歴史と自然を楽しめる街 雑色駅から武蔵新田駅  

コース 踏破記  

今日は太田区の「歴史と自然を楽しめる街 雑色駅から武蔵新田駅」を歩きます。京浜急行雑色駅から六郷神社に詣でた後、多摩川土手で白銀の富士山を拝み、最後は多摩川七福神の何社かを巡ります。最初に歩いたのは2022年の2月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年2月に改めて歩きました。

歴史と自然を楽しめる街 雑色駅から武蔵新田駅

六郷・矢口地域は多摩川に面し、豊かな自然が残されています。またこの地にゆかりある新田義興にまつわる史跡も多く、歴史を感じられます。その一方で様々な企業・工場や商店、古くからの住宅や新しいマンションが混在し、多彩な表情を持つ地域です。歴史と自然を楽しみながら歩き、気持ちのよい汗を流しましょう。歩いた後は、まち並みに溶け込む銭湯で体を休めてみませんか。

「歴史と自然を楽しめる街 雑色駅から武蔵新田駅」の歩行距離は約5.0km(約7、140歩)、歩行時間は約75分(84分*)、消費カロリーは約225Kcalです。

注記*:(84分)は、協力団体が実際に歩いてかかった時間です。

スタート地点:京浜急行雑色駅
ポイント1 六郷神社
毎年1月の都の無形民俗文化財に指定されている子ども流鏑馬では、白布に4対の目を描いた的に、男児が椿の弓に篠竹の矢をつがえて射ます。子どもの開運、健康、成長を祈る行事です。
ポイント2 智山派安養寺
ポイント3 多摩川土手
ポイント4 矢口の渡し跡
昭和二十四年(1949年)に多摩川大橋が完成するまで、この付近が区内で最後の渡船場として、利用されていました。この場所で新田義興が非業の死を遂げたと言われています。
ポイント5 東八幡神社
ポイント6 十寄神社
矢口の渡しで新田義興とともに戦い、討ち死にした家来10人を祀ったと伝えられている神社です。
ポイント7 新田神社
新田神社は、矢口の渡しで謀殺された新田義興の霊をまつったのが起源と伝えられています。神木のケヤキは、かつて雷で真っ二つに割れたものの、今も新緑の季節には濃い緑をたたえています。

ゴール地点:東急多摩川線武蔵新田駅


スタート地点の京浜急行雑色駅から歩き始めます。



ポイント1 六郷神社

雑色駅から国道15号(第一京浜)を川崎方向に歩いた先に六郷神社があります。六郷は、東海道における江戸の出入口になっていました。鳥居の左前に石碑が建っています。

東海道跡

東海道は、古くから江戸と関西方面を結ぶ重要な交通路でした。六郷は東海道における江戸の出入口で、多摩川をわたる「六郷の渡し」として活気があり、有名でした。




鳥居の右前に六郷神社の由緒を記した案内板が立っています。案内板には、天保七年(1836年)に刊行された「江戸名所図会」に描かれた当時の風景が添えられています。

六郷神社由緒

当社は、多摩川の清流に南面する古い八幡宮であり、六郷一円の総鎮守として、ひろく崇敬されています。社紀によれば、源頼義・義家の父子が、天喜五年(1057年)この地の大杉に源氏の白旗をかかげて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いにふるい、前九年の役に勝利をおさめたので、その分霊を勧請したのが、当社の創建とされています。文治五年(1189年)源頼朝もまた奥州征定のみぎり、祖先の吉例にならって戦勝を祈り、建久二年(1191年)梶原景時に命じて社殿を造営しました。今なお境内に残る大きな手水石は、このとき頼朝が奉献したものであり、神門前の太鼓橋は景時の寄進と伝えられます。天正十九年(1591年)十一月、徳川家康は十八石の朱印地を寄進し、慶長五年(1600年)六郷大橋の竣工に際しては、神威をたたえて祝文をたてまつり、当社の神輿をもって渡初式を挙げました。また、鷹狩りの途次にもしばしば参詣したと史書にみえます。当社が巴紋とともに葵紋を用いている所以です。江戸時代には六郷八幡宮とも呼ばれていましたが、明治五年(1872年)に東京府郷社に列し、同九年より六郷神社と改称して今日に至っています。なお当社には、毎年一月七日に行われる流鏑馬(東京都無形民俗文化財)と、六月の祭礼時に少年少女が奉仕する獅子舞が伝承されています。

「江戸名所図会」に描かれた六郷八旛宮

社殿正面の道が、慶長六年(1601年)に幕府の制定した古い東海道で、松並木が続いていました。これが西方に付け替えられたのは元和九年(1623年)といわれます。このとき、神域を囲っていた構堀の一部を埋めて、脇参道ができました。往還の両側に並んでいるのは八幡塚村の人家で、脇参道の鳥居からやや南寄りに、日本橋から四里(15.6キロメートル)の一里塚と、その前に高札場が描かれています。東方はるかに連なるのは房総の山山で、右手には川崎大師の屋根も見え、辺り一面は水田です。社殿の上の方にひときわ大きくめだっているのは、今も境内にある塚で、八幡塚あるいは神輿塚と呼ばれ、竹林に囲まれていた様子がうかがえます。かつて六郷六か村の中心をなし、当社の宮本でもあった八幡塚村という村名は、この聖なる塚に由来します。近代に及んで東海道は第一京浜国道となりますが、脇参道付近から六郷橋へ向かう道筋の一部は、旧東海道の幅員を比較的よく残しています。ちなみに「江戸名所図会」は、天保七年(1836年)に刊行された地誌です。




案内板にあった、源頼朝奉献の手水石が残されています。



江戸時代前期に奉納された狛犬も展示されています。

大田区文化財 狛犬(一対)

この狛犬は、貞享二年(1685年)に六郷中町の有志が願主となり奉納された。石工は三右衛門である。江戸中期(十八世紀)以降、造立願意は「現世利益」とするものが多くなるが、この狛犬は「二世安楽」を祈った中世的なものであり、注目される。また造形的にも他に類例を見ない独創的なもので、素朴かつユーモラスな芸術性に富んでいる。狛犬としては区内最古のものであり、造立年代が古いにもかかわらず、阿吽ともそろっているのも貴重である。




