- 銀幕スターの街 梅屋敷駅から蒲田を歩く
- コース 踏破記
- 今日は太田区の「銀幕スターの街 梅屋敷駅から蒲田を歩く」を歩きます。京浜急行梅屋敷駅を出発し、梅屋敷跡の公園で開花したばかりの紅梅・白梅を愛で、松竹の蒲田撮影所跡に建てられたアロマスクエアに保存されている松竹橋で「キネマの天地」の思い出を手繰ります。最初に歩いたのは2022年の2月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年2月に改めて歩きました。
銀幕スターの街 梅屋敷駅から蒲田を歩く
南北に第一京浜・京急・JR・第二京浜、東西に環八・東急が通っている蒲田地域は、大田区の中心地域の1つです。かつて「流行は蒲田から」と言われ、多くの映画スターやヒット作がこの地で生まれました。賑やかな商業地区、閑静な住宅街そして史跡と様々な雰囲気が融合するまち並みを、ゆっくり満喫してみませんか。
「銀幕スターの街 梅屋敷駅から蒲田を歩く」の歩行距離は約3.9km(約5、570歩)、歩行時間は約59分(56分*)、消費カロリーは約176Kcalです。
注記*:(56分)は、協力団体が実際に歩いてかかった時間です。
スタート地点:京浜急行梅屋敷駅
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- ポイント1 鶴渡公園
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- ポイント2 妙典寺
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- ポイント3 (稗)田神社
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寛政十二年(1800年)に北蒲田村の氏子によって寄進。区内の石鳥居の中で古いものの一つです。
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- ポイント4 椿神社
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昔から咳止めに効く神社として知られ、お参りの際は線香をお供えするという神仏混交の珍しい風習があります。
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- ポイント5 聖蹟蒲田梅屋敷公園
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文政年間(1818年から1830年)和中散という道中常備薬を商う山本久三郎によって開かれ、明治以降も梅の名所として有名でした。現在の公園はその一部です。
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- ポイント6 北野神社
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- ポイント7 夫婦橋親水公園(ビューポイント)
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現在の夫婦橋は昭和五十八年(1983年)に新しく架け替えられたものですが、昔の夫婦橋の親柱が公園内に保存されています。春は桜、秋はイチョウが楽しめます。
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- ポイント8 弾正橋
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- ポイント9 妙安寺・蒲田八幡神社
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- ポイント10 京浜蒲田公園
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- ポイント11 松竹橋(アロマスクエア)
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蒲田撮影所の跡地に建ったアロマスクエアの敷地内に、映画「キネマの天地」で使用された松竹橋の再現が残されています。
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ゴール地点:JR蒲田駅東口
スタート地点の京浜急行梅屋敷駅から歩き始めます。
駅前に、梅屋敷の歴史を解説した案内板が立っています。案内板には当時の写真も添えられています。
梅屋敷
200年ほど前に内服薬の「和中散」を販売した山本家が作った庭園で、東海道を行きかう旅人を相手に街道の休み茶屋として、数百本の梅が植えられ、“梅屋敷”と呼ばれ多くの人に親しまれた。明治天皇もしばしば訪れたことから後年、聖蹟蒲田梅屋敷公園となった。公園内には池があり、その回りには遊歩道がある。梅は古くから大田区の土地になじみ、花は清楚にして気品に満ち、早春の寒さに負けず咲く風情が大田区にふさわしいとされ、「区の花」にもなっている。
Umeyashiki, Plum tree house
Umeyashiki was the garden once owned by the Yamamoto family, who were chemist's and
sold "Wachusan", an internal remedy 200 years old. People who travelled to Tokaido rested in this garden. For their comfort, hundreds of Plum trees were planted there and it became familiar to the people of the district under the name of "Umeyashiki, Plum tree house". The Meiji emperor often visited this garden, and it later became a city park called "Seiseki Kamata Umeyashiki Park". In the garden there is a pond and around the pond there are many paths for strolling. Plum trees have always been familiar in Ota and their flowers are pure and elegant. It begins to bloom in early spring and seems to thrive even in cold weather. So people thinks it suitable for Ota city's symbol flower. And now it becomes city flower.
