玄武A緑と花の川沿いウオーキング  

コース 踏破記  

今日は江東区の「玄武A緑と花の川沿いウオーキング」を歩きます。都営地下鉄新宿線東大島駅から旧中川に沿って川沿いの緑道を歩きます。途中、新旧の橋を眺め、公園の規模に圧倒されます。最初に歩いたのは2022年の2月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年2月に改めて歩きました。

玄武A緑と花の川沿いウオーキング

江東区が緑の多いところだと再認識できるコースです。季節ごとにいろいろな花が楽しめます。

「玄武A緑と花の川沿いウオーキング」の歩行距離は約4.2km(約6、000歩)、歩行時間は約1時間3分、消費カロリーは約189Kcalです。

スタート地点:都営地下鉄新宿線東大島駅大島口
ポイント1 中川船番所資料館、旧中川・川の駅
現代版「中川番所」は、 川遊びのメインスポット。
ポイント2 さくら大橋
旧中川に架かる歩道橋。北側には「もみじ大橋」もあり。
ポイント3 亀戸浅間神社
富士山の守り神・木花咲耶比売(コノハナサクヤヒメ)を祀り、富士塚もあります。
ポイント4 ふれあい橋
江東区と江戸川区を繋ぐ鋼製アーチ橋。
ポイント5 亀戸中央公園
スポーツエリアや広場が充実。桜や梅、江東区の花・サザンカの名所としても有名。

ゴール地点:東武亀戸線亀戸水神駅


スタート地点の都営地下鉄新宿線東大島駅大島口から歩き始めます。



江東区には四神をモチーフにしたモニュメントが区内の東西南北各地域に配置されています。「四神」とは、中国で古代から伝えられてきた天の四方(東西南北)を司る霊獣で、
北=「玄武」
東=「青龍」
南=「朱雀」
西=「白虎」
とされています。「緑と花の川沿いウオーキング」は江東区の東エリアを巡りますので、四神のうち東の方角を守護する青龍のグループに入れた方が妥当な気がします。しかし、何故か玄武のグループに入っています。それはさておき、駅前広場の中央の植え込みの中に青龍のモニュメントが置かれています。

青龍(せいりゅう)

天の四方の方角をつかさどる神のうち、東の方角を守護するといわれる。中国古代の思想に由来する「四神(しじん)」のひとつ。




ちなみに、青龍は「春の象徴・川の流れ」を表し、東の方角を守護しますが、青龍と東方との結び付きは、五行説が中央に黄色・北方に黒・東方に青・西方に白・南方に赤と五色を割り当てたことに由来しています。



駅前広場の向かいの高台に大島小松川公園があります。公園は旧中川を挟んで江東区と江戸川区に分かれていて、江東区側には、テニスコート・野球場・サッカー場が併設されたスポーツ広場と広大な芝生が広がる「わんさか広場」があります。江戸川区側には、バーベキューなども可能な自由の広場・旧小松川閘門が保存された風の広場・季節の広場があります。かって、公園の周辺地域は海抜ゼロメートルの工業地帯でしたが、災害時の避難場所となるように土地の嵩上げが行われ、大規模な防災拠点公園として平成九年(1997年)8月1日に開園しました。



わんさか広場には2つの芝生広場があり、バスケットゴールなども設置されていて、様々なレクリエーションに利用されています。「わんさか」とは、「人が大勢押しかける」という意味で使われます。江東区側の地下には都営地下鉄新宿線の車両基地である大島車両検修場があります。



ポイント1 中川船番所資料館、旧中川・川の駅

わんさか広場と道路を挟んだところに、江戸時代の川の関所だった中川船番所資料館があります。

中川船番所資料館

水彩都市・江東の歴史を伝えるために、小名木川の中川口に設置されていた関所「中川番所」の地に資料館を開設し、ジオラマなどにより、中川番所を再現し関東や江戸の水運、江東区の歴史・文化がわかる資料を展示しています。

Nakagawa Funabansho Museum

Nakagawa Lookout controlled boat traffic to and from the city of Edo and stood at the Nakagawa Mouth of Onagi River. The lookout ("funabansho") has been recreated and re-opened as a museum, with exhibitions that showcase the importance of waterways to the history and culture of Koto City, Edo and the Kanto region as a whole.




資料館の3階に、中川番所のジオラマが再現されています。

中川番所の再現

中川番所は中川関所ともよばれ、河川交通路上における江戸の出入り口に設けられた関所です。小名木川が中川へ流入する中川口の北岸、小名木村に設置されていました。中川対岸の船堀川からは江戸川・利根川水系へとつながり、江戸と関東各地さらには信越・東北方面を結ぶ流通網の要として、ここを通過する船の積荷と人を改めました。江戸時代中期以降、江戸へ運ばれる荷物の品目と数量を把握する機能も担うようになり、海上交通路上における浦賀番所(横須賀市)と並び江戸の東側窓口として重要な機能を果たしました。この番所の建物は平成七年に行われた発掘調査と江戸時代後期に描かれた絵画資料に基づき再現したものです。




壁には、中川番所の機能と役割を解説したパネルが貼られています。

中川番所

江東区の歴史は、広大な低湿地を開発・改良していく歴史でもあります。また、土地の埋立て・開発と並行していくつもの河川が開削され、その水運網をもって巨大都市江戸の消費生活を支えてきました。関東一円をめぐる水運を取り締まる拠点として、江戸時代を通じ重要な役割を担ってきた中川番所の歴史と機能についてみていきます。

中世の低地・江東
関東で荘園が開発される平安時代から鎌倉時代にかけて年貢の輸送や連絡の確保のために、水路や港が整備されていきました。中世の江東は、13世紀前半までに成立した葛西御厨と呼ばれる伊勢神宮領の荘園の一部で、隅田川や太日川(江戸川)といった大河川の河口部に位置していました。現在の亀戸周辺は海岸線に砂洲により築かれた微高地で、ここから河川を利用して陸路と連携し、さらに江戸内湾と関東内陸を結ぶ水運の要地として、中世から発展していました。

