東京の百景 田園調布駅から多摩川台公園  

コース 踏破記  

今日は太田区の「東京の百景 田園調布駅から多摩川台公園」を歩きます。東急東横線田園調布駅を出発し、田園調布のシンボルである銀杏並木を抜け、多摩川台公園の古墳群を巡ります。最後は六郷用水の水路を辿って先人達の労苦を偲びます。最初に歩いたのは2022年の2月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年2月に改めて歩きました。

東京の百景 田園調布駅から多摩川台公園

田園調布は、豊かな自然と閑静な住宅街が調和した美しい景観のまちです。駅前から放射状に植えられた銀杏並木は、秋になると黄金色に輝き、実に見事です。この田園調布のまち並みは、国土交通省の「都市景観100選」にも選ばれています。また全国的に有名になった「桜坂」がある地域です。自然に囲まれた道を歩きながら、気持ちの良い汗を流しましょう。

「東京の百景 田園調布駅から多摩川台公園」の歩行距離は約3.8km(約5、400歩)、歩行時間は約57分(65分*)、消費カロリーは約171Kcalです。

注記*:(65分)は、協力団体が実際に歩いてかかった時間です。

スタート地点:東急東横線田園調布駅
ポイント1 銀杏並木
ポイント2 宝来公園
梅で有名な公園で、自然林を生かしており、カモがたわむれる池や噴水が設けられています。
ポイント3 秋葉の黒松
高さ約15m、幹の周囲約4m。樹齢約300年といわれ、都の天然記念物に指定されています。
ポイント4 多摩川台公園
多摩川に沿って伸びる丘陵地に約750mにわたり広がっています。亀甲山古墳、宝莱山古墳、多摩川台古墳の上に位置します。
ポイント5 亀甲山古墳
ポイント6 浅間神社
ポイント7 区内最古のトンネル
ポイント8 六郷用水遊歩道
江戸近郊農村の開発と徳川家の財政的な安定を目的に生まれた農業用水です。

ゴール地点:東急多摩川線沼部駅


スタート地点の東急東横線田園調布駅から歩き始めます。



田園調布駅は現在は地下にありますが、かっては地上駅で、レトロ調の優雅な駅舎は今でも街のシンボルとして保存されています。関東の駅百選にも選ばれています。



都内でも有数の超高級住宅地として知られる田園調布の由来を記した巨大な石碑が駅前広場の一画に置かれています。

田園調布の由来

この広場を中心とする凡そ八十万平方米の地域は、明治文化の先覚者渋沢栄一翁が我国将来の国民生活の改善の為に、当時漸(ようや)く英米に現われ始めた「田園都市」に着目して都会と田園との長所を兼ねた模範的住宅地を実現させようと念願して、既にあらゆる公的関係から退かれた後であるにも拘らず、自ら老躯を運んで親しく土地を選定された所であります。その目的の為に大正七年、田園都市株式会社が創設されて、翁の理想に共鳴する人々に土地の分譲を行ない、我国最初の近代的大計画都市が実現しました。そして居住者による社団法人が生まれました。この都市全体を一つの公園のように明るく美しいものにする為、建築その他に関し色々な申し合せを固く守り、殊に道路との境界には一切土塀板塀などを設けず、花垣か生け垣の低いものゝ程度とすることなどを厳格に実行しました。その協力の結果、この明るい住宅地と楽しい散策地が生れたのであります。大正十一年には同社の姉妹会社として目黒蒲田電鉄が創立され、大正十二年三月、当時荏原郡調布村であった当地に調布という駅が設けられ、間もなく田園調布という駅名に改められました。その後この地区が東京市に編入された際、町名改正が行われて当都市のみならず周辺の町村をもひろく含めて田園調布と呼ぶことゝなりました。その折当会の地域は頭初の田園都市の約三分の二となり、他の三分の一は世田谷区玉川田園調布となりました。こゝに明るく住む方々も、こゝを来しく訪れる方々も、渋沢翁の理想が永くこゝに栄えてゆくように、この田園都市を愛護して下さるようお願い致します。




ポイント1 銀杏並木

田園調布駅の西口から伸びる三本の放射状の銀杏並木の左側の道を進みます。せたがや百景にも選ばれている銀杏並木ですが、これは当時の区画整備の際に植樹されたもので、田園調布の特徴である同心円放射状の街路のうち、駅から放射状に伸びている三本の比較的広い道沿いに植えられています。真っすぐに続く銀杏並木と道沿いの高級住宅地の雰囲気はよく調和し、国土交通省の「都市景観100選」にも選ばれました。



ポイント2 宝来公園

銀杏並木を進んだ先に宝来公園があります。宝来公園は、自然林を生かし、武蔵野の面影を偲ばせる閑静な公園です。公園名は、公園から100メートルほど離れたところにある宝莱山古墳に由来しています。