- ポイント1 鶴渡公園
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駅前から国道15号第一京浜に出て少し東京よりに進み、左折して古い木造住宅の建並んだ裏通りを抜けて鶴渡公園に向かいます。鶴渡公園の中央には円形の水の広場があり、鶴モチーフのオブジェは夏には噴水となって水遊びができるので小さな子どもたちにも人気です。多目的広場には弓型をしたシーソーがあり、ブランコや滑り台などの遊具も設置されています。園内にはサクラやケヤキやヒマラヤスギなどの樹木もあり、季節を感じながらゆっくりと過ごすことができます。「鶴渡」という名前は、徳川吉宗や歴代の将軍が鷹狩りを楽しんだ事に由来するそうです。
「ぷらもーる梅屋敷」商店街を横切って妙典寺に向かいます。「ぷらもーる梅屋敷」は、梅屋敷駅前の一番街から始まり、東邦医大通り手前の五番街に至る、全長555m・約140余店を有する商店街です。商店街は昭和五十七年に愛称を公募し、応募総数350通の中から「梅=プラム」をとった「プラムモール梅屋敷」が選ばれ、親しみやすさと呼びやすさを考慮して「ぷらもーる梅屋敷」に決定しました。
- ポイント2 妙典寺
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妙典寺の創建年代は不明ですが、日饒が中興したとされていることから、室町時代には既に存在していたと推測されます。元々は天台宗の寺院で、「妙田寺」という名称でしたが、日饒によって日蓮宗に転宗し、「妙典寺」に改称されました。江戸時代には、池上本門寺の有力末寺とされ、近隣の末寺に対して指導的役割を果たしたといわれています。堂宇は戦災で焼失しましたが、昭和二十七年に本堂が再建され、平成十一年には山門が新築されています。
菩薩様を洗い清めると、自身の病や痛みが治るそうです。
浄行菩薩
浄行菩薩は法華経にでてくる菩薩で、法華経の教えを末法のひとびとに伝える役目をもった地涌の菩薩たちの代表者の一人です。この仏様は“お地蔵さま”であったり、又は“浄行さま”とよばれる菩薩さまのときもあります。この仏様の身体を洗いきよめることによって、自分の身体の病いや痛みを治してもらおうという「なで仏」の信仰と「水垢離」の信仰とがむすびついて「あらい仏」の信仰が出てきたのです。お地蔵さまも衆生の悩みをすくおうという慈悲心の本願をたてられている仏様として「あらい仏」にえらばれたものです。
妙典寺から(稗)田神社に行くには住宅地の路地のどこかで左折するのですが、結構迷いやすいので、蒲田二丁目児童公園を目印にするのがいいと思います。
- ポイント3 (稗)田神社
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(稗)田神社は、和銅二年(709年)に行基が天照・八幡・春日の三神体を造り、本社に安置したのが始まりとされています。その後、弘安五年(1282年)に日蓮が池上宗仲の邸に入った時に、村民の要請によってこの三神は改めて日蓮によって開眼されました。
大田区文化財
(稗)田神社
式内社と呼ばれる古い格式をもつ神社である。平安時代(十世紀)に編纂された「延喜式」の神明帳に記載され、また「三代実録」に貞観六年(864年)「武蔵国従五位下蒲田神を以て並びに官社に列す」とあるのが、この神社であろうといわれる。社伝によれば、和銅二年(709年)僧行基が天照、八幡、春日の三神体を刻んで安置し、鎌倉時代(十三世紀後半)に日蓮が村民の請いをいれて開眼したと伝えられる。江戸時代(十七〜十九世紀後半)には隣接の栄林寺が別当であったが、明治初年(十九世紀後半)の神仏分離により独立し、旧社格は郷社に定められた。
境内の入口に建つ石鳥居は大田区内でも古いもののひとつで、寛政十二年(1800年)に北蒲田村の氏子によって寄進され、区の文化財にも指定されています。
大田区文化財
(稗)田神社の石鳥居
花崗岩製、明神型鳥居。高さ310センチ、柱間314センチ。笠木は、全体にゆるやかな反りをもって、柱とのつりあいもよく、安定した姿を見せる。柱背面の銘文から、寛政十二年(1800年)、北蒲田村の氏子により寄進されたことがわかる。区内の鳥居では古いものの一つであり、貴重である。また一方の銘文には「蒲田井郷(稗)田神社」と刻まれる。蒲田井は「ほたい」と読むといい、(稗)田神社は蒲田神社と呼ばれたと伝えられる。蒲の古字といわれる(稗)の字が当てられたことから、「ひえた」の発音に変化したと考えられる。
