玄武@下町亀戸ご利益・グルメ満喫  

コース 踏破記  

今日は江東区の「玄武@下町亀戸ご利益・グルメ満喫」を歩きます。JR総武線亀戸駅から江戸の三大梅の名所の亀戸梅屋敷、スポーツの神様香取神社、旧柳島の総鎮守の江東天祖神社、俳句と萩の龍眼寺、そして最後に亀戸の天神さまの亀戸天神社を巡る有難いお散歩です。最初に歩いたのは2022年の2月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年2月に改めて歩きました。

玄武@下町亀戸ご利益・グルメ満喫

下町らしい風景の中を歩くコースです。スカイツリーをながめながら神社をめぐるという新旧のアンバランスが楽しいコースです。

「玄武@下町亀戸ご利益・グルメ満喫」の歩行距離は約4.0km(約5、720歩)、歩行時間は約1時間、消費カロリーは約180Kcalです。

スタート地点:JR総武線亀戸駅北口
ポイント1 亀戸梅屋敷
歌川広重の浮世絵をモチーフにした屋敷に、観光案内所やお店、寄席が集合。
ポイント2 香取神社
古くから武道家達の崇敬を受けた神社。今は「スポーツ振興の神」として有名です。
ポイント3 江東天祖神社
創建は推古天皇の時代、とのこと。現在の社殿は日本初の鉄骨筋コンクリート製。
ポイント4 龍眼寺
「江戸名所図会」にも描かれた古寺。鯉&東京スカイツリーのコラボも!
ポイント5 亀戸天神社
菅原道真公を祀る神社。太宰府天満宮を模した太鼓橋や心字池、藤棚などが見どころ。

ゴール地点:JR総武線亀戸駅北口


スタート地点のJR総武線亀戸駅北口から歩き始めます。



「四神」とは、中国で古代から伝えられてきた天の四方(東西南北)を司る霊獣で、
北=「玄武」
東=「青龍」
南=「朱雀」
西=「白虎」
とされています。江東区には四神をモチーフにしたモニュメントが区内の東西南北各地域に配置されています。江東区最初のコースである「下町亀戸ご利益・グルメ満喫」は亀戸駅の北側を巡りますので、四神のうちの「北=玄武」の出番です。玄武のモニュメントは、亀戸駅前公園の池の中に置かれています。

玄武(げんぶ)

天の四方の方角をつかさどる神のうち、北の方角を守護するといわれる。中国古代の思想に由来する「四神(しじん)」のひとつ。




ちなみに、玄武とは「北方を守護する水神」で、「玄」は黒を意味し、黒は五行説では北方の色とされ、水を表します。亀蛇合体像の形をとり、脚の長い亀に蛇が巻き付いた姿で描かれたり、尾が蛇となっている場合などもあります。古代中国において、亀は「長寿と不死」の象徴、蛇は「生殖と繁殖」の象徴で、後漢末の魏伯陽は「周易参同契」で、玄武の亀と蛇の合わさった姿を、「玄武は亀蛇、共に寄り添い、もって牡牝となし、後につがいとなる」と、陰陽が合わさる様子に例えています。でも、この玄武像には羽らしきものが亀の甲に付いていますが、どこから見ても蛇は見当たりませんね。



亀戸駅前通り商店街を北に進みます。今は梅の開花の時期で、亀戸天神社では「梅まつり」が開催されています。



ポイント1 亀戸梅屋敷

蔵前橋通りと交差する亀戸四丁目交差点の角に、亀戸梅屋敷を再現した施設があります。

亀戸梅屋敷

亀戸梅屋敷は亀戸の地元住民、観光客向けの交流拠点として平成二十五年(2013年)3月に開館しました。江戸時代、亀戸にあった「梅屋敷」にちなんで建設され、買う、食べる、楽しむ、休むといった亀戸の憩いの場となっています。

Kameido Umeyashiki

Kameido Umeyashiki opened in March of 2015 to serve as a crossroad of interaction for locals and tourists alike. The facility is great for shopping, dining, and enjoying the wonderful charms of Kameido, and also has as a rest area that can be used by anyone. It is named for the "Umeyashiki" (Plum Manor) that existed during the Edo period.




櫓の脇に案内板が立っています。

江戸の賑わい処 「亀戸梅屋敷」

江戸時代、亀戸には呉服商・伊勢屋彦右衛門の別荘があり、その庭には見事な梅の木々が生えていました。立春の頃になると江戸中から人々が舟でやってきて、この地はたいそう賑わったといいます。特に「臥竜梅」と呼ばれた一株が名高く、水戸光圀や徳川吉宗も賞賛したそうです。また歌川広重により描かれた浮世絵「亀戸梅屋敷」は、江戸の時代に海を越え、かのゴッホが模写するなど、日本のみならず世界から評価された傑作と言えるでしょう。江戸っ子たちを魅了し、その名を世界に知らしめた「亀戸梅屋敷」。現代に蘇った賑わいの拠点「亀戸梅屋敷」を舞台に、江戸/下町/亀戸の粋な歴史と文化をお楽しみください。




何故か、お店の前に茅の輪が作られています。背後には朱色も鮮やかな鳥居もあります。何を売っているお店なのでしょうか?

