- Course3.人形町・小伝馬町 「江戸」の風情と面影探し
- コース 踏破記
- 今日は中央区の「Course3.人形町・小伝馬町 「江戸」の風情と面影探し」を歩きます。浜町公園から、水天宮・人形町・小伝馬町と周遊し、最後は日本橋室町の神社で算額を楽しみます。最初に歩いたのは2022年の1月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年1月に改めて歩きました。
Course3.人形町・小伝馬町 「江戸」の風情と面影探し
「Course3.人形町・小伝馬町 「江戸」の風情と面影探し」の歩行距離は約3.0km(約4、300歩)、歩行時間は約44分、消費カロリーは約132Kcalです。
スタート地点:浜町公園
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- ポイント1 水天宮
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安産・子授けの神社として親しまれています。社殿は近年に御造替され、境内は免震構造になっています。
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- ポイント2 人形町からくり櫓
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江戸情緒を人形たちが楽しく伝える、人形町商店街のモニュメント。大通りを挟んで2基あります。
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- ポイント3 十思公園
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この場所には伝馬町牢屋敷がありました。江戸の町に時を知らせた「石町時の鐘」が移設されています。
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- ポイント4 薬祖神社
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「くすりのまち」日本橋本町界隈には多くの製薬会社があり、神社には医薬の租神が祀られています。
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- ポイント5 福徳神社
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多くの武将や徳川家と縁のある神社です。千年以上も当地に鎮座しており、「富くじ」も扱っていました。
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ゴール地点:東京メトロ三越前駅A6地上出口
スタート地点の浜町公園から歩き始めます。浜町公園は、中央区の公園の中では最大の面積を持ち、区を代表する公園として知られています。1923年の関東大震災の後、後藤新平の主導による帝都復興事業(帝都復興公園)の一環として、隅田公園・錦糸公園と併せて計画・整備され、昭和四年(1929年)に開園しました。此の地には、江戸時代には一橋徳川家、笠間藩主・牧野氏、弘前藩主・津軽氏、熊本藩主・細川氏の下屋敷が置かれ、明治期以降も細川家の邸宅がありました。浜町公園は細川家の庭園跡に造られ、現在では、隅田川の眺望を眺めながらバーベキューが楽しめる施設や、運動広場の他、中央区立総合スポーツセンターがあります。
2020年東京オリンピックの聖火リレーでセレブレーション会場となり、聖火ランナーは公募により1万人程度が選ばれました。聖火リレーでは、ランナーの公募に全国から延べ53万5717件の応募があり、東京都の公募枠165人に対して1万6910人が応募し、倍率は102倍になりました。残念ながら、コロナ禍により公道での走行やセレブレーションは中止になりました。
東京2020オリンピック競技大会
オリンピック聖火リレー
2021.7.20
東京2020オリンピック聖火リレーは、新型コロナウイルス感染症拡大の影響により、公道での走行・セレブレーションなどが中止となったため、2021年7月20日に浜町公園を会場にして、無観客で当日聖火リレーを予定していた4区(台東区・文京区・千代田区・中央区)が順番に点火セレモニーを行いました。中央区では23人の聖火ランナーが、平和や希望の象徴であるオリンピック聖火をトーチキスでつなぎ、17人のサポートランナー(区立小学校卒業生)が聖火皿への点火を応援しました。
Olympic Games Tokyo 2020
Olympic Torch Relay
2021.7.20
Tokyo 2020 Olympic Torch Relay was conducted without audience at Hamacho Park on 20th July 2021 as the torches were lighted by 4 cities (Taito, Bunkyo, Chiyoda and Chuo) in turn, which had scheduled to give the ceremonies, since the public-road-running for the torch bearing and the celebration were cancelled under the influence of COVID-19 pandemic. 23 Olympic Torchbearers of Chuo City passed the Olympic flame on to the next, the symbol of the hope and peace, by doing Torch-Kiss and 17 Support torchbearers, former students of Chuo Public Elementary Schools, cheered the bearers to light the Olympic torch plate.
浜町公園から緑道となっている浜町通りを通って清洲橋通りに向かいます。植え込みの中に「浜町標本発掘の地」の案内板が立っています。
ナウマンゾウの化石
「浜町標本」発掘の地
貴重な化石遺産「浜町標本」
昭和五十一年(1976年)の春、都営地下鉄新宿線「浜町駅」付近の工事中に、地下約22メートルのところからナウマンゾウの化石が発見されました。地下鉄の工事が一時中断され、5日間の発掘作業が行われました。同じ個体の頭と体の骨が発見されたのは日本ではここだけで、学術的にとても貴重な発見となりました。最終的に3頭分の個体が混じっていたことがわかり、これらは「浜町標本」と名付けられました。浜町標本の肩の高さは、約190センチメートル。牙や頭の形から、メスと推定されています。ナウマンゾウはいま生きているアジアゾウと比べ、同じくらいかやや小型のゾウでした。芽の長さは、おおきなオスでは約2メートルあり、湾曲していましたが、メスの浜町標本の牙は直線的で長さ90センチメートルほどでした。
清洲橋通りに面している植え込みの中に、「小便小僧」の像が立っています。「小便小僧」の像は世界各地にありますが、起源とされているのは、1619年にフランス人彫刻家ジェローム・デュケノワにより製作されたブリュッセルに設置されている像です。小便小僧の由来にはふたつの説があります。ひとつはルーヴェン伯ゴドフロワ3世に関する説で、1142年に当時2歳のゴドフロワ3世の軍はグリムベルゲンでの戦いの際に戦場の兵士を鼓舞するためにゆりかごにゴドフロワ3世を入れて木に吊るし、そこからゴドフロワ3世は敵軍に向かって小便をして味方軍を勝利に導いたという説です。もうひとつは、反政府軍がブリュッセルを爆破しようと仕掛けた爆弾の導火線に小便をかけて消し、町を救った少年がいたという武勇伝説です。この少年の名はジュリアンといい、小便小僧の愛称「ジュリアン坊や」はここに由来するといわれています。
浜町通りの反対側に明治座があります。明治座の建物の南東角に小さな神社が祀られています。神社の創建は不詳ですが、明治座が「喜昇座」として開場した明治六年(1873年)以降といわれています。鳥居の扁額には「笠間出世稲荷大明神」と書かれていますが、通称は「明治座稲荷神社」と呼ばれています。正式には「笠間稲荷神社明治座分社」で、明治座の繁盛を祈るために笠間稲荷神社東京別社から勧請されたそうです。明治座の出演者・演出者やファンの人達が興行の成功を祈願することも多いそうです。
明治時代からの長い歴史を持つ「日本橋明治座」は、「銀座歌舞伎座」・「新橋演舞場」・「お堀端帝劇」などと共に東京を代表する劇場として親しまれてきました。明治座は戦前から戦後昭和の一時期までは歌舞伎や新派の殿堂として知られ、その後は時代劇公演や、時代劇俳優や演歌歌手など年配に好まれる芸能人が座長となった歌謡ショー形態の公演(座長公演)が中心となりました。明治座の前身は江戸時代末期に両国にあった富田三兄弟による菰張芝居で、明治六年(1873年)の両国橋畔の興行禁止令により久松町 に移転し、喜昇座として創建されました。初期には焼失と再建を繰り返しながら成長し、その度に名称も久松座、千歳座と目まぐるしく変わり、明治二十六年(1893年)に初代市川左團次が千歳座を買収して座元となり、これを明治座と改称しました。現在の明治座は、再開発により1993年に建て替えられた賃貸オフィスビル浜町センタービルの低層階にあります。
2025年1月は純烈、2月は吉幾三の公演があるそうです。ちなみに、2022年1月はサザエさん、2月は前川清・藤山直美の公演でした。
