四季を彩る水辺の景勝地 洗足池から小池公園  

コース 踏破記  

今日は太田区の「四季を彩る水辺の景勝地 洗足池から小池公園」を歩きます。東急池上線洗足池駅を出発し、洗足池を一周し、旧呑川支流の洗足流れの緑道を歩き、最後は小池公園を巡ります。最初に歩いたのは2022年の2月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年2月に改めて歩きました。

四季を彩る水辺の景勝地 洗足池から小池公園

洗足池は、日蓮聖人が身延山から常陸国へ療養に向かう途中、この池で足を洗ったことから「洗足池」と名付けられました。清水窪湧水を源流とする池は約4万平方メートル、春は桜、夏は新緑、秋は紅葉、冬は渡り鳥の飛来地として四季折々楽しめます。洗足池から流れ出た水がせせらぎとなる「洗足流れ」の遊歩道を散策し、親水公園である小池公園まで、水辺の涼風を感じながらウォーキングを楽しんでみませんか。

「四季を彩る水辺の景勝地 洗足池から小池公園」の歩行距離は約3.0km(約4、290歩)、歩行時間は約45分(50分*)、消費カロリーは約135Kcalです。

注記*:(50分)は、協力団体が実際に歩いてかかった時間です。

スタート地点:洗足池駅
ポイント1 洗足池
ポイント2 池月橋
春は桜の名所で賑わいます。毎年5月に行われる「春宵の響」では水面に響き渡る幻想的な笛の音が奏でられます。
ポイント3 勝海舟夫妻墓所
勝海舟(1823年〜1899年)は洗足池に別荘を構え、後に屋敷裏の台地に葬られたと伝えられます。区指定文化財。
ポイント4 勝海舟記念館(旧清明文庫)
勝海舟記念館は、国登録有形文化財である旧清明文庫を活用し、令和元年9月に開館しました。海舟の功績や大田区との縁を紹介するとともに、海舟の想いと地域の歴史を伝える記念館です。
ポイント5 洗足流れ
洗足池から続く水路に沿って約1.5kmの遊歩道が伸びています。桜並木は春の花見、カルガモや鯉などが楽しめます。
ポイント6 小池橋
ポイント7 小池公園
水辺環境を生かした親水デッキ・親水護岸からは、季節の野鳥や四季の草花、小魚の泳ぐ姿などが見られます。

ゴール地点:東急池上線長原駅


スタート地点の洗足池駅から歩き始めます。



ポイント1 洗足池

駅に面した中原街道を横断歩道で渡ると、正面にボートハウスがあります。入口の横に、「洗足池案内図」が立っています。洗足池の見所ポイントが図示され、見落とすことがありません。



ボートハウスを過ぎると眺望が一気に開け、目の前に洗足池が広がっています。今日巡るコースは、大田区の自然観察路「池のみち」と似通っています。

大田区自然観察路「池のみち」

「池のみち」は、昔から景勝地として親しまれていた洗足池の周辺を整備した洗足池公園と、小池と呼ばれていた溜池の周辺を整備した小池公園を巡るコースです。都会の貴重な水辺の周辺を散策しながら、四季折々の樹木や草花の変化、そこに暮らす野鳥やトンボなどの生態を観察してみましょう。




池の畔に石碑が建っています。文字は読み取れませんが、「中原街道改修記念碑」なんだそうです。中原街道は江戸から平塚の中原に通ずる街道で、江戸期には東海道の脇往還として盛んに利用されました。明治期以後も産業の発達に伴い、東京への物資の輸送路として大きな役割を果たしました。しかし、千束から石川・田園調布にかけて急坂が多く、その上道幅も狭く、重い荷車は難儀をしました。大正期になり、地元有力者や住民らの努力によって、この起伏を平坦にする改修工事に着手し、大正十二年(1923年)に完成しました。昭和十年五月には丸子橋が完成し、その後順次道幅も広げられて現在の道路になりました。しかし、丸子橋から田園調布警察署前交差点まではこの時新設された新道で、その南側の桜坂を通り東急目蒲線沼部駅へ抜ける道が旧道で、大田区内で旧中原街道の面影を残すのはここだけとなりました(桜坂は、福山雅治さんの曲のモデルとなった坂です)。記念碑は、大正十二年の街道改修記念として建てられました。



記念碑の隣に洗足池公園の案内板が立っています。洗足池は湧水池です。付近一帯には大小の湧水が多くあり、かっては用水路を通して池に湧水が流れ込んでいました。洗足池の主要水源となる湧水は4ケ所あったとされ、現在は清水窪弁財天(東京の名湧水57選のひとつ)の涌水が残っています。今でも水量が豊富で、浸透管を用いて洗足池に流れ込んでいます。この地域の古い地名は「千束」でしたが、身延山久遠寺から常陸へ湯治に向かう途中の日蓮が池のほとりで休息し足を洗ったという言い伝えが生まれ、千束の一部が「洗足」となりました。池名もその故事に因んでいるものと思われます。洗足池の周囲は洗足池公園になっていて、園内には勝海舟夫妻の墓や「西郷南州留魂詩碑」などがあります。勝海舟は洗足池が好きで、ここに「洗足軒」という別邸を建て、今も洗足軒の跡が残されています。

