- Course9.佃・湊・月島 ウォーク&ジョグ
- コース 踏破記
- 今日は中央区の「Course9.佃・湊・月島 ウォーク&ジョグ」を歩きます。月島スポーツプラザからリバーシティ21の超高層住宅を縫って中央大橋を渡り、鉄砲州稲荷を経て聖路加タワー脇から隅田川テラスを歩きます。最後は勝鬨橋を渡り、月島川水門を経てゴール地点の月島スポーツプラザに戻ります。最初に歩いたのは2022年の2月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年1月に改めて歩きました。
Course9.佃・湊・月島 ウォーク&ジョグ
「Course9.佃・湊・月島 ウォーク&ジョグ」の歩行距離は約5.0km(約7、100歩)、歩行時間は1時間約15分、消費カロリーは約225Kcalです。
スタート地点:月島スポーツプラザ
↓
- ポイント1 中央大橋
-
主塔のイメージは兜の鍬形(角)。北側歩道にはパリ市から贈られたメッセンジャー像があります。
↓
- ポイント2 亀島川緑道
-
四季の草花を楽しみつつ散策できる親水遊歩道。南高橋や佃の高層マンション群も見られます。
↓
- ポイント3 明石町緑道
-
聖路加ガーデン前の広い歩道には小さな水路があり、春には桜スポットとして多くの人が集まります。
↓
- ポイント4 月島川みどりの散歩道
-
ソメイヨシノをはじめ、さまざまな植物と出会える遊歩道です。
↓
ゴール地点:月島スポーツプラザ
スタート地点の月島スポーツプラザから歩き始めます。
初見橋交差点の先にド派手な看板の「肉のたかさご」があります。昭和二十二年に「高砂牛肉店」として創業して以来、基本方針である「品質本位」を掲げ、精肉店として70余年、初代の教え「一両の客より十文の客を大切にせよ」の教えをもとにお客様に寄り添って今日まで営業しているとのことです。特に、「東京やき豚」と「ローストビーフ」は東京みやげの新定番として好評なようです。JALショッピングでも取り扱われています。ローストビーフに惹かれるのですけど、今日のところはパスします。
相生橋は隅田川派川に架かる橋で、上流の永代橋に相対する橋として名付けられました。形式は、大正八年に市電を通すため改築した先々代の橋の姿にならい、トラス橋としました。トラス橋は、細長い部材を三角形に組みたでて橋桁とした橋です。新しい相生橋は、隅田川や中の島公園とともに多くの人々の憩いの場として親しまれるよう整備されました。橋の長さは149.1m・幅員36.8mです。平成十年12月19日に全線開通しました。
相生橋
佃島が埋立てられて月島となって人々が住む町が開けるとともに、交通の便や水道が必要になった。そこでまず深川との間にこの相生橋が架けられた。明治三十六年(1903年)のことであった。その後改修され、中の島で大橋と小橋とに分かれるようになった。隅田川がここで左右に大きく分岐するところの左側にあたっていて、川が湾曲するするため、上流から流れてきたものが滞留したところである。関東大震災の時も、今次の大戦の空襲のあとにも、さまざまなものが山のように集まった。ことに震災の時までは木橋であったため、橋も延焼した。現在の橋は、大正十五年(1926年)11月に、 震災復興事業の最初の架橋として完成した。
隅田川に沿って石川島公園があります。嘉永六年(1853年)、現在の中央区佃に位置していた石川島の地に、水戸藩主徳川斉昭の手によって石川島造船所が創設され、現在の石川島播磨重工業の母胎となりました。以来、石川島播磨重工業は造船を始め、様々な産業分野で日本の歴史とともに歩んできましたが、工場は昭和五十四年(1979年)にその役割を終え、以降この地はウォーターフロント開発として「リバーシティ21」と名付けられました。
リバーシティ21は、昭和六十一年(1986年)に着工され、平成十二年(2000年)に完成した超高層住宅で、石川島播磨重工業の工場跡地を中心に、隅田川沿いの堤防・遊歩道、公園・緑地、学校、住宅を含めて再開発されたものです。隣接する下町情緒の街並みと見事なコントラストを見せています。
リバーシティ21の高層住宅の1階に、石川島資料館があります。石川島資料館は、「石川島からIHIへ」をテーマにして、造船所の創業から現在までと、それと深い関わりを持つ石川島・佃島の歴史や文化と共に、貴重な資料や当時を再現したジオラマ模型などで紹介し、歴史の中でIHIが果たしてきた役割を伝える個性溢れる資料館です。残念ながら今日は休館日でした。
- ポイント1 中央大橋
-
中央大橋は、平成六年(1994年)1月に開通し、隅田川に架かる橋で平成時代に初めて建造された新規の橋です。隅田川はフランスのセーヌ川と平成元年(1989年)に友好河川を提携していて、中央大橋を架橋する際にはフランスのデザイン会社に設計を依頼しました。そのためか、主塔と欄干部分に日本の「兜」を意識した特徴的な意匠が施されています。
橋の中央部に展望デッキがあり、その脇にパリ市から寄贈された銅像が建っています。パリ万博に出品された作品で、稀少木材を求めて海外に派遣されたフランスの守護神を表現したものだそうです。展望台からは見えませんが、レリーフの画にあるように、像の胸には帆船を抱いています。
"Le Messager"d' Ossip ZADKINE offert par la Ville de Paris a la Ville de Tokyo pour celebrer I 'amitie qui unit les deux villes et leurs fleuves.