社殿は昭和二十年(1945年)の戦災で焼失しましたが、昭和二十九年(1954年)に再建され、平成十二年(2000年)に鉄筋コンクリート造の現在の社殿に造り替えられました。社殿の前には、昭和三十四年(1959年)に奉納された狛犬が境内を悪い気から守っています。神社の由緒を記した巨大な石碑が建っています。
由緒
主祭神 誉田別命
相 殿 天照大神 武内宿禰命 荒木田襲津彦命 春日大神
例祭日 九月十五日
抑も当社は三代実録延喜式その他の古文書に明記せられたる由緒深き所謂延喜式内の神社にして蒲田創草の古社なり。和銅二年(709年)僧行基は天照・八幡・春日の三神体を造り本社に安置す。後年僧日蓮は池上宗仲の舘に入るに及び村民の請を容れ改めて開眼すると伝う。清和天皇貞観六年(864年)官社に列し従五位下を賜り明治五年十月郷社に定めらる。安政四年(1857年)拝殿を改築、元治二年(1865年)本殿を改築、昭和四年拝殿・幣殿を改築、昭和九年本殿屋根葺き替え及び神楽殿を新築す。昭和二十年四月十五日戦災のため灰燼に帰す。昭和二十一年九月十五日仮本殿を再建し、昭和二十九年八月十五日本殿・幣殿・拝殿を新築す。
社殿の右側には境内社が並び、左から薬祖神社・稲荷神社・三十番神社が鎮座しています。薬祖神社には地主神が祀られていると伝わっています。稲荷神社には伏見稲荷大社と同じ宇迦御魂命が祀られています。三十番神社には国家や国民などを守護するとされた三十柱の神々が祀られています。
(稗)田神社と道ひとつ隔てて栄林寺があります。栄林寺は(稗)田神社の別当寺でした。
少し戻った角に、円頓寺があります。小田原北条氏分国の頃、荏原郡南部に行方氏という豪族がいました。行方氏は最初は上杉氏の家人でしたが、後に北条氏に属し、永禄年間(1558年〜1569年)の弾正明連の代には八幡塚・高畑・吉川・町屋・道塚・雑色の6郷と大師河原を合せて361貫24文の地の領主でした。明連の子孫は修理亮義安・弾正忠直清と引続きこの地を知行していましたが、直清は天正十八年(1590年)に北条氏が滅亡した際に小田原攻めの先鋒上杉景勝・前田利家等の諸将の軍と戦い、一門の郎党と共にその館において討死しました。直清の弟は池上本願寺に逃れ出家して日芸と名乗り、文禄元年(1592年)に日芸は兄弾正忠直清と一門の追善菩握のために旧館跡に1宇を建立し、寺名を直清の法名である性光院殿円安行頓日方居士からとって性光山円頓寺と号しました。
境内には、日芸と兄の行方直清の供養塔があります。行方弾正直清は後北条氏の家臣で、六郷領を支配していた領主ですが、天正十八年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めの際に討ち死にしたと伝えられています。この石塔は、弟の日芸が直清や行方一族の供養のために建てたものです。
大田区文化財
行方弾正直清供養塔
行方弾正直清は、後北条氏の家臣で、この辺りの六郷領を支配していた。直清は天正十八年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐の際に討ち死にしたと伝えられる。当寺は行方弾正の居屋敷跡で、その中興開祖である日芸(寛永二十年=1643年没)が、直清の供養のためにこの塔を建立したことが、碑面に刻まれた銘文からわかる。寺伝によれば、日芸は直清の弟で、出家後、旧宅を寺院とし、その中興開祖となった。
- ポイント4 椿神社
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円頓寺から国道15号第一京浜に向かう途中の左手に古ぼけた神社があります。
椿神社の創建年代は不詳ですが、百日咳の治癒に御神験あらたかなりしとして古くから土地の人の信仰を集めています。
大田区文化財
除病習俗
風邪、百日咳、喘息などにかかると、境内の額堂に奉納されている麻を借り受けて、病人の首に巻くと咳が止まると言い伝えられ、病気が治ると、祈願者は新しい麻を奉納するという現世利益的な習俗が行われている。しかも神社であるのに、祈願者は社前に線香を供えるという神仏混交の習俗が、今なお存続している例として興味深いものがある。また、かつては足の病気が治るようにワラジを奉納して祈願するものもあったという。神社の祭神は、猿田彦命とされているが、本来は道祖神(道や旅人を守護する神)をまつったもので、土地の人は「ドウソジンサマ」「ドウロクジンサマ」と呼んできた。
- ポイント5 聖蹟蒲田梅屋敷公園
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第一京浜に面して、梅屋敷駅の駅名の由来ともなった梅屋敷跡に造られた聖蹟蒲田梅屋敷公園があります。梅屋敷は、江戸時代に薬屋を営んでいた山本久三郎が文政年間に梅を始めとする多くの木を植え、茶屋を開いたことが起源とされています。