宝来公園の由来

本公園は、多摩川の沿岸旧荏原郡下沼部村の丘陵に位置し、附近は、亀甲山古墳を始めとする多くの遺跡に富んでいます。園内には、梅、桜をはじめ、クヌギ、シイなど、約70種1500本の樹木が繁り、四季折々の自然の美しさは、今も、武蔵野の面影を残しています。大正十四年、田園都市の開発に際し、武蔵野の旧景を保存し永く後世に残すために、田園調布株式会社は、街の一画の汐見台の地を公園用の広場として残しました。その後、田園調布会に贈られ、昭和九年10月、当時の所有者、田園調布会より、東京市に寄附されました。東京市は、当時の金で一万円を投じて整備を行い、昭和十一年4月「宝来公園」として開園されました。そして、昭和二十五年10月1日に大田区に移管され現在に至っています。




公園内には、ウメ・サクラ・ツバキ・サザンカ・クヌギ・シイなど多くの花や樹木があります。湧水のある池にはカモなどの生き物がいて、5月には約300株のキショウブが咲きます。また、アカガエルの生態に配慮した噴水も設けられています。



田園調布は丘陵地に位置しているため、多くの坂があります。馬坂は長さが約220mほどの坂で、坂下は緩く、坂上になると急な上り坂になっています。昔は馬で引く荷車で台地へ上れる唯一の坂道であったために馬坂と呼ばれました。

馬坂

この坂道は、大正の頃まで、馬がひく荷車で台地へ上る唯一の坂道であるため、馬道と呼ばれた。昔は荷車が通るだけの狭い道幅であったが、耕地整理により道幅も現在に近いものになったといわれる。また、寺坂と呼ばれたこともあった。




ポイント3 秋葉の黒松

馬坂の坂上から住宅地に細い道が延びています。その先に松の大木が聳えています。樹高は約17メートル・幹回りは約4メートルで、主幹は直立し、地上から7メートル付近で四方に大きく枝を広げ 、傘状の樹形となっています。樹齢は約300年といわれ、多摩川近くの台地上に生育していることから遠くからもよく目立つ存在になっています。昭和三十八年(1963年)に東京都の天然記念物に指定されました。



根元には祠が祀られています。馬坂を300mほど下ったところに照善寺がありますが、この木が生育している場所はかって照善寺の所有地内でした。照善寺は天正十四年(1586年)にこの地にできた草庵を元にして、寛永十六年(1639年)に相蓮社廣誉全公が開山となって創建した寺院です。木の根元に照善寺の守護神にあたる秋葉神社の小さな祠があるため、「秋葉のマツ」あるいは「秋葉のクロマツ」の通称で呼ばれるようになったと伝わっています。

東京都指定天然記念物
秋葉のクロマツ

根もとに照善寺の守護神として秋葉神社の小さな石祠がまつられているので、通称、秋葉のマツと呼ばれています。主幹は直立して、根もとから約7mのところで枝を四方に伸ばし、傘状に広がっています。目通り幹囲は約4.1m、高さは約18.2mあります。多摩川に臨む台地の上にあって、遠くから望見することができます。クロマツはマツ科に属し、我が国の海岸地方に広く自生する常緑高木で、大きいものは高さ30m、周囲は6m以上に達します。樹皮は暗灰色で、異名をオマツともいいいます。

Natural Monument (Plant)
Akiba no Kuromatsu

This tree is called Akiba no Matsu because a small stone-made Hokora (a small shrine dedicated to a minor god) of Akiba shrine, which is enshrined as a guardian deity of Syouzen-ji, is located near the base of Kuromatsu, Pinus thunbergii Parl. The trunk is upright and the branches extend like an umbrella at the height of roughly 7 m. The trunk circumference (1.3 m above ground) is about 4.1 m and the total height is about 18.2 m. It is located on a hill which faces to the Tama river and can be seen from far away. Japanese Black Pines, also called Omatsu, belong to Pinaceae and are evergreen tall trees which grow naturally all over the coast areas in Japan. They can be up to 30 m high and have more than 6 m circumference. The tree bark is dark grey.




田園調布警察署多摩川台駐在所脇の小路に入って多摩川台公園に向かいます。住宅が取り壊されて廃墟となった空き地の入口に謎の張り紙がしてあります。埋蔵金にしては額が少ないようですが。。。

「宝島」 Sep 2015

(問1) 1991年頃ある青年が買い物のお釣りを貯金箱に入れて少しずつ貯めた。
     硬貨が約1000枚ある(合計2万円)。
     四半世紀後の2015年現在、そのお金の価値はどの程度、目減りしているか?

(問2) その青年も今では中年男性となった。
     今年その硬貨を新たに壺に入れて、ここの裏庭の地面のどこかに埋めた。
     四半世紀後の2040年になると、そのお金の価値はどの程度目減りしていると予想されるか?

(問3) その中年男性は、対照資料として、このたび同額を銀行の普通預金に預け入れた。
     四半世紀後の2040年には、どの程度その価値は減っていると予想されるか?

※2040年の我が子孫へ。宝の壺の在り処は以下のとおり。
 「誰の暮らし/熱のもと/梅干し/ザリカニ/七」

"Treasure Island"

Question 1)
In 1991, there are about 1000 coins (total 20,000YEN), collected in a piggy bank.
After a quarter of a century, in 2015, HOW MUCH has the VALUE of the coins be Decreased by?

