Course4.日本橋 「川」を辿って歴史再見  

コース 踏破記  

今日は中央区の「Course4.日本橋 「川」を辿って歴史再見」を歩きます。東日本橋から浅草橋の神田川沿いに進み、両国橋で隅田川テラスに降りて新大橋・清洲橋の美しいフォルムを眺め、日本橋川沿いに歩いて、最後は日本橋・八重洲地区の巨大再開発現場を巡ります。最初に歩いたのは2022年の1月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年1月に改めて歩きました。

Course4.日本橋 「川」を辿って歴史再見

「Course4.日本橋 「川」を辿って歴史再見」の歩行距離は約6.2km(約8、900歩)、歩行時間は約1時間33分、消費カロリーは約279Kcalです。

スタート地点:都営地下鉄浅草線東日本橋駅出入口B3
ポイント1 神田川の船宿
東京はその昔、世界有数の水運都市。今でもここには、隅田川や東京港に繰り出す屋形船が集まっています。
ポイント2 新大橋
オレンジ色の主塔と白いケーブルは、シンプルなデザインの斜張橋に明るいイメージを与えています。
ポイント3 清洲橋
優美な雰囲気の吊り橋は、ドイツ・ケルンの橋をモデルに建造されました。
2020年3月末まで長寿命化工事中
ポイント4 兜神社
御祭神は商業の神様です。小さなお社ですが「証券界の守り神」ともいわれています。
ポイント5 ヤン・ヨーステン記念碑
ここに住んでいたオランダ人通訳の名前が訛り、「耶楊子(やようす)」→「八重洲」となりました。

ゴール地点:東京メトロ日本橋駅出入口B8


スタート地点の都営地下鉄浅草線東日本橋駅出入口B3から歩き始めます。



清杉通りを北に進み、浅草橋交差点で京葉道路を渡ります。清杉通りは、清州橋通りと江戸通りをつなぐ、僅か400mほどの大通りです。関東大震災後、昭和四年に清洲橋の架橋に合わせて開通した復興道路が清杉通りと呼ばれました。当時の清杉通りは、清州橋から始まり、現在の清洲橋通りと江戸通りを通り、浅草橋の北で分岐し、浅草寺の西側の現在の国際通りを抜けて、昭和通りと合流する台東区三ノ輪まで続いていました。昭和通りとの合流点(終点)は、当時金杉町(金杉下町)と呼ばれていたことから、清洲橋の「清」と金杉町の「杉」を合成して清杉通りになったものと思われます。京葉道路の起点は両国橋ですが、橋上に起点を示す道路標識はなく、橋の西側の浅草橋交差点に設置されています。同様に、両国橋から新宿駅の大ガードに至る靖国通りの起点を示す道路標識も浅草橋交差点に設置されています。



浅草橋は神田川に架かる橋で、江戸時代には橋の南詰に江戸城の城門のひとつだった浅草橋門が設置されていました。神田川は江戸城の外堀の役割も担っていたため、門の内側には番所が置かれて通行人の監視も行われていました。五街道の日光・奥州街道が通り、非常に通行人の往来の多い橋でした。浅草橋の南詰は、江戸の六大高札場(日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違橋内・高輪大木戸・半蔵門外)のひとつでした。現在の浅草橋は、関東大震災後の復興計画によって昭和五年(1930年)に当時の最新技術を駆使して架設されました。



ポイント1 神田川の船宿

浅草橋は神田川と隅田川の合流地点に近く、水上交通の要衝でもあるため、橋の周辺には夥しい数の屋形船が係留されています。



また、船宿(舟宿)も何軒かあります。「船宿」とは、人が宿泊する施設ではなく、屋形船や釣船の貸し出しを業とする施設をいいます。その起源は江戸時代まで遡り、遊里に程近い船宿の場合は二階に休息所などを設ける場合もありました。このような休息所は社交場として人気が高く、遊里に通う客などに利用されました。また、河川や穏やかな海上で釣りや舟遊びなどの遊興目当ての客を相手に商売を行い、特に花見や花火・納涼の時期の風物詩となりました。現在でも、都心部では隅田川や東京湾の周辺で営業を続けている船宿があります。



神田川が隅田川に合流する地点に柳橋が架かっています。柳橋は、昭和初期の震災復興計画の中で、耐震構造に配慮した隅田川に架かる永代橋をモデルにして鋼鉄橋で建設されました。柳橋南詰に建てられた石碑の銘板には、正岡子規が柳橋をテーマに詠んだ俳句がふたつ紹介されています。

春の夜や女見返る柳橋 子規
贅沢な人の涼みや柳橋 子規

柳橋

柳橋の下を流れる神田川は、三鷹市井之頭池を水源とし、都心部を流れて隅田川へ注ぐ全長約25kmの都市河川です。この位置に初めて橋が架かったのは、元禄十一年(1698年)のことで、「川口出口之橋」あるいは近くに幕府の矢の倉があったことから「矢の倉橋」と呼ばれていました。「柳橋」の由来については、
(1)矢の倉橋が矢之城(やのき)橋になり、さらに柳橋となる。
(2)柳原堤の末にあったことに由来する。
(3)橋の袂に柳の樹があったことに由来する。
このように諸説ありますが、真説は不明です。明治維新後、柳橋は新橋とともに花街として東京を代表するような場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まる所であったようです。区では平成三年度に、優美な形をしたこの橋を後世に伝えるため、傷んだ親柱を復元し、欄干は花街に因んで「かんざし」を飾り、歩道には御影石を貼って再生しました。また夕暮れより照明の演出をして、神田川河口に架かる「柳橋」の存在感をもたせました。

橋梁の諸元
形式    タイド・アーチ橋
橋長    37.9m
有効幅員  11.0m(車道6.0m 歩道2.5mX2)
建設年次  昭和四年12月(復興局施行)




もう一枚の柳橋の案内板が立っています。

中央区民文化財 柳橋

柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁です。その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡船で往き来していましたが、不便なので元禄十年(1697年)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌十一年に完成しました。その頃の柳橋辺りは隅田川の船遊び客の船宿が多く、”柳橋川へ蒲団をほうり込み”と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。明治二十年(1887年)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正十二年(1923年)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツ・ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和四年(1929年)に完成しました。完成から七十余年、現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成三年に整備し、同十一年に区民有形文化財に登録されています。




両国橋西交差点で京葉道路を渡ります。明暦三年(1657年)の火事は江戸市中の大半を焼き尽くす大火でした。当時隅田川には橋がなかったため、多くの人々が亡くなりました。このため、万治二年(1659年)に橋が架けられました。橋は始め大橋と呼ばれていましたが、武蔵国と下総国を結んでいたことから両国橋と呼ぶようになりました。復興後、橋の西側には延焼防止と人命救助のため、火除け地として広小路が設けられました。年が経つにつれ、両国広小路では小屋がけで見せ物を出したり、芝居小屋や飲み食いの店などが設けられて江戸随一の盛り場となりました。現在、両国広小路はなくなりましたが、両国橋に向かって左側の道路脇に記念碑が建っています。