清洲橋通りと新大橋通りが交差する角地に「トルナーレ日本橋浜町」という複合施設があります。
トルナーレ日本橋浜町は、老朽化し、建て込んだいた街の地域環境の改善と防災性の向上を図りつつ、土地の有効利用と計画的な地域整備を目指し、100名を超える地権者が再開発組合を発足させ、47階建ての高層住宅と18階建ての高層オフィスおよび低層1・2階部分にショピング・ファクトリー・ビジネス・ヒーリングの各エリアと地域の町内会が集う神社・集会所等の整備に取り組んで誕生しました。「トルナーレ日本橋浜町」は、再開発後の住民の再会を願い、イタリア語で「お帰りなさい」を意味する「トルナーレ」から命名された名称です。
住宅棟の前に浜町の江戸時代のレリーフ画と歴史を記した案内板が立っています。
水から生まれた商いの町 日本橋浜町
四方をお堀に囲まれた江戸の下町、日本橋浜町は、隅田川と浜町川の水運が町の文化をつくりました。隅田川沿いに広がる自然豊かな風景に魅了された武士が屋敷をかまえ、町を流れる浜町川が上方からの舟と品物を運ぶ水路に利用された日本橋浜町には、材木商や米問屋が軒を連ねました。明治時代になると魚鳥市場や青物市場、陶器の問屋街ができ、豊かな水が町をつくったのです。人々の足としても水運は活躍し、浜町三丁目東岸の菖蒲河岸から隅田川対岸の清住(現在の清澄)までの渡船は、明治十年頃には年間13万人が利用したといわれています。関東大震災、戦後の復興によって新しく生まれ変わり、かつて町を流れていた浜町川は、今は浜町緑道として人々の憩いの場となっています。水の町から緑の町として親しまれている日本橋浜町には、川遊びや舟から楽しむ花火など水の文化が深く根付き、先人からの水への想いは今も変わらず受け継がれています。
浜町緑道には、一部高速道路が通っています。浜町川は、かつて千代田区岩本町から中央区日本橋浜町まで流れていた運河です。神田川から箱崎川を経て隅田川に通じていました。江戸時代初頭に隅田川側から開削が始まり、1691年に竜閑川と接続し、L字型の流路となっていました。元吉原遊廓の「おはぐろどぶ(遊女が逃げぬよう遊郭の周りをぐるりと囲んだ水路で、名前の由来は遊女が使用したお歯黒を流すからと言われています)の役割がありました。明治十六年(1883年)に竜閑川接続点から神田川までを新規開削し、隅田川とつながる運河となりました。そのため船運の利用が多くなりましたが、1948年から1950年にかけて北から小川橋まで暗渠化され、残りが1972年に埋め立てられました。跡地は浜町緑道(グリーンベルト)となっています。
浜町神社は、稲荷大神を祀り、地元の守り神としてこの地に鎮座してきましたが、再開発に組合員として参加しました。低層棟に社務所が置かれ、それとは別に独立した社殿や鳥居が敷地内に再建され、下町らしさを感じさせる雰囲気を作り出しています。
濱町神社由来記
濱町神社は、昔時、天明年間(西暦1781年〜1789年)に、島津家下屋敷庭内の守護神にして、島津稲荷大神として、奉斎してありしを、明治二十年(西暦1887年)同所を分譲地として浜町三丁目となりて後も、引き続いて浜町の守護神として、厚く奉齋せり。大正十二年(西暦1923年)九月一日の関東大震災に於いて、ご社殿その他を烏有に帰してその後、昭和三年(西暦1928年)五月御社殿を再建の際、当時、神田区西福田町に鎮座せる、山田稲荷を合祀して稲荷神社と改称する。その後、戦災に依り、不幸にも、再度消失す。故に、昭和二十七年、発起人有志多数の協賛を得、町内各位の浄財に依り神社を再建し、昭和二十八年(西暦1953年)三月十五日、名称も濱町神社と改称する。当地区の再開発に伴い、平成十二年四月十二日(西暦2005年)、濱町神社の遷座祭を行い、現在の様式にて、再建する。
稲荷神社の御祭神である稲荷大神(倉稲魂神)は、五穀豊穣、産業興隆、家内安全、商売繁盛、子孫繁栄、学業成就、交通安全、火災除け、災難除けの神様としてのご利益も伝えられています。
- ポイント1 水天宮
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元和六年(1620年)、有馬豊氏公は久留米藩(現在の福岡県久留米市)二十一万石を拝領しました。二代目藩主の有馬忠頼公は、当時「尼御前大明神」と尊称されていた水天宮に対して、城下の筑後川に臨む広大な土地を寄進し、社殿を造営しました。敬神の念は代々の当主に受け継がれ、文政元年(1818年)、九代目藩主有馬頼徳公は参勤交代の折に江戸で水天宮を親しくお参りできるよう、芝赤羽根橋の上屋敷内へ国元久留米より御分霊を勧請しました。上屋敷内に祀られていた水天宮は人々の信仰が篤く、塀越しにお賽銭を投げる人が後を絶ちませんでした。時の藩主は毎月5日に限り屋敷の門を開き、人々のお参りを許しました。そのことから有馬家と「情け深い」ことを掛けて、「なさけありまの水天宮」という洒落が江戸っ子たちの流行語となりました。明治五年に現在の場所に遷座し、平成二十八年には約3年間をかけた社殿と参集殿の造替事業が竣工し、免震構造を備えた安全な神社へと生まれ変わりました。社殿は、白木を基調とした神社建築様式を取り入れていて、代々受け継がれている伝統文化の(飾)金具や彫刻等も施されています。免震構造など最新技術を用い、古き良きものと新しいものを取り入れて、時代に即した造りになっています。
神社の出口に、同様の趣旨の由緒書きが掲示されています。
御由緒
当社は文政元年(1818年)港区赤羽に在った有馬藩邱に当時の藩主第九代・有馬頼コ公が久留米城下に鎮座していた水天宮の御分霊を藩邱内に祀ったことに創まります。壇之浦の戦で敗れた平家の女官の一人が源氏の目を逃れ筑後川の河畔に落ちのび、一門と共に入水された安コ天皇・建礼門院・二位の尼の御靈を、ささやかな洞をたててお祀りしたのが、水天宮の創めです。江戸時代の当社は藩邱内に在った為、庶民は普段参拝できず門外より賽銭を投げ入れて参拝したと伝えられます。ただし毎月五日の縁日に限り、殿様の特別な計らいによって藩邸が開放され、参拝が許されました。その当時、ご参拝の妊婦の方が鈴乃緒(鈴を鳴らす晒の鈴紐)のお下がりを頂いて腹帯として安産を祈願したところ、ことのほか安産だったことから、人づてにこの御利益が広まりました。その当時の当社の賑わいを表す流行り言葉に、「なさけありまの水天宮」という酒落言葉があった程です。明治維新により藩邱が接収され、有馬邱が青山に移ると共に青山へ、更に明治五年十一月一日に現在の蛎殼町に御鎮座致しました。関東大震災では神社も被災しましたが、御神体は隅田川に架かる「新大橋」に避難し難を逃れました。その後復興も相成り、昭和五年に流れ造りの社殿が完成し、昭和四十二年には権現造りの社殿となりました。現在の社殿は平成三十年の江戸鎮座二百年を迎えるに当たって、有馬家十七代当主・当代宮司の有馬頼央の念願により、平成二十八年に境内地全面免震構造の建物として完成致しました。
「子宝いぬ」の親子像は、子犬を見つめる母犬から情愛が伝わってきます。周囲を取り巻く十二支のうち、自分の干支を撫でると安産・子授け・無事成長など様々なご利益があるといわれています。
狛犬の一方は口を開けて前足で玉を守り、もう一方は口を閉じ子犬を守る姿が印象的な一対の狛犬です。其々、吐く息と吸う息「阿吽(あうん)」を表し、魔除けとしての意味合いもあります。この狛犬は、ブリヂストンの創立者である石橋正二郎氏が奉納しました。
安産子育河童像は、足下と胸・肩に赤ちゃん河童がしがみついている姿が印象的な仲睦まじい河童の親子を表しています。
水天宮は、日本橋七福神のうち運慶作と伝えられる弁財天を祀っています。水天宮の弁財天は「中央辨財天」と呼ばれ、手に琵琶を持たずに剣や矢を持つ勇ましい姿をしています。これは人の弱い心を正し導く慈悲の姿といわれています。
宝生辨財天
祭礼日 五月第二巳ノ日
御祭神 市杵島姫大神
久留米藩第九代藩主有馬頼徳公が加賀藩第十一代藩主前田斉広公と宝生流能楽の技を競われた際、辨財天に願をかけ、見事に勝利を収めた。それ以来、宝生辨財天と敬われ、芸事をはじめ学業・金運のご利益が名高いと現在に至るまで篤く信仰されている。
毎月五日と巳の日には御社殿の扉が開き、宝生辨財天のご神像を拝観できる。
水天宮から人形町からくり櫓に向かいます。水天宮交差点の角に重盛永信堂のお店があります。日本橋人形町で人形焼といえば、まず名前が上がる有名店です。大正六年10月に創業してから100年以上に渡って営業をしている老舗です。初代社長の重盛永治氏は、明治三十八年に信州伊那から上京し、東京の煎餅屋を振り出しにして大阪でも修行しました。10年ほどの歳月を掛けてようやく辿り着いたのがゼイタク煎餅でした。昭和初年に店舗を現在の水天宮前交差点に移した祭に、当時まだ珍しかった飛行機を広告に活かそうと考え、重盛永信堂が初めて飛行機に宣伝チラシを積んで空からふりまきました。東京中の人々は驚き、たちまちゼイタク煎餅の名が広まったそうです。それから四代目の今日まで、粋好みの江戸っ子たちに親しまれるお菓子を作り続けています。
人形町の由来について記した案内板があります。
人形町の由来
江戸が開府され20年ほど過ぎ、現在の人形町交差点北側一帯には江戸唯一の歓楽街が在り大変な賑わいでした。大芝居の中村座と市村座の江戸二座では歌舞伎が上演され、また人形操り芝居、浄瑠璃芝居、見世物小屋が軒を並べ、それに携わる多くの人形師達がこの町に住んでいたことから、江戸時代より俗に「人形丁通り」と呼ばれ後に町名となりました。正式に「人形町」という町名がついたのは関東大震災以降の区画整理で昭和八年になってからです。
人形町通りの両側には多くの商店が軒を連ねていますが、江戸時代から商業の中心地でした。第五国立銀行は統合や合併を繰り返して、現在の三井住友銀行になっています。
江戸からの商業地