Question 2)
The owner, who was a young man in those days, eventually became middle-aged man.
He decided to store some coins in a vase, and bury it somewhere in his backyard.
After a quarter of a century, in 2040, HOW MUCH would the VALUE of the coins be Decreased by?

Question 3)
As a control sample, he deposited the same amount in MIZUHO bank.
After quarter of a century, in 2040. HOW MUCH would the VALUE of the coins be Decreased by?

*My dearest sons & daughters in 2040, CASHE of Treasure is as the following CIPHER.
"Hew Reneger, Cede Prune Thirty".
「約束を破る奴は切り刻め、プルーン30個は譲り渡せ。」

参考のために、同じ値の純金も同封した
For reference I have enclosed the Pure GOLD of the Same VALUE




ポイント4 多摩川台公園

多摩川台公園は、多摩川に沿って北西から南東に向かって舌状に広がり、武蔵野台地南端部の国分寺崖線上に位置しています。長さは約600m・面積は66、661uあり、公園内には2基の大型前方後円墳と8基の古墳が保存されていて、狭い範囲に集中しているために散策がてら古墳を巡ることができます。公園内には桜の木が多く、春には桜の名所として知られています。昭和二十八年(1953年)に都立多摩川台公園として整備され、昭和五十年(1975年)に区に移管されて大田区立多摩川台公園となりました。



公園に入りますと、目の前に宝来公園の名称の由来となった宝莱山古墳があります。古墳の周囲には見学路が整備され、間近に古墳を眺めることができます。

東京都指定史跡
宝莱山古墳

宝莱山古墳は、多摩川下流域左岸の台地上、標高37.5メートル付近に築造された全長約97メートルの前方後円墳で、四世紀に築かれたこの地域最古のものである。前方部は東南に向き、この地域最大規模を誇る全長約107メートルの亀甲山古墳の前方部と向き合う位置に造られている。昭和九年に後円部が土取り工事で削平された際に、粘土椰の埋葬施設が発見され、四獣鏡、紡錘車形碧玉製品、玉類、剣などの武器類が出土している。平成七年の公園整備にともなう確認調査において、前方部にも埋葬施設のあることが推定され、前方部の先端が「撥状」に広がる形をとることが明らかにされた。墳丘は、前方部二段、後円部三段に築かれ、墳丘の周囲は削り出しによる一段のテラスが設けられている。この古墳は、多摩川流域の古墳時代を解明する上で重要である。

Historic site
Horaisan Kofun

The Horaisan Kofun is a keyhole-shaped tomb mound located on a plateau on the left bank of lower Tama River and built at a level of ca. 37.5 m. The two-third of a circular mound portion was dug away in 1934 into a flat surface, however, the remaining portion including a rectangular mound portion still remains undamaged.At the time of digging the circular mound portion, a clay burial chamber covering a wooden coffin with a buried person was discovered 3 m below the mound top; accessories like a domestic imitation mirror with four animal images, spindle whirl-shaped stone wares made of jasper, jadeite comma-shaped beads, jadeite cylindrical beads, glass small beads and a straight sword were excavated. As a result of excavations in 1995 and 1996, accompanied by a park development, it is now assumed that the tomb mound had a total length of the entire mound portion of 97.5 m at the time of construction, while the circular mound portion has a diameter of 37 m, a height of 11 m, and the rectangular mound portion - a width of 37 m and a height of 8 m. Further according to the assumption, the circular mound portion would be shaped into three levels and the rectangular mound portion - into two levels. Further, it is confirmed that a tip of the rectangular mound portion in a plan view broadens in a shape of club, and excavated relics demonstrate that the tomb mound is one of the oldest tomb mounds in the Kanto region, constructed in the first half of 4th century.The Horaisan Kofun belongs to the Ebaradai group of tomb mounds extending from an area around Den-enchofu, Ohta ward to Noge, Setagaya ward; the tomb mound under this section is identified as the first tomb among the ones within the group, and as a tomb of chieftain of the lower Tama River area.




大田区の案内板も立っています。

東京都指定史跡宝莱山古墳

宝莱山古墳は、多摩川下流域左岸の台地上、大田区立多摩川台公園西端の標高37.5m付近に築造された前方後円墳である。国史跡亀甲山古墳に次ぐ全長約97mの規模をもち、古墳時代前期前半(四世紀前半)に築かれたこの地域最古の前方後円墳である。前方部は東南に向き、この地域最大規模を誇る全長約107mの亀甲山古墳の前方部と向き合う位置に造られている。昭和九年に後円部が土取り工事で削平された際に、粘土槨の埋葬施設が発見され、(ホウ)製四獣鏡、紡錘車形碧玉製品、玉類、剣、槍等が出土している。現在、この出土品は、慶應義塾大学と大田区立郷土博物館に展示・保管されている。また、レプリカは、多摩川台公園内の古墳展示室に展示されている。平成七年の公園整備にともなう確認調査において、前方部にも埋葬施設のあることが推定され、前方部の先端が「撥状」に広がる形をとり、前方部南側の墳丘裾から台地の際まで張り出していることが明らかにされた。墳丘は、後円部三段、前方部二段に築かれ、墳丘の周囲は削り出しによる一段のテラスが設けられている。この古墳は、多摩川流域の古墳時代を解明する上で重要な遺跡として、平成八年三月十八日付けで、東京都指定史跡に指定された。

