通り・銀座柳通り・昭和通りと周遊し、浜恩賜公園を経て大橋通りから築地魚河岸に至ります。更地となった築地市場跡はどうなるのでしょうか?最初に歩いたのは2022年の1月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年12月に改めて歩きました。
Course1.銀座・築地 「ひと」と「話題」の中心地
「Course1.銀座・築地 「ひと」と「話題」の中心地」の歩行距離は約3.0km(約4、300歩)、歩行時間は約45分、消費カロリーは約135Kcalです。
スタート地点:東京メトロ京橋駅7番出入口
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- ポイント1 中央区観光情報センター
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京橋エドグランB1Fにある中央区の観光情報を発信するインフォメーションセンターです。1Fには休憩・PRスペースもあります。
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- ポイント2 歌舞伎座
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江戸の頃、芝居町として栄えた木挽町。この地に誕生して以来130年。今も、伝統芸能「歌舞伎」を世界に発信しています。
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- ポイント3 浜離宮恩賜庭園
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江戸時代の雰囲気を残す日本庭園。海水を引き込んだ「潮入の池」や、樹齢三百年と言われているクロマツがあります。
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- ポイント4 築地本願寺
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本堂の外観はインドの古代仏教建築を模しています。本堂・石塀・三門門柱は国の重要文化財です。
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- ポイント5 築地魚河岸
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水産・青果物のお店が集う「食のまち築地」のにぎわい拠点では、午前9時以降は一般客もお買い物ができます。
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ゴール地点:築地魚河岸
スタート地点の東京メトロ京橋駅7番出入口から歩き始めます。京橋駅の真上に建つ明治屋京橋ビルには出入口が3ケ所あり、7番出入口の階段下には「スナックモルチェ」、8番出入口の階段下には「京橋モルチェ」、9番出入口の階段下には「明治屋ワイン亭」があります。
2022年1月に訪れた時には7番出入口の階段下には「スナックモルチェ」がありましたが、2024年9月30日にリニューアルオープンし、店名が「Hanare Mortier」になりました。明治屋直輸入のワインやウイスキーやキリン樽生ビールと小皿料理が味わえるカジュアルバーとのことです。
ちなみに、「Hanare」は、明治屋系列の「レストラン京橋モルチェ」の「離れ」として食前の待ち合わせや軽めの食事や食後のもう一杯など様々なシーンで利用できるということで冠されたそうです。「Mortier」はフランス語で「モルタル(漆喰)、擂粉木、迫撃砲」などの意味があります。どれもバーのイメージに合いませんね。私の推測ですが、明治屋のグループの一員だった「J.J.Mortier」に因んでいるのではないかと思います。ジェ・ジェ・モルチェ氏は1889年に創業したボルドーにあるネゴシアン(ワイン商)で、創業者のルイ・モルチェ氏はシャトー・ラフィットのセラーマスターである一方、自身でもぶどう園を所有しジロンド農業協会の代表を務めるなど、ボルドーワイン界の中枢を担っていた人物です。その縁で店名にしたのかと。あくまで推測ですが。
- ポイント1 中央区観光情報センター
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京橋駅の改札口の先に、中央区観光情報センターがあります。中央区観光情報センターは、外国人を含む旅行者に中央区の魅力を発信するインフォメーションセンターです。和とモダンが調和する雰囲気の中で、多言語による対面案内や無料Wi−Fiサービスの提供、観光情報を検索できる多言語対応のタッチパネル端末の設置など、さまざまなサービスを行っています。
観光情報の収集に際しては、銀座・築地・日本橋といった外国人観光客が多く訪れている地域を中心に連携を図ることにより、地域固有の観光客が求めるタイムリーな情報を集約して中央区全体の情報発信機能の充実が図られています。また、東京都から「広域的な観光案内拠点」として指定されていて、東京の主要観光地などの情報も発信しています。
広場に面した1階には、休憩するためのソファーやPR用のスペースが設置されています。観光案内パンフレットの配布、デジタルサイネージによる情報発信や休憩スペースとしての活用の他、様々な展示イベントも実施されています。
中央区観光情報センターから歌舞伎座に向かいます。1階にある中央区観光情報センター休息・PRスペースの隣の隣には、パテシエとして有名な鎧塚俊彦オーナーシェフのお店「Toshi Yoroizuka Tokyo」があります。中央通りに面した京橋エドグランビルの最も目立つ場所にあり、カウンターデザートの他に、農園から手がけたショコラや人気のパン・ヘルシースイーツなどがカフェとサロンで楽しめます。お散歩の服装では入りがたい高級な雰囲気です。恵比寿の住宅街に小さなお店があった頃に一度ケーキを買ったことがあります。彩りが綺麗でしたね。
東京高速道路の高架の手前に、石碑がふたつ並んで立っています。ひとつは芝居小屋を思わせる外観の「江戸歌舞伎発祥の処」の碑、もうひとつは「京橋大根河岸 青物市場蹟」の碑です。中村座の始祖、猿若勘三郎が寛永元年(1624年)に中村南地(現在の京橋一丁目)で櫓をあげたのが江戸歌舞伎の発祥だそうです。歌舞伎と大根を合わせると大根役者?
江戸歌舞伎発祥の処
寛永元年二月十五日、元祖猿若中村勘三郎、中橋南地と言える此地に猿若中村座の芝居櫓を上ぐ。これ江戸歌舞伎の濫觴也。茲に史跡を按し、斯石を鎮め国劇歌舞伎発祥の地として永く記念す。
In the 15th of February, 1624 (Kanei 1nen), the founder Kanzaburo Nakamura, known on the stage as Saruwaka has erected a theatre tower of the Saruwaka-Nakamura-Za in this very place which wae(s?) then known as Nakabasi-nanchi in order fo announce the opening of the theatre by beating the drums from the tower. This is the origin of the Kabuki drama in the city of Tokyo which was then called Edo. After careful in nestigation we have as certained that this place was the birth place of the Japanese classical di(r?)ama (Kabuki), and we erect here the stone monument to commemorate the place.
レリーフも施されています。
江戸時代から昭和十年までの約270年間、京橋川にかかる紺屋橋(中ノ橋)から京橋にかけての京橋河岸は、大根を中心とした青物市場が存在して「大根河岸」と称されました。江戸時代は陸上輸送より船を使った水運が物資輸送と人の移動の中心でした。そのため、江戸にも水路が張り巡らせられていました。例えば、現在の銀座周辺には川や水路は全く見当たりませんが、昭和三十年代まで銀座は四方を川で囲まれていました。東には三十間堀川、南に汐留川、西に外堀、北には京橋川が流れていました。そして、川沿いには多くの荷揚げ場がありました。その荷揚げ場は河岸を呼ばれました。その河岸にはそれぞれ名前がついていますが、その多くは地名もしくは運ばれる商品・物資の名前でした。地名で言うと鎌倉河岸、木更津河岸といった河岸があります。また物資では、「魚河岸」・「米河岸」・「材木河岸」などがありましたが、最も有名なのは日本橋の「魚河岸」でした。京橋川沿いにも大根河岸はじめ、新河岸・白魚河岸・竹河岸など多くの河岸がありました。「大根河岸」は大根の荷揚げが多かったことから「大根河岸」と呼ばれました。なぜ大根の荷揚げが多かったかといいますと、この辺りに青物市場があって野菜が荷揚げされましたが、その中で特に大根の入荷が多かったためと言われています。大根河岸の青物市場は、数寄屋橋辺りにあった青物市場が火災に遭った後、水運の便が良い京橋川の沿岸に移転したことに始まるとされています。関東大震災後に築地に中央卸売市場ができたため、大根河岸青物市場も昭和十年に築地市場に移転しました。
京橋大根河岸 青物市場蹟
遠く寛文の初め、江戸数寄屋橋邉に處の人数名打倚りさゝやかなる青物の市を立てしに、遠近の村村より作物多く集りぬ。是等の店はゆきゝの人、或いは附近の人人に之をひさぐ。数年ならずして店の数増加し、漸く市場の形整い江戸府民のため無くてはかなわぬ機関とはなりぬ。その後火炎に罹りしにより、東海道の要路にあたり且つ水運の便ある京橋川の北岸紺屋町へ移轉す。偶この市場への大根の入荷殊更夥しきにより、世の人大根河岸と呼び、遂に京橋大根河岸と稱うるに至る。かくて二百餘年を経たる明治十年、京橋川南岸の太刀賣と稱する甘藷問屋数名を加入せしめ、問屋三十七軒仲買十七名を數うるに至りしかば府尹の認可を得て組合を設立し、こゝに始めて大市場としての規模完成す。大正十二年九月大震災の厄難に遭いしも組合員は鋭意復興に努力し、以前に優る盛況を呈す。時に問屋六十八名仲買百五名なり、昭和十年二月中央卸賣市場法實施の一環として東京市中央卸賣市場の開設さるに際し、國家の要請否みがたく父祖三百年愛着の絆を断ちて揺籃の地を去り、築地本場に入り問屋は一体となりて会社を起こし仲買は舊態のまゝ開業す。その後第二次世界大戦のため幾多の變革ありしも、戦後再び舊状に復し業況益好調を極む。斯る折柄舊京橋青物市場蹟記念碑建設の議起り、期成会を組織して之が實現に努め漸くその工を竣えたり。依ってここにその由来を記し、開設以来二百八十餘年の歴史を回顧し其盛時を偲ぶたよりとなす。