武塔神伝説

昔々、北海に居られた武塔神(素戔嗚尊)が南海へ、旅をされている途中、一夜の宿を求めて二人の兄弟を訪ねました。裕福な弟の巨旦将来は断りましたが、兄の蘇民将来は貧しいながらも快く迎え入れ、武塔神を手厚くもてなしました。武塔神は、その礼として蘇民に、厄除けの「茅の輪」を授けました。数年後、疫病が流行り、蘇民将来一族だけは生き残り、難を逃れたそうです。その故事により、「茅の輪」をくぐると疫病除けになると言われています。




白壁に、「亀戸」の地名の由来とこれから訪れる寺社仏閣の紹介が漫画で描かれています。



景行天皇の日本武尊東征の折の話

波に打ち上げられたのは嵐を鎮めるため海の神に身を捧げたヤマトタケルの妻、オトタチバナヒメの笄でした。




その昔、亀戸は小さな島でした。

天智天皇の御代に、藤原鎌足が東国に遣わされ、その途中亀戸に身を寄せました。




神の降臨を祈り、旅の安全を祈願して御幣をたて、太刀を一振り奉納したと言われています。

時は流れ・・。香取神宮の分社として香取神社が祀られました。




さらに年月を経て、亀島など周辺の島々も陸続きになり・・
この地にきれいな水が湧き出る井戸があったことから亀井戸と呼ばれるようになりました。

後年、亀井戸の「井」が略され、現在の亀戸になったと伝えられています。

*日本の神話、亀戸の由来についての内容・見解につきましては諸説ございます。




亀戸天祖神社

湾の奥にあたり、この地域に点在した小島の一つ、柳島の総鎮守が当社である。古老の言い伝えに寄(依?)れば、創建は推古天皇御代(約1400年前)、厩戸皇子(聖徳太子)作のご神像を御神体として祀っていると伝えられている。




香取神社

亀戸は元々遠浅の海辺の村で島が点在していた。中でも、亀の形に似た島があり、亀島あるいは 亀津島と称されていたという。

天智天皇四年(665年)、藤原鎌足が東国下向の際、この亀島に船を寄せ、旅の安全を祈願し香取大神を勧請、太刀一振を奉納したのが創建とされる。




浅間神社

その昔、この辺り高貝洲と呼ばれていた現在の亀戸9丁目(旧神社跡)付近に弟橘姫の笄が漂着したと言われています。

村の人々は、この笄を埋め、祠が立てられました。後にこの笄塚の上に浅間神社として祀られ、塚は富士塚となりました。




亀戸天神社

菅原道真公をお祀りする亀戸天神社

花の天神さまとして広く知られ、多くの方々に親しまれております。




再現された亀戸梅屋敷の敷地内にはありませんが、福神橋から浅草通りを押上方向に少し進んだ左手の歩道脇に、「梅屋敷跡」の案内板が立っています。

江東区登録史跡 梅屋敷跡

梅屋敷は、江戸時代から続く梅の名所でした。もとは本所理堀(墨田区)の聖人、伊勢屋彦右衛門の別荘で清香庵と称していましたが、庭内に梅が多く植えられていたところから「梅屋敷」と呼ばれるようになりました。なかでも「臥龍梅」と名付けられた一株が有名で、これはまるで龍が大地に横たわっているように見えるところから、水戸光圀が命名したと伝えられています。また、八代将軍徳川吉宗も鷹狩の帰りにこの地を訪れました。江戸近郊の行楽地として、花の季節にはたくさんの人々でにぎわい、その様子は「江戸名所図会」「絵本江戸土産」(歌川広重)などの地誌にもとりあげられています。歌川広重はこの梅屋敷だけで十数種の版画を描き、とくに「名所江戸百景」の中の、太い梅の古木を手前にあしらった錦絵は傑作のひとつにあげられます。明治四十三年(1910年)、大雨により隅田川沿岸はほとんど水に浸り、亀戸・大島・砂村のほぼ全域が浸水しました。この洪水により、梅屋敷のすべての梅樹が枯れ、廃園となりました。ここに残る石標柱は、江東区創立十周年を記念して、昭和三十三年に建てられたものです。




国立国会図書館に所蔵されている、歌川広重の「名所江戸百景 亀戸梅屋鋪」の錦絵です。



石標柱の文字は読み取れませんでした。



ポイント2 香取神社

亀戸四丁目交差点から少し西寄りに進んだところから、香取神社表参道が延びています。参道の両側には雑多なお店が並ぶ商店街があります。外壁がクラシックな建物が何軒かありますね。

香取神社

天智天皇の四年(665年)に中臣鎌足が東国下向の際に勧請したと伝えられる区内で最も古い歴史を持つ神社です。また、平将門の乱のとき、俵藤太秀郷が当社に戦勝を祈り、祈願成就の後、弓矢を奉納したとされ、このことにちなむ祭事として、毎年5月15日に「勝矢祭」が行われています。古来より武運長久の神として、現在ではスポーツの振興の神として多くの人々に親しまれています。

Katori-jinja Shrine

This is the oldest shrine within the city and was constructed in 665. Fujiwara no Hidesato prayed for victory here before suppressing a rebellion lead by Taira no Masakado the 10th century. He offered an arrow in gratitude at the shrine afterwards, which lead to the tradition of "Kachiya Sai" (Victory Arrow Festival) being held every year on May 5th to commemorate the occasion. The shrine became known for granting victory in battles and good fortune in sports, and is frequently visited by athletes.




