Course2.銀座・新川・新富 ご当地モニュメントめぐり  

コース 踏破記  

今日は中央区の「Course2.銀座・新川・新富 ご当地モニュメントめぐり」を歩きます。東京メトロ八丁堀駅から、日本橋川・隅田川沿いの川岸を歩き、築地川跡を辿って、最後は華の銀座を巡ります。最初に歩いたのは2022年の1月でしたが、記憶が薄れてきましたので2024年12月に改めて歩きました。

Course2.銀座・新川・新富 ご当地モニュメントめぐり

「Course2.銀座・新川・新富 ご当地モニュメントめぐり」の歩行距離は約6.2km(約8、900歩)、歩行時間は約1時間33分、消費カロリーは約279Kcalです。

スタート地点:東京メトロ八丁堀駅出入口A4
ポイント1 新川公園
スーパー堤防上部にある公園。隅田川に沿って桜並木があり、歩きながら春のお花見が楽しめます。
ポイント2 鉄砲州稲荷神社
京橋地区の産土神(うぶすなのかみ)であり、歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれています。
ポイント3 シーボルトの胸像
シーボルトは1823年に商館医員として来日し、江戸蘭学の発展に貢献しました。胸像は日蘭友好の証です。
ポイント4 名犬チロリ記念碑
殺処分寸前に助けられたチロリは、後にセラピードックとなり、多くの高齢者・障害者をサポートしました。
ポイント5 若い時計台
制作者は芸術家・岡本太郎。「太陽の塔」よりも少し前に誕生し、夜はライトアップされます。

ゴール地点:東京メトロ銀座駅出入口C2


スタート地点の東京メトロ八丁堀駅出入口A4から歩き始めます。



新大橋通りを八丁堀交差点まで進んで右折しますと、直ぐ先に亀島川に架かる亀島橋があります。亀島川は、中央区を流れる荒川水系の一級河川です。中央区にある霊岸橋付近で日本橋川から分流し南へ流れ、亀島橋を過ぎたあたりで南東に折れ、中央区の中央大橋下流で隅田川に合流します。川沿いには、日比谷河岸・将監河岸・亀島河岸・湊河岸がありました。約1kmの短い流路ですが、5つの橋が架かっています。江戸期には川沿いに向井将監(忠勝ほか)の御船手奉行所があって、江戸に入る船舶はここであらためを受けたため、将監河岸とも呼ばれました。上流の日本橋川との分岐点である日本橋水門と、河口の亀島川水門の2つの防潮水門で完全に閉め切ることができるようになっています。隅田川との合流点は海に近いため、高潮の発生時に海水が逆流して洪水を引き起こす可能性があるからです。



亀島橋西詰の右手に芭蕉の句碑があります。江戸時代、この辺りは与力や同心が住んだ町として知られていますが、また舟入場の掘割は石材を運ぶに便利なことから多くの石屋がありました。この句は、石ばかり置いた中に菊の花を見つけた印象を詠んだものです。芭蕉50歳の元禄六年(1693年)の秋の作で、翌年には大阪で亡くなりますので晩年の作といえます。なにげない句ですが、一見ごつごつして殺風景な石屋の作業場の石材の合間に長寿を祝う菊がそそとして咲いているが、石は死後の象徴を形作るものとして、その対比を詠んだものと思われます。「あい」という言葉が印象的ですね。

芭蕉句碑

俳人松尾芭蕉(1644年〜1694年)の句。元禄六年(1693年)の作。「藤の実」、「翁草」、「蕉翁句集」などに所収。この句は「江戸名所図会」三ツ橋の挿絵に八丁堀にてとして載っている。
菊の花 咲くや石屋の 石の間(あひ)




芭蕉の句碑の脇に、この辺りに住んでいたといわれる東洲斎写楽と伊能忠敬の業績を記した案内板があります。

この地に移住し功績を伝えられる人物

東洲斎写楽

江戸時代の浮世絵師。天明から寛政年間頃の人。
寛政六年(1794年)五月から翌1795年の正月までの10か月間で、役者絵、相撲絵の版画140点を制作した。写楽は、それまでの常識を覆す雲母摺りの豪華な背景と、リアルな表情と姿態を描き、日本を代表する浮世絵師の一人として世界に知られている。写楽の生涯や正体は不明な点が多かったが、幕末の考証者・斎藤月岑は「増補浮世絵類考」(1844年)で「写楽は江戸八丁堀に住む阿波藩の能役者の斎藤十郎兵衛」と記載した。さらに、平成九年(1997年)埼玉県越谷市の法光寺に残る過去帳に「江戸八丁堀地蔵橋に住み、阿波藩に仕える斎藤十郎兵衞が文政三年(1820年)三月七日に五十八歳で死亡した」との記述が発見され、「写楽と斎藤十郎兵衞が同一人物」で、ここ八丁堀に居住していたとの説が注目されるようになってきた。

Toshusai Sharaku  Dates unknown

An Ukiyo-e Artist from the Edo Period.
He produced approximately 140 pieces of woodblock prints of Kabuki and Noh actors and sumo wrestlers. All of his work was done in just 10 months from May of 1794. Sharaku used Kira-zuri (grounded mica) to create gorgeous backgrounds and depicted actors' facial expressions and postures very realistically. He is known to the world as one of the greatest Ukiyo-e masters from Japan. Sharaku's life seemed very mysterious. There was also a Noh actor named Jurobei Saitoh of Awa domain who lived in Hacchobori. A theory is being recognized now that Sharaku and Jurobei Saitoh were the same person.

伊能忠敬

延亨二年(1745年)〜文政元年(1818年)。
近代的日本地図作成の基礎を築いた人。佐原村(千葉県佐原市:現在は香取市佐原)で酒造・薪炭・金融などを取り扱う豪商であった伊能家に婿入りし、商才を発揮して蓄財した後、五十二歳の時に江戸に出て西洋天文学の勉強を始めた。五十六歳から七十二歳にわたり、延べ三千七百三十七日、約四万キロメートルに及ぶ徒歩の日本初全国測量を行なった。その成果を編纂した「日本沿海興地全国・実測録」は我国の発展に大きく貢献し、海外でも高く評価された。文化十一年(1814年)、深川の隠宅を八丁堀亀島町に移した忠敬は、地図作成を続け、四年後にこの地で没した。

Tadataka Inoh  1745-1818

Tadataka Inoh established the method of surveying land that made it possible to create the modern map of Japan.
At the age of 52, Inoh began studying Western astronomy. From the age of 56 to 72, he spent 3,737 days walking about 40,000 km doing the first geographical survey of Japan. He created "Zenkoku Jissokuroku (The Inoh Maps)" compiling the data from his survey. His work contributed a great deal to the development of modern Japan and it was highly respected in other countries. Inoh died here in Hacchobori in the year of 1818.




Quiz Spot

ここには忠臣蔵(赤穂事件)で名を馳せた浪士の石碑があります。この人物の名前をお答え下さい。


亀島橋西詰の左手の小さな広場の植え込みに、堀部安兵衛武庸之碑が置かれています。赤穂義士の一人である堀部安兵衛の生涯や法名が簡潔に刻まれています。武庸の意味ですが、安兵衛は通称で武庸が本名とのことです。浅野家臣の堀部家の妙と結婚しなかったら道場師範として長生きできたでしょうに。

堀部安兵衛武庸之碑

越後新発田五萬石溝口藩中山弥次右衛門の子
寛文十一年生れ元禄元年江戸之念汽堀内道場へ入門
元禄四年玉木一刀斎道場師範
元禄七年二月高田の馬場に於て叔父菅野六郎左右衛門之仇討
其の後も京橋水谷町儒学者細井次郎大夫家に居住
浅野家臣堀部家の妙と結婚堀部安兵衛武庸となる禄高二百石
元禄十四年十月本所林町に於て長江左衛門の名で剣道指南
元禄十五年十二月十四日赤穂義士の一人として吉良邸に乱入仇討す
元禄十六年二月四日歿三十四歳
法名 刀雲輝剣信士




亀島橋付近にある見所の案内板はいろいろありますが、亀島橋そのものについての案内板は亀島橋東詰の袂にありました。新川の歴史についても記されています。

亀島橋 〜江戸から現代へ〜

亀島橋は元禄十二年(1699年)の町触(まちぶれ)に橋普請の記載があり、このころ架橋されたと考えられる。大正十二年(1923年)の関東大震災で被害を受け、内務省復興局により昭和四年(1929年)に鋼上路アーチ橋として復興されたが、戦時中の物資不足を補うため高欄等が供出された。「亀島」の名称は、昔、瓶を売る者が多くいたからとの説と、かつて亀に似た小島があったからとの説がある。今回の架け替えに当たり、当時のデザインを生かしつつ、地域のシンボルとして21世紀に誇れる橋とした。江戸時代の八丁堀には町奉行配下の与力・同心の組屋敷が置かれ、新川は酒問屋を中心とした問屋の町として栄え、亀島川には全国からの物資を運ぶ船が往来し、繁栄していた。現在、亀島橋は東京駅と大川端リバーシティ方面を結ぶ重要な橋であり、亀島川は江戸時代のなごりをとどめる貴重な川のひとつとなっている。

     亀島橋の諸元
橋  長: 32.4m
有効幅員: 25.5m
      車道: 17.5m
      歩道: 4.0mX2
形  式: 鋼上路アーチ橋

新川の歴史

御船手組(将監河岸)

江戸初期に隅田川に至る亀島川の下流の左岸(新川側)に、幕府の御船手組屋敷が設置され、戦時には幕府の水軍とし、平時には天地丸など幕府御用船を管理した。大阪の陣で水軍を率いて大阪湾を押さえた功績により、御船手頭に任ぜられた向井将監忠勝(1582年〜1641年)を始め、向井家は代々、将監を名乗り御船手頭を世襲したことから、亀島橋下流から隅田川に至る亀島川の左岸(新川側)を将監河岸と呼ぶようになった。また、明治二十二年(1889年)に東京湾汽船会社が設立され、御船手組屋敷跡に霊岸島汽船発着所が置かれ、房総半島、伊豆半島、大島、八丈島等に向けて海上航路を運営し、明治・大正・昭和初期にわたり港町の伝統を引き継いでいった。

河村瑞賢(かわむらずいけん) 元和四年(1618年)〜元禄十二年(1699年)

江戸前期の商人で、治水・海運の功労者。伊勢国(三重県度会郡南島町)出身。土木業を営み幕府や諸大名の工事を請け負い治水事業に尽くすとともに、海運事業でも東廻り航路と西廻り航路を確立した。「新川」は現在の新川一丁目を東西に流れていた運河で、万治三年(1660年)瑞賢が開削したと伝えられ、昭和二十三年(1948年)埋立てられるまで重要な運河として栄えた。瑞賢は、運河に面して広大な屋敷を構えたこの地で没したと言われている。