梅屋敷の由来
梅屋敷は、山本忠左衛門が和中散(道中の常備薬)売薬所を開いた敷地三千坪に、その子久三郎が文政の頃(1818年〜1829年)に、梅の木百本をはじめとしてかきつばたなどの花々を植え、東海道の休み茶屋を開いたことに始まるといわれています。当時は後の十二代将軍徳川家慶が鷹狩りの休み所とした程の屋敷で、その雅趣ある風情は多くの文人、行楽客、東海道の旅人を集め、とくに梅の開花期には非常なにぎわいを見せたようでした。
和中散売薬所跡の案内板も立っています。
大田区文化財
梅屋敷と和中散売薬所跡
「和中散」は、食あたり、暑気あたり等に効く、道中常備薬としてつくられ、旅人に珍重された。元禄から正徳にかけて(1688年〜1716年)大森村中原、谷戸、南原に三店が開業した。このうち南原にあった店が、のちに北蒲田村の忠左衛門に譲られ、この地に移転したという。文政年間(1818年〜1830年)の初め、忠左衛門の子の久三郎の代に、庭園に梅の名木を集めて、休み茶屋を開いた。亀戸の梅林とともに梅の名所「梅屋敷」として有名になり、広重の浮世絵にも描かれた。
明治元年(1868年)から明治三十年(1897年)にかけて、明治天皇の9度の行幸があり、明治六年(1873年)3月6日の観梅の際には小梅一株を自ら手植えされました。この梅は「仙粧梅」と称されました。
明治天皇と梅屋敷
梅屋敷は、明治元年(1868年)から明治三十年(1897年)の間に天皇の五度の行幸がありました。天皇はことのほか梅屋敷の風致を好まれ、明治六年(1873年)三月六日のご観梅のときには小梅一株をみずからお手植なされ、この梅は仙粧梅と称されて後に人々に愛されたといわれています。その後昭和八年(1933年)に史蹟として保存指定を受け、昭和十三年(1938年)に東京市へ寄付、さらに昭和二十八年(1953年)に大田区に譲与され、現在に至っています。
私が訪れたのは2月中旬で、梅は五分咲きといった感じでした。
園内には、幾つかの歌碑・句碑が建っています。山本久蔵は、山本忠左衛門の子の山本久三郎とのことです。
山本久蔵の句碑
この句碑は、天保五年(1834年)にこの梅屋敷と関係の深い山本久蔵が建立したものです。文面は
神酒ささぐ間に鶯の初音かな
麦住亭梅久
とあります。戦前には他にも江戸時代の多くの句碑が残されていましたが、戦後の混乱期に姿を消してしまいました。
山本久蔵のもうひとつの句碑も建っています。
梅路、梅志の句碑
この句碑は弘化三年(1846年)山本久蔵が梅路と号し、建立したものといわれています。
しら梅の 梢や月の高みくら
七十五歳 梅路
松竹は表にうらハ梅の春
六十五歳 梅志
弘化三のとしきく月 梅家女誌
また梅路、梅志の墓は蒲田の妙典寺にあり、その墓石にも句碑が刻されています。
鹿津部真顔は狂歌堂と号し、天明二年(1782年)に狂歌界へ入り、天明四年(1784年)頃に大田南畝の門下となりました。やがて、宿屋飯盛・頭光・金将らと狂歌四天王と称され、飯盛と化成期の狂歌界を二分しました。
狂歌堂真顔の歌碑(復元)
昔、梅屋敷の園内には数多くの碑石がありましたが、所有者が移った時や戦後の混乱期に姿を消してしまいました。この歌碑はそれらの一つを資料をもとに復元したものです。文面は、
旅人の神に手向の幣代や
白絹咲きし庭中の梅
狂歌堂真顔
であったと伝えられています。
復元された里程標も建てられています。
里程標(復元)
昔、梅屋敷山本家の門の横に自然石の里程標の石碑がありました。その高さは一メートルほどでその表面には、
蒲田村
距日本橋三里十八丁
山本屋
と刻されていたと伝えられています。木戸孝充、伊藤博文らが梅屋敷で新年宴会を開いた際、二人が合作した一幅中の木戸孝充の画にも描かれていました。戦後里程標は姿を消しましたが資料をもとに復元しました。
梅林だけでなく、あやめ畑もあります。かって、梅屋敷には「かきつばた」も植えられていました。「いずれがあやめか、かきつばた」と言われるほど両者は似ています。関係あるかどうか分かりませんが。
蒲田とあやめ
明治三十五年、現在の大田区立蒲田小学校付近に蒲田菖蒲園が開設された。6月になると、「あやめ」の花が一面に咲き誇り、遠方からも見物客が訪れ、外国人も好んで立ち寄るほど蒲田はかつて「あやめ」がまちのシンボルであった。一方、平成二十八年四月、山形県長井市と「災害時における相互応援に関する協定」を締結した。山形県長井市も「あやめ」がまちのシンボルになっており、市内には日本有数のあやめ公園があり、長井独自の品種である長井古種が植えられている。共に「あやめ」がシンボルとなっており、山形県長井市とのご縁が出来たことを記念して、ここに山形県長井市より取り寄せた長井古種である「あやめ」を植栽した。