ところで、「京橋」の名前の由来ですが、江戸時代に架けられた橋に因んでいるそうです。京橋は、かって江戸城の外濠(現在の西銀座ジャンクション付近)から楓川・桜川の合流地点(現在の京橋ジャンクション付近)までを流れていた京橋川に架かっていた橋です。現在は埋め立てられた京橋川の跡地に東京高速道路が高架で通っています。
京橋
慶長八年(1603年)日本橋と時を同じくして東海道を結ぶ重要な橋がかけられた京橋。当時は薪炭や竹木類を扱う問屋が並んでいました。現在橋はなく、木造、石造り、鉄、コンクリートと時代と共に架け替え、現在親柱は3基残っています。
親柱3基のうち、中央通りの東側には明治時代に設置された親柱2基が保存されています。その内の1基の親柱の横に石碑が並んで置かれています。碑文には古めかしい説明文が書かれています。
京橋親柱の碑文
京橋は古来より其の名著える創架乃年ハ慶長年間なるが如し明暦以降数々架換へられ大正十一年末現橋に改築せらる此の橋柱は明治八年石造に架換へられたる時の擬寶珠欄干の親柱として橋名の書ハ明治の詩人佐々木支陰乃揮毫に係るものなり
中央通りの東側のもう一基の親柱は、大正時代に設置されました。立派な外観ですね。
親柱の横に「煉瓦銀座の碑」が置かれています。明治五年(1872年)の大火の後、街の不燃化が計画され、銀座煉瓦街が建設されました。以後この煉瓦街と街路樹の柳は銀座の名物となりました。煉瓦街も柳も街の発展とともに姿を消しましたが、その後煉瓦が発掘されたのを契機に昭和三十一年(1956年)、当時のままの「フランス積み」という方式で再現し、そこに煉瓦の碑が建てられました。
煉瓦銀座の碑
銀座は全焼し延焼築地方面に及び焼失戸数四千戸と称せらる。東京都府知事由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企画建策し、政府は国費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築を完成す。煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり。
碑のそばには明治七年(1874年)に設置されたガス燈の実物が復元されています。
煉瓦とガス燈 (1987年記)
明治初期我が国文明開化のシンボルとして、銀座には煉瓦建築がなされ、街路照明は、ガス燈が用いられた。床の煉瓦は、最近発掘されたものを、当時のままの「フランス積み」で再現。ガス燈の燈柱は、明治七年の実物を使用、燈具は忠実に復元。
西側の親柱の横には案内板が立っています。
京橋の親柱
京橋は、慶長八年(1603年)の創建とされる日本橋とほぼ同時期に初めて架けられたと伝えられる歴史のある橋です。昭和三十八年から四十年にかけての京橋川の埋立て工事に伴って撤去されましたが、その名残りを留めるものとして、石造の親柱二基と石およびコンクリート造の親柱一基が残されています。このうち、二基の石造親柱は、明治八年(1875年)に石造アーチ橋に架け替えられた時のものです。江戸時代の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形をしており、詩人の佐々木支陰の筆による「京橋」と「きやうはし」の橋名が彫られています。また、石およびコンクリート造の親柱は、大正十一年(1922年)の拡張工事でアール・デコ風の橋に架け替えられた時のものです。照明設備を備えた近代的な意匠を持ち、「京橋」と「きやうはし」の橋名と「大正十一年十一月成」の銅板プレートが付けられています。明治・大正とふたつの時代に設置された親柱は、近代橋梁のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。
Main Pillars of Kyobashi
Kyobashi is a historic bridge that was built around the same time when Nihonbashi Bridge was built in 1603. Although Kyobashi was removed due to land reclamation work along the Kyobashi River from 1963 to 1965, two stone pillars and one stone-concrete pillar remain as its vestiges. The two stone pillars were installed when a stone arch bridge was built as Kyobashi in 1875. The pillars take the form of a giboshi (bridge railing-post knob) and follow the tradition of the Edo period with the characters
"Kyohashi" written by poet Sasaki Shiin being carved as the name of bridge. The stone-concrete pillar was installed in 1922 during the extension work for building an art deco bridge. The pillar had a modern design with lighting facilities with the installation of a copper plate indicating that it has the name of bridge -"Kyobashi" and "Kyobashi"- and was "built in November 1922". These main pillars installed in the Meiji and Taisho period are registered as Cultural Properties of Chuo-city because they are valuable building structures that show the changing design of modern bridges.
高速道路の高架北東側には警察博物館があります。警察博物館は、日本警察の始まりから現代までの歴史的な資料を展示し、現在の警視庁の活動について紹介する、来て・見て・学び・体験できる博物館です。警視庁創設者である川路大警視に関する資料をはじめ、草創期からの事件に関する資料や、制服等装備品の変遷を展示するほか、警察各分野で活動する警察官の紹介等を行っています。子どもたちも興味を引くよう、アニメーションを使った映像作品や警察官の仕事を疑似体験できる展示装置などを導入し、楽しく警察の活動を学べます。
入口の前には本物のパトカーも展示されています。
パトカー
昭和二十八年(1953年)、白と黒に塗り分けられたパトカーが初めて登場し、それまでの白色のパトカーも塗り替えられ、統一された。この車両は、ロータリーエンジンを搭載したスポーツタイプで、観音開きの後部ドアが特徴。警視庁では交通取締用に4台導入され、平成二十八年(2016年)3月まで運用された。展示の車両は高速道路交通警察隊で使用されていた「高速31」。
Patrol Cars (MAZDA RX-8)
Patrol cars painted in black and white first appeared in 1953, and the white patrol cars that were in use until then were also repainted. This vehicle is a sports type equipped with a rotary engine, and is characterized by its rear-hinged doors. Four of these patrol cars were deployed to the Metropolitan Police Department for traffic control purposes, and remained in operation until March 2016.
東京高速道路の高架下を潜った先に、きらびやかなビルが建っています。銀座・有楽町の商業施設の建設ブームの先駆けとなり、2014年10月30日にオープンした「KIRARITO GINZA(キラリトギンザ)」という名前の商業施設です。「ブリリアント ライフステージ」というキーワードを軸に、人生において「キラリと輝く瞬間」である結婚式の式場が入る商業施設として「銀座で最も幸せな場所」となる願いを込めて命名されました。銀座通りの建物では前例がない100平方メートルのオープンテラスを4階部分の通り沿いに設け、エリア最大の屋上ガーデンが設けられています。ダイヤモンドのブリリアンカットをモチーフに、光の反射で時間とともに表情を変えるファサード(建物の正面)とし、建物全体がキラキラと輝く演出が施されています。地下一階には、「俺のフレンチ」と「俺のイタリアン」のお店が向かい合っています。気分によってフレンチかイタリアンが選べていいですね。
銀座柳通りの入口の先の中央通りに、「銀座発祥の地」の石碑が建っています。
銀座発祥の地
銀座役所趾
慶長十七年(紀元2272年・西暦1612年)、徳川幕府此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す。当時町名を新両替町と称しも、通称を銀座町と呼称せられ、明治二年遂に銀座を町名とする事に公示さる。
銀座柳通りを進みます。街路樹は勿論柳の木です。
通りの右手に古風なビルがあります。「モボ・モガ」とは、それぞれ「モダンボーイ」、「モダンガール」の略語で、1920年代(大正九年から昭和四年まで)の都会に、西洋文化の影響を受けて新しい風俗や流行現象に現れた先端的な若い男女のことを、主に外見的な特徴を指してこのように呼んでいました。
東京都選定歴史的建造物 ヨネイビルディング
所在地 中央区銀座2−8−20
設計者 森山松之助 .