Tokyo le 27 Oct.92
Jacques
両都市と両河川をつなぐ友好を配念して、パリ市は東京都へオシップ・ザッキン作「メッセンジャー」を寄贈する。
92年10月27日 東京にて
ジャック シラク
「メッセンジャー」(Le messager)
本作品は、1937年オシップ・ザッキン(Ossip ZADKINE)47才の時の作品である。この年に開かれた「パリ万国博覧会」に出品された作品であり、オシップ・ザッキンの作品の中でも大作の一つに数えられている。当時の万国博覧会の案内書によるとこの作品は稀少木材を求めて海外に船を派遣するフランスの守護神を表したもの」とされている。「メッセンジャー」は、パリ市の紋章にも描かれている帆船を思わせる船を抱いている。
新川二丁目交差点を左折して高橋に向かいます。交差点角の薬局の名前が「越前堀薬局」となっています。越前堀は、江戸時代初期に福井藩主松平越前守の屋敷地周辺にコの字型に巡らされていた水路です。中央大橋付近には戦後も残されていましたが、平成五年(1993年)に埋め立てられ、八重洲通りが整備されました。
高橋は亀島川に架かる橋で、創架は江戸時代初期といわれています。赤穂浪士一行が吉良邸で討ち入り後に旧主の墓前がある泉岳寺に向かった際に渡ったと伝えられています。橋の西詰には八丁堀駅があり、橋の下には京葉線が通っています。明治十五年(1882年)10月、日本人技術者によって設計された初の国産道路橋として錬鉄製ワーレントラス橋に架け替えられました。その後、大正八年(1919年)に三連鉄筋コンクリートアーチ橋に架け替えられ、現在の橋は昭和五十八年(1983年)3月に架け替えられました。
- ポイント2 亀島川緑道
-
亀島川は、日本橋川から日本橋水門で分かれ、隅田川に注ぐ1.1kmの一級河川です。江戸初期に霊巌上人が芦原を埋め立てて霊巌島(現在の新川)を造成して霊巌寺を建立しました。その際に埋め残された水路が亀島川です。亀島川緑道は、亀島川に存在する唯一の水辺遊歩道で、高橋と南高橋との区間の右岸に位置し、平成二十八年(2016年)4月にオープンしました。鉄砲洲通りに面した広場と水辺に造られた遊歩道で構成されています。
遊具は設置されていませんが、休息用のベンチがあります。巨大な植木鉢に植樹されているのが珍しいですね。
この地点は、かって桜川が亀島川に流れ込んでいました。現在、桜川は埋め立てられ、河口部には東京都下水道局桜橋第二ポンプ所の巨大な建物が位置しています。屋上は緑化され、桜川屋上公園になっています。
河口部に架けられていたのが稲荷橋です。歩道の目立たないところに小さな親柱が残されています。
湊一丁目交差点の先に鉄砲洲稲荷神社があります。稲荷橋の橋名の由来となった神社です。鉄砲洲稲荷神社は、江戸時代には江戸湊に面して鎮座する稲荷神社として人びとの信仰を集め、明治元年(1868年)に現在地へ移転しました。関東大震災によって被害を受けた境内は、昭和十年(1935年)から復興・整備され、現存する主要な建物はこのときに建造されました。
鐵砲洲稲荷神社
鐵砲洲稲荷神社は、江戸湊の入口に鎮座する神社として、地域の人々の信仰を集めてきました。神社は、寛永元年(1624年)頃、稲荷橋南東詰に遷りましたが、明治元年(1868年)現在地に移転し、今日に至っています。関東大震災により被害をうけた境内は昭和十年(1935年)より復興、整備され、正面中央奥に社殿、左手に神楽殿と摂社八幡宮、右手に社務所と手水舎が向い合うように配置され、境内西南隅に神輿庫が設けられています。また、西北隅には富士山の溶岩で築いた富士塚があり、そこを富士信仰の場としていました。むかしの富士塚は「江戸名所図会」にも描かれた有名なものでした。境内は昭和初期の神社建築とその配置の有様をよく伝えており、また、富士塚も区内唯一の富士信仰の名残りをとどめている点から、共に中央区民文化財に登録されています。
鉄砲洲稲荷神社の入口に立っている社号標の裏に、神社の由緒が書かれたプレートが掲げられています。
京橋地区の生成並に鐵砲洲稲荷神社御由緒
