歴史と緑とふれあいの街 久が原を歩く(北ルート)
 

コース 踏破記  

今日は太田区の「歴史と緑とふれあいの街 久が原を歩く(北ルート)」を歩きます。久が原駅を出発し、久が原の北半分を巡ります。新幹線の疾走する姿を高架下と陸橋から眺めます。最初に歩いたのは2022年の2月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年2月に改めて歩きました。

歴史と緑とふれあいの街 久が原を歩く(北ルート)

久が原地域は、花と緑に恵まれた自然と住宅が調和したまちであるとともに、区内最古の遺跡をはじめとした数多くの史跡がある歴史のまちです。四季折々の花と草木で彩られている静かな住宅地の落ち着いたまち並みと、八幡神社や久が原出世観音などの歴史スポットをめぐる、久が原散歩をお楽しみください。

「歴史と緑とふれあいの街 久が原を歩く(北ルート)」の歩行距離は約5.3km(約7、570歩)、歩行時間は約80分(90分*)、消費カロリーは約239Kcalです。

注記*:(90分)は、協力団体が実際に歩いてかかった時間です。

スタート地点:東急池上線久が原駅(蒲田方面のりば)
ポイント1 ライラック並木
ポイント2 柳の交番
まちの中ほどに位置する久が原交番。通称「柳の交番」と呼ばれ、現在二代目の柳がシンボルになっています。
ポイント3 久が原特別出張所(区民ギャラリー)
ポイント4 久が原図書館(久が原の郷土コーナー)
地域から掘り出された昔の道具や写真を展示しており、久が原のまちやくらしの魅力を発信するコーナーになっています。
ポイント5 久が原出世観音
築地の料亭「新喜楽」の女将が伊藤博文公の死を悼み、吉野金峯山寺の観世音菩薩に模した如意輪観世音菩薩を建立したものです。
ポイント6 道々橋八幡神社
ポイント7 桜並木
ポイント8 雪谷文化センター(書家 金澤翔子 常設展)
日本全国、世界でも大活躍している金澤さんに活動の原点として利用いただいたご縁で、常設展が開設されました。
ポイント9 東調布公園

ゴール地点:東急池上線久が原駅(蒲田方面のりば)


スタート地点の東急池上線久が原駅から歩き始めます。



ポイント1 ライラック並木

駅前から「ライラック通り久が原」という小洒落た商店街が延びています。久が原は、昭和の初期頃は一面の畑や樹木が拡がる台地で、武蔵野の趣があり、狐や狸も住んでいました。当時の地名は、荘原郡池上町大字久が原字浅草となっていました。電鉄会社によって整然と区画整理がされ、昭和五年頃から少しづつ店舗ができ、昭和八年には約10店舗で商店街が設立されました。東急久が原駅の名称は、当初の末広から東調布になり、昭和九年に久が原駅となりました。平成五年に商店街のリフレッシュ事業が行なわれ、街路灯のステンレス化と装飾灯の設置、道路のカラー舗装、歩道を拡張して絵タイルの埋め込み、更にライラックの植栽をして、愛称は一般から募集して命名されました。現在では、ライラックの香る優雅な通りとなっています。ライラックは、モクセイ科の落葉広葉樹の低木で、フランス語で「リラ」とも呼ばれます。昭和二十六年に制作された岡本敦郎の「リラの花咲く頃」という歌もあります。ライラックは高さ1m〜6m位まで生長し、春から初夏にかけて、紫や白色の小さな花を穂のようにまとめてつけます。ライラックは香りのよい花として知られていて、香水やアロマオイルの原料としても利用されます。ライラックの葉はハート型をしていて、フランスでは白いライラックは青春のシンボルとして親しまれていることに因んで、「思い出」とか「青春の思い出」という恋愛にまつわる花言葉が生まれました。白いライラックについては、イギリスの悲しい伝説があります。昔々、イギリスの町娘が貴族の男性と恋に落ちて婚約しました。しかし、貴族はすぐに都会の女性へと心変わりをし、婚約を破棄してしまいます。このことにショックを受けた町娘は自殺してしまいました。その後、町娘の友人がお墓に紫のライラックを供えしたところ、次の日に花が白くなっていたそうです。ライラックの花びらは4枚ですが、ときたま花びらが5枚のものが混ざっています。5枚の花びらをもつ花を誰にもいわずに飲み込むと、愛する人と永遠に結ばれるという縁起のよい言い伝えにちなんで、「愛の芽生え」とか「初恋」という花言葉が付けられたといわれています。