建築年 昭和五年(1930年)
ヨネイビルディングは、震災後、銀座に林立したオフィスビルの中で現存し、当時の趣を維持しているビルの一つであり、建てられた頃は銀座が大きく発展しモボ・モガが街を闊歩していた。1階の外壁は、建築当時の状態をよく残しており、中世ロマネスク風の意匠で、らせん模様の柱をとりつけた大小のアーチ窓が石張りの重厚な壁面に軽快な印象を与えている。全体に調和性を重視した意匠で、突出した一直線の帯状の装飾により輪郭をきっちりと枠どっている。
三原橋交差点の手前に、1949年創業の日本最古の印度料理専門店のナイルレストランがあります。ナイルレストランは、「A.M.ナイル」さんが創業し、今はインドゴア州にある5ッ星ホテルで修業をした三代目ナイル善己さんが店主となっています。名物の「ムルギーランチ」は、骨付き鶏モモ肉・スパイスの効いたカレーソース・マッシュポテト・キャベツのスパイス炒め・グリーンピースが盛られた銀皿から、お店のスタッフさんが丁寧に鶏モモ肉から骨を取り除き、お約束の「よ〜く混じぇ混じぇして」と声を掛けて頂くのだそうです。
- ポイント2 歌舞伎座
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歌舞伎座に隣接する裏通りには「木挽町通リ」という名称が付いています。歌舞伎座の位置する辺りは、以前は「木挽町」という町名で呼ばれていました。木挽町の「木挽」とは、木材を大鋸(おが)でひき切ること、またはそれを職とする人を意味しています。慶長八年(1603年)、江戸城修築の再工事が始まると諸国各地から多くの有力な商人・職人が集まってきました。商人たちは出身地ごとに集まり、その出身地を町名とすることが多かったのに対し、職人たちはそれぞれの職種ごとに集まり住んで職名を町名とすることが多かったそうです。たとえば、鉄砲町・桶町、そして木挽町などです。大規模な工事がはじまると大勢の木挽職人が必要となり、その者たちが多く住む町であったことからとも、また鋸商が多かったからとも言われています。多くの人たちが住み繁栄していた寛永の頃、山村座・河原崎座の芝居小屋ができ、その後も続々と芝居や見世物小屋が木挽町に集まりました。芝居といえば木挽町、木挽町といえば芝居とくるほど芝居は木挽町になくてはならないものになっていきました。しかし、天保十二年(1889年)、天保の改革によって堺町葺屋町の中村座・市村座とともに木挽町の森田座・河原崎座も浅草猿若町へ移転してからは、芝居町としての賑わいに陰りがみえてきました。それから明治維新を経た明治二十二年、ふたたび木挽町に芝居の伝統の灯がよみがえります。新たに、芝居小屋が木挽町に設立されたのです。これが歌舞伎座の誕生です。
現在の歌舞伎座に併設されたお土産処にも木挽町という名前が付けられています。
歌舞伎座の敷地の隅に赤い鳥居のミニ神社が祀られています。神社名は「歌舞伎稲荷神社」となっています。歌舞伎稲荷神社は、もともと歌舞伎座の中にあり、歌舞伎俳優・劇場関係者・歌舞伎を見るために入った方しか参拝することができませんでした。しかし、歌舞伎座の建替えに伴って、歌舞伎座の正面玄関の右側の地下鉄東銀座駅出入口エスカレーター前に遷座されました。これにより一般の方も自由に参拝できるようになりました。歌舞伎稲荷神社の御由緒や創建年代等は不明ですが、御祭神は歌舞伎稲荷大明神とされています。歌舞伎興行の安全・大入りや、観客・舞台関係者の平穏無事を祈願して祀られている神社です。また、祭祀は近くの中央区湊一丁目にある「鉄砲洲稲荷神社」の神職が行っており、こちらの御分霊を祀っているとも云われています。また、歌舞伎の初日と千穐楽に奉告祭がおこなわれます。毎年十月下旬から十一月初旬にかけて開催される「オータムギンザ」の一環として、銀座各所に祀られる小祠を巡るというイベント「銀座八丁神社めぐり」が実施されていますが、歌舞伎稲荷神社もその一社です。蛇足ですが、千穐楽(千秋楽・千穐楽・千龝樂と同意語)とは、複数日にわたって同じ演目を行う興行において「最終日」を指す業界用語です。縮めて楽日や楽ともいわれます。本来は江戸期の歌舞伎や大相撲における用語でしたが、現在では広く演劇や興行一般で用いられています。普通は「千秋楽」と書きますが、「千穐楽」など異体字での表記は「秋」の文字にある「火」を忌んで、同音にもなる音符亀に置き換えたものです。これは、江戸時代の芝居小屋は特に出火や延焼に悩まされることが多かったための忌避といわれています。
歌舞伎座の軌跡を記した巨大な案内板が立っています。
第一期から第五期までの概要と、現在の歌舞伎座の設備が解説されています。
歌舞伎座の軌跡
第一期歌舞伎座は、明治の演劇改良運動の中、江戸時代に芝居町のひとつとして販わった木挽町に開場した。外観は洋風三層の煉瓦造り、内観は純和風の造りで、歌舞伎ならではの舞台機構である廻り舞台や花道を生かしたうえで、西欧の劇場建築を参照し設計され、灯光も電気式になり場内に設置されたシャンデリアも評判となった。開場初期は興行界の駆け引きや日清戦争による一時休場など波乱の幕開けだったが、九世團十郎、五世菊五郎、初世左團次らを中心として、多くの優れた舞台を生み出した。
外観が洋風だった第一期歌舞伎座から外観・内観ともに純然たる日本風の劇場へと改築され、第二期歌舞伎座は落成した。明治四十四年に開場した帝国劇場との差別化が図られ、外観は純日本式の奈良朝宮殿風の造りに改められた。客席天井は金箔置二重打上げの格天井となり、二個のアーク灯を設置したのをはじめ、無数の電灯を備えた。開場初の興行は「五代目中村歌右衛門襲名披露」。大正二年に松竹の創業者大谷竹次郎が経営を任され、当時の松竹合名会社が一手に興行を担うようになる。
火災で焼失した第二期歌舞伎座の跡地に再建された第三期歌舞伎座。外観は奈良朝の典雅・桃山朝の豪壮な様式を取り入れたもので、建物全体は鉄筋コンクリート造。桟敷席などを除いて、座席から椅子席に改められるなど、より近代的な劇場に生まれ変わった。十五世羽左衛門、六世菊五郎、初世吉右衛門などの名優が活躍し、日本を代表する劇場としての地位を揺るぎないものとした。第二次世界大戦の戦況の悪化にともない昭和十九年二月興行を最後に休場。翌年の空襲で戦火に包まれる。
終戦後、GHQの占領政策で封建的な内容の演目が上演禁止となるが、理解者の尽力により徐々に上演が解禁。歌舞伎座の再建工事も昭和二十四年に開始される。物資が乏しい時代であったため、焼け残った第三期歌舞伎座の資材を再利用するなど難工事の連続だったが、昭和二十五年十二月に第四期歌舞伎座竣工。高度経済成長期の歌舞伎ブームを巻き起こし、昭和三十九年の東京オリンピックでは「ナイト・カブキ」公演も行う。平成二年から一年を通して歌舞伎興行が行われるようになった。
現在の第五期歌舞伎座は、オフィスビル歌舞伎座タワーとの複合施設「GINZA KABUKIZA」として平成二十五年に開場した。設計は隈研吾。外観の唐破風など、第四期歌舞伎座デザインを踏襲しつつ、細かな改善によって現代的な建築物として生まれ変わっている。新開場式には歌舞伎俳優が勢揃いし、華々しく歌舞伎座は新たな歴史を刻み始めた。以降も、世界唯一の歌舞伎専門劇場、芸の継承と革新を行う歌舞伎の殿堂として、良質な舞台を生み出し続けている。
歌舞伎座の玄関口である大間は、吹き抜けの空間が広がり、濃朱の丸柱が聳え、足元には熟練の織手によるめでたい昨鳥文様の美しい赤い緞通(だんつう:絨毯)が敷かれ、 劇場を訪れた人々を優美な異世界へと誘う。
檜の床板三千枚が敷き詰められる歌舞伎座舞台の寸法は第三期からほぼ変わっておらず、歌舞伎俳優の演技にはそのスケール感が染み付いている。歌舞伎座の定式幕は左から黒・柿色・萌葱の配色。
一階から四階まで全ての階から花道を見ることができるようになった第五期歌舞伎座の客席は、試作を繰り返し快適さが追求されている。音響の観点からも材質をこだわり抜いた設計が、芝居世界への没入を促す。
歌舞伎座から浜離宮恩賜庭園に向かいます。
2022年1月に訪れた時には三原橋交差点の一角に「俺のGrand Market」という食販店があったのですが、2024年12月に再訪した時には「俺の焼肉」になっていました。「俺の〜」で提供されるワインとか食品が買えて重宝していたんですけどね。
昭和通りを蓬莱橋交差点に向かって進みます。蓬莱橋は現在の中央区辺りを流れていた汐留川に架かっていた橋で、現在の蓬莱橋交差点のやや北・東京高速道路新橋出口付近にありました。江戸時代には汐留橋と呼ばれていましたが、明治五年(1872年)に汐留橋の傍の木挽町に後藤象二郎の「蓬莱社」が設立され、明治七年(1874年)に蓬莱社の資金で石橋に架け替えたことから蓬莱橋と呼ばれるようになりました。蓬莱橋は、関東大震災の復興橋梁として2径間の上路式コンクリートアーチ橋に改架されましたが、汐留川の埋め立てに伴い昭和三十九年(1964年)に廃橋となりました。
蓬莱橋交差点の脇に、仙台藩伊達家の屋敷で使われていた建物の礎石が残されています。
建物の礎石 (汐留遺跡)
丸い礎石は、仙台藩(宮城県)伊達家上家敷御殿の土台として使われていたもので、当時の御殿の大きさが偲ばれます。
Quiz Spot
ここには昔、築地市場への線路があり、その足跡を示すものが保存されています。それは何ですか?
