- 佐伯山から馬込文士村へ 大田文化の森から西馬込駅を歩く
- コース 踏破記
- 今日は太田区の「佐伯山から馬込文士村へ 大田文化の森から西馬込駅を歩く」を歩きます。大田文化の森を出発し、旧内川跡の緑道を歩き、佐伯山の高台からの眺望を楽しみ、最後は都営地下鉄車庫の壮観な電車の列に驚嘆します。最初に歩いたのは2022年の2月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年2月に改めて歩きました。
佐伯山から馬込文士村へ 大田文化の森から西馬込駅を歩く
区民の文化交流の場である大田文化の森をスタートして西馬込駅まで歩きます。この辺りは昔「馬込文士村」と呼ばれ、朝の連続テレビ小説「花子とアン」の主人公・村岡花子をはじめ、多くの文士、芸術家が暮らしていた地域です。車の往来も少なく、自然豊かな道を歩きながら、彼らに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
「佐伯山から馬込文士村へ 大田文化の森から西馬込駅を歩く」の歩行距離は約3.7km(約5、290歩)、歩行時間は約56分(70分*)、消費カロリーは約167Kcalです。
注記*:(70分)は、協力団体が実際に歩いてかかった時間です。
スタート地点:大田文化の森
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- ポイント1 佐伯山緑地
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小高い山の上にあり、大森、糀谷、蒲田、羽田の一部が一望できます。ベンチが設けてあり木陰で大田の景色を見ながら一休みできます。
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- ポイント2 龍子記念館・龍子公園
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開館時間 9時〜16時30分 月曜休館(祝日の日は翌日) 龍子公園には龍子自ら設計した旧宅・アトリエが保存されています。
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- ポイント3 馬込桜並木
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閑静な住宅街に綺麗に舗装された並木道。季節を問わず、心地よい気分にさせてくれます。4月上旬には、馬込文士村大桜まつりが開かれます。
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- ポイント4 桐里自然公園
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- ポイント5 都交通局馬込検車場
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都営地下鉄浅草線の車両基地。京成、京急、北総線の各車両も留置されています。
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- ポイント6 道々め木橋
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都交通局馬込検車場の真上を通る橋。何台もの車両を見下ろすことができます。
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ゴール地点:都営地下鉄浅草線西馬込駅南口
スタート地点の大田文化の森から歩き始めます。大田文化の森は、此の地にかって所在した大田区役所が平成十年(1998年)5月に蒲田駅前に移転した後、その跡地を活用して3年半後の平成十三年(2001年)11月3日(文化の日)に開設された公園・文化施設です。図書コーナーやホール・多目的室・集会室・スタジオ・展示コーナーなどがあり、大田区民の主体的な文化活動を支援し、区民相互の交流の輪を広げ、地域の振興を図ることを目的に設立されました。
池上通りから大森赤十字病院入口交差点で右折し、小路を進みます。大田区立障がい者総合サポートセンターの向かいに、「六郷用水物語」の案内板が立っています。この場所には、かって池上通りと並行して流れる六郷用水の「北堀のみち」がありました。
六郷用水物語
六郷用水は、六郷領(現在の大田区の平地地域)の灌漑を目的として、江戸時代初期に幕府代官小泉次太夫により開削された農業用水路です。徳川家康の新田開発政策の一環として行われた六郷用水の工事は、慶長二年(1597年)の測量に始まり、慶長十四年(1609年)に主要水路が完成、小堀と呼ばれる各村への分水路工事も含めると終了までに14年という長い年月を費やした大工事でした。
春日通りとの交差点脇に石碑が建っています。春日通りは、かっての古代東海道の道筋に当ります。「いにしえの東海道」は、大森郵便局付近で池上通りから分岐し、春日神社の北側を通り、池上方面へ抜ける緩やかにうねる道です。時代により、奥州街道・相州鎌倉街道・平間街道などと呼ばれていました。