旧跡 両国広小路

明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。その祭このあたりで逃げ場を失って焼死する者が多数出た。このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた。隅田川は当時武蔵下総両国の境界をなしていた。また延焼防止のため橋に向かう沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした。やがてこれが広小路となり江戸三大広小路の一つとして上野浅草に並び称せられる盛り場に発展した。明治維新のころ、ここには新柳町・元柳町・横山町・吉川町・米沢町・薬研堀町・若松町があったが、昭和七年合併して日本橋両国となり現在に及んだ。維新後百年を経た今日、まちの近代化はめざましく、広小路や両国の名も過去のものとして忘れ去られようとしているが、300年前火除け地が設定され、これが広小路に発展して行った事跡のなかには、先人の英知と労力が偲ばれてまことに意義深いものがある。ここに由緒ある両国広小路の旧跡を永く保存するため、町会の総意により、この碑を建てた。




両国橋は、橋長が164.5m・幅員が24.0mの3径間ゲルバー式鋼板桁橋です。武蔵国と下総国の二国を結ぶ橋であることから両国橋と呼ばれましたが、正式にはただの”大橋”でした。しかし、新大橋などもつくられたために両国橋が正式の名前となりました。明暦の大火では橋がなかったために人々が逃げられずに多数の死者が出たため、大火の後にこの橋が架けられました。回向院はその人々を弔うために建てられ、後に勧進相僕が催されることとなったのです。現在の橋は、昭和七年(1932年)に完成しました。親柱の上の丸い石のモニュメントが独特です。地球儀を模したものだそうです。地球儀に四角い帯が巻き付いているのは、地球儀に描かれた国と国をつなぐ橋の意味もあるようです。



両国橋の袂から隅田川テラスに下ります。隅田川では、隅田川テラスを順次整備しています。この隅田川テラスを歩くと、白鬚橋から勝鬨橋まで隅田川を眺めながら散策することができます。川沿いには江戸・東京の歴史や文化を今なお残しているところがあり、テラスを歩くと今迄知らなかった隅田川の素晴らしさや懐かしい面影に出会うことができるかもしれません。この付近には薬研堀不動院などがあり、橋を渡ると両国国技館や江戸東京博物館にも行けます。尚、2025年1月時点では、テラスに下りるスロープを設置する工事が行なわれていて、両国橋の袂からテラスに下りる階段は閉鎖されています。



首都高の高架が隅田川を斜めに横断する地点に、先日訪れた浜町公園があります。隅田川テラスの堤防の壁には、創建当時の明治座を描いた錦絵の巨大なレプリカが貼られています。菰樽と洋式の建物とのアンバランスが面白いですね。



ポイント2 新大橋

浜町公園の脇に新大橋が架かっています。最初に新大橋が架橋されたのは、元禄六年(1694年)です。隅田川に架かった3番目の橋で、「大橋」と呼ばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられました。その後、明治十八年(1885年)に新しい西洋式の木橋として架け替えられ、更に明治四十五年(1912年)7月19日にはピントラス式の鉄橋として現在の位置に生まれ変わりました。竣工後間もなく市電が開通し、アールヌーボー風の高欄に白い花崗岩の親柱など特色あるデザインが見られました。現在の橋は昭和五十二年(1977年)に架け替えられたものです。

新大橋 由来

新大橋は、隅田川に架かる3番目の橋として元禄六年(1693年)に架けられました。この橋の架設により江戸市中との交通が便利になり、 深川の発展に大きく影響しました。初めは、現在地より約200mほど下流に架けられていましたが、明治四十五年(1912年)7月鉄橋となり現在地に架替えられました。昭和五十二年、現在の新大橋に架替えられ、旧鉄橋は明治の面影をとどめる橋であることから、愛知県の明治村へ移され保存されています。




新大橋は関東大震災の際に隅田川の橋がことごとく焼け落ちる中で唯一被災せず、避難の道として多数の人命を救ったため、「人助け橋(お助け橋)」と称されています。水天宮の御神体もこの橋に避難して難を逃れたと言われています。橋の袂にその理由を記したふたつの案内板と巨大な石碑が立っています。

「人助け橋」のいわれ

大正十二年(1923年)九月一日、突如として起こった関東大震災は随所で火災を誘発し、そのため各所で橋が焼け落ち多数の痛ましい犠牲者を出した。しかし幸いにも明治四十五年に建造された新大橋だけは火災からまぬがれ、逃げ惑う一万有余の尊い生命を救い、かつ、遮断された各方面への交通を一手に引き受けて、避難橋としての重責を十分に果たした。そのため、新大橋は多くの人々から「人助け橋」と呼ばれ永く親しまれるようになった。なお、当時久松警察署の新大橋西詰派出所に勤務する羽鳥源作・三村光・今給惣克巳・植木機禅・伊藤盛雄・浅見武雄ら各警察官は一致協力して多数の避難者を誘導し、さらに携行してきた荷物を橋詰で適切にさばいて人災の防止と避難路の確保のために活躍されたという。一身を顧りみず沈着勇敢に行動されたその功績は、永く後世に称えられるべきものである。




石碑には古めかしい字体で長文の追想文が書かれていますが、書き取るには難しいのでネットに掲載されていた文章を使わさせて頂きます。

避難記念 貴族院議員正四位伯爵 有馬頼寧 篆額

思い起こすだけでも鳥肌が立つほど恐ろしいのは大震火災の時の状況である。時は大正十二年9月1日、場所は新大橋の橋の上である。火災を避けて来た数万の市民が九死に一生を得たのは神と人の力が一致したためではないであろうか。この時、橋の両側より狂ったような紅蓮の炎と煙が刻一刻と迫り、進むも火、退くも火の状況で、身を河に投じようにも濁流に飲み込まれるだけであり、進退窮まった。絶叫が満ちて、その惨状は目も当てられない状況であった。この時市民は、橋の上に避難されていた水天宮や小網稲荷神社・玄冶店橘神社のご神体を伏して拝むとともに警察や在郷軍人その他有志の人々は着火しそうな荷物をことごとく河に捨てさした。中には貴重な物であるので泣いて拒む人もいたが人の命には替えられない。この素早い断固たる処置は的を射たものであった。人事を尽くして天命を待っていたところ夜も明けて火も鎮まり、市民はやっと正気を取り戻して互いに生還したことを喜び合った。また、五大橋の中でこの橋だけが災害から免れることが出来たのは神のご加護と人の力であった。その後、法木徳兵衛が呼びかけ、森田恒一・加藤肆郎・庄野又兵衛が賛同して発起人となり、この橋の上で災いを免れた人々が集まり、大震火災新大橋避難記念会を組織した。毎年当日水天宮にお参りし、橋の上に集まって当時を追想してきたが、本年は十周年になるので、思いで深い新大橋西側の一隅に碑を建て、建碑趣旨を刻み永久に記念とする。