東京都指定名勝 洗足池公園

区立洗足池公園は、清水窪湧水などを主な水源とする淡水池の佳景で古くからよく知られています。「洗足」の名は日蓮聖人が手足を洗ったという伝承にちなむと言われています。江戸時代には数多くの文芸作品や絵画作品に取り上げられ、浮世絵師・歌川広重が描いた「名所江戸百景・千束の池袈裟懸松」はことに有名です。明治二十三年頃には、晩年の勝海舟が東岸に別荘「洗足軒」を築き、後に夫妻の墓地も造られました。公園近くの国登録有形文化財「旧清明文庫」は、昭和初期に海舟の遺蹟の保存などを目的に建てられ、現在は区立勝海舟記念館として活用されています。昭和五年に都市計画法に基づく「風致地区」に指定されると、同八年には地元有志が社団法人洗足風致協会(現公益社団法人洗足風致協会)を設立し、現在まで積極的に環境保全活動を続けています。池の周辺には「平家物語」に登場する源頼朝の愛馬「池月」の伝承がある千束八幡神社のほか、国登録有形文化財の「妙福寺祖師堂(旧七面大明神堂)」、厳島神社のある弁天島、三連太鼓の形状が印象的な池月橋、樹林帯の桜山・松山があり、二十三区内でも有数の散策地として親しまれています。

Designated Place of Scenic Beauty of Tokyo
Senzokuike Koen (Senzoku-ike Park)

The Ota City Senzokuike Koen (Senzoku-ike Park) has been long known for its scenic views of a freshwater pond, which is fed by Shimizu Kubo Spring. The name of Senzoku is said to come from the tradition that Nichiren Shonin (priest; 1222-1282) washed his limbs. In the Edo period (Tokugawa; 1603-1867), this place was featured in many literary works and pictures, in particular" 100 Meisho Edo Hyakkei (one hundred good sceneries in Edo)/Senzoku-no-ike Kesagake-no-Matsu (the pine tree hung with Buddhist priest's ornamental cloth by the pond)" by an ukiyo-e painter Utagawa Hiroshige (1797-1858) is famous. Around 1890, Katsu Kaishu (1823-1899, Shogunate and politician from the late Edo period to the Meiji period) in his later years built a villa called Senzokuken on the east coast, which later became the tomb of Mr. and Mrs. Katsu. The building of Kyu Seimei Bunko (a private library, National Registered Tangible Cultural Properties) near the park was constructed in the early Showa era (1926-1989) for preserving Kaishu's archeological site, etc., which is presently utilized as the Ota City Katsu Kaishu Memorial Museum. When the park was designated as a scenic zone based on the City Planning Act in 1930, the local volunteers established the Senzoku Fuchi Kyokai (currently the Public Interest Incorporated Association, Senzoku Fuchi Kyokai) in 1933, they continue to their environmental conservation activities. Around the pond, in addition to Senzoku Hachiman jinjya (Shinto Shrine), which has a tradition of Ikezuki, the favorite horse of Minamoto no Yoritomo (1147-1199) in the Tale of the Heike (The . military story established in the Kamakura period), there are precious sites such as Myofukuji Temple Soshi-do (Kyu Shichimen Daimyoujin-do, National Registered Tangible Cultural Properties); Benten island with Itsukushima jinjya (Shinto Shrine); Ikezuki-hashi Bridge with its impressive triple arche shape; and Sakurayama and Matsuyama in the green belt. This park is popular as one of the leading walks among the 23 wards.




大田区自然観察路「池のみち」には、観察ポイントの案内板が設置されています。

ポイント1 樹林が育む生き物

古くからの景勝地である洗足池の周辺には、多くの草木が植えられており、美しい景観をつくるとともに、野鳥の営巣等の場所としても大切な役割を果たしています。また、花が咲く頃には多くのチョウが蜜を吸いにくるほか、その幼虫の食草となる植物も多くあります。どの植物にどんな生き物がいるのか観察してみましょう。




ポイント2 池月橋

池月橋は、池の景観を風情豊かにする8径間連続三連太鼓橋です。初代の池月橋は平成七年(1995年)に開通し、周辺環境と調和させるために木橋を採用していました。木橋の耐用年数は一般的に他の材質の橋より短く、供用開始から20年を経て架け替えが行なわれました。平成二十八年(2016年)4月2日に開通した現在の橋は、主要部材にアルミと擬木を使用すると共に、人の手に触れる欄干には同様の質感となるよう木材を使用するなどの配慮を行い、ライフサイクルコストの向上を目指した構造が採用されています。この池月橋は、毎年5月に洗足池公園で行われているイベントの和楽器の演奏会「春宵の響」の舞台としても使用されています。「春宵の響」は、初代の池月橋が竣工したのを記念し、笛の名手で人間国宝の寶山左衞門氏を迎えて始められました。



池月橋を渡った先に千束八幡神社があります。千束八幡神社は、貞観二年(860年)に豊前(現在の大分県)の宇佐八幡から分霊した神社で、鎌倉初代将軍源頼朝の旗揚げに関係があり、「旗揚げ八幡」とも呼ばれています。