永代通りに出ます。東京駅方向に超高層ビルが建ち上がっています。「東京駅前八重洲一丁目東B地区第一種市街地再開発事業」として、地下4階・地上51階・高さ約250mという巨大複合施設を建設するとのことですが、2023年9月19日に長さ18m、重さ約7トンもの鉄骨梁1本が何らかの原因で落下し、先行して設置が完了していた7階の鉄骨梁4本も崩落したしました。この事故で作業員2名がなくなり、その後約4ケ月間も工事は中断していました。2024年1月から工事は再開したとのことですが、ビルの骨格に影響はなかったのか心配です。歩道の脇に案内板が立っています。

河村瑞賢屋敷跡

江戸時代、この地域には幕府の御用商人として活躍していた河村瑞賢(1618年〜1699年)の屋敷がありました。瑞賢(瑞軒・随見とも書く)は、伊勢国の農家に生まれ、江戸に出て材木商人となりました。明暦三年(1657年)の江戸大火の際には、木曽の材木を買い占めて財をなし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い莫大な資産を築きました。また、その財力を基に海運や治水など多くの事業を行いました。瑞賢の業績の中でもとくに重要なのは、奥州や出羽の幕領米を江戸へ廻漕する廻米航路を開拓して輸送経費・期間の削減に成功したことや、淀川をはじめとする諸川を修治して畿内の治水に尽力したことがあげられます。晩年にはその功績により旗本に列せられました。斎藤月岑の「武江年表」によると、瑞賢は貞享年間(1684年〜1688年)頃に南新堀一丁目(当該地域)に移り住み、屋敷は瓦葺の土蔵造りで、塩町(現在の新川一丁目二十三番地域)に入る南角から霊岸島半丁一円を占めていたと記されています。表門は今の永代通りに、裏門はかつて新川一丁目七番・九番付近を流れていた新川に面し、日本橋川の河岸には土蔵四棟があり、広壮な屋敷を構えていたようです。「御府内沿革図書」延宝年間(1673年〜1681年)の霊岸島地図を見ると、瑞賢が開削したとされる堀割に新川が流れ、その事業の一端を知ることができます。




永代橋は隅田川にかかる橋で、永代通りを通しています。最初に架橋されたのは元禄十一年(1698年)8月1日で、徳川家康の江戸入府から江戸時代にかけて隅田川に架橋された5つの橋のうちの4番目でした。架橋は江戸幕府五代将軍徳川綱吉の誕生から50歳を祝う記念事業として、関東郡代の伊奈忠順の指導で行われました。「永代橋」という橋名は、架橋された対岸にあった中洲の永代島(現在の江東区富岡)に因んでいます。現在の橋は、震災復興事業により大正十五年(1926年)12月20日に再架橋されました。「帝都東京の門」と言われたこの橋は、ドイツのライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋(レマゲン鉄橋)をモデルにし、現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100mを超える橋でもあります。



永代橋西詰の手前に、「船員教育発祥之地」の石碑が置かれています。明治維新後、我が国の海運界は国際的にみて立ち遅れが目立っていました。1875年に大久保利通の命令により、岩崎弥太郎は「三菱商船学校」を設立し、これがのちの東京海洋大学(旧東京商船大学)となりました。当初、この学校は隅田川に成妙丸を繋留して校舎とし、生徒全員を船内に起居させて、近代的船員教育を実施しました。

船員教育発祥之地

内務卿大久保利通は、明治政府の自主的な海運政策を進めるにあたり、船員教育の急務を提唱し、三菱会社長岩崎彌太郎に命じて、明治八年十一月この地に商船学校を開設させた。当初の教育は、その頃隅田川口であり、海上交通の要衝でもあった永代橋下流水域に、成妙丸を繋留して校舎とし全員を船内に起居させて行われたが、これが近代的船員教育の嚆矢となった。爾来百年、ここに端を発した商船教育の成果は、我が国近代化の礎となった海運の発展に大きく貢献してきたが、その歴史的使命は幾変遷をへた今日、江東区越中島にある現東京商船大学に継承せられている。




ポイント1 新川公園

新川公園は、北は永代橋・南は中央大橋までの隅田川沿いのスーパー堤防上に位置する中央区立公園で、1993年4月1日に開園しました。



南北に細長い公園で、主に永代橋・中央大橋・大川端リバーシティ21などの夜景やデートスポットとして有名です。隅田川沿いでもっともドラマの撮影が行われる場所となっていて、ここから撮影した永代橋はよくテレビ番組で見られます。



公園には多くの桜の木が立ち並んでいますが、これは(恐らく我が子の)誕生日を記念して植樹に協賛したものと思われます。



公園の一画にある小さな公園の隅に、「新川之跡」と記された石碑が建っています。この地には、1660年に河村瑞賢が開削したと伝えられる新川がありました。江戸時代、河岸には最初に材木問屋、後に酒問屋が集まり、物資の集散の要地となリ繁盛しました。酒問屋は今なお根を下ろしています。狂歌にも「新川は下戸の建てたる蔵はなしいづれ上戸が目当てなりけり」とうたわれました。

新川の跡

新川は、現在の新川一丁目三番から四番の間で亀島川から分岐し、この碑の付近で隅田川に合流する運河でした。規模は延長約590メートル、川幅は約11メートルから約16メートルと、狭いところと広いところがあり、西から一の橋、二の橋、三の橋の三つの橋が架かっていました。この新川は、豪商河村瑞賢が諸国から船で江戸へと運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため、万治三年(1660年)に開さくしたといわれ、一の橋の北詰には瑞賢が屋敷を構えていたと伝えられています。当時、この一帯は数多くの酒問屋が軒を連ね、河岸にたち並ぶ酒蔵の風景は、数多くのさし絵や浮世絵などにも描かれました。昭和二十三年、新川は埋め立てられましたが、瑞賢の功績を後世に伝えるため、昭和二十八年に新川史跡保存会によって、「新川の碑」が建立されました。




新川公園から鉄砲州稲荷神社に向かいます。中央大橋は、佃大橋と永代橋との間に、1993年新しく架けられた橋です。高層ビルが立ち並ぶ近代的な街として生まれ変わった佃地区と、都心を結ぶ橋として計画されました。形式は近代的な街並にマッチし、地域のシンボルとしての役割を果たすように、タワーを有した斜張橋となっています。



亀島川が隅田川と合流する地点の手前に南橋(みなみたかばし)、合流地点には亀島川水門(1968年完成)があります。高潮あるいは津波時には、両水門を閉鎖して亀島川流域住民の生命・財産を守ります。

水害のない町に 亀島川水門

亀島川水門は、亀島川が隅田川と合流する地点に位置し、周辺流域を高潮の侵入から守るための防潮水門です。台風などによる高潮や津波が発生し河川の水位が上昇したとき、地盤高の低い地域では浸水などの災害が起きる恐れがあります。このようなときに水門を閉鎖して水害を防ぎます。また、大きな地震があったときも直ちに閉鎖して津波に備えます。




南橋東詰の袂に鳥居だけ立派な小さな稲荷があります。江戸時代には、この地に三方を掘割に囲まれた越前松平家の広大な下屋敷がありました(旧町名越前掘はこれに由来します)。その中に小さな稲荷が祀られていたそうです。徳船稲荷神社の御神体は徳川家の遊船の舳を切って、彫られたものと伝えられています。

徳船稲荷神社縁起

徳川期この地新川は、越前松平家の下屋敷が三方掘割に囲われ、広大に構えていた(旧町名越前堀はこれに由来する)。その中に小さな稲荷が祀られていたと言う。御神体は徳川家の遊船の舳を切って彫られたものと伝えられる。明暦三年、世に云う振袖火事はこの地にも及んだが御神体はあわや類焼の寸前難を免れ、大正十一年に至るまで土地の恵比須稲荷に安置された。関東大震災では再度救出され、昭和六年隅田川畔(現中央大橋北詰辺り)に社を復活し町の守護神として鎮座したが、戦災で全焼。昭和二十九年同処に再現のあと平成三年中央大橋架橋工事のため、この地に遷座となる。例祭は、十一月十五日である。




南橋西詰の袂に案内板が立っています。

中央区民文化財 南橋

創架年代は昭和六年(1931年)に起工、同七年三月に竣工。現在の南高橋の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみでした。大正十二年(1923年)の関東大震災ののち、街路の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀一丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。東京市は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治三十七年(1904年)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのです。都内において、珍しくも明治三十七年のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)についで二番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で六番目に古い橋梁になります。区民有形文化財に登録されています。




石碑も建っています。

南橋

この橋は、亀島川の河口に位置し、関東大震災の復興事業のひとつとして昭和七年(1932年)に架けられました。橋の主要部は明治三十七年(1904年)に架けられた旧両国橋の材料を利用して作られたもので、都内に現存する鉄橋のうち道路橋としては最も古い橋です。また構造上の特徴は、トラスの一部材の端に丸い環のついた”アイバー”が用いられており、全体はピントラス橋とも呼ばれています。このため明治期の技術を今に伝える貴重なものとして、中央区民文化財に登録されています。平成二十八年(2016年)に土木学会選奨土木遺産として認定されました。

「歌舞伎座前より乗合自動車に乗り鉄砲洲稲荷の前にて車より降り、南高橋をわたり越前堀なる物揚波止場に至り石に腰かけてて明月を観る。石川島の工場には燈火煌々と輝き業務繁栄の様子なり。水上には豆州大島行の汽船二三艘泛びたり。波止場の上には月を見て打語らう男女二三人あり。岸につなぎたる荷船には頻に浪花節をかたる船頭の声す。」
(昭和九年7月・永井荷風「断腸亭日乗」より)

      橋梁の諸元
型式    下路式単純プラットトラス橋
橋長    63.1m
有効幅員  11.0m(車道6.0m 歩道2.5mX2)
着工    昭和六年1月
竣工    昭和七年3月
総工費   76、600円
施行者   東京市




ポイント2 鉄砲州稲荷神社

鉄砲州稲荷神社は、江戸時代には江戸湊に面して鎮座する稲荷神社として人びとの信仰を集め、1868年に現在地へ移転しました。関東大震災によって被害を受けた境内は、1935年から復興・整備され、現存する主要な建物はこのとき建造されました。

鐵砲洲稲荷神社

鐵砲洲稲荷神社は、江戸湊の入口に鎮座する神社として、地域の人々の信仰を集めてきました。神社は、寛永元年(1624年)頃、稲荷橋南東詰に遷りましたが、明治元年(1868年)現在地に移転し、今日に至っています。関東大震災により被害をうけた境内は昭和十年(1935年)より復興、整備され、正面中央奥に社殿、左手に神楽殿と摂社八幡宮、右手に社務所と手水舎が向い合うように配置され、境内西南隅に神輿庫が設けられています。また、西北隅には富士山の溶岩で築いた富士塚があり、そこを富士信仰の場としていました。むかしの富士塚は「江戸名所図会」にも描かれた有名なものでした。境内は昭和初期の神社建築とその配置の有様をよく伝えており、また、富士塚も区内唯一の富士信仰の名残りをとどめている点から、共に中央区民文化財に登録されています。