古墳の規模埋葬施設出土品
全  長  97m粘土槨(ホウ)製四獣鏡1、紡錘車形碧玉製品1、硬玉製勾玉4、
後円部径  52m(後円部)碧玉製管玉68、ガラス製丸玉173、
前方部幅  37mガラス製小玉392、鉄剣身残欠6、
後円部高  11mヤリ形鉄器残欠2、直刀残欠8、刀子1
前方部高   8m有(前方部)未発掘のため不明




宝莱山古墳の先に、八基からなる多摩川台古墳群があります。

東京都指定史跡
多摩川台古墳群

多摩川台古墳は、八基からなる古墳時代後期の古墳群である。古墳群の南側には国指定史跡亀甲山古墳、北側には東京都都指定史跡宝莱山古墳の二基の大型前方後円墳が古墳時代前期(四世紀)に築造されている。古墳群は、最初に二号墳が六世紀前半に築造され、二号墳を前方部として利用し、一号墳を後円部とする一基の前方後円墳(全長39メートル)が六世紀後半に築造された。その後、三号墳から八号墳までの円墳(直径13〜19メートル)が七世紀中頃まで継続して築造された。発掘調査された古墳の横穴式石室内からは、副葬された直刀や鉄鏃等の武具類、耳飾りや管玉等の装身具類、馬具の轡、須恵器や土師器が出土し、墳丘部からは円筒埴輪が発見された。本古墳群は、大田区田園調布付近から世田谷区野毛付近に所在し、昭和初期に五十四基の古墳が確認されていた荏原台古墳群の一支群にあたる。今日、荏原台古墳群の多くの古墳が都市化の波に埋もれてしまっている中で、本古墳群は往時の姿をとどめているだけでなく、当時の多摩川下流左岸地域の首長墓群の変遷をたどることができる貴重な古墳群である。

Historic site
Tamagawadai Kofun Gun

The Tamagawadai Kofun Gun is located on an elongated plateau on the left bank of lower Tama River; the tomb mounds in the group were constructed between the Kamenokoyama Kofun designated by the state on the south side and the Horaisan Kofun designated by the Tokyo Metropolitan Government on the north side. The group consists of a total of 8 tomb mounds, which all are identified as being from the Late Kofun Period (the first half of 6th to the middle of the 7th century).Excavations were conducted in 1957 and 1958, and investigations for confirmation were pursued from 1987 to 1991. Based on the results of these investigations, it appears that a circular tomb mound defined as Tomb Mound No. 2 was first built about the first half of 6th century, and subsequently a keyhole-shaped tomb mound, Tomb Mound No. 1 (with a total length of 39 m; a diameter of circular mound portion of 19.5 m; a width of rectangular mound portion of 17 m) which made use of Tomb Mound No. 2 as its own circular mound portion was constructed in the second half of 6th century. Later Tomb Mounds Nos. 3 to 6 were built, further followed by Tomb Mound No. 7, and lastly Tomb Mound No. 8 around the middle of the 7th century. Circular mounds of small size from 15 to 19 m in diameter, are concentrated, therefore called densely-gathered tomb mounds. Excavated relics from the stone chambers of some of these tomb mounds are as follows: weapons like straight swords and iron arrow heads as burial accessories, ornaments like earrings and cylindrical beads, bits for horses, Haji wares (reddish-brown pottery) and blue-gray pottery. While many of groups of tomb mounds which existed before in the Metropolitan area have passed into obscurity with a trend toward urbanization nowadays, the Tamagawadai group of tomb mounds with various traces from the time of their construction is a valuable group of tomb mounds.




多摩川台公園は、宝莱山古墳と亀甲山古墳のふたつに分かれています。その境界に公道が走っていて、そこには人道橋の虹橋が架かっています。宝莱山古墳側は平仮名で「にじばし」と書かれています。一方、亀甲山古墳側は漢字で「虹橋」と書かれています。普通は左右の親柱に漢字と平仮名で書かれるんですけどね。



多摩川台古墳群は第8号墳だけが宝莱山古墳側にありますが、第7号墳〜第1号墳は亀甲山古墳側にあります。何故第8号墳だけが離れているのかは謎です。

古墳群の説明(1号墳〜4号墳)

古墳名墳形規模埋葬施設副葬品等の出土品築造時期
1号墳
(1号墳が後円部で2号填
を前方部とする)
 
前方後円墳
 
全長39m 前方部幅19.5m

後円部径19.5m 高さ5m
 
横穴式石室
 
鉄鏃5(カリマタ式、柳葉形等)
填輪(円筒・形象多数)須惠器(堤瓶・
横瓶・甕・高杯等多数)土師器等
6世紀第3四半期
2号墳円墳?不詳堅穴式礫槨勾玉(試掘調査のため石室確認面のみの調査)
3号墳円墳径13〜14m 高さ3m横穴式石室
(無袖式)
金環1 直刀残片 鉄鏃1 土師器杯4
須恵器甕片5 埴輪片6
7世紀第1四半期
4号墳円墳径18m 高さ3m以上横穴式石室
(片袖式)
直刀3 刀子1 鉄鏃3 金環1
埴輪片2 轡片 須惠器片2
7世紀初頭


