- 青龍D季節の草木を楽しみながら歩く
- コース 踏破記
- 今日は江東区の「青龍D季節の草木を楽しみながら歩く」を歩きます。都営新宿線東大島駅から小名木川・仙台堀川公園を経て、南砂町駅横のメトロ・スナチカを訪れます。残念ながらコロナ渦で休業中のため運転練習はできませんでした。最初に歩いたのは2022年の2月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年3月に改めて歩きました。
青龍D季節の草木を楽しみながら歩く
仙台堀川公園など、安全に歩けるコース。四季の草花を楽しむことができます。
「青龍D季節の草木を楽しみながら歩く」の歩行距離は約4.4km(約6、290歩)、歩行時間は約1時間6分、消費カロリーは約198Kcalです。
スタート地点:都営新宿線東大島駅大島口
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- ポイント1 中川船番所資料館
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江戸時代の川の関所「中川番所」と水運に関わる資料を展示。
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- ポイント2 小名木川
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徳川家康が行徳から江戸へ塩を運ぶために造らせた人工河川。
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- ポイント3 仙台堀川公園
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清洲橋通り〜小名木川間では、再整備の計画がスタート!
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- ポイント4 旧大石家住宅
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区内最古の民家を移築。江戸時代の建物は江東区の有形文化財。
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- ポイント5 メトロ・スナチカ
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南砂町駅改良工事を案内中。シミュレーターで運転士気分も楽しめます。
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ゴール地点:東京メトロ南砂町駅出入口2a
スタート地点の都営新宿線東大島駅大島口から歩き始めます。
江東区には四神をモチーフにしたモニュメントが区内の東西南北各地域に配置されています。「四神」とは、中国で古代から伝えられてきた天の四方(東西南北)を司る霊獣で、
北=「玄武」
東=「青龍」
南=「朱雀」
西=「白虎」
とされています。「季節の草木を楽しみながら歩く」は江東区の東エリアを巡りますので、四神のうち東の方角を守護する青龍のグループに入っています。駅前広場の中央の植え込みの中に青龍のモニュメントが置かれています。
青龍(せいりゅう)
天の四方の方角をつかさどる神のうち、東の方角を守護するといわれる。中国古代の思想に由来する「四神(しじん)」のひとつ。
ちなみに、青龍は「春の象徴・川の流れ」を表し、東の方角を守護しますが、青龍と東方との結び付きは、五行説が中央に黄色・北方に黒・東方に青・西方に白・南方に赤と五色を割り当てたことに由来しています。
駅前広場の向かいの高台に大島小松川公園があります。公園は旧中川を挟んで江東区と江戸川区に分かれていて、江東区側には、テニスコート・野球場・サッカー場が併設されたスポーツ広場と広大な芝生が広がる「わんさか広場」があります。江戸川区側には、バーベキューなども可能な自由の広場・旧小松川閘門が保存された風の広場・季節の広場があります。かって、公園の周辺地域は海抜ゼロメートルの工業地帯でしたが、災害時の避難場所となるように土地の嵩上げが行われ、大規模な防災拠点公園として平成九年(1997年)8月1日に開園しました。
わんさか広場には2つの芝生広場があり、バスケットゴールなども設置されていて、様々なレクリエーションに利用されています。「わんさか」とは、「人が大勢押しかける」という意味で使われます。江東区側の地下には都営地下鉄新宿線の車両基地である大島車両検修場があります。
- ポイント1 中川船番所資料館
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わんさか広場と道路を挟んだところに、江戸時代の川の関所だった中川船番所資料館があります。
中川船番所資料館
水彩都市・江東の歴史を伝えるために、小名木川の中川口に設置されていた関所「中川番所」の地に資料館を開設し、ジオラマなどにより、中川番所を再現し関東や江戸の水運、江東区の歴史・文化がわかる資料を展示しています。
Nakagawa Funabansho Museum
Nakagawa Lookout controlled boat traffic to and from the city of Edo and stood at the Nakagawa Mouth of Onagi River. The lookout ("funabansho") has been recreated and
re-opened as a museum, with exhibitions that showcase the importance of waterways to the history and culture of Koto City, Edo and the Kanto region as a whole.