この地は往時武家地でしたが、近くを流れる日本橋川に通じる堀り割りが多く在り、物資の大量輸送を容易にし商業が盛んになる基盤をつくりました。明治に入って武家地の場所は広く商業地となり、第5国立銀行をはじめ米穀取引所が設けられ「米屋町」と呼ばれ活気がありました。現在も商業の中心地のひとつとして繁栄しております。明治になって人形町通りも確立し、水天宮・明治座・商業地を周辺にひかえた商店街として共に繁昌し、現在に続いています。
- ポイント2 人形町からくり櫓
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人形町通りを挟んで、からくり櫓が2ケ所に設置されています。ひとつは「江戸落語」をテーマにしたものです。残念ながら私が歩いていたときにはからくりは演じられませんでしたが、運が良ければ楽しめたかも。外国人観光客には受けるかもしれませんね。
からくり櫓 江戸落語
下段の緞帳が開くと噺家(はなしか)の人形が登場。落語家立川談幸氏による創作小咄(こばなし)「人形町の由来」が流れます。上段の絵が回転すると、江戸の町並と町人たちの暮らしが再現されます。
起動時間 午前11時から午後7時までの正時約2分
Mechanical Clock Tower in Ningyocho, "the town of dolls"
Edo Story tellers (Rakugo-ka)
As the donchou (curtain) opens on the lower level, a Rakugo-ka starts to tell the story of the origins of Ningyocho; this was created by the Rakugo-ka, Danko Tatekawa. On the upper level, the murals rotate to reveal daily scenes from the Edo period.
Performances begin every hour on the hour from 11 a.m. to 7 p.m. and last approximately 2 minutes.
Quiz Spot
「からくり櫓は」は2基あり、1基は「江戸落語」が題材になっていますが、もう1基の櫓は何ですか?
もう1基のからくり櫓ですが、甘酒横丁交差点の手前に設置されています。しかし、2025年1月に再訪した時は地下鉄の駅の工事のために撤去されていました。なので、以下は2022年1月当時の写真です。
からくり櫓 町火消し
江戸時代の町火消し「いろは47組」のなかで人形町界隈を担当したのは「は組」でした。当時の衣装などを再現した人形が「梯子乗り」や「纏上げ」を披露します。流れる唄はとび職人が祭りなどで唄う「木遣」です。(社)江戸消防記念会第一区八番「は組」 の方々に資料や助言の協力を頂きました。
起動時間 午前11時から午後7時までの正時約2分
Mechanical Clock Tower in Ningyocho, "the town of dolls"
The Town Firefighters
The town firefighters (or Machi-bikeshi) during the Edo Period were divided into 47 groups named from the 47 letters of the "I-Ro-Ha" syllabary and so were called the "I-Ro-Ha 47 Gumi (groups)". Among those groups, the Ha-Gumi was in charge of the Ningyocho area of Tokyo.
The dolls are performing Hashigo-nori (ladder-top stunts) and Matoi-age (traditional standard-raising). In Hashigo-nori, firefighters perform acrobatics at the top of ladders. Matoi-age involves a firefighter raising his group's standard to lead the other members of the group to come to fight fires.
Kiyari, the work songs in chorus are commonly sung together by steeplejacks during festivals and ceremonies.
This display was realized with the help of the Ha-Gumi, the Eighth group of the First District of Edo Firemanship Preservation Association.
Performances begin every hour on the hour from 11 a.m. to 7 p.m. and last approximately 2 minutes.
人形町といえば甘酒横丁ですね。甘酒横丁は、明治の頃に今の甘酒横丁入口付近に「尾張屋」という甘酒屋さんがあって、その小路を「甘酒屋横丁」と呼んでいたのが地名の起源のようです。そのころから、人形町にあった寄席や明治座の芝居帰りの見物客で賑わっていました。関東大震災の後で道路が広げられましたが、今でもこの路地は「甘酒横丁」と呼ばれ親しまれています。
甘酒横丁の由来
明治の初め頃にこの横丁の入口の南側に尾張屋という甘酒屋があったことから昔は「甘酒屋横丁」と呼ばれていた。当時の横丁は今より南に位置しており、道幅もせまい小路であった。明治の頃この界隈には水天宮様をはじめ久松町には明治座が櫓をあげており、近くには”末廣””喜扇亭””鈴本亭”の寄席が客を集めていた。また穀物取引所の米屋町、日本橋の川岸一帯の魚河岸、兜町の証券取引所が隣接していることからもこの界隈が賑わっていた。関東大震災後の区画整理で現在のような横幅になり、呼名も「甘酒横丁」と親しまれ人々に呼びつがれている。
Why Amazake Yokocho Was Named So
In the early days of the Meiji period (1868-1912), Owariya, a shop selling amazake (a sweet drink made from fermented rice), existed on the south side of the entrance of this alley, which was called Amazakeya Yokocho in the past. Originally, it was a narrower alley located more southward. In those days, Suitengu Shrine already existed nearby, and the Meiji Theatre was located in Hisamatsucho. The Suehiro, Kisentei, and Suzumototei Vaudeville Theaters attracted customers in the neighborhood. This area was busy because of the existence of the grain exchange market in Komeyamachi, the riverside fish market around Nihonbashi, and the stock exchange in Kabutocho. In the section rearrangement after the Great Kanto Earthquake, the alley was widened to the
present width, and since then, the alley has been called Amazake Yokocho by local people familiar with it.
甘酒の尾張屋は昭和の終わり頃まで商売していましたが、現在はその跡地が王英堂という和菓子屋さんになっていて、お店の入口横にここが尾張屋だったことを展示しています。
甘酒横丁には老舗が何軒もありますが、大正五年(1916年)創業の柳屋は全身をリズミカルに動かしながら焼く鯛焼が評判で、店先には連日長蛇の列ができます。鯛焼の命はあんこにあるという信念のもと、十勝産の小豆を厳選し、毎日必要量だけを店内で製造して熱々の出来たてのあんこを使用しているとのことです。火床での滞留時間が短く、水分が飛ばないためにしっとりと洗練された味わいが醸し出されます。東京のたい焼き御三家といえば、麻布が本店の「浪花家総本店」、四谷見附の「わかば」、ここ柳屋といわれています。
人形町は美食の街として知られていますが、鶏料理の「玉ひで」はその代表格でしょう。玉ひでは、江戸時代中期から人形町で営業を続ける老舗の鶏料理店です。親子丼を考案した店であり、平日の昼の開店前にも大行列している人気店です。玉ひでの旧屋号は「玉鉄」でした。宝暦十年(1760年)に御鷹匠の家に生まれた山田鉄右衛門が徳川将軍家に出仕するかたわら、27歳のときに妻「たま」と共に開店創業し、妻の名から「玉」・夫の名から「鉄」を採って「玉鉄」を屋号にしたのです。2025年1月に再訪した時は、建物の周囲が工事用の塀で囲われていました。建て替えを行なっているのでしょうか?