鐵砲洲の地は、徳川家康人府の頃は、既に鐵砲の形をした南北凡そ八丁の細長い川口の島であり、今の湊町や東部明石町の部分が之に相当します。寛永の頃は此処で大砲の射撃演習をしていたので、此の名が生まれたとも伝えられています、昔の海岸線は現在のものより遥かに奥まったものであって、八町堀の掘られたのが慶長十七年であり、京橋あたりの土地形成が、天文の頃、足利義輝の治世になっていますが、之等京橋地区一帯の土地生成の産土の神こそ、現在の鐵砲洲稲荷神社の「生成大神」であります。遠く平安時代初期の人皇第五十四代仁明天皇の永和八年(皇紀千五百一年 西暦841年)に年来打続く凶作に教えられる所あって、此の土地の住民達が自らの産土の国魂神を祀り、万有の生命を生かし成し給う大御親生成の大神として、仰いでその神恩を感謝し奉り、日常の御守護を祈願致しました。所が此の御鎮座の地が、当時の東京湾の最も奥に位置していました為に、港として諸船舶の出入繁く、霊験あらたかなる神徳と相まって当然の結果として船乗人の崇敬が頗(すこぶ)る厚くなりました。その後理立が進行して、現在の京橋のあたりへ御遷座となり、更に室町末期の大永年中に氏子崇敬者達の願望によって、又新しい海岸へ遷座し奉って、八町堀稲荷神社と称しました。
今の新京橋の近くであります。所が更にその後年にも埋立が進行して海岸が東方へ移りましたので、寛永元年には南八町堀地続きとなった鐵砲洲に生成大神を御遷座申し上げ、従来から鐵砲洲御鎮座の八幡神社を摂社とし、以って今日の鐵砲洲稲荷神社の基礎を築かれました。此の時代を通して江戸で消費する米、塩、薪炭を始め、大抵の物資は悉く此の鐵砲洲の港へ入って来ました為に、大江戸の海の玄関に位置する此の鐵砲洲に御鎮座のいなり大神は船員達の海上守護の神としても崇敬されました。港が横浜や芝浦に移転してしまった現在でもなお、特殊神事冬至海運祈願祭に授与する「金銀富貴」の神札等は、全国的に篤く崇敬されて、諸諸方々の人々から拝載されています。抑も此の神札は、此の土地の氏子達は勿論のこと、全人類をして悉く、「富み且つ貴からしめたい」との御神慮に基くものであります。さて、我等は如何にして富み且つ貴くなる事が出来るかと言うに、それには各自悉くが自分の親を大切にして先祖を供養し、子孫の為に善根を培って行けば、人も自分も、先祖も子孫も、此の世にも彼の世にもみんな救われて永遠の生命に生きることが出来ます。また天地生成の恵みに感謝し、人のお陰様に報思の誠を捧げて行けば、必ず富み且つ貴い運命を開く事が出来ます。此の運命開拓の御催促と共に力の不足に対する、カの本源である大御親神から愛子への愛の御力添えが、此の金銀冨貴の神札であります。
本殿の左手には大小ふたつの石碑が建っています。大きい石碑には「和平神繆斌顕彰碑」と記され、彼の功績が記されています。小さい方には、終戦処理内閣の首相だった東久邇宮稔彦王とのツーショットが彫りこまれています。繆斌(みょうひん)は、太平洋戦争の末期の昭和二十年3月16日に蒋介石の密名を受けて来日し、東久邇宮殿下に会談を申し入れて翌17日に会談しました。日本との和平工作に奔走しましたが、最終的に天皇の反対により「繆斌工作」は失敗しましたが、汪兆銘政権の要人でありながら蒋介石側ともつながっていた人物です。
本殿の脇に、今時珍しい二宮尊徳の銅像が建っています。
二宮尊徳先生は本名金次郎 天明七年(1787年)相州二宮に生れ、早くして両親を亡くし、水害で田畑を失ひ、伯父万兵衛に引き取られて農奴となる。夜間と雖も勉学を許されず、荷を肩に運びながらも讀書にいそしむ姿を、此の銅像に表はせり。家老服部家の下郎となりて、若殿を學問所へ送る 教室の廊下に上がる事も許されず、床下に潜りて、講義を洩れ聴いて、學業に勤めり。勤倹、貯蓄、推譲によって世を導き、多くの人を助けて、一世の師表と仰がる。「天下の貧者を見ては、普く之を救済して、富に至らしめん事を祈願するものなり」「民を水火から救ふ能はずんば吾が身を猛火に投ぜん」と神佛に祈った。忍従と不退転との決意を實行して、萬人に拝まれ、世界から崇められて、報徳二宮神社に神鎮まります。
本殿の右手奥には鉄砲洲浅間神社が祀られていて、富士塚があります。