中世・江東の情景
「東路の津登」宗長 永正六年成立
(略)翌日市川といふ渡の折ふし、雪風吹て、しばし休らふ間に、むかひの里に云あはする人有て、馬ども乗もてきて、やがて舟渡りして、あしの枯葉の雪うちはらひ、善養寺といふに落着ぬ、面白かりし朝なるべし。此処は炭薪などもまれにして、あしを折たき豆腐をやきて一盃を勧めしは、都の柳もいかで及ぶべからんとぞ(略)

「東路の津登」は連歌師宗長(1448年〜1532年)が永正六年(1509年)7月中旬から12月初旬にかけて、武蔵・上野・下野から房総方面を旅した際の紀行文。房総では舟や馬を乗り継ぎ、当時すでに人馬の継ぎ立てがあって、水上交通が整えられていたことがわかります。ここで紹介した一文は、市川の渡しを渡って、小岩(江戸川区)の善養寺へ至る部分です。川辺に生い茂るアシの枯葉に降り積もる雪を川船で払いながら進む様子や、薪の代わりにアシを火にくべる当時の低湿地の情景が書き留められています。

江戸の形成と小名木川
天正十八年(1590年)江戸入りした徳川家康は、城下町江戸の建設にともない、中世からすでに整えられていた水運をとりこむことにつとめます。神田・日本橋周辺の土地の造成や江戸湊の整備、小名木川の開削などはその一環といえます。小名木川は慶長年間(1596年〜1615年)に干潟沿海の水路として確定していたものを埋め残す形で造られた沿海運河です。小名木川からさらに東へ延びる船堀川も同時期に開削され、江戸城大手門から江戸川・利根川水系へつながる重要な物資の輸送路が確保されました。

河川の改修と水運網の整備
徳川家康は、文禄三年(1594年)利根川水系の会(あい)の川締め切りを手始めに、複雑だった関東諸河川の水路を整備し、関東一円の水運網を整える大土木事業に着手します。荒川は利根川と切り離され、和田吉野川・市野川・入間川を本流とする流れに変わり、それまで江戸湾に注いでいた利根川は常陸川を経て銚子河口へいたる流路に変更されました。これにより海運あるいは、常陸那珂湊(茨城県)より所々を陸送で結びながら河川を使用していた東北諸藩からの江戸廻米は、よりスムーズに江戸まで回漕できるようになりました。

近世の関所
関所は古代からすでに存在していましたが、近世に入ると江戸幕府は峠や河川の渡し場など交通の要所に関所を設け、領内の治安維持にあたりました。江戸につづく五街道はもちろん、脇街道の要所にも設置され、通行には幕府が発行した手形が必要でした。延享二年(1745年)の時点で、全国で53カ所を数え、中川番所はそのひとつに含まれます。これらの関所では、主に、鉄砲をはじめとする武器と女性や怪我人・囚人の通行を取締りました。

深川番所の成立
深川番所は、中川番所設置以前に江戸へ出入する川船を改めた機関です。小名木川の隅田川口に架かる万年橋北岸に設置されていました。設置年代は未詳ですが、正保四年(1647年)に深川番が任命されているのでこのころのことと思われます。寛永年間(1624年〜1644年)には関東一円の河川の大改修工事が完了し、江戸への物資輸送はより便利になりました。同じころ、小名木川南岸の海辺大工町(清澄・白河)には、江戸へ向かう船の積荷を小船に積み替えるために一時着岸する港が成立しています。このように小名木川を利用した水運網が確立し、これらを取締ることを目的に番所が設置されました。

中川番所の成立
明暦三年(1657年)の大火を契機に幕府は江戸の防火対策の一環として、本所深川の開発に取り組み、江戸市中から武家屋敷や寺院を移転させました。またこの時期に竪川・十間川(横十間川)・大横川・ 北十間川・六間堀などの運河の開削も行われました。こうして本所深川地域は江戸市中に組み込まれ、深川番所はその機能を低下させていき、寛文元年(1661年)6月、中川口へ移転しました。敷地面積は東西26間余、南北17間余。以後中川番所として、深川番所の機能を受け継ぎ、江戸時代中期以降は、商品荷物の流通を把握する機能も担うようになりました。

中川番所の役人
中川番所に勤めた役人は中川番とよばれ、寄合に属する旗本で、3千石から8千石の、かなり高禄の旗本が勤めていました。勤務形態は3名から5名の中川番が5日交代で勤務しましたが、実際に番所に詰めたのは家臣で、旗本自身は将軍の御成りなどの特別な時以外は詰めなかったようです。幕末の記録では、中川番の下に番頭2名・添士2名・小頭2名が置かれ、さらにその下に下役人が存在しています。これらの下役人の服務規程として、船改めは小頭の立合いのもとで行い、みだりに品に手をかけないこと、親兄弟でも番所の中へ入れてはいけないこと、博打や乱酔、喧嘩・口論、番所構内および近辺での殺生、買い物などが禁止されていました。

中川番所の高札
中川番所が隅田川口から中川口に移転した寛文元年(1661年)に出された高札の文言です。

一、
夜間の江戸からの出船は禁止、入船は許可する。
一、
中川番所前を通過する時には、乗船している人々は笠や頭巾を脱ぎ、船は戸を開けて内部を見せる。
一、
女性は身分の上下によらず、たとえ証文があっても一切通行は許可しない。
一、
鉄砲は二・三挺までは改めの上通行を許可するが、それ以上の場合は指図を請ける。そのほかの武具についても同様である。
一、
人が入ることのできる大きさの器は確かめたうえ、異常がなければ通す。小さい器に関しては改めには及ばない。万一、不審な点があれば船を留め置き報告をする。

