- Course5.月島 水の都の「いま」「むかし」
- コース 踏破記
- 今日は中央区の「Course5.月島 水の都の「いま」「むかし」」を歩きます。月島駅から地元の信仰篤き住吉神社に詣で、石川島公園を経て、最後はもんじゃストリートの壮観さに驚嘆します。最初に歩いたのは2022年の2月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年1月に改めて歩きました。
Course5.月島 水の都の「いま」「むかし」
「Course5.月島 水の都の「いま」「むかし」」の歩行距離は約2.8km(約4、000歩)、歩行時間は約42分、消費カロリーは約126Kcalです。
スタート地点:東京メトロ月島駅出入口6
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- ポイント1 佃小橋
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朱色の欄干が際立つ佃小橋とリバーシティの高層マンション。古風な趣とシティライフがミックスしています。
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- ポイント2 住吉神社
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江戸の昔から海上安全、渡航安全の守護神として信仰を集める、月島エリアの氏神様です。
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- ポイント3 佃公園
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公園の正体はスーパー堤防。石川島燈台のモニュメントや「和」をモチーフにした広場があります。
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- ポイント4 石川島公園
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月島エリアの「尖端」、緩やかな傾斜の芝生が広がる長細いタイプの公園です。
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- ポイント5 月島もんじゃストリート
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東京下町グルメの定番「もんじゃ焼き」のお店が軒を並べる食の人気スポットです。
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ゴール地点:東京メトロ月島駅出入口7
スタート地点の月島駅出入口6から歩き始めます。
佃大橋に向かって佃大橋通りを進みます。高架部分は新月陸橋になっていますが、この陸橋はかって佃と月島の間を流れていた佃川の流路跡地に造られたものです。佃川は佃大橋の完成によって埋め立てられましたが、その支流である佃川支流は残されました。佃川から逆L字型に隅田川に繋がっていた佃川支流は佃堀となり、その佃堀を囲むようにして佃公園があります。
佃堀は隅田川と繋がっていますので、満潮の時は水で満たされ、干潮の時は干潟が出現し、多様な生物の住みかとなっています。
佃堀と潮の満ち引き
川が海に流入する河口部では、川は潮の満ち引きの影響を受けます。また、そこは海水と淡水が混じりあう区間でもあり、両方の水に対応することのできる生物が住んでいます。ここ、隅田川河口沿いに位置する佃堀でも水位の変動が見られ、この場所ならではの自然環境の中で様々な発見が出来ます。
満潮・干潮のしくみ
海面の水位(潮位)は約半日の周期でゆっくりと上下に変化しています。この現象を「潮汐(潮の満ち引き)」といいます。潮汐が起こる主な原因は、月が地球に及ぼす引力と、地球が月と地球の共通の重心の周りを回転することで生じる遠心力を合わせた「起潮力」です。地球と太陽との間でも、同じ理由でやや小さい起潮力が生じます。下図のように、起潮力は地球を引き伸ばすように働くと、潮位の高いところと低いところができます。潮位が上がりきった状態が「満潮」、反対に下がりきった状態が「干潮」です。
大潮・小潮とは
地球に対して月と太陽が直線上に重なるとき、月と太陽による起潮力の方向が重なるため、1日の満潮と干潮の潮位差が大きくなります。この時期を「大潮」といいます。月と太陽が互いに直角方向にずれているときは、起潮力の方向も直角にずれて、互いに力を打ち消す形となるため、満干潮の潮位差は最も小さくなります。この時期を「小潮」といいます。大潮と小潮は、新月から次の新月までの間にほぼ2回ずつ現れます。新月と満月の頃には大潮、上弦の月と下弦の月の頃には小潮になります。