江戸時代の銀貨鋳造所である「銀座」は、200年余り続いた銀座からこの地に移され、明治二年(1869年)に造幣局が新設されるまでの68年間、蛎殼銀座と呼ばれました。
蛎殻銀座跡
江戸幕府の銀貨鋳造所として設立された「銀座」は、慶長十七年(1612年)に駿府(現在の静岡県葵区両替町)に置いた銀座を閉鎖して、その機能を江戸へと移しました。江戸の銀座は、京橋南の町屋敷が鋳造方の長・大黒常是吹所(鋳造所・役所)と座人の居宅としてあてられました。なお、常是の拝領屋敷は、新両替町二丁目(現在の銀座二丁目)にあり、当地において通用銀貨類の鋳造と検査が行われました。その後、寛政十二年(1800年)に座人の粛清が行われて一時廃絶(江戸大黒家は断絶)の憂き目に遭いましたが、代わって京都銀座の大黒家が江戸に下り、幕府から播磨国姫路藩酒井家屋敷の上地(元大坂町〈現在の日本橋人形町一丁目4番・19番〉の南)を拝領して銀座役所を再興しました。再興した銀座役所の敷地にあたる当該地は、古くから蛎殻町の俗称があったことから、この銀座は「蛎殻銀座」と呼ばれました。その後は、明治二年(1869年)に明治政府の造幣局が新設されるまで約70年存続しました。
The site of KAKIGARA GIN-ZA - The Mint in the 17th Century
"GIN-ZA" means Silver Coinage Mint, which was established as the Mint of Edo Regime firstly in Sizuoka City Aoi-ku in 1612, then, this was once closed. Later, its function was transferred to Tokyo (Edo). Edo Regime settled the descendent mint workers in towners houses located in Kyobashi Minami area, and also gave the houses at the same location to the head of minting, called DAIKOKU JYOZE a residential and minting building (JYOZE Office), and business side office (GINZA Office). These buildings used to locate at current Ginza 2chome, and minting and examination of passable silver coins were made there.
Later on, in 1800, the lots mint workers were cleaned up by the Regime, so that the DAIKOKU family in Edo faction was abolished. However, the DAIKOKU family in KYOTO faction came down to Tokyo (Edo), in place of Edo Family, and rebuilt the Mint given the land of a Feudal Lord in Hyogo Prefecture by the Regime. The given land currently locates in Nihonbashi-Ningyocho 1-4/19. The relocated area, this site, had been called as "KAKIGARA-cho" since long ago, so that this rebuilt mint came to be called "KAKIGARA GIN-ZA" , and had kept on existing for 70 years till the Meiji Government Mint was established.
人形町には、かって吉原が置かれていました。
元吉原
江戸時代の初め 元和三年(1617年)に葦の繁茂する湿地を埋立して造成されたのがこの土地です。一方、14、000余坪を堀で囲んだ遊廓は江戸一番の歓楽の地と成りました。しかし、明暦三年(1657年)の江戸の大火で焼失した吉原遊廓は39年間この地で栄えましたが、浅草山谷へ移されました。後地は新和泉・住吉・高砂・浪花の4ヶ町の商業の地となり、周辺の商店と共に大いに繁昌し今日に受けつがれています。
人形町通りから一段上がったところに大観音寺が鎮座しています。アメ横の摩利支天徳大寺に見た感じが似ています。
鉄造菩薩頭
大観音寺には、本尊である鋳鉄製の菩薩頭(総高170センチメートル、面幅54センチメートル)が安置されています。菩薩頭の頭上には高さ53センチメートルの高髻(奈良時代の女性貴族の髪型)があり、後補である鋳銅製蓮華座の台座上に祀られています。この菩薩頭の由来については、かつて鎌倉の新清水寺に祀られていた鋳鉄製の観世音菩薩像でしたが、廃寺となった後、江戸時代に頭部のみが鶴岡八幡宮前の鉄井(くろがねのい)から掘り出されたと伝わっています。その後、明治初年の神仏分離の令に際して鎌倉から移され、大観音寺に安置されました。以後、本尊として今日に至っています。本尊は、毎月十一日・十七日のみ開帳され、人々の信仰を集めています。この菩薩頭は、中世造立になる関東特有の鉄仏のうちでも、鎌倉時代製作の優秀な作品であることから、昭和四十七年四月、東京都指定有形文化財に指定されています。
大観音寺は、江戸三十三観音札所の第三番だそうです。
人形町三丁目交差点に「玄治店由来碑」が建立されています。案内板にその由来が詳しく説明されているのですが、玄冶店由来の石碑にも碑文がありますね。でも、かろうじて読み取れるものの、全文を書き写すまでは至りませんでした。玄冶店の跡地には創業百年でミシェラン三つ星だった料亭「玄冶店濱田屋」があるんですね。ミシェランガイドで店名を見かけましたが、人形町にあったとは知りませんでした。
玄冶店(げんやだな)跡
江戸時代初期、新和泉町(人形町三丁目)のこの辺りは、幕府の医師であった岡本玄冶の拝領屋敷があったことから「玄治店」と呼ばれていました。岡本玄冶(1587年〜1645年)は京都に生まれ、医術を曲直瀬玄朔に学びました。元和九年(1623年)、京都に上洛中の徳川家光が江戸へ帰る際に侍医として招かれ、幕府の医師となりました。後に法眼から法印に叙せられて啓迪院(けいてきいん)と号しました。三代将軍家光は岡本玄治を重用し、数多くの功があったことが記録に残されています。「寛政重修諸家譜」には、寛永十年(1633年)、家光が大病を病んだ時、諸医術をつくしても効験がなかった病を玄冶が薬を奉り平癒したとあり、この功により白銀二百枚を賜ったことが記されています。岡本玄冶の拝領屋敷は「寛保沽券図」によると、「表京間六拾間 裏行京間二十五間 坪数千五百坪」とあります。当地にはその後、九代にわたって子孫が住み、明治維新で地所を奉還したと伝えられています。玄冶は正保二年(1645年)に没し、広尾の祥雲寺(渋谷区)に葬られました。玄冶店の名は、歌舞伎狂言作者の三代瀬川如皐が脚色し、嘉永六年(1853年)に中村座で初演された「与話情浮名横櫛」の「源氏店(玄治店)の場」の一幕で、お富と切られ与三郎の情話の舞台となり、その名が広く世に知られるようになりました。
江戸の大店伊豆屋の養子与三郎は木更津に預けられていますが、ある日地元の親分赤間源左衛門の妾お富に一目惚れ。情事が露見してめった切りにされます。お富も海に身を投げますが、ふたりとも命はとりとめました。それから3年。与三郎は勘当され、34か所の刃傷をもつ「向疵の与三」として悪名を馳せています。一方お富は和泉屋の大番頭多左衛門の妾となっていました。ごろつきの蝙蝠安と与三郎が偶然にもお富の妾宅に強請に入ったことから、お互いに死んだと思っていたふたりが再会。その名シーンが四幕目、玄冶店妾宅の場です(劇中では源氏店)。「しがねぇ恋の情けが仇・・・」で始まる長科白が有名です。なお濱田家のシンボルマーク「蝙蝠」は、劇中の登場人物蝙蝠安にちなんでつくられました。
人形町三丁目には、かって芝居町がありました。
堺町・葺屋町芝居町跡