鳥居の脇に、「池月」由来の案内板が立っています。

池月発祥伝説の由来

池月とは「宇治川先陣物語」にある名馬の名である。治承四年(1180年)八月頼朝、相洲石橋山の合戦に敗れて安房に逃れこの地の豪族千葉常胤、上総介広常、等の参向を得再挙して鎌倉に向ふの途次こヽ千束郷の大池に宿営し八幡丸の丘を本陣として近隣諸豪の参陣を待つ、折からの皓月池水に映るを賞でつる折ふし何處方よりか一頭の野馬、頼朝の陣所に向って飛来り嘶く声、天地をふるはすばかりであった。郎党之を捕へて頼朝に献ずるに馬体あくまで逞しく青き毛並に白き斑点を浮べ恰も池に映る月彩の如くであった為之を池月と命名して自らの料馬とする。頼朝先に磨墨を得、今またこヽに池月を得たるは之れ征平の軍すでに成るの吉兆として勇気百倍し来れりと云ふ。士卒之を伝へて征旗を高く揚げ歎声やまざりしとか。当八幡宮の別名を「旗上げ八幡」と稱するはこの故事による。寿永三年春(1184年)ョ朝木曽義仲を京師に攻む。義仲宇治、勢田の両橋を徹し河中に乱杭逆茂木を設けて寄手の波を阻まんとす、この時鎌倉出陣に際し各々頼朝に乞ふて賜りたる名馬二頭の中、梶原景季は磨墨に、佐々木高綱は池月に打ちまたがり共に先陣を争った。史書に云ふ宇治川先陣争いである。池月一代の晴れの場所でこの一番乗りの功名が今に至るまで名馬の誉れを伝へてゐる。この池月の誕生地が当八幡であって即ち池月発祥伝説の起こりである。古くより里人の間に語り継がれ大井町線の駅名に(今の北千束駅)、又町会名にもなってゐたが、今はない。遠き治承の昔より光芒すでに八百秋、時代の変遷と共にこの伝説の忘失を惜しみ誌して後世に伝へんとする。尚磨墨を葬せし磨墨塚は南馬込に現存する。氏子青年有志による池月太鼓は即ちこの伝説を太鼓に託したものであり毎年九月の祭日に奉納されてゐる。

   池月の
      蹄の音か
         揆の冴え




「池月」のブロンズ像もあります。

名馬池月の由来

治承四年(1180年)源頼朝が石橋山の合戦に敗れて後、再起して鎌倉へ向かう途中ここ千束郷の大池(今の洗足池)の近く八幡丸の丘に宿営して近隣の味方の参加を待った。或る月明の夜に何処からか一頭の駿馬が陣営に現われ、そのいななく声は天地を震わすほどであった。家来達がこれを捕えて頼朝に献上した。馬体はたくましくその青毛は、さながら池に映る月光の輝くように美しかった。これを「池月」と命名し頼朝の乗馬とした。寿永三年(1184年)有名な宇治川の合戦に拝領の名馬池月に佐々木四郎高綱が乗り、磨墨に乗った梶原源太景季と先陣を競い、遂に池月が一番乗りの栄誉に輝いた。と、史書に伝えられている。ここに名馬池月の銅像を造り、この名馬池月発生の伝承を永く後世に伝えようとするものである。




鳥居の脇に、千束八幡神社の由緒を記した石碑が建っています。かなり読みづらいので、碑文はネットからの転載です。

御由緒

御祭神 品陀和気命(應神天皇)
當社は千束八幡神社と稱し、平安前期の貞観二年豊前国宇佐八幡を勧請し往時の千束郷の總鎮守としてこの巒上に創建せられ、今日に至る。遠く千百余年の昔より、この地の氏神として尊崇せられ、普く神徳を授けてこらる。承平五年、平将門の乱が起る。朝廷より鎮守副将軍として藤原忠方が派遣せられたり。乱後忠方は池畔に館を構え、八幡宮を吾が氏神として篤く祀りき、館が池の上手に当たるに依りて池上氏を呼稱、この九代目の子孫が日蓮を身延から招請す、之池上康光なり。又八幡太郎義家奥羽征討の砌、この池にて禊を修し、社前に額つき戦勝祈願をなし出陣せりと伝える。源頼朝も亦鎌倉に上る途次、この地を過ぐるに八幡宮なるを知り、大いに喜び此処に征平の旗幟を建つる哉、近郷より将兵集まりて、鎌倉に入る事を得、旗挙げ八幡の稱あり。名馬池月を得たるも此処に宿舎の折なりとの傳承あり。尚境内に武蔵国随一と云われし大松ありしが、大正十三年惜しくも枯衰し今はその雄姿を見るすべもなし。古歌に「日が暮れて足もと暗き帰るさに空に映れる千束の松」と詠まれて居り、老松の偉容が想像されよう。斯の如く當八幡神社は城南屈指の古社にて亦名社なり。




洗足池は湧水池で、流れ込む川はありませんが、付近一帯にはかって農家が作物の洗い場として利用していた大小の湧水が多くあり、用水路を通して洗足池に流れ込んでいました。洗足池の主要な水源となった湧水は4か所あったとされていますが、現在は清水窪弁財天(大田区北千束)からの湧水(東京の名湧水57選のひとつ)が残っているのみです。今も水量が豊富で、浸透管を用いて洗足池に流れています。その流路に沿って短い遊歩道が整備されています。