ポイント2 柳の交番

商店街を抜け、久が原交番前交差点を左折します。交差点の角に交番があり、その脇に柳の木が植えられています。現在の柳の木は二代目だそうです。初代の柳の木は、昭和二十五年(1950年)に久が原交番が建てられた時に、交番を建てた大工さんが植えたものだそうです。しかし、2004年12月5日未明の強風で柳の木の上の方が折れてしまい、その後養生も空しく幹が腐って伐採されてしまいました。2009年に現在の柳の木が植えられ、「柳の交番」が復活しました。



ポイント3 久が原特別出張所(区民ギャラリー)

大田区では、区内の特別出張所や地域庁舎の中に区民ギャラリーを開設しています。区民ギャラリーは、区民の絵画・書・写真などの作品を展示するためのスペースです。地域の人達に文化活動の場を提供し、文化の香り豊かな街作りの拠点とするために設置されています。大田区立久原小学校の建物の中にある久が原特別出張所にも平成二十年5月に区民窓口の隣の小部屋に「区民ギャラリー久が原」が開設されました。



展示されている作品は多彩で、色彩豊かな絵画が並んでいます。それぞれにタイトルが付けられていて、絵と見比べると作者の思いが伝わってきます。



ポイント4 久が原図書館(久が原の郷土コーナー)

久原小学校の脇から坂を下りて行った先に、久が原図書館があります。



久が原図書館は、一般の図書の他に、外国の絵本や全国の電話帳も所蔵している図書館です。何故に全国の電話帳を置いているのか謎です。



不定期ですが、久が原の郷土コーナーには久が原の歴史的な資料が展示されます。



久が原図書館の裏手からかっての水路らしき遊歩道を進んだ右手の民家の入口の脇に、樹齢600年ともいわれる欅の大木が聳えています。周囲が低層の住宅地なので、その大きさが目立ちます。上部の幹や枝は切られているように見えますが、昔はどんなに大きかったのか想像もできません。



桜の並木道(といっても桜の若木がまばらに植えられた通りですが)を進んで、呑川に架かる北の橋の西詰に出ます。



呑川(のみかわ・のみがわ)は、東京都を流れる二級河川で、呑川水系の本流です。世田谷区桜新町の東急田園都市線桜新町駅付近を水源とし、世田谷区深沢・目黒区八雲・東横線都立大学駅付近(目黒区中根付近)・大井町線緑が丘駅及び目黒線大岡山駅付近(東京工業大学付近)・大田区石川町・雪ヶ谷・久が原・池上・蒲田(JR蒲田駅・東京工科大学・日本工学院専門学校・京急蒲田駅付近)を流れ、糀谷を抜けて東京湾に注いでいます。支流として、世田谷区上馬付近を水源として目黒区東が丘・柿の木坂を経て都立大学駅付近で本流と合流する柿の木坂支流、駒沢オリンピック公園付近を起点とする駒沢支流、世田谷区奥沢の浄真寺(九品仏)付近を水源として東横線自由が丘駅南口付近を通り大井町線緑が丘駅・大岡山駅付近(東京工業大学付近)で合流する九品仏川があります。 各支流、および本流上流部(世田谷区深沢から目黒区大岡山の東京工業大学付近まで)は全て暗渠化され、下水道として利用されています。下水道は本流暗渠部の終端やや上手で呑川から離れる形になっていますが、大雨が降って処理しきれなくなると呑川(開渠部)にも越流させるため、悪臭がひどいです。川の水は常にヘドロにまみれて汚れていますので、周辺住民も「呑川は汚れているもの」という考えが根付いていて、川に対する環境感情が希薄になりがちで、ごみなどの廃棄物が多数投げ込まれています。柿の木坂支流・駒沢支流・九品仏川の3つの支流の暗渠上には緑道が設置されています。現在開渠部に見られる流水はおもに、「城南3河川清流復活事業」による高度処理水で、暗渠の終端近い東京工業大学付近から放流されています。ほかに、大田区清水窪を水源のひとつとする洗足池から流れ出る洗足流れも注ぎ込んでいて、川底や川壁から無数の湧水、大田区久が原や上池台周辺の数本の小さな支流からも水が注ぎ込んでいます。水源近くの国道246号(玉川通り)から駒沢通りまでの1km程の区間は親水公園として整備され、循環水が流されています。川に沿って桜並木になっていて、川にはカルガモも見られます。下流は、大田区東蒲田付近で旧呑川と新呑川に分流しますが、いまの流路(本流)は新呑川になっています。洪水や氾濫を防ぐために直線化した新呑川(呑川)は、羽田空港との間の海老取川に注ぎ込んでいます。世田谷区深沢付近から目黒区中根、緑が丘付近の緑道(遊歩道)も桜並木となっていて、春になるとお花見で賑わいます。また子供たちなどの遊び場になっている他、都立大学駅付近など一部が目黒区の自転車置き場としても利用されています。呑川という名称の語源として、その昔牛が誤って川に落ち水を飲んでしまうことがあったからなどといった説があります。呑川にはコイ・フナ・ボラなどの魚が生息していて、近年はウナギが見つかったこともあります。しかし、最近はミシシッピアカミミガメやガーなどの日本に居るはずの無い外来生物が見つかっています。このうち、前者の繁殖は明らかですが、後者の繁殖は確認されていません。