いにしへの東海道
この道は、時代により、奥州街道・相州鎌倉街道・平間街道・池上往還などと呼ばれていた古道です。
石碑の隣に、「旧新井宿出土橋跡」の碑が建っています。新井宿は、万葉集に「荒藺の崎」と詠まれた歌があり、「荒藺宿」とも書かれ、中世の頃には「荒井宿」とも書かれました。「宿」とは、古代の馬屋の地とされ、古代から中世にかけて「いにしえの東海道」が通っていた歴史のあるまちです。新井宿地区は、大森駅近くの闇坂の南側で、池上通りを中心にその両側に広がる地域です。「山王」はなだらかな台地で、「中央」は平坦地となっています。地区の中心部をいにしえの東海道といわれた平間街道(旧池上道)と旧六郷用水が併走し、沿道には熊野神社、春日神社や善慶寺などがあります。現在も大田文化の森を拠点に、芸術・音楽・文芸など多様な文化活動が盛んな地域です。また、「障がい者総合サポートセンター(さぽーとぴあ)」を始めとする福祉施設や大森赤十字病院などの医療施設があり、交流展示施設である「区立山王会館」や区民に開かれた交流の場や観光情報コーナーを有する「新井宿特別出張所」など、医療・福祉・文化の環境に恵まれた地域です。出土橋は、旧池上通りが内川を渡るところに架橋されていました。現在は、内川は暗渠化され、「桜のプロムナード」という遊歩道になっています。
遊歩道を進みます。遊歩道の脇には、「桜のプロムナード」の案内板が立っています。内川は大田区を流れる、全長1.55km・流域面積3.25平方キロメートルの河川です。大田区大森西四丁目のJR東海道本線橋下から大森学園高等学校前を流れ、京浜運河・東京湾に注いでいます。元々は北馬込付近を水源とした天然の小川でした。現在では東海道本線より上流は暗渠化して下水道の幹線になり、それより下流が河川法上の指定区間となっています。そのため大雨が降ると下水が流れ出て悪臭が酷く、通常時は曝気装置や微生物養生により水質が若干ではありますが改善してきています。かつては六郷用水の流れの一部が大森第八中学校付近で合流していたり、呑川の分流が合流していましたが、現在では合流する河川もなく、通常時の開渠部分の水は潮の干満による海水・汽水がほとんどを占めています。開渠の最上流部でも潮がひいているときには川底の泥に汽水性のヤマトオサガニ・クロベンケイガニ・ケフサイソガニが見られます。また、マハゼやボラも多く、夏には多くの釣り人が訪れます。エイなど多くの海洋性の魚類も上げ潮時には遡上しています。平成十九年(2007年)4月にウォーターフロント事業として、河口付近に大森ふるさとの浜辺公園が開園しました。また、一部開渠部の流れに沿って散歩道が作られています。
- ポイント1 佐伯山緑地
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遊歩道の突き当たりに木々が茂った小山が見えます。大正十三年(1924年)に栄養学の父と呼ばれる佐伯矩博士が栄養指導の専門家を育てる世界初の「栄養学校」を港区に設立し、昭和十五年(1940年)に此の地に移転しました。平成十四年(2002年)に「佐伯栄養専門学校」と改称しましたが、平成二十七年(2015年)に蒲田の新校舎に移転しました。
佐伯博士や遺族により守られてきた貴重な緑が残された敷地の一部約3000平方メートルの土地は平成十二年に大田区へ公園用地として寄付され、それを整備したのが佐伯山緑地です。緑地の入口から山の上までデッキテラスが設けられています。
緑地は、小高い丘の上の見晴らし広場と遊具が設置されている平地の遊園に分かれています。海抜21mに位置する見晴らし広場には、木々が茂り、散策路も整備されて地元の人々の憩いの場になっています。武蔵野台地の端に位置しているため、丘の上からの見晴らしが抜群で、新井宿地区が一望できます。
見晴し広場
佐伯山緑地は大田区の中心に位置し、見晴し広場からは大森、蒲田、糀谷、羽田方面が見渡せます。
広場の一画に佐伯博士の胸像が建っています。
佐伯矩博士胸像について
この像は、栄養学の創始者、栄養学の父であり、世界で初めての栄養学校(現在の佐伯栄養専門学校)を創立した、佐伯矩(さいき ただす)博士です。博士は、医学から栄養学を独立させ、栄養研究所、栄養士制度を発展させました。佐伯山緑地は、通称「佐伯山」と呼ばれ、元の所有者である佐伯氏により、貴重な緑の森が守られてきました。平成十二年大田区は、西側の約三千uの土地を佐伯氏より公園用地として寄付を受けました。平成二十年には、胸像の寄贈を受けました。
佐伯矩博士略歴
医学博士 ドクター・オブ・フィロソフィー 佐伯矩先生
大正 九年 国立栄養研究所初代所長
大正十三年 佐伯栄養学校創設(栄養士誕生)
昭和 二年 国際連盟初回交換教授(医学者・医師への講義)
昭和 九年 日本栄養学会創始(日本医学会13分科)
以上は世界最初に誕生したもの。
子育て地蔵もあります。愛称は「さっちゃん」だそうです。
広場の真ん中に土蔵風の建物と古井戸が残されています。こんな高地にも水脈があったんですかね?
