歴史と緑とふれあいの街 久が原を歩く(南ルート)
 

コース 踏破記  

今日は太田区の「歴史と緑とふれあいの街 久が原を歩く(南ルート)」を歩きます。久が原駅を出発し、久が原の南半分を巡り、久が原の住宅地に散在する公園を訪ねます。最初に歩いたのは2022年の2月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年2月に改めて歩きました。

歴史と緑とふれあいの街 久が原を歩く(南ルート)

久が原地域は、花と緑に恵まれた自然と住宅が調和したまちであるとともに、区内最古の遺跡をはじめとした数多くの史跡がある歴史のまちです。四季折々の花と草木で彩られている静かな住宅地の落ち着いたまち並みと、八幡神社や久が原出世観音などの歴史スポットをめぐる、久が原散歩をお楽しみください。

「歴史と緑とふれあいの街 久が原を歩く(南ルート)」の歩行距離は約3.5km(約5、000歩)、歩行時間は約52分(70分*)、消費カロリーは約158Kcalです。

注記*:(70分)は、協力団体が実際に歩いてかかった時間です。

スタート地点:東急池上線千鳥町駅
ポイント1 千鳥いこい公園(ビューポイント1)
ポイント2 ヒルズ久が原敷地内緑地(ビューポイント2)
木々と花々、噴水と池に囲まれた緑と水の癒しの空間です。おいしい空気にお散歩の疲れが癒されます。
ポイント3 久が原さくら児童公園
ポイント4 久が原図書館(久が原の郷土コーナー)
地域から掘り出された昔の道具や写真を展示しており、久が原のまちやくらしの魅力を発信するコーナーになっています。
ポイント5 樹齢600年大ケヤキ
ポイント6 久が原特別出張所(区民ギャラリー)
ポイント7 柳の交番
まちの中ほどに位置する久が原交番。通称「柳の交番」と呼ばれ、現在二代目の柳がシンボルになっています。
ポイント8 ライラック並木

ゴール地点:東急池上線久が原駅


スタート地点の東急池上線千鳥町駅から歩き始めます。



ポイント1 千鳥いこい公園

千鳥いこい公園は千鳥町駅から徒歩数分の住宅地の一画にあり、高低差や変化に富んだ地形を利用し、体を目一杯使って遊べる複合遊具や砂場やブランコが設置されています。梅や桜、アジサイ、モミジなど、四季を感じられる植物も豊富にある緑豊かな公園です。



園内の離れた場所に置かれたタヌキやフクロウの置物は地中のパイプで繋がっていて、離れた場所で話ができるユニークな遊具です。

地中のパイプでおともだちとお話できます。
紙の筒などをあてがって話すと、より衛生的です。




公園の表門は道路に面した低地にありますが、奥の方は高台になっていて、階段を上ると大田区の南部一帯が眺められ、ビューポイントになっています。ただ、木々の葉と近所のビルに遮られて眺望はそれ程ではありません。



高台部分には遊歩道や広場もあります。



公園の形は凹型をしていて、中央に民家があり、入口は両脇に2ケ所あります。どちらかというと、東側の低地の敷地が幾分高くなっているようです。



千鳥いこい公園の前の道路は、かっての六郷用水の水路跡なのだそうです。歩道が何となく水路跡を埋め立てたような感じがします。

小泉次太夫物語
砂子の里

小泉次太夫は天正十八年(1590年)、徳川家康の江戸入府に随行し川崎の砂子の里に移り住みます。慶長二年(1592年)の用水開削に至るまでの約七年間の砂子の里での生活は、はっきりしていませんが、用水敷設の前提となる多摩川の水防・改修等の工事に専念していたのではないかと考えられています。

北堀のみち
六郷用水物語

六郷用水とは、六郷領(現在の大田区の平地地域)の灌漑を目的として、江戸時代初期に幕府代官小泉次太夫により開削された農業用水です。




ポイント2 ヒルズ久が原敷地内緑地

国道1号(第二京浜)に出ますと、池上警察署前交差点の角地に高層マンションが建並んだヒルズ久が原があります。



建物に囲まれた広場は公開空地になっていて、居住者の方だけでなく、部外者でも散策することが出来ます。中央には大きな池があり、噴水も備わっています。また、東屋やベンチもあり、休息することもできます。コースのビューポイントになっています。



水源はどこか分かりませんが、池には人工の水路によって水が流れ込んでいます。小さいながらも滝のような段差も付けられています。水路には橋も架けられ、遊歩道を巡ることができます。