呑川緑道

ギンヤンマ
ギンヤンマは、体長約7cm程度で頭と胸が黄緑色、腹部・胴体が黄褐色のトンボです。写真はメス(左・赤い尾)とオス(右)のペア飛行で、オスが産卵場所へ誘導しています。メスは、「産卵管」を水の中に差し込み、オオカナダモの茎に卵を産み付けます。水深があり、流れがゆるやかで水草が生えていれば、トンボが集まってきます。

コイ
コイは、大きな河川の中下流域や湖、池、沼に生息し、1mをこえる個体もいる魚類です。日本全国に分布し、古くから食用として移殖されており、自然分布は不明です。動物食主体の雑食性でタニシ、ユスリカ幼虫等の底生動物、水草類、付着藻類などを食べます。




長栄橋西詰で左折し、大田久が原郵便局前の交差点を右折します。安祥寺北第一交差点を左折し、広大な敷地のマンション建設予定地の囲いに沿って進んだ先に、「お告げのフランシスコ姉妹会」の建物が並んでいます。お告げのフランシスコ姉妹会は、大正十四年(1925年)にカナダから来日したフランシスコ会に属するガブリエル・ジュセロ・ジュセネ神父が鹿児島に在住していた時、不況による貧困のために見捨てられた乳児や児童に援助の手を差し伸べたのが始まりで、児童養護施設聖フランシスコ子供寮・生野フランシスコ学園(保育所)と自立支援の三つの事業を行っています。



お告げのフランシスコ姉妹会に隣接して、久が原西部八幡神社があります。久が原西部八幡神社は、天平神護元年(765年)に久が原の高所に創建されたといわれています。江戸時代に久が原が馬込領と六郷領とに二分され、久が原西部八幡神社は六郷領の鎮守として奉斎されました。



現在の社殿は、旧社殿の老朽化に伴って昭和五十四年(1979年)に造替されました。屋根の緑と外壁の朱色が映えています。境内に社殿造営記念碑が建っています。「神賑(かみにぎわい)」とは、神殿において神職の執行する厳粛な祭典が終わった後、神楽や獅子舞い・舞楽・奉納武道・奉納相撲・競射・神輿・山車・仮装行列などさまざまな催しをする行事をいいます。

社殿御造営紀念
八幡神社(久が原西部八幡神社)

由緒
神護元年九月(765年)豊前の国 宇佐八幡宮の御分霊を勧請 武蔵の南端久が原台地(弥生時代の集落地)の住民の鎮守として、尊崇せされ、徳川入国以来 久我原は二分され、当社は六郷領鎮守となり 明治六年(1873年)村社に指定された。旧社殿(銅萱葺権現造52、89平方米)は、文化七年七月約百七十年(1810年)前の御造営にして、長年月を経しにより、諸所に朽損の箇所多く、今度氏子の奉賛により 新しく社殿が御造営され 且つ篤志家の奉納により 手水舍をはじめ境内工作物 殿内調度備品等一切が完備した。「社殿は地鎮祭 昭和五十二年十一月二日、上棟祭 昭和五十三年七月二十八日、正遷座祭 昭和五十四年九月十三日にそれぞれ斉行した 九月十四日より十六日迄竣工奉祝祭例大祭が執行され 奉祝稚児行列、御神輿の渡御 奉納演舞、演芸等 神賑が盛大に行なはれた。」




