歴史ゆかりの地めぐり 池上本門寺  

コース 踏破記  

今日は太田区の「歴史ゆかりの地めぐり 池上本門寺」を歩きます。東急池上線池上駅から池上本門寺の名所・史跡を巡り、途中の池上会館でランチを頂く筈がコロナ渦で休業中とのことで、残念でした。最初に歩いたのは2022年の2月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年1月に改めて歩きました。

歴史ゆかりの地めぐり 池上本門寺

池上本門寺は日蓮聖人入滅後、日蓮に帰依していた池上宗仲が屋敷の一部を寄進したものです。本門寺は江戸時代の大名や近世の政財界、芸術家らの信仰を集めました。そのため、著名人の墓所が多く見られます。毎年10月11日から3日間行なわれる日蓮忌の法要「お会式」は、江戸の風物詩を伝える秋の行事として特に12日夜の万灯行列は賑やかです。歴史ゆかりの地を楽しみながら、ウォーキングで汗を流しましょう。

「歴史ゆかりの地めぐり 池上本門寺」の歩行距離は約3.0km(約4、300歩)、歩行時間は約45分(75分*)、消費カロリーは約135Kcalです。

注記 *:(75分)は、協力団体が実際に歩いてかかった時間です。

スタート地点:東急池上線池上駅北口
ポイント 1 総門
元禄年間(1688年から1704年)に建てられました。安藤広重の浮世絵などに描かれています。区指定文化財。
ポイント 2 石段
ビューポイント1
ポイント 3 仁王門
ポイント 4 大堂
外陣天井に未完ですが、川端龍子画伯の遺作が描かれています。
ポイント 5 本殿
ポイント 6 多宝塔
日蓮の荼毘所(だびしょ)跡に、文政十一年(1828年)上棟、2年後の文政十三年に竣功されました。国指定文化財。
ポイント 7 大坊
ポイント 8 本門寺公園
ポイント 9 朗峰会館
ポイント10 五重塔
慶長十二年(1607年)に建立されました。関東最古の五重塔で国指定文化財。
ポイント11 池上会館
ビューポイント2
ポイント12 総門

ゴール地点:東急池上線池上駅北口


スタート地点の東急池上線池上駅北口から歩き始めます。



池上駅から池上通りを渡って池上本門寺に続く池上本門寺通りに入ります。この道は池上本門寺の参道になります。



参道と交差するように、六郷用水遊歩道が延びています。六郷用水は東京都にかつて存在した用水路で、建設を指揮・監督した小泉次大夫の名を取って次大夫堀とも呼ばれました。多摩郡和泉村(現在の狛江市元和泉)の多摩川を水源とし、世田谷領(現在の狛江市・世田谷区)から六郷領(現在の大田区)に至る用水路でした。総延長は23kmで、主に農業用水として49の村々の約1500haに水を供給しました。同じく小泉次太夫が建設を指揮・監督した川崎市を流れる二ヶ領用水と合わせて、四ヶ領用水とも呼ばれました。慶長二年(1597年)から14年かけて開削され、開通後100年を経過したころ荒廃しましたが、享保十年(1725年)に代官田中丘隅(休愚)の手により改修されました。この改修は二ヶ領用水と並行して行われ、改修後は世田谷領でも六郷用水が利用できるようになりました。流域の宅地化が進み、昭和二十年(1945年)に廃止され、その後1970年代までに埋め立てられたか、雨水用の下水道となりました。流路の大半は失われましたが、世田谷区岡本から大田区田園調布までの区間は丸子川として残っています。世田谷区喜多見では、同じ場所に野川からの取水によって次大夫堀が再現され、次大夫堀公園になっています。大田区内では、湧水を使って再現された用水路が遊歩道と共に中原街道と鵜の木三丁目の間に整備されていて、残りは道路になっています。現在、六郷用水の跡地は道路・緑道・次大夫堀公園のほか、未だ更地の場所もあります。なお、六郷用水は多くの河川と分流や合流、あるいは交差していました。

