国際空港の玄関 羽田の街をぐるっと巡る  

コース 踏破記  

今日は太田区の「国際空港の玄関 羽田の街をぐるっと巡る」を歩きます。京浜急行穴守稲荷駅を出発し、穴守稲荷に詣でてから、海老取川と多摩川沿いを歩き、羽田神社の富士塚に登ります。最初に歩いたのは2022年の2月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年1月に改めて歩きました。

国際空港の玄関 羽田の街をぐるっと巡る

羽田は古くから漁業が盛んで、遠い昔より人々は身の安全、生活の安定を神仏に心をこめて祈ってきました。羽田地域の周辺には漁業と関わりある寺社、稲荷、記念碑等がたくさん残されています。その昔の街道、行商路を巡り、寺社に立ち寄って故事をひもときながら気持ちのよい汗を流しましょう。

「国際空港の玄関 羽田の街をぐるっと巡る」の歩行距離は約4.0km(約5、710歩)、歩行時間は約60分(56分*)、消費カロリーは約180Kcalです。

注記 *:(56分)は、協力団体が実際に歩いてかかった時間です。

スタート地点:京浜急行穴守稲荷駅
ポイント1 穴守稲荷神社
開墾の時、沿岸の堤防に嵐で大穴が開き被害を受けたため稲荷大神が祀られました。
ポイント2 ビューポイント
ポイント3 羽田空港天空橋船着場
水上バスやクルーズツアーなどに使用できます。災害時には物資等の水上輸送に活用します。
ポイント4 弁天橋
ポイント5 水難者供養塔
ポイント6 羽田の渡し跡
ポイント7 羽田神社
羽田の氏神様として親しまれています。神輿の独特な担ぎ方「ヨコタ」が有名。多くの観光客が集まります。
ポイント8 萩中公園

ゴール地点:京浜急行大鳥居駅西口


スタート地点の京浜急行穴守稲荷駅から歩き始めます。穴守稲荷駅は文字通り、穴守稲荷神社の最寄り駅です。改札口から駅入口まで続く通路には、穴守稲荷神社の幟がはためいています。駅入口にはナント鳥居まで建てられています。日本広しといえども、こんな駅は他にないのではないでしょうか?



通路の脇には、穴守稲荷神社のマスコットキャラクターである「コンちゃん」が鎮座しています。コンちゃんはいつも服を着ていますが、これは募集に応じた人達が衣装の制作を行なっているのだそうです。そのため、定期的に着ている服が異なっています。2022年2月にお目にかかった時はコロナ禍でマスクをしていましたが、2025年1月に再訪した時はマスクは外して耳飾りを付けていました。でも、服は同じですね。3年間も同じ服を着ていたのかな?


左が2022年2月のコンちゃん、右が2025年1月のコンちゃんです。


駅入口の横に、穴守稲荷神社への道筋を示す案内板が立っています。

穴守稲荷神社

江戸時代に開拓地を守る神として祀られた穴守稲荷神社は、第二次大戦まで現在の羽田空港内にあったが、終戦後に占領軍によるハネダエアベース建設のため現在地に転居した。明治時代半ばに女性の守護神、金運の神として急速に隆盛をみた。現在も商売繁昌・家内安全のご利益を求めて多くの人々が参詣する。また奥之宮の“福砂”は玄関先などにまくと人を集めると言われている。羽田から糀谷の神社を巡り歩く「羽田七福いなりめぐり」のコースにも入っている。

Anamori Inari-jinja Shrine

Anamori Inari shrine, the guardian deity to protect the people of Haneda area, was originally located inside Haneda airport before World War II, but was moved to its current location after the war. The shrine is said to be the guardian for women and good fortune, with many people visiting the shrine to pray for prosperity in their businesses and safety in their homes. It is also said that scattering the hidden "Anamori sand" outside your home or building will attract people, which is why many business-men are attracted to this place.




ポイント1 穴守稲荷神社

「穴守」とは奇妙な神社名ですが、これには次のような言い伝えがあります。文政の頃(1818年〜1831年)、鈴木新田(現在の空港内)開墾の際に沿岸の堤防がしばしば激浪のため決壊し大穴が開き、海水が浸入しました。そこで村人達が相談し、堤防の上に一祀を祀ったところ、それから風浪の災もなく、作物がよく実るようになりました。「風浪が作りし【穴】の害から田畑を【守】り給う稲荷大神」と神徳を称え、「穴守稲荷神社」となりました。



境内の入口脇に、穴守神社の由緒を記した案内板が立っています。

御祭神

豊受姫命(とようけひめのみこと)

御神徳

ねがいごと かならずかなう 穴守の
   いなりの神よ いかに尊き

稲荷大神の「稲荷」とは「稲実る・稲生る」の義であり、「なる」は大自然より与えられた生産活動と希望・発展の意である。故に、商売繁昌・家内安全・心願成就・病気平癒・交通安全・厄除・開運祈祷などに御神徳あらたかで、産業界や芸能界、或いは講社の参拝など数多い。また、古くから伝わる羽田節の一節にも
   羽田ではやる お穴さま
   朝参り 晩には 利益授かる
と謡われている。毎月午の日には、早朝から穴守稲荷大神さまの高く尊き御神徳を仰ぎ奉り、広き厚き恩頼を畏み奉る特別崇敬者の午の日まつり(福まつりとも云う)で、社頭は終日の賑わいを見せる。