資料館の3階に、中川番所のジオラマが再現されています。
中川番所の再現
中川番所は中川関所ともよばれ、河川交通路上における江戸の出入り口に設けられた関所です。小名木川が中川へ流入する中川口の北岸、小名木村に設置されていました。中川対岸の船堀川からは江戸川・利根川水系へとつながり、江戸と関東各地さらには信越・東北方面を結ぶ流通網の要として、ここを通過する船の積荷と人を改めました。江戸時代中期以降、江戸へ運ばれる荷物の品目と数量を把握する機能も担うようになり、海上交通路上における浦賀番所(横須賀市)と並び江戸の東側窓口として重要な機能を果たしました。この番所の建物は平成七年に行われた発掘調査と江戸時代後期に描かれた絵画資料に基づき再現したものです。
壁には、中川番所の機能と役割を解説したパネルが貼られています。
中川番所
江東区の歴史は、広大な低湿地を開発・改良していく歴史でもあります。また、土地の埋立て・開発と並行していくつもの河川が開削され、その水運網をもって巨大都市江戸の消費生活を支えてきました。関東一円をめぐる水運を取り締まる拠点として、江戸時代を通じ重要な役割を担ってきた中川番所の歴史と機能についてみていきます。
中世の低地・江東
関東で荘園が開発される平安時代から鎌倉時代にかけて年貢の輸送や連絡の確保のために、水路や港が整備されていきました。中世の江東は、13世紀前半までに成立した葛西御厨と呼ばれる伊勢神宮領の荘園の一部で、隅田川や太日川(江戸川)といった大河川の河口部に位置していました。現在の亀戸周辺は海岸線に砂洲により築かれた微高地で、ここから河川を利用して陸路と連携し、さらに江戸内湾と関東内陸を結ぶ水運の要地として、中世から発展していました。
中世・江東の情景
「東路の津登」宗長 永正六年成立
(略)翌日市川といふ渡の折ふし、雪風吹て、しばし休らふ間に、むかひの里に云あはする人有て、馬ども乗もてきて、やがて舟渡りして、あしの枯葉の雪うちはらひ、善養寺といふに落着ぬ、面白かりし朝なるべし。此処は炭薪などもまれにして、あしを折たき豆腐をやきて一盃を勧めしは、都の柳もいかで及ぶべからんとぞ(略)
「東路の津登」は連歌師宗長(1448年〜1532年)が永正六年(1509年)7月中旬から12月初旬にかけて、武蔵・上野・下野から房総方面を旅した際の紀行文。房総では舟や馬を乗り継ぎ、当時すでに人馬の継ぎ立てがあって、水上交通が整えられていたことがわかります。ここで紹介した一文は、市川の渡しを渡って、小岩(江戸川区)の善養寺へ至る部分です。川辺に生い茂るアシの枯葉に降り積もる雪を川船で払いながら進む様子や、薪の代わりにアシを火にくべる当時の低湿地の情景が書き留められています。
江戸の形成と小名木川
天正十八年(1590年)江戸入りした徳川家康は、城下町江戸の建設にともない、中世からすでに整えられていた水運をとりこむことにつとめます。神田・日本橋周辺の土地の造成や江戸湊の整備、小名木川の開削などはその一環といえます。小名木川は慶長年間(1596年〜1615年)に干潟沿海の水路として確定していたものを埋め残す形で造られた沿海運河です。小名木川からさらに東へ延びる船堀川も同時期に開削され、江戸城大手門から江戸川・利根川水系へつながる重要な物資の輸送路が確保されました。
河川の改修と水運網の整備
徳川家康は、文禄三年(1594年)利根川水系の会(あい)の川締め切りを手始めに、複雑だった関東諸河川の水路を整備し、関東一円の水運網を整える大土木事業に着手します。荒川は利根川と切り離され、和田吉野川・市野川・入間川を本流とする流れに変わり、それまで江戸湾に注いでいた利根川は常陸川を経て銚子河口へいたる流路に変更されました。これにより海運あるいは、常陸那珂湊(茨城県)より所々を陸送で結びながら河川を使用していた東北諸藩からの江戸廻米は、よりスムーズに江戸まで回漕できるようになりました。