六郷用水物語
Promenade Of Rokugo Irrigation Ditch

六郷用水は、六郷領(現在の大田区の平地地域)の灌漑を目的として、江戸時代初期に幕府代官小泉次太夫により開削された農業用水です。




霊山橋で呑川を渡ります。呑川(のみかわ・のみがわ)は、東京都を流れる二級河川で、呑川水系の本流です。世田谷区桜新町の東急田園都市線桜新町駅付近を水源とし、世田谷区深沢・目黒区八雲・東横線都立大学駅付近(目黒区中根付近)・大井町線緑が丘駅及び目黒線大岡山駅付近(東京工業大学付近)・大田区石川町・雪ヶ谷・久が原・池上・蒲田(JR蒲田駅・東京工科大学・日本工学院専門学校・京急蒲田駅付近)を流れ、糀谷を抜けて東京湾に注いでいます。支流として、世田谷区上馬付近を水源として目黒区東が丘・柿の木坂を経て都立大学駅付近で本流と合流する柿の木坂支流、駒沢オリンピック公園付近を起点とする駒沢支流、世田谷区奥沢の浄真寺(九品仏)付近を水源として東横線自由が丘駅南口付近を通り大井町線緑が丘駅・大岡山駅付近(東京工業大学付近)で合流する九品仏川があります。 各支流、および本流上流部(世田谷区深沢から目黒区大岡山の東京工業大学付近まで)は全て暗渠化され、下水道として利用されています。下水道は本流暗渠部の終端やや上手で呑川から離れる形になっていますが、大雨が降って処理しきれなくなると呑川(開渠部)にも越流させるため、悪臭がひどいです。川の水は常にヘドロにまみれて汚れていますので、周辺住民も「呑川は汚れているもの」という考えが根付いていて、川に対する環境感情が希薄になりがちで、ごみなどの廃棄物が多数投げ込まれています。柿の木坂支流・駒沢支流・九品仏川の3つの支流の暗渠上には緑道が設置されています。現在開渠部に見られる流水はおもに、「城南3河川清流復活事業」による高度処理水で、暗渠の終端近い東京工業大学付近から放流されています。ほかに、大田区清水窪を水源のひとつとする洗足池から流れ出る洗足流れも注ぎ込んでいて、川底や川壁から無数の湧水、大田区久が原や上池台周辺の数本の小さな支流からも水が注ぎ込んでいます。水源近くの国道246号(玉川通り)から駒沢通りまでの1km程の区間は親水公園として整備され、循環水が流されています。川に沿って桜並木になっていて、川にはカルガモも見られます。下流は、大田区東蒲田付近で旧呑川と新呑川に分流しますが、いまの流路(本流)は新呑川になっています。洪水や氾濫を防ぐために直線化した新呑川(呑川)は、羽田空港との間の海老取川に注ぎ込んでいます。世田谷区深沢付近から目黒区中根、緑が丘付近の緑道(遊歩道)も桜並木となっていて、春になるとお花見で賑わいます。また子供たちなどの遊び場になっている他、都立大学駅付近など一部が目黒区の自転車置き場としても利用されています。呑川という名称の語源として、その昔牛が誤って川に落ち水を飲んでしまうことがあったからなどといった説があります。呑川にはコイ・フナ・ボラなどの魚が生息していて、近年はウナギが見つかったこともあります。しかし、最近はミシシッピアカミミガメやガーなどの日本に居るはずの無い外来生物が見つかっています。このうち、前者の繁殖は明らかですが、後者の繁殖は確認されていません。



本成院は、六老僧(日蓮の高弟)のひとりである日向の庵室として、日蓮の没年である鎌倉時代の弘安五年(1282年)に開創しました。古くは北之坊や喜多院と称しましたが、東谷の本成坊が廃寺となったため、合併して再興されました。本成院は池上七福神の福禄寿を祀っています。

本成院縁起

当院は山号を喜昇山、旧称は喜多院(北の坊)と称す。本門寺の旧塔頭支院です。寺伝によりますと、当院は佐渡阿闍梨日向上人の開基なり。日蓮大聖人の直弟で六老僧の一人にして、弘安五年池上に御来向の砌池上右衛門大夫宗仲は草庵を造り、日向上人を住居せしめたといわれています。当院は、はじめは池上の北谷の地、桐ヶ谷の北の端、とどめきという所にあって、北の坊または喜多院とよばれましたが、日舜上人の代に東谷にあった本成坊が廃坊となったので、これと合併再興されました。この本成坊は日蓮大上人の直弟で、中老僧の日源上人の庵室であったと伝わる。慶長年間に本門寺十三世日尊上人が当院を隠棲(いんせい)の場所と定め、寺域の整備、充実に心がけたので寺観は一新しました。その後宝永年間の火災で焼失したので、十五世喜多院日實大徳が享保年間に現在地に移して再建、本成坊と称するようになったといわれています。




ポイント1 総門

池上本門寺の総門は、元禄年間(17世紀末〜18世紀初め)の建立と伝えられています。



「本門寺」と刻された扁額は本阿弥光悦の筆によるもので、現在掲げられている額は複製です。本物は霊宝殿に収蔵され、常設展示されています。

大田区文化財 総門と扁額

総門は、主柱間5.3メートル、高さ6.4メートル。総欅素木造。一間一戸の高麗門である。江戸時代に編さんされた「新編武蔵風土記稿」によれば元禄年間(1688年〜1704年)に建造された。池上本門寺山内に現存する古い建造物の一つで、歌川広重の「江戸百景」などにも描かれ、著名である。扁額に浮彫りされた「本門寺」の文字は、熱心な法華経信奉者で、また名筆家として知られた本阿弥光悦(1558年〜1637年)の書を彫刻したものである。背面銘文から、寛永四年(1627年)、本阿弥一族が父母の供養のため三堂(総門・楼門・祖師堂)に掲げた額の一つであることがわかる。本阿弥一族の日蓮宗とのかかわりを伝える貴重な遺品である。