社史

社伝に云う。文化文政の頃鈴木新田(現在の空港内)開墾の際、沿岸の堤防しばしば激浪のために害を被りたり。或時堤防の腹部に大穴を生じ、これより海水侵入せんとす。ここにおいて村民等相計り堤上に一祠を勧請し、祀る処稲荷大神を以てす。これ実に当社の草創なり。爾来神霊の御加護あらたかにして風浪の害なく五穀豊穣す。その穴守を称するは「風浪が作りし穴の害より田畑を守り給う稲荷大神」という心なり。そもそも稲荷大神は、畏くも伊勢の外宮に斎祀られる豊受姫命にましまして、衣食住の三要を守り給える最も尊き大神なり。吾等一日たりともこの大神の恩顧を蒙らぬ日はなく、実に神徳広大なり。殊に当社は明治以来、大正・昭和を通じて、最も隆昌に至った。参拝の大衆日夜多く境内踵を接する如く社頭又殷賑(いんしん:活気があって賑やかなこと)を極め、崇敬者は国内は勿論遠く海外にも及べり。然るに昭和二十年八月終戦にのぞみ、敗戦と云う未曾有の大混乱の中、米軍による羽田空港拡張の為、従来の鎮座地より四十八時間以内の強制退去を命ぜられた。同年九月、地元崇敬者有志による熱意の奉仕により境内地七百坪が寄進され、仮社殿を復興再建。現在地(大田区羽田五丁目2番)に遷座せり。爾来崇敬者各位の協力により社殿・神楽殿・社務所等を復興し、今和二年春には目出度くも奥之宮を竣工。漸次昔日の面影を取り戻しつつある次第なり。

御神砂縁起

今は昔、羽田浦は要島に一翁あり。要島は干拓く島なれば堤にて固め成されり。然ど津波に襲し堤破るる事屡なれば、堤の上に祠を構へ稲荷大神を勧請するに、風浪の害止み之をもちて穴守稲荷と称す。或日翁漁より帰りて魚篭を覗くに釣せし筈魚は無く、只湿砂のみ在り。翌も翌々も大漁なれど同く魚は無く、湿砂のみ在るを訝しく思ひし翁、村衆に此を談る。衆人此を狐の仕業とし穴守稲荷の社を囲みて狐捕へけれど翁此を赦し放てり。此より後、翁漁に出ずる度大漁なり。魚篭には許多の魚と僅なる湿砂あり。嫗(おうな:年老いた女)此の砂庭に撒くに忽ち千客萬来す。斯くて翁冨を得る。故、翁に肖り(あやかり)御砂以て招福の徳を得むと、穴守の砂求むる者四方八方より訪れり。尚今日に至る。

御砂の撒き方

商・工・農・漁業・家内安全の招福には玄関入り口に、病気平癒の場合は寝床の下に、災・厄・禍除降の場合は其の方向へ、新築・増改築には敷地の中心へ、其の他特殊な場合には社務所にお尋ね下さい。




本殿の右手に、千本鳥居と称される夥しい数の朱色の鳥居が並んでいます。横にある境内社にも数は少ないですが朱色の鳥居が建っています。



鳥居トンネルの奥には、奥之宮があります。山腹を穿った洞窟の中に祠を祀ったような感じです。



奥之宮の脇には狐塚と記された洞窟があり、沢山の狐像とミニ鳥居が積まれています。



ミニ鳥居は、2022年2月に訪れた時に千本鳥居の脇に並べられていたもののようです。


左が2022年2月に訪れた時の写真、右が2025年1月に訪れた時の写真です。


拝殿の前に、陶器の箱に入った砂が置いてあります。案内板に書いてあった「御神砂」のようです。

招福砂の由緒

このお砂をいただき、家運繁栄あるいは清めのお砂として撒かれますと人の心を和め祓いて導きのある穂、即ち神福が授り商売繁昌、家内安全、心の願いが叶えられる招福の砂として広く稱えられております。




折角なので稲荷山に登ります。



山頂には、上乃社や御嶽神社が鎮座しています。



2022年2月に訪れた時は、上乃社の扁額は「上社」になっていました。扁額の文字が変るのは珍しいですね。



周囲に起伏のない土地なので、山頂からは羽田の街並が見渡せます。



稲荷山からの帰りに千本鳥居を潜りますと、鳥居の一本一本には寄進者の名前と寄進日が書かれています。奥から年代順に並んでいますので、新たな寄進者が現れる度に手前の方に鳥居を建立するようになっているのかな?



神社の外から見ますと、稲荷山の高さがよく分かります。外壁は石積みのようですが、どうやってくっつけたのでしょうか?