社殿は、昭和六十二年(1987年)に、鎮座九百三十年を期に建て替えられました。



社殿前の狛犬は大正八年(1919年)奉納のものだそうです。江戸時代の狛犬よりも随分といかつい顔をしていますね。



参道の脇には天を突く2本の楠木のご神木が聳えています。



境内には、かっての六郷橋の親柱が保存されています。

旧六郷橋の親柱

慶長五年(1600年)に徳川家康が架設した「六郷大橋」は貞享五年(1688年)の洪水により流失して以来、六郷と川崎間の渡河は186年間の長きにわたり渡し船でした。明治七年(1874年)に八幡塚村の名主鈴木左内が、私財を投じて有料橋を架けました。左内橋も四年後の明治十一年(1878年)の洪水により流失しました。その後、八幡塚村議会の有志七名が川崎駅の有志六名とともに架橋を共同出願し、明治十六年(1883年)「旧六郷橋」が開通しました。この木橋は明治三十年(1897年)に架け替えられ、京浜電気鉄道(現・京浜急行)へ売却、人と共に電車が木橋を渡りました。しかし明治四十三年(1910年)当地を襲った大型台風による洪水により流失しました。木橋の流失後、東京府と神奈川県が共同で木製の仮橋を架けましたが、交通の発達と共に橋の強度を完全なものにすることが課題となり、大正九年(1920年)両府県折半で鋼鉄製の新橋建設が決定しました。大正十四年(1925年)鉄筋コンクリート製タイドアーチ式の先代「六郷橋」が開通しました。昭和元年(1926年)に旧六郷木橋の遺構である親柱は、切妻屋根を付して六郷神社境内に保存されました。建立したのは旧出雲町(旧出村)の氏子総代・金子重太郎でした。時を経て親柱を保護する屋根に傷みが見えるため、平成二十六年(2014年)金子重太郎の三男・金子重雄と重太郎の孫、東六郷一丁目氏子総代・金子義裕が屋根を更新、修復しました。




神門から退出します。神門の前には、梶原景時の寄進と伝えられる石造の太鼓橋(神橋)が残っています。



第一京浜を戻って東六郷三丁目交差点を左折し、小路に入ります。ここは迷いやすいところですが、照の湯の前を通り、東海道線と京浜東北線の踏切を越えて、西六郷三丁目公園のひとつ先から北方向に右折するのがポイントです。この辺りは建て込んだ住宅地で、路地が入り組んでいますので迷いやすいです。



ポイント2 智山派安養寺

安養寺は、奈良時代に行基によって開山されたといわれています。しかし、現存の薬師如来・釈迦如来・阿弥陀如来の3坐像が平安時代の作であることから、それより前の古刹であることが推測されます。その後、この地の地頭を務めた行方某が他宗の寺院の存在を認めない狂信的な法華宗の信者であったため、池上本門寺の日現との法論でも露骨な依怙贔屓によって、無理やり「負け」とされて廃寺に追い込まれました。永禄年間(1558年〜1570年)になり、栄伝によって再興されました。明治末期から大正期にかけて多摩川の河川改修工事があり、境内の多くが河川敷となって、現在地まで縮小されています。



門前に古びた道標が建っています。延宝二年(1674年)に、東海道の雑色から多摩川道に入る分岐点に建てられた道しるべです。区画整理のため、安養寺の門前に移されました。

大田区文化財 古川薬師道 道標

正面に薬師如来を表す種字を刻み、その下や左右側面の三面にも古川薬師への道を指示している。延宝二年(1674年)、東海道から多摩川道に入る分岐点に、江戸の有志の寄進により建てられたが、のち古川薬師をまつる安養寺の門前に移された。古川薬師は、古来信仰を集め、江戸時代には江戸近郊の行楽地になっていた。区内に残る東海道の道筋に建てられた道標のうちの一基であり、江戸時代の交通史上、貴重である。




境内に銀杏の巨木が聳えています。



光明皇后がこの薬師に銀杏を奉納して祈願したところ、乳の出が良くなったという伝説があります。そのために銀杏の下垂の「乳」を削り取る者が多く、その行為を禁止するために元禄三年(1690年)に五世栄弁によってこの石碑が建てられました。

大田区文化財 銀杏折取禁制碑

碑の高さ148センチ、幅27センチ、厚さ18センチ。

薬師堂前には、古くから乳いちょうが二株あり、人々は昔からこれに祈れば母乳の出が良くなると信じ、いちょうの下垂の乳部を削り取る者が多かった。碑はその行為を禁止するため、元禄三年(1690年)に当寺の住職栄弁によって建てられたもので、一種の聖域保護の禁制碑として注目される。大田南畝(蜀山人と号す、1749年〜1823年)は「調布日記」に「大きさ牛をかくすといひけん大木の銀杏二本ならびたてり、かのちゝ、というものあまたありて目を驚かす」と記している。現在の樹は、その実より生じたものという。




安養寺の直ぐ左手に多摩川が流れています。今日は富士山がきれいに見えます。まさに、「真白き高嶺に。。。」ですね。



ポイント3 多摩川土手

多摩川の土手上に整備された旧堤通りの歩道を上流に向かって進みます。河川敷にも遊歩道とサイクリングロードが整備されています。この付近で多摩川は大蛇行をしています。



歩道の脇に、多摩川治水の歴史を記した案内板が立っています。川が蛇行したところは堤防の決壊が起きやすいですからね。

治水の歴史を伝える史跡 (伝統工法の杭出水制)

かつての多摩川は「あばれ川」で、大雨が降るたびに氾濫、出水をくりかえしていました。とりわけ、ここ西六郷の地は、大きく蛇行して流れ下る多摩川の水衝区間(川が曲がっている外側で、水の流れが強くあたるところ)にあたり、古くから洪水の被害を幾度もうけ、住民は水害に苦しんできたのです。明治四十三年(1910年)8月、多摩川は史上最大の水害に見舞われ、当地では古川薬師裏の天王木地区堤防(西六郷一丁目)が二百十数メートルにわたって決壊し、濁流が六郷、蒲田、羽田、大森方面に押し寄せました。そこで、度重なる水害に苦しんだ沿岸住民の強い要望をうけて、大正七年(1918年)度から昭和八年(1933年)度にかけて、国(内務省)直轄の多摩川下流改修工事が行われ、両岸22キロメートルにわたって統一された連続堤が築造され、今日に至っています。