富士塚とは、富士信仰の講中(神社・仏閣への参詣などを目的に作られた信仰者の仲間)が富士山を模して造営した人工の塚です。日本では、古くから富士山を霊峰として崇拝し、信仰登山も盛んに行われてきました。特に江戸では、人々の生活と富士が深く結びついていて、1月3日の早朝に行う初富士の礼拝、6月1日の山開き(家々の軒下で線香を焚いて富士を遙拝)や浅間神社の祭礼などの年中行事もありました。江戸時代中期になると、江戸を中心に庶民の間で富士登拝を目的とする富士講(富士山を信仰対象として結ばれた宗教組織)が生まれ、その後も「八百八講」といわれるほど数多くの枝講が生まれました。白装束に身を固めた行者スタイルでの富士登拝は危険を伴う厳しい長旅でした。そこで、老人・子ども・女性などでも富士参詣(富士塚登拝)が出来るようにと各所に人造富士が築かれたのです。鉄砲洲稲荷神社の富士塚は、明治七年(1874年)に再築造(「湊稲荷」と称した旧社地【現在の湊一丁目8番付近】には寛政二年築造の富士塚がありました)されたものです。その後、関東大震災後の区画整理(昭和三年)や社殿造営(昭和十一年)に伴う移設などを経て現在に至っています。鉄砲洲稲荷神社の富士塚は、富士山の五合目以上の姿を模したもので、山腹全体は富士の岩肌を表現するように黒ぼく石(富士山の溶岩)で覆われています。
高さ約5メートル・面積約95平方メートルの塚には、自然石で造られた「く」の字形の登山道が設けられ、正面左手前に池、右手の山裾に洞窟(開祖・長谷川角行が修行した人穴を再現)があります。
中腹に末廣稲荷と稲荷大神の石祠、山頂付近に烏帽子型の白い巨石(中興の祖である食行身禄の入定を象徴)、山頂に奥宮(富士浅間神社の石祠)が祀られています。
また、山腹には富士講に関する32基の石碑があり、中でも「藤」の講印(講紋)が陰刻された「丸藤講(身禄の弟子の高田藤四郎を講祖とする組織)」の記念碑が数多く建立されています。碑銘には、丸藤講の先達(信仰面の指導者)や講元(運営面での責任者)名が記されていて、富士講が盛んであった様子が想像されます。
鉄砲洲通りを聖路加タワー方向に進み、佃大橋に繋がる高架下を抜けた先の歩道部分に明石町緑道があります。
- ポイント3 明石町緑道
-
明石町の町名の由来は、播磨国明石の漁師が移住してきたからとも、風景が明石浦に似ているからともいわれています。明石とは赤い石、即ち赤いサンゴのことをいいます。かって、明石地方では卵の白身を用いた模造珊瑚の装飾品である「明石玉」の生産が盛んでした。その過程で卵の黄身が余ったために、明石焼きが生まれたという説もあります。それはさておき、この地にはかって鉄砲洲川という、寛永期頃に開削された掘割がありました。しかし、関東大震災後の昭和四年(1929年)に瓦礫処理のために埋め立てられ、現在の鉄砲洲通りとなりました。明石町緑道と鉄砲洲川の関係はよく分かりませんが、恐らくは鉄砲洲川に由来しているのではないかと思われます。
植え込みの中に、「青山学院記念の地」の石碑が建っています。
青山学院は、米国メソジスト監督教会の宣教師により創立された三つの学校を源流としています。「海岸女学校」は、ドーラ・E・スクーンメーカーによって創立された源流の一つ「女子小学校」(1874年麻布に開校)が「救世学校」を経てこの地で大きく発展したもので、明治の女子教育に多大な足跡を残すとともに、青山学院の礎となりました。
碑面には、1877年に開校した「海岸女学校」の校名が記されています。
明治七年(1874年)、築地の外国人居留地内に英国人宣教医師ヘンリー・フォールズが健康社病院を開設し、後に築地病院と改称しました。フォールズは、わが国の指捺印の習慣に興味をもち、たまたま発掘された土器に古代人の指紋を発見しました。これに触発され、フォールズは科学的な指紋の研究を行いました。明治十三年(1880年)10月、英国の雑誌「ネーチュア」に日本から投稿した論文で犯罪者の個人識別の科学的指紋捜査法を発表しました。30年後の明治四十四年(1911年)4月から警視庁はフォールズの指紋捜査法を採用しました。植え込みの中に「指紋研究発祥の地 ヘンリー・フォールズ住居跡」の石碑が置かれています。
指紋研究発祥の地
ヘンリー・フォールズ住居の跡
ここは明治初年にあった築地居留地の18号地で英国人医師ヘンリー・フォールズ(1843年〜1930年)が明治七年(1874年)から同十九年(1886年)に至る滞日中に居住した所である。フォールズはスコットランド一致長老教会の宣教師として来日し、キリスト教布教のかたわら築地病院を開いて診療に従事し、また日本人の有志とはかって盲人の保護教育にも尽力した。彼はわが国で行われていた指印の習慣に興味をもち、たまたま発掘された土器に印象されていた古代人の指紋を発見し、これにヒントを得て、ここではじめて科学的な指紋の研究を行なった。明治十三年(1880年)10月、英国の雑誌「ネーチュア」に日本から投稿した彼の論文は科学的指紋法に関する世界最初の論文といわれ その中で早くも犯罪者の個人識別の経験を発表し、また指紋の遺伝関係にも言及している。明治四十四年(1911年)4月1日、わが国の警察においてはじめて指紋法が採用されてから満50年の今日、ここゆかりの地に記念碑を建立し、その功績をたたえるものである。