聖蹟蒲田梅屋敷公園を出て第一京浜を歩道橋で渡り、大田区総合体育館を回り込んで路地を抜けて呑川に向かいます。大正湯の高い煙突が目印です。
天神橋で呑川を渡ります。呑川の下流域では、洪水・氾濫が多発したことで、 昭和十六年(1941年)に現在の新呑川が整備されました。かつての呑川の流れ(旧呑川)との分岐点は天神橋近くの東蒲中学校付近で、旧呑川は水質悪化のために東京オリンピックを機に昭和三十年代から徐々に埋立てが始まり、昭和五十一年までに全区間が埋め立てられ、跡地は旧呑川緑地になっています。昭和島の目の前となる河口のごく一部は開渠となっていて、人道避難橋の横に水門が設けられています。
天神橋の下流にある橋が清水橋で、その先の東蒲中学校付近から旧呑川が分流しているようです。
- ポイント6 北野神社
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天神橋の南詰から階段を下りたところに北野神社があります。鳥居は階段下にあり、そこから社殿に向かって参道が延びています。神社が創建された当時は地面と同じ高さだったのでしょうけど、その後に堤防が嵩上げされてこんな歪な恰好になったのでしょう。
寛文元年(1661年)、北蒲田村の杉原重右衛門が邸内に諏訪神社を勧請しました。その後、呑川の洪水によって、池上の麓の天神山の森から矢口村が祀っていた天神様の御神体が度々流されて杉原重右衛門の邸宅前に流れ着きました。杉原家ではその都度矢口村に天神様を返しましたが、ついにそれが七度目になったため、嘉永二年(1849年)に矢口村と話し合い、杉原家邸内の諏訪神社の傍らに社を建てて蒲田井府天満宮と称しました。明治六年(1873年)、諏訪神社は北野神社と改称され、その後、蒲田井府天満宮を合祀しました。境内地は杉原家から寄進されましたが、昔は呑川の北側に位置していたものの、呑川の改修工事によって現在のように南側になりました。昭和二十年(1945年)空襲で社殿が焼失しましたが、昭和四十五年(1970年)に再建されました。
北野神社由緒
祭神 菅原道真公 建御名方命
例祭日 四月十七日
抑當社は寛文元年北蒲田村字宿南の杉原重右衛門邸宅に諏訪神社(建御名方命)の奉斎を草創とす。嘉永二年三度にわたる呑川の洪水により、矢口村天神森に鎮座せる舍(天神様)三度共杉原宅に流れ来り。村民十一戸は矢口村と交渉の上、諏訪社の傍に社を建てゝ神体を安置し名称を井府天神とす。明治年中諏訪神社・稲荷神社を合祀し、北野神社と総称す。其の後呑川の改修工事により現在のごとく呑川の南側境内となる。昭和二十年四月十五日戦災により御社殿烏有に帰した為昭和四十五年五月御社殿を復興し遷宮祭を執行す。
- ポイント7 夫婦橋親水公園
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北野神社から呑川の上流に向かって川沿いに進むと、第一京浜の手前に夫婦橋親水公園があります。
呑川は、養源寺橋の上流部から夫婦橋まで「六郷用水」と一体となって流れ、夫婦橋(古くは女夫橋と呼んでいました)の上流に「夫婦橋の堰」を築いて河口からの海水(潮)を防ぎ、農業用灌漑用水としての重要な役割を果たしていました。この堰は呑川にほぼ並行して西流する「松葉用水」への水の流下を助けていました。夫婦橋の嬌名は、呑川本流と松葉用水を渡る橋が相接して架かっていた形に由来します。
呑川の栄養豊富な水により、大森海岸の海苔養殖が発展しました。「べか舟(海苔採り伝馬と呼ばれる幅が狭い一人乗りの舟)」が活躍し、採取した海苔を陸揚げする場所となる共同荷揚場ができました。夫婦橋親水公園は共同荷揚場の跡地に造られました。かつての共同荷揚場を親水公園にしたのは、震災などの非常災害時に船による物資などの輸送ができる重要拠点としての機能をもたせたからです。防災施設として、太陽光・風力発電システムや東京都が管理する水防倉庫を設置されています。通常は親水護岸・親水テラスとなっていますが、いざというときにはここに荷揚げするというスペースとなっているのです。親水テラスからは水面を真近に見ることができ、鳥なども観測できます。ブランコ・スプリング遊具・滑り台・三角のハンガーのような形をした珍しい形の雲梯など、幼児も遊べる遊具広場もあります。親水テラスからの眺めは、このコースのビューポイントになっています(註*)。