環八に出て、海老取川に架かる穴守橋を渡ります。



穴守橋の欄干には様々な歴史上の飛行機が描かれたプレートが貼られています。

モンゴルフィエ熱気球

1783年 世界最初の気球飛行

二宮忠八の玉虫型飛行機

1891年 日本最初のプロペラ付ゴム動力模型飛行機
      *ライト兄弟が飛行実験に成功する12年前

ライト兄弟のフライヤー1号

1903年 世界最初の有人動力飛行

アンリ・ファルマン機、グラーデ機

1910年 日本における、日本人操縦の初飛行
      *アンリ・ファルマン機・・・フランスからの輸入機
      *グラーデ機・・・・・・・・ドイツからの輸入機

スピリット オブ セントルイス号

1927年 初の大西洋無着陸横断飛行に成功

ツェッペリン伯号

1929年 日本への初飛行(飛行船で最も有名)

フォッカーF7b

1929年 戦前の国内線飛行機
      *羽田空港開港(1931年)時に運行されていた

ダグラスDC−3

1935年 本格的輸送機の幕開け、近代旅客機の先駆である
      *2年後に製造権を取得し、国産化を開始した

神風号

1937年 東京・ロンドン間の都市間連絡飛行時間の世界新記録(94時間17分56秒)を樹立

航空機

1938年 関東平野の木更津・太田・平塚の三角コースを無着陸で29周し、
      周回航続距離の世界記録(11.651km)を樹立、
      これを機に日本航空界は世界の注目の的となった

零式艦上戦闘機

1939年 当時の世界最高水準の飛行機
      *現在、世界の航空機の全てが採用しているモノコック構造の胴体を世界で初めて実用化した

YS−11

1962年 戦後初の国産旅客機

ボーイング747

1965年 ジャンボの幕開け




ポイント2 ビューポイント

穴守橋から羽田空港を眺めますと、駐機中の飛行機が間近に見られます。



穴守橋の下流側に稲荷橋と天空橋が並んでいます。天空橋を横から眺めますと、鋼鉄製のブロックを渡したような感じに見えます。



天空橋は海老取川に架かる人道橋です。「天空橋」という名称をつけたのは地元の小学生で、「かっこいいから」という理由だったそうです。

天空橋

平成五年(1993年)、東京国際空港の沖合展開によって、京浜急行空港線が延伸されました。それに伴い、海老取川の対岸に、空港線と東京モノレールが接続する羽田駅が開設しました。海老取川の西側(現在地)には昭和三十一年(1956年)開設以来、多くの人々に利用されていた羽田空港駅がありました。しかし、羽田駅の開設によって廃止となり、川の東側へ移った駅への通路として、海老取川に人道橋が架けられました。これが天空橋です。

天空橋の名称の由来

橋の名称をつけるにあたって、将来、橋を多く渡るのは羽田の子供たちであることから、子供たちに名称をつけてもらうことになりました。そして、羽田小学校、羽田旭小学校の全校生徒のアンケートにより最も多かった「天空橋」が採用されました。この名称には、子供たちが未来に向かってはばたいてゆくことへの願いと、羽田のまちが発展することを願う心がこめられています。




ポイント3 羽田空港天空橋船着場

天空橋の下流側に、平成二十四年4月にオープンした羽田空港天空橋船着場があります。この船着場は、災害時に人や緊急物資を運ぶための水上輸送拠点として活用されます。また、平常時は観光振興を目的として、水上バスやクルーズツアーなどの舟運事業等に使用されます。



思い出深い武蔵野の路は羽田が起点でした。その名前を冠した小さな公園があります。



武蔵野の路の案内板が立っています。現在は維持管理はされていませんが、案内板は各地に残っています。復活を期待したいところです。

武蔵野の路

武蔵野の路は、各地域の自然・歴史・文化にふれながら、東京を周回する全長270kmの散策路です。東京湾を望む海の路や、河川沿いに延びる川の路、緑地や湖を巡る森の路、首都圏自然歩道につながる山の路など、それぞれ特色のある21のコースが用意してあります。これらの路を徒歩や自転車でたどりながら私たちのまち東京の大きさや、変化に富んだ四季の豊かさ、歴史や文化の奥行きの深さにふれてください。

六郷コースの概要

このコースは多摩川の河口から大田区田園調布丸子橋までの多摩川左岸約11.1kmの平坦な路です。コースの大部分は広大な多摩川の景観を楽しめるサイクリングコースとして整備されています。河川敷きは大規模なスポーツレクリエーション施設として利用されているほか、六郷の渡し、矢口の渡し跡などの史跡が点在しています。




