- Course8.築地・月島・晴海 隅田川と運河の光景
- コース 踏破記
- 今日は中央区の「Course8.築地・月島・晴海 隅田川と運河の光景」を歩きます。築地駅から隅田川テラスに出て佃橋まで川沿いを歩き、佃大橋と朝潮大橋を経て、月島を周遊し、最後は築地大橋から旧築地市場の跡地を眺めます。東京オリンピックが終わり、選手送迎用バス待機所としての役割が終わった広大な敷地は更地になりました。最初に歩いたのは2022年の2月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年1月に改めて歩きました。
Course8.築地・月島・晴海 隅田川と運河の光景
「Course8.築地・月島・晴海 隅田川と運河の光景」の歩行距離は約5.0km(約7、100歩)、歩行時間は1時間約15分、消費カロリーは約225Kcalです。
スタート地点:築地駅出入口1
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- ポイント1 勝鬨橋
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橋の両端はアーチ橋、中央は上部に開く跳開橋ですが、今は開くことはありません。
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- ポイント2 朝潮大橋
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朝潮運河北端の橋からは、運河沿いにある晴海と月島の街並みが一望できます。
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- ポイント3 朝潮運河
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運河とその周辺は、水辺の魅力・にぎわいを創出する「運河ルネサンス」の推進地区です。
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- ポイント4 築地大橋
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隅田川の河口に架けられた優美かつ開放感のあるアーチ橋は、都心の新たなランドマークです。
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ゴール地点:築地大橋中間地点
スタート地点の築地駅出入口1から歩き始めます。
築地駅出入口1は築地本願寺の正門脇に位置しています。境内は着飾った和服の若い女性で一杯です。どうやら今日(2025年1月19日)は週遅れの成人式のようです。
築地本願寺は、江戸時代の1617年に西本願寺の別院として浅草御門南の横山町(現在の日本橋横山町〜東日本橋)に建立されました。かっては、「江戸海岸御坊」とか「浜町御坊」と呼ばれていました。しかし明暦の大火(振袖火事)により本堂を焼失し、その後江戸幕府による区画整理のため旧地への再建が許されず、その代替地として八丁堀沖の海上が下付されました。そこで佃島(現在の中央区佃)の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き(この埋め立て工事が地名築地の由来)、1679年に再建され、「築地御坊」と呼ばれるようになりました。このときの本堂は西南(現在の築地市場)を向いて建てられ、場外市場のあたりが門前町となっていました。1923年9月1日の関東大震災では、地震による倒壊は免れたものの、直後に起こった火災によって再び伽藍を焼失しました。また、58か寺の寺中子院は被災後の区画整理により各地へ移転しました。
築地本願寺案内
1.宗 派 浄土真宗本願寺派(本山は京都西本願寺)
2.宗 祖 親鸞聖人(見真大師 1173年〜1262年)
3.御本尊 阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)
4.歴史
元和三年(1617年)本願寺第12世准如上人によって、本願寺派の関東地方における根本道場として、元江戸浅草横山町に創建されたが、明暦三年(1657年)の振袖火事により焼失した。その後八丁堀海上に約3万uの土地を幕府より下附され、当時大阪佃より移住した門徒が中心となって、この海辺を埋立てて本堂が建立された。その後たびたびの災火にあい、関東大震災(1923年)に焼失した。現在の本堂は、古代印度様式といわれ、東京大学教授、故、伊東忠太博士の設計によリ、 昭和六年松井建設株式会社が施工し、同九年に落成したものである。
THE TSUKIJI HONGANJI IS THE REGION OF THE NISHI HONGANJI IN KYOTO, THE HEAD TEMPLE OF THE JODO SHINSHU DENOMINATION OF BUDDHISM. THE ORIGINAL BRANCH WAS BUILT IN 1617 IN YOKOYAMA CHO. AFTER DESTRUCTION BY THE GREAT FIRE OF 1657, THE TEMPLE WAS REBUILT ON A SECTION OF A VAST AREA OF LAND RECLAIMED FROM TOKYO BAY BY LOYAL PARISHIONERS
(HENCE THE NAME "TSUKIJI", MEANING BUILT LAND). THE PRESENT INDIAN-STYLE STRUCTURE WAS ERECTED IN 1934.
現在の本堂は1934年の竣工で、古代インド様式をモチーフとしたこの建物は、当時の浄土真宗本願寺派法主・大谷光瑞と親交のあった東京帝国大学工学部名誉教授・伊東忠太による設計です。当時の宗教施設としては珍しい鉄筋コンクリート造で、大理石彫刻がふんだんに用いられ、そのスタイルは現在においても斬新かつ荘厳で築地の街の代表的な顔になっています。なお、本堂は重要文化財に指定されています。
本堂の建物は修繕工事が始まっているため、写真は2022年1月当時のものです。
新大橋通りに沿った境内の一角に沢山の石碑が墓碑が並んでいます。最初は、「酒井抱一」のお墓です。
酒井抱一墓
酒井抱一(1761年〜1828年)は名門酒井雅楽頭家の姫路藩主酒井忠仰の次男として生まれました。明和四年(1767年)忠因(ただなお)と名乗ります。大名家の習いとして、武術・絵画・俳諧・狂歌などにも親しみました。寛政九年(1797年)、三十七歳で西本願寺文如上人に随い出家し、「等覚院文詮暉真」と称します。浅草千束に移住し、抱一と号します。抱一は寛政年間後半ころから尾形光琳の画風に傾倒し、文化十二年(1815年)には、文化六年に移り住んだ下根岸の新居(後の雨華庵)で光琳百回忌を営みました。抱一は、琳派の画風に諸派の技法を取り入れた独特な作風を確立し、粋で瀟洒な江戸琳派を完成させます。代表作として「光琳百図」・「四季花鳥図屏風」・「夏秋草図屏風」などがあります。文政十一年、雨華庵で亡くなり、築地本願寺に葬られました。
Sakai Hoitsu Haka (The grave of Sakai Hoitsu)
Sakai Hoitsu is a painter in the late Edo period. Hoitsu was the second son of Sakai Tadamochi, the lord of Himeji Domain. He was familiar with arts, painting and poetry as is often the case in the lord family. After he became a Buddhist priest in 1797, he changed his name to Hoitsu. Hoitsu studied the work of Ogata Korin extensively and is known as a founder of Edo Rinpa School. There are "Korinhyakuzu", "Shiki kachozu byobu"and"Natsu-akikusazu byobu" as his masterpieces. In 1828, he died at Ugean, and buried at Tsukiji Honganji Temple.
築地本願寺には時代・身分・職業の異なるいろんな人のお墓があります。講談や映画・歌舞伎・舞台などで知られる「男の花道」は、三代目中村歌右衛門と玄碩をモデルとする眼科医土生玄硯との友情物語です。2006年には、滝沢秀明主演の時代劇ミュージカル(滝沢演舞城)の演目の一つにもなりました。
土生玄碩墓(はぶげんせきはか)
土生玄碩(1762年〜1848年)は江戸時代後期の眼科医で安芸国吉田で生まれました。名を義寿といい、桑翁と号しました。文化七年(1810年)奧医師を拝命し、同十三年法眼に叙されました。文化五年には十二代将軍徳川家慶の眼疾を治療しました。文政十二年(1829年)、シーボルトから眼病治療法を教授された謝礼に将軍拝領の紋服を贈ったことで、シーボルト事件に連座し、改易となり、江戸を追放されました。嘉永元年(1848年)八月十七日、八十七歳で死去し、土生家の菩提寺である築地本願寺中眞龍寺に葬られましたが、昭和三年(1928年)十二月区画整理のため改葬されました。墓標には「桑翁土生君之墓」とあります。著書には、「銀海波抄」・「指談録」・「獺祭録」などがあります。
Habu Genseki Haka (The grave of Habu Genseki)
Habu Genseki (1762-1848) was an ophthalmologist in the late Edo period. He was born in Yoshida Akinokuni (currenty Hiroshima pref.). Genseki became a shogun's personal doctor in 1810 and was bestowed currently with the title of Hogen in 1816. Genseki presented Siebold with a montsuki (a haori marked with a crest) given from the Shogun, as gratitude of the professor of oculistics. Therefore he was implicated in the Siebold Affairs on 1829 and banished from Edo. On August 17 in 1848, he died at 87.He wrote "Ginkaihasho, " "Shidanroku", "Dassairoku" and so on.