中央区の案内板が一番分かりやすいですね。

震災避難記念碑

隅田川に架かる現在の新大橋は、中央区と江東区を結ぶ長さ約173メートルの斜張橋です。江戸幕府が編さんした地誌「御府内備考」によれば、橋の創設は元禄六年(1693年)にさかのぼり、新大橋という名前は、既に架けられていた千住大橋に対して付けられたといいます(両国橋を大橋とし、それに対する名だとする説もあります)。当初は幕府が管轄する公儀橋でしたが、後に町人が維持管理を行うようになりました。明治四十五年(1912年)になると、新大橋は上流に場所を移して木造橋から鋼製のトラス橋へと架け替えられました。この橋は大正十二年(1923年)に発生した関東大震災の折、隅田川の橋の多くが焼け落ちる中、大きな損壊等を被ることなく、橋上に避難した大勢の人の命を救いました。また、近隣の水天宮や小網神社のご神体も新大橋に避難したことが幸いし、難を逃れたといわれています。そのため、通称「お助け橋」と呼ばれるようになりました。その後、橋上で被災を免れた人々により新大橋記念会が結成され、昭和八年(1933年)、震災から十年目を記念して橋詰に「震災避難記念碑」が建立されました。なお、この橋は太平洋戦争による空襲にも耐えましたが、橋台の沈下が激しく、昭和五十二年(1977年)に現在の橋に架け替えられています。

Earthquake Refuge Monument

The Shin Ohashi is a 173-meter cable-stayed bridge over the Sumida River, connecting the Chuo and Koto cities. According to a gazetteer of Edo compiled by the Edo shogunate in the 19th century, construction of the first bridge with that name goes back to 1693. The name Shin Ohashi (New Great Bridge) may have been chosen because another "great bridge," the Senju Ohashi had already spanned the same river, or possibly because the Ryogokubashi bridge over the river was considered a great bridge. The Shin Ohashi was initially the public bridge under the jurisdiction of the Edo shogunate, but later, the local merchants came to maintain and manage the bridge. In 1912, the wooden Shin Ohashi was replaced with a steel-truss bridge with the same name, moved upriver from the original location. During the Great Kanto Earthquake in 1923, while most of the other bridges over the Sumida River were destroyed by fire, the Shin Ohashi survived without serious damage, saving the lives of many people who took refuge on the bridge. Sacred objects from two local shrines, Suitengu and Koami Jinja, were also saved from the disaster by seeking refuge there. The bridge therefore became commonly known as Otasuke-bashi (Saving Bridge). Survivors who had evacuated to the bridge established the Shin Ohashi Memorial Association, which erected the Earthquake Refuge Monument at one end of the bridge in 1933 to commemorate the tenth anniversary of the disaster. Although the Shin Ohashi survived the air raids of the Second World War, sinking of the bridge piers led to its replacement with the current structure in 1977.




新大橋から清洲橋に向かいます。

ポイント3 清洲橋

清洲橋は大正十四年に起工し、工費約300万円(当時)を費やして昭和三年3月に完成しました。長さ186.2m・幅25.9mで、ドイツのライン河に架かる世界の美橋であるケルン市の吊り橋をモデルとして設計された優美で女性的な橋です。橋名は深川の清澄町と日本橋中洲町を結ぶ橋であることから、その町名の頭字を一字ずつとってこの名が付けられました。



清洲橋から隅田川大橋に向かいます。隅田川大橋は、首都高速道路(9号線)と都道47号線が重なった2段構造の橋となっており、上段部分が首都高速道路の高架橋、下段部分がいわゆる“隅田川大橋”です。また、地下に東京地下鉄半蔵門線が通っています。昭和五十四年(1979年)に完成したこの橋は、京浜・京葉地帯を結ぶ湾岸道路に通じ、隅田川に架かる橋のうち唯一の2階建ての珍しい橋です。



隅田川大橋から永代橋までの隅田川の土手は幅広く造られ、スーパー堤防といわれています。隅田川では、大地震等に対してより安全性を高め、水辺に親しめる環境が再生されるように、土台の強化・コンクリート壁の切断・盛土などを行い、幅の広い緩傾斜型の堤防が整備されています。このうち、とりわけ規模の大きいものがスーパー堤防と呼ばれています。スーパー堤防や緩傾斜型堤防の整備にあたっては、広い用地を必要とするために背後地の再開発事業などの街造りと一体となった整備が進められています。



日本橋川が隅田川に合流する先に緩やかな弧を描いた永代橋が架かっています。永代橋は、元禄年間に「深川の大渡し」に代わって架けられ、佐賀町付近(現在の佐賀一丁目付近)が昔、永代島と呼ばれていたため、永代橋と名付けられました。橋の両際には、広小路を設けて橋番屋が設けられ、高札を立て、武士・医師・出家神主以外の通行人から橋銭を取る有料橋でした。上流の清洲橋の女性的な優美さに相対し、男性的な重量感を持っています。隅田川と一体となって地域のランドマークとしての役割を果たすとともに、建設された時代の特色を表していることから、1999年に東京都選定歴史的構造物に選定されました。日本橋川は、江戸時代には物流の中心として市民のくらしを支え、築地に移転する前の魚河岸や、多くの河岸(かし)があり、たいへん賑わいました。また現在も、明治・大正時代に架けられた著名な橋梁や、周辺には当時の栄華をしのばせる西洋建築物が現存するなど、江戸・東京の歴史を残す川となっています。金融や証券の中心である東京証券取引所や日本銀行本店などもこの川沿いに立地しています。



箱崎河岸緑道の一画に、江戸時代の橋の風景を描いた絵と説明文を付した案内板が置かれています。

永代橋

元禄十一年(1698年)に架橋された木造の水代橋は、現在の永代橋の場所よりも約150m上流のこの付近に架けられていました。橋名の由来は、当時このあたりが永代島と呼ばれれていたことからと名付けられたようですが、一説には五代将軍綱吉の50歳を迎えた記念として名を付けられたとも伝えられています。江戸時代には橋桁が高く取られたこともあり、橋上からは“西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総、限りなく見え渡り眺望よし”などといわれるほどの美しい景色が広がっていました。歌川広重が江戸後期に描いた「東都名所永代橋全図」には、隅田川河口のこの辺りに多数の廻船が停泊している様子がうかがえます。また、永代橋西詰のにぎわいとともに、幟が立つ高尾稲荷社へ参詣する入びとの姿などもみられ、詩情豊かな情景が描かれています。なお、永代橋が現在の場所に移されたのは明治三十年(1897年)のことで、道路橋としては初めてとなる鋼鉄橋に生まれかわりました。その後、開東大震災で被災したため、大正十五年(1926年)に現在の橋へと架け替えられました。上流に架かる清洲橋の女性約で優美な雰囲気とは対照的に、男性的で重厚感あふれる永代橋は、隅田川の流れとともに広く都民に親しまれています。




