青龍C運河・自然満喫  

コース 踏破記  

今日は江東区の「青龍C運河・自然満喫」を歩きます。江東区スポーツ会館から小名木川に沿って歩き、塩の道橋から仙台堀川公園に入り、旧弾正橋で明治通りに上がります。その後、都電の線路跡に造られた南砂緑道公園を散策します。桜の季節にはお花見が存分に楽しめるコースです。最初に歩いたのは2022年の3月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年3月に改めて歩きました。

青龍C運河・自然満喫

春は桜、夏は新緑、秋冬は紅葉と一年を通し恵まれ、遊歩道が整備された安全なコースです。

「青龍C運河・自然満喫」の歩行距離は約5.4km(約7、720歩)、歩行時間は約1時間21分、消費カロリーは約243Kcalです。

スタート地点:江東区スポーツ会館
ポイント1 北砂水上公園
帆船の舳先を模した展望台&船の錨のモニュメントが目印。
ポイント2 越中島貨物線
運が良ければレールを運ぶ貨物列車と鉢合わせ!
ポイント3 仙台堀川公園
「区民の森」をテーマに、砂町運河を埋め立てた親水公園。
ポイント4 南砂緑道公園
都電跡の散歩道には、都電の車輪が飾られています。
ポイント5 長州藩大砲鋳造場跡
長州藩毛利家の屋敷内で、幕末に大砲が鋳造されていました。

ゴール地点:東京メトロ東陽町駅出入口4


今回から、長年お散歩にお供してきたiPhoneSE3が退役となり、iPhone16eが新たなパートナーになりました。未だ十分に使いこなせていませんが、幾つか感想を述べます。

気に入った点
1.電池の持ちがよい
私はお散歩をすると、一日に100枚〜200枚位の写真を撮ります。SE3で200枚を超える写真を撮ると電池が涸渇して警告灯が点いていました。なのでポータブルバッテリーを持ち歩いていたのですが、16eの電池容量はSE3の3倍位あり、写真を200枚撮っても電池の残量が70%位あります。なので、ポータブルバッテリーを持ち運ぶ必要はなくなりました。

2.充電速度が速い
SE3で充電に使用していたACアダプターのポートはType−Aだったこともありますが、16eだとType−Cなので体感的には2〜3倍位早くなったような気がします。

3.USB Type−Cが使える
SE3はLightningしか使えませんでしたが、16eはType−Cを採用したことにより、他の機器との接続に選択肢が広がりました。PCやHDD/SDDなど、従来は変換ケーブルが必要だった機器にもType−C同士で直接接続できるようになりました。最近の高速データ転送機器は殆どType−Cのみの仕様となっていますので便利です。ただ、SE3と同様に、USB2.0なのが残念です。USB4.0とまではいかなくても、せめてUSB3.2になると写真データも短時間で転送できるのですが。

気になった点
1.ホームボタン
SE3との一番の違いはホームボタンが無くなったことです。SE3ではどの画面からでもホームボタンを押せばホーム画面に戻ったのですが、16eでは画面の下端から上方向にスワイプするようになっています。確かにボタンが無くなったことで画面は広くなりましたが、このスワイプがなかなか一発でいかないのが面倒なところ。特に歩きながら操作する時とか、シャッターチャンスを逃すまいとカメラを起動する時とかにスワイプできなくてイライラします。コツを掴むまで時間がかかりそうです。

2.サイズが大きい
SE3が好評だった点のひとつは小型ということでしたが、16eは少しサイズが大きくなっています。お散歩の時にはiPhoneを胸のポケットに入れて直ぐに取り出せるようにしているのですが、16eはポケットの大きさによってiPhoneが入らないことがあります。冬なら上着のポケットに入れられますが、暑くなるとシャツ1枚になりますので、どうやってiPhoneを持ち運ぶか思案しています。