ポイント2 石段

総門を入った奥に、本門寺の正面参道である石段が上がっています。

大田区文化財 池上本門寺の石段

この石段は、加藤清正(1562年〜1611年)の寄進によって造営されたと伝えられ、「法華経」宝塔品の偈文(げぶん)九六文字にちなみ、九六段に構築され、別称を「此経難持坂」という。なお、元禄(1688年〜1704年)の頃に改修されているが、造営当時の祖型を残しており、貴重な石造遺構である。清正は慶長十一年(1606年)に祖師堂を寄進建立し、寺域を整備しているので、この石段もその頃の所産と思われる。




此経難持坂(しきょうなんじざか)は長さが約60mほどの96段の急な石段です。一般には「男坂」と呼ばれる池上本門寺の主参道の入口となる石段で、「法華経」の詩句に因んで石段を96段とし、詩句の文頭の文字「此経難持」をとって坂名としました。末法の世に法華経を守ることの困難さを石段を上ることの苦しさと対比させ、経文を称えながら上れば自然に上れると言い伝えられています。

此経難持坂

この石段坂は、慶長年間(1596年〜1615年)加藤清正の寄進によるものと伝えられる。「法華経」宝塔品の詩句九十六文字にちなんで石段を九十六段とし、詩句の文頭の文字「此経難持」をとって坂名とした。なお、石段は元禄年間(1688年〜1704年)に改修されたといわれる。




石段の上からの眺めはビューポイントになっています。



ポイント3 仁王門

此経難持坂の石段上の正面には仁王門が建っています。元々はこの場所に旧国宝の山門が建っていましたが、昭和二十年(1945年)の空襲で焼失し、その後、昭和五十二年(1977年)になって仁王門として再建されました。



門内には彫刻家圓鍔勝三がアントニオ猪木をモデルに制作した仁王像が安置されていましたが、近年修理を機に本殿内に移設され、新たに仏師原田佳美作の仁王像が平成十三年(2001年)10月に開眼供養が行われ奉られています。



仁王門の左手に日朝堂があります。日朝堂に祀られている日朝は身延山十一世で、61歳の時に失明しましたが後に視力を回復したことから、眼病平癒や学業成就の利益があるとされています。

日朝上人略縁起

当堂(日朝堂)は常唱堂ともいい、大曼荼羅御本尊と共に眼病救護の行学院日朝上人をおまつりいたしております。日朝上人は応永二十九年(1422年)伊豆宇佐美でご誕生になり、八才で出家され、苦修練行・昼夜常精進の行学修行を続けられました。学コ兼備の誉れ高く、四十一才の時、身延山第十一世法主となられ、現在の身延山久遠寺隆昌の基礎を築かれ、又関東に布教しては新寺四十余ヶ寺を建立されました。御年六十一才の時、永年にわたる止暇断眠の苦行と教化ご精励の過労から両眼失明の厄に遭われましたが、それを自らの不徳として懺悔し、ますます不惜身命の精進を続けられましたところ、不思議の経力により眼病は全く快癒いたしました。御年六十七才の三月、眼病消滅の御本尊をお書きになり、なお一層教化と著述に(著書七百余巻)専念され、明応九年(1500年)七十九才を以てご遷化されました。当山では日朝上人の徳を讃え、ご尊像を当堂にご安置いたしましたところ、日を追って参詣者が多くなり、常にお題目を唱える道場として知られるようになりました。ご参詣の皆様も法華経信仰のご縁とは日朝上人の学徳にふれて頂き、ご一緒にお題目修行を致しましょう。




現在の鐘楼は、昭和三十三年(1958年)に再建されました。

大田区文化財
梵鐘
青銅製鋳造 総高225センチ

正徳四年(1714年)、紀州粉川(粉河)の鋳物師木村将監藤原安成によって改鋳されたものである。宝永七年(1710年)の火災により旧鐘が損傷し、改鋳したと伝えられる。旧鐘の銘文が再刻されており、元々は正保四年(1647年)、瑤林院(紀伊徳川頼宣の室・加藤清正の娘)によって寄進されていたことが知れる。昭和二十年(1945年)四月の空襲で一部に亀裂と歪みを生じ、現在は鐘楼脇に保管されているが、江戸時代初期の形式を示す作品であるとともに、旧鐘の銘文が再刻されていることも貴重である。