堺町は慶長年間(1596年〜1615年)に沼地を埋め立てて起立されたといわれ、明暦二年(1656年)のころには西半分の上堺町が葺屋町として分かれ、東半分の下堺町は堺町として残りました。江戸時代、この辺りには芝居小屋やそれらを取り巻く茶屋などが集まっており、大変賑わっていました。芝居小屋のなかには、江戸三座と呼ばれた官許の芝居のうち、歌舞伎を興行した中村座と市村座(ほかに現銀座六丁目あたりの森田座)があり、このほかにも人形浄瑠璃の芝居小屋も多数ありました。江戸三座筆頭である中村座は、京より江戸に移り住んだ猿若勘三郎が、寛永元年(1624年)に猿若座(後の中村座)を中橋南地(現京橋一丁目辺り)に創設し、これが現在につながる江戸歌舞伎の発祥となりました。寛永九年には禰宜町(現日本橋堀留町一丁目辺り)に、慶安四年(1651年)には下堺町へと移転し、二代勘三郎のとき本姓の中村を名乗り「中村座」と改称しました。この間、堺町では、上堺町において寛永十年に都座が、寛永十一年には村山座(後の市村座)が創設されました。歌舞伎に先んじて京より下ってきたのが人形浄瑠璃でした。猿若座と同じ中橋の地において、元和三年(1617年)には興行が始まっていたようです。やはり寛永九年禰宜町移転を経て、慶安四年下堺町に移されました。人形浄瑠璃の芝居小屋は、江戸、薩摩、丹波、天満、土佐、虎屋、肥前など、数多くありました。堺町・葺屋町の芝居小屋は、天保の改革により天保十三年(1842年)から翌十四年にかけて、猿若一丁目から三丁目(現台東区浅草六丁目あたり)を起立してそこに移されるまで、二百年前後この地にありました。近年、日本橋人形町三丁目において発掘調査が行われ、茶屋や芝居に関する遺物も出土しています。
Sakai-cho and Fukiya-cho Play Town Site
Sakai cho was developed by reclaiming a marsh in the period from 1596 to 1615. The west side, known as Kamisakai cho, became independent as Fukiya-cho around 1656, while the east side, Shimosakai-cho, remained a part of Sakai-cho. In the Edo period, this area was crowded with people as theaters and teahouses were built. Among the officially permitted playhouses called "Edo-san-za (three kabuki theaters of Edo)", the Nakamura-za and Ichimura za were in this area (the other was Morita za located currently in Ginza 6-Chome).Also, there were a lot of theaters for Ningyo joruri (Japanese puppet show). Nakamura-za, the leading theater among the Edo-san-za, was created first as Saruwaka-za in Nakabashi-Nanchi (currently at Kyobashi 1-Chome) in 1624 by Saruwaka Kanzaburo, who moved from Kyoto to Edo. It became the origin of Edo Kabuki that has been preserved to this day. Saruwaka za was moved to Negi-cho
(currently Nihonbashi-horidomecho 1-Chome) in 1632 and then to Shimosakai-cho in 1651, and was renamed "Nakamura-za" when Kanzaburo II chose to go by his original family name Nakamura. In Sakai-cho during this period, Miyako za was established at Kamisakai-cho in 1633 and Murayama-za (later called Ichimura-za) was established in 1634. Ningyo joruri came to Edo from Kyoto earlier than Kabuki. Performances started in 1617 at Nakabashi, the same place where Saruwaka-za was located. The hosting playhouse was moved to Negi cho in 1632 and then to Shimosakai-cho in 1651. There were a lot of playhouses for ningyo joruri including those in Edo.Satsuma.Tanba.Temma. Tosa.Toraya.and Hizen, The playhouses in Sakai-cho and Fukiya-cho remained here for around 200 years until they were moved to Saruwaka 1-Chome to 3-Chome (currently Asakusa 6-Chome. Taito-ku) from 1842 to 1843 due to the Tempo Reforms. In the excavation research conducted in Nihonbashi-ningyocho 3-Chome in recent years, relics of teahouses and plays were discovered.
堀留町交差点の先で左折した先に椙森神社が鎮座しています。日本橋七福神のひとつである恵比寿神を祀っています。
椙森神社
椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために山城国(京都府)伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下の三(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当社の富も人々に親しまれていました。明治維新以後も、東京市中の古社として盛んに信仰されましたが、惜しくも関東大震災で全焼し、現在の社殿は昭和六年に耐震構造の鉄筋造りで再建されました。境内には富塚の碑が鳥居の脇に立ち、当社で行われた富興行をしのんで大正八年に建てられたもの(昭和二十八年再建)で、富札も残されており、社殿と共に中央区民文化財に登録されています。
境内には、富塚の石碑が建てられています。
当椙森神社は、遠く一千年の昔、未だ江戸が武蔵野の原と言はれた時代の創建です。江戸時代には、江戸三森の一つであり、又、江戸商人の発祥の地としても栄えて来ましたが、神社が街の中心にあるため、江戸三富の一つにも数えられる程数多くの富籤が興行された事が記録に、残されています。この富興行は、江戸庶民の楽しみの一つであり、庶民の泣き笑いが今に思い浮べることができます。この富塚は庶民の心の記念として大正九年に建立されましたが、関東大震災に依って、倒壊してしまいました。その後、富塚の話を知った氏子の人々は有志を募って、昭和二十八年十一月に再建されたのがこの富塚です。この富塚は、他に類を見ないと言はれ、日本で唯一の物です。今日では、宝くじの元祖として多くの人々が、心中祈願をしている様です。
日本橋七福神のひとつである恵比寿神を祀っています。
小伝馬町交差点の脇に、古めかしい石碑が建ち、その横に石碑の碑文を解説した案内板が立っています。
都重寳 石町時の鐘
江戸時代當初の時の鐘で、初め江戸城にあり、二代将軍秀忠の時是を石町に移し、地元四百十町より集めた鐘楼銭で維持され、幕末まで石町時の鐘として親しまれた。鐘楼櫓下では蕪村等が夜半亭と号して誹諧の集ひをしていた事は有名である。傳馬町牢に於ける處刑時もこの鐘を合図に執行されたが、定時に鳴るべき鐘が處刑者の延命を祈るが如く、その都度遅れたとあって、一名情けの鐘とも傳へらる。現鐘は旧楼焼損後、寛永八年に改鋳したもので、銘に寛永辛卯(かのとう・しんきんのうさぎ)四月中浣鋳物師大工椎名伊豫藤原重休とある。昭和五年九月石町寳永時鐘々楼建設会に依り、十思公園に移され、廿八年十一月都重寳に指定さる。
傳馬町牢屋敷跡
大安楽寺・村雲別院・身延別院・十思小学校及び十思公園を含む一帯の地は、江戸時代の傳馬町牢屋敷跡である。牢屋敷は慶長の頃、常盤橋際より移り、明治八年五月市ヶ谷囚獄が出来る(迄)存した。幕末の時、牢屋頭に大番衆石出帯刀御(木に豕:チョ)御用山田浅右衛門がつとめた。當時勤王志士九十六名が處刑されている。
吉田松陰先生終焉之地
長門の藩士吉田松陰先生は兵学に通じ、憂国慨世(世間の現状に怒りを感じ、その成り行きを心配すること)の念篤く、萩の松下村塾で多くの人士養成は遂に有爵者六名、贈位者十七名、有位者十四名といふ著名士を出した。先生は國事を論じた罪により、安政六年七月傳馬町牢に囚はれ、同年十月二十七日時三十歳にて惜しくも最期をとげた。
- ポイント3 十思公園