潮の満ち引きと生物との関係
潮の満ち引きによって満潮の時には水の中になり、干潮の時には干上がったりする場所ができます。その場所のことを「潮間帯」といいます。潮間帯は海と陸の境界にあたる部分で、豊富な生物のすみかになっており、佃堀でも見ることができます。
左が満潮時、右が干潮時の佃堀の様子です。
佃堀に面して、波除稲荷神社があります。波除稲荷神社の創建年代は不明ですが、災難を除き、波を乗り切るという波除の稲荷様として、災難除け・厄除け・商売繁盛・工事安全などの御利益があります。鳥居の扁額には「波除・於咲稲荷大明神」と書いてあります。ひとつの鳥居を共有してふたつの神社が祀られているのです。
鳥居の脇に、漁業に従事する佃島の若い衆が力比べで使った「さし石」と呼ばれる3個の力石があります。
- ポイント1 佃小橋
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佃小橋は、正保元年(1644年)、佃島が築造されたころに架けられたとされています。現在の橋は昭和五十九年(1984年)に完成しました。側面にはアーチ状の石張りが施され、朱塗りの高欄と擬宝珠(伝統的な建築物の装飾で、橋や神社・寺院の階段・廻縁の高欄・欄干の柱の上に設けられている飾り。ネギの花に似ていることから「葱台」とも呼ばれます。)により古風な雰囲気が感じられます。
佃小橋の下の佃川支川の川底には、3年に1度行われる住吉神社の例大祭に用いる「抱木(大幟の柱)」が保存のため埋設され、例大祭の際には掘り起こされます。橋の中央部付近の水中に立っている高札には、佃住吉講によってこのことを知らせる案内文が記されています。
此の場所には、江戸時代後期寛政拾年(1798年)徳川幕府より建立を許された大幟の柱・抱が、埋設されておりますので立入ったり掘り起こしたりしないで下さい。
佃住吉講
佃小橋を渡ってから右折し、路地に入ります。その先に住吉神社の脇入口があります。
- ポイント2 住吉神社
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天正年間(1573年〜1592年)に徳川家康が上洛し、摂津国西成郡佃村(現在の大阪市西淀川区佃)にある住吉神社に参詣した際、佃村および近隣の大和田村の漁民が神崎川に渡し船を出して家康一行を運び、白魚などを献上しました。これを機縁として、両村の漁民は家康から西国海上隠密の用を受けたり、大坂の陣の際には軍船や魚の調達をするなどしました。これに対し、家康は両村の漁民に恩賞として全国での漁業権を与えました。天正十八年(1590年)8月1日に徳川家康が関東に下降した際、佃村および大和田村の漁夫33人と神主平岡権大夫好次が江戸に移り、正保二年(1645年)には江戸鉄砲洲向かいにある百間(約180m)四方の干潟を幕府から下賜された漁夫らがこれを埋め立てて築島し、永住することになりました。この島を故郷の摂津国佃村にちなんで「佃」(島は「佃嶋」、村は「佃村」)と命名し、正保三年(1646年)6月29日には、息長足姫命(神功皇后)と東照御親命(徳川家康の霊)の分霊を奉遷し、摂津国佃の住吉社(現在の田蓑神社)の分霊(住吉三神:底筒男命・中筒男命・表筒男命)とともに祀るべく、住吉神社が創建されました。
鳥居に掲げられている扁額は、全国でも珍しい陶器製で、有栖川宮幟仁親王の揮毫によるものです。
水盤舍の欄間には佃島の風景が彫られています。
住吉神社の水盤舎・陶製扁額
住吉神社は江戸初期に、摂津国西成郡(大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、正保三年(1646年)に現在地に創建された佃島の鎮守です。当社は、創建以来、佃島の鎮護のみならず、水運関係の人々から厚い信仰を受けてにぎわいました。水盤舎は欅材の切妻造、瓦葺きの建物です。明治二年(1869年)に再建され、同四十四年に改築されました。水盤舎の欄間は、明治二年再建時のものを使ったと推定されています。欄間の正面には石川島の灯台と佃の渡し、側面には帆をはった回船や網をうつ小舟、背面には磯の景色、また内側にも潮干狩など、佃島の風景が彫られています。石造の水盤には「天保十二年(1841年)白子組」と見え、木綿問屋組合が寄進したものです。
正面鳥居の上にある扁額は、珍しい陶製で、白地に呉須で額字や雲文を染付けています。明治十五年(1882年)六月に制作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁親王です。