日本橋川が隅田川に合流する地点に豊海橋が架かっています。豊海橋は、昭和二年(1927年)に震災復興橋として架け替えられました。梯子を横倒しにしたような外観をしていて、フィーレンデール橋と呼ばれる全国でも珍しいデザインです。「都市景観との調和」に気配りし、永代橋とマッチするようにシンプルなデザインのなかに止め形式という古い形を残した重量感のある鉄骨橋梁です。



豊海橋の向かいの歩道の植え込みの中に小さな石碑が置いてあります。日本銀行は都心から外れたこんな場所で創業したんですね。それにしても簡素な碑文です。

日本銀行創業の地

明治十五年十月十日日本銀行 はこの地で開業した
明治二十九年四月日本橋本石町の現在地に移転した
創業百周年を記念してこの碑を建てる
昭和五十七年十月
日本銀行総裁 前川春雄




豊海橋の袂の植え込みの中に、高尾稲荷神社のいわれを記した案内板が建っています。

高尾稲荷起縁の地

江戸時代、この地は徳川家の船手組持場であったが、宝永年間(1708年)の元旦に下役の神谷喜平次という人が見廻り中に川岸に首級が漂着しているのを見つけ、手厚く埋葬した。当時、万治2年(1659年)のころより吉原の遊女高尾太夫が仙台候伊達綱宗に太夫の目方だけ小判を積んで請出されたのになびかぬとして隅田川三又の舟中で吊し斬りにされ、河水を紅に染めたといい伝えられ、世人は自然高尾の神霊として崇め唱えるようになった。そのころ盛んだった稲荷信仰とも結びついて高尾稲荷社の起縁となった。明治のころ、この地には稲荷社および北海道開拓使東京出張所(後に日本銀行開設時の建物)があり、その後現三井倉庫の建設に伴い社殿は御神体ともども現在地に移された。




少し進んだ右手の路地の入口に、赤い鳥居の小さな神社があります。2022年1月に訪れた時には、少し離れた別の場所に鎮座していました。

箱崎町のパワースポット
史跡 高尾稲荷社のご案内

江戸時代初期の万治二年(1659年)十二月墨田川三又、現在の中州あたりにおいて仙台侯伊達綱宗の怒りにより遊船中に吊るし斬りにし首を刎ねられた、新吉原三浦屋の遊女、二代目高尾太夫の首級が当地大川端の新堀岸に漂着し、高尾太夫大明神稲荷社として祀られたのが当社の起縁です。江戸時代より広く庶民の信仰の対象となり、また歌舞伎や講談に脚色され人気演目として度々上演されて来ました。昭和二十年三月二十日の戦災により社殿が焼失いたしましたが、地域の皆様のご協力により再建することが出来ました。昭和五十一年一月の町名変更にあたり、当町会名をこの高尾稲荷由来札に残し、郷土の史跡を見直そうとの意志により改めて社殿の再建を致す事となりました。再建工事の折、旧社殿下より高尾太夫の実物の骨壺が発掘され、他域の重要な史跡史料として見直される事となりました。今現在もこの社には稲荷社としては、全国でも非常にめずらしく実体の神霊(実物の頭蓋骨)を祭神として社の中に安置しております。

◇懸願と御神コ
頭にまつわる悩み事(頭痛、ノイローゼ、薄髪等)
商売繁盛、縁結び、学業成就。




2025年1月に再訪した際は、新しいビルの前に遷座されていました。

高尾稲荷社の由来

万治二年十二月(西暦1659年)、江戸の花街新吉原京町一丁目三浦屋四郎左衛門抱えの遊女で二代目高尾太夫傾城という娼妓の最高位にあり、容姿端麗にて、艶名一世に鳴りひびき、和歌誹諧に長じ、書は抜群、諸芸に通じ、比類のない全盛を誇ったといわれる。生国は野洲塩原塩釜村百姓長介の娘で当時十九才であった。その高尾が仙台藩主伊達綱宗公に寵愛され、大金を積んで身請けされたが、遊女にはすでに意中の人あり、操を立てて候に従わなかったため、ついに怒りを買って隅田川の三叉(現在の中州)あたりの楼船上にて吊り斬りにされ川中に捨てられた。その遺体が数日後、当地大川端の北新堀河岸に漂着し、当時そこに庵を構え居合わせた僧が引揚げてここに手厚く葬ったといわれる。高尾の不憫な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て遊女の神霊高尾大明神を祀り高尾稲荷社としたのが当社の起縁である。現在、この社には、稲荷社としては全国でも非常にめずらしく、実体の神霊(実物の頭蓋骨)を祭~として社の中に安置してあります。江戸時代より引きつづき、昭和初期まで参拝のためおとずれる人多く、縁日には露店なども出て栄えていました。

懸願と御神コ
頭にまつわる悩み事(頭痛、ノイローゼ、薄髪等)、商売繁盛、縁結び、学業成就。懸願にあたり、この社より櫛一枝借りうけ、朝夕、高尾大明神と祈り、懸願成就ののち、他に櫛一枚そえて奉納する習わしが昔から伝わっています。

高尾が仙台候に贈ったといわれる句
  「君は今、駒形あたり時鳥(ほととぎす)」
辞世の句
  「寒風よもろくも朽つる紅葉かな」




永代通りから一歩入った日本橋川に架けられているのが湊橋です。写真ではよく見えませんが、案内板下部の絵図には沢山の人達と御神輿の行列が描かれています。山王祭りの様子を俯瞰したものみたいです。海抜ゼロメートル地帯ですが、江戸時代に俯瞰できるような高い場所はあったのでしょうか?