●多摩川台古墳群は、6世紀後半から7世紀中頃までに築かれた古墳群です。この説明は、大田区が昭和六十二年〜平成四年にかけて確認調査した資料に基づくものです。






古墳群の説明(5号墳〜8号墳)

古墳名墳形規模埋葬施設副葬品等の出土品築造時期
5号墳円墳径20.1m 高さ3.25m以上横穴式石室
(両袖式)
直刀4 刀子3 鉄鏃62 勾玉3 切子玉1 轡1
棗玉4 管玉5 ガラス製小玉221 金環2 銅環2 須惠器片
6世紀終末
6号墳円墳径19.5m 高さ2.8m以上横穴式石室未発掘のため不詳7世紀第1四半期
7号墳円墳径18.5m 高さ3m横穴式石室
(両袖式)
石室の再発掘の結果出土7世紀第2四半期
8号墳
(旧9号墳)
円墳径18m 高さ2.5m横穴式石室
(両袖式複室構造)
直刀3 刀子1 金環8 鉾先1 土師器杯1
須恵器3 鉄鏃28 ガラス製丸玉163
埴輪片2 蝋石製丸玉1 須恵器片1
7世紀中頃


●多摩川台古墳群は、6世紀後半から7世紀中頃までに築かれた古墳群です。この説明は、大田区が昭和六十二年〜平成四年にかけて確認調査した資料に基づくものです。






古墳を巡る散策路から運動広場に下ります。広場の奥に古墳展示室の建物があります。ハメ絵も置いてありますね。



古墳展示室は、多摩川台公園内にある古墳に関する展示室です。室内はほぼ4世紀から7世紀にかけて造られた古墳という巨大なお墓を再現した展示となっていて、6世紀後半に造られた横穴式石室をもつ前方後円墳の後円部の一部を切り取った状態をイメージしています。その他、大田区から世田谷区にまたがる荏原(台)古墳群内のうち、大田区域の田園調布古墳群で出土した大刀や勾玉・埴輪などのレプリカを展示しています。



多摩川台公園からの眺めは、このコースのビューポイントになっています。

多摩川台公園からのながめ

多摩川は、山梨県塩山市地先の笠取山に源を発し、東京都の西南部を流下して東京都と神奈川の境を流れ、大田区羽田地先で東京湾に注いでいる。流域面積は1、240平方キロメートル、流路延長138キロメートルの一級水系とされ、東京都の重要な水需要を補い、上水道用水源としても利用されている。




多摩川台公園は、多摩川八景にも選ばれています。多摩川は、美しい自然に恵まれ、四季を通した憩いの場所として多くの人々に愛され親しまれています。多摩川八景は、都市河川である多摩川への関心を高め、環境整備の方向性を探ることを目的として、当時の建設省関東地方建設局が主催した「あなたが選ぶ多摩川八景」に寄せられた投票を参考にして、昭和五十九年(1984年)4月にに選定されました。風景のひとつひとつがそれぞれ異なる美しさを示し、八景全体で 多摩川の魅力のすべてを語りかけてくれるます。多摩川八景は、@多摩川の河口・A多摩川台公園・B二子玉川兵庫島・C多摩大橋付近の河原・D玉川上水・E秋川渓谷・F御岳渓谷・G奥多摩湖から構成されています。多摩川台公園の紹介がされています。

多摩川八景 多摩川台公園

●公園から眺める多摩川は、緑の河川敷の間をゆったりとS字形に蛇行し、大河としての風格を示しています。見晴し台からは、遠く丹沢や箱根連山・富士の姿など、雄大な眺望が楽しめます。
●多摩川台公園は、多摩川左岸の丘陵上に約600mにわたり続く細長い公園です。豊かな雑木林にはたくさんの野鳥がすんでおり、春になると約300本の桜が咲きみだれます。
●いくつかの古墳の上に作られている遺跡公園です。なかでも、5世紀はじめに作られた南武蔵の王者の墓といわれている亀甲山古墳は、ほぼ完全な姿を残す前方後円墳として有名で、国の史跡に指定されています。
●多摩堤通りから河原におりると巨人軍の、対岸には日本ハムの練習グラウンドがあります。




休息所の壁に人物のレリーフと解説盤が貼ってあります。



下村宏氏は、昭和十二年に田園調布に居を構えて以来、多摩川台は下村宏氏の最も好まれた散策地でした。未開の古墳群の丘を眺めながら「何とかならないか」が口癖で、東急電鉄創設者の五島慶太氏とこの辺りの未来図を熱く話し合われていたそうです。初代国立公園審議会の要職にあった下村宏氏は当局に掛け合い、先ず多摩川台公立公園とする許可を取り付け、努力の末、昭和二十八年に都立公園として開園し、その後、昭和五十年に大田区に移管されました。 現在では武蔵野の面影を残す自然林豊かな公園として区民の憩いの場となっています。下村宏氏が好んで立たれた丘の上に東屋(休憩施設)があります。歌人としても活躍した下村宏氏の号である海南から、「海南亭」と名付けられました。壁面に肖像のレリーフと功績を顕彰した銘板が嵌め込まれています。下村宏氏(明治八年〜昭和三十二年)は、明治・大正・昭和時代の官僚・新聞経営者・政治家・歌人です。玉音放送の際の内閣情報局総裁であり、ポツダム宣言受諾の実現に尽力したことでも知られていて、公益・福祉及び教育事業に尽力するなど、その足跡は極めて多方面にわたりました。また、晩年には田園調布会会長に就任しました。