このほど、多摩川下流部堤防浸食対策プロジェクト(西六郷地区)の実施(平成十六年【2005年】度〜平成十七年【2006年】度)にあたり、史跡として残して欲しいとの住民の強い要望により、低水護岸工事で撤去される水制4基の調査と一部復元保存を行いました。この水制は、調査の結果、先の築堤工事に併用して築造された伝統工法の一つ、杭出水制と判明しました。木杭をタテ・ヨコ1〜2メートル間隔で、前後に2列以上打ちこんだもので、これらの杭を布木や貫木で、タテ・ヨコまたは対角線方向に、全部もしくは一部を連結していたと推定されます。さらに、河床の洗掘(流れにより川底が掘れてしまうこと)を防ぐために、粗朶(里山の雑木から伐採した木の枝)を敷きこんだり、多数の割石による捨石を行ったりしています。この旧水制工は、当地の湾曲した縁岸部に押し寄せる水勢を弱めるために設置されたもので、当時新しく築いた堤防を守る役割を果たしていたのです。




とある民家のベランダに富士山のデコレーションがしてあります。洗濯物が乾きにくそう。



旧堤通りに面して、巨大な高層マンションが建っています。トミンタワーとトミンハイムという団地みたいです。都民勤労者向けの賃貸住宅のようですが、日当たりと見晴らし抜群ですね。



目の前に三連アーチの橋が見えてきました。多摩川大橋は、東京と神奈川を結ぶ主要な道路のひとつである国道1号(第二京浜)が通っていて、非常に交通量の多い橋です。昭和十三年(1938年)4月、下流にある当時の京浜国道(第一京浜)の交通量の増加を分散させるためのバイパスである新京浜国道(第二京浜)の橋として着工され、昭和十七年(1942年)に下部工事が完成しましたが、太平洋戦争により工事は中断しました。終戦後、建設が再開され、昭和二十四年(1949年)3月に竣工、4月30日に開通しました。



ポイント4 矢口の渡し跡

多摩川大橋の橋脚下の遊歩道を通った先に、「矢口の渡し跡」の案内板が立っています。新田義興は新田義貞の次男で、後醍醐天皇に認められて「義興」の名を与えられ、一族再興のために挙兵した人物です。足利尊氏の息子で鎌倉公方を務めていた足利基氏の配下のひとりだった江戸高良は、一計を案じて新田義興一行の十数名を多摩川にあった「矢口の渡し」というところで罠にかけて殺害しました。渡し船に乗っているところで櫓を落としたと見せかけ、「探しに行く」と偽って船底の栓を抜いたといわれています。さらに江戸高良は新田義興一行に矢を射かけ、義興は「もはやこれまで」と観念して腹を切ったといわれています。しかし、その謀殺の祟りか、江戸高良はその13日後に落雷に遭って死んでしまいました。

大田区文化財 矢口の渡し跡

新田義興(1331年〜1358年)が、矢口の渡しで討死したといわれる頃の渡し場は、現在の新田神社付近であったと思われ、当時の多摩川は今より東へ大きく湾曲していたと考えられる。江戸時代に、平賀源内により浄瑠璃「神霊矢口渡」が作られ、歌舞伎でも上演されるようになると、この渡しは有名になった。渡し場は、流路の変遷と共にその位置をいくたびか変え、この付近になったのは江戸時代中期からであると考えられる。多摩川に数ヶ所あった渡しのうち、ここは区内最後の渡船場として、多摩川大橋が完成する昭和二十四年(1949年)まで利用された。




矢口の渡し跡から旧堤通りに戻った向かいに、東八幡神社があります。
ポイント5 東八幡神社

東八幡神社は、社伝によれば、建長二年(1250年)の創建とされています。江戸時代には湯坂八幡あるいは東八幡宮と呼ばれました。明治七年(1874年)に村社に列格し、明治四十四年(1911年)に西八幡を合祀し、東八幡神社と称しました。昭和二十年(1945年)の戦災で嘉永四年(1848年)造営といわれる旧社殿が焼失しましたが、昭和四十七年(1972年)に現在の社殿が再建されました。



鳥居の脇に、「矢口の渡し跡」の石碑が建っています。折角なら、河原にあった案内板の横に建てればよかったのに。



東八幡神社は多摩川七福神の一社で、弁財天を祀っています。



東八幡神社から古市中央児童公園の前を通って十寄神社に向かいます。矢口南町会掲示板に、「多摩川七福神めぐり」のポスターが掲示されています。この地は、歌舞伎「神霊矢口渡」でも有名な南北朝時代の武将「新田義興」伝説の地とのことです。多摩川七福神は、大田区武蔵新田界隈の6つの神社と1つの寺院に祀られ、昔から「七難即滅、七福即生」といわれ、七福神を参拝すると七つの災難が除かれ、七つの幸福が授かるといわれています。多摩川七福神のモデルコースは、最初に新田義興を祀る拠点である新田神社【恵比寿天】を訪れ、そこから下丸子の頓兵衛地蔵【布袋尊】・矢口中稲荷神社【福禄寿】・氷川神社【大黒天】・延命寺【寿老人】・東八幡神社【弁財天】・十寄神社【毘沙門天】と廻って新田神社に帰ってくるものです。

多摩川七福神

2014年、東京で一番新しい七福神として誕生した「多摩川七福神」。新田義興伝説のあるこの地域。新田神社を始めパワースポットが多く、多摩川の恵を受けて自然も豊かです。私たちの祖先が築いてきたこの街の歴史に思いを馳せながら、開運招福、健康長寿をお祈りください。