聖路加タワー脇の植え込みの中に、アメリカ公使館跡の案内板が置かれています。この付近にはかって北の方向から鉄砲洲川が流れていて、それと隅田川の間に築地外国人居留地がありました。安政六年(1859年)6月、日米通商条約締結で麻布の善福寺がアメリカ公使館になり、初代公使ハリスが駐在しましたが、明治八年(1875年)に善福寺から明石町新湊橋東詰の居留地の新公使館に移転しました。その後、明治二十三年(1890年)5月に現在の赤坂一丁目のアメリカ大使館の地に移転しました。
アメリカ公使館跡
開港によって日本に駐在した初代アメリカ公使ハリスは、安政六年(1859年)に現在の港区元麻布1−6の善福寺に公使館を開設しました。ついで明治七年(1874年)、築地居留地内のこの地に公館を新築し、はじめて形容を整えました。後にこれが手狭となり、同二十三年(1890年)、赤坂の現在地(アメリカ大使館)に移転しました。公使館跡には、小松石の記念碑が残されていました。大きさは、縦86〜101センチメートル、横84〜118センチメートル、厚さ18〜34センチメートル、うち、二個には当時のアメリカの国章である盾、一個には星と鷲と盾、二個には五稜の星が刻まれています。現在三個は聖路加国際病院トイスラー記念館の前に、二個は聖路加ガーデン内に移されています。この記念碑は、築地の居留地時代を伝える貴重な遺品として、中央区民有形文化財に登録されています。
American Legation Site
The American Legation was first opened by Townsend Harris, the first United States Consul-General to Japan, who resided here following the opening of Japanese ports, at Zenpukuji Temple (currently, 1-6, Moto-Azabu, Minato-ku, Tokyo), in 1859. In 1874, it was moved to the "foreigners' settlement" here in Tsukiji, where a building was formally established as the Legation. With the need for more space, it was moved again to Akasaka, at the site of the present U.S. Embassy in 1890. On the last move, monument stones made of "Komatsu Ishi" were left to commemorate the site. The tablets are about 86 to 101 cm (34 40") in height, 84 to 118 cm (33 46") in width, and 18 to 34 cm (7 13") in thickness, two of them carved with shields, (the American national emblem at that time); another is carved with a star, an eagle and a shield, and two bear pentagonal star carvings. Three of the stones were moved to the front of the
Teusler Memorial Hall of St. Luke's International Hospital, while two were moved to St. Luke's Garden. As valuable remains, that commemorate the Tsukiji settlement in our history, these monuments were registered as cultural assets of Chuo-ku.