ポイント5 久が原出世観音

お告げのフランシスコ姉妹会の向かいに、マンションの建設予定地の壁と民家の間に細い通路(参道)が延びています。入口には簡素な山門が建っています。山門の前の壁には、「久ヶ原出世観世音菩薩の由来」と書かれたプレートが貼られています。

久ヶ原出世観世音菩薩の由来

京橋築地料亭新喜楽先代伊藤きん女、如意庵歓喜楽遊禅尼は慈?なる境遇の下に人となり一方佛門に帰依し永平寺貫首森田悟由禅師の戒弟となり轉迷開悟?く善根を積み功徳を施し等しく世人の敬慕を受けた方だと傅えられて居ります。禅尼は常に大慈悲心を躬ら実践し普く世人の教化に邁進すべく其浄地を此地に求め吉野の如意輪堂の観世音菩薩に模し此処に四千有余坪の地に数寄を凝らしたる如意庵を造り迦内に歓?閣、喜興庵などを造営し又如意堂を建立して観世音菩薩を奉祠供養倍し善事に精進せられ政財界其他知名紳士の信仰雲集?盛を極め正に一大名所たらんとするに?し禅尼は大正四年七十有余歳の天寿を以て永眠せり。其後漸次荒廃の止むなきに至り昭和二十年五月雄高を極めたる建築物も爆撃の災禍を受け無常烏有に帰し如意堂のみ其難を免がれたるが当主は時勢に則り全地所を野村証券会社へ移譲せられたるにより当町有志相図り?由緒深き如意堂を霊場として存置すべく野村証券会社に懇請したるに諒承開放せられたり。世人願わくば深く観世音菩薩に帰依し自奮自強の気魄を培はれんことを希ふ。




長い参道の先に如意堂が建っています。庭先には「如意庵」と書かれた石碑が置かれています。



お堂の中には観世音菩薩が鎮座されておわします。



お堂の周囲には小堂や仏像がありますが、由緒は分かりません。



ポイント6 道々橋八幡神社

久が原出世観音からマンション建設予定地をぐるっと回り、出世観音前交差点から青年館通りに入ります。左手に道々橋八幡神社があります。道々橋八幡神社は、道々橋村の鎮守として正保年間(1644年〜1647年)に創建され、現在の社殿は昭和三十五年(1960年)に建造されました。道々橋村は江戸寛政以前に、池上から道々橋村に来る途中の呑川に架かる橋の修繕負担の関係から独立して一村を作り、道々橋と名付けたといいます。道々橋という名称は、とどのつまり橋の問題により独立したため、とど橋から道々橋になったといわれています。道々橋八幡神社前の道はかなりの古道(「鵜ノ木・新田道」・「丸子道」といわれていました)で、左に行くと「筏道」と合流して丸子の渡しに行き着きます。右に行くと急な坂を下り、呑川の「道々橋」を渡り二股道に出ます。左は嶺道で九品仏に行く嶺道となり、右は「猿坂」を登り夫婦坂を越えて荏原町・中原街道に至る「目黒道(池上道)」となります。道々橋村は江戸時代の幕府領で、東海道品川宿の助郷や品川東海寺の火消し人足を負担していました。都交通局馬込検車場の上に渡された人道橋の名前は「道々め木橋」という名前でしたね。道々橋村では、もともとは「池上本門寺の後のなる耕地」に鎮座していた八幡社を村の鎮守として祀っていました。しかし道々橋村の飛び地のひとつだった「道々女木」にあったために足の便が悪く、代わりに道々橋八幡神社が村の鎮守になったとのことです。



ポイント7 桜並木

道々橋八幡神社から松仙小学校前の桜並木に向かいます。松仙小学校から都立雪谷高等学校にかけての道路沿いには多くの桜の木があり、大田区の中でも桜の名所になっています。



都立雪谷高等学校は、大正二年(1913年)に女子実業補習学校として開校し、文武両立を校風としています。東海道新幹線沿いに校舎があり、大田区内では同じロケーションの田園調布高校、平成十七年(2005年)3月に閉校になった旧南高校と共に「新幹線高校」と呼ばれています。女子チアリーディング部のレベルが高く、全国大会で上位の成績を残している他、野球部も都立強豪校として有名で、平成十五年(2003年)に第85回全国選手権に出場し、平成二十一年(2009年)の東東京大会でも準優勝の結果を残しています。



