- 名所旧跡散策めぐり 旧東海道美原通り
- コース 踏破記
- 今日は太田区の「名所旧跡散策めぐり 旧東海道美原通り」を歩きます。京浜急行平和島駅から美原通り商店街を通り、大森ふるさとの浜辺公園の美しい砂浜を眺め、大森海苔のふるさと館で海苔の加工工程を見学します。最初に歩いたのは2022年の2月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年1月に改めて歩きました。
名所旧跡散策めぐり 旧東海道美原通り
美原(三原)通りはかつて、東海道の品川宿と川崎宿の中程に位置し、いわゆる「間の宿」として江戸時代から賑わっていた通りです。旧大森村の小字である南原、仲原、北原の「三原」をほぼ南北に縦貫する東海道の一部で、三原通りと呼んでいました。美原(三原)通りは今日でも旧東海道の面影を残しています。旧東海道の面影を感じながら、ウォーキングでしっかり汗を流しましょう。
「名所旧跡散策めぐり 旧東海道美原通り」の歩行距離は約4.2km(約6、000歩)、歩行時間は約63分(60分*)、消費カロリーは約189Kcalです。
注記 *:(60分)は、協力団体が実際に歩いてかかった時間です。
スタート地点:京浜急行平和島駅東口
↓
- ポイント1 旧東海道石碑
-
↓
- ポイント2 信号
-
↓
- ポイント3 海難供養塔
-
海難事故にあった人々を供養するため、安政二年(1855年)に建てられました。区指定文化財。
↓
- ポイント4 貴船堀
-
かつては東京湾とつながった運河でした。
↓
- ポイント5 大森ふるさとの浜辺公園
-
人工砂浜や干潟を持つ都内初の区立海浜公園で、区民参加によるワークショップ等を経て完成しました。
↓
- ポイント6 ビューポイント
-
↓
- ポイント7 大森海苔のふるさと館
-
↓
- ポイント8 平和の森公園
-
↓
- ポイント9 大森消防署前信号
-
↓
ゴール地点:京浜急行平和島駅東口
スタート地点の京浜急行平和島駅から歩き始めます。
平和島駅東口から国道15号(第一京浜)を北に向かいます。左手に大森神社が鎮座しています。大森神社は、天正年間(1573年〜1592年)の創建と伝えられています。当時この辺りは海辺であり、住民は漁業を生業にして生活をしていました。ある時黄金色に輝く像が岸辺に流れつき、住民は畏れて沖へ流すこと三度に及びましたが、その度に元の場所に流れてきましたので、住民が社を建ててその像を祀ったのが大森神社の起源といわれています。そのため、この社を寄来明神または寄来神社と称しました。明治元年に神祇伯白川資訓王から大森神社の社号と額面を賜わり、その後、昭和七年10月の大東京都実現の折に大森神社と公称するようになりました。
大森スポーツセンター前交差点を右折し、美原通りに入ります。大正七年(1918年)の第一京浜国道建設工事の際に旧東海道が拡張されましたが、美原通りは商店街だったために、第一京浜は商店街を避けたルートとなり、美原通りは今でも旧東海道の面影を残しています。
- ポイント1 旧東海道石碑
-
大森スポーツセンターの前に石碑が建っています。
石碑の表面には「旧東海道」、横面には「三原通り (右)至 六郷 (左)品川」と記されています。
旧東海道
旧東海道の景観は著しく変ぼうしたが、往時の幅員を比較的残しているのは本区ではこの付近900メートルと六郷地区の一部だけになった。字名の南・中・北原をまとめ、三原通りと呼ぶ。
美原通りのかっての賑わいを描いた石盤が歩道に敷かれています。商店のシャッターには、旧東海道のお茶屋さんも描かれています。
美原通りの東側には、平成元年まで魚市場がありました。
平成元年(1989年)に現在の大田市場へ移るまで、この地に「大森魚市場」があった。美原通りの東側には江戸時代から漁師が住み、市場ができる前から地先の海で捕れたボラ、イワシ、タイ、シバエビ、シャコ、ワタリガニ、ハマグリなどを持ち寄って、道沿いで直接商っていた。仲買が取引する魚市場は、大森の中原に明治十三年(1880年)に最初に設立されている。その頃より江戸前の魚介類ばかりではなく、列車、自動車、船などで静岡や千葉などから運ばれてくる水産物も取引されるようになっており、大森の北原へ「大森魚市場」として移転したのは昭和五年(1930年)であった。
美原通りの右手に、美原不動尊があります。
美原不動院(不動尊)
宗派 (醍醐派)真言宗
本尊 不動明王
縁起 健徳院東宝坊秀岳法印が当地に昭和二十五年建立する
境内には生長地蔵菩薩が安置され、本堂には十八体の仏像が安置されています。
大森は、海苔養殖業発祥の地でした。今でも海苔問屋さんのお店があります。
- ポイント2 信号
-
美原通りは環七美原通り交差点で環七と交差します。交差点の角にも海苔屋さんがあります。寛文九年(1797年)の創業だそうです。
交差点から美原南商店街が始まります。美原通りの案内板が立っています。
美原通り
江戸時代、旧東海道であったこの付近は、品川宿と川崎宿の中間に位置し、旅人の休憩のため設けられた「間の宿(あいのしゅく)」としてにぎわっていた。中でも、江戸時代から大森名産として「海苔」「麦わら細工」とともに、「大森和中散(おおもりわちゅうさん)」(旅人の道中常備薬)が有名であった。美原(三原)通りは、旧大森村の小字である北原・中原・南原を通ることから「三原(みはら)」と呼ばれ、現在は「美原」と記されている。
「三原通り」という表記も見られます。
三原通交差点を左折し、美原児童遊園前の信号を右折します。
- ポイント3 海難供養塔
-