新大橋通りの始点である、海岸通りの汐先橋交差点の脇に今時見かけない古びた踏切があります。ここには昭和六年(1931年)から昭和六十二年(1987年)の間、汐留貨物駅と築地中央卸売市場を結ぶ引込線があり、鮮魚や青果を積んだ貨物列車が行き来していました。トラックの普及とともに需要は少なくなり、貨物駅廃止の前に引込線は廃止されました。かつては築地川を渡る貨物列車も見られたのでしょうが、今はビル街の片隅にひっそりと「銀座に残された唯一の鉄道踏切信号機」として保存されています。
警報器の土台には、この踏切の歴史的な経緯を記した案内板が貼り付けてあります。
保存理由
元々、この高速道路の下には汐留川が流れ、鉄橋も架っていました。汐留駅は、わが国の鉄道開業当時における始発駅の新橋駅でしたが、大正3年(1914年)東京駅が中央駅になると、ここは貨物駅になりました。大震災後、築地に東京市中央卸売市場が完成すると、汐留駅と市場間に荷物運搬のための線路がしかれ、大きな働きをしたのです。都民の暮しの台所を支えて来たこの信号機を、国鉄廃止に当り捨て去られるのにしのびず、東京都中央卸売市場築地市場・東京都第一建設事務所並びに中央区教育委員会・地元各位の多大な御協力に依り、ここに永久保存されることになりました。
浜離宮前踏切説明
この信号機は、昭和6年(1931年)から昭和62年(1987年)1月31日までの56年間、国鉄汐留駅と東京都中央卸売市場築地市場との間を貨物引込線の踏切用として使用されました。最盛時には、1日150輌に達する貨物車が通過しましたが、貨物輸送の変化に伴い、汐留駅廃止と共に引込線も撤去されることになりました。しかしながら、地元民の要望により、銀座には珍しい鉄道踏切信号機として、保存されることになりました。
- ポイント3 浜離宮恩賜庭園
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浜離宮恩賜庭園は、浜離宮庭園にある潮入の池と二つの鴨場をもつ都立庭園であす。旧浜離宮庭園として特別史跡・特別名勝に指定されています。
沿革
海水を引き入れた潮入の池と、ふたつの鴨場を伝え、江戸時代には、江戸城の「出城」としての機能を果たしていた徳川将軍家の庭園です。承応三年(1654年)、徳川将軍家の鷹狩場に、四代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重が、海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てました。その後、綱重の子、綱豊(家宣)が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、「浜御殿」と呼ばれるようになりました。以来、歴代将軍によって幾度かの造園と改修工事が行われ、十一代将軍家斉の時代にほぼ現在の姿の庭園が完成しました。明治維新ののちは皇室の離宮となり、名称を「浜離宮」と変えました。関東大震災や戦災によって、御茶屋など数々の建造物や樹木が損傷し、往時の面影はなくなりましたが、昭和二十年(1945年)11月3日、東京都に下賜され、整備ののちに昭和二十一年(1946年)4月から「浜離宮恩賜庭園」として公開されました。その後、昭和二十七年(1952年)11月22日に「旧浜離宮庭園」(文化財指定名称)として国の特別名勝及び特別史跡に指定されました。
History
Once the gardens of successive Tokugawa shoguns, Hama-rikyu Gardens features a seawater pond whose levels change with the tides, and two kamoba, or duck hunting sites, within the grounds. It originally functioned as a dejiro, or branch castle, of Edo Castle in the Edo Period. In 1654, Matsudaira Tsunashige, the ruler of Kofu and the younger brother of Ietsuna, the 4th Tokugawa shogun, had part of a falconry
filled in and built a residence on the reclaimed land. This residence came to be known as the Kofu Hamayashiki (Kofu Beach Pavilion). When Tsunashige's son, Tsunatoyo (later Ienobu) became the 6th shogun, the residence became a detached residence for the shogun, and the name of the residence and its grounds was changed to Hama Goten (Beach Palace). From that time onward, successive shoguns continued to build and upgrade the gardens. They were completed under the guidance of the 11th Tokugawa shogun, Ienari, and would have looked almost exactly as they appear today. After the Meiji Restoration of 1868, the gardens became a villa for the Imperial family and the name was
changed to Hama-rikyu (Hama Detached Palace). The Great Kanto Earthquake and World War II bombings caused a great deal of damage to many of the buildings and vegetation, rendering the gardens unrecognizable. On November 3, 1945, the Imperial family donated the gardens to the City of Tokyo and, after they were repaired, they were opened to the public in April 1946. On November 22, 1952, Hama-rikyu Gardens (Hama Detached Palace Garden) was officially designated by the national government as a place of special scenic beauty and special historic interest.
大手門の前に案内板が立っています。
旧浜離宮庭園
沿革
この地はもと将軍家鷹狩の場所であったが承応年間 松平綱重の別邸となり、甲府浜屋敷または海手屋敷といわれた。ついで六代将軍 徳川家宣これを改めて浜御殿と改称し大いに改修を行い景観を整えた園内には、茶園、火薬所、織殿等が営まれ幕末には、石造洋館、延遼館の建設をみた。維新後、宮内省所管となり、園地を復旧し、皇室宴遊の地にあてられ、名も浜離宮と改められた。諸外国貴賓来訪の際には、延遼館はその迎賓館にあてられ明治天皇も賜宴のためしばしば本園に行幸せられ、特に明治十二年、米国前大統領グラント将軍が、わが国を訪問せられた際には親しく本園中の島茶屋において引見せられた。園は江戸時代に発達した大名庭園の代表的なものであって現存する汐入の庭の典型的なものとして貴重な文化財である。
門を入ったところにも案内板が立っています。
浜離宮恩賜庭園
沿革
寛永の頃までは将軍家鷹狩りの場所であったが、承応三年(1654年)甲府宰相綱重が埋立て別邸とし、甲府浜屋敷(海手屋敷)と呼ばれていた。その後、綱重の子 家宣が六代将軍となったため公収され名も浜御殿と改められ、将軍家の慰安場、社交場として大いに利用された。維新後 宮内省所管となり、園地を整備し皇室宴遊の地にあてられ名は、浜離宮と改められた。明治二年落成した延遼館は、洋風石造建築で鹿鳴館とともに世上にしられ、迎賓館にあてられるなど由緒ある建物であったが、明治二十二年取りこわされた。昭和二十年11月3日東京都に下賜され、一般に開放された。江戸時代に発達した大名庭園の代表的なもので、現存する潮入りの庭として貴重なものである。昭和二十七年、庭園全体が、国から重要文化財として特別名勝及び特別史跡の指定をうけている。
Hama-rikyu Gardens
History
The garden used to be a falconry ground of the Shogun Family till the middle of the 17th century. In 1654, Tsunashige, the Prime Minister of Kofu (present Yamanashi Prefecture) reclaimed the area and built a second residence and it was called Kofu Hama-yashiki (Umite Yashiki). Later, when Ienobu, the son of Tsunashige became the 6th Shogun, it was "confiscated" and its name was changed to Hama-goten and it was greatly used as a recreational and social place for the Shogun Family. After the Meiji Restoration, it became the jurisdiction of Kunaicho, the Imperial Household Agency and the garden was maintained and it was allotted for a place for royal parties and its name was changed to Hamarikyu. Western-style stone-built Enryokan which was inaugurated in 1869 and known to the world together with Rikumeikan was a legend-rich buiding allotted for guesthouse. However, it was demolished in 1889. Nov. 3rd, 1945, it was bestowed on the Tokyo Metropolitan Government as an Imperial gift and was open to the public. It was a representative garden of the previous feudal lords developed during the Edo Period and it was especially precious as a garden with an existing seawater pond. In 1952, as an important cultural asset, the garden was designated as a special place of scenic beauty and great historical interest by the country.
