- Course7.日本橋川・隅田川 橋と光の競演
- コース 踏破記
- 今日は中央区の「Course7.日本橋川・隅田川 橋と光の競演」を歩きます。竜閑さくら橋北詰から日本橋川沿いの外堀通りに進み、蛎殻町交差点で水天宮に向かい、隅田川テラスを経て八丁堀駅に至ります。川と橋の眺めを楽しみますが、日暮れ時だと、都会の幻想的な夜景が楽しめることでしょう。最初に歩いたのは2022年の2月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年1月に改めて歩きました。
Course7.日本橋川・隅田川 橋と光の競演
「Course7.日本橋川・隅田川 橋と光の競演」の歩行距離は約4.3km(約6、100歩)、歩行時間は1時間約4分、消費カロリーは約192Kcalです。
スタート地点:竜閑さくら橋北詰
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- ポイント1 竜閑さくら橋
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神田と大手町を繋ぐ新しい歩行者橋。橋と並走する電車とオフィスビル群が見られる小さな広場もあります。
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- ポイント2 日本橋
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誕生から100年を超えた石造りの2連アーチ橋。橋の装飾には西洋と東洋の雰囲気がミックスされています。
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- ポイント3 永代橋
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鋼製の雄々しいデザインは関東大震災からの復興の象徴。
※工事により2020年3月末までライトアップ休止中。
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- ポイント4 南高橋
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都内最古の鋼鉄トラス道路橋は旧・両国橋の一部を移設したもの。土木学会選奨土木遺産です。
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ゴール地点:八丁堀駅出入口B4
スタート地点の竜閑さくら橋北詰から歩き始めます。
- ポイント1 竜閑さくら橋
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大手町プレイス開業の約半年前の平成三十年(2018年)3月23日に、大手町プレイスの北側に「竜閑さくら橋」が開通しました。この橋は、大手町プレイスの再開発事業の一環で、日本橋川に架けられた大きな歩行者専用橋です。今まで、大手町・神田地区は日本橋川で分断されていたため、川を渡るのに数十〜数百メートル離れた一般道まで大きく迂回する必要がありました。竜閑さくら橋が開通したことで、大手町と神田間の行き来がとても便利になりました。竜閑さくら橋は幅7m・全長は約120mもあり、かなり大きな歩行者専用橋です。竜閑さくら橋にはガラス張りのエレベーターが設置されていて、ベビーカーや車椅子の方も安心して利用できるバリアフリー対応になっています。
橋の名前は、この付近に存在した川や橋に、「竜閑(龍閑)」という名称が使われていたことに由来し、公募によってこの地域の歴史に基づいた由緒正しい名前が付けられました。橋の高さはJRの鉄道橋とほぼ同じで、高速道路が橋の上下に分岐する間に設けられています。そのため、橋からはJR中央線や山手線・京浜東北線・新幹線の車輛が通過する様子を見られ、鉄道ファンにも人気のスポットです。また、川沿いの遊歩道には桜が植えられているので、春は橋からお花見も楽しめます。暗くなると橋の柵部分に設置された照明が灯り、大手町らしいお洒落で先進的な雰囲気になります。
日本橋川と並行する外堀通りを進みます。日本橋川に新常磐橋が架かっています。新常盤橋は、大正九年(1920年)に路面電車(市電)の開通に合わせて架けられた3連アーチ橋です。都電17系統(池袋駅〜数寄屋橋)と都電31系統(三ノ輪橋〜都庁前)が交差する場所でした。昭和六十三年(1988年)の東北新幹線の高架建設に伴って架け替えられ、現在に至っています。
新常磐橋のはす向かいに、日本銀行本店の新館の建物があります。地上10階・地下5階建・延べ床面積92、439u・SRC造で、着工から7年の歳月を経て1973年に竣工しました。施工は、スーパーゼネコンの大林組・鹿島建設・清水建設・大成建設・竹中工務店が担当しました。日銀新館は、日本唯一の中央銀行である日本銀行の中心施設で、金融政策を決定する政策委員会室やディーリングルーム、そして営業窓口などがあります。国立印刷局で刷られた紙幣は、まずこの新館内にある金庫に収められるそうです。新館の隣には、日本銀行本店の本館があります。本館の設計は辰野金吾で、ベルギー国立銀行を参考に明治二十九年(1896年)2月に竣工しました。明治二十四年(1891年)に発生した濃尾地震の教訓から、高橋是清の指示で建物上部を軽量化して耐震性を高めることが決定され、2階3階は煉瓦造石貼りに変更されたました。明治二十九年(1896年)には、貨幣運搬用として水圧式荷物用エレベーター(オーチス製)が設置されましたが、これは日本では2番目(凌雲閣が日本初)で、海外製としては初の導入事例でした。
旧常磐橋は、日本橋川に架かり、常盤橋公園から日本銀行側に通じる橋です。最初の橋は天正十八年(1590年)に架けられた木橋といわれ、三代将軍家光の頃までは大橋とも浅草口橋とも呼ばれていました。改名の上意を受けた町年寄奈良屋市右衛門は、寄宿の浪人から「常磐」の名を得てこれを献上しました。それは「金葉和歌集」の「色かえぬ松によそえて東路の常磐の橋にかかる藤浪」の意であるといわれています。現在の石橋は、枡形に用いた石を使って、明治十年(1877年)に木橋から石造りの2連アーチ橋に架け替えられましたが、石造りとなったからか、「わ」の字が「皿:盤」から「石:磐」に変わりました。実際は、洪水で橋が壊れたり流されたりするのが当たり前だった時代、「盤」の字が「皿が割れる」ことを連想させ、縁起が良くないと考えられていたからだそうです。石なら簡単には壊れませんからね。旧常磐橋は、都内に現存する最も古い石橋といわれています。
しかし、平成二十三年(2011年)に発生した東日本大震災によって橋の輪石が歪み、崩落の危険が生じたため、補修工事が行われました。通常の道路や橋梁と違い、機能性・安全性の向上だけでなく、古写真等を基に建造当時の姿への復元や文化財的価値の保全などにも配慮されました。工事は困難を極めましたが、約9年もの長きにわたる修復工事が完了し、2021年5月10日に供用が開始されました。美しいアーチと共に、復元された高欄手すり柵や水切り石など、文明開化期のモダンな外観が蘇りました。