大森東小学校の西側の道路に面して、石塔が建っています。
大田区文化財 海難供養塔 総高232センチ
この石塔は、大森の海岸に流れ着いた死者を供養するために建立された。海難供養塔としては、東京湾沿岸屈指の規模を持つものであり、また埋立てによって周辺の環境が変わったが、この場所がかつては海際であったことを物語る存在としても貴重である。台座には、江戸や神奈川の魚貝業者をはじめ、一般の江戸町民や武士など約三百人に及ぶ名が刻まれており、この塔が地元の人ばかりでなく広い地域のいろいろな階層の人々の協力寄進によって、安政二年(1855年)に再建されたことがわかる。
石塔の奥には、多くの慰霊碑が並んでいます。
新橋で内川を渡ります。
内川は大田区を流れる、全長1.55km・流域面積3.25平方キロメートルの河川です。大田区大森西四丁目のJR東海道本線橋下から大森学園高等学校前を流れ、京浜運河・東京湾に注いでいます。元々は北馬込付近を水源とした天然の小川でした。現在では東海道本線より上流は暗渠化して下水道の幹線になり、それより下流が河川法上の指定区間となっています。そのため大雨が降ると下水が流れ出て悪臭が酷く、通常時は曝気装置や微生物養生により水質が若干ではありますが改善してきています。かつては六郷用水の流れの一部が大森第八中学校付近で合流していたり、呑川の分流が合流していましたが、現在では合流する河川もなく、通常時の開渠部分の水は潮の干満による海水・汽水がほとんどを占めています。開渠の最上流部でも潮がひいているときには川底の泥に汽水性のヤマトオサガニ・クロベンケイガニ・ケフサイソガニが見られます。また、マハゼやボラも多く、夏には多くの釣り人が訪れます。エイなど多くの海洋性の魚類も上げ潮時には遡上しています。平成十九年(2007年)4月にウォーターフロント事業として、河口付近に大森ふるさとの浜辺公園が開園しました。また、一部開渠部の流れに沿って散歩道が作られています。橋の袂に案内板が立っています。
案内板の内容は以下の通りです。地域の思いに、内川に対する地元の人達の愛情が感じられます。
内川のあらまし
かつて内川は山王や馬込・池上の沼の水や湧水を集めて流れる全長5kmほどの川で、六郷用水と合わせて低地の農業用水として使われていました。また、水道が引かれるまでは飲み水としても貴重な水源となっていました。自然も豊かで、コイ・フナ・ナマズといった魚や、トンボやコガネムシなどの昆虫、川岸にはイチジクなどもあり、子どもたちの遊び場としても人気の高い場所でした。大正六年以降、新田橋から内川橋まで現在のように直線に改修されてからは、川幅が広げられ川底も深くなり海苔舟が行き来できる川となりました。現在内川は大田区の北部大森地区を西から東にまっすぐ流れ、平和島運河に注ぐ流域面積3.25平方km、延長1.55kmの二級河川です。東海道線より下流が法定河川区間となっており、その上流は下水道幹線として整備されています。また、河口部には高潮対策として防潮水門と排水機場が設置されています。近年下水道の普及や水質浄化に伴いボラやサッパといった魚や、カニなども見られるようなり、また、河ロには水鳥の集まる千潟が残るなど、今でも人や水辺の生物にとっての身近な自然空間として重要な役割を担っています。
内川の歴史
馬込や山王の木原山にみなもとを持つ内川は、大森町の山谷通りと、東邦医大通りの交差する大森西四丁目のバス停近くでいっしょになっていました。このあたりの内川は水の量が多く、流れが速かったので「ドンドン川」とか、「ドンドンびき」などと言われていました。今の大森四丁目のバス停あたりにとよをかけ、諏訪神社や浅間神社のある大森西二丁目側に水を送ったので、かけどよのあったこのあたりをとよ口と呼んでいました。
とよ口の図
現在の大森西四丁目10−11−12番の交差点付近には“せき”が作られていました。“せき”と言っても、高さ3メートル、はば30センチくらいの石の水門が取りつけられただけのものです。内川は米作りにはむかない水でしたから、この“せき”には、呑川から六郷用水が引いてきてありました。“せき”の水門はふだんは開けてあり、用水が川底の低い内川にどんどん流れ落ちるようになっていました。内川には二つせきがあったので、六郷用水の入ってくる「とよ口」の“せき”を「入り」と言いました。
現・大森西四丁目10・11・12番付近にあった“せき”「入り」。六郷用水が内川に流れ落ちています。
“せき”と“かけどよ”の間には水番小屋があり、昼も夜も大切な水がむだに使われないように見守ったり、水門を開けたり閉めたりして、水の調節をしていました。そして米作りのために水が必要な5月から9月まで水門は閉められます。内川に流れ落ちなくなった用水は、この“かけどよ”を通って、大森のあちらこちらの田んぼにゆきわたるようにしてありました。
現・大森西三丁目12番付近にあった“かけどよ”。六郷用水が大森の田んぼに流れていくところ。
この“せき”は、東京湾からの海水があげ潮になったときに、「とよ口」に流れこまないようにつくられたものです。ここにも水番のおじさんがいて、水門を管理していました。水門を閉めると、川の落差が3メートルにもなり、はめ板の上から水が滝のように流れ落ちていました。大正七年大森海岸に水道会社ができましたが、水道が大森の家庭に広くゆきわたったのは大正十二年ころです。それまで私たちの町では、水屋さんから買ったり、自分たちで汲んだりして、内川の水を飲み水として利用していました。9月半ばになって水門が開かれると、子どもたちはいっせいに川に飛びこみコイやフナ・ナマズなどを手づかみでバケツいっぱいに取りました。水泳もこのせきで覚えた人が多く、この“せき”は当時、大森町周辺の少年たちにとって楽しい遊び場でした。