浜離宮の広大な敷地には様々な見所があります。池の真ん中に小島があり、そこに中島のお茶屋が建っています。島に渡る橋がお伝い橋です。池に造られたとはいえ、結構な長さですね。
お伝い橋
寛政5年(1793年)(11代徳川家斉の時代)に架けられたものが最初といわれています。往時は、現在よりも藤棚が長く設けられていました。現在の「お伝い橋」は総槍造りで、全長約120mあります。
池の先には小さな盛り土があります。富士見山というのだそうです。昔はここから富士山が見えたのでしょうね。富士見山から振り返ると、湖面に中島のお茶屋が遠望できます。改めて敷地の広さを実感できます。
中島のお茶屋
宝永4年(1707年)のちの6代将軍コ川家宣が建てたもので、室内からの眺めが素晴らしく、最も立派な御茶屋でした。別名を「押嶋亭 (こうおうてい)」とも呼ばれていました。享保9年(1724年)火災のため焼失し、64年後の天明8年(1788年)11代将軍家斉の治世に再建されました。明治維新後皇室の離宮となり、しばしば国賓等も迎えましたが、第二次大戦の空襲により焼失しました。その後、昭和58年(1983年)財団法人日本宝くじ協会の助成事業として再建しました。御茶屋とは、茶室とは異なり、将軍の接待や休憩場所として建てられた建物です。
新大橋通りを浜離宮恩賜庭園から築地本願寺に向かいます。右手にはかっての築地市場の跡地が広がっています。2020東京オリンピックで、競技場に選手・スタッフを競技場に運ぶ車両基地(駐車場)として使用されましたが、既に令和四年に撤去工事は終了し、今は更地になっています。この後、どのように変貌するのでしょうか?
ビキニ環礁の水爆実験で放射能に汚染されたマグロの顛末をまとめたプレートが工事用の壁に残っています。
1954年3月1日、米国が南太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で被爆した第五福龍丸から水揚げされた魚の一部(約2トン)が同月16日築地市場に入荷しました。国と東京都の検査が行われ、放射能汚染が判明した魚(サメ、マグロ)などは消費者の手に渡る前に市場内のこの一角に埋められ廃棄されました。全国では850隻余りの漁船から460トン近くの汚染した魚が見つかり、日本中がパニックとなって魚の消費が大きく落ち込みました。築地市場でも「せり」が成立しなくなるなど、市場関係者、漁業関係者も大きな打撃を受けました。このような核の被害がふたたび起きないことを願って、全国から10円募金で参加した大勢の子供たちと共に、この歴史的事実を記録するため、ここにプレートを作りました。
マグロ塚を作る会
築地場外市場は旧築地市場に隣接した商店街で、場外・場外市場・築地場外などとも呼ばれます。旧築地市場と築地四丁目交差点(新大橋通りと晴海通りとの交差点)との間の築地四丁目〜築地六丁目に位置しています。築地市場の豊洲市場への移転後も営業を継続していて、はとバスのコースも設定されています。すしざんまい本店(寿司)や小田保(豚カツ・フライ)や近江屋牛肉店(食肉)など、海産物を中心に小売店や飲食店などがあります。
最近はインバウンドの観光客が多く築地場外市場を訪れていて、ざっと見て7〜8割は外国人のような感じです。食べ歩きを楽しむ人も多く、串を頬張る人達があちこちに見られます。日本人からすると、あんなに高い魚介類をよく買うなとは思いますが。
- ポイント4 築地本願寺
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築地本願寺は、江戸時代の1617年に西本願寺の別院として浅草御門南の横山町(現在の日本橋横山町〜東日本橋)に建立されました。かっては、「江戸海岸御坊」とか「浜町御坊」と呼ばれていました。しかし明暦の大火(振袖火事)により本堂を焼失し、その後江戸幕府による区画整理のため旧地への再建が許されず、その代替地として八丁堀沖の海上が下付されました。そこで佃島(現在の中央区佃)の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き(この埋め立て工事が地名築地の由来)、1679年に再建され、「築地御坊」と呼ばれるようになりました。このときの本堂は西南(現在の築地市場)を向いて建てられ、場外市場のあたりが門前町となっていました。1923年9月1日の関東大震災では、地震による倒壊は免れたものの、直後に起こった火災によって再び伽藍を焼失しました。また、58か寺の寺中子院は被災後の区画整理により各地へ移転しました。
築地本願寺案内
1.宗 派 浄土真宗本願寺派(本山は京都西本願寺)
2.宗 祖 親鸞聖人(見真大師 1173年〜1262年)
3.御本尊 阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)
4.歴史
元和三年(1617年)本願寺第12世准如上人によって、本願寺派の関東地方における根本道場として、元江戸浅草横山町に創建されたが、明暦三年(1657年)の振袖火事により焼失した。その後八丁堀海上に約3万uの土地を幕府より下附され、当時大阪佃より移住した門徒が中心となって、この海辺を埋立てて本堂が建立された。その後たびたびの災火にあい、関東大震災(1923年)に焼失した。現在の本堂は、古代印度様式といわれ、東京大学教授、故、伊東忠太博士の設計によリ、 昭和六年松井建設株式会社が施工し、同九年に落成したものである。
THE TSUKIJI HONGANJI IS THE REGION OF THE NISHI HONGANJI IN KYOTO, THE HEAD TEMPLE OF THE JODO SHINSHU DENOMINATION OF BUDDHISM. THE ORIGINAL BRANCH WAS BUILT IN 1617 IN YOKOYAMA CHO. AFTER DESTRUCTION BY THE GREAT FIRE OF 1657, THE TEMPLE WAS REBUILT ON A SECTION OF A VAST AREA OF LAND RECLAIMED FROM TOKYO BAY BY LOYAL PARISHIONERS
(HENCE THE NAME "TSUKIJI", MEANING BUILT LAND). THE PRESENT INDIAN-STYLE STRUCTURE WAS ERECTED IN 1934.
現在の本堂は1934年の竣工で、古代インド様式をモチーフとしたこの建物は、当時の浄土真宗本願寺派法主・大谷光瑞と親交のあった東京帝国大学工学部名誉教授・伊東忠太による設計です。当時の宗教施設としては珍しい鉄筋コンクリート造で、大理石彫刻がふんだんに用いられ、そのスタイルは現在においても斬新かつ荘厳で築地の街の代表的な顔になっています。なお、本堂は重要文化財に指定されています。
新大橋通りに沿った境内の一角に沢山の石碑が墓碑が並んでいます。最初は、「酒井抱一」のお墓です。
酒井抱一墓
酒井抱一(1761年〜1828年)は名門酒井雅楽頭家の姫路藩主酒井忠仰の次男として生まれました。明和四年(1767年)忠因(ただなお)と名乗ります。大名家の習いとして、武術・絵画・俳諧・狂歌などにも親しみました。寛政九年(1797年)、三十七歳で西本願寺文如上人に随い出家し、「等覚院文詮暉真」と称します。浅草千束に移住し、抱一と号します。抱一は寛政年間後半ころから尾形光琳の画風に傾倒し、文化十二年(1815年)には、文化六年に移り住んだ下根岸の新居(後の雨華庵)で光琳百回忌を営みました。抱一は、琳派の画風に諸派の技法を取り入れた独特な作風を確立し、粋で瀟洒な江戸琳派を完成させます。代表作として「光琳百図」・「四季花鳥図屏風」・「夏秋草図屏風」などがあります。文政十一年、雨華庵で亡くなり、築地本願寺に葬られました。
Sakai Hoitsu Haka (The grave of Sakai Hoitsu)
Sakai Hoitsu is a painter in the late Edo period. Hoitsu was the second son of Sakai Tadamochi, the lord of Himeji Domain. He was familiar with arts, painting and poetry as is often the case in the lord family. After he became a Buddhist priest in 1797, he changed his name to Hoitsu. Hoitsu studied the work of Ogata Korin extensively and is known as a founder of Edo Rinpa School. There are "Korinhyakuzu", "Shiki kachozu byobu"and"Natsu-akikusazu byobu" as his masterpieces. In 1828, he died at Ugean, and buried at Tsukiji Honganji Temple.