湊橋

この橋は霊厳島(現在の新川地区で通称こんにゃく島とよばれていた)と対岸の箱崎地区の埋立地(隅田川の中洲)とを結ぶために、延宝七年(1679年)に架けられました。この地域は、江戸時代から水路交通の要所として栄え、とくに江戸と関西を結んだ樽廻船によって酒樽が輸送されていました。「江戸名所図会」によるとこの橋は、当時の湊町を形成した日本橋川河口の繁栄を象徴しており、また橋を挟んだ川岸には倉庫が立ち並び、当時の賑わいが偲ばれます。橋名は、江戸湊の出入口に由来しています。現在の橋は関東大震災の復興期に再建され、平成元年の整備事業で装いを新たにしました。




日本橋川に架かる茅場橋を渡ります。茅場橋の橋名の由来は、この辺りの地名である茅場町に因んでいます。茅場町の町名は、江戸城拡張工事の際に神田橋付近の茅商人をここに移して市街を開いたのが由来だそうです。現在の茅場橋は昭和四年(1929年)に震災復興事業により架け替えられた桁橋で、欄干には舟人のレリーフが施されたパネルが嵌め込まれています。橋詰広場には、紅梅・白梅・桜の木が植えられ、季節に合わせ美しい花を咲かせています。



茅場町交差点で新大橋通りを渡ります。東京証券会館ビルは、証券団体の活動拠点として、昭和四十一年(1966年)1月に竣工しました。東京証券会館ホール(342席)や会議室を備え、証券図書館や証券情報室、それにJASDAQ−OSEプラザなどの一般も利用出来る施設もあります。証券マンはグルメな方が多いようで、7階にはホテルオークラ直営のレストランニホンバシがあり、上場した企業が祝杯をあげる場所にもなっています。スペインの邸宅を思わせる佇まいの中で贅を尽くした食の饗宴が堪能できます。地中海ブルーをイメージした回廊、パラドールのラウンジを思わせる暖炉のあるセンターラウンジ、地中海にある島の名前を冠している個室などがあり、ホテルオークラの上質なおもてなしとともに欧風料理のきわみが味わえます。



茅場町には、江戸時代前期に松尾芭蕉の弟子で俳諧師の宝井其角(1661年〜1707年)が住んでいたことでも知られています。宝井其角は、延宝元年(1673年)に芭蕉に入門し、蕉門十哲の筆頭に挙げられています。



永代通りを兜町交差点で右折し、鎧橋に向かいます。鎧橋の手前に、東京証券取引所の石壁のビルが聳えています。JPXとしか表示されていないので、何のビルだか分からない人もいるでしょう。Japan Exchange GROUP,Inc.(株式会社日本取引所グループ)の略だそうですが、JEGの方が日本人にはしっくりきますね。



鎧橋の名前は案内板によりますと、「鎧の渡し」に由来するそうです。また、東京証券取引所と道路を挟んだ先には、鎧橋とレリーフされた大きな石造りのモニュメントと年代を感じさせる地蔵尊(鎧橋地蔵)が祀られています。鎧橋から身を投げた人を供養する地蔵様かと思ったのですが、特にいわれはないみたいです。

鎧の渡し跡

鎧の渡しは、日本橋川に通されていた小網町と茅場町との間の船渡しです。古くは延宝七年(1679年)の絵図にその名が見られ、その後の絵図や地誌類にも多く記されています。伝説によると、かつてこの付近には大河があり、平安時代の永承年間(1046年〜1053年)に源義家が奥州平定の途中、ここで暴風・逆浪にあい、その船が沈まんとしたため、鎧一領を海中に投じて龍神に祈りを奉げたところ、無事に渡ることができたため、以来ここを「鎧が淵」と呼んだと言われています。また、平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられています。この渡しは、明治五年(1872年)に鎧橋が架けられたことによりなくなりますが、江戸時代に通されていた渡しの風景は『江戸名所図会」などに描かれており、また俳句や狂歌等にも詠まれています。

縁日に
 買うてぞ帰る
  おもだかも

逆さにうつる
 鎧のわたし
   和朝亭 国盛




ポイント4 兜神社

かって楓川が日本橋川に合流していた地点の袂に、ゲンを担ぐ証券業関係者にとっては守り神のような存在の兜神社が鎮座しています。証券会社が建ち並ぶ兜町の地名の由来については諸説あります。源義家が奥州征伐から凱旋した際(つまり東征の後)、自身の兜を納めて平和を願った兜神社の境内の塚に由来するとか、俵藤太が平将門に打ち勝った際、将門の兜を埋めた塚に由来するとか。神社の説明とは微妙に違いますね。

兜神社の由来

御社号
兜神社
鎮座地
中央区日本橋兜町一番十二号
御創立
明治十一年五月(1878年)
御祭神
主なる祭神は商業の守護神とたたえまつる倉稲魂命である。合祀の神は右に大国主命左に事代主命をまつる。
御例祭
毎年四月一日
御由緒
明治十一年ここ兜町に東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けられるに当たり同年五月取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として兜神社を造営した。御社殿に奉安してある「倉稲魂命」の御神号は時の太政大臣三條實美公の揮毫になるものである。当社は御鎮斎後一度換地が行われたが昭和二年(1927年)に再度換地を行ない、兜橋々畔の現在地約六十二坪(約205平方米)を卜して同年六月御遷座を行ない鉄筋コンクリート造りの社殿を造営した。昭和四十四年(1969年)五月高速道路の建設に伴ない御影石造りの鳥居を残して旧社殿を解体し、同四十六年(1971年)三月現在の鉄筋コンクリート・一間社流造・向拝付きの社殿を造営した。屋根は銅板葺とし、玉垣・参道敷石などは御影石をもちいた。
兜岩の由来
境内に安置してある「兜岩」についてはその昔前九年の役(1050年代)のころ源義家が東征のみぎり、この岩に兜を懸けて戦勝を祈願したことに由来すると伝えられ、兜町という町名はこの「兜岩」に因んで付けられたといわれている。




兜岩は、何となく兜を掛けやすそうな形をしていますね。



兜神社の近くには、渋沢栄一翁が住んでいたようです。



江戸橋の南端付近にオフィスビルに混じって真新しい倉庫ビルがあります。日本橋界隈は、江戸開幕以来水運の中心地になり、物資の荷捌き所や倉庫が立ち並んでいました。江戸橋倉庫ビルは昭和五年(1930年)に竣工しましたが、個性的な外観で屋上のファンネル(漏斗:容器に液体を注ぐための壺状もしくは円錐形の道具)や船首を思わせる曲線など船体を感じさせるデザインで東京都選定歴史的建造物に指定されていたビルでした。今でこそ当たり前になったトランクルームの先駆け的存在でもありました。竣工から約80年にわたって日本橋川の景観でしたが、老朽化により解体され、外観だけ残したハリボテ方式で解体・保存された日本橋ダイヤビルディングに生まれ変わりました。

日本橋ダイヤビルディング(旧三菱倉庫江戸橋倉庫ビル)