近世の関所
関所は古代からすでに存在していましたが、近世に入ると江戸幕府は峠や河川の渡し場など交通の要所に関所を設け、領内の治安維持にあたりました。江戸につづく五街道はもちろん、脇街道の要所にも設置され、通行には幕府が発行した手形が必要でした。延享二年(1745年)の時点で、全国で53カ所を数え、中川番所はそのひとつに含まれます。これらの関所では、主に、鉄砲をはじめとする武器と女性や怪我人・囚人の通行を取締りました。
深川番所の成立
深川番所は、中川番所設置以前に江戸へ出入する川船を改めた機関です。小名木川の隅田川口に架かる万年橋北岸に設置されていました。設置年代は未詳ですが、正保四年(1647年)に深川番が任命されているのでこのころのことと思われます。寛永年間(1624年〜1644年)には関東一円の河川の大改修工事が完了し、江戸への物資輸送はより便利になりました。同じころ、小名木川南岸の海辺大工町(清澄・白河)には、江戸へ向かう船の積荷を小船に積み替えるために一時着岸する港が成立しています。このように小名木川を利用した水運網が確立し、これらを取締ることを目的に番所が設置されました。
中川番所の成立
明暦三年(1657年)の大火を契機に幕府は江戸の防火対策の一環として、本所深川の開発に取り組み、江戸市中から武家屋敷や寺院を移転させました。またこの時期に竪川・十間川(横十間川)・大横川・ 北十間川・六間堀などの運河の開削も行われました。こうして本所深川地域は江戸市中に組み込まれ、深川番所はその機能を低下させていき、寛文元年(1661年)6月、中川口へ移転しました。敷地面積は東西26間余、南北17間余。以後中川番所として、深川番所の機能を受け継ぎ、江戸時代中期以降は、商品荷物の流通を把握する機能も担うようになりました。
中川番所の役人
中川番所に勤めた役人は中川番とよばれ、寄合に属する旗本で、3千石から8千石の、かなり高禄の旗本が勤めていました。勤務形態は3名から5名の中川番が5日交代で勤務しましたが、実際に番所に詰めたのは家臣で、旗本自身は将軍の御成りなどの特別な時以外は詰めなかったようです。幕末の記録では、中川番の下に番頭2名・添士2名・小頭2名が置かれ、さらにその下に下役人が存在しています。これらの下役人の服務規程として、船改めは小頭の立合いのもとで行い、みだりに品に手をかけないこと、親兄弟でも番所の中へ入れてはいけないこと、博打や乱酔、喧嘩・口論、番所構内および近辺での殺生、買い物などが禁止されていました。
中川番所の高札
中川番所が隅田川口から中川口に移転した寛文元年(1661年)に出された高札の文言です。
- 一、
-
夜間の江戸からの出船は禁止、入船は許可する。
- 一、
-
中川番所前を通過する時には、乗船している人々は笠や頭巾を脱ぎ、船は戸を開けて内部を見せる。
- 一、\DT>
-
女性は身分の上下によらず、たとえ証文があっても一切通行は許可しない。
- 一、
-
鉄砲は二・三挺までは改めの上通行を許可するが、それ以上の場合は指図を請ける。そのほかの武具についても同様である。
- 一、
-
人が入ることのできる大きさの器は確かめたうえ、異常がなければ通す。小さい器に関しては改めには及ばない。万一、不審な点があれば船を留め置き報告をする。
附 囚人や怪我人、死人についても、証文がなければ通行は許可しない。
以上が中川番所の通関規定の基準となるものですが、これには例外やその時々の政策によって緩和されるものもありました。番所の通船は明六つから暮六つ(日の出から日没)と規定されていましたが、幕府における特別な公務の場合には老中や目付からの証文があれば夜間でも出船できました。また、夜間の入船を許可されていたのは生魚・野菜類など生鮮食品のみでした。女性の通行に関しては、抜け道もあったようですが、縁組や神社仏閣への参詣のための通行は認められました。また、規定以上の武器武具が通行する時には、所定の手続きが必要とされました。