聖路加レジデンスは、1階から31階がケアレジデンス(175戸)になっていて、70歳から79歳を入居基準年齢とし、入居時に保証金・入会金および20年間分の前払費用を一括で支払うシステムになっていて、その額は最低でも2億円を超えるそうです。4階に付帯医療施設である「聖路加クリニック」が設置され、聖ルカレジデンスが運営・管理を手掛けています。
明石町河岸公園は、聖路加ガーデンの裏手にある中央区立の公園です。公園の設備はベンチのみでトイレや遊具などはありませんが、道幅が広く綺麗に整備されて木陰も多く、隅田川沿いの遊歩道的な公園です。公園からは隅田川を行き交う水上バスを見ることができ、夜には月島方面や大川端リバーシティ21方面の高層マンションを中心に、中央大橋や勝どき橋のライトアップも観賞できる都会の夜景を楽しめる場所として、そして春にはたくさんの桜が咲き、お花見スポットとしても知られています。高層ビルやタワーマンションが川沿いに見える都会の雰囲気と自然の調和が感じられる公園です。ドラマのロケ地として撮影でよく使われ、これまで何度もドラマ作品に登場しています。2019年放送のテレビ東京ドラマ「よつば銀行 原島浩美がモノ申す!この女に賭けろ」で菅原大吉さん演じる丹波郁雄が、真木よう子さん演じる原島浩美に記念品を渡した水辺として登場しました。また同年放送の日本テレビドラマ「イノセンス冤罪弁護士」にも登場しています。2017年には、日本テレビドラマ「ボク、運命の人です。」で、満島真之介さん演じる定岡が菜々緒さん演じる四谷三恵にプロポーズした場所として登場していて、それ以前にも何度もドラマ作品に登場しています。
明石町河岸公園から煉瓦塀脇の石段を下りて隅田川テラスに出ます。下流には勝鬨橋が見えます(2025年1月に再訪した時は、勝鬨橋から隅田川テラスに下りるスロープが工事中で勝鬨橋は見えませんでした)。
勝鬨橋が架かる前は、隅田川を隔てた月島と往来するために渡し船が運航されていました。「勝鬨」は、戦いに勝った後に士気を高める目的で多数の人が一緒に叫ぶ鬨の声を意味しています。
勝鬨の渡し
明治二十五年(1892年)、銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されましたが、月島側の発展にともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態でした。明治三十八年(1905年)、日露戦争の旅順要塞(中国東北部)陷落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し、東京市に寄付しました。当地にある石碑は、この時に建てられた記念碑です。石碑の正面に「かちときのわたし」とあり、側面には「明治三十八年一月京橋區祝捷會挙行之日建之京橋區同志會」と陰刻されています。設置された勝鬨の渡しの渡船場は、ここから約150メートル西の波除稲荷神社の辺りにありました。対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸通九丁目(現在の勝どき一・三丁目の境)の辺りにあって、この間を渡船が運航していました。勝鬨の渡しは、住民や月島の工場へ通う人々の重要な交通機関として大いに利用されていました。とくに、月島への労働人口の集中を容易にさせることになり、月島が工業地帯として発展する基となりました。大正十二年(1923年)の関東大震災後、架橋運動が起こり、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架せられることになりました。勝鬨の渡しは橋の架橋まで運航され、昭和十五年(1940年)六月、勝鬨橋の開通とともに廃止されました。勝鬨の渡しの名は橋名に受け継がれて今もその名を残しています。
勝鬨橋は、昭和五年(1930年)に架橋が計画され、大型船の通航ができるように、シカゴの双葉跳開橋にならってはね橋とし、昭和十五年(1940年)に開通しました。昭和四十五年(1970年)から大型船の通航もなくなり、また交通渋滞の緩和のため、「開かずの橋」となりました。隅田川と一体となって地域のランドマークとしての役割を果たすとともに、建設された時代の特色を表していることから、平成十一年(1999年)に東京都選定歴史的建造物に選定されました。
付近にある「かちどき・橋の資料館」は勝鬨橋を開くために使用していた変電所を改修したもので、この勝鬨橋をはじめ、隅田川の橋について貴重な資料や関連情報を展示、公開しています。
かちどき・橋の資料館の前の植え込みの中に、「勝鬨橋之記」と題する石碑が置かれています。