3.写真のサイズが大きくなった
16eで写真を撮ると、SE3で撮ったよりも保管時に5−6割サイズが大きくなっているような気がします。そのせいかどうか分かりませんが、パソコンに写真データを取り込む際にデータが破損して読み込めなくなることが何回か発生しています。取り直しの効くものなら構いませんが、遠方のお散歩だと困ります。最初はメモリーが壊れているのかとも思いましたが、設定で解像度を24MPから12MPに下げたところ、写真データの破損は起きなくなりました。Windowsの問題なのか、16eのハードの問題なのか、原因不明です。

スタート地点の江東区スポーツ会館から歩き始めます。


江東区スポーツ会館は、改修工事のため令和六年10月1日から令和八年3月末(予定)まで全館休館しています。


ポイント1 北砂水上公園

北砂水上公園は、横十間川親水公園の北端の小名木川と横十間川が直角に交差する場所に位置し、歩道橋のようにX型に架かる橋(クローバー橋)を中心とした公園です。クローバー橋はテレビなどのロケにも使われ、歩行者と自転車専用の橋となっています。



特別な遊具などはありませんが、クローバー橋に向かって帆船の舳先を模した展望台が設置されています。



船の錨のモニュメントもあります。



小名木川の歴史について解説した案内板があります。

小名木川の歴史

小名木川は、千葉行徳の塩を蔵前に運ぶ「塩の道」として知られています。徳川家康の江戸開幕とともに、運河として開削され、江戸の流通経済に大きな役割を果たしました。




北砂水上公園から明治通りの進開橋までの小名木川の護岸上に、北砂緑道公園が延びています。平成三年(1991年)4月1日に開園し、その後平成四年(1992年)・平成七年(1995年)と段階的に拡張されました。



北砂緑道公園の西端には、小さな椿園があります。昭和六十一年11月21日に起きた三原山噴火の際に江東区に避難した伊豆大島島民から贈られたヤブツバキが植えられているのだそうです。

椿園について

昭和六十一年十一月二十一日、伊豆大島三原山の大噴火によって全島民約一万人が島外避難する有史未曾有の出来事がありました。その際、本区では区立スポーツ会館を避難所として1、074名の避難者の救援に努めました。この椿の木は、避難者の皆様からお世話になったお礼にと五十本の寄贈がなされたものです。ここに、大島島民の厚意を記念するとともに、伊豆大島の繁栄を祈念して椿を植樹したものであります。




もうひとつの船の錨のモニュメントがあります。かって江東地区は工業地帯でした。その輸送需要の増加に対応するため、昭和四年(1929年)に水陸連絡貨物専用駅の小名木川駅が開業しました。小名木川駅は、小名木川の水運との連絡のため14、000平方メートルのドックを備えていました。北砂緑道公園の敷地の一部は旧小名木川駅の用地を利用していますので、この錨のモニュメントは当時の記憶を残すために設置されたのだと思われます。



この地は、俳人の石田波郷が昭和二十一年(1946年)から12年間暮らした場所で、彼の生誕100年にあたる平成二十五年(2013年)に公園の中ほどに句碑が建てられました。句碑は波郷が小名木川駅を詠み込んだ句を高さ150cm・幅240cmの御影石に刻み込んだものです。

江東歳時記文学碑

昭和三十二年(1957年)波郷は、読売新聞社の依頼で読売江東版に俳句・エッセイ・写真でつづる「江東歳時記」の連載を開始する。昭和二十一年の転居当時見渡すかぎりの焼け野原であった砂町も、波郷の入院療養中にめざましい復興をとげていた。波郷自身もカメラを持ち、江東、墨田、葛飾、江戸川、足立にまたがる江東地域の人々の生活と季節の風物を取材し、俳人の視点から描き出した「江東歳時記」の連載は百十五回を重ねて終了した。




進開橋脇の北砂緑道公園の入口には、同時期に生誕100年記念碑が建てられました。

石田波郷(はきょう)は大正二年(1913年)松山市に生まれた俳人。戦後の昭和二十一年から十二年間、砂町にある妻あき子の実家で暮らし、「江東歳時記」や「惜命」に下町の風情や闘病中の句を詠みました。平成二十五年(2013年)三月十八日建立。