鐵砲洲稲荷神社の入口に立っている社号標の裏に、神社の由緒が書かれたプレートが掲げられています。

京橋地区の生成並に鐵砲洲稲荷神社御由緒

鐵砲洲の地は、徳川家康人府の頃は、既に鐵砲の形をした南北凡そ八丁の細長い川口の島であり、今の湊町や東部明石町の部分が之に相当します。寛永の頃は此処で大砲の射撃演習をしていたので、此の名が生まれたとも伝えられています、昔の海岸線は現在のものより遥かに奥まったものであって、八町堀の掘られたのが慶長十七年であり、京橋あたりの土地形成が、天文の頃、足利義輝の治世になっていますが、之等京橋地区一帯の土地生成の産土の神こそ、現在の鐵砲洲稲荷神社の「生成大神」であります。遠く平安時代初期の人皇第五十四代仁明天皇の永和八年(皇紀千五百一年 西暦841年)に年来打続く凶作に教えられる所あって、此の土地の住民達が自らの産土の国魂神を祀り、万有の生命を生かし成し給う大御親生成の大神として、仰いでその神恩を感謝し奉り、日常の御守護を祈願致しました。所が此の御鎮座の地が、当時の東京湾の最も奥に位置していました為に、港として諸船舶の出入繁く、霊験あらたかなる神徳と相まって当然の結果として船乗人の崇敬が頗(すこぶ)る厚くなりました。その後理立が進行して、現在の京橋のあたりへ御遷座となり、更に室町末期の大永年中に氏子崇敬者達の願望によって、又新しい海岸へ遷座し奉って、八町堀稲荷神社と称しました。

今の新京橋の近くであります。所が更にその後年にも埋立が進行して海岸が東方へ移りましたので、寛永元年には南八町堀地続きとなった鐵砲洲に生成大神を御遷座申し上げ、従来から鐵砲洲御鎮座の八幡神社を摂社とし、以って今日の鐵砲洲稲荷神社の基礎を築かれました。此の時代を通して江戸で消費する米、塩、薪炭を始め、大抵の物資は悉く此の鐵砲洲の港へ入って来ました為に、大江戸の海の玄関に位置する此の鐵砲洲に御鎮座のいなり大神は船員達の海上守護の神としても崇敬されました。港が横浜や芝浦に移転してしまった現在でもなお、特殊神事冬至海運祈願祭に授与する「金銀富貴」の神札等は、全国的に篤く崇敬されて、諸諸方々の人々から拝載されています。抑も此の神札は、此の土地の氏子達は勿論のこと、全人類をして悉く、「富み且つ貴からしめたい」との御神慮に基くものであります。さて、我等は如何にして富み且つ貴くなる事が出来るかと言うに、それには各自悉くが自分の親を大切にして先祖を供養し、子孫の為に善根を培って行けば、人も自分も、先祖も子孫も、此の世にも彼の世にもみんな救われて永遠の生命に生きることが出来ます。また天地生成の恵みに感謝し、人のお陰様に報思の誠を捧げて行けば、必ず富み且つ貴い運命を開く事が出来ます。此の運命開拓の御催促と共に力の不足に対する、カの本源である大御親神から愛子への愛の御力添えが、此の金銀冨貴の神札であります。




2024年12月に再訪した時は年末ということもあり、本殿の前には茅の輪潜りの縄が設けられていました。



本殿の左側には大小ふたつの石碑が建っています。大きい石碑には「和平神繆斌顕彰碑」と記され、彼の功績が記されています。小さい方には、終戦処理内閣の首相だった東久邇宮稔彦王とのツーショットが彫りこまれています。繆斌(みょうひん)は、太平洋戦争の末期の昭和二十年3月16日に蒋介石の密名を受けて来日し、東久邇宮殿下に会談を申し入れて翌17日に会談しました。日本との和平工作に奔走しましたが、最終的に天皇の反対により「繆斌工作」は失敗しましたが、汪兆銘政権の要人でありながら蒋介石側ともつながっていた人物です。



本殿の脇に、今時珍しい二宮尊徳の銅像が建っています。

二宮尊徳先生は本名金次郎 天明七年(1787年)相州二宮に生れ、早くして両親を亡くし、水害で田畑を失ひ、伯父万兵衛に引き取られて農奴となる。夜間と雖も勉学を許されず、荷を肩に運びながらも讀書にいそしむ姿を、此の銅像に表はせり。家老服部家の下郎となりて、若殿を學問所へ送る 教室の廊下に上がる事も許されず、床下に潜りて、講義を洩れ聴いて、學業に勤めり。勤倹、貯蓄、推譲によって世を導き、多くの人を助けて、一世の師表と仰がる。「天下の貧者を見ては、普く之を救済して、富に至らしめん事を祈願するものなり」「民を水火から救ふ能はずんば吾が身を猛火に投ぜん」と神佛に祈った。忍従と不退転との決意を實行して、萬人に拝まれ、世界から崇められて、報徳二宮神社に神鎮まります。



境内の奥に富士塚があるそうですが、見逃しました。



鉄砲州稲荷神社からシーボルトの胸像に向かいます。隅田川の土手に出る手前に、恐ろしいほど古ぼけた一軒家が建っています。昭和初期の火保図には既に存在していたそうです。入口上の外壁には、銅板に「日本不動産株式会社」と表示してあります。現在も事務所兼住戸として使用されているそうですが、家の手入れは大変でしょうね。尚、家屋の裏口の前には赤い鳥居が建っています。神様を祀っているのでしょうか?



道路の脇に小さな祠が祀ってあります。昔は歯が悪くなると痛みに耐えるしかなかったので、塩で紛らしていたのでしょう。

汐見地蔵尊

文化四年(1807年)富岡八幡宮祭礼日に、永代橋の崩落事故が起こり二千余名もの犠牲者が出ました。その後も、大火災、大地震、疫病が江戸一帯を襲い、多数の死傷者が出ました。明治時代に入り、この地に怪奇現象が起こり、川底から、一体の石像と、多数の人骨、歯牙歯骨が出ました。人骨は両国の回向院に、石像と歯牙歯骨はこの地に葬って供養しています。歯を病む者が祠前の塩を持ち帰り口中を漱けば痛みが治り、お礼に塩や楊枝を供する習わしで、霊験すこぶるあらたかな地蔵尊として篤い信仰を集めています。




中央区立湊公園は、湊二丁目東地区市街地再開発事業の一環として、平成二十八年11月に開園しました。道路から隅田川テラスまでのスーパー堤防を利用し、高台を階段やスロープでつないだ形で、ベンチがあるだけのシンプルな公園でありながら、バリアフリーの高台はビュースポットの穴場になっています。

湊二丁目東地区のまちづくりについて

この地域は、東京駅から1.5kmという恵まれた立地にあり、かつては良好な環境を有したまちでしたが、昭和の終わり頃からいわゆるバブル経済等の影響を受け、次第に空閑地等の低未利用地が散在し始め、防災、防犯上の課題が生じたため、まちの再生に向けた地域の取組がスタートしました。具体的には、住民の皆様、行政及び都市再生機構が一体となり、市街地環境の改善と合わせ、地域コミュニティの発展を目指し、平成七年からまちづくりの検討を進め、住民の皆様の様々な希望の実現に向け、市街地再開発事業と土地区画整理事業との一体的施行が実施されることになりました。当初の計画から20余年を経て、新たな「まち」として生まれ変わりました。




遮るもののない隅田川の眺めが素晴らしく、春には桜も楽しめます。佃の高層マンションと中央大橋が描き出す東京らしい川の風景は、ドラマや映画に登場することも度々です。



隅田川テラスに下り、聖路加ガーデンまで川沿いの遊歩道を進みます。護岸には江戸情緒豊かなタイル絵が施されています。



佃大橋の下を潜ります。東京マラソンで死ぬ思いをしながら走った(歩いた)難所です。



この場所には、かって佃島の渡しがありました。佃の渡しは、江戸時代初期に船松町(佃大橋西詰付近)と対岸の佃島との間に通ったのが始まりです。1876年には、渡し銭一人五厘の掲示札の下付を許可され、1926年東京市の運営に移り、翌年に無賃の曳船渡船となりました。1964年の佃大橋の完成によって、300年以上の歴史を持つ佃島渡船は廃止されました。橋の袂に「佃島渡船場跡」の石碑が建っています。

中央区民文化財 佃島渡船場跡

佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲でした。江戸幕府初代将軍徳川家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区)の漁民を招いて住まわせたところと伝承されています。この島と対岸の船松町(佃大橋西詰付近)との間に正保二年(1645年)に通ったのが佃の渡しです。明治九年(1876年)には、渡し銭一人五厘の掲示札の下付を願い出て許可され、大正十五年(1926年)東京市の運営に移り、翌昭和二年三月に無賃の曳船渡船となりました。「佃島渡船」の石碑は、手こぎ渡船を廃止した記念として、この時期に建てられたものです。昭和三十年(1955年)七月には一日70往復にもなりましたが、同三十九年八月の佃大橋の完成によって300年の歴史を持つ佃島渡船は廃止されました。渡船の歴史を記念する史跡として、中央区民文化財に登録されています。




聖路加ガーデンに着きました。延べ床面積17万平方メートルの超高層ツインタワービルである聖路加ガーデンは、旧聖路加国際病院(1933年竣工)の老朽化に伴って整備された、先進的なアメニティ・オフィス空間「聖路加タワー」と「聖路加レジデンス」を中核に、潤いあるアー バンライフを演出するホテル、レストラン、スポーツクラブなどの多彩な都市機能が集積されています。



煉瓦塀の手前の階段を上り、明石町川岸公園を抜けて聖路加レジデンスの前に出ます。明石町河岸公園は、聖路加ガーデンの裏手にある中央区立の公園です。公園の設備はベンチのみでトイレや遊具などはありませんが、道幅が広く綺麗に整備されて木陰も多く、隅田川沿いの遊歩道的な公園です。公園からは隅田川を行き交う水上バスを見ることができ、夜には月島方面や大川端リバーシティ21方面の高層マンションを中心に、中央大橋や勝どき橋のライトアップも観賞できる都会の夜景を楽しめる場所として、そして春にはたくさんの桜が咲き、お花見スポットとしても知られています。高層ビルやタワーマンションが川沿いに見える都会の雰囲気と自然の調和が感じられる公園です。ドラマのロケ地として撮影でよく使われ、これまで何度もドラマ作品に登場しています。2019年放送のテレビ東京ドラマ「よつば銀行 原島浩美がモノ申す!この女に賭けろ」で菅原大吉さん演じる丹波郁雄が、真木よう子さん演じる原島浩美に記念品を渡した水辺として登場しました。また同年放送の日本テレビドラマ「イノセンス冤罪弁護士」にも登場しています。2017年には、日本テレビドラマ「ボク、運命の人です。」で、満島真之介さん演じる定岡が菜々緒さん演じる四谷三恵にプロポーズした場所として登場していて、それ以前にも何度もドラマ作品に登場しています。