大田区自然観察路「池のみち」の2番目の観察ポイントは、「洗足池の水鳥たち」です。

ポイント2 洗足池の水鳥たち

都会の貴重な水場である洗足池には、多種多様な水鳥たちが暮らしています。池にいる鳥の種類は季節によっても変化し、冬には多くの渡り鳥が訪れます。水鳥にはそれぞれ特徴があり、エサとするものやエサのとり方、泳ぎ方や飛び方も違います。お気に入りの鳥を見つけてじっくり観察してみましょう。




洗足池の畔から朱色の弁天橋を渡った小島には、「洗足池弁財天(厳島神社)」が鎮座しています。



洗足池弁財天の創建年代は不明ですが、古くから洗足池の守護神として北側にある小島に祀られていたそうです。

洗足池辨財天 (厳島神社) 御由緒

一、
           「(宇賀神)
御祭神 市杵島姫命 −+(宗像神)  とも申し上げる
           L(辨天様)

一、
     「(福徳財宝授けの神)
     |(音楽、舞踊、芸能上達の神)
御神徳 −+(水神、水路、海上安全の神)
     |(交通安全の神)
     L(商売繁盛の神、特に水商売繁盛の神)


一、
由緒沿革

創建の年代は、不詳なれど、古来より洗足池の守護神として池の北端の小島に祀られていたが、長い年月の池中に没してしまっていた。その昭和の初め頃より数多の人々の夢枕に辨財天が出現せられ、この事が契機となって御社殿建立の話が具体化し、多くの人々の尽力によって、昭和九年七月洗足風致協会の手により築島遷宮の運びとなり、以来今日に至る間、多くの参拝者に、右御神徳を授けられている。




水生植物園は、平成十一年(1999年)に整備され、自然観察や野鳥観察など、自然とのふれあいの場を多くの利用者に提供しています。



水生植物園では、洗足風致協会と大森第六中学校が連携してホタルの復活に向けた活動が行われています。



また、洗足風致協会と赤松小学校が連携し、稲作作りの活動が行われています。



大田区自然観察路「池のみち」の3番目の観察ポイントは、「水辺の環境と生き物」です。沢山の人がカメラを向けた先には、カワセミ(?)らしき色彩豊かな小鳥が枝に止まっています。

ポイント3 水辺の環境と生き物

水生植物園の近くでは、水辺の宝石とも呼ばれるカワセミの姿をみることもできます。ガマなどの水生植物は、水をきれいに浄化するだけでなく、トンボの幼虫であるヤゴや、小魚の住処となります。そして、ヤゴや小魚はカワセミのエサとなります。カワセミなどがこれからも暮らしていくためにはどのような環境が必要なのでしょうか。




水生植物園の向かいに、「西郷隆盛留魂碑」その他の石碑を納められた神社のような一画があります。入口には、「南洲西郷先生留魂祠手墨之碑」と書かれた石碑が建っています。



留魂祠は、西郷隆盛が西南役に倒れた後の明治十六年(1883年)に行なわれた西郷隆盛七回忌の際に、勝海舟から留魂詩碑のことを知らされた同志達が当時の東京府南葛飾郡の浄光院境内にこの留魂祠を建立して西郷隆盛の霊を祀ったのだそうです。その後、大正二年(1913年)に開始された荒川放水路開鑿に伴い、此の地に移建されました。

留魂祠

一、祭神 南洲西郷隆盛先生
一、例祭 毎年九月二十四日

由緒

明治維新の英傑、西郷南洲(隆盛)勝海舟の両先生は、大政奉還後の江戸城の明け渡し交渉によって、江戸の町を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名ですが勝先生は、晩年、この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、南洲先生と日本の将来について歓談されたと伝えられます。南洲先生はその後明治十年(1877年)の西南戦役により、故郷鹿児島において子弟三千余と共に逝去されましたが、これを惜しまれた勝先生は、追慕のため南洲先生の漢詩を建碑されさらに明治十六年(1883年)、その魂魄を招祠して留魂祠を建立せられました。留魂祠の名は、漢詩「獄中有感」の「願留魂魄護皇城」に由来するものです。この留魂祠は、もと東京南葛飾郡大木村上木下川(現、葛飾区東四ツ木一−五−九)の薬妙寺境内にありましたが、勝先生の御遺志により、大正二年(1913年)、石碑とともに現在の地へ移されました。右隣には勝先生御夫妻の奥津城(御墓所)があり、維新の両雄は、いまなほ相並んで我国の将来を見守っておられるのです。




留魂祠に向かって左手には4基の石碑が並んでいます。一番手前の碑は「勝海舟追慕碑」です。

勝海舟追慕碑

大正二年(1913年)に勝海舟門下生の富田鐵之助が記したもので、留魂詩碑が建立されてから現在地へ移設されるまでの経緯や、有志により留魂祠が建てられたことが記されています。

Monument cherishing the memory of Kaishu KATSU

In 1913 (Taisho 2) Tetsunosuke TOMITA, a follower of Kaishu KATSU, wrote the details how the Remaining Soul monument was built and how it was removed to this present place, and also some interested members had the Remaining Soul small shrine built later on.