三代広重が「古今東京名所」で描いた煉瓦造りの「江戸橋三菱の荷蔵」(明治十三年築)が、大正十二年の関東大震災により飛び火で焼け落ちたため、昭和五年に、耐震耐火に優れた鉄筋コンクリート造(一部フラットスラブ構造)の近代的都市倉庫である「江戸橋倉庫ビル」(地下1階・地上6階建)が建設されました。船橋を模した屋上の塔屋や上層階の半円窓など、船体を思わせる個性的な外観を持つ、表現主義の影響を受けた代表的な作品でした。日本橋川をロンドンのテムズ川に見立て、外国航路の本船が停泊しているのがこのビルのモチーフとする見方があり、横光利一 著「家族会議」(昭和十年)では、「三菱倉庫のそびえるあたりの静かな波はベニスに似ている」と表現されました。併設の「トランクルーム」は、昭和六年、三菱倉庫株式会社が考案・命名し、「江戸橋倉庫ビル」に於いて、本邦で最初にトランクルーム事業を開始しました。「江戸橋倉庫ビル」は建設以来80有余年が経過し、環境も変化したため、平成二十三年に外観の約7割を保存して建替える再開発に着手し、平成二十六年に地上18階建のオフィスビル「日本橋ダイヤビルディング」として竣工しました。




昭和通りに面して日本橋郵便局があります。日本橋郵便局は、明治四年(1871年)3月1日に近代郵便制度が始まった際、駅逓司と郵便役所が設置された場所にあり、「郵便発祥の地」を記念する石碑と銘板、それに「日本近代郵便の父」として知られる前島密のブロンズ製胸像が設置されています。石碑と前島の胸像は一体化した形で南西側通用口横に、銘板は北側利用者入口の壁に掲げられています。平成三年(1995年)4月1日に「郵便発祥の地」として中央区の史跡に指定されました。



昭和通りと中央通りに挟まれた日本橋一丁目界隈では大規模な再開発が行なわれています。その中心となるのが52階建て・高さ284mの超高層タワーです。



施工は清水建設が担当していますが、最近の都内の超高層ビルの建設は殆ど清水建設の独壇場ですね。



日本橋にやってきました。日本橋架橋100周年に合わせ、日本橋南東橋詰(滝の広場)に隣接して平成二十三年4月3日に船着場が整備されました。船着場は、日本橋に縁のある歌舞伎役者の坂田藤十郎さんと市川團十郎さんの名前から「双十郎河岸」と命名されました。



日本橋の橋詰には、南東側に「滝の広場」・南西側に「花の広場」・北東側に「乙姫広場」・北西側に「元標の広場」と命名された広場が設けられています。ここは、花の広場で、日本橋観光案内所があります。

日本橋橋詰の愛称

日本橋の歴史は、慶長八年(1603年)に家康の江戸幕府開府の際、南北の交通路として木橋が架設されて以来、幾度の変遷を経て、現在の石橋が明治四十四年4月に完成し平成三年4月には80才を迎えました。これを記念し、平成二年7月から平成三年5月にかけて広場の整備を行い、平成三年5月には完成式典が行われました。整備にあたっては地域の方々の意見をもとに、日本橋橋詰を都心のオアシスとして、人々の待ち合わせや地域の活性化になればと考え実施しました。この整備工事に合わせ、愛称を一般募集するとともに、その愛称を末長く親しんでいただくため、記念碑として保存することとしました。




日本橋は、江戸時代に五街道の起点となりました。

道の起点としての日本橋

中央区日本橋一丁目〜港区新橋一丁目

日本橋は古来街道の起点として広く親しまれ現在も交通の要衝として知られている。慶長八年に日本橋が架設されて以来、火災などによって改築すること19回を経て、明治四十四年3月石橋の名橋として現在の橋に生れ変った。また日本橋から銀座にかけての中央通り一帯は近代的な街並で日本経済の中心地として今なお活況を呈している。




花の広場に立っている案内板には、「元標の広場」に置かれている東京市道路元標の柱が都電の架線支持柱を兼ねて日本橋の中央に設置されていたと書かれています。それはいくら何でもやり過ぎでしょう。

日本橋 附東京市道路元票(一基)

日本橋の創架は、徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603年)と伝えられています。翌年、日本橋が幕府直轄の主要な五つの陸上交通路(東海道・中山道・奧州道中・日光道中・甲州道中)の起点として定められました。江戸市街の中心に位置した日本橋は、橋のたもとの日本橋川沿いに活気ある魚市場が立ち並び、周辺に諸問屋が軒を連ねるなど、江戸随一の繁華な場所でした。現在の日本橋は、明治四十四年(1911年)に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、都内では数少ない明治期の石造道路橋です。橋長49.5メートル、幅員27.5メートルの橋には、照明灯のある鋳銅製装飾柱を中心に和漢洋折衷の装飾が施されています。中でも、建築家・妻木頼黄の考案に基づく麒麟や東京市章を抱えた獅子のブロンズ像(原型制作・渡辺長男、鋳造・岡崎雪声)は、意匠的完成度の高い芸術作品といえます。なお、親柱に記された橋名の揮毫は、第十五代将軍・徳川慶喜の筆によるものです。また、附指定(つけたりしてい:国宝や文化財として国から指定されている物件の価値を補完するために追加で指定すること)を受けた「東京市道路元標」は、昭和四十二年(1967年)まで都電の架線支持柱を兼ねて日本橋の中央に設置されていましたが、現在は日本橋北西の橋詰広場に移設されています。なお、橋の中央には当時の内閣総理大臣・佐藤栄作の筆による日本国道路元標」のプレート(複製は北西橋詰)が埋め込まれています。

Nihonbashi Bridge Including the Zero Milestone of Japan

It has been reported that the Nihonbashi Bridge was first built in 1603, the year TOKUGAWA, Ieyasu established the shogunate in Edo. In the following year it was designated as the origin point of the five national roads administered directly by the shogunate (Tokaido, Nakasendo, Oshu Dochu, Nikko Dochu, Koshu Dochu). The bridge stood in the central district, where was the busiest commercial city of Edo with rows of bustling fish markets and wholesale shops along with the Nihonbashi River. The bridge that stands today is a Renaissance-style double-arch stone structure built in 1911, and one of the few Meiji-era stone bridges left in Tokyo. It is 49.5 meters long and 27.5 meters wide. The bridge has ornate cast-copper columns decorated in a mix of Japanese and European Styles.Most of all, the bronze statues of kylins (a kylins is an imaginary creature in ancient China) and the lion holding the Tokyo municipal emblem were originally designed by architect TSUMAKI,Yorinaka, which are regarded as high-leveled design art works (Original mold: WATANABE, Osao, Cast: OKAZAKI, Sessei). The bridge name inscribed on the oyabashira (thick posts located at both edges of the bridge) is modeled on calligraphy by TOKUGAWA, Yoshinobu, the 15th and last Tokugawa shogun. The Zero Milestone of Japan which is included in the national cultural property designation used to be positioned at the center of the bridge until 1967, together with the post for aerial wires for a tram line. Now it was relocated to the open space at the northwest side of the bridge. The Zero Milestone plaque was embedded in and at the center of the bridge deck pavement in 1967 with an inscription modeled on calligraphy by then-prime minister SATO, Eisaku, and also there is the replica of the plaque at the edge of the bridge on the northwest side.