佃島というと佃煮ですね。江戸時代、徳川家康は名主森孫右衛門に摂津国の佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の腕の立つ漁師を江戸に呼び寄せるよう言い、隅田川河口・石川島南側の干潟を埋め立てて住まわせました。佃島の漁民は悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため自家用として小魚や貝類を塩や醤油で煮詰めて常備菜・保存食としていました。雑魚がたくさん獲れると、佃煮を大量に作り多く売り出すようになったといわれ、保存性の高さと価格の安さから江戸庶民に普及し、さらには参勤交代の武士が江戸の名物・土産物として各地に持ち帰ったため全国に広まりました。現在では佃島のあった勝どき・月島には超高層マンションが林立していますが、昔は佃島というくらいですから島だったんですね。佃島は隅田川の河口にあたり、川から運ばれてくる砂と小石で、砂し(海中に細長くできる砂の陸地)ができていました。そうなると大きな船が入ってこられなくなります。そこで明治時代の中ごろになると河口付近の川底にたまった砂や小石を取り除き、大きな船が入ってこられるようにしました。さらに、その砂や小石で隣りの石川島との間の砂の陸地を埋め立て、新しい島を造成しました。島を築いたため、読んで字のごとく「築島(つきしま)」と命名されましたが、後に築地と区別するために「月島」と改名されました。月島の名物はもんじゃ焼きですね。埋め立てが進むにつれ、沿岸の鉄工所や機械工場などで働く労働者が次々と移り住むようになり、人口が急増したことで子供の数も増えてきました。子供相手の駄菓子屋では、当時東京の下町で広く食べられていた「文字(もんじ)焼き」と言われるお菓子が人気を博していて、これが月島名物の「もんじゃ焼き」になったということです。佃煮ともんじゃ焼きは親類関係だったんですね。
佃島初代名主 佃忠兵衛報恩塔
正保元年(1644年)に埋め立て造成された個島(現在の佃一丁目)は、将軍の命で摂津国西成郡佃村・大和田村から江戸に下った漁師たちによって築島されました。島内の地所は、先達を務めた個村の庄屋・森孫右衛門・実弟九左衛門・従弟(九左衛門の娘婿)忠兵衛をはじめ、摂津国からの移住漁師三十数名の割り当て所有となりました。その後、孫右衛門は本国佃村で没し、九左衛門は日本橋の本小田原町で魚問屋(「佃屋」)を開いたため、一族の衆望を担った忠兵衛が個忠兵衛を名乗って佃島の初代名主役を務めました。初代名主の佃忠兵衛は、将軍・幕府への御用漁や佃島の開発とともに、明暦三年(1657年)の大火で焼失した本願寺の替地の埋め立て(築地)と御堂の再建にも尽カしました。境内に立つこの石塔は、佃島の開祖である初代名主・佃忠兵衛の遺徳を称えて、文久元年(1861年)の二百年忌に十代名主・森幸右衛門勝鎮(九左衛門家が絶家のため七代目から森姓を継承)と親族の佃宇右衛門寛敏が建立した報恩塔です。正面には忠兵衛の法名と没年(「篤行院釋久西居士」/「寛文二年壬寅四月四日享年九十有四歳」)、側面には、開祖の遺徳や代々名主を奉職してきた歴史が刻まれています。なお、これまで石塔正面の法名は「森孫右衛門」のものと判断されてきましたが、名主家伝来の記録などから「佃島初代名主 佃忠兵衛」であることが明らかになりました。
The Memorial for the Primary Village Headman, TSUKUDA, Chubei
TSUKUDA-JIMA Island (current location: Tsukuda Ichome) was developed through reclamation work by the fishermen coming down from TSUKUDA and OWADA Villages, NISHINARI Gun (County) in SETTSU (current location: Osaka prefecture) by order of SHOGUN in 1644. The ownership of the lands were allocated to about 30 fishermen from SETTSU, including the first settler MORI, Magoemon, his brother Kuzaemon, and his son in law Chubei. Later, Magoemon passed away in the original Tsukuda Village of his home province, and Kuzaemon opened a fish wholesale store (TSUKUDA-YA) in Hon-Odawaracho of Nihonbashi. So, as carrying the hope of the family, Chubei assumed a post as the
primary village headman referring himself TSUKUDA, Chubei. While he was fishing for the regime and developing the Island, he was making contributions to rebuild and reclaim the alternative site for HONGWANJI Temple burnt down in Meireki big fire in 1657. This stone memorial was built by the 10th village headman MORI, Koemon Katsushige" and Chubei's relative TSUKUDA, Uemon Hirotoshi in 1861 praising Chubei's virtue as the first village headman in commemoration of the 200th anniversary of his death. The front surface of the monument has inscriptions of Chubei's Buddhist name and the date and age of his death " the 4th April, 1662 at the age of 94years old".
Besides, the Buddhist's name had been regarded as Magoemon's name in ages, however it was found that it was of the primary headman TSUKUDA, Chubei thanks to the ancestral record in the village headman's family. Kuzaemon's Family ceased to exist due to no successor, so that Chubei's ancestor took the family name "MORI".
三業惑乱とは、江戸時代中期に浄土真宗本願寺派の教義をめぐって発生した大規模な紛争のことです。宗派内では解決せず、最終的には江戸幕府の寺社奉行が介入するまでに発展し、本願寺派門主が寺社奉行の裁定を追認する形で決着しました。西本願寺教団史上最大の異安心(異端)事件と評価されています。
大瀛(だいえい・1759年〜1804年)
大瀛和上は、江戸時代後期の浄土真宗本願寺派の学僧です。生まれは安芸筒賀村(広島)。11歳で得度をし、広島報専坊の慧雲に師事して、1776年、西本願寺の学林(僧侶の教育機関)へと入り、浄土真宗の教義の勉学に励みました。その後は河内(大阪)、備後(広島)、安芸(広島)、石見(島根)を住職として周り布教活動に勤めました。勉学への志が高く、1794年に、広島城西に学寮・セイ園舍(せいえんしゃ)を設立して子弟の育成に力を注ぎました。1797年に「三業帰命説」という教義が世に出されると、大瀛和上は「横超直道金剛ヘイ(おうちょうじきどうこんごうへい)」などを著して反論し、いわゆる「三業惑乱(さんごうわくらん)」という法論が起こりました。この騒動は江戸幕府が介入するほどの大きな事件となり、大瀛和上は病身のまま京都や江戸に赴き、対論しました。しかし1804年に、当時の江戸築地別院内の成勝寺にて死去されました。その後、幕府から「三業帰命説」は異端であるとする審判が下され、そして西本願寺からもこれが認められて、大瀛和上の徳は今日まで多くの念仏者に偲ばれています。
Daiei (1759-1804)
Daiei, a scholar monk of the Jodo Shinshu tradition in the late Edo period. Born in Tsutsuga village of Aki province (Hiroshima prefecture), he was ordained at the age of 11, and studied under a learned priest Eun at Hosenbo temple in Hiroshima. In 1776, he enrolled at a Hongwanji-affiliate educational institution for priests known as Gakurin, to deepen his understanding of the Jodo Shinshu teaching. After completion of his study at the institution, he served various temples in western Japan, including
Kawachi (Osaka), Bingo and Aki (both Hiroshima), and Ishimi (Shimane) areas as a resident priest to share the teaching. In 1794, he founded a private Buddhist institute, Seiensha in Hiroshima to foster young scholars. When a theory that emphasized pursuit of the sango, or three kinds of religious practices of bodily,
verbal, and mental acts was introduced, Daiei publicly argued through writings and debates against such theory. The arguments between the two stances led to the historic debate known as the Sango Wakuran (lit., "theoretical dispute over three religious practices") which had become so heated that the Edo shogunate government had to intervene. Despite becoming ill, as representative of the traditional school, Daiei travelled to Kyoto and Edo (present Tokyo) for debates, and died at Joshoji temple, a branch of Tsukiji Betsuin (present Tsukiji Hongwanji) in 1804. Following Daiei's death, the new theory of which he disagreed with was determined incorrect, and
Hongwanji, the head temple endorsed the judgement. Thus the orthodoxy of Daiei' s argument was proven and his dedication to secure the teaching has been highly regarded by many Jodo Shinshu followers until today.