次の碑は「西郷隆盛(南洲)留魂詩碑」です。

西郷隆盛(南洲)留魂詩碑

勝海舟が、親交のあった西郷隆盛(南洲)の死をいたみ、詩とその筆跡を遺すため、三回忌にあたる明治十二年(1879年)に自費で建てたものです。もとは葛飾区の浄光寺にあったものが、大正二年(1913年)の荒川開削工事に伴い当地に移設されました。内容は西郷が沖永良部島の獄中で作った七言律詩で、天皇に対する忠誠心が詠まれています。「願留魂魄護皇城」の文言から留魂詩(りゅうこんし)と称されました。背面には勝の撰文で由来が記されています。

Monument inscribed with Takamori SAIGO's poem of the Remaining Soul

Kaishu KATSU having made friends with Takamori SAIGO (Nanshu) lamented the death of SAIGO, and to preserve and hand down SAIGO's poems and handwriting KATSU had this monument built at his own expense in 1879 (Meiji 12). It was originally at Jyokou-ji in Katsushika City, from where it was later removed to this place following the excavation work of Arakawa River in 1913 (Taisho 2). The poem was in the seven-syllable-eight-word meter which SAIGO composed when he was in prison in Okinoerabujima, in which he wrote about loyalty to the Emperor. It is called a poem of the Remaining Soul (Ryukon) as the same words and phrases were contained in his poem "Gan Ryu Kon Paku Go Koh Jyo (free translation: wishes for my Remaining Soul to protect the Emperor's castle)". On the back of the monument the history was engraved which KATSU wrote in his own words.

碑表面の七言律詩です。


朝蒙恩遇夕焚坑  (朝に恩遇を蒙り夕に焚坑せらる、)
人世浮沈似晦明  (人世の浮沈は晦明に似たり。)
縦不回光葵向日  (縦ひ光を回らさざるも葵は日に向ふ、)
若無開運意推誠  (若し運を開く無きも意は誠を推さむ。)
洛陽知己皆為鬼  (洛陽の知己皆鬼と為り、)
南嶼俘囚独藉生  (南嶼の俘囚独り生を竊む。)
生死何疑天付与  (生死何ぞ疑はむ天の附与なるを、)
願留魂魄護皇城  (願はくは魂魄を留めて皇城を護らむ。)

獄中感有り 南洲




その次の碑は「南洲先生建碑記」です。

南洲先生建碑記

留魂詩碑の工事を勝海舟に任された玉屋忠次郎が明治十六年(1883年)に建てたものです。留魂詩が明治十二年7月27日に彫刻され、谷中の石工群鶴の元から浄光寺に至る経緯が記されています。なお、勝海舟追慕碑によると当地への運搬建設も群鶴が実施しています。

Monument of the erection details of Nanshu Sensei (SAIGO)'s monument

Chujiro TAMAYA who was entrusted by Kaishu KATSU with construction work of the Remaining Soul monument erected this monument in 1883 (Meiji 16). The details of the Remaining Soul monument were inscribed, such as on July 27, 1879 (Meiji 12) the poem was engraved and was moved from a stone mason Gunkaku KO in Yanaka to Jyokou-ji.



4番目の碑は「徳富蘇峰詩碑」です。

徳富蘇峰詩碑

昭和十二年(1937年)数名の者が計画し、勝海舟門下生の1人であった徳富蘇峰(1863年〜1957年)に詩を書いてもらい建てたものです。勝と西郷隆盛によって江戸庶民の命が救われた偉業を称え、両雄を偲ぶ内容が刻まれています。この碑が完成した際に、隣接する清明文庫で記念講演が開かれており、その様子が写真で残されています。

Monument of the poem by Sohou TOKUTOMI

In 1937 (Showa 12) some people drew up a plan and asked Sohou TOKUTOMI(1863-1957) who was one of the followers of Kaishu KATSU to write a poem, and they had the monument built. The lines engraved on the monument praise a great achievement of KATSU and Takamori SAIGO who saved the lives of common EDO people and recall two great men. Upon completion of this monument a commemorative lecture was held at the adjacent Seimei Bunko (Library), and the pictures taken then are kept.



ポイント3 勝海舟夫妻墓所

留魂祠の右手の一段高くなった区画には、勝海舟夫妻の墓所があります。勝海舟は生前より、墓は洗足池の畔にと決めており、「富士を見ながら土に入りたい」という遺言を残していました。今でも千束八幡神社の方角に富士山が見えます。墓所の手前には「東京奠都七十周年記念碑」と記された石碑があります。「遷都」は都を移すという意味ですが、「奠都」は新しく都を造るという意味です。東京は京都から都を移したのではなく、京都の他にもうひとつの都を造ったという形をとったのです.

東京奠都七十周年記念碑

昭和十四年(1939年)、東京奠都(てんと)70周年を記念して当時の東京市長小橋一太により建てられました。勝安房(海舟)と西郷隆盛の対話によって江戸が戦火を免れ、その結果東京として大いに発展できたことを称えています。

Monument celebrating the 70th anniversary of Tokyo becoming a capital city

This monument was built in 1939 (Showa 14) by Mr. Ichita KOBASHI, the then Mayor of Tokyo City, commemorating Tokyo becoming the capital city. The epitaph on the monument praises a dialogue between Awa (Kaishu) KATSU and Takamori SAIGO who saved Edo from the fires of war, and as a result Tokyo had been able to develop greatly.