(註*)
呑川の夫婦橋から天神橋までの区間では、現在防潮堤の耐震補強工事が行なわれていて、夫婦橋親水公園は資材置き場になっています。そのため公園内への立入りは出来ず、上の写真はその前に立寄った時の公園の様子です。
- ポイント8 弾正橋
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弾正橋の橋名は、行方弾正直清に由来しています。行方弾正直清は、後北条氏の家臣として仕え、六郷領一帯(蒲田から六郷地域)を支配する領主でした。直清は、現在の円頓寺がある辺りに屋敷を構えていましたが、天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際に討ち死にしました。その後、直清の弟の日芸が屋敷跡に円頓寺を創建し、供養塔を建立したとされています。呑川を渡った円頓寺に通じる道は、行方弾正直清との縁の深さから弾正道と呼ばれており、この橋の名のいわれとなっています。
弾正橋の袂に案内板が立っています。
蒲田里梅園と行方弾正宅跡(江戸名所図会より)
この絵は江戸時代後期に刊行された江戸名所図会の一枚です。上段に、かつて梅屋敷と呼ばれた助左衛門の屋敷周辺の梅園B(現蒲田1丁目30番、蒲田小学校付近)、下中央に行方弾正宅跡として円頓寺Aが描かれています。上記の俳句「梅干を 見知て居か 梅の花」の作者嵐雪(1654年〜1707年)は、松尾芭蕉の高弟でした。
@弾正橋 A円頓寺 B梅園
明治〜大正の蒲田
この絵は地元の郷土史料家が明治後期から大正時代の蒲田地域を描いたものです。左上から右下にかけて呑川が流れ、左縦に現在のJR線、右縦に京浜急行線、下中央に菖蒲園、下右の呑川と京浜急行線の交差部の左側が旧弾正橋@の位置で、中央の少し右に弾正橋の名前の由来となった行方弾正直清宅跡の円頓寺Aが見られます。
@弾正橋 A円頓寺
京浜急行の京急蒲田駅の西側に沿って妙安寺・蒲田八幡神社に向かいます。京急蒲田駅は京急空港線の高架化によって大きく変貌しました。
京急蒲田駅付近連続立体交差事業
京浜急行線の連続立体交差事業は京浜急行電鉄本線の平和島駅から六郷土手駅、及び同空港線の京急蒲田駅から大鳥居駅までの区間を連続的に立体交差化したものです。平成十二年12月から事業を進め、平成二十四年10月に事業区間の上下線が高架化されました。第一京浜や環状八号線を含む、28箇所の踏切道が除却され、踏切事故や交通渋滞が解消されました。地上にあった京急蒲田駅は、上下線を分離した2層高架駅になりました。
The Continuous Grade-Separated Crossings Project in the Keikyu-Kamata Station Area
The Keihin Kyuko Line continuous grade-separated crossings project has installed grade-separated crossings throughout the section of the Keihin Kyuko electric railway Main Line stretching from Heiwajima Station to Rokugodote Station, as well as on the Airport Line from Keikyu-Kamata Station to Otorii Station. Construction works started in December 2000, and by October 2012 all of the inbound and outbound lines within the confines of the project had been elevated. 28 railway crossings have been removed (including some which intersected with Daiichikeihin Ave. and Kanpachi-dori Ave.)
and crossing accidents as well as traffic jams have been eliminated. Keikyu-Kamata Station, which used to be on ground level, has now been elevated and split into 2 levels of railway tracks.