間新六は高輪泉岳寺にもお墓がありますが、実際は築地本願寺に埋葬されたんですね。他の四十七士と一緒になるよう泉岳寺にも供養墓が置かれたのでしょう。
間新六供養塔
間新六光風(1680年〜1703年)は赤穂藩主浅野家臣間光延の次男として生まれます。元禄十四年(1701年)三月藩主浅野長矩が殿中刃傷事件を起こし、藩は改易となります。新六は父及び兄光興とともに仇討ちに加わり、元禄十五年十二月十四日(1703年1月30日)に吉良上野介を討ち取り(赤穂事件)、麻布の長府藩毛利邸へ預かりとなり、初腹します。赤穂義士の墓は主君長矩の墓のある高輪泉岳寺にありますが、新六は義兄中堂又助により、築地本願寺に埋葬されました。泉岳寺にも新六の供養墓がありますが、本願寺に葬られた理由は、檀徒であったのか、生前の意志によるものなのか、不明です。現在のものは、火災により焼失したものを天保五年(1834年)に羽佐間宗玄が再建したものです。
Hazama Shinroku Kuyoto (Hazama Shinroku Monument)
Hazama Shinroku Mitsukaze (1680-1703) was the second son of Hazama Mitsunobu, who was a retainer of the Asano, the lord of Ako Domain. In March 1701, the lord Asano Naganori drew his sword in the Edo Castle and the domain was confiscated. Shinroku joined the retainers of the Asamo to avenge their lord with his father and the elder brother Mitsuoki. The retainers killed Kira Yoshihisa on January 30, 1703 (Ako Incident), and they committed seppuku at the residence of the Mori Clan of Chofu Domain in Azabu. The graves of the Ako Warriors are located at Takanawa Sengaku-ji Temple, where their lord Naganori's grave is located, but Shinroku was buried by his brother-in-law at Tsukiji Hongan-ji Temple. The current grave is rebuilt by Hazama Sogen in 1834 after the original grave was lost by fire.
境内に球体の石碑が置かれています。最近は一般のお墓でも様々な形の墓石が見られますが、案内板には「台湾物故者・・・」と書いてあります。遠い異国の地で亡くなった方々の霊も祖国の地で安眠できることでしょう。
台湾物故者遺骨安置所建設の由来
太平洋戦争敗戦とともに、台湾在留の日本人は引き揚げたが、台湾に残された日本人物故者の墓地には誰一人訪れる人もなく放置されていた。これら台湾における日本人物故者を悼む多くの方の強い願いによって、昭和三十二年、当時の日本及び中華民国、両国政府の合意に基づき、台湾各地に散在する日本人墓地の整理が開始された。昭和三十六年にこれが完了とともに、台北・台中・高雄の三か所に日本人遺骨安置所がつくられ、一万三千余人の遺骨が納められた。その後、これら全員の分骨を故国に持ち帰ることができ、これを安置するため昭和三十八年三月「台湾物故者慰霊塔建設会」により、本願寺築地別院(当時)に遺骨安置所が建設された。爾来、その維持管理および年次法要は一般財団法人台湾協会がその掌にあたっている。さらに、その後台湾物故者の強い希望もあって戦後故国へ引き揚げて亡くなった方あるいは台湾縁故者で戦前故国へ帰還して亡くなった方の遺骨も、昭和六十年九月以降ここに納めている。なお、境内整備に伴い、現在、遺骨は合葬墓に納められている。
Mausoleum for the Ashes of Japanese Deceased in Taiwan
At the end of the Pacific War, many Japanese who were residing in Taiwan returned home while some remained. The gravesites of the Japanese in Taiwan had since been neglected and unmaintained. Responding to the many concerns received, in 1957, the then governments of Japan and Republic of China mutually agreed to conduct a survey to locate the graves of Japanese who were interred throughout Taiwan. When the survey was completed in 1961, mausoleums were built in three Taiwan cities including Taipei, Taichung and Kaohsiung, to house the remains of approximately thirteen thousand deceased Japanese. Approval was later granted to bring a portion of each person' s remains back to Japan and in March 1963, columbarium was built by the Association for the Building of a Memorial Monument Remembering the Japanese Deceased in Taiwan. Since then, the Mausoleum has been maintained by the Japan-Taiwan Association, which also conducts annual memorial services for the deceased. In accommodating request made by their relatives, beginning September 1985, it was approved that the remains of those who died after returning to Japan either before or after the war also be interred in the mausoleum. Following the ground development around the west gate, their ashes have since been relocated to the joint cemetery.
築地本願寺の宗派は浄土真宗本願寺派なので、宗祖は親鸞聖人です。境内の端に親鸞聖人の巨大な像が立っています。その一角には親鸞聖人の歩んだ系統譜が記されています。親鸞は「歎異抄」を著したと学校で習ったような気がするのですが、親鸞の死後に弟子の唯円が書いたみたいですね。親鸞の教えは難解で、実子である善鸞でさえも理解できなかったようです。「歎異抄」とは、親鸞と「異」なる教えがなされたことを「歎」いた本という意味なんでしょうか?