区画の一段高いところに、勝海舟夫妻のお墓が並んで建っています。

勝海舟夫妻墓所【大田区指定史跡】

勝海舟は、官軍のおかれた池上本門寺に赴く途中で休んだ洗足池の景勝を愛し、明治二十四年(1891年)に別邸を構え、「洗足軒」と名づけました(今の大森第六中学校辺り)。明治三十二年(1899年)1月21日に77歳で没した後、遺言により当地に葬られました。同三十八年(1905年)、妻民子が死去し青山墓地に葬られましたが、後に改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています。当史跡は昭和四十九年(1974年)2月2日に大田区指定文化財となりました。

Graveyard of Mr. & Mrs. Kaishu KATSU

Kaishu KATSU took a rest at Senzoku-ike when proceeding to Ikegami Honmon-ji where the government army was stationed then. He loved the picturesque scenery of Senzoku-ike so much that in 1891 (Meiji 24) he had the second house built and named it "Senzoku-ken" (located in the vicinity of present Omori Sixth Junior High School). On January 21, 1899 (Meiji 32) he passed away at the age of 77, and in accordance with his wishes he was buried in this place. In 1905 (Meiji 38) his wife, Tamiko, passed away and was once buried in Aoyama Cemetery. However, later she was reburied and two five-wheel-shape-storied pagodas were built side by side thus their tombstones are together at present.



参道の中ほど右手には手水石があります。

水船(手水石)

勝海舟が亡くなった直後の明治三十二年(1899年)6月に、勝を慕う人々によって墓前に奉納されたものです。背面には嘉納治五郎、榎本武揚、津田真道、赤松則良ら著名な人々50余人の名が刻まれています。

Mizubune (Chouzuishi - a washbasin stone)

In June 1899 (Meiji 32), immediately after the passing of Kaishu KATSU, this stone was dedicated and placed in front of his tomb by people who adored KATSU. On the back of the stone the names of more than 50 well-known persons were engraved such as Jigoro KANO, Takeaki ENOMOTO, Mamichi TSUDA, and Noriyoshi AKAMATSU.



参道の左手の植え込みの中には、勝海舟の案内板が立っています。重複しますが、別の案内板にも勝海舟について記されています。

勝海舟について

文政六年(1823年)江戸に生まれ、諱は義邦、通称を麟太郎、後に安房または安芳と改め、海舟と号しました。幕臣として万延元年(1860年)咸臨丸で渡米、後に軍艦奉行となるなど「日本海軍の生みの親」とも言われます。慶応四年・明治元年(1868年)には幕府側の代表として江戸無血開城に尽力しました。維新後は海軍卿、枢密顧問官などを歴任し、伯爵に叙せられます。徳川家存続のために奔走したり、西南戦争で逆賊扱いされた西郷隆盛の名誉回復に努めたほか、旧幕臣とその家族への援助にも励みました。また、漢詩や書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称されました。洗足池とその周辺の風光を愛し、「飛川歌集」には洗足軒にて詠まれた歌も掲載されています。

KATSU was born in 1823 (Bunsei 6) in Edo; his real name was Yoshikuni, alias Rintaro. His name was later changed to Awa and his pen name Kaishu. In 1860 (Man-en 1) onboard the Kanrin-maru he went to the United States as a subject of the Tokugawa shogunate and later he became a warship magistrate, which incident made him called "the founder of Japanese Navy". In 1868 (Keio 4/Meiji 1) he was a representative of the Tokugawa shogunate and endeavored to a bloodless surrender of Edo Castle. After the Meiji Restoration, he had successively held various posts, namely the Lord of the Navy and the Counselor of the Privy Council, and he was bestowed a count. He made every effort for the Tokugawas to continue to exist, restored honor for Takamori SAIGO who was treated a traitor after the Seinan War and also worked hard to support the former subjects and their family members of the Tokugawa shogunate. Furthermore, he cared for Chinese poems and calligraphy. Together with other literati Deishu TAKAHASHI and Tesshu YAMAOKA he was called 3-shus in the last days of the Tokugawa shogunate. He loved the natural beauty of Senzoku-ike and its surroundings, and his waka (traditional Japanese poetry) composed at his second house Senzoku-ken was in the "Hikawa Kashu" (an anthology of waka).

大田区文化財 勝海舟夫妻の墓

勝海舟、諱(いみな)は義邦、初め麟太郎、後に安房または、安芳と改め、海舟と号した。文政六年(1823年)江戸に生れる。幕臣として万延元年(1860年)咸臨丸で渡米、海軍奉行となり明治元年(1868年)江戸開城に尽力する。維新後は海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任し、漢詩、書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられた。洗足池やその周辺の風光を愛し、明治三十二年(1899年)没後遺言によりこの地に葬られた。別荘洗足軒(現在は大森六中)で次の歌をよまれた。

   千束村の別墅(べっしょ)に
      楓樹数株を植ゑて

   うゑをかば よしや人こそ 訪はずとも
      秋はにしきを 織りいだすらむ

   染めいづる 此の山かげの 紅葉は
      残す心の にしきとも見よ               (飛川歌集より)