ポイント4 弁天橋

天空橋の下流に弁天橋があります。海老取川最下流の橋です。



かって東京湾で盛んだった海苔養殖の様子を描いたプレートが欄干に貼ってあります。



堤防の内側に、かっての羽田浦での漁業の歴史を記した石碑が建っています。

羽田の漁業

羽田浦の漁業は、約830年前の平治年間、羽田に七人の落人が住みついたときから始まったと言われている。江戸時代になってから、漁船、漁師は、参勤交代のときに六郷川(多摩川の河口部)の船橋や補役として、また大坂城夏の陣には軍船として使用された。この羽田浦は、魚介類の大切な栄養源となる淡水が多摩川より大量に流れ出るため、その周辺は絶好の漁場であった。この地で水揚げされた魚介類の鮮度は高く、徳川将軍家に献上したり、江戸の町に運んでいた事実が伝えられている。特に羽田洲は、「干潟広大にして諸貝を産し、中でも蛤貝を名産とし、汐吹貝、赤貝多し」と「羽田史誌」に記されており、古くから多くの貝類が漁獲されていた。かって江戸湾内の優良漁場であった羽田浦周辺も、昭和三十年代から始まる東京港の埋め立てと航路づくりのため、昭和三十七年に海苔漁場の漁業権の放棄が余儀なくされた。その後、空港拡張により浅瀬漁場は減少し、以前のような漁村としての姿は薄れつつあるなかで、多摩川河口の船溜りは、昔をしのばせる貴重な場所になっている。




ポイント5 水難者供養塔

海老取川が多摩川に合流する地点に、小さな仏堂が建っています。堤防の外側にあるので、満潮時にはまるで海中に浮かんでいるように見えるかもしれません。

五十間鼻無縁仏堂の由来

創建年代は不明でありますが、多摩川、又、関東大震災、先の第二次世界大戦の、昭和二十年三月十日の東京大空襲の折には、かなりの数の水難者が漂着致しました。その方々を、お祀りしていると言われております。元は、多摩川河口寄りの川の中に、角塔婆が一本立っているだけで有りましたが、初代漁業組合長故伊東久義氏が管理し毎年お盆には、盆棚を作り、有録無縁の御霊供養をしていました。昭和五十三年護岸工事に伴い、現在地に移転しました。その後荒廃著しく、仲七町会小峰守之氏・故伊東米次郎氏・大東町会故伊東秀雄氏が、私財を持ち寄り復興致しました。又、平成十六年に、村石工業、北浦工業、羽田葬祭スミヤ中山美装、中山機設の協力により新たに、ブロック塀、角塔婆、桟橋、などを修理、増設、現在に至ります。又、新年の水難祈願として、初日の出と共に、羽田本町日蓮宗長照寺住職並びに信者の方々が、水難者への供養を、毎年行っています。




多摩川の河口部には船溜まりがあります。今は干潮時でしょうか、浅瀬が出現しています。



道路に面して古ぼけた神社があります。「羽田七福いなりめぐり」の中の一社で、羽田玉川弁財天というのだそうです。「羽田七福いなりめぐり」とは、毎年正月に行われる催し物で、この期間中は各神社で御朱印が受けられます。京急空港線の糀谷駅近くの東官守稲荷神社から始めて、ゴールの穴守稲荷神社までの所要時間は約2時間となっています。羽田玉川弁財天は別格という位置づけで、金運長寿の御利益があります(金運、ホントかなぁ?)。「江戸名所図会」には、「羽田村の南も洲の先にあり、故に羽田弁財天と称せり。本尊は江の島本宮巌屋弁財天と同体にして、弘法大師の作なりといへり。宝永八年(西暦1711年)四月此地に遷し奉る云々」とあります。社頭は、江戸新堀小西九兵衛という酒問屋が全て造ったとされ、境内の一部に常夜灯があり、沖行く舟の目標であったといわれています。また、羽田玉川弁財天にまつわる様々な版画も残されています。戦前までは現在の羽田空港内(要島・鈴木新田)にありましたが、昭和二十年9月に連合軍の強制立退命令により現在地に遷りました。



堤防上の遊歩道から分かれて住宅地の中を細い道路が通っています。道路の海側には古い煉瓦塀が続いています。かっての堤防の跡だそうです。羽田の煉瓦堤防は、洪水対策として大正から昭和初期にかけて行なわれた多摩川改修工事で建設されました。自然堤防止、道路面から腰高ほどの煉瓦堤防を建設したのは、堤内外を日常的に往来する羽田猟師町の土地柄への配慮でした。イギリス積み工法による堤防は「赤煉瓦の堤防」と親しまれ、羽田の原風景ともいえます。その煉瓦堤防の突端の多摩川と海老取川の合流地点には、長さ50間(約90m)の石積みの沈床があり、「五十間鼻」と呼ばれています。新防潮堤が完成し隠れてしまいましたが、今も昔も初日の出の絶景スポットになっています。



高速大師橋の袂に、赤煉瓦堤防の案内板が立っています。

羽田レンガ堤(レンガ胸壁)の沿革

1 度重なる水害に苦しめられた羽田地区
羽田は多摩川河口の砂州の上にあったことから、たびたび水害が発生しました。天正十七年(1589年)から安政六年(1859年)の間に62回の大洪水があったことが記録されています。明治以降の水害は(で?)、明治十一年(1878年)、明治十七年(1884年)、明治四十年(1907年)、明治四十三年(1910年)の洪水は甚大な被害をもたらしました。