親鸞聖人
〇誕生と幼少期
平安時代も終わりに近い承安三年(1173年)の春、わたしたち浄土真宗本願寺派の宗祖・親鷲聖人は京都にてご誕生になられました。父親は藤原氏の流れをくむ日野有範、母親については現在までよく分かっていません。日野氏は儒学を得意としており、親鷺聖人も六歳頃から漢文の教育を受けていたと推測されます。親鷲聖人は九歳のとき、慈円和尚のもとで出家・得度をされ、範宴と名のられたと伝えられています。
○比叡山での修行
比叡山では、横川で不断念仏などを修する堂僧として、20年の間、厳しい学問と修行に励まれました。しかし建仁元年(1201年)親鷺聖人29歳のとき、比叡山では悟りに至る道を見出すことができなかったことから、ついに山を下り、京都の町中にある聖徳太子ゆかりの六角堂にて100日間の参籠(さんろう:祈願のため神社や寺院などにある期間こもること)をされました。95日目の暁、聖徳太子に関する偶文を唱え終ったところに六角堂の本尊である観音菩薩からの夢告を得て、東山の吉水で本願念仏の教えを説かれていた法然聖人の草庵を訪ねられます。
○吉水での法然聖人との出遇い
その後、自身が浄土往生できるための縁、すなわちその指導を得るために法然聖人の弟子となられました。聞法(もんぽう:仏教の教法を自己をむなしくして聴聞すること)と研学に励まれた親鷲聖人は、法然聖人の特別の信頼を得て聖人の主著である「選択本願念仏集」と真影(肖像画)を写すことを許されています。
○結婚と越後流罪
親鷺聖人は吉水での生活の中で、京都の三善為教の娘である恵信尼さまと結婚されます。そのころ法然聖人の開かれた専修念仏の教えに対して、延暦寺や奈良の興福寺などから激しい非難が出され、ついに承元元年(1207年)に、法然聖人や親鷺聖人などの師弟が罪科に処せられ、親鷺聖人は越後国(新潟県)に流罪となりました。これを機に「愚禿親鷺」と名のられ「非僧非俗」の立場に立たれます。
○関東伝道と「教行信証」の執筆
越後への流罪は、家族を連れての布教活動の始まりとなりました。およそ7年間の流人生活の後、親鷺聖人とその家族は関東へ向かわれることになります。一説には、新興の武士の都である鎌倉での布教を目指したのではないかと考えられています。建保二年(1214年)、42歳の親鷺聖人は家族とともに、下野国(栃木県)・常陸国(茨城県)の大領主・宇都宮頼綱の領地である稲田へと向かわれました。常陸国・稲田に草庵を結んだ親鷲聖人は、そこから約三十数km以内の所へ一泊二日での布教活動をされたと考えられています。また主著「教行信証」もこの地で書き始められました。関東時代後半には鎌倉幕府で行われた一切経校合の事業にも参加されておられ、ここ東京を含む南関東にも多くの由緒を伝える寺院が現存しています。
〇再び京都へ
親鷺聖人は60〜63歳のころ、関東約20年の伝道を終えられて帰洛されます。京都では晩年まで「教行信証」を添削されるとともに、「和讃」など数多くの書物を著され、関東から訪ねてくる門弟たちに本願のこころを伝え、書簡で他力念仏の質問に答えられました。弘長二年11月2日(新暦1263年一月十六日)90歳、親鷺聖人は三条富小路にある弟尋有の善法坊で往生の素懐を遂げられました。
Shinran Shonin
Birth and Childhood
Shinran Shonin, the founder of the Jodo Shinshu teaching, was born in Kyoto in the spring of Joan 3 (1173), at the close of the Heian Period. His father was Hino Arinori of the Fujiwara clan. Little is known about his mother. Since the Hino family was acquainted with Confucianism, it is assumed that Shinran had been taught Chinese classics since early childhood. At the age of 9, Shinran entered the Buddhist priesthood under the guidance of Jien and received the name Han' nen.
Ascetic Training in Mt. Hiei
In the Yokawa area of Mt. Hiei, Shinran practiced fudan nembutsu (lit., "continuous recitation of the name of Amida Buddha" ) as a doso monk and devoted himself to strict studies and training for 20 years. Unable to find the way to enlightenment however, he descended Mt. Hiei in Ken' nin 1 (1201) at the age of 29. In search of the Way, for 100 straight days, he commuted to Rokkakudo, a temple in the city of Kyoto, which is dedicated to Prince Shotoku. At dawn of the 95th day, as he was finishing the chanting of a verse that praises Prince Shotoku, an illusion of Kannon Bosatsu, or Bodhisattva Avalokitesvara, the principal image of the temple appeared to him sending a message. Following the words he received, he visited Honen Shonin who was residing in the Yoshimizu area of Kyoto, where Honen was expounding the teaching on the Primal Vow of Amida Buddha and the Nembutsu.
Encounter with Honen in Yoshimizu
Shinran continuously visited Honen, seeking guidance for attaining birth and emancipation in the Pure Land and was finally approved to become a disciple of Honen. Through his dedication and unending devotion, Shinran was granted approval by Master Honen to copy his main work, Senjaku Hongan Nembutsu Shu (Passages on the Nembutsu Selected in the Primal Vow) and to make a portrait of Honen. Historically, such privileges were granted to only a few.
Marriage and Exile to Echigo
While living in Yoshimizu, Shinran married Eshinni, who was a daughter of Miyoshi Tamenori, an aristocrat in Kyoto. In those days, the teaching of senju nembutsu (lit. "sole practice of the recitation of Amida Buddha' s name") which was spread by Honen had been criticized by some traditional Buddhist schools including Enryakuji on Mt. Hiei and Kofukuji in Nara. The oppression of the Nembutsu teaching hit its peak in Jogen 1 (1207) when Honen and his disciples including Shinran were punished and exiled to different regions throughout Japan. Shinran was exiled to Echigo (present Niigata prefecture) where he then gave himself the name gutoku (lit., "foolish and stubbled-headed"). This was his way of expressing that he had taken the stance as a hiso hizoku (neither a monk nor one in worldly life).
Mission in the Kanto region and Kyogyoshinsho
Shinran began his propagation efforts since being exiled to Echigo. He and his family lived in Echigo for seven years before being pardoned. Rather than returning to Kyoto however, he and his family moved to the Kanto area. A theory has it that Shinran aimed to spread the Nembutsu teaching among samurai warriors, which was an emerging class in the region at the time. There are also records that show that in Kempo 2 (1214), Shinran at the age of 42 and his family arrived in Inada (Ibaraki prefecture), which was then governed by a powerful feudal lord who ruled Hitachi (present-day Ibaraki) and Shimotsuke (present-day Tochigi). During his time in Inada, it is said that Shinran propagated within a 30 kilometer radius from his home, allowing him to return home the next day. It was during this time that Shinran began writing his main work, the Kyogyoshinsho (The True Teaching, Practice and Realization of the Pure Land Way), while also taking part in the project of proofreading the complete Buddhist canon sponsored by the Kamakura feudal government. Stories telling of Shinran' s life while in the Kanto region have been handed down to us, many of which mention temples that are still in existence today.
Returning to Kyoto
Shinran returned to Kyoto in his early 60s after propagating in the Kanto region for about 20 years. Fellow Nembutsu followers in the Kanto region then visited Shinran in Kyoto, where he would answer their questions and he also corresponded with them through letters. In his later years, he devoted much of his time to revising the Kyogyoshinsho and composing wasan (Japanese poems) in addition to working on many other writings. On the twenty-eighth day of the eleventh month in Kocho 2 (January 16, 1263 based on the western calendar), Shinran Shonin at the age of 90, passed away at Zempobo, the temple of his younger brother Jin' u, which is believed to have been located at the corner of Sanjo and Tominokoji streets.
築地本願寺から勝鬨橋に向かって晴海通りを進みます。かって、築地川南支流が晴海通りと交差する地点には門跡橋が架かっていました。その親柱が駐車場入口横に展示されています。巨大な石柱で、壁面には「昭和三年六月 復興局建造」というプレートが埋め込まれています。門跡橋の名称にはいろいろな変遷があったようです。
門跡橋の親柱
門跡橋は、昭和三年(一九二八年)六月に築地三丁目(現在の築地三・四丁目)と南小田原町一・二丁目(現在の築地六丁目)との間に架けられた築地川南支流の震災復興橋梁でした。昭和六十一年(一九八六年)から開始された築地川の埋め立て工事や道路の拡幅工事に伴って撤去されましたが、その時に花崗岩製の親柱一基が高欄の一部とともに、この場所に移築保存されました。なお、門跡橋という名称は、江戸時代に同じく築地川南支流に架けられていた小田原橋の俗称から取ったものです。当初は「築南橋」という橋名が付けられていましたが、昭和三年十一月、西本願寺の門徒代表以下五十九名から、東京市長宛に「門跡橋」への名称変更に関する陳情書が提出され、門跡橋と改称された経緯があります。この親柱は、復興事業の歴史を今日に伝える資料として重要であるとともに、震災復興橋梁がこの辺りに架けられていたことを物語る貴重な文化財です。
Newel Post of Monzeki* Bridge
The subject bridge was built in June 1928 under the reconstruction project of the great Kanto Earthquake between the bank of Tsukiji 3 chome(currently Tsukiji 3, 4) and Minamiodawaracho 1 & 2chome (currently Tsukiji 6)over the south subsidiary stream of Tsukiji River. Because of the reclamation work of Tsukiji River and the expansion work of roads starting in 1986, the bridge itself was removed. However, one granite newel post together with a part of bridge railings were moved here for conservation.