勝鬨橋之記
明治三十七・八年の戦役に於て皇軍大捷す。京橋區民は之が戦勝を記念し、此處に渡船場を設け、勝鬨の渡と名付け東京市に寄附す。昭和八年六月東京市は新に双葉可動橋の架設に着手し、偶日支事變勃發せるも今年六月功を竣ふ。即ち橋に名付くるに亦勝鬨を以てし、長く皇軍戦勝の記念となす。
勝鬨橋の袂に石原慎太郎元都知事の署名入り石碑が置かれています。
日本国重要文化財 勝鬨橋
勝鬨橋は、東京港修築工事の一環として、海運と陸運の共栄を意図し、建造された、中央二連がハの字形に跳ね上がる日本国内において唯一のシカゴ型二葉式跳間橋等で、昭和十五年(1940年)六月に竣功した。勝鬨橋の特筆すべき点として、我が国最大の可動支間を有し、大規模でかつ技術的完成度の高い構造物であり、上部構造は中央二連の中路式可動桁及び機械装置よりなる跳開橋と、左右一連の拱曲線を放物線とした下路式ソリッドリブタイドアーチからなる。下部構造は直接基礎の鉄筋コンクリート造で内部に機械装置を収め、可動桁の端部が回転する空間を備える橋脚二基と、杭基礎の橋台二基からなる。建造工事は、東京市が施工し、設計者は東京市嘱託員成瀬勝武の指導のもと同技師瀧尾達也及び安宅勝らである。
勝鬨橋を渡ります。勝鬨橋は、中央二連がハの字形に跳ね上がる跳間橋ですが、今は閉じたままです。
勝鬨橋には、かって9系統と11系統の都電が通っていました。都電なら当然のことながら架線がないと動きません。地上なら道路の脇に支柱を立てて、そこから架線を張ればいいのでしょうけど、橋の場合はその様式によって架線の張り方も変わっていた筈です。橋の上部を見ますと、間隔を空けて鋼材が両側から渡してあります。恐らく、これらの鋼材を使って架線が張られていたのではないかと思います。でも橋が跳ねて床面が上がるとどうなるのでしょうか?分かりません。。。
勝鬨橋の東詰から隅田川の上流に向かって土手を進みます。月島川が隅田川に合流する地点に月島川水門が設置されています。月島川は月島と勝どきの間を流れる川で、夏から秋にかけてハゼがよく釣れます。月島川水門は昭和三十九年(1964年)に完成しました。通常時は船舶が通航するために開放されていますが、高潮やは津波時には、周りの住吉水門・浜前水門などと共に閉鎖され、月島・勝どきなどの防潮堤で囲まれた地域の住民の生命・財産を守っています。
- ポイント4 月島川みどりの散歩道
-
月島川みどりの散歩道は、月島川水門から朝潮運河までの川の両側に桜の木を植樹し、遊歩道を整備したものです(一部途切れています)。特に、西仲橋までの区間は遊歩道がブロック敷になっていて、休息用のベンチも設けられています。
月島川に架かる西仲橋を渡ります。
西仲橋は、2017年度の「土木学会デザイン賞 優秀賞」を受賞しています。
Quiz Spot
ここには架け替え前の西仲橋で使われた建材が展示されています。どんな建材が展示されていますか?
橋を渡った左手の歩道脇に長〜〜〜い丸太が展示されています。杭の先端部分に使用されていた米松だそうです。
西仲橋の歴史
現在の西仲橋は、平成二十六年(2014年)3月に架け替えられました。架け替え前の西仲橋は、昭和三十一年(1956年)に架橋され、橋脚・橋台の基礎として、合わせて70本の木杭(米松)が使われていました。この木杭は、現在の西仲橋架橋の際に、月島川から取り出し展示するとともに、ベンチとしても再利用しています。また、以前の西仲橋の橋台前面にあった石積みは、擁壁や植栽ますとして再利用しています。
History of Nishinaka Bridge
The new Nishinaka Bridge was constructed in March 2014. The old Nishinaka Bridge had been built in 1956 with the 70 woodpiles (Douglas fir) underneath. These piles were
removed from the Tsukishima River for the new bridge construction, then being exhibited at one end of the bridge, and were reused for making benches on either side
of the river. The masonry building the old bridge was also recycled and became tree pits and retaining walls.
このベンチも建材を再利用して作られたのでしょうか?