築地本願寺には時代・身分・職業の異なるいろんな人のお墓があります。講談や映画・歌舞伎・舞台などで知られる「男の花道」は、三代目中村歌右衛門と玄碩をモデルとする眼科医土生玄硯との友情物語です。2006年には、滝沢秀明主演の時代劇ミュージカル(滝沢演舞城)の演目の一つにもなりました。
土生玄碩墓(はぶげんせきはか)
土生玄碩(1762年〜1848年)は江戸時代後期の眼科医で安芸国吉田で生まれました。名を義寿といい、桑翁と号しました。文化七年(1810年)奧医師を拝命し、同十三年法眼に叙されました。文化五年には十二代将軍徳川家慶の眼疾を治療しました。文政十二年(1829年)、シーボルトから眼病治療法を教授された謝礼に将軍拝領の紋服を贈ったことで、シーボルト事件に連座し、改易となり、江戸を追放されました。嘉永元年(1848年)八月十七日、八十七歳で死去し、土生家の菩提寺である築地本願寺中眞龍寺に葬られましたが、昭和三年(1928年)十二月区画整理のため改葬されました。墓標には「桑翁土生君之墓」とあります。著書には、「銀海波抄」・「指談録」・「獺祭録」などがあります。
Habu Genseki Haka (The grave of Habu Genseki)
Habu Genseki (1762-1848) was an ophthalmologist in the late Edo period. He was born in Yoshida Akinokuni (currenty Hiroshima pref.). Genseki became a shogun's personal doctor in 1810 and was bestowed currently with the title of Hogen in 1816. Genseki presented Siebold with a montsuki (a haori marked with a crest) given from the Shogun, as gratitude of the professor of oculistics. Therefore he was implicated in the Siebold Affairs on 1829 and banished from Edo. On August 17 in 1848, he died at 87.He wrote "Ginkaihasho, " "Shidanroku", "Dassairoku" and so on.
佃島というと佃煮ですね。江戸時代、徳川家康は名主森孫右衛門に摂津国の佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の腕の立つ漁師を江戸に呼び寄せるよう言い、隅田川河口・石川島南側の干潟を埋め立てて住まわせました。佃島の漁民は悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため自家用として小魚や貝類を塩や醤油で煮詰めて常備菜・保存食としていました。雑魚がたくさん獲れると、佃煮を大量に作り多く売り出すようになったといわれ、保存性の高さと価格の安さから江戸庶民に普及し、さらには参勤交代の武士が江戸の名物・土産物として各地に持ち帰ったため全国に広まりました。現在では佃島のあった勝どき・月島には超高層マンションが林立していますが、昔は佃島というくらいですから島だったんですね。佃島は隅田川の河口にあたり、川から運ばれてくる砂と小石で、砂し(海中に細長くできる砂の陸地)ができていました。そうなると大きな船が入ってこられなくなります。そこで明治時代の中ごろになると河口付近の川底にたまった砂や小石を取り除き、大きな船が入ってこられるようにしました。さらに、その砂や小石で隣りの石川島との間の砂の陸地を埋め立て、新しい島を造成しました。島を築いたため、読んで字のごとく「築島(つきしま)」と命名されましたが、後に築地と区別するために「月島」と改名されました。月島の名物はもんじゃ焼きですね。埋め立てが進むにつれ、沿岸の鉄工所や機械工場などで働く労働者が次々と移り住むようになり、人口が急増したことで子供の数も増えてきました。子供相手の駄菓子屋では、当時東京の下町で広く食べられていた「文字(もんじ)焼き」と言われるお菓子が人気を博していて、これが月島名物の「もんじゃ焼き」になったということです。佃煮ともんじゃ焼きは親類関係だったんですね。
佃島初代名主 佃忠兵衛報恩塔
正保元年(1644年)に埋め立て造成された個島(現在の佃一丁目)は、将軍の命で摂津国西成郡佃村・大和田村から江戸に下った漁師たちによって築島されました。島内の地所は、先達を務めた個村の庄屋・森孫右衛門・実弟九左衛門・従弟(九左衛門の娘婿)忠兵衛をはじめ、摂津国からの移住漁師三十数名の割り当て所有となりました。その後、孫右衛門は本国佃村で没し、九左衛門は日本橋の本小田原町で魚問屋(「佃屋」)を開いたため、一族の衆望を担った忠兵衛が個忠兵衛を名乗って佃島の初代名主役を務めました。初代名主の佃忠兵衛は、将軍・幕府への御用漁や佃島の開発とともに、明暦三年(1657年)の大火で焼失した本願寺の替地の埋め立て(築地)と御堂の再建にも尽カしました。境内に立つこの石塔は、佃島の開祖である初代名主・佃忠兵衛の遺徳を称えて、文久元年(1861年)の二百年忌に十代名主・森幸右衛門勝鎮(九左衛門家が絶家のため七代目から森姓を継承)と親族の佃宇右衛門寛敏が建立した報恩塔です。正面には忠兵衛の法名と没年(「篤行院釋久西居士」/「寛文二年壬寅四月四日享年九十有四歳」)、側面には、開祖の遺徳や代々名主を奉職してきた歴史が刻まれています。なお、これまで石塔正面の法名は「森孫右衛門」のものと判断されてきましたが、名主家伝来の記録などから「佃島初代名主 佃忠兵衛」であることが明らかになりました。
三業惑乱とは、江戸時代中期に浄土真宗本願寺派の教義をめぐって発生した大規模な紛争のことです。宗派内では解決せず、最終的には江戸幕府の寺社奉行が介入するまでに発展し、本願寺派門主が寺社奉行の裁定を追認する形で決着しました。西本願寺教団史上最大の異安心(異端)事件と評価されています。
大瀛(だいえい・1759年〜1804年)
大瀛和上は、江戸時代後期の浄土真宗本願寺派の学僧です。生まれは安芸筒賀村(広島)。11歳で得度をし、広島報専坊の慧雲に師事して、1776年、西本願寺の学林(僧侶の教育機関)へと入り、浄土真宗の教義の勉学に励みました。その後は河内(大阪)、備後(広島)、安芸(広島)、石見(島根)を住職として周り布教活動に勤めました。勉学への志が高く、1794年に、広島城西に学寮・セイ園舍(せいえんしゃ)を設立して子弟の育成に力を注ぎました。1797年に「三業帰命説」という教義が世に出されると、大瀛和上は「横超直道金剛ヘイ(おうちょうじきどうこんごうへい)」などを著して反論し、いわゆる「三業惑乱(さんごうわくらん)」という法論が起こりました。この騒動は江戸幕府が介入するほどの大きな事件となり、大瀛和上は病身のまま京都や江戸に赴き、対論しました。しかし1804年に、当時の江戸築地別院内の成勝寺にて死去されました。その後、幕府から「三業帰命説」は異端であるとする審判が下され、そして西本願寺からもこれが認められて、大瀛和上の徳は今日まで多くの念仏者に偲ばれています。
Daiei (1759-1804)
Daiei, a scholar monk of the Jodo Shinshu tradition in the late Edo period. Born in Tsutsuga village of Aki province (Hiroshima prefecture), he was ordained at the age of 11, and studied under a learned priest Eun at Hosenbo temple in Hiroshima. In 1776, he enrolled at a Hongwanji-affiliate educational institution for priests known as Gakurin, to deepen his understanding of the Jodo Shinshu teaching. After completion of his study at the institution, he served various temples in western Japan, including
Kawachi (Osaka), Bingo and Aki (both Hiroshima), and Ishimi (Shimane) areas as a resident priest to share the teaching. In 1794, he founded a private Buddhist institute, Seiensha in Hiroshima to foster young scholars. When a theory that emphasized pursuit of the sango, or three kinds of religious practices of bodily,
verbal, and mental acts was introduced, Daiei publicly argued through writings and debates against such theory. The arguments between the two stances led to the historic debate known as the Sango Wakuran (lit., "theoretical dispute over three religious practices") which had become so heated that the Edo shogunate government had to intervene. Despite becoming ill, as representative of the traditional school, Daiei travelled to Kyoto and Edo (present Tokyo) for debates, and died at Joshoji temple, a branch of Tsukiji Betsuin (present Tsukiji Hongwanji) in 1804. Following Daiei's death, the new theory of which he disagreed with was determined incorrect, and
Hongwanji, the head temple endorsed the judgement. Thus the orthodoxy of Daiei' s argument was proven and his dedication to secure the teaching has been highly regarded by many Jodo Shinshu followers until today.