参道の突き当たりには、大きな鳥居が建っています。香取神社は通称「亀戸香取神社」と呼ばれ、天智天皇四年(665年)に創建されました。藤原鎌足(当時は中臣鎌足)が東国下向の際、この「亀の島」の地に船を寄せて太刀一振を納め、香取神宮から分霊を勧請し旅の安泰を祈り、神徳を仰いだのが起源とされています。天慶年間(938年〜947年)には藤原秀郷が平将門討伐の戦勝祈願をし、成就したことから弓矢を奉納して「勝矢」と命名しました。このような経緯から、歴代天皇を始め、源頼朝や徳川家康などの武将、武道家の篤い崇敬を受け、武道修行の人々に祖神として崇められました。近年では、宮司が祭神を「スポーツ振興の神」としてテレビで紹介されてからスポーツ関係の参拝者が急増し、知名度を高めて各地から参拝客を集めるようになりました。

香取神社

由来
香取神社は、社伝によれば665年の創建で、藤原鎌足(614年〜669年)が亀の島に船を寄せ、香取大神を勧請し旅の安全を願ったのが始まりといわれ、以来亀戸村の総鎮守として信仰を集めています。平安時代の中期、関東で起こった平将門の乱(935年〜940年)を平定した藤原秀郷が、戦勝の返礼として弓矢を奉納した古事にちなみ、毎年5月5日に勝矢祭が行われています。亀戸七福神のうち恵比寿・大国神で親しまれています。




香取神社はスポーツ振興の神として崇められています。天慶の昔、平将門が乱を起こした際に追討使となった俵藤太秀郷は、この香取神社に参拝し戦勝を祈願しました。乱はめでたく平定することができ、神恩感謝の奉賓として弓矢を奉納し、「勝矢」と命名されました。この古事により、1000年の時を経た今も「勝矢祭」が守り伝えられています。歴代の天皇を始め、源頼朝や徳川家康などの武将達、また剣豪の誉れ高い塚原卜伝や千葉周作をはじめとする多くの武道家達の篤い崇敬を受け、武道修行の人々は香取大神を祖神と崇めていました。このような由来から、香取神社はスポーツ大会や試合の勝利を願う多くの参拝者が訪れ、祈りを奉げています。

香取神社御由緒

一、御祭神
経津主神 相殿に武甕槌神・大己貴神
香取神社の御祭神経津主神は千早振る神代の昔天照大神のご命令により、鹿島大神と共に豊葦原瑞穂国(日本の国)の平定に手柄を立てられた威霊優れた国家鎮護の神として仰がれる戦国武将の祖神であります。然も御本宮が神武天皇の御代に東国下総に鎮座されましたことは非常に意義あることで、日本国の守護を固めた事になり、更に農業に深い関係があり、国土開発に多大の功績のあった産業の祖神でもあります。故に大和朝廷におかれても殊に崇敬篤く、中臣氏(後の藤原氏)は香取・鹿島両宮を氏神として忠誠を捧げ崇敬を尽されたのであります。


一、御由緒
当社の創立は天智天皇四年(665年)、藤原鎌足公が東国下向の際、この亀の島に船を寄せられ、香取大神を勧請され太刀一振を納め、旅の安泰を祈り神徳を仰ぎ奉りましたのが創立の起因であります。天慶の昔平将門が乱を起した時、追討使俵藤太秀郷が当社に参籠し戦勝を祈願して戦いに臨んだところ、目出度く乱を平げたので神恩感謝の奉賽として弓矢を奉納、勝矢と命名されました。現在でもこの故事により勝矢祭が五月五日(武者行列)に執り行なわれております。以来益々土民の崇敬が篤く郷土の守護神というばかりでなく、御神徳が四方に及びましたので、葛飾神社香取太神宮と称え奉るに至りました。元禄十年検地の節は改めて社寺の下附があり、徳川家の社寺帳にも載せられ古都古跡十二社の中にも数えられております。


一、御神徳
前にも述べたように大神は天より国土平定に当られ、日本建国の礎を築かれた大功神であり、歴代の天皇をはじめ源頼朝・徳川家康・秀忠・頼房等の武将の篤い崇敬を受け、又塚原卜伝や千葉周作をはじめ多くの剣豪の崇敬も篤く、現代でも武道修業の人々は大神を祖神と崇めております。最近ではスポーツ振興の神として広く氏子内外を問わず参拝されております。その他交通安全・家内安全・厄除・開運祈願等御神徳の随に毎日このような趣旨による御祈願を受け付けて御奉仕いたしております。




大きな神社には、境内の敷地の中に中心となる御社殿とは別に幾つかの小ぶりなお社を祀っていることがあります。このような神社は、「摂社」または「末社」と呼ばれるもので、総称して「境内社」といいます。摂社はその神社のご祭神とゆかりのある神様、末社はご祭神より古くからその地でまつられていた神様のお社である場合が多いようです。香取神社にはそういった境内社が多く祀られています。



水神社・三峯神社・熊野神社は、同じ社に同居あそばされておわします。

水神社
御由緒
天明六年(1787年)、香取神社十三代神職香取正武がその年の洪水を記念し災害防止氏子住民の安体を祈願し石祠をもって建設した。江戸名所絵図にもみえる。
三峯神社
御由緒
享保年間(1716年〜1735年)の創立。有名な亀戸梅屋敷園主・安藤喜右エ門が園内にお祀りしていたのを、明治の末当・香取神社に移した。火防・盗難除の御利益あらたかで梅屋敷講を受継いだ亀戸三峯講の多くの崇敬者もふえ、近年本社参詣も盛んである。
熊野神社
御由緒
熊野の神の総本社で曾ては「蟻の熊野詣で」の諺通り、貴賤老若男女をとわず全国から参詣者があつまり、信仰絶大にして盛況を極めた。当社は元梅屋敷隣りの北の方に位し、熊野入りと称して亀戸村の水利を司どっていた。大正十三年北十間川通りが拡張されるに伴い、香取神社の境内に移転鎮祭した。