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小伝馬町交差点を渡った先を左折すると十思公園があります。公園の入口に巨大な案内板が立っています。
十思公園ご案内
東京都指定有形文化財 銅鐘石町時の鐘 一口
江戸時代最初の時の鐘で、二代将軍秀忠の時は江戸城内の西の丸でついていたが鐘楼堂が御座の間の近くで差障りがある為、太鼓にかえて鐘は日本橋石町に鐘楼堂を造って納めたのが起源で、明暦三年、寛文六年、延宝七年と三度も火災にあい破損したので、その後身として宝永八年に鋳造されたのがこの宝永時鐘である。音色は黄渉調長久の音という。享保十年旧本石町三丁目北側の新道の間口十二間奥行十九間三尺の土地に鐘楼堂を建て、時銭として一軒につき一ヶ月永楽銭一文ずつ当鐚で四文ずつを商業地區の大町小町横町計四百十ヶ町から
集めて維持していた。鐘役は最初から代々辻源七が当たっていたので、辻の鐘とも呼ばれていた。鐘楼下では俳人蕪村が夜半亭と名づけて句会を催して深川の芭蕉庵と共に有名であった。当時江戸には日本橋石町・浅草・本所・横川町・上野芝切通・市ヶ谷八幡・目黒不動・赤坂田町・四谷天竜寺の九ヶ所に時鐘があったが石町時鐘はその最古のものである。石町鐘楼堂から二丁程の所に伝馬町獄があった。囚人たちは種々な思いをこめてこの鐘の音を聞いたことであろうし、処刑もこの鐘の音を合図に執行されたが処刑者の延命を祈るかのように遅れたこともあって、一名情けの鐘ともいゝ伝えられている。幕末時鐘廃止後は石町松沢家の秘蔵となっていたが、十思後援会が寄進を受けて昭和五年九月十思公園に宝永時鐘々楼を建設し当時の市長永田秀次郎殿で初撞式を挙行した後東京都に寄進した。
東京都指定旧跡 傳馬町牢屋敷跡
伝馬町牢は慶長年間、常盤橋際から移って明治八年市ヶ谷囚獄が出来るまで約二百七十年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢した者は数十万人を数えたといわれる。現在の大安楽寺・身延別院・村雲別院・十思小学校・十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡である。当時は敷地総面積二六一八坪、四囲に土手を築いて土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門があった。牢舎は揚座敷・揚屋・大牢・百姓牢・女牢の別があって、揚座敷は旗本の士、揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は婦人のみであった。今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があって、山岡鉄舟筆の鋳物額に「為囚死群霊離苦得脱」と記されてある。牢屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、御(木に豕:チョ)場死刑場役は有名な山田浅右エ門、それに同心七十八名、獄丁四十六名、外に南北両町奉行から与力一人月番で牢屋敷廻り吟味に当たったという。伝馬町獄として未曽有の大混乱を呈した安政五年九月から同六年十二月までの一年三ヶ月の期間が即ち安政の大獄で吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎等五十余人を獄に下し、そのほとんどを刑殺した。その後もこで尊い血を流したものは前者と合わせて九十六士に及ぶという。これ等愛国不盡忠の士が石町の鐘の音を聞くにつけ 「わが最期の時の知らせである」と幾度となく覚悟した事であろう。尚村雲別院境内には勤王志士九十六名の祠と木碑が建てられてある。
吉田松陰先生終焉之地
吉田松陰先生は天保元年(西暦1830年)八月四日長州萩の東郊松本村で杉家の二男として生まれた。幼い頃に吉田家をついだ。成人しての名を寅次郎という。吉田家は代々山鹿流兵学師範の家であったので、早くから山鹿流兵学その他の学問を修め、その道を究めて、子弟の教育につとめた偉人である。安政元年三月師の佐久間象山のすゝめで海外渡航を計画し、下田から米艦に便乗しようとして失敗、下田の獄につながれたが伝馬町獄送りとなって途中、高輪泉岳寺の前で詠んだのが有名な次の歌である。「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」同年九月まで約六ヶ月間伝馬町獄に留置されていたが、国元萩に謹慎の身となって帰って後の松下村塾での教育が最も偉大な事業であろう。薫陶を受けた中から有爵者六名、贈位者十七名、有位者十四名等多くの著名の士が出て中でも伊藤博文・山県有朋・木戸孝允等は、明治維新の大業に勲功のあった人物である。わが国歴史の上での三大変革といえば大化の改新、鎌倉幕府の創立、明治維新の三であるが、その明治維新にこれら松下村塾生の働きが大きな力となったことを深く考えたいのである。後松陰は安政の大獄に連座して再び伝馬町獄に入牢となった。安政六年七月九日江戸の長州藩邸から始めて評定所に召出されたが、その時「まち得たる時は今とて武蔵野よいさましくも鳴くくつわ虫かな」と決心を歌にのべている。しかし幕府の役人を動かすことが出来ず、その後の三回の取調べで死刑を覚悟した十月二十二日に父・叔父・兄へ宛て永訣の書を送っているがその中にあるのが「親思ふ心にまさる親ごころけふのおとづれ何と聞くらん」の一首である。また処刑の時の近づいたのを知って十月廿五日より廿六日の黄昏までかゝって書きあげたのが留魂録でその冒頭に「身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬともと(ど)め置かまし大和魂 十月念五日 二十一回猛士」と記してある。松陰はこれを同囚で八丈島に遠島になった沼崎吉五郎に託したが二十年後当時神奈川県令で塾生であった野村靖に手渡したものが現在残っている留魂録である。それによって当時の法廷の模様、訊問應谷の次第、獄中の志士の消息等がわかり、自己の心境と塾生の行くべき道を示したもので崇高な松陰魂の指南書ともいえるものである。安政六年十月二十七日は処刑の日であった。揚屋を出る松陰は次の詩を高らかに朗吟して同囚の士に訣れを告げたのである。「今吾れ国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」次いで刑場では「身はたとひ」の歌を朗誦して従容として刑についた。行年三十歳明治廿二年二月十一日正四位を贈位され昭和十四年六月十思小学校々庭に留魂碑が建設された。
公園の奥まったところに時の鐘を吊した鐘楼があります。お寺の鐘に似ていますが、同じ音だと紛らわしいので、違った音色にしたのでしょう。でも、「黄渉調長久の音」って想像もつきませんね。
東京都指定有形文化財
銅鐘 石町時の鐘
江戸で最初の時の鐘は、本石町三丁目(現在の本町四丁目・室町四丁目の一部)に設置された石町の時の鐘であるといわれています。江戸市中に時刻を知らせた時の鐘は、市街地の拡大にともない、浅草・本所・上野・芝・市谷・目白・赤坂・四谷などにも設けられました。石町時の鐘は、鐘撞き役であった辻源七の書上によると、寛永三年(1626年)に本石町三丁目へ鐘楼堂を建てて鐘を撞いたことが記されており、鐘の音が聞こえる範囲の町からは「鐘楼銭」を集めて維持・運営が図られていました。本石町に設置された時の鐘は、何度か火災にあって破損したために修理や改鋳が行われました。現在の銅鐘には「寛永辛卯四月中浣 鋳物御大工 椎名伊豫藤原重休」の銘文が刻まれており、宝永八年(1711年)に鋳造されたことがわかります。「石町は江戸を寝せたり起こしたり」と川柳にも詠まれた石町時の鐘は、明治をむかえて廃止されましたが、昭和五年(1930年)に本石町から十思公園内に完成した鉄筋コンクリート造の鐘楼へ移設されて現在に至っています。
鐘楼の奥に牢屋敷で使われていた石垣の一部が保存・展示されています。案内板には牢屋敷の見取り図と石垣の配置が図示されています。
地下から現れた牢屋敷の石垣
江戸時代、この地には牢屋敷がありました。天正十八年(1590年)、江戸の地に徳川家康が入った当初は、牢屋敷は常盤橋門外、今の日本銀行あたりに置かれていました。この地に移転したのは慶長十八年(1613年)ころといわれ、その後は江戸時代を通じて牢屋敷がありました。明治維新後、明治八年(1875年)市ケ谷の監獄に囚人を移し、この地の牢屋敷は取り壊されました。平成二十四年、この地で中央区の施設が建設される前に、中央区教育委員会が「伝馬町牢屋敷跡遺跡」として発掘調査を実施しました。遺跡からは、ここに移築復元した石垣をはじめとして、複数の石垣の連なりが発見されました。牢屋敷は高さ7尺8寸(約2.4m)の高い塀で囲われていたようですが、出土した石垣は、さらにその内側でもしっかりと敷地内を仕切っていたことがわかった貴重な発見です。石垣には一部途切れる箇所があり、そこに門柱の礎石が見つかりました。これは、角度によって門が見えにくい「埋門」と言われる、お城などによく用いられた施設と推測されます。このほか、多数の上水木樋が見つかっています。木で組まれた水道管が地中に埋められたもので、水は井の頭池などに水源のある神田上水から引き込まれたものと思われます。ここに展示してあるのは、図中の石垣Aを出土時とほぼ同じ形に積み直して移築復元したものです。これ以外のものには、当時の姿ではありませんが、同じく牢屋敷跡から出土した石を使って積んだものもあります。石は伊豆周辺で切り出された、主に安山岩が四角錐に加工されたものです。石には切り出す際についた矢穴という窪みが見られるものもあります。