先生、名は宏。海南の号をもって宏と世人に親しまれた。明治八年和歌山県に生れ、東京大学をお?て逓信省台湾総督府の要職を歴任し、転じて朝日新聞社に入り、更に国務大臣に任ぜられて情報局総裁となった。また、日本体育協会・日本放送協会・??協会・東京商業高等学校・自然公園審議会等を主?して、公益・福祉及び教育事業に尽力するなど、その足跡はきわめて多方面にわたった。人となり枯淡無私、法学博士の学位を有し、博学で記憶にすぐれ、文章・弁舌の雄として知られた。趣味は百?に及び、情?はとくに厚く、交友無数であった。また、国士の自然を重んじ、終生山野を跋歩(ばっしょう:山野を越え、川をわたり、各地を歩き回ること)して楽しみとした。昭和三十二年十二月九日、田園調布で八十二才の多彩な生涯をとじた。




ポイント5 亀甲山古墳

多摩川台古墳群の南東に亀甲山古墳があります。小山のような大きさの前方後円形古墳で、墳丘長は107メートルもあり、南武蔵地域・多摩川流域で最大規模となっています。築造時期は古墳時代中期の4世紀末〜5世紀初頭頃(または古墳時代前期の4世紀後半頃)と推定され、荏原台古墳群では宝莱山古墳に次ぐ時期の首長墓に位置付けられています。「亀甲山」という古墳名は、横から見た墳形がカメに擬されたことに由来しています。



古墳の前に石碑と案内板が建っています。

国指定史跡亀甲山古墳

この古墳は、大田区から世田谷区におよぶ荏原(台)古墳群中最大の前方後円墳である。発掘調査は行われておらず詳細は不明であるが、埴輪、葺石等がないことや、その古墳の形により、古墳時代前期後半(四世紀後半)頃の築造と考えられ、当時、この地方に勢力のあった首長の墓と推定されている。この前方後円墳は、後円部南端を浄水場(現・水生植物園)建設工事により削られているものの、比較的よく原形を保っている。港区芝公園内にある芝丸山古墳とならんで、都内を代表する古墳である。昭和三年、国の史跡に指定されている。

      規模
1.全長107m
2.前方部の長さ 41m
3.前方部の前端幅 49m
4.後円部の直径 66m
5.前方部の高さ  7m
6.後円部の高さ 11m




亀甲山古墳の後円部南端に隣接して水生植物園があります。この場所は、かって多摩川の水を汲み上げて地域の飲み水を供給していた調布浄水場の跡地を整備してできたものです。そのため、なるべくその姿を残そうとして、沈殿池であった所には池を造り、湿性植物が植えられています。池にはエビ・ザリガニなど、いろいろな生き物たちがいます。外からは見えませんが、池の地下には配水池があり、雨水を貯めて池の補給水として利用しています。葦や睡蓮のある湿地には、見学用の木製橋が架けられています。

調布浄水場跡

この区域は、その昔、多摩川の水をくみあげて、地域の飲み水を供給していた「調布浄水場」の跡地を利用して整備したものです。昔使用されていた浄水場の姿がよくわかるように、その形をできるだけ残すようにしました。沈でん池だった所には、池をつくり湿性植物を植え、ろ過池だった所には、四季の野草と地被植物を植えました。また地下の配水池だった所には、雨水を貯めて、池の補給水として利用しています。




水生植物園より一段低くなった広場はバタフライガーデンと呼ばれ、様々な草花が植えられています。



広場の奥に、アメリカのセーラム市と姉妹都市になって30周年を記念して植樹された木があります。何の木だか分かりませんが。

セーラム市 大田区
姉妹都市提携30周年記念

セーラム市はアメリカ合衆国マサチューセッツ州に位置し、ボストンから車で約1時間の昔ながらの風情を残す街です。17世紀に魔女裁判が行われたことから、「魔女の街」として知られ、街には魔女のマークが溢れています。大森貝塚を発見したエドワード・S・モース博士が、セーラム市のピーボディー・エセックス博物館(当時のピーボディー科学アカデミー)の館長であった縁から、1984年に大田区立郷土博物館と姉妹館になり、その関係が発展し、1991年にはセーラム市と大田区が姉妹都市となりました。以降、訪問団の派遣や受入を行う等、両都市間の交流が続いています。

Salem-Ota's 30th Sister City Anniversary

Salem is a historic city located in Massachusetts, United States of America, approximately one hour by car from Boston. It is known as the “Witch City” due to the infamous 17th century Witch Trials which were held in the area, hints of which can be seen throughout the city. In 1984, the Peabody Museum in Salem (previously known as the Peabody Academy of Science and now known as the Peabody Essex Museum) became sister museums with the Folk Museum in Ota City through connections brought about by the then museum curator and discoverer of the Omori Shell Mounds, Dr. Edward S. Morse. The relationship between the two cities further developed, resulting in the declaration of a sister city relationship in 1991. Since then, the two cities have continued to facilitate exchange by sending and receiving students and residents.