Besides, the name of MONZEKI Bridge came from the colloquial term of Odawara Bridge locating as well over the south subsidiary stream of Tsukiji River in Edo era. At first, this Bridge was named "Tsukinam Bridge", however, its name changed to
"MONZEKI Bridge" on Nov. 1928 as the petition for requesting the renaming was submitted to the Mayor of Tokyo-shi (currently Tokyo Metropolitan City) by 59 religious followers, including the head of them, of Nishi Hongwanji Temple.
This newel post is meaningful as an informational material bringing down the history of reconstruction project and also a valuable cultural asset telling the bridge under the reconstruction project was once located this area.
*MONZEKI means specified temples managed by aristocrats. Naming of class of temple.
築地魚河岸は、築地場外市場の一画にある生鮮食品販売中心の小売市場です。鮮魚や青果といった生鮮食材の他、乾物や干物や漬け魚などの加工食品を扱う専門店が入居しています。築地市場の豊洲移転後も築地周辺の活気と賑わいを将来に向けて継承するために中央区によって設置され、2016年11月にプレオープンし、2018年10月にグランドオープンしました。運営は一般財団法人中央区都市整備公社が行っていて、実質的に公設市場のような運営形態になっています。築地魚河岸は小田渡橋棟と海幸橋棟のふたつの建物から構成されていて、どちらも1階部分に店舗が並び、2階は業務スペースとなっています。小田原橋棟の3階にはフードコートやテラスなども設置され、飲食利用も可能となっています。
築地魚河岸には、豊洲市場の水産・青果の仲卸を経営母体とした小売り店など約60軒が入居していて、一般消費者だけでなく飲食店などのプロの仕入れにも対応しています。営業日は東京都中央卸売市場の開場日・休場日に準じていて、開館時間は午前5時〜午後3時となっています。鮮魚店の多くは丸のままの魚を中心に扱っていますが、店舗によっては三枚おろしなどの下処理に対応していたり、切り身や刺身を取り揃えている店舗もあり、一般消費者にも利用しやすい形態になっています。また観光客が3階のテラスですぐ食べられるような寿司や惣菜などを扱っている店舗もあります。
築地六丁目交差点脇の歩道上に「軍艦操練所跡」の案内板が立っています。築地ホテル館の案内板もあるとのことでしたが、見付かりませんでした。
軍艦操練所跡
ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は、安政四年(1857年)四月、旗本や御家人、諸藩の藩士等から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や、オランダから輸入した軍艦の運転を練習させる目的で軍艦教授所(後の軍艦操練所)をこの地にあった築地講武所内に創設しました。万延元年(1860年)正月に講武所が神田小川町(現在の千代田区)に移転をした後には、跡地一帯は軍艦操練所の専用地とされました。元治元
年(1864年)三月には焼失して、南隣りの広島藩主浅野家下屋敷のあった場所(絵図では松平安芸守蔵屋敷)へ仮移転をしています。設立当初は旗本永井尚志が総督をつとめ、長崎の海軍伝習所修業生を教授方としていました。その後、向井将監や勝海舟等が頭取をつとめました。慶応元年(1865年)七月、新たに海軍奉行を置き、慶応二年七月には海軍所と改称されました。同年十一月には再び類焼して現在の旧浜離宮庭園の地に移り、跡地には、日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館が建てられました。
Remains of Gunkan-Sorenjo
After United States Commodore Perry came to Japan leading the fleet, Edo Shogunate was urged by the necessity of the foundation of western naval forces, and opened Gunkan-Sorenjo here (on the premises of Tsukiji-Kobusho), in order to train sailing, gunnery on the sea and control method of warship to hatamoto (upper vassals), gokenin (direct vassals) and the vassals of the feudal domains in April, 1857. In January, 1860. Tsukiji-Kobusho moved to Kanda-Ogawa-machi, and all the sites became the ground
of Gunkan-Sorenjo. Gunkan-Sorenjo was burned down in March, 1864, and moved temporary to the residence site of Hiroshima feudal lord Asano family located in the southern contiguous area. At first, Nagai Naoyuki served as the director, and Nagasaki Naval Forces Training Institute graduates served as the teachers. Mukai Shogen, Katsu Kaishu, et al. served as the president afterwards. In July, 1865, the commissioner of navy was established newly, and Gunkan-Sorenjo changed the name to KaigunSyo (the Naval Forces Center) in the next year July. KaigunSyo was burned down by a spreading
fire in November of the same year, and it was moved to the ground of present Kyu Hamarikyu Teien garden, and Tsukiji Hotel Kan, which is the first western-style hotel in Japan, was built on KaigunSyo site.
- ポイント1 勝鬨橋
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勝鬨橋が架かる前は、隅田川を隔てた月島と往来するために渡し船が運航されていました。「勝鬨」は、戦いに勝った後に士気を高める目的で多数の人が一緒に叫ぶ鬨の声を意味していたのですね。
勝鬨の渡し
明治二十五年(1892年)、銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されましたが、月島側の発展にともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態でした。明治三十八年(1905年)、日露戦争の旅順要塞(中国東北部)陷落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し、東京市に寄付しました。当地にある石碑は、この時に建てられた記念碑です。石碑の正面に「かちときのわたし」とあり、側面には「明治三十八年一月京橋區祝捷會挙行之日建之京橋區同志會」と陰刻されています。設置された勝鬨の渡しの渡船場は、ここから約150メートル西の波除稲荷神社の辺りにありました。対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸通九丁目(現在の勝どき一・三丁目の境)の辺りにあって、この間を渡船が運航していました。勝鬨の渡しは、住民や月島の工場へ通う人々の重要な交通機関として大いに利用されていました。とくに、月島への労働人口の集中を容易にさせることになり、月島が工業地帯として発展する基となりました。大正十二年(1923年)の関東大震災後、架橋運動が起こり、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架せられることになりました。勝鬨の渡しは橋の架橋まで運航され、昭和十五年(1940年)六月、勝鬨橋の開通とともに廃止されました。勝鬨の渡しの名は橋名に受け継がれて今もその名を残しています。
勝鬨橋は、1930年に架橋が計画され、大型船の通航ができるように、シカゴの双葉跳開橋にならってはね橋とし、1940年に開通しました。1970年から大型船の通航もなくなり、また交通渋滞の緩和のため、「開かずの橋」となりました。隅田川と一体となって地域のランドマークとしての役割を果たすとともに、建設された時代の特色を表していることから、1999年に東京都選定歴史的建造物に選定されました。
付近にある「かちどき・橋の資料館」は勝鬨橋を開くために使用していた変電所を改修したもので、この勝鬨橋をはじめ、隅田川の橋について貴重な資料や関連情報を展示、公開しています。
かちどき・橋の資料館の前の植え込みの中に、「勝鬨橋之記」と題する石碑が置かれています。
勝鬨橋之記
明治三十七・八年の戦役に於て皇軍大捷す。京橋區民は之が戦勝を記念し、此處に渡船場を設け、勝鬨の渡と名付け東京市に寄附す。昭和八年六月東京市は新に双葉可動橋の架設に着手し、偶日支事變勃發せるも今年六月功を竣ふ。即ち橋に名付くるに亦勝鬨を以てし、長く皇軍戦勝の記念となす。
植え込みの中には、「海軍経理学校之碑」と刻まれた石碑も建っています。碑には「明治七年海軍会計学舎が芝山内天神谷に設けられたが、それが海軍経理学校となった」とその由来が記されています。