間新六は高輪泉岳寺にもお墓がありますが、実際は築地本願寺に埋葬されたんですね。他の四十七士と一緒になるよう泉岳寺にも供養墓が置かれたのでしょう。
間新六供養塔
間新六光風(1680年〜1703年)は赤穂藩主浅野家臣間光延の次男として生まれます。元禄十四年(1701年)三月藩主浅野長矩が殿中刃傷事件を起こし、藩は改易となります。新六は父及び兄光興とともに仇討ちに加わり、元禄十五年十二月十四日(1703年1月30日)に吉良上野介を討ち取り(赤穂事件)、麻布の長府藩毛利邸へ預かりとなり、初腹します。赤穂義士の墓は主君長矩の墓のある高輪泉岳寺にありますが、新六は義兄中堂又助により、築地本願寺に埋葬されました。泉岳寺にも新六の供養墓がありますが、本願寺に葬られた理由は、檀徒であったのか、生前の意志によるものなのか、不明です。現在のものは、火災により焼失したものを天保五年(1834年)に羽佐間宗玄が再建したものです。
Hazama Shinroku Kuyoto (Hazama Shinroku Monument)
Hazama Shinroku Mitsukaze (1680-1703) was the second son of Hazama Mitsunobu, who was a retainer of the Asano, the lord of Ako Domain. In March 1701, the lord Asano Naganori drew his sword in the Edo Castle and the domain was confiscated. Shinroku joined the retainers of the Asamo to avenge their lord with his father and the elder brother Mitsuoki. The retainers killed Kira Yoshihisa on January 30, 1703 (Ako Incident), and they committed seppuku at the residence of the Mori Clan of Chofu Domain in Azabu. The graves of the Ako Warriors are located at Takanawa Sengaku-ji Temple, where their lord Naganori's grave is located, but Shinroku was buried by his brother-in-law at Tsukiji Hongan-ji Temple. The current grave is rebuilt by Hazama Sogen in 1834 after the original grave was lost by fire.
境内に球体の石碑が置かれています。最近は一般のお墓でも様々な形の墓石が見られますが、案内板には「台湾物故者・・・」と書いてあります。遠い異国の地で亡くなった方々の霊も祖国の地で安眠できることでしょう。
台湾物故者遺骨安置所建設の由来
太平洋戦争敗戦とともに、台湾在留の日本人は引き揚げたが、台湾に残された日本人物故者の墓地には誰一人訪れる人もなく放置されていた。これら台湾における日本人物故者を悼む多くの方の強い願いによって、昭和三十二年、当時の日本及び中華民国、両国政府の合意に基づき、台湾各地に散在する日本人墓地の整理が開始された。昭和三十六年にこれが完了とともに、台北・台中・高雄の三か所に日本人遺骨安置所がつくられ、一万三千余人の遺骨が納められた。その後、これら全員の分骨を故国に持ち帰ることができ、これを安置するため昭和三十八年三月「台湾物故者慰霊塔建設会」により、本願寺築地別院(当時)に遺骨安置所が建設された。爾来、その維持管理および年次法要は一般財団法人台湾協会がその掌にあたっている。さらに、その後台湾物故者の強い希望もあって戦後故国へ引き揚げて亡くなった方あるいは台湾縁故者で戦前故国へ帰還して亡くなった方の遺骨も、昭和六十年九月以降ここに納めている。なお、境内整備に伴い、現在、遺骨は合葬墓に納められている。
Mausoleum for the Ashes of Japanese Deceased in Taiwan
At the end of the Pacific War, many Japanese who were residing in Taiwan returned home while some remained. The gravesites of the Japanese in Taiwan had since been neglected and unmaintained. Responding to the many concerns received, in 1957, the then governments of Japan and Republic of China mutually agreed to conduct a survey to locate the graves of Japanese who were interred throughout Taiwan. When the survey was completed in 1961, mausoleums were built in three Taiwan cities including Taipei, Taichung and Kaohsiung, to house the remains of approximately thirteen thousand deceased Japanese. Approval was later granted to bring a portion of each person' s remains back to Japan and in March 1963, columbarium was built by the Association for the Building of a Memorial Monument Remembering the Japanese Deceased in Taiwan. Since then, the Mausoleum has been maintained by the Japan-Taiwan Association, which also conducts annual memorial services for the deceased. In accommodating request made by their relatives, beginning September 1985, it was approved that the remains of those who died after returning to Japan either before or after the war also be interred in the mausoleum. Following the ground development around the west gate, their ashes have since been relocated to the joint cemetery.
築地本願寺の宗派は浄土真宗本願寺派なので、宗祖は親鸞聖人です。境内の端に親鸞聖人の巨大な像が立っています。その一角には親鸞聖人の歩んだ系統譜が記されています。親鸞は「歎異抄」を著したと学校で習ったような気がするのですが、親鸞の死後に弟子の唯円が書いたみたいですね。親鸞の教えは難解で、実子である善鸞でさえも理解できなかったようです。「歎異抄」とは、親鸞と「異」なる教えがなされたことを「歎」いた本という意味なんでしょうか?
親鸞聖人
〇誕生と幼少期
平安時代も終わりに近い承安三年(1173年)の春、わたしたち浄土真宗本願寺派の宗祖・親鷲聖人は京都にてご誕生になられました。父親は藤原氏の流れをくむ日野有範、母親については現在までよく分かっていません。日野氏は儒学を得意としており、親鷺聖人も六歳頃から漢文の教育を受けていたと推測されます。親鷲聖人は九歳のとき、慈円和尚のもとで出家・得度をされ、範宴と名のられたと伝えられています。
○比叡山での修行
比叡山では、横川で不断念仏などを修する堂僧として、20年の間、厳しい学問と修行に励まれました。しかし建仁元年(1201年)親鷺聖人29歳のとき、比叡山では悟りに至る道を見出すことができなかったことから、ついに山を下り、京都の町中にある聖徳太子ゆかりの六角堂にて100日間の参籠(さんろう:祈願のため神社や寺院などにある期間こもること)をされました。95日目の暁、聖徳太子に関する偶文を唱え終ったところに六角堂の本尊である観音菩薩からの夢告を得て、東山の吉水で本願念仏の教えを説かれていた法然聖人の草庵を訪ねられます。
○吉水での法然聖人との出遇い
その後、自身が浄土往生できるための縁、すなわちその指導を得るために法然聖人の弟子となられました。聞法(もんぽう:仏教の教法を自己をむなしくして聴聞すること)と研学に励まれた親鷲聖人は、法然聖人の特別の信頼を得て聖人の主著である「選択本願念仏集」と真影(肖像画)を写すことを許されています。
○結婚と越後流罪
親鷺聖人は吉水での生活の中で、京都の三善為教の娘である恵信尼さまと結婚されます。そのころ法然聖人の開かれた専修念仏の教えに対して、延暦寺や奈良の興福寺などから激しい非難が出され、ついに承元元年(1207年)に、法然聖人や親鷺聖人などの師弟が罪科に処せられ、親鷺聖人は越後国(新潟県)に流罪となりました。これを機に「愚禿親鷺」と名のられ「非僧非俗」の立場に立たれます。
○関東伝道と「教行信証」の執筆
越後への流罪は、家族を連れての布教活動の始まりとなりました。およそ7年間の流人生活の後、親鷺聖人とその家族は関東へ向かわれることになります。一説には、新興の武士の都である鎌倉での布教を目指したのではないかと考えられています。建保二年(1214年)、42歳の親鷺聖人は家族とともに、下野国(栃木県)・常陸国(茨城県)の大領主・宇都宮頼綱の領地である稲田へと向かわれました。常陸国・稲田に草庵を結んだ親鷲聖人は、そこから約三十数km以内の所へ一泊二日での布教活動をされたと考えられています。また主著「教行信証」もこの地で書き始められました。関東時代後半には鎌倉幕府で行われた一切経校合の事業にも参加されておられ、ここ東京を含む南関東にも多くの由緒を伝える寺院が現存しています。
〇再び京都へ
親鷺聖人は60〜63歳のころ、関東約20年の伝道を終えられて帰洛されます。京都では晩年まで「教行信証」を添削されるとともに、「和讃」など数多くの書物を著され、関東から訪ねてくる門弟たちに本願のこころを伝え、書簡で他力念仏の質問に答えられました。弘長二年11月2日(新暦1263年一月十六日)90歳、親鷺聖人は三条富小路にある弟尋有の善法坊で往生の素懐を遂げられました。
Shinran Shonin
Birth and Childhood
Shinran Shonin, the founder of the Jodo Shinshu teaching, was born in Kyoto in the spring of Joan 3 (1173), at the close of the Heian Period. His father was Hino Arinori of the Fujiwara clan. Little is known about his mother. Since the Hino family was acquainted with Confucianism, it is assumed that Shinran had been taught Chinese classics since early childhood. At the age of 9, Shinran entered the Buddhist priesthood under the guidance of Jien and received the name Han' nen.