2 羽田レンガ堤の建設
「水利水運の利便性を高めかつまた洪水及び水害を防ぐ」ことを目的として、大正六年(1917年)9月に内務省によって「多摩川改修計画」が立案されました。堤の整備を含む大規模な河川改修工事は大正七年度着工、昭和八年度完了(工期16ヵ年)しました。「多摩川改修工事概要」(内務省東京土木出張所、昭和十年10月発行)には、「羽田地先1632mの築堤の区間は、初め旧堤を拡築する計画であったが、土地の状況を考慮して、工法を変更。旧堤表法肩に鉄筋レンガの胸壁(赤レンガの堤防)を築き、所々に陸閘を設け、堤上は道路に利用することとして、河川住民及び一般の利便を増進させた。」と記されています。また人が堤防をまたぐ為の階段も設けられました。

3 羽田レンガ堤と人々の暮らし
レンガ堤の外の川側は堤外とか堤外地といわれ、桟橋、造船所、生簀、材木置き場、作業場があり、船大工、魚問屋、鍛冶屋などが住んでおり、船宿や筏宿もありました。昭和二十年(1945年)9月21日に進駐軍が鈴木新田(現羽田空港)の住民に48時間以内の強制退去を命じたため、堤外地に移り出てここで生活する人もいました。レンガ堤の完成以来、住民は大きな洪水被害も無く安心した生活を過すことができました。そして、昭和二十年4月15日の米軍空襲の際には、赤レンガ堤の外側で火災を避け避難所とすることができました。赤レンガ堤は水害から、そして戦災から多くの人々の生命財産を守りました。昭和四十八年(1973年)、高潮防潮堤として新たに外堤防が完成し、レンガ堤は洪水を防ぐ堤防としての役割を終えましたが、この地域のかつての水防の姿や人々の暮らしの歴史を物語る近代の遺構として姿を留めています。




ポイント6 羽田の渡し跡

赤煉瓦堤防の案内板の隣に、「羽田の渡し跡」の案内板も立っています。

羽田の渡し

古くから、羽田漁師町(大田区)と上殿町(川崎市)を渡る「羽田の渡し」が存在していたという(現在の大師橋下流、羽田三丁目で旧城南造船所東側あたり)。この渡しは、小島六佐衛門組が営んでいたので、「六佐衛門の渡し」とも呼ばれていた。渡し場付近の川幅は約40間(約80m)ぐらいで、「オーイ」と呼ぶと対岸まで聞こえたという。その昔、徳川家康が狩りに来た帰りに、お供の者と別れて一人でこの渡し場に来たところ、船頭は家康とは知らずに馬のアブミを取ったという伝説が伝わっている。ここで使われた渡し船は、20人〜30人の人々が乗れるかなり大きなもので、この船を利用して魚介類、農産物、衣料品など、生活に必要な品々が羽田と川崎の間を行き来していた。江戸の末には、穴守稲荷と川崎大師参詣へ行き交う多くの人々が、のどかで野梅の多かった大森から糀谷、羽田を通り羽田の渡しを利用するため、対岸の川崎宿では商売に差しつかえるので、この渡しの通行を禁止して欲しいと公儀に願い出るほどの賑いをみせていたという。また、明治後期から昭和初期にかけて、川遊びをする船も往来していた。物資の交流だけでなく、人々の生活、文化の交流など大きな貢献をしてきた羽田の渡しは、時代の変化とともに多くの人々に利用されたが、昭和十四年に大師橋が開通したことにより廃止された。




その旧大師橋の親柱も保存されています。



現在、多摩川には一般道の大師橋と首都高速の高速大師橋の2本が並行して架かっています。高速大師橋は昭和四十三年(1968年)に開通しましたが、多摩川を渡る1日8万台の交通量を支え続け、多数の亀裂が見付かるなど老朽化が進んでいます。このため、橋の架け替え工事が進められています。首都高の橋の架け替えは長期間通行を止めることができませんので、その工法は現在の橋の隣(下流側)に、長さ約300mの新しい橋を組み立て、それが出来上がった後に現在の橋と新しい橋をスライドさせて一挙に架け替えるという壮大なものです。この工法を採用することにより、現在の橋の撤去と新しい橋の架設という2つの工事が合わせて2週間という短期間で完了することが出来ました。