旧梵鐘は、正保四年(1647年)に加藤清正の娘で徳川頼宣の室となった瑤林院が寄進したもので、旧鐘楼が空襲で焼失した際に破損したため、現在は再建された鐘楼の脇に保存されています。

この梵鐘は正保四年当山第十七世日東上人の代に加藤清正公の息女瑤林院の寄進によって新鋳されたのを七十年の後第二十三世日潤上人の代に改鋳したものであって、爾来二百三十余年鯨音(寺院の釣鐘の音)四鄰に震い霊域に荘厳を加えていた。然るに昭和二十年四月十五日空襲の戦火を蒙むり嫋々(じょうじょう)たる余韻を失うにいたった。檀家総代の児玉誉士夫はこのことを寂寥(せきりょう)とし、発願して新に梵鐘を造った。よってその撞初式に古い梵鐘を此處に安置して後世に傳えることとした。



鐘楼の前に、非公開の文化財の案内板が並んでいます。



左端は、「日朗聖人坐像」の案内板です。

大田区文化財 日朗聖人坐像 (非公開)

桧材寄木造、彩色、玉眼
像高 45センチ

池上本門寺二世日朗(1243年〜1320年)の彫像で、大堂(祖師堂)内陣の日蓮聖人坐像(国重要文化財)に向かって左側の厨子内に安置されている。像容は古様で、南北朝時代(十四世紀後半)の禅宗の頂相彫刻に通じるものがあり、また顔貌も個性的である。保存状態も良く、肖像彫刻として注目すべき優品である。




その右隣は、「日輪聖人坐像」の案内板です。

大田区文化財 日輪聖人坐像 (非公開)

桧材寄木造、彩色、玉眼
像高 43.6センチ

池上本門寺三世日輪の彫像で、大堂(祖師堂)内陣の日蓮聖人坐像(国重要文化財)に向かって右側の厨子内に安置されている。像底には、慶安元年(1648年)に寂した当寺十七世日東の署名と花押が記されていることから、それ以前に造立されたものと考えられる。江戸時代前期(十七世紀前半)の典型的な肖像彫刻である。




その右隣は、「法華経」の案内板です。

大田区文化財 法華経(紺紙金泥写経) (非公開)
紙本金字 巻子装 一巻


大堂に安置される日蓮聖人坐像(国重要文化財)が捧持していた経典である。法華経は八巻本であるが、第六巻のみが現存し、他の七巻は戦災により焼失した。全十八紙からなり、その書体から第一・二紙は江戸時代の書写、第三〜六紙は室町時代、第七紙以降は平安時代末期頃のものと考えられる。巻頭の金泥書から承応三年(1654年)に池上本門寺十八世日耀によって補修されたことが知れる。




その右隣は、「一切経版本」の案内板です。

大田区文化財 一切経版本(天海版) (非公開)

紙本・折本装版本

天海(1536年〜1643年)が開版した一切経で、朝鮮から伝来した木彫活字による印刷技術で開版したわが国最初の刊本一切経であり、近世初頭の出版事業の遺品として注目される。徳川家康の三十三回忌供養のため開版され、寛永十四年(1637年)に着手、天海の死後五年目の慶安元年(1648年)に完成した。池上本門寺に伝存するものは、永昌院(松平讃岐守の室)が寄進したものと伝えられる。




その右隣は、「古文書」の案内板です。

大田区文化財 古文書(池上本門寺文書) (非公開)

主に紙本墨書
軸装あるいは巻子装 116点

池上本門寺は、昭和二十年(1945年)四月の空襲で全山焼失し、多くの文化遺産を失った。什宝として伝世していた文書群のうち、辛うじて運び出された史料が、現存する古文書群となっている。このうち国指定一点、東京都指定五点を除き区指定文化財となっている。時代的には中世から近世前期のものが大半を占め、池上本門寺を中心とする日蓮宗教団の歴史を知るうえで、貴重な史料である。




右端は、「柄香炉」の案内板です。

大田区文化財 柄香炉 (非公開)

桧材、黒漆塗、彩色
全長 34センチ

大きくうねった蓮茎の柄の先端に、蓮華や蓮実を優美に刻んで香炉型を現わし、また柄の中央にも未開蓮華(つぼみ)が刻まれている。鎌倉時代(十三世紀後半)の製作と考えられる。香炉は人の世を清浄にするため香をたく器であるが、この柄香炉は木製で、実用仏具ではない。日蓮の所持と伝えられるが、おそらく日蓮または高僧の肖像彫刻に付属していたものと考えられる。