ポイント4 勝海舟記念館(旧清明文庫)

大田区立勝海舟記念館は、国登録有形文化財である旧清明文庫を活用し、令和元年9月7日に開館しました。勝海舟の功績や大田区との縁を紹介すると共に、海舟の想いと地域の歴史を伝える記念館です。



記念館は国の登録有形文化財に指定されています。記念館の前に案内板が立っています。

勝海舟と洗足軒

勝海舟は、江戸無血開城の直前、慶応四年(2868年)、池上本門寺において新政府軍との会談に臨みます。海舟はその際、洗足池に立ち寄りその景色を大変気に入りました。その後、明治二十四年になって洗足池の畔(現在の大森第六中学校の敷地)に別荘「洗足軒」を構えます。洗足軒には、モミジ、ヒノキ、ツバキなどが生育していました。海舟は自然に囲まれながら、友人らと詩歌などを楽しみました。また、この地を埋葬の地と決めていた海舟は、明治三十二年に亡くなった後、北側にある墓所に葬られました。

洗足軒には生前から知友がしばしば集い、海舟の没後も和歌を献じ歓談する「春秋洗足会」が行われていました。

Katsu Kaishu and Senzoku-ken

Just before the bloodless surrender of Edo Castle in 1868, Katsu Kaishu went to Ikegami Honmonji Temple for a meeting with the new government army. On the way, Kaishu dropped in Senzokuike Pond and was fascinated by the scenery. Afterward, in 1891, Kaishu built his villa "Senzoku-ken" on the shore of Senzokuike Pond (currently the site of Omori 6th Junior High School). In Senzoku-ken, maples, Japanese cypresses, camellias, and so on, were planted. Surrounded by nature, Kaishu enjoyed poetry with his friends. Kaishu himself, who decided to be buried in this site when he was alive, was buried in the grave on the north side of Senzoku-ken after his death in 1899.

At Senzoku-ken, Kaishu's friends often gathered in his lifetime, and, also after his death, and held the party "Shunju-senzoku-kai" to dedicate waka poems and chat with memories.

旧清明文庫

昭和三年に、財団法人清明会が、海舟の墓所や別荘「洗足軒」の保存、海舟に関する図書の収集・閲覧・講義の開催を目的として清明文庫を開設しました。洗足軒は、昭和二年には、現在の勝海舟記念館(旧清明文庫)の西側、この前庭の付近へ移築されました。戦後、洗足軒は原因不明の火災により焼失してしまいました。海舟ゆかりの洗足池で、大田区は、国登録有形文化財の旧清明文庫を保存・活用した「勝海舟記念館」を整備し、海舟の想いと地域の歴史を未来に伝えてまいります。

Former Seimei Bunko Library

In 1928, the Seimeikai Foundation established the Seimei Bunko Library for the purpose of preserving Kaishu's grave and his villa "Senzoku-ken", and further, collecting and reading literature related to Kaishu as well as holding lectures on him. In 1927, Senzoku-ken was relocated to an area near the front yard, on the west side of the current Katsu Kaishu Memorial Museum (the former Seimei Bunko Library). After world war II, Senzoku-ken was burned down by a fire of unknown cause. Ota City established the "Katsu Kaishu Memorial Museum" to preserve the former Seimei Bunko Library (a nationally registered Tangible Cultural Property) and make the most of its heritage at Senzokuike Pond, the place remembered in connection with Kaishu and is conveying the thought of Kaishu and the history of this locality to the future.




勝海舟記念館と道路を隔てた大森第六中の敷地の脇に、「洗足軒」跡の案内板が立っています。

勝海舟別邸(洗足軒)跡

勝海舟(1823年〜1899年)の別邸は戦後まもなく焼失しましたが、茅葺きの農家風の建物でした。鳥羽・伏見の戦い(1868年)で幕府軍が敗れると、徳川慶喜より幕府側の代表として任じられた海舟は、官軍の参謀西郷隆盛(南洲)と会見するため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴きました。その会見により江戸城は平和的に開けわたされ、江戸の町は戦禍を免れたのです。海舟は江戸庶民の大恩人と言えるでしょう。その際、通り掛かった洗足池の深山の趣のある自然に感嘆し、池畔の茶屋で休息したことが縁となり、農学者津田仙(津田塾大学創始者、梅子の父)の仲立ちで土地を求めました。明治二十四年(1891年)自ら洗足軒と名付けた別邸を建築し次のような歌を詠んでいます。

   池のもに 月影清き今宵しも
      うき世の塵の跡だにもなし

晩年海舟は晴耕雨読の生活の中で、かえで、さくら、松、秋の草々などを移し植え次のようにも詠んでいます。

   うゑをかば よしや人こそ訪はずとも
      秋はにしきを織りいだすらむ

明治三十二年(1899年)七十七歳で没しましたが、「富士を見ながら土に入りたい」との思いから、生前より別邸背後の丘に墓所を造りました。石塔の「海舟」の文字は徳川慶喜の筆と伝えられています。当初は海舟一人の墓所でしたが、後に妻たみも合祀され、大田区の史跡に指定されています。