水盤舎と陶製扁額は、共に中央区民有形文化財に登録されています。
拝殿には、住吉神社の縁起が記された額が掛かっています。
住吉神社略縁起
御祭神 底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命(住吉三神)
息長足姫命(神功皇后) 東照御親命(徳川家康)
例祭 八月六日
「西の海阿波伎の原の潮路より顕われ出でし住之江の神」と卜部兼直の和歌にあるように住吉大神は、遠き神代の昔、筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原に於いて顕われた伊邪那岐大神の御子、底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命の三柱の神です。神功皇后三韓征伐の際、皇后自ら御親祭をなさり住吉三神の御守護により無事達成なさりました。その帰途、摂津国西成郡田蓑島(大阪佃)にお寄りになり住吉三神を遥拝になりました。これが大阪佃の住吉の社(田蓑神社)の起源です。遥か後、天正年間に徳川家康公が摂津の多田の廟に参詣の時、田蓑島(大阪佃)の漁夫達が漁船をもって神崎川の渡船を勤めた由縁で家康公がこの島の住吉の社(田蓑神社)にも参詣し、家康公の漁業の傍ら田も作れとの事で、村名を田蓑から佃に改めさせました。そして田蓑の名を残すため社名を住吉神社から田蓑神社へと改めました。天正十八年(1590年)家康公が関東下降の際、家康公の命により摂津国佃の漁夫三十三人と住吉の社(田蓑神社)の神職平岡正大夫の弟、権大夫好次が分神霊を奉職して江戸に下り、寛永年間に幕府より鉄砲洲向いの干潟を賜り、築島工事を起こし、正保二年に竣工し、元の名から佃島と名付け、住吉明神の社地を定めて、正保三年(1646年)六月二十九日、住吉三神、神功皇后、徳川家康公の御霊を奉遷祭祀しました。これが佃住吉神社の起こりです。佃島は江戸の入り口に位置し、海運業、各問屋組合をはじめ多くの人々から海上安全、渡航安全の守護神として信仰を集めました。その後、月島、勝どき、豊海、晴海と埋め立てが行われ、その地域の産土神(氏神)として信仰されています。
2025年は巳年ですが、拝殿の脇に「龍神社」という境内社があります。初詣に赴くと何かいいことがありそうです。
龍神社
文政五年住吉神社の境内に水を司る神、龍姫大神(豊玉姫神)が龍神社として創建されました。その後佃島に白蛇が現れ、人々はこれを龍神(於迦美大神)と崇め佃の町の中に祠を建てて祀りました。しかしこの祠は漁師が綱を渋釜で煮る作業場の近くにあったため火熱の害を受け易く、あら時綱元の夢枕に祭神が現れ、住吉神社の境内へ移りたいとの神託(神のお告げ)がありました。これを受けて天保九年(1838年)に住吉神社境内社の龍神社に合祀されました。翌年になると日本橋老舗白木屋の守護神として祀られていた大弁財天の御神徳が大き過ぎるため、持ちきれず龍神社へと合わせて祀られました。龍神社と大弁財天を合わせて「龍王弁財天」とお呼びするようになり、今日では開運出世・金運上昇・商売繁盛・学業成就・芸能達者・病気平癒の御神徳を持つ神として崇敬を集めています。また弁財天の縁日が「巳の日」であることから、多くの方々がこの日に参詣しました。現在龍神社の例祭は「さくら祭り」期間中の三月下旬頃行われます。
已成金
龍神社の出世開運・金運上昇のお守りとして年間を通して頒布されています。持つ人の身(巳)に福・金運が訪れるよう祈願されたお守りです。
巳の守
毎年初めの龍神社の縁日である「初巳の日」に頒布されるお守りです。年の初めにその年一年間の個人や家庭の徳・出世・開運を導くお守りです。
元禄七年(1694年)、佃嶋(現在の佃一丁目)に居住する男子からなる講組織「佃嶋氏子中」が河上正吉らによって結成されました。その後、幾多の火災風災に見舞われながらも、氏子信者の結束によって講は維持され、昭和二十二年(1947年)には講組織が「佃住吉講」と改称され、各町会・連合睦会と協力して、3年に一度の例祭(神幸祭)を執り行うようになりました。獅子頭宮出し・宮神輿宮出し・古くから行われていた神輿の海中渡御と船渡御は昭和三十七年(1962年)に廃止されましたが、平成二年(1990年)に28年ぶりに船渡御が復活し、現在でも例祭中最も重要な行事のひとつとされています。特に、住吉神社が所有する神輿は関東では珍しい八角形のもので、「八角神輿」・「八角」などと呼ばれています。また、古来からこの祭りの際には高さ20mに及ぶ6本の大幟が佃島に立ちますが、江戸城からも見えるとまでいわれたその大きさで見る者を圧巻させてきました。
旧神輿庫