平成三年(1991年)6月には、園内の小名木川の護岸を利用して、幅10mにわたって区内の草花を描いた「花草の譜」と題する陶板を配置した芸術作品が作られました。



かって、此の地には小名木川を往復する「釜屋の渡し」がありました。

釜屋の渡し跡

釜屋の渡しは、上大島村(大島一)と八右衛門新田(北砂一)を結び、小名木川を往復していました。名称は、この対岸に江戸時代から続く鋳物師、釜屋六右衛門・釜屋七右衛門の鋳造所があったことにちなみます。写真は明治末ごろの釜屋のようすです。川沿いに建ち並ぶ鋳物工場と、そこで働く人々や製品の大釜が写っています。明治の初めごろにはすでに、対岸の農耕地などへ往来する「作場渡船」に類する「弥兵衛の渡」がありました。「大島町誌」(昭和七年刊行)によれば、大正七年(1918年)七月五日に「営業渡船」として許可されています。利用状況は、平均して一日大人200人、自転車5台、荷車1台で、料金は一人一銭、小車一銭、自転車一銭、荷車二銭、牛馬一頭二銭とあります。「城東区史稿」(昭和十七年刊行)には営業の記載があるので、それ以後に廃止されたものと思われます。




ポイント2 越中島貨物線

越中島貨物線は、江戸川区の小岩駅と江東区の越中島貨物駅を結ぶJR東日本貨物支線の通称です。昭和四年(1929年)に小名木川の水運との物流連絡のため、亀戸駅から小名木川駅まで開業し、その後越中島駅(現在の越中島貨物駅)まで延伸されました。昭和四十七年(1972年)まで江東区南砂に汽車製造東京製作所があり、製造された車両が専用線を経由して小名木川駅から各社へ向けて輸送されていました。現在は、越中島貨物駅にある東京レールセンターから発送される鉄道用レールの輸送と、同センターに搬入する日本製鉄製150mロングレールを輸送する臨時の工事列車と貨物列車に使われるのみとなっています。日曜日を除いて一日3往復のダイヤが設定されていて、用地は殆どの区間で複線分確保されていますが、全線単線で運行されています。


右の写真:列車が鉄橋を通過しています。貨物の内容は見えませんでしたが、ひょっとしたらレールかも。


小名木川駅は平成十二年(2000年)に廃止され、跡地は再開発によってマンションとショッピングモール「アリオ北砂」となりました。



砂島橋の手前の護岸に、小名木川嵩上げ護岸のモニュメントと案内板があります。目盛りに使われている「AP」とは、「荒川ペイル(Peil)」の略で、東京湾近くの霊雁島水位観測所において大潮で最も水面が低くなった時の水面の高さを0mと設定し、これを基準とする高さのことです。東京湾やこれに注ぐ河川の工事の基準高さとして用いられています。ちなみに、「T.P.」は東京湾平均海面、「Y.P.」は江戸川工事基準面、そして「A.P.」は荒川工事基準面として使われています。