ポイント4 大堂

大堂は、「祖師」即ち日蓮を祀ることから「祖師堂」ともいいます。旧大堂は、本門寺十四世日詔の時代の慶長十一年(1606年)加藤清正が母の七回忌追善供養のため建立しましたが、元和五年(1619年)に焼失しました。寛永六年(1628年)本門寺復歴十六世日樹の代に金一万両を用いてほぼ旧規模に再建されました。宝永七年(1710年)に再び焼失しましたが、本門寺二十四世日等時代の享保八年(1723年)八代将軍徳川吉宗の用材寄進により、規模を縮小した上で再建されました。この三代目の大堂は、昭和二十年(1945年)4月の空襲により焼失し、昭和二十三年(1948年)に仮祖師堂と宗祖奉安塔が建設されました。その後、本門寺七十九世伊藤日定が中心となって全国檀信徒の寄進を受け、昭和三十九年(1964年)に現在の大堂が再建されました。この際に仮祖師堂は取り壊され、宗祖奉安塔は経蔵を北側へ移動させた上でその南側隣に移築されました(現在の霊宝殿の位置)。現在の大堂は、根崎建築設計事務所の設計による鉄筋コンクリート造で、屋根は入母屋造・高さ27メートルの大建築になっています。第二次大戦の空襲で焼失した旧堂には本阿弥光悦の筆になる「祖師堂」の扁額が掲げられていました(戦災で焼失)。再建後は本門寺八十世金子日威が揮毫した「大堂」の扁額が掛かっています。堂内中央の厨子には、日蓮聖人坐像、右には日輪聖人坐像、左には日朗聖人坐像が安置されています。昭和四十一年(1966年)に川端龍子による天井画「未完の龍」が描かれています。平成十七年(2005年)4月から屋根瓦修復及び雨水漏水対策、耐震補強・火事対策等の工事が行なわれ、建物全体が足場で覆われていましたが、平成十八年(2006年)4月に工事が完了しました。


2025年に再訪した時は、大堂前の広場に節分豆まき用の舞台が組まれていました。


経蔵は、第二次大戦の空襲による焼失を免れた建物のひとつです。輪蔵形式の内部には回転する八角形の書架があり、天海版一切経が収められていました。現在は別途保管されています。天明四年(1784年)に建立され、第二次大戦後の大堂再建に伴う旧宗祖奉安殿移設により、元の場所よりやや北側の現在地に移されました。



ポイント5 本殿

本殿とは、「本師(釈尊)のいる殿堂」という意味です。昭和四十四年(1969年)に、戦災で焼失した釈迦堂を再建したものです。戦後に建てられた近代仏堂建築として評価されています。旧釈迦堂は旧大堂(祖師堂)に隣接して建っていましたが、再建に際しては公道を隔てた大堂後方の北側に移されました。本尊の釈迦如来像の胎内には、インドのネール首相が寄贈した釈迦の舎利骨が納められています。他に、四菩薩立像(上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩)が安置されています。釈迦如来像の後方に位牌堂が併設されていて、永代供養の位牌が安置されています。



本殿から多宝塔に向かって石段が下っています。



大坊坂は長さが約65mほどの六層になった急な石段です。坂名は、大坊本行寺に因んでいます。大坊とは、この地の領主だった池上宗仲の屋敷のことです。宗仲は日蓮を崇信し、日蓮の死後に屋敷の一部を寄進し、日澄を開山僧として大坊を起こしました。

大坊坂

「新編武蔵風土記稿」に、「大坊坂、方丈の右の坂なり、大坊へ行く道なればこの名あり」と記されている。本門寺山内西隅の石段坂で坂下に大坊と呼ばれる本行寺がある。




ポイント6 多宝塔

大坊坂を下る踊り場から右に下る石段の先に朱塗りの宝塔があります。

重要文化財 池上本門寺多宝塔

宗祖日蓮大聖人の御尊骸を荼毘に付した霊蹟に建つ供養塔。建立は宗祖五百五十遠忌を期して行われ、江戸芝口講中の本願により、文政十一年(1828年)に上棟、同十三年(天保元年)に開堂供養を修している。石造の方形基壇に築いた円形蓮華座の上に建つ木造宝塔形式の建物で、内外ともに漆や彩色によって華やかな装飾が施されている。塔内中央には金箔や彩色で装飾された華麗な木造宝塔を安置し、日蓮大聖人御所持の水晶念珠を奉安している。宝塔形式の木造塔婆は極めて現存例が少なく、当山多宝塔はその中でも最大規模を誇る本格的な宝塔として、極めて貴重な建物である。なお、「多宝塔」の名称は建立当初から呼称されているのものであり、文化財としての名称は「池上本門寺宝塔」である。