ポイント6 十寄神社

十寄神社(とよせじんじゃ)の「十寄」とは、新田義興と10の人神の祭神という意味です。矢口の渡しの案内板にも記されていましたが、新田義興の謀殺時に死を共にした氏族および近習の将兵十柱の御霊を祀っています。十寄神社は、正平十三年(1358年)の新田義興主従の討死後まもなく創建され、彼らを葬ったとされる「十騎明神塚」があったといわれています。主君である新田義興を祀る新田神社に参拝する際は、まず十寄神社に詣でて主君に取りなしてもらうようにしなければならないという言い伝えがあります。



境内に小さな社がありますが、こちらは「十騎神社」という扁額が掛かっていますので、新田義興と死を共にした御家来衆を祀っているものと思われます。



十寄神社は、多摩川七福神の毘沙門天を祀っています。境内の入口脇に長大な由緒書が掲示されています。

十寄(騎)神社由緒

祭神
源朝臣新田左兵衛佐義興公の支族および近習の将兵、
世良田右馬助義周、井弾正左衛門、大嶋周防守義遠、
由良兵庫助、由良新左衛門、進藤孫六左衛門、
堺壱岐権守(土肥、南瀬口、市河)
付記、典拠に矢口渡の自刃戦死者として大嶋兵庫頭義世、
松田興一、穴道孫七、堀口義満もある
創記
正平十三年(1358年)
祭事
春季大祭 四月十日 例大祭 十月十日
祭~事蹟
正平七年二月十五日(1352年)足利尊氏追討のため宗良親王を奉じ挙兵した新田義興公に祭神らも従って人見原(府中市)金井原(小金井市)小手指原、高麗原(埼玉県)で戦い遂に鎌倉を占領、一時は東国八州を治めた。世にこの戦を武蔵野合戦と云う。正平十三年(1358年)四月丗日足利尊氏の死により足利基氏は新田義興公の勢力を恐れ北武蔵の安定化のため義興公の謀殺を図った。足利幕府執事の畠山国清は、武蔵野合戦で義興公に従った竹沢右京亮、江戸遠江守、江戸下野守と奸計をめぐらし、それぞれの所領没収の罪科に処されたと偽称せしめ義興公に救援挙兵を求めさせた。義興公はこの謀略にかかり竹沢・江戸らと合流して足利基氏・畠山国清を討つべく正平十三年十月十日その支族および近習の将兵十数名とひそかに鎌倉に向うため多摩河矢口の渡し舟に乗った。江戸遠江守らは予めこの舟に穴をあけていたため、義興公らは河中において進退谷まり遂に壮烈な自刃或は渡岸し江戸・竹沢の軍勢と奮戦したが悉く憤死した。(矢口渡、津の戦)その後、祭神らの忠烈を崇め村老らが墳墓を築き社祠を興し一社の神として合祀して十騎神社と名付け南朝につくした功績を称讃した。




「むさしにった 希望門」のアーチが架かったこじんまりとした商店街を進みます。



ポイント7 新田神社

商店街の左手に新田神社があり、壁には絵入りの長〜〜〜い由緒書が掲示されています。



新田神社の御祭神は、「従三位左兵衛佐源朝臣 新田義興公」です。朝臣(あそん・あそみ)は、天武天皇十三年(684年)に制定された八色の姓の制度で新たに作られた姓(かばね)で、上から二番目に相当します。上から一番目の真人(まひと)は主に皇族に与えられたため、皇族以外の臣下の中で事実上、最も上の地位に当ります。朝廷の忠臣ということになります。



新田神社の由緒です。新田神社は、「破魔矢発祥の地」なのだそうです。宝暦(1751年〜1764年)の頃から「義興の矢」といわれる魔除けが門前の茶店で売られていましたが、後年「エレキテル(摩擦発電機)」を発明した蘭学者の平賀源内が五色の和紙と神社の境内に生えている篠竹を使い、新田家の黒一文字の短冊で作った「矢守」を売り出すようになり、これが破魔矢の元祖になったといわれています。

由緒

昔、日本中で戦いが続いていた「室町時代」。新田義興公(にったよしおきこう)という、とても強くて勇敢な武将がいました。義興公は新田義貞公(にったよしさだこう)の次男として生まれ子供のころの名前を徳寿丸といいました。青年になった徳寿丸の勇敢な姿を見た後醍醐天皇が武士の位と義興という新しい名前を授けて下さいました。その頃日本は国が南と北に別れ、争いを繰り返していました。義興公は天皇を守るために戦いました。そして、勇気と知恵でどんな大軍にも打ち勝ったので、武将として有名になりました。大勢の敵が襲ってきても義興公が負けることはありませんでした。敵の武士たちは、義興公のことが怖くてたまりませんでした。そこでいくさでは義興公に勝てないので卑怯な作戦を立てました。敵の竹沢と江戸という武士が、味方の振りをして義興公に鎌倉で戦うことを(進?)勧めました。それを信じた義興公は鎌倉へ行くために多摩川の矢口渡というところから船に乗りました。ところが義興公の乗った船は敵に襲われて沈んでしまったのです(1358年10月10日)。義興公が敵に騙されて死んでしまった矢口では、不思議なことが起こりはじめました。夜になると、ぼうっと怪しい光が現れるようになり雷がたびたび落ちるようになりました。それから、もっと不思議なことに、義興公を裏切った人は次々と義興公の怨霊に悩まされ狂死しました。それを見た村人たちは義興公の祟りを鎮めるために、義興公の墳墓の前に神社を作ることにしました。こうして村人たちは新田神社を作り、義興公を「新田大明神」としてあがめたのです。やがて義興公は、村人や旅人の「運を開き守り、幸せに導く霊験あらたかな神様」として人々から広く崇敬されるようになりました。義興公の物語は江戸時代には平賀源内によって歌舞伎・浄瑠璃「神霊矢口渡」というお芝居にもなり、その壮絶な生涯は今も語り継がれています。