ヒルズ久が原を出て緩やかな坂を上がった右手に、久が原南台児童公園があります。



公園の奥に久ケ原遺跡の案内板が立っています。弥生時代から古墳時代にかけて、久が原台地に多くの集落がありました。公園敷地からも竪穴式住居跡が見付かったのだそうです。

久ヶ原遺跡

久ヶ原遺跡は、この児童公園を含む久が原台地のほとんどの地域を占め、弥生時代後期(今から約1900年〜1700年前)を中心とした関東地方最大の集落遺跡です。また、南関東地方の弥生土器のうちで、もっとも整った久ヶ原式と呼ばれる土器を出土する標準的遺跡として、全国的にも有名です。久ヶ原遺跡からは、昭和はじめの耕地整理の時に、数多くの竪穴住居跡や遺物などが発見されました。その後の調査や研究により、1000軒をこえる竪穴住居があったと考えられます。この公園からは、弥生時代のおわりから古墳時代のはじめにかけての竪穴住居跡が、三軒発見されました。




公園には、土器を模した腰掛け台が置かれています。また、入口のコンクリート壁には、弥生時代の絵画が描かれています。



ポイント3 久が原さくら児童公園

久が原南台児童公園の角を右折し、区画整理された住宅地の中を進みます。久が原が高級住宅地と言われる所以です。数ブロック進んだ右手に小さな公園があります。久が原さくら児童公園には、ブランコや鉄棒の他、ベンチが幾つか設置してあります。「さくら」と冠しているので桜の木が沢山あるように思えますが、2月ということもあってあまりそういった雰囲気はありません。でも、石碑の周囲には寒い中色とりどりの花が咲いていますね。



ポイント4 久が原図書館(久が原の郷土コーナー)

久が原さくら児童公園を過ぎてそのまま進みますと、北ルートで立寄った久が原図書館の裏手に出ます。



久が原図書館は、一般の図書の他に、外国の絵本や全国の電話帳も所蔵している図書館です。何故に全国の電話帳を置いているのか謎です。



不定期ですが、久が原の郷土コーナーには久が原の歴史的な資料が展示されます。



ポイント5 樹齢600年大ケヤキ

久が原図書館の裏手からかっての水路らしき遊歩道を進んだ右手の民家の入口の脇に、樹齢600年ともいわれる欅の大木が聳えています。周囲が低層の住宅地なので、その大きさが目立ちます。上部の幹や枝は切られているように見えますが、昔はどんなに大きかったのか想像もできません。



桜の並木道(といっても桜の若木がまばらに植えられた通りですが)を進んで、呑川に架かる北の橋の西詰に出ます。



呑川(のみかわ・のみがわ)は、東京都を流れる二級河川で、呑川水系の本流です。世田谷区桜新町の東急田園都市線桜新町駅付近を水源とし、世田谷区深沢・目黒区八雲・東横線都立大学駅付近(目黒区中根付近)・大井町線緑が丘駅及び目黒線大岡山駅付近(東京工業大学付近)・大田区石川町・雪ヶ谷・久が原・池上・蒲田(JR蒲田駅・東京工科大学・日本工学院専門学校・京急蒲田駅付近)を流れ、糀谷を抜けて東京湾に注いでいます。支流として、世田谷区上馬付近を水源として目黒区東が丘・柿の木坂を経て都立大学駅付近で本流と合流する柿の木坂支流、駒沢オリンピック公園付近を起点とする駒沢支流、世田谷区奥沢の浄真寺(九品仏)付近を水源として東横線自由が丘駅南口付近を通り大井町線緑が丘駅・大岡山駅付近(東京工業大学付近)で合流する九品仏川があります。 各支流、および本流上流部(世田谷区深沢から目黒区大岡山の東京工業大学付近まで)は全て暗渠化され、下水道として利用されています。下水道は本流暗渠部の終端やや上手で呑川から離れる形になっていますが、大雨が降って処理しきれなくなると呑川(開渠部)にも越流させるため、悪臭がひどいです。川の水は常にヘドロにまみれて汚れていますので、周辺住民も「呑川は汚れているもの」という考えが根付いていて、川に対する環境感情が希薄になりがちで、ごみなどの廃棄物が多数投げ込まれています。柿の木坂支流・駒沢支流・九品仏川の3つの支流の暗渠上には緑道が設置されています。現在開渠部に見られる流水はおもに、「城南3河川清流復活事業」による高度処理水で、暗渠の終端近い東京工業大学付近から放流されています。ほかに、大田区清水窪を水源のひとつとする洗足池から流れ出る洗足流れも注ぎ込んでいて、川底や川壁から無数の湧水、大田区久が原や上池台周辺の数本の小さな支流からも水が注ぎ込んでいます。水源近くの国道246号(玉川通り)から駒沢通りまでの1km程の区間は親水公園として整備され、循環水が流されています。川に沿って桜並木になっていて、川にはカルガモも見られます。下流は、大田区東蒲田付近で旧呑川と新呑川に分流しますが、いまの流路(本流)は新呑川になっています。洪水や氾濫を防ぐために直線化した新呑川(呑川)は、羽田空港との間の海老取川に注ぎ込んでいます。世田谷区深沢付近から目黒区中根、緑が丘付近の緑道(遊歩道)も桜並木となっていて、春になるとお花見で賑わいます。また子供たちなどの遊び場になっている他、都立大学駅付近など一部が目黒区の自転車置き場としても利用されています。呑川という名称の語源として、その昔牛が誤って川に落ち水を飲んでしまうことがあったからなどといった説があります。呑川にはコイ・フナ・ボラなどの魚が生息していて、近年はウナギが見つかったこともあります。しかし、最近はミシシッピアカミミガメやガーなどの日本に居るはずの無い外来生物が見つかっています。このうち、前者の繁殖は明らかですが、後者の繁殖は確認されていません。