新幹線の高架下を抜けた先に「さくらの広場」があります。広場には桜の巨木が連なっています。ここもお花見の名所です。



ポイント8 雪谷文化センター(書家 金澤翔子 常設展)

雪谷文化センターは、昭和三十六年5月に大田区青年館として発足しました。その後、昭和六十年に雪谷文化センターとして再スタートし、今日まで地域の文化活動の拠点としての役割を果たしています。ロビーでは、書家の金澤翔子さんの作品が常設展示されています(現在も展示されているかどうかは分かりません)。



雪谷文化センターの向かいに巨大な建物が工事中です。呑川の水質改善のための下水道施設工事とのことです。八潮の下水管陥没事故の二の舞だけは起きて欲しくないですね。

事業概要

大田区では、呑川をきれいにするために様々な取り組みを行っており、そのひとつとして、東京都下水道局と連携し「合流式下水道の改善」の整備に取り組み、更なる水環境の改善を図っていきます。現在、強い雨が降った時に合流式下水道から降雨初期の特に汚れた下水が呑川へ放流されています。呑川へ放流される汚濁負荷量を削減し、良好な水環境を創出するため、降雨初期の特に汚れた下水を貯留する施設の整備を行っています。




ポイント9 東調布公園

東調布公園は、面積が25、229平方メートルある広い公園で、中央の並木道を挟んで運動施設(プールと野球場)と児童公園に分かれています。



野球場はかなり本格的な作りになっています。



児童遊園エリアには、「交通公園」や「流れる川」があります。



こども広場の向かいにはD51が展示されています。

D−51−428蒸気機関車

1.製造年月日 昭和十五年9月10日
2.製 造 所 日本車両製造株式会社
3.経   歴
年    月    日機関区名
昭和十五年 9月25日青森
昭和三十一年9月22日仙台長町
昭和四十二年9月10日新庄
昭和四十三年10月2日秋田
昭和四十六年10月2日岡山新見
昭和四十七年9月16日同上で廃車
  32年余の長い間貨物の運搬に、又伯備線で三重連を引く等の活躍をしました。
4.走行距離  2、145、187.9km
  この距離は地球を約54周、月までは約3往復したことになります。
5.D51形蒸気機関車は愛称「デゴイチ」の名で親しまれ、昭和十一年(1936年)に誕生した大型貨物用
  蒸気機関車で、昭和二十年(1945年)までに1115両も製造された日本の代表的な蒸気機関車です。




東調布公園を出て住宅地の中を進みます。右手に水神公園があります。



道路に面してかって使われていた洗い場が復元されています。

水神公園 洗い場(復元)

この場所は、昔は「水神の森」と呼ばれ、非常に湧水の豊富なところでした。以前この付近には、大正期に整備された、「水神様の洗い場」がありました。洗い場は、湧水を利用して野菜や農具を洗うなど、時代と共に様々な用途に使われていました。この洗い場は、地域に親しまれていた洗い場の面影を残すため、平成二十六年、公園整備に合わせて復元したものです。洗い場の水源は、公園内の湧水を利用しており、流末は、東調布公園の流れる川を経由し、呑川へ注いでいます。また、かつてはこの近辺に水神様が祭(祀?)られていましたが、現在は雪谷八幡神社へ移されています。




「かにくぼ公園」の前で左折します(ガイドブックのコースは、かにくぼ公園の南側を真っ直ぐ進むようになっていました)。公園の名前の由来を記したプレートが置かれています。

かにくぼ公園について

このかにくぼ公園は、昭和七年に東京外周地域が東京市に編入されるまで、この周辺は蟹久保と言われ、地域の人々に大変親しまれていました。この地名にちなみ町会の推薦を受けてかにくぼ公園と命名しました。また、この近所の東海道新幹線にも、かにくぼ嬌と言う橋が架かっています。




公園には蟹君(?)の像が建っています。



かにくぼ公園から新幹線の跨線橋を渡ります。橋名は、「蟹久保橋」です。



新幹線と併走して横須賀線も走っています。



ゴール地点の東急池上線久が原駅に着きました。



ということで、大田区で八番目前半の「歴史と緑とふれあいの街 久が原を歩く(北ルート)」を歩き終えました。引き続いて、大田区で八番目後半のコースである「歴史と緑とふれあいの街 久が原を歩く(南ルート)」を歩きます。八番目のコースは、「北ルート」と「南ルート」の2コースから構成されています。




戻る