新田神社にまつわる七不思議があるそうです。

新田神社にまつわる七不思議

一、
新田義興公の自刃後、七日七晩、雷が鳴り続き、謀略によって手柄をたてた江戸遠江守が矢口の渡に再びさしかかると、一天俄かにかき曇り雷火が轟き黒雲の中より義興公の怨霊が現れ、それに驚いた江戸遠江守は落馬し、狂い死にをしました。また、その後も義興公の怨霊は「光り物(火の玉)」となって、矢口付近に夜々現われ、雷を落としたといいます。
二、
神社後方の御塚は義興公の御遺体を埋葬した円墳で、入ると祟りがあり、「迷い塚」「荒山」ともいいます。
三、
御塚の真中にある「舟杉」は義興公の乗られた舟と鎧を埋めたものが杉になったものだといいます。(残念ながら雷にて焼失)
四、
御塚後方にはえている竹は源氏の白旗を立てたものが根付いたもので、「旗竹」といい、雷が鳴るとビチビチと割れたといいます。江戸時代になると、蘭学者である平賀源内がこの不思議な竹で「矢守(破魔矢の元祖)」を奉製し、新田義興公の御神徳を広めることをすすめました。以来、「矢守」を「厄除開運・邪気退散の破魔矢」として正月初詣の参拝者や祈祷者に投与するようになりました。
五、
謀略を企てた畠山一族の者、また、その子孫の者が新田神社付近に来ると決まって雨が降り、「狛犬」がうなったといいます。
六、
昔、雷が落ち、また戦災の被害にあって真二つになってしまった樹齢約七百年の「御神木 欅」の上部には、珍しい「宿り木(植物の一種)」が生息しています。そして、この御神木に触れると[健康長寿・病気平癒・若返り]のご利益が授かるという古老の言い伝えがあります。
七、
悪計に加担した矢口渡の船頭が後に前非を悔い、「地蔵」(頓兵衛地蔵)を建立しましたが、この石体が崩れて溶けているのは、新田義興公の祟りによるものだといいます。別名「とろけ地蔵」とも呼ばれています。




絵物語でも説明されています。

後醍醐天皇より「義貞の家を興すべき人なり」として義興という名を賜り、従五位左兵衛佐に任ぜられました。



義興公は父義貞公の遺志を継がれ新田一族を率いて吉野朝(南朝)の興復に尽力され、延元二年十二月(1337年)北畠顕家(あきいえ)卿と共に鎌倉を攻略、翌三年美濃国青野原に於て足利軍勢を撃破されました。正平七年(1352年)には宗良(むねなが)親王を奉じて、弟義宗・従弟脇屋義治と共に足利尊氏・基氏を再度鎌倉に攻め、之を陥して暫(しばら)く関八州に号令されました。



その後、武蔵野合戦を始め各地に奮戦され、一時、鎌倉を出て越後に下り待機養兵されましたが、武蔵(むさし)・上野(こうづけ)の豪族等に擁立されて再び東国に入られました。この事を聞知した足利基氏・畠山国清は大いに恐れをなし、夜討・奇襲を企てますが、常に失敗しました。そこで、国清は竹沢右京亮(うきょうのすけ)・江戸遠江守(とおとうみのかみ)らに命じて卑怯な計略をめぐらしました。

正平十三年(1358年)十月十日、江戸氏の案内で多摩川の矢口の渡から舟に乗り出すと、舟が中流にさしかかる頃、江戸・竹沢らにいいふくめられていた渡し守は、櫓を川中に落とし、これを拾うと見せかけて川に飛び込み、あらかじめ穴を開けておいた船底の栓を抜き逃げました。義興公を乗せた舟は敵に襲われて沈んでしまいました。




そして、同年十月二十三日に悪計加担の渡し守は難船水死し、江戸遠江守は義興公の怨霊姿に驚き、落馬し、七日七晩溺れる真似をして狂い死にしました。その後、足利基氏入間川領内には義興公の怨念と化した雷火が落ちたり、竹沢・畠山については、罪悪を訴える者があり、基氏に攻められ諸所流浪の末死にました。



この後も義興公の怨念が「光り物」となって、矢口付近に夜々現われ、往来の人々を悩ました。そこで義興公の御霊を鎮めるために、村老等によって墳墓が築かれて社祠が建てられ、「新田大明神」として広く崇め奉られました。



境内の中央に欅の大木が聳えています。新田神社の樹齢約700年にも及ぶ欅は、江戸時代の落雷で幹が半分以上裂けましたが枯れませんでした。そして昭和二十年4月の東京大空襲では、境内にも爆弾が落ち、社殿や町もほとんど全焼してしまいました。その折、この欅の一部も再び焼失したものの、枯れずに毎年新緑の季節になると青々とした葉を茂らせて参拝者に憩いの一時を与えています。古木上部には、とても珍しい「宿り木(植物)」も付いていて、早春になると淡黄色の小花が咲きます。そのため、この御神木に触れると「健康長寿・病気平癒・若返り」の御利益を授かるという古老の言い伝えがあり、現在では「東京の代表的なパワースポット」となっています。

御神木(欅)

この樹齢七百年に及ぶ欅は過去に落雷や戦災によって、幹が大きく裂けているが、毎年新緑の季節には青々とした葉を繁らせる。また古木上部には、とても珍しい「宿り木(植物)」が寄生しており、早春、淡黄色の小花が咲く。このために、この御神木に触れると「健康長寿」「病気平癒」「若返り」の霊験があるという古老の言い伝えがある。この御神木の御加護をいただくには、左側の鳥居より中に入り、できるだけ長く御神木に触れて、霊気を感じ取って下さい。尚、鳥居への出入りの際には御一礼下さい。




幹の中は殆ど空洞になっています。養分や水分をどうやって枝葉に運ぶのでしょうか?