さらに。

福神社
御由緒
元々御本社の相殿に奉齋されていた大國主神と併せて明治年間に至り七福神の内の恵比須大国神として境内に鎮祭した。事代主神は大國主神の御子神である。正月ともなると亀戸七福神の内恵比須大国様として多くの参詣を得ている。
御神徳
富コ円満・商亮繁昌の守護神として御神コあらたかである。




さらにさらに。。

稲足神社
御由緒
寛文九年(1670年)創立。明治以前は普門院の主管であったが、明治元年香取神社神職の奉仕となる。明治三十五年、香取神社隣接地に所在していたが境内に移転。琴平神社は宝暦年間香取十二代神職香取政幸の鎮祭する処で、稲荷神社は元渡辺稲荷神社と稱え、明治十二年当社に合祀。
御神徳
供に産業発展・家運隆昌の御神コあらたかである。




さらにさらにさらに。。。

天祖神社(入神明宮)
御由緒
昭和六十三年の香取神社改築に伴い、移転され境内神社として祀られるようになった。当神社の創立は江東区内では最も古く口伝によると、この地が四辺海に囲まれていた頃漁船がしぱしば風浪の危難に会う毎に伊勢の大神を折念すると災害を免かれたという事で太平榎塚に小祠を営み、鎮祭されたという。江戸名所図絵に書かれている神明宮は当社である。尚、境内から多量の(石に垂:いわ)が出上(明治四十年)し、考古学的にも有益な資料とみることができる。現在香取神社にて保管。




香取神社は、亀戸七福神の恵比寿神と大黒神を祀っています。

恵比寿神・大国神にお水掛けして一年の無事・健康を祈願しましょう。

自分の痛い所を洗い清めご神徳を頂きましょう。

大国神は医薬の神様です。




らっきょの形をした黒御影石に碑文が書かれています。読みづらいですね。

亀が井の由来

亀戸を代表する香取神社は、壱千参百有余年の歴史を誇り、古くは藤原鎌足公を初め多くの武将や土着の人々の篤い崇敬を受け郷土の守護神として今日に至っております。この度、亀戸の地名の起こりとされている亀が井戸を再興し、併せて恵比寿様・大国様の石像を祀り、この井戸の聖水を掛けながら参詣する人々が御神徳を戴き明るく健康で楽しい生活が出来ますようにと願い、氏子・崇敬者を初め多くの皆様方のご協賛により建立いたしました。




巨大な石もありますね。

勝石の由来

亀戸香取神社は天智天皇四年(665年)、藤原鎌足公が東国下向の際、亀の島に船を寄せられ、香取大神を勧請し太刀一振を納めて旅の安泰と御神徳を仰ぎ奉りましたのが起こりであります。御鎮座1350年記念事業の一環どして、この故事に基づいて大刀一振を冠した「勝石」を建立いたしました。ご参拝の皆様に香取大神の御神徳が授かりますよう氏子並びに崇敬者が心をこめての寄進によるものです。四年に一度の神幸大祭に際し平成二十八年七月二十四日、関係者相寄り盛大に除幕式が挙行されました。石に触れ、願いを掛けることによって勝運と幸運を授かるお力ところ(パワースポット)として末永く崇敬を集められますことを祈念申し上げております。




東京では練馬大根が有名ですが、亀戸大根もよく知られています。

江戸・東京の農業 亀戸大根

このあたりで大根づくりが始まったのは、記録によると文久年間(1861年〜1864年)の頃とされ、当香取神社周辺が栽培の中心地で、以来、明治時代にかけて盛んに栽培されてきました。当地は荒川水系によってできた肥沃な粘土質土壌であったため、肉質が緻密で白く冴えた肌の大根づくりに大変適していました。亀戸大根は、根が30cm程度の短い大根で、先がクサビ状にとがっているのが特長。明治の頃は「おかめ大根」とか「お多福大根」といわれましたが、大正初期になって産地の名をつけて「亀戸大根」と呼ばれるようになりました。しかし、宅地化が進んだ大正時代の終り頃から産地は江戸川区小岩や葛飾区高砂などに移っていきました。秋から冬にかけてタネをまいて早春に収穫となる亀戸大根は、当時は他に大根などの全くない時期で、新鮮な野菜の出始めの頃なので根も葉も共に浅漬けにして美味しいことから、江戸っ子から大いに重宝がられました。

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Kameido Daikon

Cultivation of Daikon (Japanese radish) in this district dates back to the years 1861-1864. With its center around the area of this shrine, it had been abundantly grown toward 1900s. The fertile clay soil formed by the Arakawa River was just fit for its production. Sown in fall to winter, the Kameido Daikon was harvested and shipped in early spring when the supply of fresh vegetables became scarce. Root and leaves were all eaten as fresh tasty pickles and relished by all the Edoites.