- ポイント9 妙安寺・蒲田八幡神社
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妙安寺は、永禄年間(1558年〜1569年)に此の地の地頭であった行方修理亮義安が討ち死した後、室の円光院妙安尼が兄の斉藤政賢の屋敷内に開創した庵室が起源とされています。天正十七年(1589年)、日建が池上本門寺妙本寺両山十一世の日現を勧請開山として寺に改めました。
山門の前に案内板が立っています。石碑は題目塔で、妙安尼の供養塔は墓地にあるようです。
大田区文化財 妙安尼供養塔
宝篋印塔、高さ124センチ。
後北条氏の被官人、当地の地頭行方修理亮義安の室、妙安尼の供養塔である。妙安尼は、義安の死後この地の豪族、兄斉藤政賢の屋敷内に庵を結び、池上本門寺十二世日現に帰依し、天正十七年(1589年)に没した。その後この庵室が妙安寺となった。この供養塔は、台石の銘文により寛永二十年(1643年)に造立されたと考えられる。
大田区文化財 日蓮聖人坐像(非公開)
桧材寄木造、彩色、玉眼。
像高36.7センチ。
台座の裏に、慶長十七年(1612年)石井新右衛門尉の発願によって造立された旨の墨書銘がある。この周辺に石井姓は多いが、石井新右衛門尉については明らかでない。後年修理塗替えが施されている。在銘の祖師像として、本区では池上本門寺祖師像に次ぐ古いものである。
妙安寺の隣に蒲田八幡神社があります。蒲田八幡神社の創建年代は不詳ですが、境内に小円墳があったこと、言い伝えや伝承・史実などから、相当古くから村人の信仰の場であったとされています。荏原郡蒲田村から新宿村に分村するに際し、鎮守の神として、(稗)田神社から行基作の神体三座のひとつである春日の像一体を分かち祀ったところ、霊験あらたかであったといいます。分村の時期は諸説ありますが、慶長五年(1600年)を蒲田八幡神社の鎮座年と推定し、2000年に御鎮座400年祭が行われました。春日の像は明治時代の神仏分離によって別当寺だった妙安寺に移されましたが、第二次世界大戦の戦災によって消失しました。当初は新宿八幡神社と通称していましたが、戦後になって蒲田八幡神社に改称しました。
蒲田八幡神社由緒
祭神 誉田別命
例祭 八月八日
抑當社は、宇佐八幡宮を勧請せる由緒深き神社にして、其の年暦を傳へざるも更に古社なることは、境内小圓墳傳説等史實の明示するところなり。案ずるに、當地既に新石器時代より住民の生活するところとなり、縄文式文化とともに原始信仰の発祥をきたし、農耕の興りし弥生式文化時代を経て、齋場の形作られし聖地なり。慶長年間、新宿分村に際し、行基作の神體三座の中春日の像一體を(稗)田神社より分ち、鎮守神體とせしに神霊あらたかなりしと傳ふ。明治維新となり、神佛分離により春日の像を別當妙安寺に安置す。昭和二十年四月十五日戦災に遭遇せるも忽ち再建の気運勃興せり。戦後、復興し行く蒲田の中心なるを以て、昭和二十四年八月新宿八幡神社を改め蒲田八幡神社と稱へ、氏子崇敬者の奉賛に依り昭和三十三年八月八日御社殿復興遷宮祭を執行す。
現在の社殿は、昭和三十三年(1958年)に新築されました。平成十二年(2000年)に鎮座400年祭を行なった際の記念碑が建っています。
蒲田八幡神社御鎮座四百年祭 記念碑
「日本書紀」の記載によると、本年(平成十二年)西暦2000年は、八幡さま(応神天皇=誉田別尊)がお生まれになってから、1800年と言う記念すべき節目の年に当ります。当地域の街道は、天喜五年(1057年)源頼義、義家父子が奥州鎮定におもむいた時、多摩川六郷の渡しを通り、八幡塚(六郷神社)の杉の木に白旗をかかげて戦勝祈願をしたと伝えられ、又徳川家康が江戸入府以来東西の交通の要衝として急激に開発が進み、慶長五年(1600年)関ヶ原に出陣した時にも、この街道を通ったのであります。当蒲田八幡神社の境内には古代の遺跡があって、斎祀が行われていたと伝承されていました。すでに蒲田の村落が形成されていましたが慶長五年に分村して、北蒲田と新宿とになるに当り、古代からの斎場に、鎮守「新宿八幡神社」として「(稗)田神社」=「和銅二年(709年)創建」より御分霊を迎えて氏神様として尊崇を受けてきました。昭和二十四年八月新宿八幡神社を改め、蒲田八幡神社と称えることになり、氏子中の繁栄と激動の時代を常に守護されてまいりました。本年は、慶長五年(1600年)より御創建400年祭を迎えるに当り、記念事業を興して奉祝例大祭を執り行いました。
- ポイント10 京浜蒲田公園