形状: 煉瓦二階建(イギリス積み)
坪数: 四坪五合八勺
竣成: 明治四十三年十二月
費用: 八百六十円
住吉神社では明治四十三年(1910年)に大規模な修繕・改築等を行い、その事業の一環としてこの神輿庫が新築されました。当時東京府へ提出した工事開始願書には、神輿庫について左の様に記されています。
神輿庫ノ儀ハ従来神輿ヲ拝殿ノ一隅二置キ候為二平時甚タ不便ヲ感シ候二付今回新築致シ神輿ヲ納置量致シ度(後略)
明治四十三年十一月二十五日
(意訳)
神輿庫については、今まで神輿は拝殿の隅へ置いてあり、その為普段大変不便を感じていたので、この際新築して、ここへ神輿を納めようと思います。
神社境内にレンガ造りの神輿庫は当時から珍しいものだったかも知れません。平成二十三年の震災で破損致しましたが、貴重な歴史的建築物として、補強工事を行い現在も使用されています。尚、宮神輿(八角神輿)は現在、社殿に向かって右側のコンクリート造りの庫に安置されており、こちらのレンガの庫はその他の祭具が納められています。
左は、歌川広重「名所江戸百景」の中の「佃しま住吉乃祭(佃島住吉の祭)」の浮世絵で、幕末期に未だ行われていた海中渡御の様子が描かれています。手前の幟は「住吉大明神」と読めます。右は、住吉神社の八角神輿です。
佃堀が隅田川に合流する地点には住吉水門が設置されています。住吉水門は1965年に完成し、通常時は船舶が通航するために開放していますが、高潮あるいは津波時には周りの月島川水門・浜前水門などと共に閉鎖され、佃・月島などの防潮堤で囲まれた地域の住民の生命や財産を守ります。住吉水門・月島川水門は建設局が、浜前水門・朝潮水門・佃水門は港湾局が管理しています。
住吉小橋を渡って佃公園に入ります。中央区には「小橋」という橋名が多いですね。
- ポイント3 佃公園
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佃公園は、中央大橋の南側に位置する細長い公園で、リバーシティ21の開発によるスーパー堤防の上部を利用して整備されました。園内には、幕末に築かれた灯台を復元した石川島灯台や友好都市山形県東根市から贈られたサクランボの木があります。公園内には桜も多く植えられていて、桜の名所としても知られています。また、公園に隣接して佃堀があり(この部分はジャリ公園と呼ばれています)、周辺の佃の街並みが下町風情を醸し出しています。佃公園は夜景の名所として知られています。この夜景は、大川端リバーシティ21などの超高層マンションの灯や、石川島灯台・中央大橋・東京スカイツリーなどのライトアップによるものです。
隅田川を見下ろす石垣の上には、石川島灯台が復元されています。
石垣の足元には石が山積みになっています。雉子橋から佃までどのような経緯で運ばれてきたのか不思議です。一部は佃公園の庭園の造成に利用されたのかな?
石の由来
ここに使用してある石は、昭和六十年東京都が日本橋川右岸改修工事をした際、雉子橋付近から発生した石垣の一部です。徳川幕府は慶長十年(西暦1605年)第二期江戸城建設にあたり、江戸城およびお濠の石垣排取輸送を中国、四国、九州の三十一大名に命じました。石の大部分は伊豆半島の東海岸から切り出され江戸まで運ばれましたが、石の切り出し、海岸までの輸送、陸揚げ等一連の作業は困難をきわめ、たいへんなお金と労力と犠牲がはらわれています。また石には、各大名、組頭、石工等のものと思われる紋や目印等が刻まれているものもあります。
燈台の脇に、佃島の誕生の経緯を記した案内板が立っています。「石川島人足寄場」は、「鬼の平蔵」として知られた長谷川平蔵の建策により、1790年に石川島の地に設置された、無宿人等を収容して職業指導を行なう施設です。明治中期以降は、石川島造船所(現在の石川島播磨重工業)の敷地になりましたが、工場は1979年に閉鎖され、その跡地は「大川端リバーシティ」の高層ビル群に生まれ変わりました。
佃島と石川島の灯台
佃島は摂津国西成郡田村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁師達が幕府の許可を得て築造した漁村である。家康が天正十年(1582年)、京都から堺の地に遊んだ時、本能寺の変が伝えられ、急遽踵を返して間道を通り抜け大阪に向かったが、出水のため途方にくれている時に佃村の庄屋孫衛門が多数の舟を出して一行を助け、ここに徳川家と佃島漁民の間に固い絆が結ばれることになった。その後、家康が江戸に幕府を開くにあたり、佃村の漁師に対する恩賞として彼らに幕府の御菜御用を命ずべく、老中安藤対島守を通じて、その出府を促し、慶長十八年(1613年)には「網引御免証文」を与え、江戸近海において特権的に漁が出来るようになった。正保元年(1644年)には現在の地に百間四方の土地を埋立てて築造し故郷摂津国の住吉神社の分霊を奉祀し、島の名を佃島と命名した。石川島の灯台は慶応二年(1866年)、石川島人足寄場奉行清水純畸が、隅田河口や品川沖航行の船舶のため、油絞りの益金を割き、人足の手で寄場南端に常夜灯を築かせたもので六角二層の堂々たる灯台であった。この完成を最も喜んだのは近在漁師であった。このたび佃公園を整備するにあたり、モニュメントとして灯台を建設するとともに、護岸前面に安藤広重の浮世絵をレリーフしたものを3題設置して往時をしのぼうとするものである。