境内に、歌川広重の挿絵が入った案内板が立っています。

紙本淡彩道祖神祭図 歌川広重筆 一幅

道祖神祭図は、本紙を掛け軸に表装したものです。本紙は縦33.6cm、横40.6cm。表装は縦158.0cm、47.0cmです。香取神社の道祖神祭は、毎年正月十四日、氏子の子供たちが宝船をかつぎ、亀戸から両国の辺りまで練り歩いたもので、享保のころから始まり、明治初期まで続きました。その光景は「江戸名所図会」の挿し絵に載せられ、「東都歳事記」にも記載されています。本図は人物や宝船を墨で描き、朱・青で淡彩を施しています。作者は浮世絵師・歌川広重(1797年〜1858年)で、嘉永五年(1852年)以降、広重の円熟期に描かれた作品とみられます。本図は、江戸時代の香取神社の古い行事の様子をよく伝え、作者が著名な広重であること、また戦災を免れて区内に伝えられたことなどから、貴重な作品といえます。




子供達の仮装が面白いですね。道祖神は塞(さえ)の神とも言われ、幸いの神・歳の神などと記されることもあります。「さえ」とは「さえぎる」の意味で、本来は悪霊や疫病など邪悪なものが集落に入り込んでこないように、辻村境や峠などに祀ってきたのが始まりです。これに猿田彦神話や道の神思想などが結びついていきました。



香取神社を退出して福神橋交差点で左折し、北十間川に沿って浅草通りを西方向に進みます。



ホームセンターと巨大スーパーが合体したオリンピックのお店の入口近くの境橋脇に小さな祠が建っています。かなり年季が入っていますね。

六字名号供養塔 伝祐天書
祐天堂由来

昭和四十一年に設けられた当時の説明板等に拠りますと、その由来は、元禄年間に祐天上人が千葉方面に往来の途中、この付近の川の中や川岸に多くの水死者のあるのを見て、非常に心を痛め、その霊を懇に回向されました。その際に、これらの仏に戒名を与え祐天上人、自らが筆を取って石にその戒名を記された供養塔をここに残されました。後年、この供養塔を奉った祠が、この祐天堂であります。それ以来、この付近では水死者もなく、またこの付近の子供たちが水辺で遊んでいても溺れたためしが無かったと言い伝えられ、この付近に住む人々によって、水難除・安産・子供の守護の祠として崇め奉られ今日に至ります。(近年では、この祠に、交通安全祈願をなさる方も多いと聞きます。)また、毎年七月二十四日を由縁の日と定め、祐天上人の遺徳を仰ぎ、精霊の供養を営む日と定められてまいりました。




祠の横に古めかしい道標が立っています。「木下川」といいますと、水が流れる川を思い浮かべますが、どうも川の名前ではなく、遙か昔には実際に流れていたかもしれませんが、単に地名に「川」という字が付いているだけのようです。読み方も「きのしたがわ」ではなく、「きねがわ」と読むみたいです。荒川に架かる「木根川橋」も、「木下川」からきたのかもしれません。

木下川やくしみち道標

高さ71センチのこの道標は、ここ境橋から、木下川薬師堂(葛飾区東四ッ木一丁目)へ至る木下川薬師道(現在の仲居掘通り)を示すものです。

刻銘は、正面に  木下川
         やくしみち
    右側面に、本石町
         賽暦十一年辛巳孟春
    左側面に、あつまもり

あつまもりとは、吾妻権現社のことで境橋を渡った右手北十間川沿いにありました。本石町は日本橋の町名で、この道標の建てられた賽暦十一年(1761年)頃には、きっと江戸町人の参詣が盛んだったことがうかがえます。




歩道橋で浅草通りを渡ります。東京スカイツリーの全景が眺められます。



ポイント3 江東天祖神社

歩道橋を下りて路地を進んだ角地に江東天祖神社があります。

天祖神社 (福禄寿)

由来
天祖神社は、社伝によれば推古天皇の治世(593年〜628年)の創建で、その後、衰退していたのを応永十年(1403年)に復興したと伝えられています。天正年間(1573年〜1591年)に疫病が流行し、この時織田信長の使者が参向して流鏑馬を献じたところ、疫病は治まったと言われています。今日では子供の健やかな成長を祈って、毎年9月16日に子供歩射が行われています。亀戸七福神のひとつ(福禄寿)として親しまれています。




江東天祖神社の創建年代は不明ですが、社伝には「推古天皇御代創建」と伝わっています。江東天祖神社は度々火災や震災に遭い、大正十二年(1923年)に発生した関東大震災では社殿が焼失しました。そのため、再建時には鉄筋コンクリート造にしました。日本最初の鉄筋コンクリート造の社殿といわれています。それにより、昭和二十年(1945年)の東京大空襲では焼失を免れることができました。



境内には、亀戸七福神の福禄寿神を祀った小祠があります。



ポイント4 龍眼寺

横十間川に面して龍眼寺があります。

龍眼寺

亀戸七福神のうちの一つ、清簾度量のご利益があるとされる布袋尊が境内の一角にあるお堂にまつられています。龍眼寺の創立は応永二年(1395年)で、良博大和尚が開山しました。その後、江戸初期に住職が諸国から集めた百種類もの萩が植えられたことから、「萩寺」として呼ばれるようになり、江戸名所図会にも描かれるなど、江戸の名所となりました。

Ryugenji Temple

Hotei, one of the Seven Lucky Gods believed to bring happiness and good luck, resides in a temple within the precinct. Ryugenji Temple was established in 1395 by the Buddhist priest, Ryohaku. During the early Edo period, around a hundred different types of bush clovers were gathered from various countries and planted on the grounds. The temple became known as "blush clover temple" and was a famous site of Edo.