日蓮を荼毘に付した場所で、都の指定文化財になっています。



ポイント7 大坊

大坊坂下の右手に本行寺があります。本行寺は、日蓮聖人が入滅した地です。弘安五年(1282年)9月8日に日蓮聖人は常陸国での湯治療養などのため身延山久遠寺を後にし、9月18日に武蔵国千束郷池上(現在の東京都大田区)の池上宗仲の館に着きました。しかし、衰弱が進んでそれ以上の旅は不可能となり、宗仲邸で療養に努めながら生涯最後の二十数日間を過ごすことになりました。10月13日辰の刻(午前8時)、弟子や信者一同が静かに見守る中で日蓮聖人は亡くなりました。享年61歳でした。この時、大地は揺れ動き、庭の桜が季節外れの花をつけたと伝えられます。本行寺の起源は池上氏館内にあった法華堂とされています。池上宗仲が日蓮聖人入滅の後、日朗の弟子である日澄に館を寄進し、本行寺が開創されました。隣接する池上本門寺の子院(末頭)の中でも特に格式の高い池上三院家の筆頭として「大坊」とも呼ばれています。正面の赤門はその証しとして本行寺の格式の高さを示しています。



本殿の左手に、日蓮聖人が亡くなった池上宗仲邸の仏間の跡に建てられたお堂があります。入滅するまでの間、この部屋で多くの檀信徒に法華経や立正安国論を講義しました。講義の際に日蓮聖人が寄りかかっていたとされる柱の一部は、今でも「ご臨終の間」に置かれ触れることができます。また、日本庭園「鶴林庭」はこの臨終の間の裏側に広がっています。

東京都指定旧跡
日蓮上人入滅の旧跡

日蓮上人(聖人)(1222年〜1282年)は、日蓮宗の開祖であり、「立正安国論」等の著作で知られています。日蓮は、文永十一年(1274年)に鎌倉を去り、甲斐国身延山に宗教活動の場を移していましたが、弘安五年(1282年)、病の悪化により常陸国へ湯治療養へ向かう途中、武蔵国千束郡池上右衛門大夫宗仲の館(現本行寺境内)で示寂しました。なお、病中の日蓮が、身延山を発って池上の地へ移ったのは、法華経を説いた釈尊が霊鷲山から艮、すなわち北東の方角に当たる純陀の家で入滅した故事にならったとする説もあります。

Historic Places
Nichiren Shoin Nyumetsu no Kyuseki
(The place where Nichiren Shonin passed away)

Nichiren Shonin (1222-1282) is the founder of Nicniren Sect (one of the Japanese Buddhist sects), and also known as the author of "Rissho Ankoku Ron" and so on. Nichiren left Kamakura and shifted his main base of religious activities to Minobu Mountain in Kai Province in 1274. In 1282, Nichiren passed away at the residence of Ikegami Emon-notayu Munenaka (now Hongyoji Temple) in Senzoku District in Musashi Province, on the way to Hitachi Province for curing his illness in hot spring. The reason why Nichiren shifted here from Minobu Mountain despite his illness, according to another account, is because he followed the tale of Shakamuni (Shiddhartha Gautama) who had entered nirvana at the house of Chunda which had been located to the northeast of Ryojusen Mountain (Griddhakuta) where Shakamuni had preached Lotus Sutra.




日蓮上人は、池上宗仲の館で最後の日を送りました。

大田区文化財
池上宗仲夫妻坐像 (非公開)

寄木造、彫眼、像高各約21センチ。

本像の寄進者は丹波屋半兵衛、開眼の導師は身延山久遠寺三十三世日亨で、正徳四年(1714年)に造られたことが、台座の銘文によってわかる。よく祖型を残し、後補された様子もなく、小型ながら肖像彫刻として極めて精巧なものである。体内には墨や金泥で記した曼荼羅本尊等の小紙片が納められているが、筆者は不詳である。宗仲夫妻は日蓮の大檀越(篤信者)であり、日蓮が夫妻の屋敷で入滅したのは有名である。




日蓮聖人が入滅した時、庭先の桜が季節外れの花を咲かせたと伝わっています。お会式の万灯に桜の花を飾るのはこの故事が由来となっています。現在も日蓮聖人が入滅した旧暦の10月になると花を咲かせます。

御会式桜

弘安五年十月十三日、日蓮大聖人が御入滅の折、庭先の桜が時ならぬ花を咲かせたと伝えられており、現在も旧暦十月頃には花を咲かせます。御会式の万灯に桜の花を飾るのはこの故事に由来しています。




日蓮聖人が身延山から到着した翌日、この井戸の水で墨をすり、9年の間庇護された南部実長に礼状したためたと伝わっています。

御硯井戸

此の硯井戸は、日蓮大聖人が弘安五年九月十八日甲洲身延山より此の地に御到着になり御使用になった霊水であります.