佐伯山緑地の北側にあるデッキテラスを下ります。デッキの下には、パーゴラや複合遊具を備えた遊園が設けられています。
東門の向かいに住宅に挟まれた路地があり、見た目が遊歩道っぽい感じです。ひょっとしたら、これは内川を埋め立てた跡なのでしょうか?
- ポイント2 龍子記念館・龍子公園
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路地のひとつ先の小路に入ります。四つ角の右手の一段上に龍子記念館の建物があります。
龍子記念館は、近代日本画の巨匠と称される川端龍子によって、文化勲章受章と喜寿とを記念して昭和三十八年(1963年)に設立されました。大正初期から戦後にかけての約140点あまりの川端龍子作品を所蔵し、多角的な視点から川端龍子の画業を紹介しています。展示室では、大画面に描いた迫力のある作品群を楽しむことができます。
建物の中庭には、伊豆から取り寄せた石を配した石庭が造られています。
龍子草苑
龍子記念館は、川端龍子が自身の文化勲章受章と喜寿とを記念して、昭和三十八年(1963年)6月6日に開館しました。記念館の設計は自らが行ない、各所に龍子の趣向が凝らされています。「龍子草苑」と名付けられた中庭には、別荘・青々居のある修善寺の桂川で自ら選んだ石が据えられ、傍らにはススキ・イタドリ・シダなどの草花が植えられています。また、龍子は自然のままの姿の庭を好んだため、草苑も当初の姿を保つようにしています。
龍子記念館のはす向かいに龍子公園があります。龍子公園には、川端龍子自らが設計した旧宅とアトリエが当時のまま保存されています。
臼田坂下に画室を新築した川端龍子(1885年〜1966年) 日本画家
日本画の巨匠川端龍子は、明治四十二年二十四才の時、牛込矢来町より入新井新井宿に移ってきました。この頃はまだ作品を認められてはいませんでしたが、挿絵を描いたり、国民新聞社に勤めたりして生計をたてていました。大正二年に渡米した際ボストン美術館で日本画に魅せられ、龍子は油絵から日本画へと志向の転換を決意します。翌三年には、処女作「観光客」が東京大正博覧会に入選し、日本画家として立つきっかけを掴みました。その後はつぎつぎと作品が認められ、大正九年現在の臼田坂下に住宅と画室を新築し、ここを御形荘と名付けました。−画人生涯筆一管 龍子−という句があるように画業に専念する人でしたが、唯一の趣味としての建築は、龍子持ち前の器用さと熱心さを反映して素人の域を脱するものでした。龍子記念館、屋敷内の建築は全て龍子の意匠に依るものです。
アトリエは戦前の昭和十三年(1938年)に建てられて戦時中の空襲を逃れましたが、旧宅は終戦間際の8月14日の空襲で住宅部分が壊滅しました。川端龍子は住宅部分の跡を池として造成し、「爆弾散華の池」と名付けました。
定時に行なわれる職員による園内ツアー以外は閉門されています。
- ポイント3 馬込桜並木
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大田中央四郵便局付近から北西に向かって馬込桜並木通りが延びています。馬込桜並木通りには600メートルほどにわたって約90本の桜の木が立ち並んでいます。毎年4月には馬込文士村大桜まつりが開かれ、多くの来場者で賑わいます。地元町会や商店街・団体の皆さんによる流し踊りや阿波踊りなどの催し物が行われ、桜まつりに華を添えてくれています。
馬込桜並木通りの中ほどに「桜並木公園」があります。
馬込の桜並木
馬込の桜並木は、約90本の桜が立ち並ぶ600mほどの緑道です。春になり桜が満開を迎える4月上旬には「馬込文士村大桜まつり」が開催され大勢の人出でにぎわいます。桜並木の始まりは、昭和二十八年(1953年)に町の有志から寄付された100本の苗木でした。その当時はまだここは内川の流路でしたが、埋め立てられ現在のような姿となりました。
昔の内川の流れ
現在の内川は、大森西一丁目のJR線ガード下から始まり東京湾へ流れ出る約1.5kmの短い川ですが、昔は全長約5kmの川で、現在の北馬込から中馬込、西馬込、南馬込、中央を通る主流と、山王四丁目付近から環七通りに沿って流れる支流が集まった川でした。JR線から上流は、昭和四十六年(1971年)から昭和五十一年(1976年)にかけてほとんどが埋め立てられ暗きょになり、その上が緑道や公園となっています。
- ポイント4 桐里自然公園