常盤橋門は、江戸城枡形門のひとつで、寛永六年(1629年)に築かれました。古くは浅草口・大手口とも呼ばれ、奥州街道に通じる重要な場所でした。田安門(上州口)・神田橋門(芝崎口)・半蔵門(甲州口)・外桜田門(小田原口)と共に、江戸五口に数えられました。江戸城外郭の正門だったため、大手口とも呼ばれていたともいわれています。明治六年(1873年)に門は撤去され、残った枡形石垣の一部と旧常磐橋は関東大震災によって被害を受け、昭和八年に財団法人渋沢青淵翁記念会により、復旧整備の上で東京市の公園として公開されました。常盤橋公園内の石垣・旧常磐橋・橋の石積部分が史跡として指定されています。
石垣の前に常盤橋門の案内板が立っています。
常盤橋門
常盤橋門は、寛永六年(1629年)に出羽・陸奥の大名によって築造されました。門は、江戸城諸門の中でも奥州道中につながる江戸五口の一つで、浅草口、追手(大手)とも呼ばれました。江戸城内郭の正門である大手門に接続することから、軍事上重要な門に位置付けられました。門の構造は、内枡形門形式の枡形門で、北側に渡櫓とそれを支える石垣があり、門をくぐった先には大番所が配置されました。また、東側には冠木門が構えられており、それ以外の三方は土手が巡らされていました。明治以降、常盤橋門の建物は破却されました。残った枡形石垣の一部と明治十年(1877年)に架けられた常磐橋(石橋)、橋の石積部分は昭和三年(1928年)に国の史跡に指定されています。
Tokiwabashi Mon Gate
The Tokiwabashi Mon Gate was constructed by the lords of the Dewa and Mutsu Province. It dates from 1629, when Tokyo was known as Edo. Tokiwabashi was a bridge spanning the outer moats of Edo Castle. The gate, which was one of the five major gates of Edo, was also known as Asakusa-guchi or Ote-guchi (kuchi [guchi] means gate). It led to the Oshu Dochu, the major route leading out of Edo to northern Japan. As passage through Tokiwabashi Gate led directly to the Ote Gate, the main entrance to the inner precincts of Edo Castle, the gate was of strategic military importance. The gate is an uchimasu-gata gateway, which is to say that it includes a square enclosed courtyard which surrounds the area immediately behind the gate. On the north side of the
courtyard was a watari-yagura, a defensive structure built across the gate, resting on stone walls. The grand guardhouse was located beyond the gate. The east side of the gate included a kabukimon (a wooden gate made from two pillars and a crossbeam). On the other three sides the gate was surrounded by banks of earth. The Tokiwabashi Mon Gate was destroyed and removed when Japan's samurai period ended. In 1928, the remaining stone walls, the "new" stone bridge constructed in 1877, and the bridge's
stone wall supports were designated by the government as a national historic site.
常盤橋門跡は、現在千代田区立常盤橋公園になっていますが、この辺り一帯には、明治九年(1876年)10月10日にポアイン・ベルの設計による紙幣寮(大蔵省印刷局)が建てられました。その跡地に、渋沢栄一の銅像が建っています。渋沢栄一は、日本経済の基礎を築き、のちに「近代日本資本主義の父」と呼ばれました。この銅像は、大正十二年(1923年)に発生した関東大震災後の復旧と整備に尽力した渋沢の功績を称えたもので、東洋のロダン」とも称された彫刻家の朝倉文夫が製作しました。この銅像は二代目で、初代の渋沢栄一像は昭和八年(1933年)に開園した常盤橋公園と共に、11月11日の渋沢栄一の命日に建立されました。第二次世界大戦による金属提供で一度は撤去されましたが、その後再び朝倉文夫の製作により1955年に再建されました。
青淵澁澤榮一翁は、天保十一年埼玉縣の農家に生まれたが時勢に激して志士となり、後轉じて幕臣となって、慶應三年歐州に赴き、民主主義自由主義を知る機會を得た。歸朝後大蔵省に仕官して諸制度の改革に當ったが、明治六年退官し、同年創立された第一國立銀行の頭取となり、爾来産業経濟の指導育成に任じ開與した會社五百、常に道徳経濟合一主義を唱えて終生之を實践し、我が國運の發展に偉大な貢獻をした。また、東京市養育院等社會事業の助成、一橋大學・日本女子大學等實業及び女子教育の育成、協調會等による勞資の協調、日華日米親善等世界平和の促進、道徳風教振作のために九十二歳の高齢に達するまで盡力し、昭和六年十一月十一日に逝去した。翁の歿後、財界有力者によりその遺徳顯彰の目的で設立された澁澤青淵翁記念會が、昭和八年此処に銅像を建立したが、第二次世界大戦中金属供出のために撤去された。然るにこのたび、銅像再建の聲が盛り上り各界の有志によって、再び朝倉丈夫氏に製作を依嘱し(もと)位置にこの銅像を建て、東京都に寄附したのである。
旧常磐橋の下流に位置する「常盤橋」は、旧常磐橋と同じく2連アーチの構造を持ち、関東大震災の復興計画によって、幅広の常盤橋が旧常磐橋と少し離れたところに架けられました。
常盤橋公園と道路を挟んだ反対側で大規模な工事が進んでいます。「TOKYO TORCH」は、大手町二丁目常盤橋街区と八重洲一丁目で再開発中の地区の名称です。地区の中核をなす超高層建築物として2028年5月末の竣工が予定されている「Torch Tower(トーチタワー)」は、地上62階・地下4階・高さ385m・延床面積553、000uで、竣工すると麻布台ヒルズ森JPタワー(地上325m)を超えて日本一高いビルになります。