本堂の前に、非公開となっている文化財の案内板が立っています。



境内地図の右側には、「本行寺文書」の案内板が立っています。

大田区文化財 本行寺文書[一括] (非公開)

一、大曼荼羅   二十五点
二、古文書    十六点
三、記録書跡類  八点

当寺に伝存する古文書は、池上本門寺文書の補足史料として重要な意味を持ち、日蓮宗池上本門寺教団史解明の手がかりとして、貴重な存在である。特に、中世の当寺および池上本門寺歴代の本尊(大曼荼羅)や、寺門経営に関する書状などが重要。近世では、幕府側の天海・崇伝が、身延山久遠寺の後住職問題に関与した事実を示す書状など、その他いずれも史料性の高い貴重なものが多い。




その右側には、「三十番神画像」の案内板が立っています。

大田区文化財 三十番神画像 (非公開)

絹本、着色、縦107センチ、横54.5センチ。

この画像は、徳川家康の側室、養珠院お万の方の「現当二世所願成弁」のため、寛永十四年(1637年)に描かれたことが、日遠(本門寺一六世)の添書によりわかる。また、日の追添書、および同じく日の別紙添状に、紀州心行院の常什物であると記されており、その後、いつの時代にか、この地に移されたものであろう。その由来とともに、江戸初期のこの種の作品の画風をよく示しており、貴重な画像といえる。




その右側には、「正応三年の題目板碑と板碑群」の案内板が立っています。

大田区文化財 正応三年の題目板碑と板碑群 (非公開)

当寺には池上本門寺境内に散在していた板碑が四十余基ある。この附近一帯(池上本門寺周辺)は、題目板碑の密集地として、わが国でも屈指の地といえよう。年代のわかっている板碑の中で、特に正応三年(1290年)のものは、題目板碑として最古のものである。この板碑は上半部が欠失しているが、その大きさや銘文から、全長150センチはあったと推測される。池上本門寺の開創大檀越、池上氏一族と何らかの関係があったものと思われる。




右端には、「日蓮聖人坐像」の案内板が立っています。

大田区文化財 日蓮聖人坐像 (非公開)

像高56.7センチ、木造寄木造り、彩色、玉眼。

胎内腹部に「武州立花之郡稲毛之庄澁口郷施主尾曽川忠盛(花押)仏師鎌倉伊予守」と墨書銘があるが、記年はない。渋口郷は現在の川崎市高津区子母口で、この地の旧家小(尾)曽川氏は同所の日蓮宗円融寺の檀越で、同寺の墓域には同氏の先祖の五輪塔などが今も残されている。円融寺の開山は池上本門寺九世日純(1482年〜1550年)で、大坊本行寺から栄進した僧である。おそらく小曽川氏との信仰関係が深かったに違いない。本像は、円融寺が開創されたと伝えられる天文三年(1534年)=この年の十二月大坊も焼失=からそう時代を経ない中世の作品と考えられ、鎌倉仏師の作風を示す日蓮像としても注目されよう。




再び大坊坂を上がって坂上から真っ直ぐに境内を横切りますと、本門寺大堂と客殿を結ぶ渡り廊下の下を通って坂が下っています。紅葉坂は長さが約130mほどの緩やかな坂です。かって、坂の付近には紅葉の木が多かったようで、それが坂名になったといわれています。

紅葉坂

「新編武蔵風土記稿」には「紅葉坂、方丈の左の坂なり、裏門へ通う坂なり」と記されている。坂付近には紅葉の樹が多いことから、この名がついたのであろう。坂下で交差する道を北に行くと、西側に松濤園という庭園があり、都の旧跡に指定されている「西郷、勝両雄会見の処」という記念碑がある。




ポイント8 本門寺公園

本門寺公園は、池上本門寺の東側に広がる公園で、コナラやスダジイなどの常緑樹林が繁っています。1938年に当時の東京市の公園として開園し、1951年1月30日に大田区に移管されました。1996年にはデイキャンプ場が新しくなり、区内を始めとして多くの人達に利用されています。



園内には弁天池という池があり、釣りをすることもできます。その他、運動会などに利用できるグラウンド・桜の広場・子ども広場などがあり、自然の中でさまざまな魅力を感じられる大田区立の公園です。



園内には、大田区の自然観察路が通っています。

大田区自然観察路「縄文のみち」

縄文のみちは、本門寺公園、池上梅園をめぐるコースです。ここには、広い面積にわたって常緑樹林が残されています。ツヤツヤした葉をもった林は、縄文時代には大田区一帯を覆っていたと考えられます。

Ota City Nature Trail "The Jomon Trail"

The Jomon Trail follows a course that winds its way through Honmonji Temple Park and Ikegami Baien (plum garden). Within the boundaries of this area remains an evergreen forest covering a large area of land. It is thought that during the Jomon period, forests like these with their glistening green leaves covered the whole of modern day Ota City.