左は架け替え前の高速大師橋、右は架け替え後の高速大師橋の橋脚の一部(左端)です。


高速大師橋のすぐ上流に一般道の大師橋が架かっています。大師橋の橋名の由来となっている川崎大師は大師橋の南西約1キロメートルのところにあり、橋は川崎市が管理しています。旧大師橋は、昭和十四年(1939年)に完成したゲルバー式トラス橋で、吊り橋に似た形をしていました。橋の長さは552.18メートルあり、この形式の橋としては東洋一といわれました。車道は二車線併せて11.0メートルで、両側に2.5メートルの歩道がありました。多摩川の流れにかかる部分にふたつの大きな橋脚を立て、3つのトラスを連結していました。旧大師橋が狭く、老朽化が進んだため、平成三年(1991年)から新橋への架け替え工事が始まりました。中央の両側に建てた二つの塔から左右に7本ずつ、計28本のワイヤで橋桁を吊る斜張橋になっています。工事は2期に分けて行なわれ、平成九年(1997年)に3車線の橋が完成し、上り2車線・下り1車線として供用が始められました。平成十八年(2006年)11月12日にII期工事としてもう1本の橋(3車線)が完成し、T期工事部分が下り線、II期工事部分が上り線として供用されています。橋の下から富士山が顔を覗かせています。



大師橋の下を潜ったところで右折し、産業道路を北に進みます。この道路はかっての羽田街道です。羽田街道は、東海道から内川橋際(大森東二丁目2番先)で分かれて羽田方面に至る道で、分岐点付近に歌舞伎にも出てくる「駿河屋」という旅籠があったことから「するがや通り」とも呼ばれました。内川橋から大鳥居交差点(東糀谷三丁目3番先)までの区間で旧道が残っていて、産業道路ができるまでは羽田で獲れた魚などを運ぶ生活道路でした。正藏院の前に石碑が建っています。



ポイント7 羽田神社

羽田神社は、羽田の「氏神様」として羽田全域から現羽田空港まで広い氏子区域を有しています。特に航空会社各社の崇敬の念が篤く、正月から年間を通じて運航安全・航空安全祈願の参詣が行なわれています。また、文久元年(1861年)に疱瘡(天然痘)が蔓延した際に、徳川家定が病気平癒祈願に参詣して治癒した故事により、多くの参拝者が病気平癒を祈願しています。祭神は、須佐之男命と稲田姫命の二柱で、夫婦の神様をお祀りしています。「縁結び」と「勝負事」の御利益でも知られています。羽田神社は、約800年前の鎌倉時代に羽田浦の水軍で領主だった行方与次郎が牛頭天王を祀った事が由来とされ、今日でも羽田神社を「てんのうさん」と親しみを込めて呼ぶ人がいるのはその名残りです。江戸時代には、徳川家・島津家・藤堂家などに厚く信仰されました。明治元年(1869年)に、自性院境内に祀られていた牛頭天王社は八雲神社となって独立しました。明治四十年(1907年)には、羽田村が町制施行により羽田町となり、同年に「羽田神社」に改称され、現在に至っています。現在の社殿は、昭和六十三年(1988年)5月に竣工しました。なお、平成十八年3月と令和元年7月に塗り替え工事が行なわれています。明治初年に造られた「羽田富士」は、富士山に憧れた当時の人々がその姿を模倣して造った築山で、大田区文化財に指定されています。近年には一部崩落が見られ登拝禁止となっていましたが、令和二年2月に富士塚の修築工事が完工し、再び登拝が可能になりました。



社殿の前に手水舍がありますが、水盤には龍でなく牛が鎮座しています。

手水舍

羽田神社は800年前の鎌倉時代に羽田浦の水軍で領主であった行方与次郎が「牛頭天王」を祀ったのがその起こりです。手水舎には水の守護神である「龍」をよく見かけますが、当社は牛頭天王にあやかり「牛」を用いております。

牛頭天王(スサノオノミコト)
信仰と病気平癒

牛頭天王(ごずてんのう)はインドの祇園精舎の守護神で、神道の「スサノオノミコト」と同一視されます。昔、疫病や祟りを恐れた人々が悪いものを除ける神として牛頭天王(スサノオノミコト)を祀る信仰が広まりました。一説によると疾病は異国からのものと捉え、異国伝来の疫病神である牛頭天王を祀るようになったと考えられています。文久元年(1861年)に疱瘡(天然痘)が蔓延。時の将軍・徳川家定が牛頭天王社(現羽田神社)に病気平癒祈願に参詣し治癒した故事はその信仰の現れといえます。




境内には、「疱瘡除祈願御礼の碑」が建っています。

八雲神社之碑(疱瘡神) 病気平癒・身体健全

かつて「疱瘡」(天然痘)は、子供たちにとって最も恐ろしい病気であった。人々はこの「疱瘡」に対して畏敬の念を表し、その原因を「疱瘡神」によるものとして崇め祀ってきました。羽田神社には、社殿右側に「疱瘡除祈願御礼の碑」があり、この碑は天保十二年に、将軍家定が疱瘡治癒祈願に訪れた事績によるものです。この参拝により流行病が治癒したことから、病気平癒の神としても信仰され、病気平癒や身体健全を願う多くの参拝者が訪れています。震災や戦災を逃れ、石碑は当時の姿を保っているものの、現在は保護のためフェンスで覆われています。