掲示板には、延床面積は748、000uと書かれていますが、これは再開発全体の建物の延床面積の合計と思われます。
トーチタワー工事現場の前に「銭瓶橋跡」の案内板が立っています。
銭瓶橋跡
銭瓶橋は、江戸城建設の物資補給路のために開削された道三掘・日本橋川と、寛永十三年(1636年)に掘削された外堀の3本の水路が交差する場所(現在の丸の内一丁目付近)に架けられていました。銭瓶橋の由来は諸説あり、橋を架設する際に地中から銭の入った瓶が掘り出されたからとする説と、この付近で永楽銭の引換えが行われており、「銭替橋」と呼ばれたからとする説があります。江戸の名所の一つとして知られ、有名な景勝地でした。歌川広重の「名所江戸百景 八つ見のはし」には中央に銭瓶橋が描かれています。明治四十二年(1909年)、道三堀が埋め立てられ橋も姿を消しました。
Remains of Zenigame-bashi Bridge
Zenigame-bashi Bridge spanned the confluence point (near current-day Marunouchi 1-chome) of the Nihonbashigawa River; the Dosanbori Moat, cut as a supply route for materials to build Edo Castle; and Sotobori Moat, cut in 1636. Theories about the origin of the name "Zenigame-bashi Bridge" vary. One says a vase ("game") with coins ("zeni") was unearthed during bridge construction. Another says there was a place near
the bridge where "Eirakusen" (Chinese coinage used in the Edo Period) were exchanged, so the bridge was called "Zenikae-bashi Bridge" ("coin exchange bridge"). It was famous for its picturesque scenery and was known as an Edo sightseeing spot.
Zenigame-bashi Bridge is depicted in the center of Hiroshige Utagawa's Yatsuminohashi, in his One Hundred Famous Views of Edo. Dosanbori Moat was filled in 1909, leaving no trace of the bridge.
コースは、常盤橋交差点から貨幣博物館の裏手の道を進むのですが、間違えて一石橋の方に行ってしまいました。一石橋は外堀通りが日本橋川と交差する地点に架かる橋で、2025年1月現在は橋の架け替え工事が始まっています。大がかりな工事のため、完成は2040年の予定だそうです。
回り道をしましたら、トーチタワー工事現場横の広場に、佐渡金山の金鉱石が展示されています。
佐渡島の金鉱石
佐渡金銀山(さどきんぎんざん)の全盛期を物語る重さ約2トンの鉱石で、表面の黒縞模様に金銀粒子が含まれています。表面の穴は、1700年代江戸中期に割り出しを試みた跡です。約400年採掘された金銀は、江戸幕府の財政を支え、明治以降は日本近代化の一翼を担いました。佐渡の産業発展や文化の普及だけでなく日本経済にも大きな影響を与えました。
Gold Ore from Sado Island
Weighing roughly two tons, this ore represents the heyday of the Sado gold and silver mines. The black stripes on the surface of the ore contains gold and silver particles. The holes in the surface were created during an attempt to break up this piece of ore in the 1700s, in the middle of the Edo period. Gold and silver were mined for around 400 years on Sado Island, financially supporting the Edo Shogunate, and continued to play a part in the modernization of Japan during and after the Meiji Period as well. These minerals greatly influenced the Japanese economy, in addition to contributing to the industrial development of Sado and the promotion of its culture.
その横に小さな池があります。池の掃除中で、鯉は泳いでいませんでしたが。
錦鯉が泳ぐ池
この錦鯉鑑賞池には、錦鯉発祥の地である新潟県小千谷(おぢや)市で生まれ育った錦鯉が泳いでいます。この鑑賞池は、錦鯉のオーナーや協賛者からの寄付金で維持しています。オーナーや協賛者の名前は、池の柵に付いているプレートに記載されています。小千谷市にある世界で唯一の錦鯉ミュージアム「錦鯉の里」では、多くの品種の大きな錦鯉を鑑賞することができます。
Pond with Nishikigoi
The Nishikigoi swimming in this pond were raised in Ojiya City in Niigata prefecture, where these colored varieties of Nishikigoi originated. This pond for admiring the Nishikigoi is maintained in cooperation with the owners of the Nishikigoi and other co-sponsors, whose names are engraved on the plates attached to the fence
surrounding the pond. Nishikigoi no Sato in Ojiya City is the only Nishikigoi museum in the world, where you are able to admire the many varieties of large Nishikigoi.