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蒲田八幡神社の裏門の先に京浜蒲田公園があります。以前の京浜蒲田公園は薄暗い雰囲気であまり評判は良くありませんでしたが、「子供が安心して集まれる魅力ある公園」を目指して令和五年(2023年)4月1日にリニューアルオープンした後には明るくて綺麗で子供たちも安心して遊べる公園へと変わりました。
2022年2月に訪れた時の公園の様子です。
2025年2月に訪れた時の公園の様子です。
園内には海の生き物をテーマにした様々な遊具や自由広場を設けていて、幅広い年代の人達が楽しめる場所となっています。特に大海原をイメージして造られた波のオブジェは、すべり台とボルダリングが併設されており、まるで壁面に描かれた海の生き物が透けて見えるような透明感と迫力さが見どころです。暖かい季節には地面から水が噴き出すタイプの噴水もあり、触れたり見たりして楽しめます。
京浜蒲田公園を出て「俺のやきとり・俺の焼肉」を横目に見ながら、ビルの谷間を曲がりくねりながら延びる「さかさ(逆)川通り」に入ります。通りの両側に飲食店が並んでいますが、ここではこの地域の諸団体を中心に「蒲田東口おいしい道計画」に基づく取り組みがなされていて、官民学の連携の下で、街路とパブリックスペースの活用を通して蒲田東口地区の活性化を目指しています。
逆川は、かつての六郷用水の支流でした。六郷用水が昭和二十年に廃止された後も湧水があったようで、短い川として残っていましたが、昭和三十年代には消滅しました。その流路の跡地が「さかさ川通り」になりました。道筋がうねっているのも川の流れの跡をなぞっているのかもしれません。
- ポイント11 松竹橋(アロマスクエア)
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さかさ川通りの突き当たりに、戦前は「松竹キネマ蒲田撮影所(松竹蒲田撮影所)」がありました。松竹蒲田撮影所が大船に移転した後は高砂香料工業の工場用地になりましたが、その跡地を大田区と日本生命が共同で再開発し、高砂香料にちなんで「アロマ」スクエアの名前が付けられました。敷地の中央には、清水建設が施工して平成十年(1998年)10月に竣工した、地上18階・地下3階・塔屋1階・高さ82.3mのニッセイアロマスクエアが聳えています。
ニッセイアロマスクエアの隣には、大田区民ホールの「アプリコ」の建物があります。地上5階・地下1階・塔屋1階で、収容人数・舞台設備・その他ホール付帯設備の充実度に対して貸出料金が割安なこともあって、演劇やコンサートなどの商業公演の他、多くの催し物が開催されています。
敷地内の公園には、映画「キネマの天地」で使用された松竹橋のレプリカが設置されています。また、アプリコのエントランスには松竹橋の実物の親柱が設置されていて、地下1階には松竹蒲田撮影所のジオラマも展示されています。
公園の淵に沿って、逆川をイメージした川の流れがデザインされています。松竹橋は、かって松竹蒲田撮影所の正門前を流れていたのです。
蒲田撮影所と松竹橋
当地には、かつて、松竹キネマ蒲田撮影所があり、大正九年(1920年)から、神奈川県大船に移る昭和十一年(1936年)までの十七年の間、ここから幾多の名作が世に送り出され、我が国の映画文化の発展に大きく寄与し、蒲田は「キネマの都」として全国にその名を知られるようになりました。ここに置かれた橋は、当時、撮影所の正門前を流れていた逆川(さかさがわ)に架かっていた「松竹橋」を模したもので、撮影所が当地を去った五十年後の昭和六十一年(1986年)に公開された映画「キネマの天地」の撮影に使われました。よって、この地にこれを復元し、「松竹映画発祥の地」として末永く記念するものであります。
アロマスクエアの直ぐ先に大田区役所があります。大田区の散歩道を歩こうと思った時に、ガイドブックを頂きに窓口に来ました。そのガイドブックですが、現在は紙の配布を止めてネットからダウンロードするようになっているのだそうです。他区に住んでいる人間が言うのも何ですが、予算を工面して復活してもらえると多くの人が助かると思うのですが。
ゴール地点のJR蒲田駅に着きました。
ということで、大田区で最後の「銀幕スターの街 梅屋敷駅から蒲田を歩く」を歩き終えました。次は江東区の最初のコースである「玄武@下町亀戸ご利益・グルメ満喫」を歩きます。
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