長栄橋西詰で左折し、大田久が原郵便局前の交差点を直進して本光寺の北側を弧を描いて回り込みます。久原小学校の手前に、久が原図書館に向かって下る急坂があります。宮坂は長さが約75mほどの緩やかな坂です。久が原東部八幡神社の前を通る坂であることから、宮坂という坂名で呼ばれています。

宮坂

久が原東部八幡神社の前の坂道で宮坂と呼ぶようになったといわれている。




坂上にある八幡神社は、奈良時代の天平神護元年(765年)9月に豊前国宇佐神宮より分霊を勧請し、久が原台地で一番高いところに奉斎し創建されました。徳川家康が江戸入府した天正十八年(1590年)に旧久ヶ原村が東の馬込領と西の六郷領に分村されることになり、村民は両村を向と原に呼び分けました。東部八幡神社は馬込領久ヶ原村(向)の鎮守とされ、六郷領の鎮守は現在の久が原西部八幡神社となりました。現在の本殿は弘化元年(1845年)、拝殿は文久二年(1862年)の造営とされています。

久が原東部八幡神社の由緒

御祭神 誉田別命(別名十五代 應神天皇)
    御神像・・・長七寸余の甲冑を帯して座せる木像鎮座

御創建の由来
御創建は天平神護年間(765年)と伝えられ、豊前(大分県)の宇佐八幡宮より御分霊を勧請奉斎、久が原台地の一番の高所に祀られた。徳川氏が入国してから、東側の馬込領(向・むかい)西側の六郷領(原・はら)二分され、当社は馬込領久が原村の「鎮守さま」として地域の住民から厚い信仰を受けて来ました。社格 明治六年村社に列せらる。本殿 切妻造、千木・堅魚木付、銅板葺、弘化元年(1844年)再建。 拝殿 入母屋造、銅板葺、唐破風向拝付、文久二年(1862年)竣功。 社殿は、本殿、幣殿、拝殿が一体化しており、規模は一番大きい拝殿は正面三間×側面二間 昭和四十二年(1967年)茅屋根の葺き替え、さらに昭和五十三年(1978年)には銅板に葺き替えられ、同時に本殿外壁の漆喰塗り工事が行われた。 昭和四十九年(1974年)二月大田区文化財指定




社殿は、本殿・幣殿・拝殿が一体化しています。

大田区文化財 社殿

本殿は、切妻造、千木・堅魚木付き。幣殿は、両下造。拝殿は入母屋造、向唐破風向拝付き。いずれも屋根は銅板葺である。社殿は、北東を正面とし、本殿・幣殿・拝殿が連結して一棟を構成している。本殿は弘化元年(1844年)の再建、拝殿は文久二年(1862年)に建てられたと伝えられる。指定当時は、厚い茅葺の入母屋造の屋根であったが、昭和五十二年(1977年)、火災予防のため、銅板に葺き替えられた。蓑甲の破風口の曲縁が深いこと、籠彫の持ち送りを多用して装飾過多であること等、江戸末期の神社建築の特色を伝えている。




ポイント6 久が原特別出張所(区民ギャラリー)