鐘楼と反対側の一画には、植え込みの中に石碑が幾つか並んでいます。「松陰先生終焉之地」と並んで、吉田松陰の人となりと生涯が短くまとめられています。
吉田松陰先生は天保元年長門の國萩の町はづれ松本村に生まれました。兄弟思ひ親思ひ忠義の志の厚かつた人です。小さい時父や叔父の教えを受け熱心に勉強して兵法の先生になりました。それから日本中を旅行したり、多くの書物を讀んだりして一層修業を積み、ある時はアメリカの軍艦に乗って外國を研究に行かうとしたこともありました。のち郷里の松下村塾で多くの人を教へましたが、その門人の中から木戸孝允・伊藤博文・山縣有朋をはじめ忠義でえらい人がたくさん出ました。先生は天子様に忠義をするために幕府をあなどったといふので、安政六年傳馬町の牢屋に入れられましたが、その年の秋、この地でりっぱな最期をとげました。時に三十歳でした。先生のまごころは永くごの土地この世に留まって忠義な人が次々に出るのを願って居ます。
「十思」の由来について記されたプレートが旧十思小学校の壁に掲げられています。
旧十思小学校「十思之疏」の由来
旧十思小学校の前身となる「第一大区第一中学区第十六番小学十思小学校」は、明治十年(1877年)12月22日に大伝馬塩町の地で創立されました。明治初年の行政区画(大区・小区制度)では「第十四小区」の学校として開校し、明治末年に大伝馬上町22番地(旧十思小学校の敷地)へ移転した後は、平成二年(1990年)に閉校するまで多くの卒業生を輩出してきました。なお、現存する旧十思小学校校舎(昭和四年竣工)は、閉校後の改修を経て十思スクエア(複合施設)として活用されています。開校以来の校名として用いられてきた「十思」の名は、中国・北宋時代の歴史書「資治通鑑」(1084年完成、司馬光著)に記されている「十思之疏」(天子がわきまえるべき十カ条の戒め<同百九十四巻>)の「十思」と開校時の所在区画の「十四」が同音好字であることにちなんで名付けられたといわれています。校訓でもある「十思之疏」の教えは、学び舎なき今もなお、人が生きていく上での大切な教えや知恵の道標として掲げられています。
原文(略)(釈文)
欲すべきを見れば則ち足るを知るを思う
将に興繕せんとすれば則ち止まるを知るを思う
高危に処れば則ち謙降を思う
満盈に臨めば則ち(ゆう)損を思う
逸楽に遇えば則ち(そん)節を思う
宴安に在れば則ち後患を思う
壅蔽を防ぐには則ち延納を思う
(ざん)邪を疾むには則ち己を正すを思う
爵賞を行うには則ち喜に因りて僣するを思う
刑罰を施すには則ち怒に因りて濫するを思う
意訳
欲しいものがあっても、多くを望まないことを思う。
物事を行う時には、度をこさないようにすることを思う。
立場や地位が高くても、控えめな態度をとることを思う。
十分満足な時には、むしろ減らすようにすることを思う。
楽しみを味わう時には、程よく控えめにすることを思う。
遊び暮らしていると、身を滅ぼしてしまうことを思う。
正確な情報を得るには、周囲の意見を良く聞くことを思う。
悪口を憎むより、自分の言動を正しくすることを思う。
優れた功績をあげても、必要以上に褒めないことを思う。
過ちを罰する時には、感情的にとがめないことを思う。
十思公園の真向かいに大安楽寺があります。境内には「江戸傳馬町牢御(木に豕:チョ)場跡」の石碑が建っています。「御(木に豕:チョ)場」とは死刑を執行した場所という意味らしいです。
準別格本山 江戸第五番札所
新高野山大安楽寺縁起
- 宗旨
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宗祖弘法大師を仰ぐ 高野山真言宗に所属
- 教義
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凡聖不二 即身成仏を以て立教開宗の根本教義とする。
- 縁起
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抑も此の地伝馬町は 江戸時代 徳川幕府の牢獄の所在せし所なり。当山開基山科俊海大僧正 明治初年 高野山より錫を六本木の五大山不動院に留め 化を十方に布く、時 偶々此の地伝馬町牢 処刑場跡に燐火の燃ゆるを見 大悲禁ずる能わず 幾万余の知られざる無告の霊 鬼哭愁々として寄辺なるを弔ひ、又安政の大獄で知られる吉田松陰等 当地で処刑された勤王の志士の霊を慰め 又一つには 牢跡を以て浄地となし 四隣の繁栄に資せん事を希念し、明治五年より勧進し、同八年一宇を建立。高野山より弘法大師を勧請し本尊となす。又処刑場跡には延命地蔵菩薩を建立し 堂塔 伽藍を整備(現十思公園を含む) これを当山の??とす。爾来尊崇の信仰を聚め都心に輪喚笑の美を競うも 大正十二年の大震火災に?ゝり、昭和四年今日の規模となり 現在に及ぶ、昭和廿九年都史蹟指定
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大安楽寺に隣接して、身延別院があります。
木造日蓮聖人坐像
この坐像は当初、日蓮宗総本山の身延山久遠寺(山梨県身延町)の宝蔵に安置されていましたが、明治十六年(1883年)に身延別院が創建される際、祖師像として迎えられました。ヒノキ材の寄木造りで、像高七十センチメートル、袖張七十六センチメートル、胡粉地に彩色を施しています。頭は円頂形をし、瞳は水晶製、右手に笏、左手に経巻を持ち、法衣は朱彩、牡丹唐草模様の袈裟の上に、同じ模様の横(被)をかけています。胎内には、明応六年(1497年)七月、施主河島盛正との墨書銘があり、仏師山城発教定蓮が造立した、室町後期の日蓮聖人坐像です。関東大震災や第二次世界大戦の際にも焼失を免れ、昭和四十七年(1972年)四月、都指定有形文化財に指定されました。製作年代の明確な日蓮聖人の坐像として、貴重なものです。
Sitting Wooden Nichiren Shonin Statue
This sitting statue of Nichiren Shonin was at first enshrined in the treasure house of Minobusan Kuon-ji Temple (Minobu Town, Yamanashi Prefecture), the headquarters of the Nichiren Sect of Buddhism. When Minobu-Betsuin (branch temple) was founded in 1883, the statue was niched as the founder statue of the temple. The statue, 70cm high and 76cm wide, was constructed by assembling pieces of cypress, and colored on a shell-white base. The statue has a round head and crystal eyes, and holds a ritual baton with the right hand and a scroll of sutra with the left hand. The figure is dressed in a vermilion clerical garment and a vestment of peony arabesque pattern with a rectangular cloth of the same pattern draped over the right shoulder. The statue was made by sculptor Yamashiro Hatsunori Joren in the latter half of the Muromachi period; a signature of the contributor Morimasa Kawashima and date of July 1497 are found in sumi (India) ink in the inside of the statue body. The statue was spared destruction during the Great Kanto Earthquake and World War II,and was designated as a tangible
cultural asset by the Tokyo Metropolitan Government in April 1972. This sitting statue of Nichiren Shonin is valuable because the date of excution is clearly identified.