山門脇に案内板が立っています。とても読みにくいですね。

龍眼寺 (布袋尊)

由来
龍眼寺は天台宗で、慈雲山無量院と号し、創建は応永二年(1395年)と伝えられています。当寺は萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌「江戸名所図会」には、萩を愛でる人々でにぎわう様子が描かれています。また、境内の万治二年(1659年)造立の庚申塔は、区内で確認されているもののうち最古のものです。亀戸七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています。




本堂は八角堂になっています。

本堂

天台宗 慈雲山無量院龍眼寺
本 尊 聖觀世音菩薩
    江東区有形文化財・現在の区内最古の仏像
    應永二年(1396年)平安末期鎌倉時代の作(作者不明)

開山良博大和尚(千葉氏の出)比叡山での修行を終え帰国の途中、柳島の辻堂に一伯、その夜観世音菩薩が夢枕に現われ「汝の守るべき観世音菩薩と村の守護神の御神体がこの床下に在る」とのお告げにより授かり、至心に祈願した、当時村には疫病が流行していたが怱ち平癒した。村人の願いにより「柳源寺」を建立し、その聖観世音菩薩を本尊とし、厄除・眼病平癒の観音様として現在でも信仰を集めている。その後現在の「龍眼寺」(時代不明)と改められた。御神体は天祖神社として祀られた。本堂は夢殿を模した八角堂で八聖(正)堂という、八聖(正)道とは、理想の境地に達するために実践する正しい生活態度のことである。
一、正見  正しい見解
二、正思  正しい思い
三、正語  正しい言葉
四、正業  正しい行為
五、正命  正しい生活
六、正精進 正しい努力・勤め
七、正念  正しい信念・気づかい
八、正定  正しい精神統一




観世音菩薩は本堂に祀られているようです。

江東区指定有形文化財(彫刻)
木造聖観音菩薩立像 一躯

聖観音菩薩立像は龍眼寺の本尊です。像高は104cmで、一木から頭・体を木取りした後、干割れを防ぐためにそれぞれを前後に割り、内側をくり抜いて再び接合した割矧造りです。頭部は耳後ろで前後の材を矧ぎ合わせ、胴体に差し込まれています。本像は頭部に宝髻を結い、左手は臂を曲げて胸前で蓮華をとり、右手は軽く臂を曲げて下げ、蓮華座上に腰をひねって立っています。像容は顔がまるく穏やかな表情がうかがえ、着衣は浅い彫りのなだらかな起伏によって表現されており、ゆったりとしています。本像は江東区にとっては数少ない平安時代末期から鎌倉時代初期の作と考えられ、たいへん貴重です。

本像は秘仏のため、通常は拝観できません。




布袋尊は布袋堂に祀られています。

亀戸七福神 布袋

七福神唯一の実在の人・中国唐時代
清廉度量 家庭・交際・圓満
吉凶を司る
弥勒菩薩の化身といわれ、多くの信仰を集めている。




庭園に庚申塔が建っています。

江東区指定有形民俗文化財
庚申塔 万治二年在銘

庚申塔は庚申信仰という民間信仰に基づいて建てられたものです。庚申信仰とは、人の体内には三尸という虫が棲んでおり、六十日ごとにめぐってくる庚申の夜、人々が眠っている間に体から抜け出して天に昇り、天帝にその人の罪を訴えるので寿命を縮めるといわれ、この夜は眠らず過ごし健康と長寿を願うというものです。本庚申塔は万治二年(1659年)の銘をもち、庚申塔の中でも比較的早い段階に属し、区内では最古のものです。正面上部に三つの種子が刻まれ、その下に三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)が並んでいます。銘文は三猿の下にあり、姓を持つ十組の夫婦が現世と来世の二世安楽を願って奉納したことが分かります。龍眼寺は、江戸時代の中ごろにたくさんの萩が植えられたことから萩寺の名で親しまれ、萩の季節には多くの人々で賑わいました。このあたりは江戸時代には柳島村に含まれ、庚申塔が建てられた万治二年は、柳島村の成立した初期にあたります。代々柳島村の村役人をつとめた大沢八郎右衛門と同じ姓を持つ人名が刻銘に見られることから、奉納者は柳島村の草分け的な存在であったと考えられます。また、女性が加わっていることもこの時期の庚申塔としては珍しく、大きな特徴といえます。




萩を詠んだ芭蕉の句碑が建っています。

芭蕉句碑

濡れてゆく
   人もおかしや
      雨の萩
            芭蕉




龍眼寺は、開山された当初は「柳源寺」という名称でした。その後、本尊の観音菩薩像が眼病を治すご利益があるとされたことから、「龍眼寺」に改称したといわれています。

龍眼寺の柳

應永二年(1396年)開基良博大和尚が、此処亀戸柳島村に村人の依頼により「柳源寺」を建立、後に「龍眼寺」(時代不明)と改められた。又元珍大和尚・元禄六年(1693年)萩を好み、全国より集め、「荻寺」と呼ばれ、文人墨客が集まり江戸の多くの人々に親しまれ、江戸名所絵図、江戸砂子等にも描かれている。




池には沢山の鯉が泳いでいます。東京スカイツリーとのコラボが映えます。



龍眼寺を出て亀戸天神に向かいます。今は梅祭りの季節で、蔵前橋通りには沢山の旗が掲げられています。船橋屋は、徳川幕府十一代将軍家斉の頃の文化二年(1805年)の創業で、初代の出身地である下総国(千葉県北部)船橋は、当時、良質な小麦の産地でした。初代は亀戸天神が梅や藤の季節に参拝客で賑わうのを見て上京し、湯で練った小麦澱粉をせいろで蒸し、黒蜜と黄粉をかけて餅を作り上げました。それがまたたく間に参拝客の評判となり、いつしか江戸の名物のひとつに数えられる程になりました。船橋屋のくず餅の原料はグルテンを取り除き450日もの間じっくりと熟成発酵させた小麦澱粉で、無添加製法であるために消費期限はわずか2日間となっています。贈答用としてはかなり難しいですね。