こんな感じだったようです。



屋根付きの立派な案内板も置かれています。銅板に彫られた江戸時代の風景画と碑文は年代物のようで、錆びてとても見づらいですね。

日本橋由来記

日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ其名四方ニ高シ慶長八年幕府譜大名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街ヲ營ミ海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス人呼ンデ日本橋ト稱シ遂ニ橋名ト為ル翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ實ニ本橋ヲ以テ起點ト為ス當時既ニ江戸繁華ノ中心タリシコト推知ス可ク橋畔ニ高札場等ヲ置ク亦所以ナキニアラス舊記ヲ按スルニ元和四年改架ノ本橋ハ長三十七間餘幅四間餘ニシテ其後改架凡ソ十九回ニ及ヘリト云フ徳川盛時ニ於ケル本橋附近ハ富買豪商甍ヲ連ネ魚市アリ酒庫アリ雜鬧沸クカ如ク橋上貴賎ノ來往晝夜絶エス富獄遥ニ秀麗ヲ天際ニ誇リ日帆近ク碧波ト映帶ス眞ニ上圖ノ如シ明治聖代ニ至リ百般ノ文物日々新ナルニ伴ヒ本橋亦明治四十四年三月新装成リ今日ニ至ル茲ニ橋畔ニ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ後世ニ傳フ




日本橋の欄干には獅子をモチーフにした立派なブロンズ像が照明灯と共に君臨しています。今は機能一辺倒でこのような装飾はされませんが、昔の人は美的感覚があったんでしょうね。



Quiz Spot

ここには「日本橋の道路上にある物」の複製が置かれています。「ある物」の名前をお答えください。


答えは?



「日本国道路元標」を解説した石碑もあります。

日本国道路元標

日本橋は1603年に創架され、江戸幕府により五街道の起点として定められました。現在の日本橋は1911年に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、四隅の親柱の銘板に刻まれた「日本橋」及び「にほんはし」の文字は最後の将軍・コ川慶喜公の揮毫によるものです。1972年、日本橋中央の「東京市道路元標」がこの広場に移設・保存されました。その据えられていた跡には、内閣総理大臣佐藤栄作氏(後にノーベル平和賞受賞)の揮毫による「日本国道路元標」が埋標されました。この復製も同時に制作・設置されたものです。東京道路元標は、1999年に米寿を祝う日本橋とともに国の重要文化に指定されています。

Zero Milestone in Japan

Nihonbashi Bridge was built in 1603 and designated by the Edo Shogunate government as the starting point of five major roads in Japan. The present Nihonbashi Bridge, built in the Renaissance style in 1911, is a double-arched bridge made of stone. The calligraphy engraving "Nihonbashi" on the plaques on each of the four newel posts is based on the work of Yoshinobu Tokugawa, the last Shogun. In 1972, the original "Zero MiIestone of Tokyo City", formerly located in the middle of Nihonbashi Bridge was transferred to this square for preservation and replaced by a memorial plaque. The characters "Zero Milestone of lapan" on the plaque were taken from the writing of the then Prime Minister and Nobel Peace Prize winner, Eisaku Sato. Both "Zero Milestone of Tokyo City" and Nihonbashi Bridge, which calebrated its eighty-eighth anniversary in 1999, are designated important cultural assets of Japan.




日本橋を渡った先に三越本店の巨大な建物があります。

国指定重要文化財
三越日本橋本店 一棟

三越日本橋本店(本館)は「わが国の百貨店の歴史を象徴する」ものとして国指定重要文化財に指定されています。戦前期の商業建築を多数建築した横河工務所(現:株式会社横河建築設計事務所)による一貫した設計により、外観はやや簡略化しつつも西洋古典様式に則った重厚な意匠で統一し、内部では幾何的意匠の中央ホール、華麗なロココ調装飾の三越劇場、アールデコ意匠の特別食堂など、各時代の先駆的な意匠を採用し、全体として極めて質の高い空間を創出しており、意匠的に優秀であると評されております。




入口の両側には三越の象徴であるライオンのブロンズ像が置かれています。ライオン像の台座に三越の由来を記したプレートが埋込まれています。

三越本店

三越は、延宝元年(1673年)に「越後屋」として創業した。「三井呉服店」を経て、「三越呉服店」となり、大正三年(1914年)には、鉄筋コンクリート造による大規模な百貨店の新築を行った。当時の建物はネオ・ルネッサンス・スタイルの壮麗な建築で、5階建一部6階、中央部に5階まで吹き抜けのバロック的大空間をもっていた。その後、震災で損傷し、昭和二年に復興するが、更に昭和十年全館の増改築が完成し、現在見られるような規模となった。建物中央部の吹き抜けホールは、アーチ状の天窓からの光りがホール全体を照らし、5階までの各階にはバルコニーがめぐり、アール・デコ風のデザインが目につく。そこに展開する装飾性豊かな空間は見事である。




三越本店の角から江戸桜通りに入ります。



江戸桜通りの右手に、日本銀行本店本館・別館の古めかしい建物があります。元々この地には金貨を鋳造する金座の長を代々務めていた後藤家の屋敷がありました。しかし、慶応四年(1868年)4月17日に金座と銀座は明治新政府に接収されることになり、太政官に設けられた貨幣司の下、十四代目の後藤吉五郎光弘が二分判などの貨幣の製造を取り仕切りました。明治二年2月5日(1869年)には貨幣司も廃止されて金銀座関係者は解任されてしまいました。明治四年5月の新貨条例実施もあり、明治五年(1872年)4月に吉五郎光弘は大蔵省から本町の後藤屋敷から退去するよう命じられ、建物は解体されることになりました。本館の設計は辰野金吾で、ベルギー国立銀行を参考にして明治二十九年(1896年)2月に竣工しました。



日本銀行本館の向かいに、貨幣博物館があります。貨幣博物館は、日本銀行創立100周年を記念して昭和五十七年(1982年)に設置され、昭和六十年(1985年)11月に開館しました。館内には古代から現在に至るまでの「日本の貨幣史」・世界の貨幣・紙幣を紹介する「さまざまな貨幣」・「テーマ展示コーナー」から構成されています。発掘された貨幣や、軍票・記念硬貨などが順路毎に約3000点展示されています。また、1億円分の紙幣の重さを体験出来るコーナーもあります。展示物は、日本銀行が収集してきた日本と国外の貨幣類、それに田中啓文から寄贈された「銭幣館コレクション」が元になっています。



一石橋で日本橋川を渡り、外堀通りを進みます。2022年1月に訪れた際は通行可能でしたが、2025年1月に再訪した際には橋の撤去作業が始まっていました(車道は通れるようですが、歩道は閉鎖されて迂回するようになっています)。