十思公園から昭和通り(国道4号・都道316号)を渡った先の最初の信号で左折し、薬祖神社に向かいます。
とあるビルの前に、古河グループ創始者の銅像が建っています。
古河市兵衛之像
古河市兵衛翁は天保三年(1832年)京都岡崎で生まれる。行商から身を興し、明治八年鉱山経営に着手。その強靭な気根と不撓(ふとう:どのような困難にあっても屈しないこと)の行動力により幾多の困難を乗り越え「鉱山王」と呼ばれる。足尾銅山の発展を集婆として多角経営に進出。これが今日における古河グループ発展の基礎となる。この地は翁が明治十年住居兼古河本店とし、その後二十年間事業の拠点とした発祥の地である。
「日本橋 鮒佐」の店先に松尾芭蕉の句碑が建てられています。松尾芭蕉が江戸へ来て最初に住んだ場所がここ小田原町です。
「発句也 松尾桃青 宿の春 桃青」
松尾桃青(前の俳号)が、延宝七(1679年)に迎春の心意気を詠んだ句です。
発句也松尾桃青宿の春
松尾芭蕉は、寛文十二年(1672年)二十九歳の時、故郷伊賀上野から江戸に出た。以後延宝八年(1680年)三十七歳までの八年間、ここ小田原町(現室町一丁目)の小沢太郎兵衛(大舟町名主、芭蕉門人、俳号ト尺)の借家に住んだことが、尾張鳴海の庄屋下里知足の書いた俳人住所録によって知られる。当時「桃青」と称していた芭薫は、日本橋魚市場にまちかな繁華の地に住みつつ俳壇における地歩を固め、延宝六年には俳諧宗匠として独立した。その翌年(延宝七年)正月、宗匠としての迎春の心意気を高らかに詠み上げたのがこの碑の句である。碑面の文字は、下里知足の自筆から模刻した。
日本橋を北に渡った東側に魚市場があった。河岸には魚を満載した舟が漕ぎ寄せられ、早朝から威勢のいい掛け声で賑わった。この絵の右側すなわち北側二筋目の通りが、芭蕉の住んでいた小田原町で、そこにも魚屋が並んでいた。芭蕉は魚市場の喧騒を耳にしながら暮らしていたのである。
- ポイント4 薬祖神社
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COREDO室町2の向かいに薬祖神社が鎮座しています。ちなみに、「COREDO」とは、「CORE:中心+EDO:江戸」、つまり「江戸の中心」という意味の造語です。
沢山の薬種問屋が軒を連ね、江戸の薬取引の中心地として栄えた「くすりの街」日本橋本町には、そんな歴史のある街に相応しく、薬の神様を祭った神社があります。伝統と活気に溢れるこの街らしい、和の意匠を取り入れたモダンなデザインの高層ビルに囲まれ、美しく整備された「福徳の森」の奥に「薬祖神社」が鎮座しています。無病健康と病気平癒をご利益とし、「くすりの街」日本橋本町のシンボルとして、界隈の医薬品関連企業で働く人々の崇拝を集めています。薬租とは、「薬の祖」という意味です。日本における医療と薬の祖といわれているのは、「日本書紀」や「古事記」などに記されている神様、大己貴命と少彦名命です。大己貴命は、ヤマタノオロチを退治したといわれる須佐之男命の子孫とされる神様です。大国主命、あるいは大黒様とも呼ばれています。ワニに皮をはがされて泣いていたウサギに、通りがかった大国主命が蒲の穂で手当てするように教えてあげたという「因幡のシロウサギ」の話で知られています。一方、少彦名命はとても小さな姿をした神様で、蛾の皮でつくった着物をまとい、豆の実のさやを使った舟に乗っていたとされています。まじないや医薬・酒造りなどさまざまなことが得意な神様とされています。日本神話では、この二神が出雲で出会って兄弟の誓いを結んだ後、協力して国作りをおこない、今の日本の国土を創ったとされています。また同時に、薬草の鑑定や病気や負傷の治療法を広めました。このことから、この二神は「医と薬の祖」として崇敬されているのです。日本橋本町の医薬品関連企業もこの二神を祭神とする、茨城県大洗町の大洗磯前神社、茨城県ひたちなか市磯崎町の酒列磯前神社、台東区上野の五條天神社に昔から参詣していました。日本橋本町の医薬品関連企業が集まって明治三十三年(1900年)に結成した東京薬種貿易商同業組合(現在の公益社団法人東京薬事協会)は、五條天神社から薬祖神の御霊を日本橋本町へお迎えして、明治四十一年(1908年)に初めての大祭をとりおこないました。さらに昭和四年(1929年)には、同組合の事務所ビルを新築することを機に、事務所ビルの屋上に薬祖神社を造営し、二神をまつることとしました。これが、日本橋本町の薬祖神社の始まりです。昭和五十八年(1983年)には、昭和薬貿ビルの屋上に第二代目となる社殿が作られました。その後、平成二十八年(2016年)9月28日に現在の土地に第三代目の社殿が造営され、遷座されました。
薬祖神社(ご由緒)
御祭神
大己貴命(おおなむじのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
御利益
無病健康・病気平癒
わが国で医薬の祖神と言われているのは、大己貴命(おおなむじのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神で、共に国土経営に尽力され、薬の術や医道、酒造諸々を教えたと「古事記」や「日本書紀」「風土記」等に述べられています。大己貴命は須佐之男神(すさのおのみこと)の子孫で、大国主命と同じ神様です。神話や童謡でも親しまれ、特に「因幡の白兎」の神話は有名です。(いなば:現在の鳥取県)少彦名命は神産巣日神(かみむすびのかみ)の御子で蛾(が)の皮の着物に豆の実のさやの舟に乗っていたという大変小さな神であったようです。日本橋本町の業界では、昔からこの二柱を祭神とする水戸の大洗磯前(いそさき)神社、酒列磯前(さかつらいそさき)神社や東京上野の五條天神社に参詣して崇敬の念を表してきました。明治四十一年(1908年)からは、東京薬種貿易商同業組合(現公益社団法人東京薬事協会)が東京上野の五條天神社から薬祖神(やくそしん)の御霊を迎え大祭を執行し、昭和四年(1929年)には事務所建物の屋上に薬祖神社(初代社殿)が造営され、昭和五十八年には昭和薬貿ビル屋上に第二代目の社殿が造営されました。さらに平成二十八年(2016年)九月に現在地に第三代目の薬祖神社が遷座し今日に至っています。
薬祖神社から福徳神社に向かいます。といっても、隣り合っていますが。
- ポイント5 福徳神社
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福徳神社は、貞観年間(859年〜876年)には既にこの地に鎮座していたとされています。日本橋室町二丁目付近は、昔は武蔵国豊島郡福徳村(あるいは野口村福徳)と呼ばれていて、その地名から「福徳稲荷」と呼ばれました。徳川秀忠が慶長十九年(1614年)の正月28日に参詣した際、椚の皮付き鳥居に春の若芽の萌え出でたのを見て、福徳神社の別名である「芽吹稲荷」と名付けたとされています。明治七年(1847年)8月9日に「村社」に列され、社号も「福徳稲荷」から「福徳神社」へと変わりました。関東大震災や戦後の再開発などに伴う4度の遷座を経て、平成二十六年(2014年)に日本橋室町東地区開発に伴ってコレド室町の北隣りの区画に鎮座しました。それまでは、半世紀ほどビルの屋上に置かれていました。
福徳神社由緒
当社伝来の稲荷森塚碑文によれば、九世紀後半、当地は福徳村と呼ばれ、穀物・食物を司る稲荷神が鎮守の森に懐かれて、鎮座していた。福徳村の稲荷は往古より源義家、太田道灌ら武将の尊崇を受け、ことに最初の江戸城を築いた道灌との縁は深く、彼の神霊は当社に合祀されている。徳川家康は天正十八年江戸入部直後に当社を参詣、二代将軍秀忠も慶長十九年に参詣し、「福徳とはめでたい神号だ」と賞賛し、また当時の福徳稲荷の椚の皮付き鳥居(黒木鳥居)から春の若芽が生えているのを見て「芽吹稲荷」の名を与えた。秀忠は江戸城内の弁財天を合祀し、社地を三百三十坪と公定するなど当社を篤く尊崇した事跡が伝わっている。その後、江戸の町の発展と度重なる火災や社家の事情などにより境内地をほとんど失い、一時は消滅の危機に瀕した。それでも氏子有志が福徳神社の祭祀を継承してきた結果、平成二十六年秋、日本橋地域諸氏の尽力により往事の姿を彷彿とさせる境内・社殿が再興されるに至った。
石碑の隣に石柱が建っています。土地の人は、鎮守の森の一端に建てられていた里程標(石造一里塚)を「稲荷の一里塚」と呼んでいたそうです。しかし、明暦三年(1657年)正月8日の大地震により、一里塚は崩壊してしまいました。
表面
宮戸川の邊り宇賀の池上に立る一里塚より
此福徳村稲荷森塚迄一里
福徳神社には、埼玉県加須市の神社に掲げられている算額が奉献されています。算額は、神社仏閣に掲げられた絵馬の一種で、額面に数学の問題を載せたものです。この風習は江戸時代以来の数学者が自己の研鑽の成果を神仏の前に発表し、その後の精進を神仏に祈念するために行ったものです。算額は「和算」(日本人の伝統的数学)の発展に大きく貢献しています。算額の奉納はごく一部の県を除いて北海道から九州まで各地で行われていて、埼玉県は現存の算額の数では全国有数を誇っています。福徳神社の掲額は令和二年1月に埼玉県加須市在住の内田圭一氏が「先人の残してくれた遺産を是非とも次の時代に継承していきたい」との思いで、縁のあった福徳神社に奉納されたものです。埼玉県の中でも加須市には非常に多くの算額が現存していて、算額はいろいろな意味で貴重な歴史資料であるにもかかわらず、年々失われつつあるのが実情です。願文にもありますように、このことがあまり知られていないことを憂い、加須市の算額のこと、そして日本人の数学文化についてぜひ多くの人に知っていただきたいとの願いで奉額されたとのことです。
問題−1〜問題−4には答えのみ書かれていますが、解き方は示されていません。問題−5には答えも書かれていません。
奉献
願文
加須市には現存する算額が非常に多くあります。ここに挙げた4問はその一部です。ここ福徳神社との神縁によりこれを御覧の方々の中から加須の算額を一面でも、実際に見聞される方がおいでになればこれに勝る喜びはありません。
問題−1
問題−2
問題−3
問題−4
問題−5には答えが書いてありません。あなたなら解けるかな?
ゴール地点の東京メトロ三越前駅に着きました。
ということで、中央区で三番目の「Course3.人形町・小伝馬町 「江戸」の風情と面影探し」を歩き終えました。次は中央区で四番目のコースである「Course4.日本橋 「川」を辿って歴史再見」を歩きます。
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