小名木川の沿岸は、かって工場が密集した工業地域だったので、護岸を嵩上げしたら船の積み荷を上げ下ろしするのが大変だったと思います。

小名木川「かさ上げ護岸」の歴史

小名木川は、小名木四郎兵衛が徳川家康の命を受け、1590年頃に開削した運河です。江戸時代には行徳の塩や近郊の農作物、東北からの米、醤油等を江戸の市中へ運んだ河川で、「塩の道」とも呼ばれていました。この小名木川が流れる地域は、乱流する荒川(現隅田川)や利根川の河口部に堆積した三角州を埋め立て、江戸の市街地として発達してきたことからもともと低地であり、過去幾度となく高潮や洪水の被害を受けてきました。更に明治末期からの工業地帯としての発展に伴う地下水の過剰な汲みあげにより地盤沈下が進行し、荒川と隅田川に囲まれた江東三角地帯は、東京湾の満潮水位以下となってしまいゼロメートル地帯とも呼ばれております。地盤沈下が続いた町を水害から守るため、小名木川を始めとする江東内部河川(江東三角地帯を流れる河川の総称)の護岸は、かさ上げを余儀なくされました。しかし護岸は、応急対策としての度重なるかさ上げにより、まちと川が分断されるとともに構造的に脆弱化し、大地震が発生した際の護岸崩壊による水害の危険性が心配されてきました。東京都はこの地震水害から地域を守るため、昭和四十六年より江東内部河川整備事業に着手し、北十間川樋門及び扇橋閘門より東側を流れる江東内部河川については荒川など周辺河川から締め切り、平常時の水位を周辺地盤より低く保つ「水位低下対策」を平成五年三月に完了させました。現在、小名木川では水位低下に伴い不要となった「かさ上げ護岸」の上部を切り取り、「塩の道」の再生として江戸情緒を醸し出す石積み風護岸の整備を進めております。この小名木川の旧護岸は、「塩の道」の再生に当たり、これまで水害から地域を守ってきた「かさ上げ護岸」の歴史を後世に伝えるとともに、低地に暮らす都民の方に水防意識を継続していただくため、その一部を保存するものであります。



右の写真は、進開橋付近から東方向を遠望した昭和四十年当時の小名木川です。


「塩の道橋」手前からスロープを上がり、横断歩道を渡って仙台堀川公園に入ります。



ポイント3 仙台堀川公園

仙台堀川は、江東区を流れる河川です。旧中川と隅田川を結ぶ運河のひとつでした。仙台堀川は、江東区木場の大横川交差地点を境にして、東西で河川形態は全く異なります。大横川交差地点から隅田川までの区間は河川水面は海水面と同じ水位であり、途中で平久川と大島川西支川に分流し、江東区清澄付近で隅田川に合流します。合流する手前には清澄排水機場があります。大横川交差点より東側では仙台堀川は堰き止められて海水面より水位が低くなっており、埋め立てられて仙台堀川公園となっています。「仙台堀」の名前は、北岸にあった仙台藩邸の蔵屋敷に米などの特産物を運び入れたことに由来します。そのため、「仙台堀」とも呼ばれていました。以前は小名木川〜横十間川間に開削された砂町運河、横十間川〜大横川間の十間川、大横川〜隅田川間の仙台堀川と分けられていましたが、昭和四十年(1965年)の河川法改正によりひとつにまとめられました。大横川と交差する地点では三十間川とも呼ばれていました。仙台堀川公園は、小名木川と接する桜井橋から江東区道大門通石住橋付近までの3.6kmの区間を占める、都内最大規模を誇る江東区立の公園です。「区民の森」という愛称で親しまれています。桜の季節になると、旧境川橋付近より北側の遊歩道沿道は出店も多く、花見客で賑わいます。サイフォンなどで公園内に通水しているため、水は塩辛く、淡水と海水の混ざった汽水域を好むハゼも泳いでいます。仙台堀川は、寛永年間以後に開削され、運河として利用されてきました。さらに横十間川より上流が明治以降に延長されました。昭和になり工業地帯として発達すると、仙台堀川の流れている一帯は付近にあった工場などからの地下水の汲み上げにより地盤沈下が激しくゼロメートル地帯となっていました。これによって川の水位より低い土地が出来上がり、護岸壁の高さもどんどんと上げていかなくてはならない状況でした。特に木場公園から東側の江東内部河川では台風の時などは護岸壁を超えて川から水が溢れる危険がありました。このような危険を回避するために、昭和五十七年(1982年)に木場公園から東部の江東内部河川は扇橋閘門等を設けて堰き止め、排水機場から常時排水することによって水位を下げることとしました。そして水位の下がった仙台堀川東側は埋め立てて公園とする工事が進められました。工事は昭和五十三年(1978年)に始まり、公園としては昭和五十五年(1980年)4月1日に開園しました。その後も工事は進み、昭和六十一年(1986年)に全面的に完成し、仙台堀川の多くは樹木と川とを身近に感じることのできる親水公園と大きく変わりました。西側の境界は大横川合流地点で、北は小名木川合流地点までとなっています。大横川合流地点より西側は仙台堀川として河川になっています。流域は、江東区の北砂・東砂・南砂・千石・東陽にまたがっています。公園は各地区ごとにテーマがあり、そのテーマごとに趣向を凝らした造りとなっています。途中で、同じく河川を埋め立てて作った横十間川親水公園と合流しています。