現・大森西三丁目15番付近にあった“せき”。水家さんが内川の水を水舟に汲んでるところ。
地域の思い みなさんへ
人間の歴史は、川のそばから始まっています。わたしたち大森のむかしの人びとのくらしもやはり川と深いつながりがあったのです。その川とは、もちろん内川と六郷用水です。内川は、人びとにたいせつな飲み水をあたえてくれました。内川は、のりをとる人びとの船をはこんでくれました。内川は、子どもたちの心に泳ぎやトンボとりの楽しさを残してくれました。そしてまた六郷用水は、田畑をうるおし、作物を育ててくれました。今は、内川もよごれ、六郷用水はすがたをけしています。でもわたしたち大森の人は、これらの川をいっまでもわすれることはできません。よい町をつくるため、わたしたちは自分の町を流れる川のことをしっかり知っておきたいと思います。
東京ガス大森グラウンドの西側に遊歩道が通っています。かっての貴船堀を埋め立てた跡に造成された緑道です。南北に500mほど延びていて、途中でT字型に曲がっています。
- ポイント4 貴船堀
-
T字型に曲がった先から平和島運河に面する貴船水門までは船溜まりになっていて、漁船が係留されています。
貴船橋脇のバルコニーに案内板が置かれています。
貴船堀と貴船水門
貴船堀の歴史
貴船堀についてはその成り立ちが定かではないが、明治期の地図には現在の溝渠と貴船堀緑地及び貴船堀公園を合わせた範囲とほぼ同じ範囲で水面が描かれていることから、明治期以前に形成されたものであることが分かる。上流部分は昭和四十年代後半から昭和五十年代前半に埋め立てられ、貴船堀緑地及び貴船堀公園として整備されている。
貴船水門について
東京港における高潮対策は、古くは東京市時代の「総合高潮防御計画」(昭和九年)に始まり、昭和二十四年のキティ台風を契機として防潮堤・水門の整備が進められてきた。しかし、昭和三十四年9月に伊勢湾台風の襲来により名古屋地方で甚大な被害が発生したため、東京港においてもこれに対処するため昭和三十五年に高潮防御区域を東京港全域に広げ「東京港高潮対策事業計画」を定めた。貴船水門は昭和四十一年に施工された。建設後40年以上経過し、老朽化が進んできたことに加え、平成二十三年3月に発生した東日本大震災を踏まえて、地震・津波・高潮対策を強化するため、新たな防潮堤が整備され、貴船水門は令和元年に廃止された。
公共溝渠の利用
大森・糀谷・羽田等はかつて東京湾における海苔の一大産地であった。貴船堀は海苔漁のための仕事場として利用されていた。河岸にはベカと呼ばれる海苔採り船が陸揚げされ、水面には発動機を搭載した親船が係留されていた。冬になると海苔干しの枠が河岸一面に並ぶ風景が見られた。また、荷船の運航にも利用されていたほか、台風等の際には多摩川河口付近の砂利船、沖流し漁船などがいっせいに溝渠に避難して船の安全を図ることもあった。しかし、昭和三十年代に入った頃から東京湾の水質汚濁が深刻になるとともに、東京港の改修工事や大規模な埋立、高速道路整備等が計画されるようになった。その後、流域の下水道整備が進むにつれて溝渠に流れ込む水もなくなり、流下機能が失われたことから、昭和五十年代に入った頃から急速に埋め立てによる緑地化及び公園整備が実施された。現在では、公共溝渠として残された水面はごくわずかであり、漁船などの小型船の係留場所として利用されているのみである。
かっての貴船水門の写真です。
- ポイント5 大森ふるさとの浜辺公園
-
大森ふるさとの浜辺公園は、入江や干潟がある都内では初の区立海浜公園です。数多くの区民参加によるワークショップや報告会などを積み重ね完成しました。園内には、かつての大森海岸を再現した浜辺や大森海苔のふるさと館・ビーチバレー場・フットサル場・船着き場・休憩所などがあります。
海辺には、かっての大森海岸を再現した人工の砂浜が造られ、彎曲した海岸線は南国のビーチを思い浮かべます。小豆島の白砂を使用したのだそうです。
海での遊泳はできませんが、浜辺には海苔ヒビが立っています。海苔ヒビとは、養殖する海苔を付着させるために浅い海中に立てる木や竹の枝をいいます。
海苔の生育観察について
この海辺では、冬の間に海苔を育てるための「海苔網」と「竹ヒビ」を設置し、実際に海苔を育てています。かつて、大森で盛んだった海苔づくりの様子を紹介し、昔の技術を継承していくためです。大田区の沿岸部では、江戸時代から海苔づくりが盛んに行われていました。このあたりで採れた海苔は「浅草海苔」と呼ばれ、全国一の生産を誇りました。海苔づくりの方法がここから日本各地に伝えられたので、大森は「海苔のふるさと」とも呼ばれています。しかし、東京港の埋め立てなどのため、海苔生産者は昭和三十七年(1962年)に漁業権を放棄し、翌年春に最後の収穫を終えました。公園に隣接した「大森 海苔のふるさと館」では、海苔づくりの歴史や実際に使われた道具を紹介しています。ぜひ見学にお越しください。
内川の河口に架かる人道橋の浜辺橋を渡ります。この先は平和島運河になります。
橋の欄干には、かっての海苔採りや海苔干しの風景を描いたプレートが貼られています。
- ポイント6 ビューポイント
-
浜辺橋を渡った右手に「浜辺の自然広場」があり、広場の一角が小高い丘になっていて、展望テラスが設けられています。ボーッと椅子に座っていたら溶けてしまいそうです。
展望テラスの先になだらかな丘があり、長いローラースライダーが設置されています。S字型に彎曲していますので、長い割にはスピードが出過ぎず、子供達も安心して遊べます。