拝殿は、平安時代の代表的建築様式の総桧・流れ造りです。伊勢神宮下付の用材を始め、全国多数の篤志家の奉賛により、昭和三十五年(1960年)に新築されました。新田神社の社史が掲示されています。

社史

新田神社について
南北朝時代、新田義貞(よしさだ)公の第二子として生まれた新田義興公という、とても強くて勇敢な武将がいました。その頃日本は南と北に別れ、争いを繰り返していました。そして義興公は天皇を守り、勇気と知恵でどんな大軍にも打ち勝つ武将として有名になりました。そこで正々堂々としたいくさでは義興公に勝てない敵の武士たちは、多摩川の矢口の渡で義興公主従が乗船した船の底に穴をあけ、両岸から矢を射かけるという卑怯な作戦で義興公主従を殺害しました(1358年10月10日)。その後、この謀略を企てた敵の武士たちは義興公の怨霊に悩まされて狂死したり、この矢口には火の玉があらわれたり、雷がたびたび落ちるようになりました。これを見た村人たちが義興公の祟りを鎮めるために、義興公の墳墓の前に神社をつくりました。この新田神社は御霊信仰に基づく神社です。これは祟り神の信仰で、いわゆる祟りのある神様をおまつりすることで、その強い霊力によって、反対に様々な災害や災難から救ってもらうことができると考えられ、人々の信仰が高まりました。そして、新田神社は平成二十年10月には、神社が創建されて650年を迎え、現在では「開運の神」として人々から広く崇敬されています。

破魔矢の元祖矢守
社殿のうしろには、昔から決して神城を超えることがなく、雷が鳴るとピチピチと割れたという不思議な竹があり、江戸時代にエレキテルを制作した平賀源内がこの竹で厄除招福・邪気退散の「矢守」を作りました。これが全国の社寺で授与されている破魔矢の元祖になります。これを記念して、日本を代表する有名グラフィックデザイナー浅葉克己氏の制作された矢守のオブジェが社頭にあります。

東京のパワースポット 御神木欅
境内には、江戸時代に雷が落ち、また昭和二十年の空襲の際、この矢ロー帯が焼け野原になっても、唯一残った不思議な樹齢700年の大木の欅があります。そして、古来よりこの木に触れると「健康長寿・病気回復・若返り」の御利益があるといわれています。

神道について
神道は、日本人の暮らしの中から生まれた信仰、民族宗教といわれています。初詣や厄除、初宮参りや七五三、結婚式や地鎮祭など、神道の行事は日常生活のいたるところに見かけることができます。遠い昔、私たちの祖先は自然と関わりの中で生活を営んできました。自然の力は、恵みを与える一方、猛威もふるまいます。そんな自然現象に神々の働きを感じました。また自然の中で受け継がれていく生命の尊さを感じ、あらゆるものを生みなす生命力も神々の働きと思い、清浄な山や岩、木や滝などの自然を神宿るものとしてまつりました。やがてまつりの場所には建物が建てられ、神社が誕生したのです。このように、日本列島の各地で発生した神々への信仰は、大和朝廷による国土統一にともない、形を整えてゆきました。そして、6世紀に仏教が伝来した際、日本にそれまでに独自に発達してきた信仰、またその神の力というものをさして、神道という言葉であらわされるようになりました。神道の神々は、海の神、山の神、風の神のような自然物や自然現象を司る神々、衣食住や生業を司る神々など、その数の多さから八百万の神々といわれます。そして、当神社の御祭神新田義興公のように国家や郷土のために尽くした偉人や、子孫の行く末を見守る祖先の御霊も、神として祀られました。奈良時代にできた「古事記」「日本書紀」には、多くの神々の系譜や物語が収められています。神明さま(神明神社)、お稲荷さま(稲荷神社)、八幡さま(八幡神社)、天神さま(天満宮)などが存在するのは、多くの神々が、地域の人々から地域の守り神として篤く崇敬されてきた事を意味しています。神道の信仰が形となったものが祭りです。祭りは、稲作を中心とした日本の姿を反映し、春には豊作を、夏には風雨の害が少ないことを祈り、秋には収穫を感謝するものなどがあり、地域をあげて行われます。祭りの日は、神社での神事に加えて神輿や山車が繰り出し、たくさんの人で賑わいます。神道の祭りを行うのは、神社だけではありません。家庭で神棚の前で家の安全、家族の無事を祈ることも小さな祭りといえます。神道のもつ理念には、鎮守の森に代表される自然を守り、自然と人間とがともに生きてゆくこと、祭りを通じて地域社会の和を保ち、一体感を高めてゆくこと、子孫の繁栄を願い、家庭から地域、さらには日本の限りない発展を祈ることなどです。また、神道には、神々をまつる環境として、清浄を尊ぶという特徴があります。神社は常に清らかさが保たれ、祭りに参加する人たちは必ず心身を清めます。これら神道の理念や特徴は、日本人の生き方に深く影響しているといえるでしょう。

Nitta Shrine infomation

Nitta Shrine
During the Nanboku-cho period, there was a brave and great samurai warrior named Nitta Yoshioki. He was the second son of Nitta Yoshisada. During that time, Japan was divided into North and South and they had repeatedly battled. Nitta Yoshioki fought for the Imperial Southern Court and became famous for being a strong warlord who could win against any kind of large army with his wisdom and bravery. However, he was killed by the enemies through a cowardly attack at the "Yaguchi Ferry. Enemies bored holes in the bottom of Nitta Yoshioki and his retainers' boat and fired off arrows from both banks. (Died on October 10, 1358) The Samurai warriors who engaged in Nitta Yoshioki's killing, was cursed by Yoshiaki's haunt and went crazy and died or saw ghost like fire balls, and lighting hit the place many times. Villagers witnessed these horrific events and decided to build a shrine for Nitta Yoshioki at the site of his death in order for his spirit to rest in peace. Nitta Shrine is a shrine based on "Goryo Shinko" which is a Japanese belief. Japanese people viewed natural disasters that threatened people and great plagues as the work of evil spirits. Since the power of the spirits is enormously strong, people thought that the evil spirits could adversely save the people from accidents or disasters by enshrining them as a god. The belief was widely spread throughout Japan. Nitta shrine commemorated the 650th anniversary of its construction in October 2008. The shrine is now well known as the "Good Luck Shrine" and is reverenced by Japanese.

"Yamori", the first "Hamaya" (sacred arrow) of it's kind
There is a mystery about the bamboo trees planted behind the shrine pavilion. It is said that when it thunders, the bamboo trees split up with the breaking sound. In the Edo period, Hiraga Gennai who invented an elekiteru (electrostatic generator), made a "Yamori" with that bamboo that would invite good fortune and ward off evil spirits. This "Yamori" is the first "Hamaya" (sacred arrow) of the kind that is offered at shrines throughout Japan. In order to commemorate this, the art piece "Yamori," produced by Mr. Asaha Katsumi, a famous Japanese graphic designer is showcased in front of the shine.