仙台堀川公園は東西に通る道路で何カ所かに分断されています。補助117号線を渡った先から清洲橋通りまでの区間は最近リニューアル工事が終ったようで、いろんな施設が新しくなっています。子供の彫像は2022年と2025年で変っていないようです。


左がコロナ禍の2022年3月に訪れた時のもの、右が2025年3月に再訪したときのもの。


遊歩道の両側には桜並木が続いています。遊歩道の脇を流れる仙台堀川は、今ではポンプで汲み上げた水を使っているそうです。



小さいながらも池が造られています。

自然観察池のご案内

自然観察池は生物多様性の保全を目的とし、まちの中で野生の生き物たちが安心して生息できるとともに、人と自然がふれあう場として作った場所です。

概要
自然観察池はどなたでも入れる「観察エリア」と生物保護のため立入禁止とする「保護エリア」に分けています。池の中には凹凸のある池底、石積などをつくり、陸にむけてはエコトーンをつくるなどして、生き物が住める様々な環境を作っています。

生物多様性
生物多様性とは、生物たちの豊かな個性とつながりのことです。地球上には3000万種ともいわれる多様な生き物が生息していると言われ、これらの生命は一つひとつに個性があると同時に、互いに関わり合いながら生きています。しかし、近年では開発や乱獲、自然に対する人間の働きかけの縮小、アメリカザリガニなどの外来種や化学物質の持ち込み、地球温暖化による地球環境の変化など、主に人間活動の影響によってたくさんの生き物が危機ににさらされており、絶滅のスピードは自然の速度の約1000倍にもなっていると言われています。自然観察池は地球上で見たら非常に小さな場所ですが、このような生き物が安心して住めるような環境を創出し、そして自然のことについて知ってもらうことが生物多様性の保全に繋がる一歩となります。そのために、多くの生き物が安心して住めるよう、みんなで大切に守り育てていきましょう。




仙台堀川公園には約500本の桜の木が植えられていて、3月下旬頃から全長900メートルものソメイヨシノの桜並木が出現して江東区の春の名物になっています。今は蕾のままですが、開花まで1週間位でしょうか?



仙台堀川公園の由来を記した案内板が立っています。

仙台堀川公園

由来
この川は、大正十年に、砂町運河として民間の手によって開削された例の少ない運河で、その後仙台堀川と合流しました。仙台堀川は、江戸時代にその沿岸に仙台藩伊達氏の蔵屋敷があったことからこの名がつきました。仙台堀川が流れる区内東部は特に地盤が低く、「天井川」で常に水害の危険にさらされていた地域でした。そのため防災性を考慮し、緑に重点を置き、桜並木のほか250種類の樹木約24、000本が並ぶ「区民の森」として造成しました。




じゃぶじゃぶ池もリニューアルされました。



清洲橋通りを渡った先に砂町魚釣場があります。砂町魚釣場は江東区が管理している無料の釣り堀で、釣れる魚はヘラブナと鯉です。都内で手軽に釣りが楽しめる釣堀として人気です。初めて釣りを始める初心者にもお勧めです。釣り堀ではありますが、釣り竿や餌など釣り具一式の販売・レンタルはありませんので全て持参する必要があります。釣り竿は1人1本までで、長さは18尺(5.4m)までの決まりがあります。この日もヒマなおじさん達で賑わっていました。



しかし、しかし、砂町魚釣場は料金の安い工業用水を利用して運営していましたが、東京都の工業用水事業が廃止となり、令和四年12月28日(水)をもって閉鎖されました。2025年2月に再訪した時は、跡地を区民農園に転用するための工事が進んでいました。区民農園は、令和七年度に開園予定とのことです。