大きな石造りの親柱が印象的な一石橋は、江戸時代初期からの古い橋で、戦後に呉服橋方向への外濠が埋め立てられるまでは、橋のすぐ西側が外濠と日本橋川の分岐点となっていました。江戸時代、橋の北詰には幕府金座御用の後藤庄三郎の屋敷地が、南詰には幕府呉服御用の後藤縫殿助の屋敷地があり、「後藤」を「五斗」ともじり、「五斗」がふたつで「一石」と命名されたと伝えられます。一石橋は大正十一年改架の鉄筋コンクリート花崗岩貼りの橋でしたが、平成九年に架け替えられ、現在は当時の親柱の一基のみが残されています。
一石橋の親柱
皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」にすでに木橋として見えています。当時は西河岸町と北鞘町とを結ぶ橋で、橋名の由来としては、北橋詰近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたと「江戸砂子」に見え、日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要でした。木橋としては最後となった明治六年(1873年)の一石橋は長さ十四間、幅三間の橋でした。大正十一年(1922年)に東京市道路局によって鉄骨コンクリート花岡岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱四基をすえた白亜の橋となったのです。関東大震災にも落橋せず、その後も交通上の重要な橋として使われてきました。平成九年には大正十一年の橋本体は全て撤去されましたが、威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿をしのばせています。平成十四年に中央区民文化財に登録されました。
一石橋の南詰に案内板が立っています。今は迷子を見つけたら交番に連れていけば済むのですが、江戸時代には電話もなく張り紙で情報を伝えるしかなかったのでしょう。でも、迷子の親は必ず告知板を探して回ったでしょうから、案外と効率的な手段だったかもしれません。悪用して、なりすましの親を演じて連れ帰った輩もいたかも。
一石橋迷子しらせ石標
江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。当時は迷子が出た場合、町内が責任をもって保護することになっていた。そこで安政四年(1857年)、西河岸町の一石橋の橋詰に、迷子探しのための告知石碑が建立された。日本橋から一石橋にかけての諸町名主などが世話人となり、迷子保護の立場から町奉行に申請したものである。銘文は、正面「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側画「志(し)らす類(る)方」、左側面「たづぬる方」、裏面「安政四丁巳年二月 御願済建之 西河岸町」。両側面上部に長方形の窪みがあり、左側面の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼る。通行人がそれを見て心当たりがあれば、その旨を書いた紙を右側面の窪みに貼って知らせたという。いわば庶民の告知板である。このほか湯島天神境内の「月下氷人石」や浅草寺境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に同樣のものがあった。しかし震災や戦災などで破壊され、現存するのは一石橋のものだけである。総高175.7cm(棹石163cm、台石12.7cm)、棹石正面幅36cm、同奥行26cm、台石正面幅70cm、同奥行68.5cm。作者などは不詳である。
Tangible cultural property (Historical Material)
Ikkokubashi Maigoshirase Sekihyo
Designated in 1938
Around the late Edo Period, the area around Ikkoku bridge to Nihonbashi was a downtown area and there were said to be many lost children. At the time, the neighborhood was responsible for their protection. Therefore, this stone was erected for giving notice of lost children at the bridge foot of the Ikkoku Bridge in Nishikashi-cho in 1857. The heads of towns from Nihonbashi to Ikkokubashi became caretakers and asked for the permission to the upper magistrate of the area to protect lost children. The inscription of the stone says "Sign for Lost Children" on the front, "Informer" on the right side, and "Inquirer"on the left side, and "Erected in February 1857, Nishikashi-cho" on the back. The both sides of the upper part of the stone have a rectangular dent and papers with characteristics of a lost child or missing person were to be put on the left side. If a passer-by has information, the passer-by was to put up a notice on the dent on the right side. The sign served as a sort of bulletin for general public. There were similar stones, such as Gekka jinseki in Yushima Tenjin Shrine, in areas with large traffic such as Sensoji Temple and the foot of the Ryogoku bridge. However earthquakes or wars destroyed most of such stones. The stone at the Ikkoku Bridge is the only one remaining. Height 175.7cm (Main stone 163cm, Base stone 12.7cm), Width of the main stone 36cm, Depth of the main stone 26cm, Width of the base stone 70cm and the depth of the base stone 68.5cm. The maker is unknown.
コースに復帰します。一石橋で日本橋川は北西から東向きに流路を変えます。日本橋は昔から商業の街として繁栄してきました。そこに日本橋川を挟んで西河岸地区と裏河岸地区が形成されました。その両地区を渡したのが西河岸橋です。
西河岸橋
このあたりは、江戸時代より我が国の商業・経済の中心地として栄えてきました。この橋は、日本橋から一石橋までの日本橋川右岸地域が西河岸町という地名であったことから西河岸橋と名付けられたものです。初代の橋(明治二十四年架設)は、弓弦形ボウストリングトラスという当時最新式の鉄橋でした。関東大震災により被害を受けた西河岸橋は、大正十四年に現在の橋に架け替えられました。中央区では、架設後65年を経過したこの橋を平成二年度において痛んだ部分を修復し、さらに伝統的な木造建築様式の木組みを採りいれた意匠で整備しました。
裏河岸についても案内板が立っています。
裏河岸