女の子の石像横の階段から隅田川テラスに下ります。
護岸壁に、安藤広重の浮世絵をレリーフにした銅板が貼られています。
左端は住吉神社の例大祭に用いられた「大幟」、中央は「石川島の灯台」、右端は富嶽三十六景の「東都佃沖」と思われます。
中央大橋は、平成六年(1994年)1月に開通し、隅田川に架かる橋で平成時代に初めて建造された新規の橋です。隅田川はフランスのセーヌ川と平成元年(1989年)に友好河川を提携していて、中央大橋を架橋する際にはフランスのデザイン会社に設計を依頼しました。そのためか、主塔と欄干部分に日本の「兜」を意識した特徴的な意匠が施されています。
- ポイント4 石川島公園
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中央大橋を越えた先から石川島公園が始まります。石川島公園は、大川端リバーシティ計画により整備された公開空地と一体的に整備されました。
石川島公園には、フランスと日本の児童250人が参加して作成した記念碑「友情から未来へ」が設置されているパリ広場などがあります。
パリ広場記念碑「友情から天来へ」
Le monument commemoratif de la Place de Paris "L'Amitie pour Avenir".
The commemorative monument of the Paris Square "Friendship for the Future"
1996年、日本とフランスは21世紀へ向けて、両国の友好と交流の更なる発展を祈念し、「日仏21の活動計画」を採択しました。1997年にフランスは「フランスにおける日本年」を催し、パリ16区に「東京広場」を設置しました。続いて、1998年には日本で「日本におけるフランス年」が実施され、1999年10月には東京都中央区に「パリ広場」が開設されました。このモニュメントは「パリ広場」の記念碑として中央区内に学ぶ日本とフランスの児童250人が参加して制作されたものです。友情と未来をテーマに児童が描いた絵は、250枚の陶板に焼き付けられ、全体のデザインは無限大を表しています。これは日本とフランスの友好、更に世界平和、そして子どもの友情と未来は無限であれ、という願いを象徴するものです。
参加校
リセ・フランコ・ジャポネ明正校
中央区立明正小学校
中央区立城東小学校
中央区立佃島小学校
寄贈者 日本におけるフランス年文化記念展実行委員会/日仏児童によるモニュメントを応援する会
形態・縦5m 横10m 高さ5m/素材・陶板、金属
広場を囲む照明がパリっぽいですね。
石川島公園は、都市公園コンクールで「建設大臣賞」を受賞しています。
佃に位置した石川島に1853年に創設された石川島造船所は、現在の石川島播磨重工業(IHI)の母体となりました。堤防上の遊歩道脇に、記念碑が置かれています。
日本初の民営洋式造船所発祥の地
米国ペリー艦隊が来航した嘉永六年(1853年)幕府の命を受けた水戸藩がこの地に石川島造船所を創設した。同造船所は洋式帆装軍艦「旭日丸」をはじめ、日本人によって設計、建造された最初の蒸気軍艦「千代田形」など数多の艦船を次々と建造、造船技術を通じてわが国産業の近代化に大きく貢献した。明治維新後の明治九年(1876年)平野富二によりわが国初の民営洋式造船所として再スタートし、その後明治二十二年(1889年)には渋沢栄一などの協力により会社組織となり、有限責任石川島造船所、株式会社東京石川島造船所の社名の下、明治から大正・昭和にかけて、多くの軍艦・商船を世に送り出してきた。この地での造船事業は昭和十四年(1939年)造船部門の東京深川区豊洲への移設によって幕を閉じた。その後、石川島重工業株式会社、石川島播磨重工業株式会社と社名が変更される中で、当地は日本屈指の重機械類の専門工場として活躍してきたが、昭和五十四年(1979年)の工場大移転により、その長い歴史を終えた。