武家荷物の査検
中川番所での通関手続きがとくに厳重だったのは、高札にも定められている通り、鉄砲とそれに関連した物資(玉・硫黄・鉛など)でした。しかもこれらは武士とそれに準じる身分の者だけに限られ、商人や職人が自分の荷物として通関させることはできませんでした。また身分により数量制限や通関手続きが異なりました。大名の領地の所替などで大量に武器荷物が通る時には老中の証文が必要で、査検にあたっては日数をかけ、鉄砲は包を解いて調べ、玉数にいたるまで改めました。参勤交代については武器武具が含まれていなければ、あらかじめ提出しておいた印鑑と証文を照合することで通行を許されました。
商品荷物の査検
江戸時代中期以降になると、関東地廻り経済の進展に伴い、さまざまな物資が河川を利用して江戸へ運ばれるようになります。幕府はこうした商品流通上に果たす通船改めの機能に着目し、幕府の流通政策や物価政策の実効を確認する目的で、特定の品物に限り綿密な査検を行い、数量を把握するようになります。中川番所を通関するにあたってとくに手続きを必要とした品物を御規定物と呼びます。御規定物は、ある時期に一括して定められたものではなく、幕府の政策展開のもとで個々に定められていったものです。
地廻り酒問屋と中川屋清蔵
寛政三年(1791年)12月、幕府は米価高騰に伴い酒造高を従来の3分の1に減らすよう発令し、それが実施されているかどうかを確かめるため、翌四年1月より浦賀番所・中川番所および川船役所の出先機関である橋場船改役所において酒荷物の査検を開始しました。中川番所で査検の対象としたのは関東周辺の地廻り酒でした。しかし、問屋での受取りと番所での査検の日限とに誤差が生じ、町奉行所から理由を問いただされるなどしたため、地廻り酒問屋の要望で小名木村で船宿を営む中川屋清蔵が通関手続きを代行するようになります。
庶民にとっての中川番所
江戸時代中期以降になると、幕府の積極的な経済政策の展開により、地方へも貨幣経済が浸透していきます。その結果は文化にも影響を与え、農民・町人の間にも豊かな文化が芽生えます。庶民がこぞって旅をするようになるのも、こうした経済の進展と文化の伝播によりもたらされたもののひとつです。江戸では四季折々の行楽が楽しまれましたが、主流は日帰りの名所めぐりでした。日本橋小網町の行徳河岸(中央区)からは、小名木川を通り行徳(市川市)へ向かう定期船が就航し、船遊山を楽しむ多くの人々が中川番所の前を通過していきました。庶民にとって中川番所がどのような存在であったのかは、庶民が残した川柳や紀行文からうかがえます。
幕末期の中川番所
19世紀後半、混迷する幕政を反映して各地で政治運動が激化していきます。こうした潮流を迎え中川番所の査検方法にも変化がみられます。桜田門外の変(1860年)の後、人別・荷物改めを強化し、番所の外では船手組による通船改めが行われました。また中川番に番所周辺の見回りを命じるなど、中川口での警戒に力を入れていきます。しかし一方では、参勤交代制度が緩和され、大名の妻子の帰国が許可され、武器の通行手続きも簡略化されるなど、それまでの機能が徐々に希薄になっていったといえます。
中川番所の廃止
慶応三年(1867年)10月、大政奉還が布告され、翌四年4月、江戸城が開城され、同年9月明治と改元されます。中川番所では、明治二年(1969年)2月、全国の関所が一斉に廃止されたのちも、軍務官の管轄下で水戸藩士が詰めて印鑑の査検を行っていましたが、若森県(茨城県・千葉県)から民部省への問い合わせにより、同年5月廃止が正式に指令されました。ここに深川番所の設置から約220年にわたり、川船の航行を取締ってきた中川番所は終焉を迎えました。