聖路加レジデンスは、1階から31階がケアレジデンス(175戸)になっていて、70歳から79歳を入居基準年齢とし、入居時に保証金・入会金および20年間分の前払費用を一括で支払うシステムになっていて、その額は最低でも2億円を超えるそうです。4階に付帯医療施設である「聖路加クリニック」が設置され、聖ルカレジデンスが運営・管理を手掛けています。



聖路加レジデンス前の植え込みの中に、アメリカ公使館跡の案内板が置かれています。この付近にはかって北の方向から鉄砲洲川が流れていて、それと隅田川の間に築地外国人居留地がありました。安政六年(1859年)6月、日米通商条約締結で麻布の善福寺がアメリカ公使館になり、初代公使ハリスが駐在しましたが、明治八年(1875年)に善福寺から明石町新湊橋東詰の居留地の新公使館に移転しました。その後、明治二十三年(1890年)5月に現在の赤坂一丁目のアメリカ大使館の地に移転しました。

アメリカ公使館跡

開港によって日本に駐在した初代アメリカ公使ハリスは、安政六年(1859年)に現在の港区元麻布1−6の善福寺に公使館を開設しました。ついで明治七年(1874年)、築地居留地内のこの地に公館を新築し、はじめて形容を整えました。後にこれが手狭となり、同二十三年(1890年)、赤坂の現在地(アメリカ大使館)に移転しました。公使館跡には、小松石の記念碑が残されていました。大きさは、縦86〜101センチメートル、横84〜118センチメートル、厚さ18〜34センチメートル、うち、二個には当時のアメリカの国章である盾、一個には星と鷲と盾、二個には五稜の星が刻まれています。現在三個は聖路加国際病院トイスラー記念館の前に、二個は聖路加ガーデン内に移されています。この記念碑は、築地の居留地時代を伝える貴重な遺品として、中央区民有形文化財に登録されています。
American Legation Site

The American Legation was first opened by Townsend Harris, the first United States Consul-General to Japan, who resided here following the opening of Japanese ports, at Zenpukuji Temple (currently, 1-6, Moto-Azabu, Minato-ku, Tokyo), in 1859. In 1874, it was moved to the "foreigners' settlement" here in Tsukiji, where a building was formally established as the Legation. With the need for more space, it was moved again to Akasaka, at the site of the present U.S. Embassy in 1890. On the last move, monument stones made of "Komatsu Ishi" were left to commemorate the site. The tablets are about 86 to 101 cm (34 40") in height, 84 to 118 cm (33 46") in width, and 18 to 34 cm (7 13") in thickness, two of them carved with shields, (the American national emblem at that time); another is carved with a star, an eagle and a shield, and two bear pentagonal star carvings. Three of the stones were moved to the front of the Teusler Memorial Hall of St. Luke's International Hospital, while two were moved to St. Luke's Garden. As valuable remains, that commemorate the Tsukiji settlement in our history, these monuments were registered as cultural assets of Chuo-ku.




中央区立あかつき公園は、かっての明石堀(隅田川から分流して築地川になる部分)を1970年に埋め立てて造成されました。明石堀は水上生活者の船溜まりだったといわれています(右側の写真の沢山の船が係留されている水路がかっての明石堀です)。



明石堀は扇形入江の形状をしていましたが、あかつき公園の全体像を見ると、ちょうど入り江の部分が公園の敷地に重なっています。



ポイント3 シーボルトの胸像

あかつき公園の広場にシーボルトの胸像が建っています。

シーボルト(1796年〜1866年)

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、オランダの商館医員として交政六年(1823年)七月、長崎に到着し、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍した。同九年正月、商館長と共に江戸へ向かい、三月四日、日本橋の長崎屋に止宿し、四月十二日出発するまでの間、江戸の蘭学者に面接指導し大きな影響を与えた。しかし、同十一年シーボルト事件が発生し、十二月に日本から追放された。後に安政六年(1859年)幕府顧問として再来日したが、まもなく帰国しミュンヘンで没した。彼の江戸における指導は、江戸蘭学発展のために貢献するところが大きかった。この地が江戸蘭学発祥の地であり、且つ彼が長崎でもうけた娘いねが築地に産院を開業したこともあり、また明治初期から中期にかけてこの一帯に外国人居留地が設けられていたことから、ここに彼の胸像を建て、日本への理解と日蘭の橋渡し役としての功績に報いるものである。




オランダ語の案内文もあります。

Een Borstbeeld de Siebold (シーボルトの胸像)

Aangeboden door de Universiteit van Leiden in Nederland aan de Chuo Wijk in Tokio, mede, namens de Isaac Alfred Ailion Foundation en in samenwerking met de Asahi Shimbun.
18 Juni 1988.


Presented to Chuo Ward, Tokyo, by Leiden University, the Netherlands, and the Isaac Alfred Ailion Foundation, in cooperation with Asahi Shimbun.
June 18th, 1988.


この像は、オランダのライデン大学とイサーク・アルフレッド・エリオン財団から日蘭友好を目的として、朝日新聞社の尽力によって中央区に寄贈されました。
昭和六十三年6月18日




中央区立あかつき公園は、明るく開放的なメタセコイアの林と噴水広場が特徴の公園です。冒険広場や様々な遊具周辺は子どもで賑わっている活気ある公園です。冒険広場には、タイヤや土管、ターザンロープなど、ここでしか遊べない遊具があります。



あかつき公園から名犬チロリ記念碑に向かいます。聖ルカ通りの歩道脇にハナミズキ・イニシアチブの案内板が立っています。

「友好の木 ハナミズキ・イニシアチブ」による寄贈について

ハナミズキは、大正元年(1912年)に当時の東京市長尾崎行雄がアメリカにサクラを3000本寄贈した際、その返礼として大正四年(1915年)に日本へ贈られた木であり、日米友好の象徴とされてきました。平成二十四年(2012年)、サクラ寄贈100周年を記念し、また今後の日米の友好関係を見据え、アメリカはハナミズキ約3000本を日本各地に植樹する「友好の木ハナミズキ・イニシアチブ」プロジェクトを開始しました。明石町は、かつて外国人居留地があり、明治七年(1874年)から約十六年間アメリカ公使館が設置されるなど、アメリカとの関係が深い場所です。こうした地区の歴史を踏まえ、このプロジェクトにより、ハナミズキ20本の寄贈を受け、聖ルカ通りと明石町緑道(左下図参照)に植樹しました。

The Dogwood Symbolizes U.S.-Japan Friendship

In 1912 Tokyo Mayor Yukio Ozaki donated 3,000 flowering cherry frees to the United States as a token of Japan-US friendship, and in 1915 US President William Howard Taft reciprocated with a gift to Japan of flowering dogwood trees. Hence the dogwood has come to symbolize the friendship of the two nations. To mark the centenary of the gift from Tokyo and as a symbol of the two nations' continuing friendship, in 2012 the United States started the Friendship Blossoms Initiative, a plan to plant 3,000 dogwood trees in communities throughout Japan. This Akashicho neighborhood was a residential enclave. for foreigners from 1869, the second year of the Meiji period, and many diplomatic legations were located here, including the US legation between 1874 and 1890. To mark the history of the neighborhood as well as the friendship between Japan and the United States, twenty dogwood trees are planted along Seiruka dori St. and Akashicho Greenway (See the map at left).

ハナミズキ ミズキ科 Cornus florida
花水木。別名アメリカヤマボウシ。花弁状の総苞が大きくめだちます。




明治二年(1869年)、築地鉄砲洲(現在の中央区明石町一帯)に外国人居留地が設けられたことにより、この場所を発祥の地とするキリスト教系の学校が数多く設立されました。聖路加国際大学前の聖ルカ通りに面して、都内難関女子校御三家のひとつに挙げられる女子学院発祥之地の石碑が建っています。女子学院は、明治三年(1870年)にジュリア・カロザース(C・カロザースの妻)により、築地居留地六番にA六番女学校として設立されました。明治二十三年(1890年)には女子学院に改称し、現在の千代田区一番町に移転しました。

女子学院発祥の地(石碑の碑文)

ジュリア・カロゾルスが
1870年、築地居留地6番に
A六番女学校を創設、
米国長老教会に所属した。

「女子学院発祥の地」記念碑(案内板)

発祥の地である旧築地居留地6番には、既存の建築物があるため、学校法人聖路加看護学園のご厚意により、ここに設置いたしました。




聖路加国際大学の敷地内には、立教学院発祥の地の半ドーナツ型の石碑もあります。立教学院は、明治七年(1874年)に築地の外国人居留地で創立された学校法人で、立教大学をはじめ、小学校から大学まで運営しています。創立者は、米国聖公会の宣教師チャニング・ウィリアムズで、明治七年に築地の外国人居留地に開かれた聖書と英学を教える私塾「立教学校」がルーツとなっています。その後、「立教大学校」・「立教専修学校」・「立教中学校」などの名称を経て、明治四十年(1907年)に「立教大学」を開設し、大正七年(1918年)に現在地(豊島区池袋)に移転しました。短い碑文には次のように記されています。

立教学院発祥の地

  1874
ウィリアムズ主教
 立教学校を開く                    すべての人に仕える者に
                               なりなさい
                          聖マルコによる福音書 新約聖書




聖路加国際大学の校内に入らせて頂きます。



校内の一画に、トイスラー記念館が保存されています。

中央区民有形文化財
聖路加国際病院トイスラー記念館

昭和八年(1933年)、トイスラー記念館は隅田川畔の明石町十九番地(現明石町八番)に建設され、聖路加国際病院の創設者であるR・B・トイスラーが本格的看護教育を実施するために招いたアリス・C・セントジョン看護教育宣教師の宿舎として、その後は移築されるまで職員宿舎、事務所などに使用されていました。設計者は、大正末から日本で活躍した米国人建築家のJ・V・W・バーガミニーで、施工は清水組(現在の清水建設株式会社)が行いました。建物の躯体は、昭和初期の住宅建築には珍しい鉄筋コンクリート造一部木造(屋根の骨組み部分)の二階建てで、地下にはボイラー施設もあり、当時の住宅としては設備が整っていました。平成元年(1989年)に解体工事が行われ、平成十年(1998年)に現在地で移築復元されました。復元にあたり、創建当時の施工技術や構造上の特徴を精密に記録し、再利用可能な部材をできる限り用いています。ヨーロッパの山荘を思わせる重厚かつ風格のある建物で、外部は柱や梁などをそのまま表現したハーフティンバー風の意匠です。また、室内はチューダー・ゴシック風のデザインで、玄関ホールやリビングなどに重厚な木の内装がみられます。この建物は、聖路加国際病院の歴史を物語るとともに、築地外国人居留地時代から引き継がれてきた明石町の歴史の一端を伝える貴重な文化財です。

Chuo City registered - tangible cultural property
St. Luke's International Hospital, Memorial Hall of Teusler

In 1933 (Showa 8), Memorial Hall of Teusler has built at the Akashicho 19 on the riverside of Sumida River (currently Akashicho 8). This hall was used as residence of Alice C St. John,who was a nursing education missionary invited by R. B. Teusler who was the founder of St. Luke's International Hospital to implement full-fledged nursing education. And after that it was used as accommodation for staffs and office until it was relocated. Designer was J. V. W. Bergamini, American architect who was active in Japan from end of Taisho. And construction was carried out by Shimizu Gumi (currently Shimizu Corporation). The structure of the hall was made of concrete and a part of it (a part of rooftop frame) was made of wood, which was very rare for residential architecture in the early Showa period. There is a boiler room in the basement. And it was well equipped for a house at the time. The hall was dismantled in 1989 (Heisei 1) and it was relocated and restored to current location in 1998 (Heisei 10). Upon restoration, we recorded structural features of construction technology at the time of construction precisely and used reusable materials as much as possible. This is a stately and dignified hall which is reminiscent of a European mountain cottage. And exterior design is half timber style which express the pillars and beams as they are. And interior design is Tudor gothic style and solid wooden interiors can be seen in the entrance hall and the living room. This hall is a valuable cultural property that tells history of St. Luke's International Hospital and part of Akashicho's history inherited from the Tsukiji foreign settlement.