附 囚人や怪我人、死人についても、証文がなければ通行は許可しない。

以上が中川番所の通関規定の基準となるものですが、これには例外やその時々の政策によって緩和されるものもありました。番所の通船は明六つから暮六つ(日の出から日没)と規定されていましたが、幕府における特別な公務の場合には老中や目付からの証文があれば夜間でも出船できました。また、夜間の入船を許可されていたのは生魚・野菜類など生鮮食品のみでした。女性の通行に関しては、抜け道もあったようですが、縁組や神社仏閣への参詣のための通行は認められました。また、規定以上の武器武具が通行する時には、所定の手続きが必要とされました。

武家荷物の査検
中川番所での通関手続きがとくに厳重だったのは、高札にも定められている通り、鉄砲とそれに関連した物資(玉・硫黄・鉛など)でした。しかもこれらは武士とそれに準じる身分の者だけに限られ、商人や職人が自分の荷物として通関させることはできませんでした。また身分により数量制限や通関手続きが異なりました。大名の領地の所替などで大量に武器荷物が通る時には老中の証文が必要で、査検にあたっては日数をかけ、鉄砲は包を解いて調べ、玉数にいたるまで改めました。参勤交代については武器武具が含まれていなければ、あらかじめ提出しておいた印鑑と証文を照合することで通行を許されました。

商品荷物の査検
江戸時代中期以降になると、関東地廻り経済の進展に伴い、さまざまな物資が河川を利用して江戸へ運ばれるようになります。幕府はこうした商品流通上に果たす通船改めの機能に着目し、幕府の流通政策や物価政策の実効を確認する目的で、特定の品物に限り綿密な査検を行い、数量を把握するようになります。中川番所を通関するにあたってとくに手続きを必要とした品物を御規定物と呼びます。御規定物は、ある時期に一括して定められたものではなく、幕府の政策展開のもとで個々に定められていったものです。

地廻り酒問屋と中川屋清蔵
寛政三年(1791年)12月、幕府は米価高騰に伴い酒造高を従来の3分の1に減らすよう発令し、それが実施されているかどうかを確かめるため、翌四年1月より浦賀番所・中川番所および川船役所の出先機関である橋場船改役所において酒荷物の査検を開始しました。中川番所で査検の対象としたのは関東周辺の地廻り酒でした。しかし、問屋での受取りと番所での査検の日限とに誤差が生じ、町奉行所から理由を問いただされるなどしたため、地廻り酒問屋の要望で小名木村で船宿を営む中川屋清蔵が通関手続きを代行するようになります。

庶民にとっての中川番所
江戸時代中期以降になると、幕府の積極的な経済政策の展開により、地方へも貨幣経済が浸透していきます。その結果は文化にも影響を与え、農民・町人の間にも豊かな文化が芽生えます。庶民がこぞって旅をするようになるのも、こうした経済の進展と文化の伝播によりもたらされたもののひとつです。江戸では四季折々の行楽が楽しまれましたが、主流は日帰りの名所めぐりでした。日本橋小網町の行徳河岸(中央区)からは、小名木川を通り行徳(市川市)へ向かう定期船が就航し、船遊山を楽しむ多くの人々が中川番所の前を通過していきました。庶民にとって中川番所がどのような存在であったのかは、庶民が残した川柳や紀行文からうかがえます。

幕末期の中川番所
19世紀後半、混迷する幕政を反映して各地で政治運動が激化していきます。こうした潮流を迎え中川番所の査検方法にも変化がみられます。桜田門外の変(1860年)の後、人別・荷物改めを強化し、番所の外では船手組による通船改めが行われました。また中川番に番所周辺の見回りを命じるなど、中川口での警戒に力を入れていきます。しかし一方では、参勤交代制度が緩和され、大名の妻子の帰国が許可され、武器の通行手続きも簡略化されるなど、それまでの機能が徐々に希薄になっていったといえます。

中川番所の廃止
慶応三年(1867年)10月、大政奉還が布告され、翌四年4月、江戸城が開城され、同年9月明治と改元されます。中川番所では、明治二年(1969年)2月、全国の関所が一斉に廃止されたのちも、軍務官の管轄下で水戸藩士が詰めて印鑑の査検を行っていましたが、若森県(茨城県・千葉県)から民部省への問い合わせにより、同年5月廃止が正式に指令されました。ここに深川番所の設置から約220年にわたり、川船の航行を取締ってきた中川番所は終焉を迎えました。




3階の常設展示室には多数の資料と当時の水運を解説したパネルが壁一面に貼られています。



資料館の2階には、区民から寄贈された資料をもとに、昭和三十年代から昭和四十年代の生活の様子を再現する「郷土の歴史・昭和の暮らし紹介展示室」があります。



中川船番所資料館の前の横断歩道を渡ると、旧中川の堤防上に「旧中川・川の駅」の施設があります。

旧中川・川の駅

川の駅は、旧中川と小名木川との合流地点に、新たな水辺のにぎわい拠点として平成二十五年(2013年)3月に開設されました。水陸両用バスが川に進水するためのスロープが整備されており、勢いよく川に飛び込む水陸両用バスの姿を間近で見ることができるほか、誰でも立ち寄れるにぎわい施設があります。

Former Nakagawa River Station

This "river station" opened in March of 2013 at the junction of Old Nakagawa River and Onagi River to serve as a new community base for the waterside. A slope has been installed to allow amphibious buses access to the river, and visitors can observe the impressive splash made by the buses during transition. Anyone is welcome to the lively facility, which is used as a gathering space.