Ascetic Training in Mt. Hiei
In the Yokawa area of Mt. Hiei, Shinran practiced fudan nembutsu (lit., "continuous recitation of the name of Amida Buddha" ) as a doso monk and devoted himself to strict studies and training for 20 years. Unable to find the way to enlightenment however, he descended Mt. Hiei in Ken' nin 1 (1201) at the age of 29. In search of the Way, for 100 straight days, he commuted to Rokkakudo, a temple in the city of Kyoto, which is dedicated to Prince Shotoku. At dawn of the 95th day, as he was finishing the chanting of a verse that praises Prince Shotoku, an illusion of Kannon Bosatsu, or Bodhisattva Avalokitesvara, the principal image of the temple appeared to him sending a message. Following the words he received, he visited Honen Shonin who was residing in the Yoshimizu area of Kyoto, where Honen was expounding the teaching on the Primal Vow of Amida Buddha and the Nembutsu.
Encounter with Honen in Yoshimizu
Shinran continuously visited Honen, seeking guidance for attaining birth and emancipation in the Pure Land and was finally approved to become a disciple of Honen. Through his dedication and unending devotion, Shinran was granted approval by Master Honen to copy his main work, Senjaku Hongan Nembutsu Shu (Passages on the Nembutsu Selected in the Primal Vow) and to make a portrait of Honen. Historically, such privileges were granted to only a few.
Marriage and Exile to Echigo
While living in Yoshimizu, Shinran married Eshinni, who was a daughter of Miyoshi Tamenori, an aristocrat in Kyoto. In those days, the teaching of senju nembutsu (lit. "sole practice of the recitation of Amida Buddha' s name") which was spread by Honen had been criticized by some traditional Buddhist schools including Enryakuji on Mt. Hiei and Kofukuji in Nara. The oppression of the Nembutsu teaching hit its peak in Jogen 1 (1207) when Honen and his disciples including Shinran were punished and exiled to different regions throughout Japan. Shinran was exiled to Echigo (present Niigata prefecture) where he then gave himself the name gutoku (lit., "foolish and stubbled-headed"). This was his way of expressing that he had taken the stance as a hiso hizoku (neither a monk nor one in worldly life).
Mission in the Kanto region and Kyogyoshinsho
Shinran began his propagation efforts since being exiled to Echigo. He and his family lived in Echigo for seven years before being pardoned. Rather than returning to Kyoto however, he and his family moved to the Kanto area. A theory has it that Shinran aimed to spread the Nembutsu teaching among samurai warriors, which was an emerging class in the region at the time. There are also records that show that in Kempo 2 (1214), Shinran at the age of 42 and his family arrived in Inada (Ibaraki prefecture), which was then governed by a powerful feudal lord who ruled Hitachi (present-day Ibaraki) and Shimotsuke (present-day Tochigi). During his time in Inada, it is said that Shinran propagated within a 30 kilometer radius from his home, allowing him to return home the next day. It was during this time that Shinran began writing his main work, the Kyogyoshinsho (The True Teaching, Practice and Realization of the Pure Land Way), while also taking part in the project of proofreading the complete Buddhist canon sponsored by the Kamakura feudal government. Stories telling of Shinran' s life while in the Kanto region have been handed down to us, many of which mention temples that are still in existence today.
Returning to Kyoto
Shinran returned to Kyoto in his early 60s after propagating in the Kanto region for about 20 years. Fellow Nembutsu followers in the Kanto region then visited Shinran in Kyoto, where he would answer their questions and he also corresponded with them through letters. In his later years, he devoted much of his time to revising the Kyogyoshinsho and composing wasan (Japanese poems) in addition to working on many other writings. On the twenty-eighth day of the eleventh month in Kocho 2 (January 16, 1263 based on the western calendar), Shinran Shonin at the age of 90, passed away at Zempobo, the temple of his younger brother Jin' u, which is believed to have been located at the corner of Sanjo and Tominokoji streets.
築地本願寺からゴール地点の築地魚河岸に向かいます。かって、築地川南支流が晴海通りと交差する地点には門跡橋が架かっていました。その親柱が駐車場入口横に展示されています。巨大な石柱で、壁面には「昭和三年六月 復興局建造」というプレートが埋め込まれています。門跡橋の名称にはいろいろな変遷があったようです。
門跡橋の親柱
門跡橋は、昭和三年(一九二八年)六月に築地三丁目(現在の築地三・四丁目)と南小田原町一・二丁目(現在の築地六丁目)との間に架けられた築地川南支流の震災復興橋梁でした。昭和六十一年(一九八六年)から開始された築地川の埋め立て工事や道路の拡幅工事に伴って撤去されましたが、その時に花崗岩製の親柱一基が高欄の一部とともに、この場所に移築保存されました。なお、門跡橋という名称は、江戸時代に同じく築地川南支流に架けられていた小田原橋の俗称から取ったものです。当初は「築南橋」という橋名が付けられていましたが、昭和三年十一月、西本願寺の門徒代表以下五十九名から、東京市長宛に「門跡橋」への名称変更に関する陳情書が提出され、門跡橋と改称された経緯があります。この親柱は、復興事業の歴史を今日に伝える資料として重要であるとともに、震災復興橋梁がこの辺りに架けられていたことを物語る貴重な文化財です。
Newel Post of Monzeki* Bridge
The subject bridge was built in June 1928 under the reconstruction project of the great Kanto Earthquake between the bank of Tsukiji 3 chome(currently Tsukiji 3, 4) and Minamiodawaracho 1 & 2chome (currently Tsukiji 6)over the south subsidiary stream of Tsukiji River. Because of the reclamation work of Tsukiji River and the expansion work of roads starting in 1986, the bridge itself was removed. However, one granite newel post together with a part of bridge railings were moved here for conservation.
Besides, the name of MONZEKI Bridge came from the colloquial term of Odawara Bridge locating as well over the south subsidiary stream of Tsukiji River in Edo era. At first, this Bridge was named "Tsukinam Bridge", however, its name changed to
"MONZEKI Bridge" on Nov. 1928 as the petition for requesting the renaming was submitted to the Mayor of Tokyo-shi (currently Tokyo Metropolitan City) by 59 religious followers, including the head of them, of Nishi Hongwanji Temple.
This newel post is meaningful as an informational material bringing down the history of reconstruction project and also a valuable cultural asset telling the bridge under the reconstruction project was once located this area.
*MONZEKI means specified temples managed by aristocrats. Naming of class of temple.
- ポイント5 築地魚河岸
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築地魚河岸は、築地場外市場の一画にある生鮮食品販売中心の小売市場です。鮮魚や青果といった生鮮食材の他、乾物や干物や漬け魚などの加工食品を扱う専門店が入居しています。築地市場の豊洲移転後も築地周辺の活気と賑わいを将来に向けて継承するために中央区によって設置され、2016年11月にプレオープンし、2018年10月にグランドオープンしました。運営は一般財団法人中央区都市整備公社が行っていて、実質的に公設市場のような運営形態になっています。築地魚河岸は小田渡橋棟と海幸橋棟のふたつの建物から構成されていて、どちらも1階部分に店舗が並び、2階は業務スペースとなっています。小田原橋棟の3階にはフードコートやテラスなども設置され、飲食利用も可能となっています。
築地魚河岸には、豊洲市場の水産・青果の仲卸を経営母体とした小売り店など約60軒が入居していて、一般消費者だけでなく飲食店などのプロの仕入れにも対応しています。営業日は東京都中央卸売市場の開場日・休場日に準じていて、開館時間は午前5時〜午後3時となっています。鮮魚店の多くは丸のままの魚を中心に扱っていますが、店舗によっては三枚おろしなどの下処理に対応していたり、切り身や刺身を取り揃えている店舗もあり、一般消費者にも利用しやすい形態になっています。また観光客が3階のテラスですぐ食べられるような寿司や惣菜などを扱っている店舗もあります。
ということで、中央区で最初の「Course1.銀座・築地 「ひと」と「話題」の中心地」を歩き終えました。次は中央区で二番目のコースである「Course2.銀座・新川・新富 ご当地モニュメントめぐり 」を歩きます。
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