3階の常設展示室には多数の資料と当時の水運を解説したパネルが壁一面に貼られています。
資料館の2階には、区民から寄贈された資料をもとに、昭和三十年代から昭和四十年代の生活の様子を再現する「郷土の歴史・昭和の暮らし紹介展示室」があります。
中川船番所資料館の前の横断歩道を渡ると、旧中川の堤防上に「旧中川・川の駅」の施設があります。
旧中川・川の駅
川の駅は、旧中川と小名木川との合流地点に、新たな水辺のにぎわい拠点として平成二十五年(2013年)3月に開設されました。水陸両用バスが川に進水するためのスロープが整備されており、勢いよく川に飛び込む水陸両用バスの姿を間近で見ることができるほか、誰でも立ち寄れるにぎわい施設があります。
Former Nakagawa River Station
This "river station" opened in March of 2013 at the junction of Old Nakagawa River and Onagi River to serve as a new community base for the waterside. A slope has been
installed to allow amphibious buses access to the river, and visitors can observe the impressive splash made by the buses during transition. Anyone is welcome to the lively facility, which is used as a gathering space.
旧中川の河川敷には東屋も建てられています。夏には日陰で川風を感じながら休息できそうです。
「中川番所」から「旧中川・川の駅」へ
江戸最初の運河・小名木川が開かれました
天正十八年(1590年)江戸に城下町を作ることになった徳川家康は、江戸への物資の輸送路として、小名木川を開きました。江戸に通じる最初の運河です。下総国行徳産の塩を江戸へ運ぶために開いたとされていますが、以後米・醤油・野菜など多くの物資や人がここを往復しました。沿岸はしだいに町場となって、現在の江東区の原型が作られていきました。
寛文元年(1661年)中川番所ができました
利根川をはじめ関東各地の河川が整備され、「奥川筋」(江戸の奥)と呼ばれる水体系となりました。関東一円の「奥川筋」と江戸の運河がつながったことから、人やモノの動きをおさえるため、江戸幕府はこの地に、寛文元年(1661年)中川番所を開きました。ここが、水路としての江戸への入り口になった瞬間でした。
現代版の中川番所をコンセプトに「旧中川・川の駅」を整備
この旧中川・川の駅は、かつて江戸の入り口として舟運で賑わっていた、中川の風景を復活させることをコンセプトにしております。水陸両用バスが入出水するスロープや、カヌー・カヤックなど、地元密着のウォータースポーツが利用可能な乗船場を整備しました。観光船や防災船着場など、多様な水辺利用の拠点として活用していきます。
旧中川の川縁には船着き場が造られ、水陸両用バス「スカイダック」のスプラッシュポイントとなっています。護岸上には、川の駅に併設されたスウェディッシュカフェ&バーの「ATER Tokyo(オーテル トウキョウ)」もあります。休日の朝、カフェラテにシナモンロールを添えて、テラス席で日向ぼっこをしながらまったり過ごすのもいいですね。ちなみに、「ATER」はスエーデン語の「ATA」の現在形で、「誰かが現在食べている状態」を表します。
川の中にバスが浮かんでいます。一直線にスロープに向かって進んできます。
無事に水中からスロープを上がって停車場に着きました。水陸両用バスって、日本には何台あるんでしょうか?