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馬込桜並木通交差点を左折し、少し坂道を上った右手の丘の上に桐里自然公園があります。桐里自然公園は馬込の自然をテーマに造られた公園で、高台からの景観も楽しめます。園内には四季折々のさまざまな草花が植えられ、季節の花や樹木を愛でながらのんびり過ごせます。春は桜、梅雨の時期にはアジサイが満開になります。欅や楠木も植えられていますので、木陰で涼むこともできます。また、園内には人工の川が流れていて、川には小さな石橋が架かり、岩石に草木がバランスよく配され、まるで庭園のような雰囲気です。パーゴラの下に椅子がありますので、せせらぎや風になびく草木の音を聞きながら過ごすとリラックスできます。夏場は川で水遊びも楽しめるので、子どもと一緒にちょっと遊びに行けるおすすめスポットです。
馬込桜並木通りに戻ります。馬込は、かって野菜栽培が盛んでした。
馬込の特産物
区内では、戦時中までほうれん草、小松菜、きゅうり、なす、にんじんなどの栽培が盛んに行われていました。特に馬込地区で作られていた馬込半白(まごめはんじろ)きゅうりと馬込大太三寸(まごめおおぶとさんずん)にんじんは地名を付けて名づけられるほど親しまれました。また、戦後栽培が始まった馬込のシクラメンは優良系統選抜と改良、高い技術力により名が広まりました。
大田区の農業の変遷
大田区の水田と畑を合わせた耕地は大正十一年(1922年)には1、660haありましたが、耕地整理後の昭和十年(1935年)には988ha、昭和二十五年(1950年)には179haと急減しました。大田区における耕地整理は水田の宅地化と道路・側溝整備の区画整理を中心に行ったためで、この宅地化の過程で、都市近郊という立地を活かした野菜作りがさかんになりました。
善照寺の角で、内川は「旧内川源流」方面と「洗足池流れ」方面の二手に分かれています。というか、この地点で上流からふたつの川が合流して内川の流路になっていたのです。
- ポイント5 都交通局馬込検車場
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梅田小学校入口交差点を越えた先の左手に「東京都交通局馬込車両基地」があります。正式には、馬込車両検修場と言うようです。都営地下鉄浅草線の車両が所属し、京成・京急・北総の各事業者の車両も留置しています。浅草線(1号線)が開業した昭和三十五年(1960年)当時は路線内に車両基地がなく、京成電鉄の協力で押上線京成曳舟駅−荒川駅(現在の八広駅)間にある土地(かつての向島駅跡地)を利用して向島検修区(収容車両数:28両)を設け、そこで工場業務と検車業務を実施していました。その後、路線の延長で向島検修区だけでは車両収容数が不足することになったため、京成電鉄高砂検車区内で将来的な拡張を予定していた敷地を東京都交通局が一時借用して検車業務を行いました。収容数は80両と多く、馬込検車場完成までの暫定的な意味合いから5年の期限で借りていました。浅草線が開業した当時は大田区馬込付近に工場と検車業務のできる広大な土地を模索していましたが、用地が確保できないことから工場と検車区が分離した状態になりました。現在の敷地の一部は昭和三十年代に力道山の邸宅があった場所でもあります。昭和四十三年(1968年)11月に馬込検車場が開設されたことに伴い高砂検修区は廃止され、また昭和四十四年(1969年)6月に国道1号線を挟んだ西馬込駅北方に馬込車両工場が開設されたことで工場業務を行っていた向島検修区も廃止されました。平成十二年(2000年)4月に馬込検車場と馬込車両工場が組織統合され、馬込車両検修場が発足しました。その後、馬込車両検修場(馬込検車場)内に浅草線と大江戸線の車両の整備を可能とする新しい車両工場を建設する再整備計画が立ち上がり、平成十六年(2004年)5月に新車両工場の稼動が開始されました。平成十九年(2007年)3月までに旧車両工場建屋は解体され、跡地には平成二十五年(2013年)に立正大学付属立正中学校・高等学校が品川区大崎から移転してきました。