明治十年(1877年)十二月、東京府は「日本橋ヨリ以西一石橋迄」の河岸地(西河岸の対岸)を「裏河岸」と命名しました。江戸時代初期の寛永江戸図には「北かし」と記されていますが、この北側には北鞘町と品川町があり、御府内沿革図書では、一石橋側を「北鞘町河岸」、日本橋側を「品川町裏河岸」としており、いくつかの俚俗名を確認することができます。なお、「江戸名所図会」によると、品川町裏河岸の通りには、釘・金物の店が多く、釘店とも呼ばれていたと記されています。
- ポイント2 日本橋
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西河岸橋を渡って、日本橋南詰に来ました。
日本橋の橋詰には、南東側に「滝の広場」・南西側に「花の広場」・北東側に「乙姫広場」・北西側に「元標の広場」と命名された広場が設けられています。ここは、花の広場で、それぞれの広場に付けられた愛称の経緯が書かれた案内板が置かれています。
日本橋橋詰の愛称
日本橋の歴史は、慶長八年(1603年)に家康の江戸幕府開府の際、南北の交通路として木橋が架設されて以来、幾度の変遷を経て、現在の石橋が明治四十四年4月に完成し平成三年4月には80才を迎えました。これを記念し、平成二年7月から平成三年5月にかけて広場の整備を行い、平成三年5月には完成式典が行われました。整備にあたっては地域の方々の意見をもとに、日本橋橋詰を都心のオアシスとして、人々の待ち合わせや地域の活性化になればと考え実施しました。この整備工事に合わせ、愛称を一般募集するとともに、その愛称を末長く親しんでいただくため、記念碑として保存することとしました。
花の広場には日本橋観光案内所があります。その脇に幾つかの案内板があります。
日本橋は、江戸時代に五街道の起点でした。
道の起点としての日本橋
中央区日本橋一丁目〜港区新橋一丁目
日本橋は古来街道の起点として広く親しまれ現在も交通の要衝として知られている。慶長八年に日本橋が架設されて以来、火災などによって改築すること19回を経て、明治四十四年3月石橋の名橋として現在の橋に生れ変った。また日本橋から銀座にかけての中央通り一帯は近代的な街並で日本経済の中心地として今なお活況を呈している。
日本橋について解説した案内板が立っています。
日本橋 附東京市道路元票(一基)
日本橋の創架は、徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603年)と伝えられています。翌年、日本橋が幕府直轄の主要な五つの陸上交通路(東海道・中山道・奧州道中・日光道中・甲州道中)の起点として定められました。江戸市街の中心に位置した日本橋は、橋のたもとの日本橋川沿いに活気ある魚市場が立ち並び、周辺に諸問屋が軒を連ねるなど、江戸随一の繁華な場所でした。現在の日本橋は、明治四十四年(1911年)に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、都内では数少ない明治期の石造道路橋です。橋長49.5メートル、幅員27.5メートルの橋には、照明灯のある鋳銅製装飾柱を中心に和漢洋折衷の装飾が施されています。中でも、建築家・妻木頼黄の考案に基づく麒麟や東京市章を抱えた獅子のブロンズ像(原型制作・渡辺長男、鋳造・岡崎雪声)は、意匠的完成度の高い芸術作品といえます。なお、親柱に記された橋名の揮毫は、第十五代将軍・徳川慶喜の筆によるものです。また、附指定(つけたりしてい:国宝や文化財として国から指定されている物件の価値を補完するために追加で指定すること)を受けた「東京市道路元標」は、昭和四十二年(1967年)まで都電の架線支持柱を兼ねて日本橋の中央に設置されていましたが、現在は日本橋北西の橋詰広場に移設されています。なお、橋の中央には当時の内閣総理大臣・佐藤栄作の筆による日本国道路元標」のプレート(複製は北西橋詰)が埋め込まれています。
Nihonbashi Bridge Including the Zero Milestone of Japan
It has been reported that the Nihonbashi Bridge was first built in 1603, the year TOKUGAWA, Ieyasu established the shogunate in Edo. In the following year it was designated as the origin point of the five national roads administered directly by the shogunate (Tokaido, Nakasendo, Oshu Dochu, Nikko Dochu, Koshu Dochu). The bridge stood in the central district, where was the busiest commercial city of Edo with rows of bustling fish markets and wholesale shops along with the Nihonbashi River. The bridge that stands today is a Renaissance-style double-arch stone structure built in 1911, and one of the few Meiji-era stone bridges left in Tokyo. It is 49.5 meters long and 27.5 meters wide. The bridge has ornate cast-copper columns decorated in a mix of Japanese and European Styles.Most of all, the bronze statues of kylins (a kylins is an imaginary creature in ancient China) and the lion holding the Tokyo municipal emblem were originally designed by architect TSUMAKI,Yorinaka, which are regarded as high-leveled design art works (Original mold: WATANABE, Osao, Cast: OKAZAKI, Sessei). The bridge name inscribed on the oyabashira (thick posts located at both edges of the bridge) is modeled on calligraphy by TOKUGAWA, Yoshinobu, the 15th and last Tokugawa shogun. The Zero Milestone of Japan which is included in the national cultural property designation used to be positioned at the center of the bridge until 1967, together with the post for aerial wires for a tram line. Now it was relocated to the open space at the northwest side of the bridge. The Zero Milestone plaque was embedded in and at the center of the bridge deck pavement in 1967 with an inscription modeled on calligraphy by then-prime minister SATO, Eisaku, and also there is the replica of the plaque at the edge of the bridge on the northwest side.