- ポイント2 小名木川
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小名木川は、隅田川と旧中川を結ぶ運河(人工河川・水路)で、江東区の北部を東西一直線に横断しています。全長約5kmで、途中横十間川、大横川と交差します。小松橋と新扇橋の間には扇橋閘門が設置されており、閘門より東側は地盤沈下が激しくゼロメートル地帯の顕著な地域のために水位を1m下げています。小名木川は、江戸時代初期に徳川家康の命令で建設されました。1590年頃、江戸城を居城に定めた徳川家康は兵糧としての塩の確保のため、行徳塩田(現在の千葉県行徳)に目を付けました。しかし当時行徳から江戸湊(当時は日比谷入江付近)までの江戸湾(東京湾)北部は砂州や浅瀬が広がり船がしばしば座礁するため、大きく沖合を迂回するしかありませんでした。また、沖合を迂回した場合でも、風向きによっては湾内の強い風波を受け船が沈むことも起き、安全とは言えませんでした。そこで小名木四郎兵衛に命じ、行徳までの運河を開削させたのが始まりです。運河の開削によって安全に塩を運べるようになり、かつ経路が大幅に短縮されました。その後、塩以外の品物の運搬や成田参詣客なども運ぶようになり、行き交う物量が増大しました。1629年、小名木川は江戸物流の重要河川と認識され、利根川東遷事業と併せて拡幅されました。小名木川と旧中川・新川の合流地点には、幕府の役人が駐在して行き交う船の積み荷に江戸の治安上危険な物などが紛れ込んでいないか確認するために簡易な検査をした「中川船番所」が置かれました。新川・江戸川・利根川を経由する航路が整備されると、近郊の農村で採れた野菜や東北地方の年貢米などが行き交う大航路となりました。開削とほぼ同時期に川の北側が深川八郎右衛門により開拓されて深川村になり、慶長年間に川の南側が埋め立てられて海辺新田となり、以降江戸時代を通じて埋め立てが進みました。やがて小名木川を中心に竪川・大横川・横十間川・仙台堀川などの整備が進み、重要な運河のひとつとして機能しました。明治時代に入ると、小名木川沿岸一帯はその水運で様々な原材料を運ぶことができたこともあって諸工業が盛んになり、工業地帯となりました。1930年に荒川放水路が完成しましたが、これに伴い荒川・旧中川・新川の合流地点には、「小名木川閘門」・「小松川閘門」・「船堀閘門」が設置されました。昭和五十年代には、地盤沈下などによりこれらの閘門は閉鎖されましたが、2005年に「荒川ロックゲート」が完成し、旧中川を経由して荒川への通行が可能になりました。旧中川・川の駅から下流方向に進んだ先から小名木川が扇状に口を開けています。
小名木川に架かる最初の橋は番所橋といいます。「番所」の橋名は、江戸時代に小名木川の中川口に設置されていた中川船番所に由来します。橋が架かる前は、ここに「草屋の渡し」がありました。
中川番所
中川御関所ともいいます。江戸幕府が武蔵国中川口 (小名木川の入口) に設けた番所です。初め深川の万年橋のほとりにあり,正保四年(1647年)9月には水野忠保が深川船改番を命じられています。寛文元年(1661年)6月に中川口に移転しました。江戸〜行徳間を往来する船を取調べました。延宝四年(1671年)6月以降,
(1)江戸からの夜の出船を禁じること
(2)女子は必ず証文を持つべきこと
(3)鉄砲などの武具の往来に注意すべきこと(入鉄砲出女)
などが定められました。
草屋の渡し
草屋の渡しは、明治十七年(1884年)に南葛飾郡又兵衛新田(東砂)の斎藤豊次郎により始められた渡し場で、又兵衛新田19番地(東砂2−13)と小名木村33番地(大島8−38)の間の小名木川を渡していました。草屋とは斎藤家の屋号で、幕末から耕作に使用していた渡し船を営業用としたものでした。渡し場は又兵衛新田側、小名木村側ともに約2間(3.6メートル)四方の木製船台を設置したもので、渡賃は一人一厘五毛、牛馬一頭一銭でした。当時、小名木川には万年橋・高橋・新高橋しか架設されていなかったため、渡し船は生活に欠かすことのできないものでした。小名木川にはその後、次々と橋が架けられていきましたが、草屋の渡しは昭和十年代まで営業を続けていました。