三井住友銀行の前に鉄骨が展示されています。

時をつなぐ
旧日本相互銀行本店ビルの鉄骨柱梁接合部(実物)

日本相互銀行(三井住友銀行の前身行の一つ)は、1952年にこの地に本店ビルを建設しました。設計者は、日本の近代建築の歴史に大きな足跡を残した建築家、前川國男です。旧日本相互銀行本店ビルは、中高層ビルとしてわが国初めての鉄骨造全熔接工法や押出型材アルミサッシュを採用し、外壁PCパネルによる建物の軽量化、工業化を図るなど、現代へとつながる事務所建築の先駆的な役割を果たしました。この建築史・建築技術史のうえで重要な建築がこの地にあったことを伝えるため、解体に際して部材の一部を保存採取し、ここにモニュメントとして設置しました。史料展示室には当時のアルミサッシュやPCパネルの一部を展示しています。




東京駅八重洲口の向かいで超高層ビルが建ち上がっています。「東京駅前八重洲一丁目東B地区第一種市街地再開発事業」として、地下4階・地上51階・高さ約250mという巨大複合施設を建設するとのことですが、2023年9月19日に長さ18m、重さ約7トンもの鉄骨梁1本が何らかの原因で落下し、先行して設置が完了していた7階の鉄骨梁4本も崩落したしました。この事故で作業員2名がなくなり、その後約4ケ月間も工事は中断していました。2024年1月から工事は再開したとのことですが、ビルの骨格に影響はなかったのか心配です。



八重洲中央口前交差点で左折し、八重洲通りを進みます。中央分離帯に中に平和の鐘のモニュメントが建っています。中央区平和都市宣言の一環として設置されたようです。

平和の鐘

中央区は、昭和六十三年(1988年)3月15日に、世界の恒久平和と人類の永遠の繁栄を祈念し、「平和都市宣言」をいたしました。段上の三角形のアーチは、この宣言を記念するモニュメントとして設置したものです。この平和の鐘はオランダ製で、26個のベルによって四季おりおりのメロディを奏でます。
設置 平成元年(1989年)3月15日 東京都中央区




ポイント5 ヤン・ヨーステン記念碑

平和の鐘の手前に、ヤン・ヨーステン記念碑が置かれています。



記念碑の左側には、ヤン・ヨーステンの日本との関わりを記した碑文が刻まれています。

ヤン・ヨーステン 1557年頃〜1623年

慶長五年(1600年)、オランダ船リーフテ号でウイリアム・アダムスらと豊後に漂着した。そのまま日本に留まり、徳川家康の信任を得て、外交や貿易について進言する役目についた。彼の江戸屋敷は現在の和田倉門〜日比谷間の内堀の沿岸に与えられ、この地が彼の名にちなんで八代洲河岸(やよすがし)と呼ばれて、明治まで続いた。現在は中央区の八重洲としてヤン・ヨーステンに因む地名が残っている。
             ヤン・ヨーステン像: オランダ人 L.P.ブラート作

IN HET JAAR 1600 STRANDDE JAN JOOSTEN MET ZIJN SCHIP "DE LIEFDE", SAMEN MET ZUN STUURMAN WILLIAM ADAMS EN ENKELE ANDERE BEMANNINGSLEDEN, OP DE WESTKUST VAN JAPAN, IN DE BUNGO STREEK VAN DE PREFECTUUR OITA. HIJ BLEEF IN JAPAN EN WON HET VERTROUWEN VAN DE SHOGUN IEYASU TOKUGAWA DIE HEM BENOEMDE TOT ADVISEUR VOOR DIPLOMATIE EN BUITENLANDSE HANDEL. IODENSTEUN KREEG EEN WONING TOEGEWEZEN IN EDO. HET TEGENWOORDIGE TOKIO, VLAKBIJ DE BINNENSTE GRACHT VAN HET PALEIS, TUSSEN HET HUIDIGE WADAKURAMON EN HIBIYA. DEZE OMGEVING WERD LATER "YAYOSUGASH" GENOEMD NAAR DE NAAM JAN JOOSTEN, EN BLEEF ZO HETEN TOTDAT ZU IN DE MEIJ PERIODE WERD OMGEDOOPT TOT YAESU IN DE CENTRALE (CHUO) WIJK PORTRET VAN JAN JOOSTEN NAAR EEN BORSTBEELD DOOR DE BEELDHOUWER L.F. BRAAT.




記念碑の右側には、江戸時代のオランダと日本との関わりを記した碑文が刻まれています。

日本とオランダの関係は、ウイリアム・アダムスやヤン・ヨーステンらの米航によって始まった。慶長十四年(1609年)平戸にオランダ商館が設立され(後に長崎に移る)、戦国時代の日本のヨーロッパに対する唯一の窓口になり続けた。オランダがもたらした学術・文物が日本に与えた影響は大きく、明治以後の日本近代化の大きな鍵になった。とくに中央区とオランダとの歴史的な関係も深く、日蘭修380周年を記念してここにモニュメントを設置し、永久にこの友好を保存するものである。

DE BETREKKINGEN TUSSEN JAPAN EN NEDERLAND VINDEN HUN OORSPRONG IN DE ONVOORZIENE AANKOMST IN JAPAN VAN JAN JOOSTEN VAN LODENSTEIJN, WILLIAM ADAMS EN ANDERE BEMANNINGSLEDEN VAN HET SCHIP "DE LIEFDE", IN 1609 WERD TE HIRADO EEN HOLLANDSE HANDELSPOST GEOPEND DEZE WERD IN 1641 VERPLAATST NAAR DESHIMA BIJ NAGASAKI EN FUNKTIONEERDE DAAR ALS JAPAN'S ENIGE UITKUKPOST IN DE RICHTING VAN EUROPA GEDURENDE HET ISOLATIONISTISCHE BELEID VAN HET SHOGUNAAR DE HOLLANDSE WETENSCHAP HEEFT EEN GROTE INVLOED UITGEOEFEND OP JAPANSE GELEERDEN EN VORMDE DE BASIS VOOR DE MODERNISERING VAN JAPAN DIE VOLGDE OP DE MENI RESTAURATIE. MET NAME DE BANDEN TUSSEN DE WIJK CHUO EN NEDERLAND ZIJN ZEER HECHT EN TER HERINNERING AAN HET 380-JARIC BESTAAN VAN DE VRIENDSCHAPPELIJKE RELATIE TUSSEN JAPAN EN NEDERLAND DEAGEN WIJ DIT MONUMENT OP AAN HET EEUWIG VOORTDUREN VAN DEZE VRIENDSCHAP.




ゴール地点の東京メトロ日本橋駅に着きました。



ということで、中央区で四番目の「Course4.日本橋 「川」を辿って歴史再見」を歩き終えました。次は中央区で五番目のコースである「Course5.月島 水の都の「いま」「むかし」」を歩きます。




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