こんな感じだったようです。
屋根付きの立派な案内板も置かれています。銅板に彫られた江戸時代の風景画と碑文は年代物のようで、錆びてとても見づらいですね。
日本橋由来記
日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ其名四方ニ高シ慶長八年幕府譜大名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街ヲ營ミ海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス人呼ンデ日本橋ト稱シ遂ニ橋名ト為ル翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ實ニ本橋ヲ以テ起點ト為ス當時既ニ江戸繁華ノ中心タリシコト推知ス可ク橋畔ニ高札場等ヲ置ク亦所以ナキニアラス舊記ヲ按スルニ元和四年改架ノ本橋ハ長三十七間餘幅四間餘ニシテ其後改架凡ソ十九回ニ及ヘリト云フ徳川盛時ニ於ケル本橋附近ハ富買豪商甍ヲ連ネ魚市アリ酒庫アリ雜鬧沸クカ如ク橋上貴賎ノ來往晝夜絶エス富獄遥ニ秀麗ヲ天際ニ誇リ日帆近ク碧波ト映帶ス眞ニ上圖ノ如シ明治聖代ニ至リ百般ノ文物日々新ナルニ伴ヒ本橋亦明治四十四年三月新装成リ今日ニ至ル茲ニ橋畔ニ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ後世ニ傳フ
日本橋の欄干には獅子をモチーフにした立派なブロンズ像が照明灯と共に君臨しています。今は機能一辺倒でこのような装飾はされませんが、昔の人は美的感覚があったんでしょうね。
元標の広場には、「日本国道路元標」の複製プレートが置かれています。
石碑には、「日本国道路元標」設置の経緯が解説されています。
日本国道路元標
日本橋は1603年に創架され、江戸幕府により五街道の起点として定められました。現在の日本橋は1911年に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、四隅の親柱の銘板に刻まれた「日本橋」及び「にほんはし」の文字は最後の将軍・コ川慶喜公の揮毫によるものです。1972年、日本橋中央の「東京市道路元標」がこの広場に移設・保存されました。その据えられていた跡には、内閣総理大臣佐藤栄作氏(後にノーベル平和賞受賞)の揮毫による「日本国道路元標」が埋標されました。この復製も同時に制作・設置されたものです。東京道路元標は、1999年に米寿を祝う日本橋とともに国の重要文化に指定されています。
Zero Milestone in Japan
Nihonbashi Bridge was built in 1603 and designated by the Edo Shogunate government as the starting point of five major roads in Japan. The present Nihonbashi Bridge, built in the Renaissance style in 1911, is a double-arched bridge made of stone. The calligraphy engraving "Nihonbashi" on the plaques on each of the four newel posts is based on the work of Yoshinobu Tokugawa, the last Shogun. In 1972, the original "Zero MiIestone of Tokyo City", formerly located in the middle of Nihonbashi Bridge was transferred to this square for preservation and replaced by a memorial plaque. The characters "Zero Milestone of lapan" on the plaque were taken from the writing of the then Prime Minister and Nobel Peace Prize winner, Eisaku Sato. Both "Zero Milestone of Tokyo City" and Nihonbashi Bridge, which calebrated its eighty-eighth anniversary in 1999, are designated important cultural assets of Japan.
乙姫広場に魚河岸跡の案内板と乙姫の像が置かれています。何で乙姫様の像かというと、龍宮城の住人である海の魚が舞い踊るごとく日本橋に集まったという意味を込めて選定したとのことです。
日本橋魚河岸跡
日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売りだしたことに始まります。この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変な賑わいをみせていました。なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢のよい取引が飛交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。この魚河岸は、大正十二年(一九二三年)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。現在、魚河岸の有ったこの場所には、昭和二十九年に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑が有り、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。
(写真)日本橋から見た震災前の魚河岸(左端)と日本橋川の様子、奥は江戸橋。
昭和六年(1931年)の創業以来新川の地で愛されてきた老舗洋食店「たいめいけん」は、日本橋地区の再開発によるしばしの移転休業を経て、2021年4月から日本橋室町の新店舗(仮設ビル)で営業を再開しました。1階はカジュアルでお手頃な価格設定のお食事、2階は単品やコース料理などのグレートの高い本格的な洋食が頂けます。名物の「オムライス」は2階で提供されます。
小舟町交差点を右折します。左手の路地に長〜〜〜い行列ができています。日本橋七福神の小網神社の初詣の参拝客のようです。小網神社は、強運厄除・金運アップで都内屈指のパワースポットといわれています。そんなに御利益があるのでしょうか?
蛎殻町交差点を左折して新大橋通りを水天宮方向に向かいます。
左手に銀杏八旛宮と境内社の銀杏稲荷神社があります。銀杏八旛宮の創建年代は不詳ですが、江戸時代の中期には旧福井藩常盤橋松平氏のお屋敷内に鎮守として祀られていたようです。安永四年(1775年)に社殿を建立して祀られました。社号は、当時境内にあった樹齢300年〜400年の大銀杏に由来すると言われています。