番所橋に続く2番目の橋の名前は「塩の道橋」です。人と自転車の専用橋で、2008年に完成した新しい橋です。橋の名前はかつて江戸まで塩を運ぶ道であった小名木川に因んでいます。川の両側の小学校5・6年生から募集して決定したのだそうです。橋はコの字型の平面形を持ち、外観は木を思わせる黄色の鋼板が使われています。
小名木川(塩の道橋)
「塩の道橋」の架かる小名木川は、江戸初期に開削された人工の川で、江戸時代には、千葉県の行徳から江戸に塩を運ぶルートとして重要な役割を果たしていました。この歴史を踏まえ、また、小名木川の景観との調和を図る外観として、「塩の道橋」は木を感じさせるデザインとなっています。
Onagi River (Shio-no-michi Bridge)
Onagi River is a man-made waterway that was constructed in the early Edo period, and served as an important highway for ferrying salt from Chiba prefecture to Edo city.
The Shio-no-Michi (Salt Path) Bridge which crosses it has an arboreal design, which serves to preserve the aesthetic of the riverside scenery and reflects on the importance of the river's history.
小名木川は、明治から昭和にかけて沿岸に多くの工場が並んでいました。明治時代の川の様子がガラスのレリーフに描かれています。当時は運搬船が行き交っていたのでしょうけど、今はボートの練習場になるほど整備されています。
- ポイント3 仙台堀川公園
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塩の道橋からスロープを下り、横断歩道を渡って仙台堀川公園に入ります。江戸時代に開削された本来の仙台堀は現在の平久川合流点までで、その東側の三十間川をつないで運河として利用されてきました。一方、大正時代には、砂町の発展に合わせた輸送力の向上を目指して運河の開削が計画され、大正八年に東京運河土地株式会社が設立されました。昭和八年までに小名木川から横十間川を結ぶ逆L字形の砂町運河が完成しました。民間資本で開削された例の少ない運河だということです。昭和二十三年に東京都に移管されて砂町川と名称を改め、昭和四十年に仙台堀川の一部となり、昭和五十五年に埋め立てられ、その後仙台掘親水公園として生まれ変わりました。2.8kmにおよぶ仙台堀川親水公園の大半はこの砂町運河跡ということになります。
仙台堀川は、江東区を流れる河川です。旧中川と隅田川を結ぶ運河のひとつでした。仙台堀川は、江東区木場の大横川交差地点を境にして、東西で河川形態は全く異なります。大横川交差地点から隅田川までの区間は河川水面は海水面と同じ水位であり、途中で平久川と大島川西支川に分流し、江東区清澄付近で隅田川に合流します。合流する手前には清澄排水機場があります。大横川交差点より東側では仙台堀川は堰き止められて海水面より水位が低くなっており、埋め立てられて仙台堀川公園となっています。「仙台堀」の名前は、北岸にあった仙台藩邸の蔵屋敷に米などの特産物を運び入れたことに由来します。そのため、「仙台堀」とも呼ばれていました。以前は小名木川〜横十間川間に開削された砂町運河、横十間川〜大横川間の十間川、大横川〜隅田川間の仙台堀川と分けられていましたが、昭和四十年(1965年)の河川法改正によりひとつにまとめられました。