多摩川台公園から多摩堤道路に下りて、隣り合った浅間神社に向かいます。道路に沿って用水路がが延びています。丸子川は、世田谷区及び大田区を流れる一級河川です。かつての六郷用水の中流部分が整備され、名称を変えて残っている川です。世田谷区岡本の仙川との接点が上流端であり、大蔵住宅と東名高速道路下の湧水が水源になっています。東名高速道路下の湧水は、岡本三丁目25番地にあります。湧水の量は豊富であり、東名高速道路沿いに細い側溝を流れるのを見ることができます。仙川にぶつかる手前でほぼ直角に曲がり、仙川護岸沿いに蓋付きの細い側溝を流れます。15mぐらいすると仙川護岸沿いにコンクリート蓋の暗渠になり、仙川の西谷戸橋付近からは開渠となって、水神橋付近で仙川から離れます。もう一つの水源は大蔵公園(大蔵住宅)の中にある池であり、池からは整備された小川が流れ(一部暗渠)、祠のある辺りで分流します。配管を通って仙川に落ちる流れと、丸子川に繋がる流れに分かれます。丸子川へはしばらく小川を流れてから仙川沿いの暗渠になり、上記の「コンクリート蓋の暗渠がはじまる辺り」で合流します。仙川の西谷戸橋付近から岡本公園付近は整備された丸子川親水公園として南東へ流れ、静嘉堂文庫の東側で谷戸川を合わせます。丸子川親水公園付近から先は、基本的に終端の田園調布まで国分寺崖線のふもとを進みます。さらに南東へ流れて二子玉川市街地の北を過ぎ、世田谷区野毛付近で北から流れてくる谷沢川に突き当たります。かつての六郷用水は谷沢川の上を横断していましたが、現在の丸子川はここで谷沢川に合流して、いったん途絶えます。この合流地点よりも下流の丸子川には、谷沢川から人工的に汲み上げた水を流しています。世田谷区玉堤・尾山台を通過した先の大田区田園調布五丁目には、用水の余水を多摩川に流す分水堰である「お鷹の圦(いり)堰」がありました。現在もこの場所には多摩川への分水路の水門が設置されています。さらにその下流の田園調布一丁目の多摩川浅間神社付近で多摩川に合流します。丸子川はここで終わりますが、六郷用水は現在の大田区の東部まで続いていました。



ポイント6 浅間神社

浅間神社は全国にある浅間神社の一社で、旧下沼部村(田園調布の南半分)の鎮守でした。社殿は浅間神社古墳の上に建てられていて、間に東急東横線を挟んで多摩川台公園の舌状台地に連なっています。社殿までの参道には多数の溶岩が置かれ、富士塚のように富士登山を模しています。



本殿は、昭和四十八年(1973年)に完成した優美な浅間造り様式で、東京都内では唯一のものです。主祭神は山緑を守る神の大山祇神の姫君の木花咲耶姫命で、家庭円満・安産・子安の神とされ、火難消除・安産・航海・漁業・農業・機織等の守護神として崇敬されています。昔、下沼部村には、浅間・赤城・熊野の三つの神社がありましたが、明治四十年に「一村に一神社」という合祀のための政令が出されたことから、村人達の話し合いが行われ、浅間神社が新しい村の鎮守になりました。

田園調布の古墳の丘の氏神様
多摩川浅間神社

創建は八百年前の鎌倉時代
当浅間神社は、今から八百年前、鎌倉時代の文治年間(1185年〜1190年)の創建と伝えられます。右大将源頼朝が豊島郡滝野川に出陣したおり、夫の身を案じ後を追って来た妻政子は、わらじの傷が痛み出し、やむなくここで傷の治療をすることになりました。逗留のつれづれに亀甲山へ登ってみると、富士山が鮮やかに見えました。富士吉田には守り本尊の「浅間神社」があります。政子は、その浅間神社に手を合わせ、夫の武運長久を祈り、身につけていた「正観世音像」をこの丘に建てました。村人達はこの像を「富士浅間大菩薩」と呼び、永く尊崇しました。これが「多摩川浅間神社」のおこりです。承応元年(1652年)五月、浅間神社表坂の土どめ工事をしていたとき、九合目辺りから唐銅製の正観世音の立像が発掘されました。多摩川で泥を洗い落としてみると片足が有りません。そこで足を鋳造してお祀りし、六月一日に神事を行いました。以来、神社のご祭礼は六月に行われております。