大森海苔のふるさと館前の広場に桜の木が植樹されています。桜の木は、大田区と姉妹都市や友好都市になっているところから寄贈されたものです。案内板に、それぞれの都市が紹介されています。
アメリカ合衆国セーラム市(姉妹都市)
大森貝塚を発見したモース博士は、セーラム市にあるピーボディー科学アカデミー(現ピーボディー・エセックス博物館)の第3代館長でした。モース博士の結ぶ縁により、昭和五十九年、大田区立郷土博物館とピーボディー博物館(現ピーボディー・エセックス博物館)が姉妹館提携をし、それが発展して、平成三年、大田区とセーラム市は姉妹都市となりました。
- 歴史
-
セーラム市は、1626年の入植によってできた、アメリカで最も古い街の一つで、今でも多くの歴史的建造物が残っています。17世紀はヨーロッパから飛び火した魔女狩りが行われ、実際に魔女裁判が行われました。18世紀は港町として栄え、アメリカの関税収入の10%を占めるほど繁栄していました。
- 文化
-
魔女裁判はアメリカ文学の題材として、数多く取り上げられ、中でもナサニエル・ホーソン作の「緋文字」は有名であり、また代表作「七破風の家」のモデルの建物は今も残っています。現在では、魔女はセーラムのシンボルとなっており、ハロウィーンの季節には全米から観光客が集まって賑やかです。
- 位置
-
アメリカ合衆国マサチューセッツ州にあります。ボストンから電車で約35分、バスで約1時間の所にあります。日本との時差は14時間(サマータイムは13時間)です。
- 人口と面積
-
人口
約4万人
面積
23.17平方キロメートル
中国北京市朝陽区(友好都市)
大田区と朝陽区の交流は、昭和五十一年に区長が朝陽区を訪問し、友好交流をしたことに始まります。その後、両区の区長の相互訪問や青少年交流を積み重ね、日中平和友好条約締結20周年を迎えた平成十年9月、友好都市となり、文化、スポーツ、教育、産業経済の分野での交流を推進していくことを確認しました。朝陽公園には友好都市締結の記念碑が設置されています。
- 歴史
-
朝陽区の歴史は古く、秦代まで遡ります。隋・唐代を経て明・清代には国都「順天府」に属する「大興県」の所轄でした。始めて区になったのは1925年で、「東郊区」と称されました。1949年以降、首都北京の政治、経済、社会的発展ととに、行政区画は幾度も変更され、1958年5月、「朝陽区」と改称されました。
- 文化
-
現在朝陽区には対外経済貿易大学、北京化工大学、北京第二外国語大学、中国音楽学院など28の大学があり、小、中、高等学校教育と共に人材育成に力を入れています。北京朝陽国際ビジネスフェスティバル、国際ポピュラー音楽ウィーク、国際風情フェスティバルなどの文化フェスティバルをプロデュースしています。
- 位置
-
中華人民共和国の首都北京市の東部と北東部に位置し、北京市の中で最も面積の大きな行政区で、北京首都国際空港も管轄しています。
- 人口と面積
-
人口
約275万人
面積
470.8平方キロメートル
長野県東御市(友好都市)
東御市(旧東部町)との交流は、平成四年に区民施設(現大田区休養村とうぶ)の建設用地を決定したことがきっかけでした。施設建設前の平成四年から地元開催の「巨峰の王国まつり」と「OTAふれあいフェスタ」に住民同士が相互に参加し交流を深め、平成八年に友好都市協定を結びました。なお、平成十六年、東部町が北御牧村と合併し東御市となったため、改めて東御市と友好都市提携を結びました。東御市は上信越高原国立公園の浅間連山を背に、南に蓼科、八ヶ岳連峰を望み、まちの中央を千曲川が流れる「さわやかな風と出会いの元気発信都市」です。
- アクセス
- 新幹線利用の場合
-
長野新幹線で東京から上田まで、1時間15分。上田駅より、しなの鉄道に乗り換えて、大屋駅、田中駅、滋野駅のいずれかで下車。大田区休養村とうぶ利用の場合は上田駅から送迎バスが出ています。
- 車利用の場合
-
東京練馬インターチェンジから関越自動車道で藤岡ジャンクションまで。藤岡ジャンクションから上信越自動車道で東部湯の丸インターチェンジで降りてください。
- 人口と面積
-
人口
32、259人(平成十八年9月1日現在)
面積
112、3平方キロメートル
- 大田区休養村とうぶ
-
大田区休養村とうぶは、浅間山の麓、標高約千メートル、眼下にぶどう畑とりんご畑が広がり、千曲川が流れ、遠く美ヶ原、北アルプスを望める地にあります。区民の保養施設と児童・生徒の校外施設の共用施設として平成十年8月にオープンしました。恵まれた自然の中で、スポーツやリクリエーションが楽しめ、地元の方々との交流など都会では得られない体験をしていただける施設です。
秋田県美郷町(友好都市)
平成元年、大田区六郷地区の西六郷少年少女合唱団が美郷町(当時の六郷町)を訪れ演奏会を開き、地名が同じであることをきっかけに交流が始まりました。美郷町が子どもガーデンパーティ、OTAふれあいフェスタに、また大田区が子ども雪体験、竹うちツアーなどに参加し、交流を深め、平成十七年11月に友好都市となりました。美郷町は平成十六年11月1日に、旧六郷町、旧千畑町、旧仙南村の3つの町村が合併して誕生しました。秋田県の南部、仙北平野南東部に位置し、東は奥羽山脈が連なり、西に仙北平野が広がる、澄んだ空気と清浄な水、豊穣の大地に恵まれた美しい郷です。
- アクセス
- 航空機利用
-
羽田空港から秋田空港まで約55分。
秋田空港からは、車で大曲インターチェンジより国道13号線に入り美郷町へ。
- 新幹線利用
-