聖路加国際病院の創設者であるトイスラー医師のレリーフと病院の理念が書かれた石碑が記念館の前に置かれています。

DR. RUDOLF BOLLING TEUSLER, FOUNDER

本院は創立以来、キリスト教精神の下に、病む人を中心とした医療と看護を実践してきました。その精神は百年を経た今日も受け継がれ、永遠に生き続けます。

This hospital is a living organism designed to demonstrate in convincing terms the transmuting power of Christian love when applied in relief of human suffering.

キリストの愛の心が 人の悩みを救うために働けば 苦しみは消えて、その人は生まれ変わったようになる。この偉大な愛の力を、だれでもがすぐわかるようにあらわせるよう、計画されてできた生きた有機体がこの病院である。

聖路加国際病院




玄関のドアには重厚な木材が使われています。

トイスラー記念館
Teusler Memorial House

昭和八年(1933年)病院が新築完成した頃、トイスラー院長が宣教師会館として、また迎賓館として隅田川河畔にある第3街区(現在の聖路加ガーデン)の芝生に建てられたもの。此度の聖路加再開発計画に基づき、この場所に移築復元された。




かってのアメリカ公使館の石標のうち、3個が展示されています。

アメリカ公使館跡石標

アメリカ公使館は安政六年(1859年)ハリスにより港区元麻布1−6、善福寺に開設されたが、明治八年(1875年)12月築地の外国人居留地内のこの地に新築され、はじめて形容を整えた。のち明治二十三年(1890年)3月赤坂の現在地に移転され、現在の大使館となっている。

最後の移転により、この地には8個の小松石の石標が残された。石標には、白頭鷲、星条旗、星の3種類の彫刻が施されており、白頭鷲はアメリカの国鳥であり、星条旗に彫られた13の星は同国初期の13州を示す。

8個の石標のうち3個は昭和五十九年(1984年)10月に日米友好のシンボルとして、赤坂のアメリカ大使館に寄贈され、現在同大使館の前庭に設置されている。残る5個の石標は、築地の居留地時代を伝えるものとして中央区民文化財に登録されており、うち3個をここに、2個を聖路加ガーデンに設置する。

AMERICAN LEGATION MEMORIAL STONES

The American Legation was first opened by Townsend Harris in 1859 at Zenpukuji Temple, 1-6 Moto-Azabu, Minato-ku. In December 1875, it was moved to the foreigners' settlement here in Tsukiji where a building was formally established as the Legation. In March 1890, it was moved again to Akasaka at the site of the present Embassy.

On the last move, eight stones made of 'Komatsu Ishi' were left to commemorate the site. On the tablets are carved a bald eagle, American national flag, and stars. The eagle is the American national bird and there are 13 stars on the flag representing the original 13 states.

In October 1984, three stones were presented to the American Embassy in Akasaka as a symbol of U.S.-Japan friendship and they are now in the front garden of the Embassy. The remaining five stones are registered as Chuo-Ku cultural assets to commemorate the Tsukiji Settlement Period in our history. Three are placed here and two are placed in St. Luke's Garden.




白頭鷲・星条旗・星の3個の石標です。



聖路加国際病院のエントランスの右横に巨大な石碑が置かれています。

この基礎石は、建物(旧館)が昭和三年(1928年)1月に着工し、その後昭和五年(1930年)3月28日に行われた定礎式の際に披露され、約67年間旧館東口玄関に設置されていました。平成九年(1997年)の旧館保存改修工事竣工後、現在の地に移設されています。定礎式には秩父宮両殿下を始め、各大臣、東京府知事、警視総監、各国大公使、新渡戸稲造の諸名士たち400名が出席されました。

この定礎石には、「神の栄光と人類奉仕のため 聖路加国際医道院」と書かれました。これは「ST. LUKE'S INTERNATIONAL MEDICAL CENTER DEDICATED TO THE GLORY OF GOD AND THE SERVICE OF HUMANITY」と書かれたものを、東京帝国大学教授姉崎正治博士が翻訳され、文字は徳川家達公爵の筆になったものです。

上下にある12個の穴(釘跡)は、第二次世界大戦中「神の栄光」と刻まれた礎石を憲兵隊の命令によって遮蔽するように強制され、御影石で覆って隠されていた傷跡を示します。




エントランスの左横には、聖路加国際病院の建物の歴史について記したプレートが掲げられています。

東京都選定歴史的建造物
聖路加国際病院

築地明石町は外国人居留地で、外国との東京における最初の窓口であった。このような歴史的由緒のある場所にふさわしい建物がこの病院である。明治三十五年(1902年)築地病院を聖路加病院と改称し、トイスラー博士が院長となった。大正十二年(1923年)の関東大震災を経て、昭和三年(1928年)新病院が着工され、同八年(1933年)に完成している。設計は最初A.レーモンドが当たり、病棟の中心部に高い尖塔をあげた案をB.フォイエルシュタインと共に計画した。この案は白亜の壮麗な近代主義的な計画案であったが、途中設計者がJ.V.W.バーガミニーとなり、現在見られるような意匠に変更された。中央の十字架を頂く高塔には、色モザイク・タイルが用いられ、都市景観のうえでも重要なランド・マークになっている。なお、この病院中心部の背面に突き出た礼拝堂は、近代ゴシックともいうべき荘重な空間をもち、美しいステンドグラスと共に病院付属のチャペルとして、ふさわしい雰囲気を漂わせている。平成九年(1997年)、中央部の一部(礼拝堂)を残し、これと調和した病院施設が新たに竣工した。




聖路加国際病院・聖路加国際大学・中央保健所に囲まれる病院前交差点に、三角形のロータリーがあり、その角に「日本近代文化事始の地」という案内板があり、「慶応義塾発祥の地」と「蘭学の泉はここに」の石碑が建っています。「慶応義塾発祥の地」の石碑の上には、福沢諭吉の「学問のすゝめ」の一節「天ハ人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」が書かれています。福沢諭吉は、中津藩の命により江戸築地(鉄砲洲)に蘭学塾を開きましたが、外遊によって西洋文明を摂取して蘭学より英学の振興が必要と考え、慶応四年(1868年)「慶応義塾」と称する私塾を開設しました。明治四年(1871年)に芝三田に移転し、明治二十三年(1890年)には大学として正式に認可され、日本最初の私立大学となりました。

安政五年福沢諭吉この地に学塾を開く。創立百年を記念して昭和三十三年慶応義塾これを建つ。



「慶応義塾発祥の地」の後方に建っている「蘭学の泉はここに」の石碑は、前野良沢・杉田玄白・中川淳庵の三人がこの築地近く(鉄砲洲)にあった中津藩邸で、オランダ語の解剖書「ターヘル・アナトミア」の翻訳を行ったことを記念したものです。碑文は読み取れませんでしたので、ネットからの転載になります。

蘭学の泉はここに

明和八年(1771年)三月五日に杉田玄白と中川淳庵とが前野良沢の宅に集まった。良沢の宅はこの近くの鉄砲洲の豊前中津藩主奥平家の屋敷内にあった。三人はきのう千住骨が原で解体を見たとき、オランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアの図とひきくらべてその正確なのにおどろき、発憤してさっそくきようからこの本を訳しはじめようと決心したのである。ところがそのつもりになってターヘル・アナトミアを見ると、オランダ語をすこしは知っている良沢にも、どう訳していいのかまったく見当がつかない。それで身体の各部分についている名をてらしあわせて訳語を見つけることからはじめて、いろいろ苦心のすえ、ついに安永三年(1774年)八月に解体新書五巻をつくりあげた。これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめで、これから蘭学がさかんになった。このように蘭学の泉はここにわき出て、日本の近代文化の流れにかぎりない生気をそそぎつづけた。




聖路加国際大学の西側の植え込みの中に、浅野内匠頭邸跡の石碑が建っています。

東京都指定旧跡
浅野内匠頭邸跡

常陸国笠間(現在の茨城県笠間市)藩主であった浅野長直(官職名・内匠頭)は、正保二年(1645年)に領地替えによって、播磨国赤穂藩(赤穂郡とその隣接地を含めた5万3500石の所領)へ入封しました。そして、長直の子・長友(官職名・采女正)の代に所領の一部を親族に分知して五万石となります。延宝三年(1675年)には、父・長友から家督を継いだ長矩が赤穂藩第三代藩主となり、後に祖父と同じ官職名の内匠頭を与えられました。江戸時代に鉄砲洲と称されていた当該地には、江戸中期頃まで赤穂藩浅野家の上屋敷が置かれていました。当時の赤穂藩邸は、西と南の二面が川(掘割)に面した広大な敷地(およそ8900坪)であったことが古地図からも確認できます。しかし、元禄十四年(1701年)三月十四日、勅使御馳走役(饗応役とも)を務めていた浅野内匠頭長矩が、江戸城の松之大廊下において儀式・典礼を司る高家職の吉良上野介義央に対して刃傷におよんだため、即日切腹を命ぜられました。この事件によって、江戸上屋敷や所領は没収され、赤穂藩浅野家は断絶となりました。なお、浅野家旧臣たちは、主君の仇を討つため、元禄十五年十二月に本所・吉良邸へ討ち入った事件は、後の世にも語り継がれる歴史的事件の一つとして知られています。本懐を遂げた浪士たちは、浅野家の菩提寺である泉岳寺へ向かう途中で旧上屋敷付近を通ったとも伝えられており、当該地は赤穂事件に関係する縁の地の一つとして東京都の旧跡に指定されています。

Site of the Asano Takumi no Kami Residence
Designated a Historic Site by Tokyo Metropolis

ASANO, Naganao with the official title, Takumi no Kami, was the daimyo (a federal lord) of Kasama (in Hitachi Province, now Ibaraki Prefecture) until 1645. When the family domain was transferred to Ako (in Harima Province, now Hyogo Prefecture), the area was assessed to produce 53,500 goku (about 9.6 million liters) of rice.Then, Naganao's son Nagatomo with the official title Uneme no Kami gave a part of their domain to one of their relatives, so their domain shrank to 50,000 goku. In 1675, Nagatomo's son Naganori became the head of the family and the third Ako daimyo. He later received the same title as his grandfather did, Takumi no Kami. and of the family and Asano's Kamiyashiki (a main residence of a daimyo in Edo) was located at this location till the mid of Edo era, where used to be called Teppozu. A map of the time shows it was a large property with about 29,000 square meters, of which borders in the west and south faced the roadside canals. On 14 March 1701, Asano Naganori drew his sword in the Corridor of the Pines at Edo Castle for assaulting KIRA, Kozunosuke Yoshinaka who was the head of ceremonial matters for the shogunate, while serving the shogunate as an official host for emissaries from the imperial court to the shogunate.Naganori was immediately ordered to commit ritual suicide, while Yoshihisa was wounded but not died. As a result, the ASANO family forfeited its property in Edo and also its local domain, and came to be extinguished. In December 1702, a group of samurai retainers who had served Naganori took revenge on their late master's enemy KIRA, Yoshihisa by killing him at this home in the Honjo district of Edo. This incident remains famous to this day as the story of the forty-seven ronins (masterless samurais), also called the Ako Incident. After their deed, the ronins went to Sengakuji Temple, the mortuary temple of the ASANO family, passing near the former ASANO residence along the way. This location was designated a historic site due to its association with the Ako Incident.