旧中川の川縁には船着き場が造られ、河川敷には東屋も建てられています。夏には日陰で川風を感じながら休息できそうです。

「中川番所」から「旧中川・川の駅」へ

江戸最初の運河・小名木川が開かれました
天正十八年(1590年)江戸に城下町を作ることになった徳川家康は、江戸への物資の輸送路として、小名木川を開きました。江戸に通じる最初の運河です。下総国行徳産の塩を江戸へ運ぶために開いたとされていますが、以後米・醤油・野菜など多くの物資や人がここを往復しました。沿岸はしだいに町場となって、現在の江東区の原型が作られていきました。

寛文元年(1661年)中川番所ができました
利根川をはじめ関東各地の河川が整備され、「奥川筋」(江戸の奥)と呼ばれる水体系となりました。関東一円の「奥川筋」と江戸の運河がつながったことから、人やモノの動きをおさえるため、江戸幕府はこの地に、寛文元年(1661年)中川番所を開きました。ここが、水路としての江戸への入り口になった瞬間でした。

現代版の中川番所をコンセプトに「旧中川・川の駅」を整備
この旧中川・川の駅は、かつて江戸の入り口として舟運で賑わっていた、中川の風景を復活させることをコンセプトにしております。水陸両用バスが入出水するスロープや、カヌー・カヤックなど、地元密着のウォータースポーツが利用可能な乗船場を整備しました。観光船や防災船着場など、多様な水辺利用の拠点として活用していきます。




川の中にバスが浮かんでいます。一直線にスロープに向かって進んできます。



無事に水中からスロープを上がって停車場に着きました。水陸両用バスって、日本には何台あるんでしょうか?



旧中川を中川大橋で渡ります。橋からは東大島駅が眺められます。川の両端に駅の出入口があり、ホーム部分は川を跨いでいます。日本広しといえども、川の真上に駅があるのは東大島駅だけではないでしょうか?



川を渡ると、江戸川区側の大島小松川公園が南北に広がっています。道路を挟んで南側は「風の広場」、北側は「季節の広場」になります。



遊歩道の中央に2株の巨木が聳えています。公園のシンボルツリーなんだそうです。クロガネモチ(黒金餅)は常緑広葉樹で、若い枝や葉柄が黒ずんでいることから名付けられました。

クロガネモチ
Ilex rotunda
(モチノキ科/モチノキ属)

大島小松川公園のシンボルツリーの生い立ちは、千葉県君津市の庄屋の庭で200年の歳月を掛けて大木に成長しました。関東では最大級の木で、昭和五十年代に東京へ嫁入りし、町の完成に合わせてここに住む様になりました。移殖が原因なのか根株の中は空洞です。左側の株は枝葉が少なくなりました。平成十七年6月の写真と現在を比較して下さい。




平成十七年6月の写真です。


樹高11m、芝付周6.3m 愛称 君津のイシモチ


高架の船堀橋を潜った先に、小松川中央地区(自由の広場)があります。冒険遊具を備えたアスレチック広場やバーベキュー広場が付属した広大な芝生広場が広がっています。



ポイント2 さくら大橋

大島小松川公園の小松川中央地区と西側の大島北地区(スポーツ広場)を繋いで、旧中川を跨ぐ巨大な連絡橋が2本架かっています。歩行者専用の橋で、川上側が「もみじ大橋」、川下側が「さくら大橋」です。嬌名は、地元の小学生によって名付けられました。自由の広場の周囲には、ソメイヨシノと大島桜を中心に、大山桜・御衣黄・エドヒガン・八重紅枝垂・関山などの340本の桜の木が植えられ、3月中旬から4月の上旬にかけて長く桜が楽しめます。



旧中川を渡った先は大島北地区(スポーツ広場)になっていて、「もみじ大橋」からも小松川中央地区に行くことができます。こんなに巨大な人道橋を2本も造るなんて驚きです。



遊歩道の上空に高速道路が通っています。首都高7号小松川線は、両国ジャンクションを起点とし、江戸川区で京葉道路に接続しています。全区間が高架または橋梁構造となっていて、両国ジャンクションから荒川付近にかけての約5kmは竪川の上部を高架で通っています。この付近で竪川は旧中川に繋がっているため(実際には埋め立てられて水は流れていませんが)、高架は大きく彎曲して荒川を渡る荒川大橋に向かっています。



旧中川にまたまた幅の広い人道橋がかかっています。テレビドラマのロケにも使われた「虹の大橋」は、江戸川区小松川地区と江東区大島・亀戸地区とを結び、幅が約30mもあります。災害が発生した際に、大勢の住民が江東区側から江戸川区側の広域避難場所へ移動するために、このように幅広の人道橋となりました。江戸川区も決して安全とはいえないと思うのですが。。。



虹の大橋の直ぐ上流に逆井橋が架かっています。



この地点には、かって「逆井の渡し」がありました。

江東区登録史跡
逆井の渡し跡

逆井の渡しは、江戸時代から明治時代初期まで中川にあった渡しで、亀戸村と西小松川村(江戸川区)を結んでいました。もとは逆井村(西小松川村の北隣り)と亀戸村を結んでいたため、逆井の渡しと称されました。この場所は、万治二年(1659年)に開削された堅川の北岸沿いに通る佐倉道と中川の合流点であり、江戸と下総方面をつなぐ交通の要所でした。川幅は40間(約73メートル)ほどで、船は二艘が備えられ、一艘は亀戸村、一艘は西小松川村持ちでした(「新編武蔵国風土起稿」)。開設時期の詳細は不明ですが、延宝八年(1680年)の「江戸方角安見図」には、「総州さくら海道」(佐倉道)と中川が結節する地点に、「小松川舟わたし」の記載が見られ、この頃には渡船が運航していたことがわかります。また、明治時代の記録には、堅川の開削に携わった徳島屋兵右衛門らが寛文年間(1661年〜1673年)に渡船場を開設したとも記されています。渡船場周辺の様子は、嘉永三年(1850年)の「絵本江戸土産」などによると、のどかな回園風景が広がる緑豊かな景観が風流人たちに好まれ、川を渡る人は船上からの眺めを楽しんでいたことがうかがわれます。渡船は明治以降も続き、「東京府統計表」によると明治十年(1877年)頃の渡し賃は人が銭一厘五毛、牛馬・人力車が三厘、馬車が一銭五厘などとなっていました。明治十二年に亀戸村と西小松川村により木造の逆井橋が架橋されると、渡しは交通機関としての役割を終え、廃止されました。