高台にある池上本門寺の墓地には力道山のお墓があります。力道山は関脇まで上り詰めた力士で、廃業後にプロレスラーに転向しました。アメリカでの修行後に日本プロレスを設立し、シャープ兄弟を招聘して1954年2月19日から全国を14連戦した初興行は、1953年にテレビ放送が始まったことに追い風を受け、全国民の支持を受けて大ブームとなりました。

力道山先生、名は百田光浩。九州大村の産。幼にして角界を志し、関脇に栄進せるも1951年プロレス界に転身。爾来研鑽??。又?くの門弟を養成。後進の道を拓き斯界の始祖と?り隆盛を?す。1962年WWA世界選手権を獲得。名声世界に洽きも昨年末不慮の災に遭い急逝。時三十九才。一周忌に際し、門弟一同碑を献納。謝恩の意を捧げつヽ不滅の偉業を賛う。



ポイント9 朗峰会館

力道山の墓所から階段を下りた正面に朗峰会館があります。朗峰会館の北側には松濤園という江戸初期に造られた庭園があります。慶応四年(1868年)に西郷隆盛と勝海舟がこの東屋で江戸城明け渡しの会見をしたとされ、園内にその記念碑があります(園内には入れませんでした)。ちなみに、「東屋」とは、「屋根を葺いただけの壁のない簡素な造りの小屋」のことです。東屋の「東」とは、「東の国」、即ち京の都から離れた東の国を意味し、江戸のことを指しています。「東屋」は、「京の都から見たら東国は田舎」という意味が込められているのです。



朗峰会館の1階には、人形町のすき焼き専門店「今半」が入っています。今半で食事すると松濤園にも入れるみたいです。



ポイント10 五重塔

朗峰会館から坂を上がった先に五重塔が聳えています。五重塔は高さが31.8メートルあり、第二次大戦の空襲による焼失を免れた貴重な古建築のひとつです。徳川二代将軍徳川秀忠の乳母だった岡部局(大姥局)正心院日幸尼の発願により慶長十三年(1608年)に建立され、後に現在の位置へ移築されました。



全面ベンガラ(赤色塗料)塗り、屋根は初層と二重は本瓦葺き、三重以上は銅板葺きとなりました(当初はすべて本瓦葺き)。建築様式は初層は和様、二重から上は禅宗様になっています。初層の各面は中央を桟唐戸、両脇間には格狭間(ごうざま)形の装飾を入れ、蟇股(かえるまた)には十二支の彫刻が入っています。平成九年(1997年)10月から平成十四年(2002年)3月にかけ、国庫補助事業として解体修理が行われました。その際、基礎部分の石段からはホンモンジゴケというコケの一種が見つかっています。五重塔下付近では、東京国立博物館蔵の池上本門寺経筒(藤原守道作)が出土しています。



ポイント11 池上会館

五重塔から池上会館の屋上までそのまま行くことが出来ます。屋上の上には展望台が設けられています。



展望台からの眺めは絶景で、東京の南部一帯から川崎周辺が見渡せます。晴れた日には富士山も眺められます。



池上会館は、区民のための施設として、昭和二十九年(1954年)に開館しました。会議室や和室・調理室・多目的ホールなど、色々な規模の部屋と設備があり、講座や趣味活動などに利用することができます。



2022年2月に訪れた時は、池上会館の1階に私が足繁く通ったバイキングレストランの「MOM’sマムズ」が営業していましたが、コロナ禍で閉店し、現在はカフェになっています。土・日・祝日のお寿司バイキングが懐かしく思い出されます。



池上会館の隣に朗子会館があります。池上会館と朗子会館の間に、池上本門寺の墓地に向かってL字型に曲がって上がる狭く急な石段があります。朗師坂は長さが約70mほどの小さく左右に曲がりながら上がるやや急な階段です。坂名の「朗師」とは、日蓮門下六老僧の一人の日朗のことです。日朗は日蓮の入滅後、寺窪(現在の照栄院付近)に草庵を建て、以後三十有余年の間毎日この坂を上って山上の日蓮御廟所へ参拝したといわれています。幼少の頃より日蓮の門下僧となり、師孝に厚く奉仕した日朗の美談は「日蓮聖人伝」に数多く描かれています。石段の入口に「史跡 朗師坂」と書かれた石碑が建っています。

史蹟 朗師坂

日朗聖人ガ三十九年ノ間日蓮大聖人ノ御墓所ヘ日日往復ナサレ給ヒシ坂ナリ




ポイント12 総門

総門に戻ってきました。



池上梅園にも寄ってみましたが、未だ咲き始めといった感じでした。



ゴール地点の池上駅に戻ってきました。



ということで、大田区で最初の「歴史ゆかりの地めぐり 池上本門寺」を歩き終えました。次は大田区で二番目のコースである「名所旧跡散策めぐり 旧東海道美原通り」を歩きます。




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