大田区では、区内の特別出張所や地域庁舎の中に区民ギャラリーを開設しています。区民ギャラリーは、区民の絵画・書・写真などの作品を展示するためのスペースです。地域の人達に文化活動の場を提供し、文化の香り豊かな街作りの拠点とするために設置されています。大田区立久原小学校の建物の中にある久が原特別出張所にも平成二十年5月に区民窓口の隣の小部屋に「区民ギャラリー久が原」が開設されました。



展示されている作品は多彩で、色彩豊かな絵画が並んでいます。それぞれにタイトルが付けられていて、絵と見比べると作者の思いが伝わってきます。



ポイント7 柳の交番

久が原三丁目交差点を左折します。久が原交番前交差点の角に交番があり、その脇に柳の木が植えられています。現在の柳の木は二代目だそうです。初代の柳の木は、昭和二十五年(1950年)に久が原交番が建てられた時に、交番を建てた大工さんが植えたものだそうです。しかし、2004年12月5日未明の強風で柳の木の上の方が折れてしまい、その後養生も空しく幹が腐って伐採されてしまいました。2009年に現在の柳の木が植えられ、「柳の交番」が復活しました。



ポイント8 ライラック並木

久が原駅に向かう「ライラック通り久が原」という小洒落た商店街が延びています。久が原は、昭和の初期頃は一面の畑や樹木が拡がる台地で、武蔵野の趣があり、狐や狸も住んでいました。当時の地名は、荘原郡池上町大字久が原字浅草となっていました。電鉄会社によって整然と区画整理がされ、昭和五年頃から少しづつ店舗ができ、昭和八年には約10店舗で商店街が設立されました。東急久が原駅の名称は、当初の末広から東調布になり、昭和九年に久が原駅となりました。平成五年に商店街のリフレッシュ事業が行なわれ、街路灯のステンレス化と装飾灯の設置、道路のカラー舗装、歩道を拡張して絵タイルの埋め込み、更にライラックの植栽をして、愛称は一般から募集して命名されました。現在では、ライラックの香る優雅な通りとなっています。ライラックは、モクセイ科の落葉広葉樹の低木で、フランス語で「リラ」とも呼ばれます。昭和二十六年に制作された岡本敦郎の「リラの花咲く頃」という歌もあります。ライラックは高さ1m〜6m位まで生長し、春から初夏にかけて、紫や白色の小さな花を穂のようにまとめてつけます。ライラックは香りのよい花として知られていて、香水やアロマオイルの原料としても利用されます。ライラックの葉はハート型をしていて、フランスでは白いライラックは青春のシンボルとして親しまれていることに因んで、「思い出」とか「青春の思い出」という恋愛にまつわる花言葉が生まれました。白いライラックについては、イギリスの悲しい伝説があります。昔々、イギリスの町娘が貴族の男性と恋に落ちて婚約しました。しかし、貴族はすぐに都会の女性へと心変わりをし、婚約を破棄してしまいます。このことにショックを受けた町娘は自殺してしまいました。その後、町娘の友人がお墓に紫のライラックを供えしたところ、次の日に花が白くなっていたそうです。ライラックの花びらは4枚ですが、ときたま花びらが5枚のものが混ざっています。5枚の花びらをもつ花を誰にもいわずに飲み込むと、愛する人と永遠に結ばれるという縁起のよい言い伝えにちなんで、「愛の芽生え」とか「初恋」という花言葉が付けられたといわれています。



歩道にタイルが埋め込んであります。

歴史探訪
久が原の歴史のシンボル、壺形土器。

久ヶ原遺跡(久が原六丁目採集)
弥生時代・後期前葉(久ヶ原式)
高城栄敦氏寄贈、久原小学校保管

ほぼ完形で、久ヶ原遺跡を代表する優品といえよう。外面の口緑、羽状縄文帯、底部付近を除く部分と、内面の口辺部に朱彩が施されている。胴下半部に径約2cmの穿孔があるが、孔を開けたことで本来の機能を無くしたものと考えられ、あるいは、日常用器としてではなく、祭祀用に用いられた土器なのかもしれない。




ゴール地点の東急池上線久が原駅に着きました。



ということで、大田区で八番目後半の「歴史と緑とふれあいの街 久が原を歩く(南ルート)」を歩き終えました。八番目のコースは、「北ルート」と「南ルート」の2コースから構成されています。引き続いて、大田区で最後のコースである「銀幕スターの街 梅屋敷駅から蒲田を歩く」を歩きます。




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