明治七年海軍会計学舎が芝山内天神谷に設けられたが、のち幾変遷を経て明治四十年これが海軍経理学校となった。その間明治二十一年校舎は築地に移されたが、その敷地は松平定信邸の浴恩園の跡に当たった。明治時代この付近には海軍の施設が多く、その一帯は海軍発祥の地とも称されている。校舎はさらに幾度かの移改築を経て、昭和七年、この西側築地の一角に移築された。太平洋戦争中就学人員激増のため、品川ほか地方三ケ所に校舎を増設した。戦後海軍解体に伴い昭和二十年九月、同校は約七十年の歴史を閉じ、その間出身者は万余をかぞえ輝かしい功績を残したが、戦後もわが国復興の中核となって活躍した。戦後三十年を機にここにその栄誉と同校の跡を記念してこの碑を建てる。
勝鬨橋の袂に石原晋太郎元都知事の署名入り石碑が置かれています。東京市の時代の建造なので、何故に石原元知事の署名が必要だったのか分かりません。
日本国重要文化財 勝鬨橋
勝鬨橋は、東京港修築工事の一環として、海運と陸運の共栄を意図し、建造された、中央二連がハの字形に跳ね上がる日本国内において唯一のシカゴ型二葉式跳間橋等で、昭和十五年(1940年)六月に竣功した。勝鬨橋の特筆すべき点として、我が国最大の可動支間を有し、大規模でかつ技術的完成度の高い構造物であり、上部構造は中央二連の中路式可動桁及び機械装置よりなる跳開橋と、左右一連の拱曲線を放物線とした下路式ソリッドリブタイドアーチからなる。下部構造は直接基礎の鉄筋コンクリート造で内部に機械装置を収め、可動桁の端部が回転する空間を備える橋脚二基と、杭基礎の橋台二基からなる。建造工事は、東京市が施工し、設計者は東京市嘱託員成瀬勝武の指導のもと同技師瀧尾達也及び安宅勝らである。
勝鬨橋西交差点から隅田川テラスに下ります。2025年1月に再訪した時は、隅田川テラスに下りるスロープの工事中で勝鬨橋から上流の区間は一部閉鎖されていました。なので、土手上の遊歩道を進みます。
中央区立はとば公園の所で遊歩道も行き止まりとなり、公園の中を通って一般道に下ります。
広場の真ん中に、銀色に輝く大きな球体のモニュメントが置かれています。井上武吉という彫刻家の作品で、「my sky hole 水の情景」というのだそうです。片方から見ると穴はひとつですが、反対側からみると穴がふたつになっています。作品のテーマがよく分かりません。
歩道の脇の植え込みの中に、「月島の渡し跡」の案内板が立っています。築地側のこの地点と月島側の対岸の地の間を船で渡していたんですね。
月島の渡し跡
「月島の渡し」は、月島一号地の埋め立てが完成して間もない明治二十五年(1892年)十一月、土木請負業の鈴木由三郎が、南飯田町(現在の築地七丁目十八番)から月島(現在の月島三丁目二十四番)へ手漕ぎの船で私設の有料渡船を開始したことに始まります。明治三十四年(1901年)月島への交通の重要性を考慮した東京市が渡船の市営化を決め、翌三十五年に汽船曳船2隻で交互運転を開始し、渡賃も無料となりました。明治四十四年には、臨海工業地帯へと発展した月島への乗客増加に対応するため、徹夜渡船も開始されました。月島の渡しの渡船場は、当初、明石橋橋詰の南飯田町にありましたが、東京市に移管されて運営が開始される明治三十五年以降は、明石町(現在の明石町十四番)に渡船場を移設し、大いに利用されてきました。昭和十五年(1940年)に勝鬨橋が架橋されたことにより、渡船の運航に終止符が打たれましたが、明治から昭和にいたるまで住民や工場へ通う人々の重要な交通機関として活躍しました。月島の渡しは、月島工業地帯の発展ひいては日本の近代化に寄与した渡船として語り継がれています。
Site of the Tsukishima Ferry
The Tsukishima ferry launched its operation in November 1892, immediately after the reclamation of the first section of Tsukishima was completed, when a privately owned hand-rowing boat began being used to carry passengers for a fee between the point in
Minami-lidamachi that is now 7-18 Tsukiji and the point that is now 3-24 Tsukishima.
In 1901, recognizing the importance of transportation to the island, the city of Tokyo decided to take over the ferry service and in 1902, two steam-powered tugboats began an alternating service at no charge. By 1911, in order to accommodate the increased number of passengers to Tsukishima which was quickly developed as a waterfront industrial district, the ferries began its operations through the night. In the beginning, the Tsukishima ferry was located at the foot of the Akashi Bridge in Minami-lidamachi. However, when the city took over the ferry in 1902, it was moved to the point that is now 14 Akashicho, which became very busy. The opening of the Kachidoki Bridge marked the end of the Tsukishima ferry. It had served for nearly half a century as a crucial means of transportation for local residents and factory workers. The Tsukishima ferry has been handed down from generation to generation as a ferry that contributed to the development of the Tsukishima industrial district and thus the modernization of Japan.
小路を挟んだ向かい側には、「電信創業之地」の石碑が建っています。
電信創業記念碑の由来
明治二年9月19日(太陽暦10月23日)横浜裁判所と東京築地運上所内に設けられた「傳信機役所」を結ぶ約32キロメートルの電信線架設工事が開始され、同年12月25日に業務を開始した。これが、我が国における公衆電気通信の最初である。この記念碑は、先駆者の業績を後世に伝えるため、昭和十五年に建立されたもので、昭和五十三年、南南東約40メートルの地点から当地へ移設されたものである
幕末期に文明開化の中心地として華やいだ明石町の一角に、1899年建造の三菱財閥の旧別邸を買い取って1931年に創業した「水たき 治作」のお店があります。約1000坪の古きよき伝統美が息づく園内と、俗世を遮断したかのような静寂で贅沢な空間の中で多彩なコース料理が提供されています。中でも、名物の「水たき」は九州出身の創業者本多次作がもたらした逸品として長年愛されています。本多次作が「東京人の味覚に合ったものを」と考え、幾多の試行錯誤の末に完成させた「鶏の水たき」は、現在でも「水たき番」と呼ばれるたった一人の専任料理人によってその味が守り継がれています。
治作の門前に、「東京税関発祥之地」という石碑が建っています。幕末期に鎖国政策が廃止され、横浜などが開港された安政六年(1859年)、長崎・横浜・函館 の3か所に「運上所」が開設され、外交事務や運上の事務を扱うことになりました。「運上」というのは、江戸時代に商工業者が払う税金の一種で、今風に言えば「取引税」のようなものでした。開港場に設置された「運上所」は関税を取り立てる役所でした。江戸の運上所は、慶応三年(1868年)にこの地に設けられました。「税関」という役所名が使われ始めたのは明治五年(1872年)からで、関東地方には横浜に横浜税関が置かれました。戦後の昭和二十八年(1953年)に「横浜税関東京税関支署」が廃止され、「東京税関」に生まれ変わりました。
史蹟 運上所跡
東京税関発祥之地
江戸幕府は、慶応三年(1867年)に、江戸築地鉄砲州(洲?)明石町の一帯を外国人居留地と定め、この地に税認業務等を行う運上所を設置しました。これが、東京税関の始まりです。
明石町河岸公園から隅田川テラスに復帰します。
佃大橋は、300年以上の歴史を持つ「佃の渡し」が廃止され、新たに1964年に架けられた橋です。当時としては珍しい大ブロック一括架設工法で架けられ、上部工形式も連続鋼床版箱桁方式で、隅田川橋梁の新しい時代を感じさせるものでした。
佃大橋西詰の高架下角地に、「佃島渡船場跡」の案内板が立っています。
中央区民文化財 佃島渡船場跡
佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲でした。江戸幕府初代将軍徳川家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区)の漁民を招いて住まわせたところと伝承されています。この島と対岸の船松町(佃大橋西詰付近)との間に正保二年(1645年)に通ったのが佃の渡しです。明治九年(1876年)には、渡し銭一人五厘の掲示札の下付を願い出て許可され、大正十五年(1926年)東京市の運営に移り、翌昭和二年三月に無賃の曳船渡船となりました。「佃島渡船」の石碑は、手こぎ渡船を廃止した記念として、この時期に建てられたものです。昭和三十年(1955年)七月には一日70往復にもなりましたが、同三十九年八月の佃大橋の完成によって300年の歴史を持つ佃島渡船は廃止されました。渡船の歴史を記念する史跡として、中央区民文化財に登録されています。
石碑の裏面に碑文があります。
佃島渡船ハ、正保二年ノ頃島民交互ノ手漕渡シニ其ノ端ヲ発シ、幾多ノ変遷ヲ経テ、大正十五年三月十日、東京市ノ経営ニ移ル。昭和二年三月廿日諸施設ノ完成ト共ニ曳船渡船ヲ開始セリ。
注記:一部読み取れない箇所は推測で補っています。
佃大橋を渡ります。なかなかの眺望です。
佃大橋の欄干に、佃大橋の由来らしき解説文と昔の隅田川の風景を描いた銅板が貼られていますが、文字は読み取れません。