元佐倉道跡の石碑が建っています。



ポイント3 亀戸浅間神社

亀戸浅間通りに面して、朱色の鳥居が印象的な亀戸浅間神社があります。夏越大祓と年越大祓では関東一の巨大な茅の輪が置かれる事でも知られています。

亀戸浅間神社

亀戸浅間神社は、社伝によれば大永七年(1527年)に創建されました。祭神は木花咲耶比売命(このはなさくやひめのみこと)です。もともとこの辺りの地は高貝洲(こうがいす)と呼ばれていました。これは日本武尊が東征した時に海が荒れ狂ったため、弟橘媛が海に身を投じ、その際に身につけていた笄(こうがい:髪を掻き揚げて髷を形作る装飾的な結髪用具で、女性の身だしなみに欠かせない装身具として使われていました)が亀戸浅間神社のあるあたりに流れ着いたことによるものです。のちに景行天皇(第十二代と伝えられる)がその地に笄塚を建てたとされています。この笄塚の場所に富士塚が築かれ、江戸時代には多くの信仰を集めました(境内「亀戸の富士塚」文化財説明板を参照)。本殿は安政二年(1855年)の江戸大地震、大正十二年(1923年)の関東大震災で被災しました。現在の本殿は昭和初年に建立されたもので、平成十年(1998年)の大島・亀戸・小松川防災再開発事業にともなって、今の位置に移動しています。境内には亀戸の富士塚や享和元年(1801年)在銘の富士せんげん・亀戸天神・六阿みだ・あさくさ道道標(いずれも区指定有形民俗文化財)など救多くの文化財が残されています。また、かつて神社境内のそばを通っていた城東電気軌道の線路も残され、関東最大の茅の輪を作る(茅の輪くぐり)神事が年二回行われるなど、亀戸東部地域の歴史や民俗を伝える鎮守として、人々の信仰をあつめています。




亀戸浅間神社の社殿は木造建築で、境内の富士塚のある場所に昭和九年(1934年)に建てられました。平成十年(1998年)に東京都の防災再開発事業に伴って現在の場所に移動され、富士山の邦楽(西南)に向けて建て直されました。近世以降の神社形式の基本形である前面に拝殿、そして幣殿と本殿がエの字型に配されています。拝殿は階段の上に位置し、四周に回廊を巡らし、屋根は入母屋造胴板葦となっています。



亀戸浅間神社は、かっての「亀戸あさくさ古道」に面していました。

「亀戸あさくさ古道」を訪ねて

亀戸の古道は、浅間神社・亀戸天神・六阿弥陀(常光寺)・浅草といった名所を結ぶ江戸時代以来の道です。浅間神社境内に保存されている道標は、かつて竪川沿いの元佐倉道に置かれ、房総から逆井の渡しで江戸を訪れた人々に道を案内していました。道は、水神社で二筋に分かれ、亀戸の鎮守香取神社、臥龍梅で有名な梅屋敷(跡)、萩寺と呼ばれる龍眼寺などへ行く道ともつながっていました。




大鳥居を潜った左手に、年季の入った「富士せんげん道道標」が建っています。

富士せんげん・亀戸天神・六阿みだ・あさくさ道
道標 享和元年在銘

この道標は、浅間神社・亀戸天神社・常光寺(六阿弥陀)・浅草へ至る道しるべです。享和元年(1801年)10月、良歓が願主となり、本所六ツ目の地蔵講中が建てました。竪川沿いの佐倉街道と、浅間神社に至る道との分岐点に、正面を東に向けて建っていたと推測されます。当時の絵図に見られるように、浅間神社から北西方向に道なりに進むと水神社に行き当たり、左手に折れると亀戸天神社へ、右手に折れると常光寺に至ります。浅草へは、常先寺から北十間川沿いの道をたどったものと思われます。道標は角柱型で、頂部は若干盛リ上がっています。正面の縁・両側面・背面はノミ切り仕上げで、一定の幅でノミ筋を残しています。正面中央は一段低く彫り、表面を砥石による磨き仕上げとして、銘を刻んでいます。道標は、浅間神社ほかへの江戸時代以来の古い参詣道を示すとともに、江東区域の名所を表示するものとしても貴重な石造物です。また、近代以降、道の改変が行われていることから、江戸時代以来の古道を確認するための手がかりを与えてくれる、地域の資料として重要なものてす。




参道奥の富士塚(笄塚)の前に石造鳥居が建っています。総高450cm・笠部の最大幅380cmの八幡形鳥居(明神形)で、笠石は昭和三十三年(1958年)に破損して新しくされ、右柱部上部も補修されています。新しくされた部分以外のところは戦災で火を被っているため、黒く焦げたような状態になっています。



亀戸浅間神社は、大永七年(1527年)に日本武尊・弟橘媛の伝承が伝わる笄塚の上に「浅間社」を創建したのが始まりとされています。笄塚のいわれについて記した案内板が立っています。