勝海舟記念館のはす向かいに、御松庵妙福寺があります。日蓮が弘安五年(1282年)に身延山から武蔵国池上にある池上宗仲の館(現在の池上本門寺)に向かう途中で近隣の大池(千束池)にさしかかった際、丘と水のおりなす池の絶景に思わず馬を止め、旅装束をといて池畔の老松に法衣をかけ、澄みきった池水で手足を洗いました。すると、池から七面天女が現れ、法華経を信ずる者を末法末永く加護することを宣言し、水中に消え失せました。後に、このことを記念しようと七面天女を安置するお堂を建てたのが「御松庵」です。一方、妙福寺は寛永年間以前に現在の日本橋馬喰町に草創され、幾度かの焼失による移転を経て、昭和二年(1927年)にこの地に移転して御松庵を合併し、御松庵妙福寺として再建されました。門前に、「袈裟掛けの松」の由来を記した案内板が立っています。

日蓮上人袈裟掛けの松 由来

弘安五年(1282年)9月日蓮上人が身延山から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(池上本門寺)を訪れる前、千束池の畔で休息し傍の松に袈裟をかけ池の水で足を洗ったと伝えられる。この言い伝えから、この松を袈裟掛けの松と称することとなり、また千束池を洗足池とも称されるようになったといわれる。天保期(1830年〜1843年)の「嘉陵紀行」によれば、初代の袈裟掛けの松は「枝四面におおい長さ幹囲み三合がかり、高さ五丈あり」程あったと記されている。なお現在ある松は三代目であると伝えられる。




山門を入ると、境内には見事な竹林・黒松・銀杏・アオギリ・その他からなる樹林があり、大田区の保護樹林になっています。



境内の奥に聳える松は、江戸時代に活躍した浮世絵師で初代歌川広重の「名所江戸百景」に「千束の池袈裟懸松」、あるいは、江戸近郊の地誌である「江戸名所図会」に「千束池袈裟掛松」として描かれ、「袈裟掛の松」と呼ばれています。三代目の松には袈裟を掛ける枝がないみたいですね。



その隣には、初代の松の切り株が保存されています。碑の後ろにある松は初代の松と同じく、袈裟が掛けられるような枝振りになっています。



御松庵は、日蓮聖人の道中を守った七面天女を安置し、袈裟掛松を護るお堂が始まりと伝えられています。



洗足池公園を出て再び中原街道を渡り、洗足駅の裏手を回り込みます。ここから桜のプロムナードが始まります。



ポイント5 洗足流れ

「洗足流れ」は、洗足用水・池上用水とも呼ばれる全長1.5km程の短い水路です。洗足池を水源とする呑川の支流で、東雪谷と上池台の境界に沿って流れ、仲池上で呑川に注いでいます。かつては農業用水として利用されましたが、現在周囲は閑静な住宅街となり、遊歩道が整備されて住民の憩いの場として親しまれています。洗足池からポンプで組み上げられた水は中原街道と洗足池駅の地下を潜り、洗足池駅の裏手で開渠となります。道路に沿って暫く開渠が続き、東雪谷五丁目交差点手前で再び暗渠となっています。交差点で二股に分かれた後、それぞれJRの線路を潜り、一方は本村橋袂、他方は醍醐倉庫脇で呑川に合流します。



水路には鯉などの魚や水生生物が生息し、カルガモやカワセミなどの姿も見られます。せせらぎ沿いには桜が植えられていて、花見の時期には大勢の人出があります。



ポイント6 小池橋

小池橋で左折し、小池公園に向かいます。かつては洗足小池からの流れが小池橋付近で洗足流れに合流していました。



ポイント7 小池公園

小池公園は、かつては洗足池の大池に対して、小池と呼ばれていた溜池の雰囲気を復元した公園です。



水辺環境を活かし、身近な生き物との共生をテーマに整備していて、季節により野鳥の子育ての様子やサギ・カワセミなどが見られます。洗足池にあったのと同じ案内板が立っています。

大田区自然観察路「池のみち」

「池のみち」は、昔から景勝地として親しまれていた洗足池の周辺を整備した洗足池公園と、小池と呼ばれていた溜池の周辺を整備した小池公園を巡るコースです。都会の貴重な水辺の周辺を散策しながら、四季折々の樹木や草花の変化、そこに暮らす野鳥やトンボなどの生態を観察してみましょう。




親水デッキを周遊すれば、四季の野草・小魚の泳ぐ姿・夏にはトンボの飛び交う場面などが見られます。

大田区自然観察路「池のみち」
ポイント4 小池に暮らす生き物

小池には、カメの仲間や、メダカなど多くの生き物が暮らしているほか、水辺にはヨシ原があり、カルガモなどの貴重な営巣場所となっています。また、初夏から秋にかけては多くのトンボが観察できるほか、冬には渡り鳥もやってきます。季節ごとに観察できる生き物の変化について調べてみましょう。




梅も見頃を迎えています。



ゴール地点の東急池上線長原駅に着きました。



ということで、大田区で七番目の「四季を彩る水辺の景勝地 洗足池から小池公園」を歩き終えました。次は大田区で八番目のコースである「歴史と緑とふれあいの街 久が原を歩く(北ルート)」を歩きます。八番目のコースは、「北ルート」と「南ルート」の2コースから構成されています。




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