東京駅から秋田新幹線で大曲駅下車。3時間30分。
大曲駅から車で約20分。
- 人口と面積
-
人口
23、451人(平成十八年8月31日現在)
面積
167、8平方キロメートル
宮城県東松島市(友好都市)
平成二十三年3月、東日本大震災に際して大田区が「被災地支援部」を設置し、区内団体・区民との協働による東松島市でのボランティア活動を行ったことをきっかけに交流が始まりました。同年7月には「災害時相互応援協定」を締結して交流を深め、平成二十八年11月に友好都市になりました。東松島市が友好都市ふれあいひろば、OTAふれあいフェスタに、また大田区が東松島夏まつりに参加し交流を深めています。東松島市は宮城県の県都仙台市の北東に位置し、市の中心には、四方を一望できる桜の名所・滝山があり、西北部に丘陵地が連なり、南には特別名勝「松島」の一角を占めるなど風光明媚な景観を楽しみに多くの観光客が訪れる地となっています。
- アクセス
- 新幹線利用
-
東京駅から東北新幹線で仙台駅下車、1時間30分。
仙台駅から仙石線で矢本駅、約40分。
- 自動車利用(東北自動車道)
-
東北自動車道仙台南IC(仙台東部道路・三陸自動車道) → 鳴瀬奥松島IC → 矢本IC
- 人口と面積
-
人口
38、683人(平成五年4月1日現在)
面積
101、30平方キロメートル
- ポイント7 大森海苔のふるさと館
-
大森海苔のふるさと館は、昭和三十八年(1963年)春にその長い歴史に幕を閉じた、大田区を始めとする東京湾沿岸での海苔養殖の資料を保存・展示する施設で、平成二十年(2008年)に開館しました。
大森 海苔のふるさと館へようこそ
昭和三十八年(1963年)春、大田区をはじめとする東京都沿岸での海苔養殖は、その長い歴史に幕を閉じました。江戸時代の中頃から作り始められた大田区の海辺の海苔は、味・量ともに全国一を誇り、ここから全国へ海苔生産方式が伝えられました。長らく先駆的役割を果たしてき
た“海苔のふるさと”です。平成二十年(2008年)、「大森 海苔のふるさと館」は、海苔の“本場”とも称されたこの地に開館しました。国指定の重要有形民俗文化財「大森及び周辺地域の海苔生産用具」(881点)の展示を中心とした、地域文化の“伝承と創造”の場の誕生です。大田区沿岸部の人々にとって、海苔は“ふるさとのシンボル”であり、養殖が終わった今でも語り尽くせぬほどの心の財産となっています。また、そうした海苔にあらためて注目することが、海辺の自然・四季の変化にも目を向けていただく機会となれば幸いです。
Welcome to Omori Nori Museum
The long history of nori seaweed production along Tokyo's coastline, including Ota City, came to an end in spring 1963 (Showa 38). The nori harvested on the coast of Ota City from the middle of the Edo period was considered the best in the country for both taste and amount. Production methods originating in Ota City were soon passed along
to nori farmers nationwide, and for many years, Ota City continued in fulfilling its pioneering role as the "Birthplace of Nori". In 2008 (Heisei 20), the Omori Nori Museum was opened in Omori, or as it is often referred to, the "birthplace" of
nori seaweed. Centred around a collection of National Designated Important Tangible Folk Cultural Properties under the name of "Nori Production Tools from Omori and surrounding areas" (881 items), the museum is a place for local cultural tradition and creation to prosper. To the people who live on the coast of Ota City, nori seaweed is the symbol of "home". Even today, while nori production may be considered something of the past; it remains dear to the heart of many, bringing an indescribable sense of homeliness. We hope that by opening your eyes to this kind of "nori"; you too will have the chance to see the natural essence of the coast and witness the changing of the seasons.