水天宮交差点で右折し、隅田川テラスに向かいます。
隅田川大橋は、首都高速道路(9号線)と都道47号線が重なった2段構造の橋となっており、上段部分が首都高速道路の高架橋、下段部分がいわゆる“隅田川大橋”です。また、地下に東京地下鉄半蔵門線が通っています。昭和五十四年(1979年)に完成したこの橋は、京浜・京葉地帯を結ぶ湾岸道路に通じ、隅田川に架かる橋のうち唯一の2階建ての珍しい橋です。
隅田川大橋から永代橋までの隅田川の土手は幅広く造られ、スーパー堤防といわれています。隅田川では、大地震等に対してより安全性を高め、水辺に親しめる環境が再生されるように、土台の強化・コンクリート壁の切断・盛土などを行い、幅の広い緩傾斜型の堤防が整備されています。このうち、とりわけ規模の大きいものがスーパー堤防と呼ばれています。スーパー堤防や緩傾斜型堤防の整備にあたっては、広い用地を必要とするために背後地の再開発事業などの街造りと一体となった整備が進められています。
- ポイント3 永代橋
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永代橋は、元禄年間に「深川の大渡し」に代わって架けられ、佐賀町付近(現在の佐賀一丁目付近)が昔、永代島と呼ばれていたため、永代橋と名付けられました。橋の両際には、広小路を設けて橋番屋が設けられ、高札を立て、武士・医師・出家神主以外の通行人から橋銭を取る有料橋でした。上流の清洲橋の女性的な優美さに相対し、男性的な重量感を持っています。隅田川と一体となって地域のランドマークとしての役割を果たすとともに、建設された時代の特色を表していることから、1999年に東京都選定歴史的構造物に選定されました。日本橋川は、江戸時代には物流の中心として市民のくらしを支え、築地に移転する前の魚河岸や、多くの河岸(かし)があり、たいへん賑わいました。また現在も、明治・大正時代に架けられた著名な橋梁や、周辺には当時の栄華をしのばせる西洋建築物が現存するなど、江戸・東京の歴史を残す川となっています。金融や証券の中心である東京証券取引所や日本銀行本店などもこの川沿いに立地しています。
箱崎河岸緑道の一画に、江戸時代の橋の風景を描いた絵と説明文を付した案内板が置かれています。
永代橋
元禄十一年(1698年)に架橋された木造の水代橋は、現在の永代橋の場所よりも約150m上流のこの付近に架けられていました。橋名の由来は、当時このあたりが永代島と呼ばれれていたことからと名付けられたようですが、一説には五代将軍綱吉の50歳を迎えた記念として名を付けられたとも伝えられています。江戸時代には橋桁が高く取られたこともあり、橋上からは“西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総、限りなく見え渡り眺望よし”などといわれるほどの美しい景色が広がっていました。歌川広重が江戸後期に描いた「東都名所永代橋全図」には、隅田川河口のこの辺りに多数の廻船が停泊している様子がうかがえます。また、永代橋西詰のにぎわいとともに、幟が立つ高尾稲荷社へ参詣する入びとの姿などもみられ、詩情豊かな情景が描かれています。なお、永代橋が現在の場所に移されたのは明治三十年(1897年)のことで、道路橋としては初めてとなる鋼鉄橋に生まれかわりました。その後、開東大震災で被災したため、大正十五年(1926年)に現在の橋へと架け替えられました。上流に架かる清洲橋の女性約で優美な雰囲気とは対照的に、男性的で重厚感あふれる永代橋は、隅田川の流れとともに広く都民に親しまれています。
永代橋は、元禄十一年(1698年)に関東郡代伊奈氏が日本橋と深川を結ぶ橋として架けました。左岸の永代島に架けられたので永代橋とも、架橋日が将軍綱吉50歳の祝賀日であったので命名したともいわれています。上野寛永寺の根本中堂建設の残材を使用して架けられました。優美な虹型の橋であり、ここより富士山の眺めがよいので、広重などの錦絵にたくさん描かれています。現在の橋は大正十五年(1926年)に震災復興事業の第一号として架け替えられました。
永代橋の手前に「船員教育発祥之地」の石碑が置かれています。明治維新後、我が国の海運界は国際的にみて立ち遅れが目立っていました。1875年に大久保利通の命令により、岩崎弥太郎は「三菱商船学校」を設立し、これがのちの東京海洋大学(旧東京商船大学)となりました。当初、この学校は隅田川に成妙丸を繋留して校舎とし、生徒全員を船内に起居させて、近代的船員教育を実施しました。
船員教育発祥之地
内務卿大久保利通は、明治政府の自主的な海運政策を進めるにあたり、船員教育の急務を提唱し、三菱会社長岩崎彌太郎に命じて、明治八年十一月この地に商船学校を開設させた。当初の教育は、その頃隅田川口であり、海上交通の要衝でもあった永代橋下流水域に、成妙丸を繋留して校舎とし全員を船内に起居させて行われたが、これが近代的船員教育の嚆矢となった。爾来百年、ここに端を発した商船教育の成果は、我が国近代化の礎となった海運の発展に大きく貢献してきたが、その歴史的使命は幾変遷をへた今日、江東区越中島にある現東京商船大学に継承せられている。
日本橋川が隅田川に合流する地点に豊海橋が架かっています。豊海橋は、昭和二年(1927年)に震災復興橋として架け替えられました。梯子を横倒しにしたような外観をしていて、フィーレンデール橋と呼ばれる全国でも珍しいデザインです。「都市景観との調和」に気配りし、永代橋とマッチするようにシンプルなデザインのなかに止め形式という古い形を残した重量感のある鉄骨橋梁です。
中央区民文化財
豊海橋
現在の豊海橋は、大正十五年(1926年)五月起工、昭和二年(1927年)九月竣工。日本橋川が隅田川に流入する河口部の第一橋梁です。橋の歴史は古く、江戸時代中期には豊海橋(別名「乙女橋」)がありました。この辺りは新堀河岸と呼ばれ、諸国から廻船で江戸に運ばれた酒を陸上げする所で、川に沿って白壁の酒倉が並んでいました。明治期に豊海橋は鉄橋になり、大正十二年(1923年)の関東大震災で落橋してしまいました。復興局は新規に設計を土木部の田中豊に依頼、実際の設計図は若手の福田武雄が担当。隅田川支流の河口部の第一橋梁はデザインを一つ一つ変えて区別しやすく工夫していました。それは隅田川から帰港する船頭に対する配慮でした。福田武雄はフィーレンデールの案出した橋梁デザインを採用し、梯子を横倒しにした様な外観で重量感ある豊海橋を完成しました。この様式は日本では数カ所あるのみで近代の土木遺産としても貴重な橋で、区民有形文化財に登録されています。
新川公園は、北は永代橋・南は中央大橋までの隅田川沿いのスーパー堤防上に位置する中央区立公園で、1993年4月1日に開園しました。公園には多くの桜の木が立ち並んでいます。
公園の一画にある小さな公園の隅に、「新川之跡」と記された石碑が建っています。この地には、1660年に河村瑞賢が開削したと伝えられる新川がありました。江戸時代、河岸には最初に材木問屋、後に酒問屋が集まり、物資の集散の要地となリ繁盛しました。酒問屋は今なお根を下ろしています。狂歌にも「新川は下戸の建てたる蔵はなしいづれ上戸が目当てなりけり」とうたわれました。