Tokyo's famous "power spot": Secrets Tree (zelkova tree)
There is a 700 year-old huge enigmatic zelkova tree in a premise of Nitta shrine. The tree survived through numerous unbelievable events. In the Edo period, when thunder hit the tree, the tree stayed standing, and during the Tokyo air raid, the wide area around Nitta Shrine was burnt down and the Zelkova tree was the only thing that remained. It is said that if you touch the tree, you will receive good luck in health, longevity and youthfulness.

Shinto
Shinto is known as the indigenous religion of Japan that came from the daily life of the Japanese people. You will see Shinto events/ceremonies everywhere in Japanese people's life. Major events/ceremonies are New Year's visits to shrines, ceremonies to drive away evil spirits, the rite of passage for children aged 3, 5 and 7 yeas old, and wedding ceremonies, among others. In ancient times, Japanese ancestors lived life in harmony with nature. Humans are blessed by the power of nature, at the same time, we are threatened by nature. In ancient times, people felt the power of gods and goddess behind various natural phenomena. They were also grateful for the preciousness of life surrounded by nature, which continues from generation to generation. Thus, they believed that all life force that created everything was the power of Kami (gods and goddess). Thus, purity of nature, such as mountains, rocks, trees, and waterfalls contained a spirit, became objects of worship. In the course of time, people started to build a place for worship, which later became the shrine. With the introduction of Buddhism and its rapid adoption by the court in the 6th century, native Japanese beliefs developed in various ways throughout Japan and those beliefs and spirits then started to be called "Shinto." Shinto's spirits are called "yaoyorozu no kami", an expression literally meaning "eight million gods and goddess" because Japanese people believe that a countless number of Kami exist, like the nature of gods and goddesses which control natural phenomena related to the ocean, mountains, and wind, and other "kami” closely related to people's lives. They also worship the spirits of ancestors and great figures who have made glorious achievements for their home towns as "Kami". In Kojiki and Nihon shoki, the written historical records of the Nara Period, many Shinto practices and stories were recorded. There are many types of "Kami" such as Shinmei at Shinmei Shrine, Inari at Inari Shrine, Hachiman at Hachiman Shrine, and Tenjin at Tenjin Shrine. Japanese ancestors felt reverence for those "Kami" as local protective deity. Japanese "Matsuri" festivals have originated from the practice of Shinto belief. "Matsuri" festival represents Japanese people's life which is oriented around rice cultivation. There are distinctive festivals in each season; in spring, festivals to pray for a good harvest, in summer, festivals to pray for less damage from heavy rain or wind, and in autumn, festivals to cerebrate harvest. On the "Matsuri" festival day, along with the rituals, a parade of portable shrine and floats is also carried out to the shrine and many people come to see it. "Matsuri" festivals are not only held at shrines, but also held at each home. People pray for their family member's hearth or prosperity in front of the household altar, and such activity can also be considered as a small "Matsuri" festival. The philosophy of Shinto is: to preserve nature like a sacred forest; to live in harmony with nature; to maintain peace in the local community through "Matsuri" festivals and strengthen the bond within the country; for prosperity of descendants; to pray for eternal prosperity of family, locals, and Japan. In addition, the Shinto religion values "purity" so the shrines are always kept "pure" and participants of "Matsuri" festivals are purified by visiting shrines. Japanese people's lives are deeply influenced by these philosophy and features.




境内末社に稲荷神社があります。祭神は稲荷大神として知られる宇迦之御魂大神で、江戸時代に矢口村の農業(稲作)を守護するため、伏見稲荷大社より分霊を勧請して祀られたと伝わっています。

末社 稲荷神社

江戸時代頃に、この矢口村の稲作や農業を守護するために京都の伏見稲荷大社(和銅四年・711年鎮座)から、その御分霊がまつられたという。御祭神は宇迦之御魂神。よく狐が神様だと勘違いされている人が多いが、狐はお稲荷様の眷属(お使い)であり、神社の神域を狛犬が守っているように、狐が稲荷神社を守っているのである。日本の国は弥生時代の昔より今日まで稲作によって栄えてきた国であり、日本人の主食はなんといっても「お米」である。コメとは神様の偉大な霊力・御恵が「こめられたもの」であるということから名付けられました。この米が実ったものが稲穂であり、この稲を成らせる霊力を持っている神様が、すなわち稲荷の大神なのである。そして時代が下るとだんだんと産業・商工業が発展するようになり、次第に五穀豊穣の神様であるとともに、「商売繁盛・金運上昇・福徳円満・諸願成就の神様」としても広く人々に信仰され、今日に至るのである。




社殿の後方に直径15mほどの円墳があり、義興の遺骸を埋めた墳墓(胴塚)と伝わっています。周囲は柵で囲われていて、古来よりその中に入ると必ず祟りがあるといわれ、「荒山」「迷い塚」などの呼び名もあります。江戸時代の古文書には、盗賊がこの御塚内に逃げ込んで隠れようとしたところ意識不明となり、村人たちに御用になったこともあると記されています。御塚の中央には「舟杉」という大杉がありましたが、義興の乗った舟を埋めたものが生育したものだという伝承があります(落雷で焼失しました)。

「御塚」

社殿後部の御塚は、御祭神新田義興公の御遺体を埋葬した所で、直径約十五メートルの円墳である。この中に入ると必ず祟りがあるというところから「荒山」「迷い塚」などともいう。また、この御塚後部には昔から決して神域を越えることがない不思議な篠竹が生えており、江戸時代に平賀源内がこの篠竹で、厄除開運・邪気退散の破魔矢「矢守」を作り、広く御祭神の御神徳を仰がしめることを勧めた。爾来、毎年正月初詣の人々に社頭で授与している。