建物の前には、実物の海苔乾し場が置かれています。
海苔乾し場
これは、海苔を乾かすために「枠乾し」を立てかける台です。「海苔つけ」という昔ながらの方法で、乾し海苔をつくる体験のために設置しています。
大田区における海苔養殖の歴史を記したパネルが立っています。
大田区沿岸の海苔つくりの歩み
始まり
享保(1721年〜1736年)ころ
木ヒビを建て、海苔を採り始める。波静かで遠浅の海は、海苔つくりに適していた。
延享三年(1746年)
海苔運上(営業税)を幕府へ納める。
発展
宝暦年間(1751年〜1764年)
大森村(北大森村・東大森村・西大森村の3村)と糀谷村が海苔漁場を競いあい、両村の浜の村境から沖へ“卯の一分”(真東)の方向へ見通した線を、海の境界線と定めた。
文化年間(1804年〜1818年)
大森村が、糀谷村との漁場境界線“卯の一分”に沿って設けた“横柵”をめぐり、両村互いに漁場拡大の主張を譲らず。大森は御膳海苔の供給地としての伝統を主張。
文政年間(1818年〜1830年)
太平洋岸の波静かな各地の入り江に、大森の海苔の作り方が伝わり始める。
天保七年(1836年)
将軍「家慶」就任祝いの鯛を活かしておく生簀の波除名目で、羽田村・羽田猟師町の海苔ヒビが認められた。許可は一年限り。羽田が海苔漁場の認可を得るのは明治三年となる。
明治元年(1868年)
大森村が海苔生産の継続のため献金を明治新政府に願い出る。新政府は五千両の献金額を指定し半分を五年返済と決めるが、翌年には新漁場の認可を条件に全額献納とし、この時獲得した漁場を“官軍場”と呼ぶ。
明治・大正・昭和初め
漁場が広がり、長く日本一が続く。東京府の海苔生産量は昭和十年代まで全国一位。
昭和二年(1927年)
浅瀬の広がる横浜−東京間に、臨海工業埋立地と大航路(京浜運河)の計画が発表される。東京側は漁民の反対により遅れ、昭和十四年に着工するが大戦のため計画中断。再開は昭和三十年代後半となった。
終わり
昭和三十年ごろ
ノリ漁場のよごれが目立ちだす。
昭和二十九年
東京ガス大森工場の重油流出事件
昭和三十三年
水質汚濁問題・東京都漁民大会
昭和三十五年(1960年)
東京都、港湾改修10ヶ年計画決定。
昭和三十七年(1962年)
東京港の改修のため、12月漁業補償成立。海苔漁業をやめる。翌、昭和三十八年(1963年)の春、最後の海苔採り。
昭和三十九年(1964年)
首都高速道路羽田線開通。
東京モノレール完成
東京オリンピック大会開催
館内に入ると、正面に巨大な海苔採り船が展示されています。
“べかぶね”と“ちゅうべか”
海苔の摘み採りに欠かせない舟は、“べかぶね”あるいは“海苔採り伝馬”と呼ばれた小舟です。一人乗りの舟で、摘み採った海苔を入れる笊を積んで出かけます。古くは、この“ベかぶね”を漕いで海苔養殖場へでかけましたが、漁場が拡大するにしたがい、大型の海苔船に積んで往復するようになりました。また、大型の海苔船が普及する前は、養殖資材の運搬船として、“ちゅうべか”と呼ばれる安定のよい中型船が使われていました。展示の“ちゅうべか”は、貴船堀の船大工”船竹”に残されていた記録をもとに、平成八年(1996年)に復元されました。
海苔船
小舟を漕いで行くには遠い沖へと海苔場が広がり、また、千葉県沿岸へ種付け(胞子つけ)に資材を運ぶようになると、大船が必要になりました。明治時代に中古漁船を使うことからはじまり、海苔専用船として造船されるのは昭和になってからのことです。それが“海苔船”あるいは“親船”と呼ばれる動力船で、電気着火機関を積んだ船は“チャカ”とも呼ばれました。特に第二次大戦後は、海苔網の支柱を運ぶために各戸で必要となり、昭和三十八年(1963年)の海苔養殖廃業時には、大森には700艘あまりの海苔船があったといわれます。この海苔船は、昭和三十三年に大森の伊藤安太郎氏の依頼で貴船堀の船大工“船竹”(小島氏)で造船され、海苔漁業の終了後、昭和四十年に伊東嘉一郎氏が譲り受け、釣り船として使ってきた船です。大森の海苔船として現存する最後の一艘です。
海苔養殖の季節毎の作業内容を解説した案内板が立っています。
1.夏から秋の準備作業
海苔網(網ヒビ)