新川の跡
新川は、現在の新川一丁目三番から四番の間で亀島川から分岐し、この碑の付近で隅田川に合流する運河でした。規模は延長約590メートル、川幅は約11メートルから約16メートルと、狭いところと広いところがあり、西から一の橋、二の橋、三の橋の三つの橋が架かっていました。この新川は、豪商河村瑞賢が諸国から船で江戸へと運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため、万治三年(1660年)に開さくしたといわれ、一の橋の北詰には瑞賢が屋敷を構えていたと伝えられています。当時、この一帯は数多くの酒問屋が軒を連ね、河岸にたち並ぶ酒蔵の風景は、数多くのさし絵や浮世絵などにも描かれました。昭和二十三年、新川は埋め立てられましたが、瑞賢の功績を後世に伝えるため、昭和二十八年に新川史跡保存会によって、「新川の碑」が建立されました。
中央大橋は、佃大橋と永代橋との間に、1993年新しく架けられた橋です。高層ビルが立ち並ぶ近代的な街として生まれ変わった佃地区と、都心を結ぶ橋として計画されました。形式は近代的な街並にマッチし、地域のシンボルとしての役割を果たすように、タワーを有した斜張橋となっています。
南高橋の東詰に小さな神社があります。
徳船稲荷神社縁起
徳川期この地新川は、越前松平家の下屋敷が三方掘割に囲われ、広大に構えていた(旧町名越前堀はこれに由来する)。その中に小さな稲荷が祀られていたと言う。御神体は徳川家の遊船の舳を切って彫られたものと伝えられる。明暦三年、世に云う振袖火事はこの地にも及んだが御神体はあわや類焼の寸前難を免れ、大正十一年に至るまで土地の恵比須稲荷に安置された。関東大震災では再度救出され、昭和六年隅田川畔(現中央大橋北詰辺り)に社を復活し町の守護神として鎮座したが、戦災で全焼。昭和二十九年同処に再現のあと平成三年中央大橋架橋工事のため、この地に遷座となる。例祭は、十一月十五日である。
- ポイント4 南高橋
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南橋西詰の袂に案内板が立っています。
中央区民文化財 南橋
創架年代は昭和六年(1931年)に起工、同七年三月に竣工。現在の南高橋の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみでした。大正十二年(1923年)の関東大震災ののち、街路の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀一丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。東京市は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治三十七年(1904年)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのです。都内において、珍しくも明治三十七年のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)についで二番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で六番目に古い橋梁になります。区民有形文化財に登録されています。
石碑も建っています。
南橋
この橋は、亀島川の河口に位置し、関東大震災の復興事業のひとつとして昭和七年(1932年)に架けられました。橋の主要部は明治三十七年(1904年)に架けられた旧両国橋の材料を利用して作られたもので、都内に現存する鉄橋のうち道路橋としては最も古い橋です。また構造上の特徴は、トラスの一部材の端に丸い環のついた”アイバー”が用いられており、全体はピントラス橋とも呼ばれています。このため明治期の技術を今に伝える貴重なものとして、中央区民文化財に登録されています。平成二十八年(2016年)に土木学会選奨土木遺産として認定されました。
「歌舞伎座前より乗合自動車に乗り鉄砲洲稲荷の前にて車より降り、南高橋をわたり越前堀なる物揚波止場に至り石に腰かけてて明月を観る。石川島の工場には燈火煌々と輝き業務繁栄の様子なり。水上には豆州大島行の汽船二三艘泛びたり。波止場の上には月を見て打語らう男女二三人あり。岸につなぎたる荷船には頻に浪花節をかたる船頭の声す。」
(昭和九年7月・永井荷風「断腸亭日乗」より)
橋梁の諸元
型式 下路式単純プラットトラス橋
橋長 63.1m
有効幅員 11.0m(車道6.0m 歩道2.5mX2)
着工 昭和六年1月
竣工 昭和七年3月
総工費 76、600円
施行者 東京市
南橋のすぐ下流の亀島川が隅田川と合流する地点に亀島川水門(1968年完成)があります。高潮あるいは津波時には、両水門を閉鎖して亀島川流域住民の生命・財産を守ります。
水害のない町に 亀島川水門
亀島川水門は、亀島川が隅田川と合流する地点に位置し、周辺流域を高潮の侵入から守るための防潮水門です。台風などによる高潮や津波が発生し河川の水位が上昇したとき、地盤高の低い地域では浸水などの災害が起きる恐れがあります。このようなときに水門を閉鎖して水害を防ぎます。また、大きな地震があったときも直ちに閉鎖して津波に備えます。
湊一丁目交差点で右折して亀島川緑道に向かいます。道路の左手に桜橋第二ポンプ所があります。細長い建物の屋上には桜川屋上公園が造られています。建物の脇にある入口からスロープを伝って自由に行くことができます。
桜橋第二ポンプ所と鉄砲洲通りを挟んだ向かい側に亀島川緑道があります。
Quiz Spot
ここには膝下ぐらいの高さの橋標(はししるべ)があります。橋標にある橋名をお答えください。
歩道の脇に「稲荷橋」と彫られた石柱が置かれています。稲荷橋の橋名の由来となったのは鉄砲洲稲荷神社です。稲荷橋から百メートルほど先にあり、江戸湊の入口に鎮座する神社として地域の人々の信仰を集めてきました。
緑道の植え込みの中に、植木鉢のように使った大きな土管が3個埋められています。
湊二丁目(第5次)遺跡出土の土管
花壇に使用されているのは、明治時代に製作された常滑焼の土管です。平成二十八年に行われた発掘調査で、井戸のくみ取り口用に3段重ねられた状態で発見されました。常滑焼は現在の愛知県常滑市の焼物で、江戸時代は大型の壺や甕の生産が主流でしたが、明治時代に入ると、都市の近代化にともない土管が量産されるようになります。このような大型の土管が割れることなく発見されることは稀であり、当時の生活の一端を伝える遺物です。
ゴール地点の八丁堀駅に着きました。
ということで、中央区で七番目の「Course7.日本橋川・隅田川 橋と光の競演」を歩き終えました。次は中央区で八番目のコースである「Course8.築地・月島・晴海 隅田川と運河の光景」を歩きます。
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