御塚の後部には昔から決して神域を越えることがないという不思議な篠竹が生えていて、源氏の白旗を立てたものが根付いたとされ、「旗竹」ともいわれています。この竹は雷が鳴るとパチパチと音を立てて割れたと伝わっています。



御塚の手前には力石が並べられています。力石は約180kg〜240kgほどの重量があり、昔、祭礼の日に若者たちがその石を持ち上げて力比べをし、持ち上げた石に重量や姓名などを刻んで奉納しました。本来は神事儀礼であり、当時の通過儀礼のひとつであったと考えられています。

「力石」

力石(約180〜240キログラム)は、昔、若者たちが力くらべに用いたものである。現代とは違い、娯楽が少なかった時代には祭りの日、若者たちが大きな石を持ち上げて、その力を競い合い、持ち上げた石に重量や姓名などを刻んで奉納した。力くらべの行事は、娯楽の面だけではなく、力石の多くが神社の境内にあることからも、本来は神事儀礼であり、また、重い石を持ち 上げることにより一人前として社会に認められた当時の通過儀礼の一つでもあった。




境内に残る古い狛犬は、足利基氏家臣の畠山一族の者やその血縁者の末裔が神社付近に来ると雨を降らし、唸り声を上げたという言い伝えがあります。元々は雌雄2体ありましたが、吽像は戦災で失われ、現在は阿像1体しか残っていません。

うなる「狛犬」

謀略を企てた足利基氏家臣の畠山一族の者、またその血縁者末裔が新田神社付近に来ると、きまって雨が降り、この狛犬がうなったという。しかし、残念ながら戦災で一体が壊れてしまった。




矢口新田神君之碑は、延享三年(1746年)に石城国守山藩主松平頼寛によって建立されました。南朝忠臣として活躍した新田義興の事績に対する顕彰と神社創建の由来が記してあります。篆額の字は頼寛の自筆、詞書撰文は荻生徂徠門下の儒者服部南郭、書は松下烏石葛辰です。この種の碑としては大田区最古で、数少ない江戸期の記念碑となっています。

大田区文化財 矢口新田神君之碑

延享三年(1746年)に石城国(福島県)守山藩主、松平頼寛が造立した碑で、新田神社の祭神、新田義興公の事績と神社創建の由来を記している。篆額の字は、頼寛の自筆で、撰文は儒者服部南郭、書は松下鳥石(葛辰)である。本区に数少ない江戸期の記念碑として注目される。




新田大明神道標は、現在の第二京浜(国道1号)沿いに建てられていたもので、文化十四年(1817年)4月に麻布日下窪講中によって建立された新田神社への道標です。

新田大明神道標

これは現在の第二京浜国道沿いに建てられていたもので、文化十四年(1817年)四月に麻布日下窪講中によって再建された新田神社への道しるべである。




小屋の中に、かって大鳥居に使用された石材が保存されています。

新田大明神大鳥居由来記

此処に保存する石材は、かつて武蔵新田駅前通りに新田神社一之鳥居として屹立せるものにして、昭和四十五年に下水工事の際、過りて笠木部を折損、倒壊の危険を生じたるにより、やむなく解体し、此処に保存するものなり。そもそもこの鳥居は、江戸麻布の篤志家・亀屋重五郎と称する人の発願尽力によりて成れるものなること碑文「建石華表之記」により明らかなり。即ち、亀屋重五郎は任侠の快男子にして、人の災厄、困苦を知れば身の危険をも顧みず直ちに赴きて助く。高潔の仁徳者にして信望極めて篤し。敬神家にてかつて当神前に祈願して、しばしば神恩を蒙りて感激し、石造の大鳥居の奉建を発願尽力す。然るに其の功未完成にして他界す。新田神社崇敬者、重五郎尊敬者は、荏原郡一帯・川崎近辺の近郷を始めとし江戸府内等に甚だ多数ありて、本所の金子屋新八と称する人を中心として、協力、浄財を聚め、その補造に努め、遂に重五郎の宿願遺業を達し、この石造大鳥居を奉建することを得たり。

   時に天保三年(1832年)秋八月
     実に重五郎没後六十年目の事なり

この鳥居の藁座(わらざ)には、浄財の寄進者として武士・町人をはじめ、村中・講中等の名が約160名ほど記されり。




新田神社と氷川神社の神輿は戦時中の空襲で焼失し、現在の神輿は昭和三十三年に氷川神社で再建されたものです。その後、神輿は新田神社の神輿庫に置かれました。新田神社では神輿を再建せず、氷川神社と新田神社で共有しているとのことです。

氷川神社の神輿・山車

この矢口地区(矢口南町会・矢口中町会・矢口北町会)の氏神様は、氷川神社(御祭神 須佐之男命 矢口一丁目二十七番七号鎮座)である。昭和二十年四月の空襲で、この新田神社や氷川神社の社殿をはじめ、両社の神輿など残念ながらすべて焼失してしまった。そこで、地元の総代・崇敬者・有志が集まって、昭和三十三年に氷川神社の社殿ならびに、この神輿・山車を新たに造ったのである。そして、氷川神社での隔年の八月の祭礼では、各町会の人々の協力により、この神輿を渡御させ盛大な例大祭が現在でも斎行されている。しかし氷川神社の神輿庫の老朽化が激しく、その神輿庫の補修の案もあったが、総代やその当時の各町会の人々で協議して、平成二十年十月に新田神社が鎮座六百五十年を迎えるにあたり、新たに、ここに神輿庫を造り、氷川神社の神輿・山車を陳列することを決めたのである。それは氷川神社の氏子区域内に新田神社が鎮座しているので、戦災後、新田神社では独自で神輿を造ることはせず、両社の祭礼でこの神輿が渡御できるように正面と後部には氷川神社の社紋「左三つ巴」そして左右の側面には、新田神社の社紋「一つ引き両(大中黒)」がつけられているのである。




ゴール地点の東急多摩川線武蔵新田駅に着きました。



ということで、大田区で五番目の「歴史と自然を楽しめる街 雑色駅から武蔵新田駅」を歩き終えました。次は大田区で六番目のコースである「佐伯山から馬込文士村へ 大田文化の森から西馬込駅を歩く」を歩きます。




戻る