区民農園の竣工を織り込んだ真新しい案内板が準備されています。

砂村の農業

万治二年(1659年)、砂村新左衛門一族が「砂村新田」を開拓しました。この地域は海に近く、土地がアルカリ性であるため、田んぼよりも畑に適しており、砂村ナスや砂村ネギ、砂村三寸人参などが豊富に採れるようになり、東砂三丁目には「東京都特産砂村採種場」がつくられま した。採れた農作物は、水運を利用して江戸のまちに届けられ、逆に、江戸のまちで出たし尿や魚のあらなどは、肥料として農地に運ばれました。生ごみの発酵熱を利用した「トコバ」(温床)による促成栽培なども行われ、旬よりも早く出荷する「野菜の早出し」をしていました。

仙台堀川公園

大正期以降は工業化・都市化により、農業は減少していきました。一方で、大正六年(1917年)の大洪水で被災した砂町地区の復興と工業発展のため、昭和八年(1933年)に民間会社によって砂町運河が開削されました。砂町運河は工場運営のために重要な役割を果たしたものの、地盤沈下や度重なる高潮被害によって民間での維持管理が極めて困難になり、昭和二十三年(1948年)に東京都に寄贈され、昭和四十年(1965年)の河川法改正により「仙台堀川」となりました。その後、昭和五十四年(1979年)に「区民の森」をテーマに仙台堀川公園が整備され、この場所に砂町魚釣り場ができ、約40年間区民の身近なレジャー施設として親しまれました。砂町魚釣り場は工業用水の廃止に伴い令和四年(2022年)に閉鎖され、その跡地を区民農園として再整備しました。




仙台堀川が南北から東西に向きを変える地点の手前に、今は滅多に目にすることがない茅葺きの「旧大石家住宅」が建っています。



旧大石家住宅は、江戸時代に建てられた区内最古の民家建築です。安政の大地震・大正の大津波・関東大震災・戦災と幾つもの災害を免れ、建築当初の姿をとどめた貴重な住宅です。平成六年3月に江東区の有形文化財(建造物)に指定されると共に解体調査を行い、平成八年に仙台堀川公園内のふれあいの森に移築復元されました。

江東区指定有形文化財(建造物)
旧大石家住宅

旧大石家住宅は、平入り寄棟造りで、木造茅葺きの区内最古の民家です。規模は、梁行が三間半、桁行が五間半です。江戸時代後期、舟入川(四十丁川)南端の堀留に面して建てられた、半農半漁の典型的な住宅建築です。大石家の伝えによれば、安政二年(1855年)の大地震でも倒壊しなかったといわれています。その後も大正六年(1917年)の大津波、関東大震災、戦災をまぬがれました。戦後増改築が行われましたが、基本的な構造に変化はありません。区内で戦後取り壊しを行っていない木造茅葺きの民家は、旧大石家住宅が唯一の例であり、江戸時代の関東南部ないしは江戸近郊農村における農家の母屋の姿を残す、たいへん貴重な住宅といえます。その文化的・歴史的価値を守り伝えるため、平成六年三月に区の有形文化財(建造物)に指定するとともに、解体工事を行い、平成八年九月、当地に移築復元しました。




旧大石家住宅を囲むように、ふれあいの森が広がっています。ここには全国の都道府県から集められたそれぞれの県花・県木が植樹されています。ちなみに、江東区の県花はサザンカで、県木はクロマツです。



公園がL字型になった地点から西方向に幅の広い遊歩道が延びています。ここには、かって砂町運河がありました。

砂町運河跡

区民の憩いの場として親しまれているこの仙台堀川公園は、かって砂町運河として民間の手により開削された、例の少ない運河です。砂町が農村から工業の町へと発展していくなかで、船による輸送力の向上を見越して運河の開削が計画され、大正八年(1919年)に東京運河土地株式会社が創立されました。同十一年に着工し、小名木川の合流点から現在の都立東高校の正面にあたる東砂7−19までの南北の一線、続いて旧舟入川合流点から横十間川合流点までの東西の一線が昭和八年(1933年)までに完成しました。昭和二十三年(1948年)、東京都に移管されて砂町川と名称を改め、昭和四十年、河川法の改正に伴い、仙台堀川の一部となりました。昭和三十年ごろまでは、周辺の製材工場の木材が水面に浮かぶ光景がみられましたが、砂町が工業地帯から住宅地へと変貌をとげると、運河としての役割も終わり、昭和五十五年に埋め立てられ、親水公園として生まれかわりました。