相生橋は隅田川派川に架かる橋で、上流の永代橋に相対する橋として名付けられました。形式は、大正八年に市電を通すため改築した先々代の橋の姿にならい、トラス橋としました。トラス橋は、細長い部材を三角形に組みたでて橋桁とした橋です。新しい相生橋は、隅田川や中の島公園とともに多くの人々の憩いの場として親しまれるよう整備されました。橋の長さは149.1m・幅員36.8mです。平成十年12月19日に全線開通しました。
相生橋
佃島が埋立てられて月島となって人々が住む町が開けるとともに、交通の便や水道が必要になった。そこでまず深川との間にこの相生橋が架けられた。明治三十六年(1903年)のことであった。その後改修され、中の島で大橋と小橋とに分かれるようになった。隅田川がここで左右に大きく分岐するところの左側にあたっていて、川が湾曲するするため、上流から流れてきたものが滞留したところである。関東大震災の時も、今次の大戦の空襲のあとにも、さまざまなものが山のように集まった。ことに震災の時までは木橋であったため、橋も延焼した。現在の橋は、大正十五年(1926年)11月に、 震災復興事業の最初の架橋として完成した。
相生橋を越えて、堤防に沿って遊歩道を進みます。
Quiz Spot
ここには、かって「○○館」があり、今は石碑が建てられています。○○にはどんな文字が入りますか?
遊歩道脇に古風な石碑が建っています。
海水館は、1905年に坪井半蔵によって建設されました。当時の月島は東京湾を臨む風光明媚な地で、海岸に面した松林の多い所でした。閑静な地であるため、明治末期から大正年間にかけて島崎藤村を始め、小山内薫・吉井勇・三木露風など多くの文学者たちの執筆場所として利用されました。島崎藤村は1907年から約1年間に亘ってここで自伝小説「春」を執筆しました。
海水館の碑
ここは明治二十九年(1896年)に完成した新佃島埋立地の一部で、房総の山々を望むことのできた閑静な景勝地でした。ここに明治末から大正年間にかけて多くの文化人が集った海水館がありました。海水館は坪井半蔵によって明治三十八年に開業した割烹旅館兼下宿で、当時の京橋区新佃島東町一丁目二十六、二十七番に建設されました。島崎藤村は明治四十年から翌四十一年にかけて海水館に止宿して自伝小説「春」を朝日新聞に連載し、小山内薫は明治四十二年から四十四年にかけて止宿して「大川端」を読売新聞に連載しました。他にも荒畑寒村・木下杢太郎・佐藤惣之助・竹久夢二・日夏耿之助・三木露風・横山健堂・吉井勇ら多くの作家・芸術家が利用し創作活動を行ないました。この碑は昭和四十三年(1968年)、藤村の母校である明治学院大学の藤村研究部によって建てられたもので、裏には「春」の執筆由来の記が記されています。
Monument of "Kaisuikan"
This spot is a part of Shin-tsukudajima reclamation site completed in 1896. At that time, this area was very quiet and scenic spot, so there was a Japanese hotel and boarding house, named "Kaisuikan" established by Tsuboi Hanzo in 1905. From the end of Meiji period to Taisho period, many cultural figures stayed Kaisuikan, for example, Shimazaki Toson stayed the boarding house and serialized an autobiographic novel "Haru" (Spring) in Asahi newspaper from 1907 to 1908, and also Osanai Kaoru stayed and serialized a novel "Okawabata" (By the Banks of the Great River) in Yomiuri newspaper from 1909 to 1911. In addition, Arahata Kanson, Kinoshita Mokutaro, Sato Sonosuke, Takehisa Yumeji, Hinatsu Konosuke, Miki Rohu, Yokoyama Kendo, Yoshii Isamu, and others stayed and produced their works. This monument was built by Toson research club of Meiji - Gakuin University in 1968.