木ヒビや竹ヒビは、満潮時には海面下に潜るので、海苔採りは毎日変わる干潮時間に縛られました。また、資材の運搬やヒビごさえ、建て込みなども膨大な労力が必要でした。そうした負担を軽減したのが海苔網で、干潮時でなくても海面下の網を引き上げることができます。開発は大正九年に水産講習所の試験場(千葉県五井)で始まり、千葉県沿岸では第二次大戦前に広まりましたが、大森で普及したのは第二次大戦後でした。
ヒビごさえ(ヒビ作り)
夏は日除けの葦簀の下で、ヒビごさえに汗を流しました。竹ヒビが使われていた第二次大戦以前は、“せっころ落とし”がひと仕事。竹は2〜3年再利用するので、“せっころ”と呼んだフジツボを鉄へラでガリガリ落として仕立て直します。新しい竹はしばらく川に浸け、油気を抜いて海苔を付けやすくしてヒビに仕立てました。戦後、海苔網(網ヒビ)が普及すると、どの家も椰子や棕櫚の縄を買って編みました。
ヒビ建て
木ヒビや竹ヒビの時代、海へ建てる作業は9月中旬から始まりました。振り棒を突き立てて海底に穴をあけ、そこにヒビの根元を差し込みます。作業場所の水深によっては高さ1〜5尺(約30〜150cm)の下駄を履き分け、それに対応する長さの振り棒を組み合わせて使いました。海苔網になると、網を張る支柱を建てますが、海底の堅い漁場では圧力ポンプの水圧で穴をあけて建てました。
海苔を育てるヒビ
海苔を育てるために海中に建てた木や竹をヒビ(竹)と呼びました。ヒビとは元来、木や竹を柵のように建てた囲いの中へ魚を誘い込んで獲る仕掛けを指すものでした。木や竹を建てて海苔を育てる発想も、そうした漁獲施設の木竹に海苔が育つ状況から来たものと考えられます。海苔ヒビは江戸時代から大正時代までは木のヒビが、第二次大戦までは竹のヒビが主流で、戦後は海苔網(網ヒビ)となりました。
2.冬の海苔採り
海苔採り
ヒビに育った海苔の摘み採りを“手入れ”と呼びました。木や竹ヒビの頃は12月上旬、海苔網になると11月の内に始まり、翌年3月までの間、旧暦で潮の干満を見て手入れに出ました。一人乗りのペカブネ(ノリトリテンマ)に笊を積んで出かけます。海苔は柔らかくて滑りやすいので、凍える寒さでも素手で採りました。摘み採った網の海苔は、一潮(半月)ほど育ててから再び採りました。
3.冬の海苔の加工
海苔乾し
海苔は天日で乾しました。最初は“裏乾し”をします。急に乾かすと海苔が縮むので、海苔の付いている簀の表ではなく、簀の裏側から陽に当てて乾かしました。そして、乾いてくると表へ返す”乾し返し”をしました。古くは畑などに作った藁床の”台乾し”に海苔簀を1枚ずつ止めて乾しましたが、第二次大戦後は移動できる“枠乾し”が普及し、天候の悪い日はストーブを据えた“乾燥場”で乾し上げました。
海苔付け
乾し海苔を作る作業を“海苔つけ”と呼びます。“海苔抄き”と呼ぶ産地も多いのですが、大田区は製造法の特色を示して“海苔を付ける”と表現してきました。型枠をのせた海苔簀を流し台の上に置き、その枠の中へ水と混ぜた海苔を流し込みます。この時、投げ付けるように勢いよく流し込むのがコツなので、“海苔付け”と呼んできました。なお、人にもよりますが1時間に250〜300枚ほどの速さで付けたそうです。
海苔きりの道具
江戸時代から使われてきた海苔刻みの道具は、幅の広い海苔切り包丁です。欅の俎の上で、両手に包丁を握り、交互に叩くように刻みます。昭和になると複数の刃を平行に並べて効率を上げる工夫をした飛行機包丁や突き包丁や、さらには動力で複数の刃が上下する海苔裁断機が現れました。そして、第二次大戦後は挽肉製造機と同じ仕組みのチョッパーが普及しました。
海苔切り
乾し海苔作りの最初の作業は海苔切りです。乾し海苔を薄く平らに仕上げるため、生海苔を細かく刻みます。作業は海苔採りの翌日早朝でした。深夜2時ごろに起き、”つけ場”と呼ぶ作業部屋で始め、朝までに海苔つけを終えました。早朝の作業だったのは、天日乾燥が主流だったからです。冬の陽射しで乾すには、朝日が出る前に海苔乾しの準備を終えることが必要でした。
4.海苔の流通と保管
乾し海苔の保存(昔の方法)
乾し海苔にとって湿気は大敵です。天日で乾した海苔をそのまま保存すると、半月ほどで変質し始めます。冬に生産される海苔を、問屋は大量に保管して梅雨を越さなくてはなりません。そのため、海苔の湿気を除く“火入れ”をして、再び湿気ないように密閉保存する“囲い”をします。“火入れ”はタドンや木炭を熱源とした“ホイロ”と呼ばれる設備を使い、“囲い”は内側にブリキを張った海苔箱に入れて、和紙で目貼りしました。