広場の中央に大きな石碑が置かれています。

仙台堀川公園の由来

砂町地区をL字型に流れる仙台堀川は、川幅三十六メートル・延長約二千八百メートルに及び、かつては砂町運河として開削されたのが始まりである。この運河は大正六年の大水害で被災した砂町地区の復興と工業振興のために、大正十年東京運河土地株式会社によって開削が始められ、昭和八年に完成したものである。その後、地域の工業発展のために重要な役割を果たしたものの大正十二年の関東大震災以来の地盤沈下に加え、度重なる高潮の襲来などで運河の維持が極めて困難となり、昭和二十三年東京都に上地されることになった。上地された後、砂町運河は砂町川と改称され、いかだの係留や舟行などに利用されていた。そして昭和四十年の河川法の改正に伴い、隅田川に結ぶ従来からの仙台堀川と合流し、一級河川仙台堀川に一本化されたのである。仙台堀川は長年の地盤沈下により護岸のかさ上げが繰り返され、漏水が各所に発生し、水質の汚濁が進んだことにより、防災上危険な河川との指摘をうけ、その状態での河川の維持は困難となった。そこで区は地域住民の埋立て要望が高まる中で、河川の安全性を確保し、河川のよみがえりを図ることを緊急課題として取り組み、昭和五十三年一部水路を残し、高水敷を造成する画期的な工事に着手した。この画期的な工事は地域住民の協力のもとに順調に進み、河川の安全性確保の目処が立った昭和五十五年四月仙台堀川は親水公園として生まれ変わり、ここに河川の再生をみたのである。




横断歩道の手前に、福島橋の親柱が保存されています。福島橋は、昭和二十四年(1949年)に仙台堀川に架けられた橋で、長さは40mほどありました。仙台堀川の埋立により、昭和五十七年(1982年)に撤去されました。



仙台堀川公園は明治通りと交差しますが、陸橋の下に人道トンネルが通っています。



ここには、かって弾正橋が架かっていました。「弾正」は近辺の字名で、昭和九年(1934年)に架け替えられた時に弾正橋に改称されました。平成八年(1996年)に仙台堀川が公園になった際に撤去されました。弾正橋は大正時代に電機鉄道(都電)の鉄道橋として砂町運河に架けられました。昭和五十三年(1978年)に仙台掘川が埋め立てられて親水公園となった際、橋の一部が残され、中央部分に当時の鉄橋のレリーフがあります。

弾正橋由来

弾正橋は、大正時代、城東電機鉄道の鉄道橋として砂町運河に架設され、その後、明治通りの道路整備に伴い、昭和五年に道路及び鉄道橋として鋼橋に生まれ変わりました。この橋のすぐ西側には、木橋で架設された秋山橋があり、住民の通行の手段でしたが、この道路整備に伴い秋山橋も撤去されました。弾正橋の名前の由来は、もともと境川に架かっていた橋の名前でしたが、大正十三年からの震災復興事業のため境川が埋め立てられ、取り壊されたことを惜しみ、つけられたものです。なお、現在の南砂付近一帯は江戸時代から明治時代にかけ砂村新田と呼ばれ、その中に八つの地区があり、その一つが「弾正」でした。この橋の下を流れる仙台堀川は昭和五十三年からの埋め立てに伴い、同五十七年に親水公園となり地域の人々に親しまれてきました。平成の世となり、弾正橋も撤去の必要が生じ、ここに橋名板と、当時の橋の偲かげのレリーフを残し、橋の歴史を永くとどめるものとしました。