ポイント5 亀戸天神社

亀戸天神社は、天満大神(菅原道真公)を祀り、受験生などを中心に学問の神として親しまれています。境内の梅と藤棚が有名です。

亀戸天神社

菅原道真公をおまつりする亀戸天神社は下町の天神さまとして広く知れわたり、多くの方々に親しまれています。また、梅や藤の美しさが広重の「名所江戸百景」で描かれており、現在でも藤の花は有名で、「新東京百景」の一つにもなっています。

Kameido Tenjinsha Shrine

This shrine has long been a beloved local symbol, and enshrines the Shinto god of scholarship, Sugawara no Michizane. The beautiful plum and wisteria blossoms that grace its precincts have been depicted in "One Hundred Famous Views of Edo" by renowned ukiyo-e artist, Utagawa Hiroshige. The wisteria in particular has given the shrine a spot on 100 Modern Famous Views of Tokyo as well.




朱の大鳥居の脇に案内板が立っています。「うそ替え神事」とは、縁起物である木彫りの鷽(ウソ)が授与され、「去年の悪(あ)しきはうそ(鷽)となり、まことの吉にとり(鳥)替えん」との言い伝えによるものです。鷽はヒーホーと口笛のような鳴き声を発し、口笛を意味する古語「うそ」から名付けられました。

亀戸天神

由来
江戸時代から学問の神様として信仰を集め、梅や藤の名所として庶民から親しまれてきました。寛文二年(1662年)九州太宰府天満宮の神職が、飛梅の木で菅原道真の像を作り、祀ったのが創建といわれています。毎年1月24日、25日に「うそ替え神事」が行われ、前年のウソを納め、新しいウソを求めると「凶もウソとなり吉にトり替わる」といわれており、檜の一刀彫のウソに人気があり、たくさんの人々でにぎわっています。




この鳥は鶯かな?



境内には鷽の石像もあります。「鷽の縁起」とかかれたプレートの文面は読み取れませんでした。



大鳥居の先には心字池があり、太鼓橋がふたつ架かっています。男橋は大鳥居を潜って最初にある橋で、太宰府天満宮を模して造られました。池と橋を人の一生に見立てた「三世一念の理」に基づき、男橋は過去を表しています。女橋は本殿の手前にある橋で、希望の未来を表しています。男橋と女橋の間には平橋が架かっていて、現在を表しています。


左が男橋、右が女橋です。


亀戸天神の境内には菅原道真が好んだ梅が300本以上植えられていて、例年2月第2日曜日から3月第2日曜日まで梅まつりが開かれています。

神苑の梅

   東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花
      あるじなしとて 春な忘れそ

御祭神菅原道真公(天神さま)と梅の花のゆかりはあまりにも有名で、冬の厳しさの中に凜として咲き誇る姿は古来より多くの人々に愛で親しまれて参りました。当社の梅は藤の花と共に創建当初より名高く、御社殿や太鼓橋その他多くの句碑・記念碑などに彩りを添えて咲きます。御社殿正面左右紅白梅一対を始め、東西参道沿いに全体で50種類約300本の梅花が二月中旬より三月上旬にかけて最も美しい時期を迎え、境内一円はその馥郁とした香に包まれ、春の訪れを告げてくれます。




境内の本殿前には、菅原道真公が5歳で詠まれた「美しや紅の色なる梅の花あこが顔にもつけたくぞある」という歌碑と銅像が建っています。

五歳の菅公

昭和五十二年の御神忌1075年大祭記念として奉納される。台座に道真公の五歳の時庭前の紅梅を詠まれた和歌を刻す。

   美しや 紅の色なる
      梅の花 あこが顔にも
         つけたくそある




藤まつりは、4月25日から5月5日まで開催されます。この時期には境内の藤が一斉に開花し、神社中が一面藤色に染まります。太鼓橋の上から見渡すと、一面の藤棚を見下ろすことができます。江戸時代から「亀戸の藤」と呼ばれた藤の名所で、大勢の見物客が訪れます。



八棟造りの社殿は昭和五十一年(1976年)に再建されました。



境内には幾つかの摂末社があります。御嶽神社は、道真の教学上の師である延暦寺第十三代座主の法性坊尊意僧正を祀っています。「卯(兎)の神」として知られ、正月初卯・二の卯・三の卯には卯槌や卯の神札が授与されます。

御嶽神社と菅原道真公

御祭神
比叡山延暦寺第十三代座主 法性坊尊意僧正
御社殿
寛文九年(1669年)十一月二十一日に九州太宰府御嶽山より勧請し建立され、古くは亀戸妙義社とも号されました。現在の御社殿は、菅原道真公御神忌1075年大祭の記念事業の一つとして、昭和五十一年に再建されたものです。
祭 日
初卯  正月の初卯日
卯日祭 毎月の卯之日
由 緒
法性坊は、道真公(天神様)の教学、御祈の師で、道真公が薨去(こうぎょ:親王・女院・摂政・関白・大臣などが死去すること)ののちは太宰府天満宮の社殿造営に関わられ、社前に一念三千の心字池を構えて三世一念の太鼓橋を架けられるなど道真公とのご関係は殊に深く、よって当宮境内に奉祀されました。法性坊は智徳世にすぐれ、ご在世の内にも奇特多い高僧として知られ、天慶三年(930年)二月の卯日の卯の刻に亡くなられたことから、春の陽気を迎える「卯の神」と敬仰(けいぎょう:敬い・尊ぶこと)され、以来月毎の卯日はもとより、特に正月の卯日は、陽気を迎えるはじめとして卯槌、卯の神札を求め、福徳・才智・愛敬を願い、除病・延命を祈りました。