裏面は読み取れませんでした。
- ポイント5 月島もんじゃストリート
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東京を代表する粉もの料理といえば「もんじゃ焼き」ですね。駄菓子屋文化から普及していったとされ、昭和の風情が残る月島の西仲通り商店街(通称:月島もんじゃストリート)には現在約80軒ものもんじゃ焼き店が集結しています。もんじゃ焼きのルーツは、江戸の屋台で親しまれていた「文字焼き」に辿り着きます。文字焼きとは、小麦粉と砂糖を水で溶いて鉄板で焼いた食べ物です。これが訛って、いつしか「もんじゃ焼き」と呼ばれるようになったといわれています。これは現代のもんじゃ焼きとは異なる食べ物で、子ども向けの甘いおやつでした。江戸では広く浸透していたようで、葛飾北斎の「北斎漫画」にも屋台で文字焼きをつくる職人の姿が描かれています。鉄板に生地をたらして文字を書いて見せた職人もいたそうで、それが文字焼きの語源になったとする説もあります。明治時代になると、駄菓子屋でも文字焼きを提供するようになります。客が自由に焼ける店も現れ、駄菓子屋はさながら子どもたちの社交場になりました。ひとつの鉄板を囲んでにぎわう光景は、現代のもんじゃ焼きに通じるものがあります。大正時代になると、文字焼きから派生した「どんどん焼き」が登場します。こちらは生地の水分が少なく、具沢山でした。文字焼きよりも腹持ちがよく、屋台で購入できる気軽さから東京で食べ歩きが流行しました。そのブームが関西に渡ると、どんどん焼きにウスターソースを塗った「一銭洋食」に発展し、モダンな味が好評を博して今日の「お好み焼き」の基礎を築いたとされています。関西に定着したお好み焼きでしたが、東京の駄菓子屋はお好み焼きのエッセンスを逆輸入して、文字焼きに取り入れ始めました。さくらえび・いか・キャベツなどを混ぜた文字焼きが増えていき、これまでの「甘い食べ物」とは別の道へ進み、現代のスタイルに近づいたのは戦後からだとする説もあります。月島でもんじゃ焼きが食べられるようになったのは、明治期以降のことです。月島は明治後期から工業地として発展し、労働者を受け入れるための長屋が急増しました。渡し船の船着場に近かった西仲通りを中心に商店街が自然発生的に形づくられていき、戦前から戦後にかけて路地裏に駄菓子屋が増え、子ども向けのもんじゃ焼きが提供されるようになったのです。1950年代の月島にはもんじゃ焼き店は4軒しかありませんでしたが、1980年代からテレビや雑誌などのメディアで紹介され、1990年代にはもんじゃストリートができあがっていました。月島もんじゃ振興会は1997年に設立され、2002年に共同組合化して。現在は50軒を超える店が加盟しています。
もんじゃストリートには、壱番街から四番街まで4つの区画に分かれています。
「海鮮もんじゃ もへじ」は、創業150年の老舗で古くから地元の人に愛されています。こだわりのもんじゃの出汁は8種類の海鮮からとっているので旨味がすごく凝縮されています。「月島名物もんじゃ だるま」は、昭和初期の築80年の古民家をリノベーションした店内で東京の下町情緒を感じながら、美味しいもんじゃを頂くことができます。「もんじゃ しなのや」は、もんじゃの味の決め手となる出汁に拘っていて、厳選された鰹節や昆布などを使用して、あっさりとしていますが、深い味わいが口の中に広がる和風味の出汁になっています。
ゴール地点の東京メトロ月島駅に着きました。コースマップでは、ゴール地点は「月島駅出口2」と書いてありますが、月島もんじゃストリートの終端(始点)は「月島駅出口7」に直結しています。「月島駅出口2」は遠く離れた清澄通り上にありますので、恐らく、誤植によって「7」が「2」になったのではないかと思われます。字体が似てますもんね。
ということで、中央区で五番目の「Course5.月島 水の都の「いま」「むかし」」を歩き終えました。次は中央区で六番目のコースである「Course6.月島 運河の橋から街を眺めて」を歩きます。
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