ポイント4 南砂緑道公園

旧弾正橋の南詰めから明治通りに上がり、葛西橋通りを渡って南砂三丁目交差点の脇から南砂緑道公園に入ります。南砂緑道公園は、かって都電38系統が走っていた専用軌道の跡地に造られた遊歩道公園です。片道1kmほど続く遊歩道は自転車用と歩行者用に分かれていて、安心して散歩を楽しむことができます。



遊歩道沿いにはたくさんの植栽が溢れていて、四季によって全く違う景色を楽しむことができます。特に春の桜の時期に、風に舞う桜吹雪を見物しながらのお散歩は格別です。



藤棚の先に、JR貨物専用の越中島線の軌道が頭上に架かっています。昭和四年(1929年)に小名木川の水運との物流連絡のため、亀戸駅から小名木川駅まで開業し、その後越中島駅(現在の越中島貨物駅)まで延伸されました。



越中島線の軌道を潜った先に、レールに乗った車輪が置かれています。その横に案内板が立っています。

この緑道公園は、もと都電(城東電車)の走っていた用地に、みどりといこいの散歩道として建設されたものです。城東電車は大正六年から設置され、この緑道公園の区間は昭和二年にしかれましたが、昭和四十七年11月に廃止されるまで、チンチン電車の愛称で広く親し まれていました。

この車輪は都電に使用されたものです。
車軸 昭和二十八年8月製造
車輪 昭和四十年10月(ギャ側)製造
   昭和四十一年4月(アクスルカラー側)製造




都心の中の緑溢れる南砂緑道公園は、江東区の「まちなみ景観賞」を受賞しています。また、歩行者が安全に歩けるように、遊歩道の片側はタイル敷の歩行者用歩道、もう片方は自転車用の車道になっています。



ポイント5 長州藩大砲鋳造場跡

遊歩道脇の植え込みの中に大砲が展示されています。アンヴァリッドは、正式にはオテル・デ・ザンヴァリッドといい、1671年に当時のルイ14世が傷病兵を看護する施設として建てた施設です。ドーム教会の地下に設けられた墓所には、ナポレオン・ボナパルト(フランス皇帝ナポレオン1世)の柩が置かれています。フランス軍事博物館が併設され、中庭には馬関戦争でフランス帝国海軍によって押収された長州藩の大砲の一部が展示されています。

長州藩大砲鋳造場跡

パリのアンヴァリッド(廃兵院)に、長州藩主毛利家の紋章がある青銅の大砲が保存されています。この大砲には、次のように刻まれています。

十八封度(砲)(ジュウハチポンドほう)
嘉永七歳次甲寅季春(かえいしちさいじこういんきしゅん)
於江都葛飾別墅鋳之(こうとかつしかべっしょにおいてこれをちゅうす)

「江戸切絵図」を見ると、現在の南砂ニ〜三付近に長州藩主松平大膳大夫の屋敷があったことがわかります。「葛飾別墅」とは、この屋敷をさしています。長州藩では、嘉永六年(1853年)十二月、三浦半島の砲台に備えつける大砲を鋳造するため、鋳砲家を江戸へ呼び寄せました。翌七年(安政元年)正月、幕府の許可を得て、佐久間象山の指導のもと、砂村の屋敷内で大砲の鋳造を始めました。当時、尊皇攘夷の急先鋒だった長州藩は、この大砲を三浦半島から下関に移し、砲撃により関門海峡を封鎖しました。これに対し、元治元年(1864年)イギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合艦隊が下関の砲台を攻撃、陥落させました。パリの青銅砲はこの時、フランス軍により海を渡ったものです。




大砲が置かれた石の台には碑文が刻まれています。こんなに大きくて重たい大砲をどうやって江戸から下関まで運んだのでしょうか?

このモニュメントは、パリのアンヴァリッドに保存されている大砲をモデルにしたものです。実際の大砲は、長き約3メートルです。



南砂緑道公園は南砂二丁目交差点で永代通りに合流します。



ゴール地点の東京メトロ東陽町駅に着きました。



ということで、江東区で四番目の「青龍C運河・自然満喫」を歩き終えました。次は江東区で五番目のコースである「青龍D季節の草木を楽しみながら歩く」を歩きます。




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