海苔問屋の仕入れ
海苔の季節になると、乾し海苔を買い集めるのが大森の仲買問屋でした。その仕入れ方法は、“庭先買い(庭先入札)”と呼ばれ、数軒の問屋がグループで生産者を回り、その日に乾し上がった海苔を値踏みして紙片に書いて入札しました。なお、漁業協同組合に集めて一律に入札する“共販制(共同入札)”は、昭和二十八年から導入され、当時は“お椀子”と呼ぶ黒塗りの円板に入札値をチョークで書いて投票しました。
海苔付け場の作業の様子が再現されています。
海苔付け場
海苔生産者の冬の朝は早く、深夜2時頃には“付け場”の電灯がともり作業が始まります。“付け場”は母屋の一角を張り出すように作られた作業部屋で、夜明けまでに“海苔付け(海苔抄き)”をしました。これは、昭和三十年頃の付け場を再現しています。窓の外には、井戸から汲んだ水を一時溜める“導水管”があり、その水を“付け台”の脇へ置いた“付け樽”へ流し込み、刻んだ海苔を溶かします。“付け台”には“付け枠”を載せた“海苔簀”が置かれ、その枠の中に“付け升”で水に溶いた海苔を流し入れて簀に付けます。
特別展も行なわれているようです。2022年2月に訪れた時には、「海苔漁師の仕事着 前掛け編」が開催されていました。
ごあいさつ
大田区では江戸時代中期より海苔養殖が行われてきました。海苔の養殖は水を含んだ生海苔を扱います。例えば、海での海苔採りや加工作業の海苔付けといった作業の際には、衣類の濡れや汚れを防ぐため、ボータなどの上着の上から前掛けをしめました。前掛けは腰から膝を覆う長さの布で、古くはマエダレと呼ばれました。厚手で丈夫な布製のものは、衣服の汚れを防ぎ、労働作業中の事故から身を守る仕事着として用いられました。商店が店名や屋号などを染めた前掛けを取引先に配るようになると、様々な業種で広く使われるようになりました。これは海苔に関する商いも同様で、当館には海苔養殖の資材屋や機械屋、海苔問屋などの店名が染められたものが保存されています。今回の企画展では、海苔づくりの仕事着として使われた前掛けに着目し、その役割を見つめなおします。
ちなみに、2月6日は「海苔の日」だそうです。
2月6日は海苔の日
大宝元年(701年)制定の「大宝律令」には、29 種類の海産物が租税として納められていたことが記載されています。その一つが海苔です。当時、海苔が大変貴重な海産物だったことが分かります。「大宝律令」が施行された大宝二年1月1日を西暦に換算すると、702年2月6日となります。そこで、全国海苔貝類漁業協同組合連合会が2月6日を「海苔の日」と定めました。
大森海苔のふるさと館の直ぐ隣から環七を挟んで南北に平和の森公園が広がっています。
- ポイント8 平和の森公園
-
平和の森公園は、環状七号線の南北に広がる区内最大級の公園で、面積は約9万9、000平方メートルあります。かつて存在した平和島運河を埋め立て造られた公園で、園内には区内の貴重な文化財や史跡を模したフィールドアスレチックコース・テニスコート・弓道場・アーチェリー場などの有料のスポーツ施設や、NPOがみどりに親しむ活動を運営する「みどりの縁側」・ハスが楽しめる「ひょうたん池」・家族や友達で利用できる「平和の広場」などがあります。「平和の森公園」という名称は、恒久平和を求める大田区民の永遠なる願いを込めて名付けられていて、昭和五十九年8月15日には「平和都市宣言」を行い、その記念の塔として「愛し子」の像を建立し、公園のシンボルとしました。
ひょうたん池には、梅雨明け頃になると綺麗なハスが見られます。
左は2025年1月の池の写真、右は梅雨時の池の写真(ネットから借用)です。
フィールドアスレチックでは、冒険心溢れる遊具が揃っています。
- ポイント9 大森消防署前信号
-
平和の森公園を出て、大森消防署前信号で環七を渡ります。
ゴール地点の京浜急行平和島駅に戻ってきました。
ということで、大田区で二番目の「名所旧跡散策めぐり 旧東海道美原通り」を歩き終えました。次は大田区で三番目のコースである「国際空港の玄関 羽田の街をぐるっと巡る」を歩きます。
戻る