佃大橋東詰で橋から下りますと、「佃島砲台跡」の案内板が立っています。
佃島砲台跡
江戸時代末期、佃島の南に位置するこの場所には、外国船の渡来に対処するための海防施設「砲台」が築かれました。江戸防衛・海防策の一環で砲台が築造されたのは、嘉永六年(1853年)六月にアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが四隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、日本の開国・貿易港の開港などを求めた出来事が契機でした。ペリー来航から二ヵ月後の同年八月、幕府は非常事態に備えて品川沖に江戸防衛用の台場(砲台)築造を始め、翌年十一月までの短期間に「第一〜第三・第五・第六・御殿山下」の六基(品川台場)を完成させました。佃島の南に砲台が築かれたのは、品川台場の築造から約十年後の元治元年(1864年)のことでした。砲台新設の契機となったのは、文久三年(1863年)に勃発した薩英戦争や元治元年の四国(英・米・仏・蘭)連合艦隊による下関砲撃事件などの出来事でした。幕府は、より強固な江戸湾防備体制を敷くため、品川から越中島までの間に新たに海岸砲台の設置を計画し、佃島砲台もその一つとして築造されました。佃島砲台の規模は「東京市史稿」の「東京通志」によると「京橋区佃島南端海中
ニアリ。東西凡三拾九間(約70メートル)、南北凡四拾間(約72メートル)、面積凡千三百七拾坪。元治元年甲子幕府之ヲ築キ、明治ニ至リ修理ヲ加へ、陸軍省ニ属ス」とあります。明治期には、陸軍省所管の砲台となりましたが、明治二十年(1887年)に始まった月島築造工事の際に、佃島砲台を基点として月島第一号埋立地(現在の月島一〜四丁目)の埋立が進められ、工事の過程でその姿を消しました。
Tsukudajima Battery Site
In the last years of the Edo period, coastal defenses called "batteries" were built on this location south of Tsukudajima to guard against invading foreign ships. The battery was constructed to defend Edo and its coastal areas in the wake of the visit to Uraga by East India Squadron Commodore Matthew C. Perry with a squadron of four war vessels in June 1853, seeking the opening of Japan and its trade ports. In August 1853. two months after the Perry's visit, in preparation for a state of emergency, the Shogunate started building batteries off Shinagawa to defend Edo and completed six batteries (Shinagawa Batteries): Nos.1,2,3,5,6 and Goten-yamashita in a short period of time by November 1854. The battery south of Tsukudajima was constructed in 1864, about 10 years after the construction of the Shinagawa Batteries. The construction of the new battery was spurred by the Anglo-Satsuma War of 1863 and the Battles for Shimonoseki in which joint naval forces from Britain, France, the Netherlands and the U.S. bombarded Shimonoseki in 1864, In order to establish a stronger Edo Bay defense system, the Shogunate planned to newly install coastal batteries from Shinagawa to Etchujima, and the Tsukudajima battery was constructed as one of them. According to the "Tokyoshi Shiko" containing Tokyo's history, the Tsukudajima Battery was once located at the southern edge of Tsukudajima, Kyobashi-ku, with a length of about 70m east-west and about 72m north-south accounting for an area of about 4.521sqm. It was
built by the Shogunate in 1864, then in the Meiji Period, it was repaired and placed under the Army Ministry of Japan. In the Meiji Period, the Army Ministry of Japan supervised the battery until 1887 when construction work began in Tsukishima. In that
project, an area starting from the Tsukudajima Battery was reclaimed as the Tsukishima No.1 landfill (currently Tsukishima 1- to 4-Chome) and the battery was lost.
初見橋交差点脇から新月陸橋の長いスロープを上がります。新月陸橋は、佃大橋と朝潮大橋を高低差なく繋ぐために架けられた陸橋です。新月陸橋は徒歩で渡ることができませんので、佃大橋と朝潮大橋を通して歩く歩行者は一旦新月陸橋の下の歩道に下りて歩く必要があります。東京マラソンを走った際には、車道がコースになっていましたので、朝潮運河を渡りきるまで佃大橋が続いているものとばかり思っていました。ヘロヘロでそんなことを考える余裕がなかったこともありますが。
- ポイント2 朝潮大橋
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スロープを上がり切ると、そこから朝潮大橋が始まります。朝潮大橋は朝潮運河に架かる橋で、橋長は240mあります。
朝潮運河と晴海運河の合流点には、佃水門が設置されています。朝潮大橋のすぐ脇にありましので、かなり迫力があります。
春海橋西交差点を右折して、新月島公園を回り込むようにして進み、月島第三小学校前で左折します。
月島第三小学校は、昭和十年(1935年)11月15日に東京市月島第三尋常高等小学校として創立されました。平成六年(1994年)に新校舎が落成しました。平成の校舎としては格調高いデザインですね。
トリトンスクエアの敷地に入ります。トリトンスクエアは、3棟のオフィスビルを中核とした複合商業施設ならびに住居群です。この場所には、かって前川國男が設計した日本住宅公団(現在の都市再生機構・UR)の晴海団地(晴海高層アパート)などがありました。建物の老朽化を踏まえ、その跡地および周辺の総面積約10haを都市基盤整備公団と再開発組合による施行で再開発を行い、中央区のマスタープランに基づき「職・遊・住」のミックスユースをコンセプトとした新しい街づくりに取り組んで、2001年4月14日にオープンしました。ふたつのビルの間に空中回廊が架けられているのが特徴的で、ランドマークになっています。トリトンスクエアの名称の由来ですが、海に囲まれた街である晴海をギリシア神話の海の神であるトリトンと掛け合わせ、さらに「トリ=Tri=3」をキーナンバーに、職・遊・住の3つの都市機能の調和性と、3棟のタワービルのイメージを併せて命名されました。また、この3棟のオフィスタワー(X棟・Y棟・Z棟)の他にW棟があり、この4つからスクエア(四角)と名付けられまし。
- ポイント3 朝潮運河
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トリトンスクエアの西側は朝潮運河に面しています。
桜小橋の脇に朝潮運河の案内板が立っています。
朝潮運河の歴史
朝潮運河は、佃・月島・勝どき・豊海と晴海地区との間を流れる延長約2.2kmの人工水路です。この運河は昭和六年(1931年)以降における晴海地区の段階的な埋め立てに伴って形成されました。かつては資材運搬航路として多くの船舶が行き交う時代もありましたが、その後の宅地化などにより運河の周辺環境は大きく変貌を遂げています。現在では、新たなまちのにぎわいと古い石積み護岸や行き交う屋形船の風情とが調和し、多様な生物や緑豊かな自然環境をもつ貴重な水辺空間となっています。
History of Asashio Canal
Asashio Canal is an artificial waterway about 2.2 kilometers long, running between the districts of Tsukuda, Tsukishima, Kachidoki and Toyomi and the Harumi district. The canal was formed as a result of a phased reclamation of the Harumi district since 1931. In the past, many ships traveled the canal to carry materials, but the surrounding area dramatically changed because of housing development and others. Today, it is a valuable waterfront area enjoying many forms of life and leafy natural environment in harmony with the bustle of the new town, the ancient masonry river wall and the traffic of houseboats.