日本武尊・弟橘媛由来の笄塚

由来
日本で最初に作られた歴史書である「古事記」には、日本武尊とその后である弟橘媛の美しくも儚いお話が載せられています。今から約二千年も昔、父景行天皇の命を受け、日本武尊は東国を平定するべく船に乗って走水(現在の神奈川県横須賀市)あたりを通過する時、土地の神様が波を立たせ、通行の邪魔をしたのです。進退窮まった一行、その時弟橘媛が「私があなたさまの身代わりとなって海に入りましょう。あなたさまはお父さまの命令を遂行して、無事に都にお戻り下さい。」と自分の身を海に投げたのです。身を投じる際、次のような歌を詠みました。

   さねさし さがむ(相模)のおの(小野)に も(燃)ゆるひ(火)の
      ほなか(火中)にた(立)ちて と(問)ひしきみ(君)はも

弟橘媛が、相模国(現在の神奈川県)で火に囲まれた時に、日本武尊が身の心配をしてくれたという内容で、死の間際まで夫に対する愛を伝えるものでした。さて、弟橘媛が身を投げると、たちまち海が静まり、日本武尊は船を進めることが出来ました。また。身を投げた媛の身に付けていたものは、波に漂って今の東京湾周辺に流れ着きました。そのうち、髪に付けていた笄は、この亀戸の地にたどり着いたとされています。かつて亀戸浅間神社がある辺りは「高貝洲」と呼ばれており、その名残りを伝えています。遙か古の夫婦愛、それを伝える痕跡はもはや何も残っていませんが、末永くその伝説を受け継いていくためにこの碑を建立しました。


女性が身につける装飾具・結髪具で、髪をかきあげて髷を作るために用います。かつて、女性がはじめて笄で結い始める時には「笄礼」と称し、大人の女性になったことを示す儀礼としてとらえられていました。




江戸時代、笄塚の跡地に富士塚が築かれ、移転前の本宮もこの場所に建っていました。


大正七年(1918年)頃の富士塚の写真です。


江東区指定有形民俗文化財
亀戸の富士塚

富士山を信仰の対象とする富士信仰は、江戸時代後期には「江戸八百八講」と呼ばれるほど多くの富士講を誕生させました。そのため、各地には富士山を模した富士塚が多数築かれ、講員はそれに登って富士登山の代わりとしました。亀戸の富士塚は、弟橘姫の笄塚と伝えられている従来からあった塚を再利用する形となっています。頂上部は広く平坦に整地され、そこに浅間神社が富士山の方向(西南)を向いて鎮座していました。塚の側面は溶岩(黒ボク)で覆われ、山腹の正面(西南側)及び左右側面には、登山道に見立てた石段があり、麓にかけて石碑が二十三基、石猿が二体附属しています。このうち左側面石段脇の烏帽子岩、左側面上部にある小御岳山碑、右側面石段脇の経ヶ岳碑の三碑は、当初の位置からは動いていますが、実際の富士山と共通させた「名所石」で、富士塚の構成上重要な石造物となっています。そのほかの石碑は、当地で活動していた富士講のひとつ丸不二講のもので、明治以降の年号が彫ってあります。丸不二講は、亀戸・大島・南堅川(以上江東区)・柳原(千代田区)・向島(墨田区)などの講員から成り、その活動は大正時代頃まで続けられました。平成九年、東京都による亀戸・大島・小松川地区再開発事業に伴い、塚上にあった浅間神社は隣接地に移転しました。




石猿と溶岩の一部がかっての富士塚の面影を残しています。



神輿庫には、一ノ宮神輿・二ノ宮神輿・山車が収められています。一ノ宮神輿は、総高153cm・幅と奥行は共に128cmで、寛政元年(1789年)に制作され、昭和六十一年に修復されました。近年の神輿は屋根を大きくし、屋根より下の部分を小さくして実際の建物の比率と異なった作りをしていますが、江戸時代の神輿は実物の社に近く、飾神輿とは異なり風格を見せています。



亀戸浅間神社の前の道路には、かって都電25系統の元となった城東電車が走っていました。境内には、城東電車で使われていたレールが保存されています。城東電車の起点は、錦糸町の江東デパート(旧白木屋)でした。現在の丸井錦糸町店の場所辺りと思われます。