築地川公園は、かって築地周辺を流れていた築地川の一部を埋め立てた跡地を公園として整備したものです。築地川は中央区を流れ、東京湾に注ぐ二級河川です。現在はほとんどが埋め立てられ、一部が残るのみとなっています。築地は1657年の明暦大火後に、焼失した浅草の西本願寺(現在の築地本願寺、当時は江戸浅草御坊と称されていた)移転のために埋め立てられた土地(土を築くから築地になったといわれています)であり、その埋立の結果築地を取り囲むようにできた掘割が築地川になりました。明治期に入り、八丁掘を流れていた桜川と結ぶ水路として入船川が造られ(大正十三年埋立)、また昭和初期には楓川・築地川連絡運河が開削されました。築地川は現在殆どの区間で埋め立てが行われ、僅かに浜離宮恩賜庭園脇の水路が残るのみとなっています。築地本願寺を中心とする築地の地の周囲を築地川本流が巡り、その左側に築地川東支川、南側に築地川南支川が流れていました。また、隅田川から築地川には鉄砲洲川が接続していました。



築地川は江戸時代に埋め立てを行なった土地の外周部分が堀になって川になったとされています。その形状を見てみますと、その流路は完全に人工的な形状の矩形をしています。自然の川であれば源流があって河口があるのですが、築地川は隅田川から引き込んだ水をぐるっと周回させて、再び隅田川に戻るように流れています。運河みたいなものでしょうかね。築地川は単一の流路ではなく、支流がふたつあります。ひとつは東支流、もうひとつは堺橋から分離して東支流に合流していた南支流です。南支流の始点となっていた旧堺橋は聖路加国際病院近くの築地川公園の南側の一画にに親柱が展示されています。案内板の地図に書かれている「築地川南支流」は「築地川本流」の間違いではないかと思います。

堺橋跡

堺橋または境橋。震災復興橋梁の一つ。築地川に架かる橋で、小田原町(現・築地七丁目)から明石町へ渡されていました。震災前には橋長5.5メートル、幅4メートルの木橋でしたが、震災後に橋長25メートル、幅8メートルの鈑桁橋として改築され、昭和三年(1928年)7月に竣工しました。築地川(明石堀とも呼ばれた)は堺橋の先で分流し、南への水路が築地川南支流となり、北へ曲がる本流は合(相)引川とも呼ばれていました。この橋を境にして築地川の川筋が分かれていました。昭和四十六年(1971年)、首都高速道路の建設のため、築地川の埋立てに伴い撤去されました。




道路に面した公園の入口には、旧暁橋の橋銘板を埋め込んだ石柱と案内板があります。

暁橋跡

かってこの場所には、築地川南支流が流れ、震災復興橋梁の一つであるラーメン橋台橋構造の暁橋が架かっていました。道路建設の都市計画決定に伴って、昭和四十六年(1971年)に築地川は埋立てられ、その後昭和六十年(1985年)に暁橋は撤去されました。旧暁橋の橋銘板は、平成元年(1989年)に開園した区立築地川公園の入口に設置されて以来、平成の時代を見守ってきました。




道路を挟んだ公園の北側の入口にも旧暁橋の橋銘板を埋め込んだ石柱と案内板があります。案内板の地図に書かれている「築地川南支流」は「築地川本流」の間違いではないかと思います。

暁橋跡

震災復興橋梁の一つ。築地川に新架された橋長31.5メートル、幅15メートルの鈑桁橋で、昭和二年(1927年)3月に竣工しました。京橋区築地二丁目(現・三丁目)から明石町聖路加病院わきへ渡されていました。戦後、首都高速道路の建設のために、築地川が埋立てられ、橋は昭和六十年に撤去されました。




築地川公園から先の本流の流路は、入船橋交差点のところで北方向から北西方向に向きを変えます。築地川は完全に埋立てられたのですが、地表まで埋立てられた区間と、川の形を残して川底を道路、もしくは公園にした半地下区間の両方の形態があります。



築地川本流が北西方向から西方向に向きを変える角地には、現在中央区役所の建物が建っています。この敷地は、江戸時代末期に土佐藩の下屋敷があったところです。

土佐藩築地邸跡

この地は、江戸時代前期に埋立てられ、武家地や町人地となりました。文政九年(一八二六年)、この一帯の土地がまとめられ、土佐藩山内家が拝領しました。山内家は中屋敷ないし下屋敷にしていたようで、幕末までこの地にありました。土佐藩は初代山内一豊から十六代豊範まで続きました。幕末の変革期に有名な山内豊信(容堂)は十五代で、ここに屋敷を構えていたときに藩主でした。豊信は、安政五年(一八五八年)の条約勅許や将軍の継嗣問題において、一橋慶喜(後の十五代将軍)を擁立する一橋派に協力しましたが、家茂(後の十四代将軍)を推す大老井伊直弼に敗北し、豊信は藩主を退きました。この後、井伊直弼が暗殺されるなど、政情は混乱していきます。そのような中で、豊信率いる土佐藩は、幕府に大政奉還を働きかけてこれを実現し、後の版籍奉還、廃藩置県に至るまで、薩摩藩・長州藩と並んで明治維新の先頭に立っていました。なお、幕末に土佐勤王党を結成して幕府打倒を掲げた武市半平太は、ここから程近い士学館道場(現銀座一丁目、京橋公園辺り)に通っていました。また、薩長同盟を成立させ、大政奉還を提言した坂本龍馬は、安政三年(1856年)から同五年ころ、剣術修行のため江戸に来ていました。龍馬はこの地の土佐藩築地邸に寄宿しながら、桶町(現八重洲二丁目・京橋二丁目の一部)にあったとされる千葉定吉道場に通っていたようです。




当初、築地川本流はこの角地に沿って流れていましたが、昭和初期に楓川・築地川連絡運河が堀割されました。それで、見かけ上3つの川がこの角地で合流しているかのようななりました。それをつなぐものとして架けられたのが三吉橋です。



3本(実際は築地川と楓川の2本)の流れに架かる橋ですので、上空から見れば分かると思いますが三股のような格好になっています。ネットで見つけた三吉橋が架けられた当時の写真です。



半地下になった運河跡の底には首都高が通っています。片側2車線でも余裕のある幅ですから、如何に運河が大きかったかが想像できます。



三吉橋の袂に石碑がありました。碑文には三吉橋の成り立ちと、橋を題材にした小説の一節が書かれています。ふたつの碑文の間には、築地川の川筋と楓川・築地川連絡運河の位置関係が描かれています。

三吉橋

この橋は築地川の屈曲した地点に楓川と結ぶ水路(楓川・築地川連絡運河)が開削され、川が三叉の形となった所に関東大震災後の復興計画の一環として、昭和四年12月に三又の橋が架けられました。ここに川が存在し、人々の暮らしも川を中心に宮まれ、川筋を酒荷の船などか通った情緒ある風景も今は埋立てられ高速道路と化し、陸橋となりました。区では、平成四・五年にわたり、高欄には水辺に映える木立ちの姿を採り人れ、照明は架設した当時の鈴蘭燈に、又ー時期高速道路のランプとなり一部撤去された歩道も復元して古き風情を感じさせるテザインで修景しました。

三島由紀夫「橋づくし」

四人は東銀座の一丁目とニ丁目の堺のところで、昭和通りを右に曲った。ビル街に、街燈のあかりだけが、規則正しく水を撒いたように降っている。月光はその細い通りでは、ビルの影に覆われている。程なく四人の渡るべき最初の橋、三吉橋がゆくてに高まって見えた。それは三叉の川筋に架せられた珍らしい三叉の橋で、向う岸の角には中央区役所の陰気などルがうずくまり、時計台の時計の文字板がしらじらと冴えて、とんちんかんな時刻をさし示している。橋の欄干は低く、その三叉の中央の三角形を形づくる三つの角に、おのおの古雅な鈴蘭燈が立っている。鈴蘭燈のひとつひとつが、四つの燈火を吊しているのに、その凡てが灯っているわけではない。月に照らされて灯っていない灯の丸い磨硝子の覆いが、真っ白に見える。そして灯のまわりには、あまたの羽虫が音もなく群がっている。川水は月のために擾(みだ)されている。

概要

『橋づくし』は三島由紀夫の短編小説です。銀座や築地界隈を舞台に、陰暦8月15日の満月の夜に7つの橋を渡り願掛けをする4人の女たちの悲喜交々を、数学的な人工性と古典的な美学とを巧妙に組み合わせて描いた作品です。誰が最後まで橋渡りに成功するかの道行からオチの意外性、優れた技巧と構成で、多くの文芸評論家や作家から短編の傑作として高い評価を受けました。

あらすじ

第1・第2橋: 三吉橋
陰暦8月15日の夜、新橋の料亭「米井」の娘・満佐子は、芸妓の小弓、かな子と一緒に願掛けに出かける。それは、満月の深夜、無言で後戻りすることなく、7つの橋を渡って祈ると願いが叶うというものだった。満佐子の願いは、「俳優のRと一緒になりたい」。満佐子と同い歳の22歳の芸妓・かな子の願いは、「好い旦那が欲しい」。42歳の小太りの芸妓・小弓は、「お金が欲しい」のである。この3人と、満佐子の家の新米女中の田舎娘・みなが、お供として願掛けに加わった。願掛け参りのルールは、「7つの橋を渡るときに同じ道を二度通ってはいけない」、「今夜の願事(ねぎごと)はお互いに言ってはならない」、「家を出てから、7つの橋を渡りきるまで、絶対に口をきいてはいけない」、「一度知り合いから話しかけられたら、願(がん)はすでに破られる」、「橋を渡る前と渡ったあと、それぞれ合計14回、手を合わせてお祈りをする」などである。4人は願掛けの橋に向かって歩きだした。月が出ており、街は寝静まり、4人の下駄の音が響いている。最初に渡る橋は向う岸に区役所のビルが見える三吉橋である。この橋は三叉の橋で、2つの橋を渡ったことになる。満佐子は手を合わせて祈っている時、ふと女中のみなを見ると殊勝に何かを祈念していた。自分と比べて、どうせろくな望みを抱いていないのだろうと満佐子は思ったりした。