石碑には、次の言葉が刻まれています。

八雲神社之碑 蒲田梅木堂主仙鶴隠士謹識
羽田村羽田神社境内 羽田村 社務所

当村氏子の輩十五歳以降は男女とも疱瘡すべからず、たとへ十五歳以前なりともかならず安全に致す事にて、ひとへに大神の神力加護にあづかる処なり、依て信心の銘々氏子加入の志これある輩、社務所へ申出られ、御札守木差し可申候、
                                文久元酉年正月 日 改




社殿の右手に、境内社が並んでいます。「鈴木新田」は現在の羽田空港の元になった開拓地です。

鈴納稲荷神社

祭 神 字迦之御魂神
創建年 天明五年(1785年)

羽田猟師町の名主鈴木弥五右衛門氏が天明四年(1784年)羽田村名主石井四郎右衛門氏より三町五畝の干潟を譲り受け、その周囲五十間四方に堤防を作り開墾を始めました。名主鈴木弥五右衛門が造成した土地を鈴木新田とし、無事に納まるように鈴納耕地と名付けました。度々の風雨や洪水で堤防が決壊し住民が困ったので、これを防ぐため屋敷の近くに稲荷社を建立して鈴納耕地の安全を祈願しました。昭和二十年九月二十一日強制立退き後、昭和三十一年二月(1956年)午の日現在の地に鈴納稲荷社を建立しました。




宇迦之御魂神(うかのみたま)は、日本神話に登場する女神です。「宇迦」は「ウケ(食物)」の古形で穀物・食物を意味し、穀物の神とされています。「御」は「神秘・神聖」、「魂」は「霊」で、「稲に宿る神秘な霊」と考えられています。開拓地で稲作が根付くようにとの願いを込めて祀られたのでしょう。

増田稲荷神社

祭 神 宇迦之御魂神
創建年 不詳

環状八号線と高速横羽線が交わるあたり一帯は徳川幕府中期以降、増田市左衛門が開墾したので増田新田と呼ばれ、近年迄六間堀に増田橋が架けられていました。増田稲荷神社は高速上り線羽田出口(現、羽田一丁目十番地)付近に祀られていたが戦後、京急及び道路の拡幅に伴い、関係者、有志の願いが許され羽田神社の境内社として移されました。古老の話として、祠の中は子供達が遊ぶ事が出来た親しみのあるお稲荷さんだったとの事です。




日枝神社は全国に3、800社あり、山王信仰に基づき比叡山麓の日吉大社から勧請を受けた神社です。「山王」とは、日吉大社で祀られている神の別名で、比叡山に鎮まる神を指しています。「日枝」は「比叡山」の元となった「日枝山」に由来します。

日枝神社

祭 神 大山咋命
創建年 江戸中期

西町・前河原の守護神として祀られ、文化年間の古文書にも記されている社です。御祭神「大山咋命」は五穀豊穣、家内安全、景気回復にご神徳があるといわれています。太平洋戦争で廃失(昭和二十年四月十五日)しましたが、昭和二十四年、現大田区体育館の所在地にライオン株式会社があり、敷地に焼失を免れた社があったのでそれを頂き羽田2−28−5に再建いたしました。その後昭和三十六年、両町会の合意により、羽田神社に合祀を願い、許されて境内社となりました。別名「山王さん」と呼ばれ、神使いは「お猿さん」で町民から親しまれ毎年四月二十九日に社前祭が行われています。




つばさ高校という名称は羽田の地に相応しい校名ですが、これは漢字の“翼”に「羽田(と)共(に)」という意味が込められています。平成十四年(2002年)に、都立羽田高等学校と都立羽田工業高等学校の全日制課程を統合して開校しました。

羽田稲荷神社

祭 神 宇迦之御魂神
創建年 不詳

現つばさ高校辺りにあった井上軍左衛門宅の庭内神社として祀られていましたが、引っ越しに際し昭和五十五年十一月、羽田神社境内末社となりました。御祭神は伏見稲荷神社から分霊をいただきました。




羽田稲荷神社の左手奥に神輿庫があります。鳳輦(ほうれん)とは、元々は「屋根に鳳凰の飾りのある天子の車」を指し、現在では鳳凰(ほうおう)の飾りがある神輿も意味しています。

鳳輦庫

■本鳳輦は東京オリンピック開催年の昭和三十九年製作の二代目である。2020東京オリンピック・パラリンピック開催に合わせ鳳輦を修復した。

■令和元年七月の夏季例大祭に「奉祝 天皇陛下御即位記念渡御」として昭和六十三年の社殿造営記念以来、約三十年ぶりとなる羽田全町渡御を行った。

■現在、大田区文化財指定申請中。




庫内の神輿はガラス戸が反射してよく見えませんでした。



社殿の壁に鳥居が保存されています。

三の鳥居

昭和六十三年の羽田神社新社殿御造営に合わせ「都南羽田の会有志(代表故田中豊彦氏)」によりご奉納を戴き、建立以来二十数年間「三の鳥居」として親しまれて参りました。平成二十二年六月、永年の風雨に晒され根本からの腐食劣化が激しく、多くの参拝者が通る参道であり現状危険であるとの判断のもと、寄贈者・関係者各位にご理解を戴きやむなく撤去となりました。撤去後、根本腐食部分を取り除きこの場所へ移設されました。