城東電車は
大正二年  城東電気軌道株式会社設立
大正六年  錦糸町・西荒川間開通
昭和十七年 市営となる
昭和十八年 都制施行とともに都電となる

昭和四十三年まで浅間神社前を走っていました。大正時代に作られたイギリス製のレールです。亀戸九丁目町会より寄贈されました。




社務所の脇に建つ石造鳥居の右脇に六ッ目地蔵小屋があります。



地蔵堂には、一基の庚申塔と七基の供養塔が納められています(左から並び順です)。



地蔵堂の竹の壁には長大な案内板が掛けられています。

竪川と六ツ目と地蔵尊

万治二年(1659年)江戸幕府は、本所奉行に、隅田川から旧中川への灌漑と排水のため開削工事を命じた。工事は隅田川と旧中川から打ち上げる狼火によって始められた。狼火は東西水路の標的として、延長4958m・川幅36m・水深1.2mの工事が進められた。この川は江戸城から東側を見て縦に流れる河川であるため、竪川と名付けられた。隅田川と旧中川を結ぶこの竪川に六つの橋がかけられた。一之橋・ニ之橋・三之橋・・・六之橋と名付けられ、これがその付近の地名やそこを通る道の名前ともなった。此の六つの橋は、本所と深川、亀戸と大島を結び、これらの地域の町並化に大きな役割を果たした。最も東にある亀戸九丁目にかかる六ツ目の橋のある一帯は「六ツ目」と呼ばれ、今でもお年寄り達は往時を懐かしみ「六ツ目」と呼んでいる。竪川に沿って北側に造られたこの道は、佐倉道(後に千葉街道)と云い、日本橋から竪川と旧中川の合流点、六ツ目から逆井の渡しを経て小岩・市川・船橋・佐倉に至り、江戸と下総(千葉県)を結ぶ交通路で、成田山から遠く鹿島・香取神宮への参拝の人々で賑った。逆井の渡しは亀戸村と逆井村(後に西小松川村)を結ぶ渡しで、渡し船は二艇あって一艇を亀戸村、一艇を逆井村持ちになっており、佐倉街道を往来する人を運んだ。明治十二年(1879年)両村の協力で木橋が架けられて渡しは廃止された。街道は明治の末まで重要な役割を果たしてきたが、大正に入り東京から千葉への道や橋が整備され、往来が減少していった。昭和十年(1935年)新千葉街道(現国道14号、京葉道路)の完成により、街道はますますさびれていった。街道沿いの商家の人達は、住み慣れた街道から新しい国道沿いに移り住む様になった。第二次大戦が激しくなった昭和十八年、戦火の延焼を防ぐため、重要な工場や学校の周囲と旧千業街道沿いの竪川に面した全ての家に対し強制疎開が命じられた。古い伝統と歴史のある川沿いの家は全て取り壊された。昭和二十年三月十日、B29の絶え間ない爆撃により、強制疎開も空しく江東一帯は火の海となり一夜にして焼け野原となった。戦争は多くの人命と財産を奪った。奇跡的に旧中川沿いの九丁目の一部と浅間神社の周辺は焼け残った。神社の社殿に立つと見渡す限りの焼け跡の果てに、古老の言い伝えの通り富士山が違く遥かに望めた。戦後、焼け跡は区画整理と道路の整備拡充のため、工事は急ピッチに進められた。この工事等によって旧街道の辻や町角、橋の袂に置かれていたと思われる如意観音像や赤子抱く地蔵尊、戦火を被った法華経供養塔含む八基の仏像は行くあてもなく浅間神社へ置き去られた。神社境内には六之橋の北詰に東向きに建てられ、逆井の渡しから来る人に道を示した道標(江戸時代、文化財)が社殿の左手の稲荷神社の鳥居の横に移し建てられている他、多くの文化財が残されている。江戸時代より、多くの人達から崇め親しまれてきた八基供養塔は、神社境内外の社務所のわきに並び置かれた。これら仏像は、戦後半世紀もの間かえりみられる事なく風雨に晒されていた。東京都の再開発計画地区に該当する浅間神社の移転に対応すべく、地元有志により平成二年崇敬会が結成された。長い間無造作に置かれていた八基の供養塔は、崇敬会の手により、新しく造られた地蔵堂に安置され、かってのこの地の地名の「六ツ目」をとって「六ツ目地藏」と名づけられた。それ以後毎月二十四日をお地蔵様の日と選び、今でも「六ツ目」と呼んでいる老人会・浅間寿会の人達によって「六ツ目地蔵」は守られている。毎月二十四日のお祭りの日には老人会の人達で天幕(テント)が張られ、お茶菓子を持ち寄り、お参りに来る人々へお茶をもてなしている。老人達はお地蔵様と古き昔を語りながら、やがてやって来る神社移転後の地蔵堂がどの様な地蔵堂に(建)て替えられるか話しているに違いない。




旧中川の遊歩道に戻ります。旧中川に「亀小橋」という真新しい橋が架かっています。橋の袂の歩道には、かっての都電25系統の電車を描いたタイル絵が貼られています。50年以上も前に姿を消した都電25系統は、日比谷から西荒川までを結び、その路線は主に日比谷通り・本郷通り・靖国通り・京葉道路・都道477号亀戸葛西橋線、そして亀戸浅間通りから先の荒川西岸までの区間は専用軌道を通っていました。路線の全長は10.4kmで、昭和43年9月29日に廃止となりました。



亀小橋の西詰から旧中川の河川敷に設けられた遊歩道を上流に向かって進みます。



冬鳥が止まり木にずらりと並んでいます。日向ぼっこでしょうか?



ポイント4 ふれあい橋

地盤沈下による水害が多かった旧中川は、人工的に水位を地盤面より下げる整備により、水辺に親しめる安全で快適な河川に生まれ変わりました。現在は、ソメイヨシノ・オオカンザクラ・カワヅザクラなど、区内で有数のさくらの名所となっています。旧中川に架かる「ふれあい橋」は、江戸川区と江東区とを結ぶ人と自転車のための橋です。両地域の交流が一段と深まるようにとの願いをこめて命名されました。夜には、LED照明で美しくライトアップされます。色彩は季節によって8パターンに変化し、旧中川を彩る光景は抜群の見ごたえです。



橋の袂に「平和の祈り」と題した石碑が建っています。

平和の祈り

昭和二十年(1945年)3月9日夜半から10日未明にかけての東京大空襲の際、米国のB29爆撃機から投下された数百発の焼夷弾により、10万人の犠牲者が出たと言われています。又、当日の強風に煽られて下町一帯が焼け野原となり、熱風に耐えかねた人々が旧中川に次々と飛び込み、3、000人余りの命が失われたと記録されています。年々、当時を体験した人が少なくなる中、悲惨な戦争体験を次世代に語り継ぎ、太平洋戦争での犠牲者の鎮魂と永久なる平和を末永く忘れることのないように、この「平和の祈り」の記念碑を建立しました。




JR総武線の高架の手前で旧中川の遊歩道を離れて亀戸中央公園に入ります。



ポイント5 亀戸中央公園

都立亀戸中央公園は日立製作所の亀戸工場跡地を整備したもので、A・B・Cの3地区に分かれています。A地区には中央広場に時計塔や遊具が設置され、子供たちの格好の遊び場になっています。B地区には人工池や流れがあり、周囲は憩いの広場となっています。C地区は運動広場として整備され、多目的球技広場やテニスコートの他、児童コーナーがあり、ターザンロープ等の遊具は子供たちの人気を集めています。またこの公園は「サザンカの名所」として親しまれています。