ご祭神は木花咲耶姫命
ご祭神は山嶽を守る神・大山祇神の姫君で「桜の花が咲き匂うような・・」と言われる木花咲耶姫命です。社紋の「桜」は、このご祭神にちなんでいます。昔から山嶽は、神々の鎮まるところとして神聖視されてきました。その最たるものが、木花咲耶姫命の鎮まる霊峰富士。「六根清浄」を唱えながら登拝し、その山容の雄大さにも似たご神徳を仰ぐ浅間信仰から、各地に勧請されているのが浅間神社です。かつて下沼部村には、浅間信仰の団体として「富士講」がありました。神社の境内にはその富士講中興の祖・食行身禄の石碑があります。この石碑は幕末の快男児勝海舟の直筆です。

ご社殿は優美な浅間造り
現在のご社殿は、昭和四十八年(1973年)に完成した優美な浅間造り様式で、東京都内では唯一のものです。




食行身禄の石碑です。



多摩川に面した展望台からは、南側に丸子橋・北側に東横線の鉄橋が眺められます。北条政子が拝んだであろう富士山はこの日は見えませんでした。



ポイント7 区内最古のトンネル

中原街道の下にトンネルが通っています。大田区内最古のトンネルで、トンネル内には東京府のマークがついている東京府時代のマンホールがあります。



ポイント8 六郷用水遊歩道

六郷用水遊歩道は、江戸時代に開削された六郷用水の主要ルートを辿る散策路です。大田区では緑道整備計画延長約5.7kmの整備を進めるとともに、平成三年度から散策路や散策コース沿いに「六郷用水物語」の案内板の整備を実施しました。案内板は、区民や観光で訪れる人達が六郷用水遊歩道を快適に散策し、地域の魅力と歴史を知ってもらうために遊歩道沿いに設置したもので、周辺エリアの総合案内や経路の案内及び六郷用水の歴史について解説されています。

六郷用水流路図

六郷用水は、多摩川の水を和泉村(現在の狛江市和泉)で取り入れて、世田谷をへて大田区に流れております。この間の大蔵村で用水の水量を調整し、余分な水を野川を通して多摩川に落とすために、洗堰という施設が設けられていました。本流は光明寺下の矢口村の南北引分けで、南堀(蒲田・六郷・羽田方面)と、北堀(池上・大森方面)とに分かれ、六郷領のそれぞれの村に分水され、灌漑用水として利用されました。

この流路図は、元治元年(1864年)の用水絵図と、明治十四年の地形図をもとに、江戸時代の終りから明治の始めごろの六郷用水の流れを表したものです。六郷用水が現在のどのあたりを流れていたかを知る参考として、現在の主な道路、鉄道、河川、橋を破線で示し、また現在の地名などはひらがなで書いてあります。

全長30km 灌漑面積約1500ヘクタール




また、この「六郷用水復元水路(田園調布本町)」は、昭和六十三年に建設省(現在の国土交通省)から「手づくり郷土賞」を受賞し、令和二年の第三回大田区景観まちづくり賞の表彰対象となっていて、水に親しむ景観として高い評価を受けています。

手づくり郷土賞

この賞は、地域の歴史・伝統・文化といった個性・魅力を生かし、地域のシンボルとして住民に親しまれ、うるおいのあるまちづくりに寄与している全国の施設の中から、特に選ばれたものである。




現在の水路に流れている水は、国分寺崖線からしみ出した湧き水らしく、「東京の名湧水57選」にも選ばれています。鯉も沢山泳いでいます。何を食べているのか、丸々と太っていますね。



休息所を兼ねた小広場に六郷用水の案内板が立っています。

六郷用水物語

六郷用水とは、六郷領(現在の大田区の平地地域)の潅漑を目的として、江戸時代初期に幕府代官小泉次太夫により開削された農業用水路です。徳川家康の新田開発政策の一環として行われた六郷用水の工事は、慶長二年(1597年)の測量に始まり、慶長十四年(1609年)に主要水路が完成、小堀と呼ばれる各村への分水路工事も含めると終了までに14年という長い年月を費やした大工事でした。

多摩郡和泉村(現在の狛江市和泉)で多摩川から取水された六郷用水は、世田谷領を経て、六郷領へと入り、矢口村の南北引き分けで北堀(池上、新井宿、大森方面)と南堀(蒲田、六郷方面)とに二分されました。その全長は約30km、潅漑面積は1、500haに及んだといわれています。この結果、六郷領と世田谷領の一部を合わせた約50ヶ村の村々が恩恵を受けることになり、以後300年余り、大田区の農民の生活になくてはならない用水路として利用されてきたのです。




小広場の脇に、小さな水車があります。ジャバラという足踏み水車を復元した模型だそうです。

六郷用水物語 ジャバラ

この水車は、ジャバラ(足踏み水車、踏車ともいう)と呼ばれる揚水用水車の模型です。かつては、六郷用水流域の水田においても、早春や干ばつ時の水が少なくなった時に、羽根を足で踏んで回転させ、田に水を揚げていました。
(実際に使われていた水車とは若干異なります。)




ゴール地点の東急多摩川線沼部駅に着きました。



ということで、大田区で四番目の「東京の百景 田園調布駅から多摩川台公園」を歩き終えました。次は大田区で五番目のコースである「歴史と自然を楽しめる街 雑色駅から武蔵新田駅」を歩きます。




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