梅田小学校脇の坂を上り、貴船坂上交差点で右折します。梅田小学校脇の坂は無名の坂で、貴船坂は交差点の反対側の下り坂です。貴船坂(きぶねざか)は長さが約200mほどのやや急な坂です。坂名の由来は、本門寺公園の中にある東之院の貴船(きぶね)明神に因んでいるといわれています。東之院は本門寺の子院のひとつで、貴船明神はその鬼門除けとして置かれていましたが、明治初年の神仏分離令により東之院と分離され、明治四十五年に近くの太田神社に合祀されました。因みに、「太田神社」は「大田神社」とは書きません。太田神社は那須与一縁の神社として知られています。寿永四年(1185年)二月、屋島の戦いにて那須与一が「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ」と祈念して放った矢は見事扇を射抜きました。「平家物語」にも描かれたこの逸話は広く知られていますが、太田神社はその那須与一が守本尊とした神像を御神体として安置しています。古来よりその故事に因んで「願えば叶わぬこと無し」と厚く信仰され、那須与一が一本の矢一発で見事扇を射抜いたことから、一度の挑戦をものにしなければならない入学祈願・学業成就祈願・スポーツ競技の勝利祈願などにご利益があるとされ、古くから多くの参拝者が訪れています。
T字路の角に「茅舍旧居 青露庵」と書かれた石碑が建っています。「青露庵」は、川端茅舎の戒名である青露院よりとったもので、正面の書は兄川端龍子の書です。生前は茅舎庵と称されていました。
本門寺近くに住んだ川端茅舎(1897年〜1941年)
−五重の塔の前の道をだらだらと下り、本門寺裏へぬけて急坂を登りつめた左角−に川端茅舎が住んでいました。茅舎は、日本画家川端龍子の異母弟で、昭和三年、兄龍子の用意したこの家に父親とともに移ってきました。今では俳人として知られる茅舎ですが、この家に移るまでは俳句と同時に画業もこなす風流人でした。大正十年には洋画家の岸田劉生に師事し、同十二年に「静物」画が芸術院に入選しています。一方、徘諧誌に句が入選するようにもなり、昭和十三年には「ホトトギス」紙上で新進作家として取り上げられました。また画師である岸田の死と自分の病がもとで画業から遠ざかったこともあって、この頃より俳句の世界に専念しました。川端茅舎は、馬込を描写した七句を残しています。
つばはいて はこべ花咲く 溝と知る
せりの根を 洗いし溝に かみそりも
草萌えて 馬大王座を 既に占む
万福寺 門前あぜを 塗る田なし
梅の丘を けずりてせりの 田を埋む
鶯の 丘をラッパや 豆腐売り
鶯の こだまの九十九谷かな
注記:15世紀中頃、太田道灌は丘や谷が入り組んだ地形が難攻不落の城を築くには相応しいと考え、「九十九谷」と呼ばれていた馬込に江戸城の候補地に挙げていました。
- ポイント6 道々め木橋
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梅田第一児童公園の前から、車両基地を跨いで跨線橋が架かっています。「道々め木橋(どどめきばし)」は長さ100mほどで、都営浅草線の車輌基地の上を通る人間専用の歩道橋です。嬌名は、かって橋の南側(池上本門寺の北側)の耕地が「道々女木」と呼ばれていたことに由来します。
道々め木橋は、昭和四十四年(1969年)に供用が開始された全長119.8mの橋で、鉄道ファンの間では有名な撮影ポイントになっています。留置線にずらりと車両が並ぶ光景は正に圧巻です。現在は、車両は平成三十年(2018年)から営業運転を開始した「5500形」が大半になっています。
左側に写っている赤い電車は、(2005年)に登場した日本の地下鉄史上初の機関車のE5000形電気機関車です。大江戸線の電車を走行方式の異なる浅草線の馬込車両基地へとけん引するために製造されました。なので、客車も貨車もありません。普段は見る機会のない車両を見られるのも車両基地ならではですね。
車両基地には検車場の機能もあるので、留置線の他に車両を検査をするための機能も備わっています。
国道1号線側は階段になっています。なので、自転車で渡ることは出来ないと思います。
ゴール地点の都営地下鉄浅草線西馬込駅に着きました。駅の隣にあったスーパーの文化堂は2025年2月に再訪した時は取り壊されて更地になっていました。
ということで、大田区で六番目の「佐伯山から馬込文士村へ 大田文化の森から西馬込駅を歩く」を歩き終えました。次は大田区で七番目のコースである「四季を彩る水辺の景勝地 洗足池から小池公園」を歩きます。
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