社殿の左手奥には、羽田富士塚があります。

大田区文化財 富士塚

富士塚とは富士山を模した人工の小山である。江戸時代中期の安永年間(1772年〜1781年)頃より、富士山を信仰する有志の集まりである富士講が主体となって、関東を中心に各地で造られた。実際に富士山を望める場所に築かれる場合が多く、山開きに合わせて富士講の講員が遥拝する習俗がある。当塚は俗に「羽田富士」と呼ばれ、明治時代初頭に築造されたという。塚の一部には富士山の溶岩が用いられ、登山道に見立てた通路には合目石が配されている。富士講の主導で建立された周囲の碑には、高さ三メートルを越えるものもあり、篤い信仰心がうかがえよう。毎年七月一日に行われる山開き神事は一時断絶していたが、平成二十五年に富士山が世界文化遺産に認定されたことを機に再開された。




「ご自由に登拝下さい」と書いてあります。富士塚大好きな私としては登らざるを得ませんね。



山腹には多くの石碑が建っています。どうやって持ち上げたのでしょうか?



山頂には浅間神社が鎮座しています。富士塚で初めて見たのですが、浅間神社の前には立派な鳥居と狛犬が置かれています。



ポイント8 萩中公園

羽田神社の先に萩中公園があります。萩中公園には、交通公園・ガラクタ公園・芝生広場・野球場・プールなどが備わっています。芝生広場周辺には、サクラ・ウメ・ケヤキなどの多くの木が植えられていて、憩いの場となっています。運動施設としては、萩中公園プール・萩中公園少年野球場・野球場があります。萩中公園プールには屋内プールがあり、年間を通じて利用可能です。



児童交通公園では、信号機のあるコース内で自転車の練習ができ、幼児や小学生で賑わっています。



ガラクタ公園には、蒸気機関車や都電・トラック・ボートなどが置かれ、中央にはジャンボ滑り台が設置されています。蒸気機関車は、東武鉄道最後の蒸気機関車として昭和四十一年(1966年)まで活躍していました。

この蒸気機関車は大正三年(1914年)にイギリス・マンチェスターの「ベーヤー・ピーコック社」で製造されたもので、昭和四十一年(1966年)の9月頃まで東武鉄道で最後の蒸気機関車として活躍していました。東武鉄道の厚意により、将来の電化で姿を消す運命にある蒸気機関車を、子供達の教材として区が譲り受けたものです。平成八年9月、老朽化が進み痛みが目立つため、大改修工事を実施いたしました。生まれ変わった蒸気機関車をより一層可愛がって下さい。

説明

1.形式    四輪連結テンダー機関車 形式略号 B−3
2.重量    機関車 運転整備のとき 36.61トン 空車のとき 30.76トン
        炭水車 運転整備のとき 23.72トン 空車のとき 12.19トン
3.長さ    全長    14.472メートル(連結部とも)
        機関車    8.991メートル 炭水車  5.417メートル
4.幅・高さ  幅      2.572メートル 高さ   3.810メートル
5.車輪    導輪直径   0.749メートル 動輪直径 1.524メートル
        炭水車輪直径 0.954メートル
6.最高速度  98km/h




都電は、荒川線の主力車両として平成二十四年(2012年)12月30日まで運行されていました。

都電荒川線7008号車

この7008号車は、都内唯一の路面電車である都電荒川線の主力車両として、平成二十四年12月30日まで運行し、都民の皆様に親しまれていた車両です。平成二十五年2月東京都より譲渡されました。




ガラクタ公園の中央には、ジャンボ滑り台が設置されています。隣には、スペースシャトルの機体を模した遊具もあります。



健康器具広場もあります。大人も運動がてら楽しめますね。



ゴール地点の京浜急行大鳥居駅西口に着きました。大鳥居駅の駅名は、開業時に付近に穴守稲荷神社の大きな鳥居があったことに由来しています。

大鳥居

大鳥居駅は、明治三十五年(1902年)6月28日に京浜電鉄穴守線(現空港線)と同時に開業した。駅名は付近に穴守稲荷神社の大きな鳥居があったことに由来している。鳥居は明治三十二年(1899年)に、海老取川にあった渡し場へ至るまっすぐな参道を造成した折、羽田道からの分岐点に建てられたが、大正十二年(1923年)の関東大震災で傾き取り壊された。

Otorii

Otorii Station came into service together with the Keihin-Dentetsu-Anamori line on June 28th, Meiji 35. The origin of "Otorii" comes from the history that there was a big shrine gate of Anamori-Inari shrine near the station. The gate was built in Meiji 32 when the pavement from Ebitori-river to the ferry station was finished. The gate was pulled down by the big earthquake in 1912.




ということで、大田区で三番目の「国際空港の玄関 羽田の街をぐるっと巡る」を歩き終えました。次は大田区で四番目のコースである「東京の百景 田園調布駅から多摩川台公園」を歩きます。




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