朝潮運河の上にはトリトンスクエアの入り口と勝どき地区を結ぶ全長94mの動く歩道である「トリトンブリッジ」も架けられ、運河上の強い風雨をしのぐ快適な移動空間を実現しています。
清澄通りに面して、月島第二児童公園があります。
公園には、勝どきビュータワーが隣接しています。エントランスの天井には奇妙な人魚が貼り付いています。「マナティ2010」と題した人魚とも称されるマナティのモニュメントは、人間と野生、水と陸を結ぶ架け橋とされています。親子のマナティが地域の絆やふれあい、平和や環境の保全を象徴しているのだそうです。
公園の隅に、勝どきビュータワー建設の経緯を記した碑が建っています。
勝どき駅前地区第一種市街地再開発事業地区は、晴海通りと清澄通りが交差する一角にあり、都心部との接点の要衝に位置しながら、昭和四十年代以降は無秩序な開発や老朽化した住宅等の密集による防災上の問題が顕在化し、都心立地に相応しい新たな土地利用が望まれていました。昭和六十三年、中央区の指導により「まちづくり研究会」、平成二年3月「勝どき一丁目8・9・10番区再開発協議会」が発足。同年6月には「勝どき駅前地区市街地再開発準備組合」に発展し、都心・駅前立地を活かした多様な機能を持つ生活空間の創出と公園・公益施設の再生を図るべく、勝どきの新たな玄関口に相応しい「まちづくり」の検討が重ねられました。平成十年、中央区及び当再開発準備組合から都市再生機構に再開発事業への参画要請を行い、より具体的な計画が示されたことで、再開発事業実現に向けた機運が高まりました。翌平成十一年、当再開発事業の施行予定者として機構の勝どき駅前再開発事務所が組織され、平成十二年3月「勝どき駅前地区再開発協議会」が発足し、中央区とともに三位一体となって再開発事業の推進に取り組みました。その後、権利者の方々をはじめ多くの事業関係者の努力と協力により事業は順調に進捗し、今日勝どきビュータワーの竣工の日を迎えることができました。ここに当再開発事業に携わられた方々への感謝の意を表するとともに、事業の完了と今後の当地区の発展を願いつつ、勝どきビュータワーの竣工を記念して碑を設置します。
Quiz Spot
月島第二児童公園には「平和モニュメント」が設置されています。制作に参加した小学校の校数をお答えください。
公園内の「平和の広場」には、「平和を願い核兵器のない世界の実現」をテーマとして、平和モニュメントが設置されています。
平和モニュメントについて
「中央区平和都市宣言(昭和六十三年3月15日)」の趣旨を踏まえ、「平和」への理解を一層深めるため、「平和を願い核兵器のない世界の実現」をテーマとして平和モニュメントを設置したものです。
設置 平成二十三年(2011年)8月9日 中央区
■内容
区立小学校16校の子どもたちが作成した原画をもとに、障害のある方が制作に協力して「モザイク平板」に加工し、台座に取り付けました。
■参加した区立小学校
城東小学校 有馬小学校
泰明小学校 久松小学校
中央小学校 阪本小学校
明石小学校 佃島小学校
京橋築地小学校 月島第一小学校
明正小学校 月島第二小学校
常盤小学校 月島第三小学校
日本橋小学校 豊海小学校
「平和の花・みんなの花」 城東小学校の作品です。
「平和な世界に虹をかける」 泰明小学校の作品です。
「ぼくらの願いを折りづるに乗せて」 中央小学校の作品です。
「スマイル明石」 明石小学校の作品です。
「みんな なかよし」 京橋築地小学校の作品です。
「ピースな世界」 明正小学校の作品です。
「世界の人はみんな仲よし」 常磐小学校の作品です。
「地球を助けよう」 日本橋小学校の作品です。
「s m i l e」 有馬小学校の作品です。
「幸せな家族」 久松小学校の作品です。
「幸せがいっぱい」 坂本小学校の作品です。
「すてきなお花見」 佃島小学校の作品です。
「平和を守る鳥」 月島第一小学校の作品です。
「いっしょだよ うれしいな」 月島第二小学校の作品です。
「青空ひろがる船の上」 月島第三小学校の作品です。
「明るい未来へ」 豊海小学校の作品です。
- ポイント4 築地大橋
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浜前水門近くの歩行者専用(自転車も可)エレベータで築地大橋の高架歩道に上がります。
築地大橋は、環二通りが隅田川を渡る橋梁です。隅田川の最も下流にあり、平成二十七年度に完成した最も新しい橋です。頭上に横繋ぎ材の無い開放感がある鋼3径間連続中路式アーチ橋で、平成三十年度の土木学会田中賞を受賞しています。橋長は245mで、幅員は32.3m〜48.0mあります。橋名の揮毫は、当時の都知事だった舛添要一氏です。橋のあちこちに舛添要一氏のプレートが貼られています。
橋の中央部付近に、田中賞を受賞した経緯を記した石碑が設置されています。
築地大橋
構造形式: 鋼3径間連続中路式アーチ橋
橋 長: 245.0m
築地大橋は、平成三十年度土木学会田中賞「作品部門」を受賞しました。
「田中賞」とは、昭和四十一年度に創設され日本の橋梁建設部門では極めて栄誉ある賞です。関東大震災後の首都復興に際し、帝都復興院初代橋梁課長として、隅田川に架かる永代橋、清洲橋など東京を象徴する名橋を生み出された、故田中豊博士の功績をしのんで設けられました。
本橋は、隣接する勝鬨橋に替わり隅田川の「第一橋梁」となるため、首都東京のウォーターフロントの新たなシンボルとなるようデザインしました。勝鬨橋と調和するようアーチ形式を採用し、アーチ部材を外側に傾け上横支材をなくすことで、開放的な橋上空間を生み出すとともに、先進性・未来性が感じられるダイナミックかつ繊細なシルエットを実現しています。
アーチ部材が外側に傾いていることで、従来の橋のイメージとは異なった未来感を醸し出しています。
歩道からは、直ぐ上流に架かっている勝鬨橋が眺められます。中央二連の跳開部が正面から見れるのはここだけでしょう。
橋からは高層ビルが連なる都心の風景が一望できます。浜離宮や東京タワーも見えますね。
更地となった旧築地市場跡地には雑草がはびこっています。何年か後にはここにドーム球場が出現するかも?
ということで、中央区で八番目の「Course8.築地・月島・晴海 隅田川と運河の光景」を歩き終えました。次は中央区で最後のコースである「Course9.佃・湊・月島 ウォーク&ジョグ」を歩きます。
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