公園のC地区には少年野球場や庭球場が設置されています。



亀戸中央公園には多くの樹木が植えられていますが、中でも江東区の花であるサザンカは至る所に見られます。



JR総武線の高架手前には、「サザンカコーナー」があります。

サザンカコーナー

亀戸中央公園には、「サザンカの名所」としてたくさんの「サザンカ」が植えられています。また、サザンカは江東区の花に指定されています。いつごろ、どんな花が咲くのか、また、それぞれどこがちがうのか比べてみましょう。




サザンカはツバキ科に属していますが、幾つかの違いがあります。

サザンカ
Camellia sasanquq
(ツバキ科)

花の少ない晩秋から初冬にかけての庭先を彩るサザンカは、日本の西南暖地に分布する白花の自生サザンカから生じた、日本特産の花木です。サザンカの栽培の歴史は古く、元禄時代には、九州や四国の野生地域を中心に生じた、サザンカの変わりものが江戸に集められ、そこで新たな品種が育成されました。これが、「江戸サザンカ」と呼ばれているものです。一方、九州地方を中心に栽培されたものは「肥後サザンカ」と呼ばれています。現存する園芸品種は、江戸時代から引き継がれている古典的名花から、最近の新花まで含めると、約300種類もあると言われていますが、このように多数の、変異に富んだ品種が成立したのは、サザンカとヤブツバキとが自然交雑を繰り返した結果、花色の変異が拡大したためと考えられています。自生サザンカの花は白色小輪一重咲ですが、園芸品種には、桃、紅、しぼり、覆輪、大輪、広弁、重弁などがあり、花色、花形ともに富んでいます。一般にサザンカとして扱われている多数の品種は、開花期や、花・葉の形態などから右(下)の表のように4群に分類されます。

サザンカとツバキの見分け方
項目サザンカツバキ
花色原則として白花原則として紅花
花開秋から冬咲き春咲き
花の香りありなし
花の落ち方花弁はばらばらに散る
(雄しべや花弁の下部が軽く合着するだけのため)
まとまって落ちる
(雄しべや花弁の下部が合着して筒となっているため)
小形で葉柄から主脈にかけて褐色の毛を密生する大形でほとんど無毛
その他雄しべの基部の子房が毛で覆われている雄しべの基部は無毛


サザンカの品種
サザンカ群カンツバキ群ハルサザンカ群コチャ群(タゴトノツキ群)
○自生のサザンカに近く
 10月から12月にかけて
 開花します。
○花色は白、桃、紅、ぼかし
 などがあります。
○花形は一重から二重
 までです。
◎公園内ではサザンカの
 「原種」が見られます。
 
 
○盆栽で使われる寒椿(獅子頭)
 がもとになっている
 と言われている品種です。
○開花期はやや遅く11月
 から3月頃まで咲きます。
○花形は八重、千重咲きなど
 があります。
◎公園内では「富士の峰」
 などが見られます。
 
 
○サザンカとヤブツバキの
 自然交雑またはその後代
 と考えられる品種です。
○開花期は遅く12月から4月頃
 まで咲きます。
○花形は雄しべの基部が
 比較的長く合着し、葉も厚く
 ツバキとの中間的な特徴を
 持っています。
◎公園内では「鎌倉絞」などが
 見られます。
○中国大陸原産のユチャの
 一系統と考えられ、昔から
 サザンカの品種として扱われ
 てきました。
○古くから栽培されてきた
 も のに「田毎の月」があります。
◎「田毎の月」は白花の
 小輪で葉が大形で厚く、
 表面には光沢がありません。
 
 




ゴール地点の東武亀戸線亀戸水神駅に着きました。



せっかくなので、亀戸水神駅から北西へ少し進んだ先の交差点の脇に鎮座する亀戸水神宮にも立ち寄ってみます。亀戸水神宮の祭神は水神で、古事記では「弥津波能売神」と書かれています。また日本書紀に書かれている「伊装那岐伊装那美二神」の姉神にあたります。水神宮はこの祭神を奉祠し、新田開墾時に水害を逸れんがために祈願したものであり、亀戸水神駅の駅名も亀戸水神宮に由来しています。

由緒

日本国中に水神さんと言われているお社は、恐らく数百社の多きに達するであろう。この神は普通一口に水神さんと呼ばれているが、そのほんとうの神名を知っている人は少ないと思う。この神は「ミズハノメ神」であって、古事記には「弥津波能売神」と書き。日本書紀では「罔象女神」と書かれていて、伊装那岐伊裝那美二神御子神で畏くも天照大神の御姉神に当てらせられる。父母の神は、我大八州国を造り給うた国土経営の神であって、あらゆる神徳を備えられているが、この中特に「水」に関する一切の御神徳を受けて居られるのが、この水神即ち「ミズハノメ神」である。この水神が奈良県東吉野村小村の丹生川の上に祀られたのは何時の頃か、その時代が分からぬ位に古く既神武天皇の頃には原始的な神籬式の神として祀られていた(水神の総本社円生上神誌より)。この水神宮は前記本社ご祭神を奉詞し、新田開墾の初め土民が提上に水神を勧請して水害を免れん為の祈願をしたものでありその創立は享禄年間(440年前)であると思われる。




亀戸水神宮の創建は室町幕府十二代将軍足利義晴の治世(1521年〜1546年)とされ、水害防止祈願のために大和国吉野の丹生川上神社から勧請されました。昭和二十年(1945年)3月の東京大空襲で甚大な被害を受けましたが、現在の社殿は昭和三十五年(1960年)6月に再建されました。



ということで、江東区で二番目の「玄武A緑と花の川沿いウオーキング」を歩き終えました。次は江東区で三番目のコースである「青龍B自然がいっぱい四季折々満足」を歩きます。




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