隅田川の堤防の内側にある「月島わたし児童遊園」の隅に、「月島の渡し跡」の案内板が立っています。昭和十五年まで、約50年間「月島の渡し場」があった場所です。
注記:「月島わたし児童遊園」は2022年5月6日に閉園になりました。
月島の渡し跡
「月島の渡し」は、月島一号地の埋立が完成して間もない明治二十五年(1892年)十一月、土木請負業の鈴木由三郎が、南飯田町(現、築地七丁目)から月島(現、月島三丁目)へ、手漕ぎの船で私設の有料渡船をはじめたことにはじまるといいます(「月島発展史」)。明治三十四年(1901年)、月島への交通の重要性を考慮した東京市が市営化を決め、翌三十五年、汽船曳船二隻で交互運転を開始し、渡賃も無料となりました。月島は東京の臨海工業地帯として発展し、明治四十四年には、乗客の増加に対応するために徹夜渡船が開始されました。その後、昭和十五年(1940年)には勝鬨橋が架橋され、渡船の利用者は減少の一途をたどり、月島の渡しは廃止されることとなりました。
こんな風景だったみたいです。
佃大橋の手前で隅田川テラスから上がって、ゴール地点の月島スポーツプラザに向かいます。道路の脇に、「佃島砲台跡」の案内板が立っています。
佃島砲台跡
江戸時代末期、佃島の南に位置するこの場所には、外国船の渡来に対処するための海防施設「砲台」が築かれました。江戸防衛・海防策の一環で砲台が築造されたのは、嘉永六年(1853年)六月にアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが四隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、日本の開国・貿易港の開港などを求めた出来事が契機でした。ペリー来航から二ヵ月後の同年八月、幕府は非常事態に備えて品川沖に江戸防衛用の台場(砲台)築造を始め、翌年十一月までの短期間に「第一〜第三・第五・第六・御殿山下」の六基(品川台場)を完成させました。佃島の南に砲台が築かれたのは、品川台場の築造から約十年後の元治元年(1864年)のことでした。砲台新設の契機となったのは、文久三年(1863年)に勃発した薩英戦争や元治元年の四国(英・米・仏・蘭)連合艦隊による下関砲撃事件などの出来事でした。幕府は、より強固な江戸湾防備体制を敷くため、品川から越中島までの間に新たに海岸砲台の設置を計画し、佃島砲台もその一つとして築造されました。佃島砲台の規模は「東京市史稿」の「東京通志」によると「京橋区佃島南端海中ニアリ。東西凡三拾九間(約70メートル)、南北凡四拾間(約72メートル)、面積凡千三百七拾坪。元治元年甲子幕府之ヲ築キ、明治ニ至リ修理ヲ加へ、陸軍省ニ属ス」とあります。明治期には、陸軍省所管の砲台となりましたが、明治二十年(1887年)に始まった月島築造工事の際に、佃島砲台を基点として月島第一号埋立地(現在の月島一〜四丁目)の埋立が進められ、工事の過程でその姿を消しました。
Tsukudajima Battery Site
In the last years of the Edo period, coastal defenses called "batteries" were built on this location south of Tsukudajima to guard against invading foreign ships. The battery was constructed to defend Edo and its coastal areas in the wake of the visit to Uraga by East India Squadron Commodore Matthew C. Perry with a squadron of four war vessels in June 1853, seeking the opening of Japan and its trade ports. In August 1853. two months after the Perry's visit, in preparation for a state of emergency, the Shogunate started building batteries off Shinagawa to defend Edo and completed six batteries (Shinagawa Batteries): Nos.1,2,3,5,6 and Goten-yamashita in a short period of time by November 1854. The battery south of Tsukudajima was constructed in 1864, about 10 years after the construction of the Shinagawa Batteries. The construction of the new battery was spurred by the Anglo-Satsuma War of 1863 and the Battles for Shimonoseki in which joint naval forces from Britain, France, the Netherlands and the U.S. bombarded Shimonoseki in 1864, In order to establish a stronger Edo Bay defense system, the Shogunate planned to newly install coastal batteries from Shinagawa to Etchujima, and the Tsukudajima battery was constructed as one of them. According to the "Tokyoshi Shiko" containing Tokyo's history, the Tsukudajima Battery was once located at the southern edge of Tsukudajima, Kyobashi-ku, with a length of about 70m east-west and about 72m north-south accounting for an area of about 4.521sqm. It was
built by the Shogunate in 1864, then in the Meiji Period, it was repaired and placed under the Army Ministry of Japan. In the Meiji Period, the Army Ministry of Japan supervised the battery until 1887 when construction work began in Tsukishima. In that
project, an area starting from the Tsukudajima Battery was reclaimed as the Tsukishima No.1 landfill (currently Tsukishima 1- to 4-Chome) and the battery was lost.
スペインクラブ月島は、1994年創業の倉庫を改装したお洒落なスペインレストランです。名物の大鍋パエリアを始め、新鮮なイベリコ豚を使った逸品など様々な味わいのスペイン料理が供されています。約100種類のスペイン直輸入ワイン・カヴァ・シェリー酒などが揃っています。毎週月曜日はフラメンコダンサーによる本格的ライブパフォーマンスが開催されています。本場のフラメンコの圧倒的な熱量と本場スペインに認められた美味しいスペイン料理とワインが楽しめます。
月島スポーツプラザに戻ってきました。
ということで、中央区で最後の「Course9.佃・湊・月島 ウォーク&ジョグ」を歩き終えました。次は大田区で最初のコースである「歴史ゆかりの地めぐり 池上本門寺」を歩きます。
戻る