第3の橋: 築地橋
築地橋を渡る時、はじめて汐の匂いに似たものが嗅がれ、生命保険会社の赤いネオンが海の予告の標識のように見えた。芸妓のかな子は出る前から少しあった腹痛が激しくなってきた。何かに中ったらしい。次の橋を目前にして、かな子は脱落してしまった。

第4の橋: 入舟橋
残りの3人は入船橋を無事に渡った。第5の橋まで大分道のりがあり、左方の川むこうに聖路加病院の頂きの巨きな金の十字架が見えた。

第5の橋: 暁橋
暁橋は毒々しいほど白い柱の橋だった。もうすぐ渡り切ろうというところで、銭湯帰りの浴衣の女が小弓に気さくに声をかけた。小弓は脱落した。いくら返事を渋ってみたところで、「一度知り合いから話しかけられたら、願(がん)はすでに破られる」のであった。

第6の橋: 堺橋
堺橋は緑に塗った鉄板を張っただけの小さな橋であった。駆けるように渡ると、まばらな雨粒が降ってきた。満佐子はみなと2人だけになり、この見当のつかない願い事を抱いた岩乗な山出し娘の存在が不気味になってきた。

第7の橋: 備前橋
備前橋の川向うの左側は築地本願寺である。橋の前で祈念している時、満佐子はパトロールの警官に不審尋問されてしまった。満佐子は代わりにみなに答えさせようと、そのワンピースの裾を引っ張ったが、みなも頑なに黙っている。満佐子は先に駆け出して逃げようとしたが警官に腕をつかまれ、思わず、痛いと声を発してしまった。橋の先を見ると、一緒に駆け出したみなが14回目の最終の祈念を黙々とこなしていた。

家に帰った満佐子は泣きながら母親に、みなの気の利かなさを訴えた。一体おまえは何を願ったのかとみなに聞いても、みなはにやにや笑うだけであった。数日後、いいことがあった満佐子が機嫌を直して、再び、みなに同じことを訊ねたが、みなは不得要領に薄笑いをうかべるだけであった。


似たような数学上の問題で、「ケーニヒスベルクの七つの橋問題」があります。

18世紀の初め頃にプロイセン王国の東部の東プロイセンの首都であるケーニヒスベルク(現ロシア連邦カリーニングラード)という大きな町があった。この町の中央には、プレーゲル川という大きな川が流れており、七つの橋が架けられていた。あるとき町の人が、次のように言った。「このプレーゲル川に架かっている7つの橋を2度通らずに全て渡って、元の所に帰ってくることができるか。ただし、どこから出発してもよい」



「橋づくし」に出てくる橋の数は7つですが、橋の配置と一筆書きのルールの適用は異なります。三叉橋である三吉橋も条件が異なりますね。でも一筆書きで渡れそう。ただ、今は現存しない橋があるから実証は無理か。



ポイント4 名犬チロリ記念碑

築地川銀座公園は、かっての築地川本流の跡地上空に造られた施設です。その中に寛いだ表情の犬の親子の銅像が立っています。



「セラピー」とは、薬や手術などによらない心理療法や物理療法をいいます。

名誉セラピードッグ認定1号犬 名犬チロリ記念碑

捨て犬チロリは、子犬たちと共に殺生処分寸前を助けられ、後にセラピードッグ(動物介在療法)の代表犬として全国で活躍し多くの高齢者や障害者に大きく貢献しました。その無償の愛情を捧げる姿は人々に生きる勇気と病気回復への希望を与えました。この1頭の捨て犬の社会福祉への功績は犬史に残ると共に日本の動物愛護法に多大な影響をもたらしました。
ありがとうチロリ 2006.3.16永眠
国際セラピードッグ協会 大木トオルPh.D.

THE FIRST CERTIFIED THERAPY DOG IN JAPAN - IN MEMORY OF THE LEGENDARY CHIRORI

CHIRORI WAS ABANDONED ALONG WITH HER FIVE YOUNG OFFSPRING AND WAS ABOUT TO BE PUT DOWN. AFTER HAVING BEEN GIVEN ANOTHER CHANCE TO LIVE, SHLE BECAME A THERAPY DOG. AT VARIOUS MEDICAL INSTITUTIONS THROUGHOUT JAPAN, SHE ENCOURAGED AND SUPPORTED ELDERLY AND DISABLED PEOPLE WITH HER GIFTED CHARM. SHE GREATLY CONTRIBUTED TO THE SOCIAL AWARENESS OF THE POWER OF THERAPY DOGSAND WAS INFLUENTIAL IN THE RE-DRAFTING OF THE JAPANESE LAWFOR THE PREVENTION OF CRUELTY TO ANIMALS.
"NOTHING BUT LOVE TO YOU, CHIRORI"
HONORARY DOCTOR OF PHILOSOPHY IN SOCIAL WELFARE TORU OKI PH.D.




名犬チロリ記念碑から築地川跡地を走る半地下の首都高沿いに新橋方向に進みま。新橋演舞場の手前に采女橋が架かっています。

采女橋

このあたりは、江戸前期に松平采女正の屋敷があり、享保九年(1724年)の大火で焼けたあと火除地になって、俗に采女が原と呼ばれました。橋名の由来はここからきたものと思われます。采女が原は、明治二年に采女町と称する市街地となり、銀座煉瓦街と築地の外国人居留地との間に位置して和洋混合の新興市街地が形成されていったようです。震災復興時に架け替えられた現在の橋は、当時意匠的に優れていたといわれるアーチが採用されました。また橋の下は昭和三十七年に築地川から現在の高速道路に姿を変えました。区では平成二年度に、幻のホテル“築地ホテル館”(明治元年、近代的な洋式ホテル第一号として誕生し、栄華を誇ったが明治五年焼失)と“銀座の柳”を題材にした意匠で高欄等を整備しました。

        橋梁の諸元

形式    2径間鉄筋コンクリートアーチ橋
橋長    42.0m
有効幅員  15.0m(車道9.0m 歩道3.0mX2)
着工    昭和四年9月
竣工    昭和五年10月
施行者   東京市




新橋演舞場は、大正十四年(1925年)に、大阪にある演舞場や京都の歌舞練場を手本に新橋芸者の技芸向上を披露する場として建設されました。3階建・客席数1679の規模で、(こけら)落しは第1回「東をどり」でした。戦災のために焼失し、その後再建されましたが、昭和五十七年(1982年)に日産自動車本社新館と一体化した新築の劇場となりました。開場以来、春と秋に新橋芸妓による「東をどり」を公演しています。4月下旬もしくは5月下旬に開催される春の「東をどり」は東京の春の風物詩として今日でも人気があります。昭和十五年(1940年)から松竹が使用を開始し、松竹の主要劇場として歌舞伎・新派・松竹新喜劇・新国劇・前進座公演・歌手による芝居公演などを上演しています。



新橋演舞場に隣接して金田中があります。金田中は、大正時代に新橋の花街木挽町で創業した老舗料亭です。



昭和通りに架かる歩道橋の「銀座ときめき橋」を渡ります。

「ときめき」には、一つに心を打つような感情、もう一つに時勢に乗って栄えるという意味があります。金田一春彦(国文学者)

「銀座ときめき橋の由来」

江戸初期、徳川幕府は出雲二十四万石堀尾吉晴にこの辺り一帯の土地造作を命じ、銀座8丁目界隈はその後「出雲町」と呼称されました。平成五年銀座7・8丁目をつなぐ道路の改修が行われ「花椿通り」が誕生。記念曲「ときめいて銀座」がレコード化され愛唱されました。出雲市からは記念の出雲椿が寄贈され、今も私たちの目を楽しませてくれております。平成九年昭和通り銀座歩道橋として竣工したこの橋を、江戸・明治期に新橋と花柳界をつなぐ男女逢瀬の橋として賑わったゆかりの地に因んで愛称「銀座ときめき橋」とし、近隣関係者参加のもとここに記念の碑を建立します。




花椿通りを銀座コリドー通リ方向に進みます。



通りに面して小さな祠が建っています。

銀座熊谷稲荷縁起

遠く東海道の要路に当り、里俗の崇敬する稲荷神社にして、建久の昔、武将熊谷次郎真実郷源平合戦の後、鎌倉より今の熊谷市に凱旋の途次、此の地の里人の請はるゝまゝに、護持の神札を授けられて、尊崇し給うと伝う。斯くて江戸の地、開発と共に当地(木挽町六丁目東豊玉岸地=現在銀座七丁目地)に祭祀、当町世々鎮守として七百有余年町民衆庶の信仰する処となり今日に至る。特に、開運、防火の守りの霊験著しきを伝え聞き、近隣各地より信仰帰依する者尠からず、又大東亜戦に於て戦火迫るに及び先世話人竹本金太郎妻女、安全の地に御神体を奉じ移らんとせしに、急に重みを感ず、是神意のお告げと覚り火中に留まる。幸い神護を得て無事社殿と共に戦禍を免かれたり。昭和二十五年町民各位の発起に依り、破損の社殿を改築神意を休め奉る。昭和六十三年十月再度改築、現在に至る。茲に私共町民の、安寧幸福の神として仰ぐ次第なり。




銀巴里は、1951年〜1990年まで銀座七丁目にあった日本初のシャンソン喫茶です。「東の銀巴里、西のラ・ベル・エポック(武蔵野市吉祥寺にありましたが2009年10月31日に閉店しました)」とも呼ばれました。美輪明宏・青江三奈・戸川昌子・古賀力・金子由香利・戸山英二・大木康子・長谷川きよし・宇野ゆう子・嵯峨美子・クミコらを輩出し、三島由紀夫・なかにし礼・吉行淳之介・寺山修司・中原淳一らが集い、演出に尽力しました。閉店日には、銀巴里の名が記されたコーヒーカップや食器類が全て常連客によって持ち帰られました。銀巴里の跡地に石碑が建っています。



花椿通りといえば、資生堂ですね。通りの名前の由来は、昭和初期に出雲から寄与された出雲椿(ヤブツバキ)が街路樹として植えられたことに因んでいます。現在は御影石が綺麗に敷き詰められ、その整備の記念として椿の花を持ったポニーテールの少女「はな」の像が置かれています。出雲から寄与された8本の椿は健在で、3月から4月にかけてきれいな赤い花を見ることができます。クリスマスシーズンにはライトアップされ、恋人たちの目を楽しませています。1年を通して老若男女を問わず、各国からの観光客も訪れる活気あふれるストリートとして愛され続けています。