花園社は、菅原道真の妻である島田宣来子および14人の子供を祀っています。寛文年間に筑前花園から勧請を受け、安産・子宝・立身出世の守護神として信仰されています。

花園社

ご祭神は、菅原道真公の北の方で、道真公の父君是善公の門人であり、道真公がご幼少の時の師であった儒者の島田忠臣の御女であらせられ、御名を宣來子(のぶきこ)と申し、相殿に御子達十四方をお祀りしています。寛文年中(1661年〜1672年)亀戸天神社の創建と時を同じくして、筑紫(福岡県)の地より勧請し、以来花園神社・花園大明神とも号されて、安産・子宝・育児の神・立身出世の守護神として信仰されています。安産御守護・岩田帯・安産祈願絵馬は、ご本社でお頒ちしております。




弁天社は、寛文五年(1665年)7月に太宰府天満宮心字池畔の志賀社を勧請したものです。その後、亀戸天神の心字池を上野不忍池に見立て、この社を「弁天堂」と呼んだことから、七福神のひとつである弁才天として信仰されるようになりました。

弁天社

寛文五年、太宰府天満宮(福岡県)心字池畔に鎮まり座す志賀社を勧請したのを始めとしますが、時代の推移と共に、七福神の一つであり無量の福徳を与える弁財天(水の神・音楽の神)の信仰と習合し、一般には弁天様と親しまれて、福徳福智を増し天災地変を消除する開運出世・芸能成就の神として信仰されてきました。その間幾度か災害に罹りその都度復興されましたが、近年殊に社殿の破損も著しく、菅原道真公御神忌1100年大祭に伴う記念事業に併せ、地元宮元会役員一同を始めとする崇敬者各位の御奉賛により、装いも新たに修復されたものであります。




紅梅殿は、寛文二年(1662年)に太宰府天満宮の神木である飛梅の実生を勧請したものです。現在の社は、昭和六十三年(1988年)に再建されました。

紅梅殿

御本社と時を同じくして寛文二年(1662年)に太宰府天満宮の御神木「飛梅」の実生を勧請し、社殿前に奉斎したのを起源とし、昭和六十三年に現在地に再建される。




菅原道真は承和十二年(845年)6月25日の乙丑年に生まれ、延喜三年(903年)に亡くなりましたが、葬送中に遺体を乗せた車を引く黒牛が動かなくなり、その場所を墓所と定めました。その後、その場所に社殿を建立し、御霊を祀ったことが太宰府天満宮の起源であり、その年も乙丑年でした。また、菅原道真が京都から大宰府へ下向中、白牛によって難から逃れることができたという故事が伝えられています。菅原道真と牛との縁は深く、神牛座像は昭和三十六年(1961年)に鎮座三百年祭時に社殿の復興と共に奉納されました。

御神牛

菅原道真公と牛との御神縁は殊の外深く、古来より信仰されて来ました。道真公は、承和十二年「乙丑の年」六月二十五日にお生まれになり、太宰府の配所でお亡くなりになった際、ご遺体を乗せた車を引く黒牛が臥して動かなくなり、これは道真公の御心による事としてその場を墓所と定め、社殿が建立されたのが太宰府天満宮の起源とされています。また、道真公が京都から太宰府へ下向途中、白牛によって危難から救われたという故事も伝えられています。この神牛の座像は昭和三十六年、御鎮座三百年祭にあたり御社殿の復興とともに奉納されたものです。




神牛に触ることにより病気を治し、知恵を得るといわれています。牛は天神の神使(みつかわしめ)として信仰されています。



境内には様々な石造物が建っています。塩原太助は、裸一貫から身を起こし、豪商へと成長し、「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と歌にまで詠われるほどの成功を収めました。

塩原太助奉納
石灯籠
天明元辛丑年(1781年)八月十七日

太助は、本所相生町(墨田区両国)で薪炭商を営み、辛苦を重ね豪商をなした。




亀戸天神を出て、亀戸駅前通り(明治通り)のひとつ内側の亀戸横丁に入って亀戸駅に向かいます。路地の両側には雑多な飲食店が建並んでいます。



中でも一際行列ができているのが「亀戸餃子」のお店です。亀戸餃子は亀戸横丁に本店を構える餃子専門店で、料理のメニューは餃子のみです。着席すると自動的に餃子2皿の注文が確定し、まずは1皿5つの餃子が置かれた後、客が食べ終わりつつある頃に、2皿目が提供されます。以降は希望に応じて皿が運ばれ、また3皿目を注文するとモヤシの皿がサービスとして出されます。わんこそばのように餃子が出続ける形式で、店全体では1日あたり6、000〜10、000個超の餃子が販売されています。



ゴール地点の亀戸駅に戻ってきました。



ということで、江東区で最初の「玄武@下町亀戸ご利益・グルメ満喫」を歩き終えました。次は江東区で二番目のコースである「玄武A緑と花の川沿いウオーキング」を歩きます。




戻る