銀座のメインストリートである中央通りを銀座七丁目交差点で横断した先の金春通りとの交差点脇に豊岩稲荷神社があります。といっても、ビルの隙間に入口があり、神社名を記した石柱と幟がなければ神社とは気が付かないでしょう。豊岩稲荷神社は、江戸時代初期から銀座の街に鎮座する、地元の人に守られてきた神社です。歌舞伎役者や芸能関係者にも信仰され、いつからか参拝すると良縁が頂けるといわれるようになりました。ビルとビルの間の狭い路地を進んだ先に社が現れます。



燈籠に照らされた稲荷社はまさに異空間といった雰囲気です。元々、神社の敷地は広かったそうですが、平成六年(1994年)に隣接地のビルの建設によって敷地が縮小され、現在の路地裏に建つ形になったのだそうです。豊岩稲荷神社の御祭神は稲荷神(倉稲魂命)で、江戸時代初期からこの地にあり、防火と縁結びの神様として広く信仰を集めて来たといわれています。稲荷神の使いとされる狐が鎮座する扉の奥が社になっていて、通常は扉が閉じられていますが、祭礼の時などに開放されます。銀座には、小さな路地からビルの屋上までさまざまな場所に神社がお祀りされています。それをまとめたのが「銀座八丁神社巡り」です。豊岩稲荷神社の他、全部で12の神社が含まれています。

豊岩稲荷神社(宗教法人)

御祭神
稲荷大神(宇気母智神)

例祭日
四月十五日

御由緒
当社は、江戸初期からこの地(中央区銀座七丁目八番十四号)に火防神・縁結神として信仰を集め、銀座七丁目町会の守護神として篤い信仰を集めてきた。稲荷の神は、保食神(宇気母智神)或は倉稲魂神と称し、稲のみ魂又人間の生活に最も必要な食物を守護し給う神として、伊勢神宮の外宮、京都の伏見稲荷大社始め、全国の稲荷の御祭神として、広く信仰されている。当社は、明智光秀の家臣安田作兵衛により祀られ、昭和の初めには歌舞伎の名優市村羽左衛門丈を始め、芸能関係者の崇敬が厚かった明治三年以降、当銀座の氏神である山王百枝神社(元官幣大社)の神職により祭祀はとり行われ、永年の宿望であった御社殿以下の御造営事業及び境内地の保全が平成五年秋、地元町会関係者及び特別崇敬者中塚成紀氏等の奉賛によりなされたのである。




金春通りから交詢社通りに入ります。



ちなみに、「金春通り」の名称は、江戸時代に能楽の金春流の屋敷があったことに由来しています。江戸時代、幕府直属の能役者として土地や俸禄を与えられていた家柄に、金春・観世・宝生・金剛の四家があり、最も歴史のある金春家は室町時代以来繁栄し、江戸時代初期から観世太夫とともに江戸で能を演じていた名家で、屋敷なき後もこの地にその名を留めているのです。「交詢社通り」の名称の由来となった交詢社は、明治十三年(1880年)に福澤諭吉が提唱して結成された日本最初の実業家社交クラブです。名称は「知識ヲ交換シ世務ヲ諮詢スル」に由来しています。慶應義塾の同窓会メンバーを中心として社則を草案し、林金兵衛が構想に関わり、宇都宮三郎から煉瓦家屋を譲り受け、同年1月25日に青松寺(東京芝区愛宕下)で交詢社の発会式が行われ、24名が常議員となりました。入社には社員2名の推薦と入社審査に通る必要があります。クラブの本拠として交詢ビルディングを所有していて、関東大震災で被災した後、昭和四年(1929年)に建てられた歴史的建造物でしたが、平成十六年(2004年)に建て替えられました。新しいビルは地上10階建てで、バーニーズ・ニューヨークや中華・広東料理の赤坂璃宮を始めとする飲食店がテナントとして入っています。ファサード(建物を正面から見たときの外観のこと)の保存によって、以前の建築建物の一部が再現されています。



交詢社通りには、海外の有名ブランドのお店が並んでいます。ミラノのモンテナポレオーネ通りやスピーガ通りみたいですね。



タンドールチキンとカシミールカレーで知られるデリーのお店があります。銀座に立地するお店としては良心的なお値段です。

デリー

インド・パキスタン料理の草分けとして半世紀以上にわたり愛され続けて参りました。本場の味を守りながら日本の風土や日本人の嗜好を吟味。最上のご満足を頂けるお料理をお届けすることが私たちの拘りです。




GIN5ZA(銀座ファイブ)の手前で右折し、「みゆき通り」に入ります。



泰明小学校の入口の横に、卒業生である北村透谷と島崎藤村の記念碑があります。

北村透谷・島崎藤村記念碑

泰明小学校は明治十一年(1878年)六月に開校し、北村透谷と島崎藤村は初期の卒業生でした。

北村透谷(1868年〜1894年)は、現在の神奈川県小田原市に生まれ、明治十四年に家族とともに京橋区弥左衛門町(現在の銀座四丁目)に転居し、泰明小学校に通いました。その後、自由民権運動に惹かれて政治家を志しましたが、後に文筆活動に転じ文芸評論家・詩人として活躍しました。明治二十六年(1893年)、雑誌「文学界」に参加した透谷は、文芸における自由主義を唱え、近代浪漫主義文学の開拓者といわれました。代表作は、「楚囚之詩」「蓬莱曲」「厭世詩家と女性」などがあります。

島崎藤村(1872年〜1943年)は中山道馬籠宿(現在の岐阜県中津川市)に生まれ、明治十四年に上京し、京橋区鎗屋町にあった姉の嫁ぎ先(現在の銀座四丁目付近)から泰明小学校に通学しました。その後、姉夫婦が帰郷したため同郷人の家に身を寄せながら同校に通い、卒業しました。明治学院在学中に文学への関心を深めた藤村は、「文学界」の活動を通して透谷から深い影響を受けました。代表作は、「若菜集」「春」「夜明け前」などがあり、中でも「破戒」は自然主義文学の先駆といわれています。なお、藤村の著作である「幼き日」「をさなものがたり」には、銀座で過ごした藤村の幼少期が描かれています。

Monument in Memory of Kitamura Tokoku and Shimazaki Toson

Taimei Elementary School opened at this site in June 1878, and among the early graduates were Kitamura Tokoku and Shimazaki Toson. Kitamura Tokoku (1868-1894) was born in present Odawara, Kanagawa Prefecture. He moved with his family in 1881 to Yazaemoncho in the Kyobashi district (now Ginza 4-chome) and attended Taimei Elementary School. As he was interested in the Freedom and People's Rights Movement, his original intention was to become a statesman. Then, he changed his focus to writing and actively worked as a literary critic and poet. In 1893, he belonged to a literary magazine, "Bungakukai". Tokoku advocated liberalism in literature and has been regarded as a pioneer of romanticism in Japan. Shimazaki Toson (1872-1943) was born in Magome-shuku, a post station on the Nakasendo highway (now part of Nakatsugawa, Gifu Prefecture). In 1881, he moved to Tokyo, lived with his sister's husband's family in Yariyacho in the Kyobashi district (now Ginza 4-chome) and attended Taimei Elementary School. After the family returned to their hometown, he stayed in a house of his friend from the same hometown, and continued going to school until graduation. He developed a deep interest in literature while studying at a Christian higher school, Meiji Gakuin and was strongly influenced by Kitamura Tokoku through "Bungakukai". His main works include a poetry collection "Yoakemae" (Before the Dawn) as well as "Hakai" (The Broken Commandment) which is considered to be the pioneer of naturalist literature. In his novels, "Osanaki hi" and "Osana monogatari", his childhood days he spent in Ginza are described.




泰明小学校と泰明幼稚園の歴史を記した石碑が入口の横に置かれています。

昭和五十三年六月二十五日
泰明この日百年

泰明小学校は明治十一年にこの地の公立小学として創立され、ここに一世紀を経ました。この間国運の消長時代の変革・社会の推移・制度の変遷の中で常に地域の初等基礎教育を担いました。特に関東大震災・第二次世界大戦時には再度灰燼に帰しながらも復興し、内実を深め、校風を維持し、絶えず誇り高く歩み続け、いまや有為な人材一万人あまりを地元日本の銀座をはじめ、広く世に送っています。また幼稚園は昭和二十八年に開設され、泰明の一貫教育に貢献しています。

Taimei Elementary School Establishment 1878
Taimei Kindergarten Establishment 1953




泰明小学校の校舎は歴史的建造物に指定されています。昭和四年(1929年)に建てられてそうです。

東京都選定歴史的建造物
中央区立泰明小学校

泰明小学校は明治十一年に開校し、現在使用されている建物は、関東大震災を機に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造の校舎として建て替えられたものである。表現主義と呼ばれる建築様式の建物で、カーブを描く壁面やアーチ窓等を使った外観に特徴がある。L字型校舎の南端に位置する玄関部分には、柱や入口庇等に個性的な装飾が集中して施され、建物の顔となっている。これらの意匠は、震災復興期につくられた他の小学校ではあまり見受けられない個性的なものである。また、校庭に面した側の窓は他の学校よりも大きくとられ、開放的な印象を与えている。蔦のからまる校舎は銀座のシンボルとして人々に親しまれており、今なお往時の景観を残している。




みゆき通りの名称の由来についても記されています。小学校にこのような立派な門扉があるのは泰明小学校くらいなものでしょう。

みゆき通りと門扉

この通りは、明治天皇が宮城より海軍兵学校に御行幸された折にお通りになられたことから、みゆき通りと呼称されるようになったといわれている。また門扉はその時代南フランスの貴族の館で使用されていたものである。




ポイント5 若い時計台

泰明小学校の裏手に数寄屋橋公園があります。公園の奥の一段高いところに、岡本太郎が制作した「若い時計台」の彫像が建っています。昭和四十五年に開催された大阪万博を彷彿とさせるデザインです。この彫像は、万博が開催される4年前の1966年に銀座ライオンズクラブから数寄屋橋ライオンズクラブが独立した際に、青少年の健全な育成を目的として両ライオンズクラブから中央区に寄贈された時計台です。作品の頭頂部には顔を模した時計が設置されていて、夜間帯にはライトアップが行われます。岡本太郎はこの作品の制作に際し、「人間は本来八方に意欲を突き出し、情熱をほとばしらせながら生きたいのだ。時間を超えた時間、機械的でない、人間的な時間を表象したつもり」というメッセージを残しています。



ゴール地点の東京メトロ銀座駅に着きました。



ということで、中央区で二番目の「Course2.銀座・新川・新富 ご当地モニュメントめぐり」を歩き終えました。次は中央区で三番目のコースである「Course3.人形町・小伝馬町 「江戸」の風情と面影探し 」を歩きます。




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