大横川と交差する地点では三十間川とも呼ばれていました。仙台堀川公園は、小名木川と接する桜井橋から江東区道大門通石住橋付近までの3.6kmの区間を占める、都内最大規模を誇る江東区立の公園です。「区民の森」という愛称で親しまれています。桜の季節になると、旧境川橋付近より北側の遊歩道沿道は出店も多く、花見客で賑わいます。サイフォンなどで公園内に通水しているため、水は塩辛く、淡水と海水の混ざった汽水域を好むハゼも泳いでいます。仙台堀川は、寛永年間以後に開削され、運河として利用されてきました。さらに横十間川より上流が明治以降に延長されました。昭和になり工業地帯として発達すると、仙台堀川の流れている一帯は付近にあった工場などからの地下水の汲み上げにより地盤沈下が激しくゼロメートル地帯となっていました。これによって川の水位より低い土地が出来上がり、護岸壁の高さもどんどんと上げていかなくてはならない状況でした。特に木場公園から東側の江東内部河川では台風の時などは護岸壁を超えて川から水が溢れる危険がありました。このような危険を回避するために、昭和五十七年(1982年)に木場公園から東部の江東内部河川は扇橋閘門等を設けて堰き止め、排水機場から常時排水することによって水位を下げることとしました。そして水位の下がった仙台堀川東側は埋め立てて公園とする工事が進められました。工事は昭和五十三年(1978年)に始まり、公園としては昭和五十五年(1980年)4月1日に開園しました。その後も工事は進み、昭和六十一年(1986年)に全面的に完成し、仙台堀川の多くは樹木と川とを身近に感じることのできる親水公園と大きく変わりました。西側の境界は大横川合流地点で、北は小名木川合流地点までとなっています。大横川合流地点より西側は仙台堀川として河川になっています。流域は、江東区の北砂・東砂・南砂・千石・東陽にまたがっています。公園は各地区ごとにテーマがあり、そのテーマごとに趣向を凝らした造りとなっています。途中で、同じく河川を埋め立てて作った横十間川親水公園と合流しています。
仙台堀川公園は東西に通る道路で何カ所かに分断されています。補助117号線を渡った先から清洲橋通りまでの区間は最近リニューアル工事が終ったようで、いろんな施設が新しくなっています。子供の彫像は2022年と2025年で変っていないようです。
左がコロナ禍の2022年3月に訪れた時のもの、右が2025年3月に再訪したときのもの。
遊歩道の両側には桜並木が続いています。遊歩道の脇を流れる仙台堀川は、今ではポンプで汲み上げた水を使っているそうです。
小さいながらも池が造られています。
自然観察池のご案内
自然観察池は生物多様性の保全を目的とし、まちの中で野生の生き物たちが安心して生息できるとともに、人と自然がふれあう場として作った場所です。
概要
自然観察池はどなたでも入れる「観察エリア」と生物保護のため立入禁止とする「保護エリア」に分けています。池の中には凹凸のある池底、石積などをつくり、陸にむけてはエコトーンをつくるなどして、生き物が住める様々な環境を作っています。
生物多様性
生物多様性とは、生物たちの豊かな個性とつながりのことです。地球上には3000万種ともいわれる多様な生き物が生息していると言われ、これらの生命は一つひとつに個性があると同時に、互いに関わり合いながら生きています。しかし、近年では開発や乱獲、自然に対する人間の働きかけの縮小、アメリカザリガニなどの外来種や化学物質の持ち込み、地球温暖化による地球環境の変化など、主に人間活動の影響によってたくさんの生き物が危機ににさらされており、絶滅のスピードは自然の速度の約1000倍にもなっていると言われています。自然観察池は地球上で見たら非常に小さな場所ですが、このような生き物が安心して住めるような環境を創出し、そして自然のことについて知ってもらうことが生物多様性の保全に繋がる一歩となります。そのために、多くの生き物が安心して住めるよう、みんなで大切に守り育てていきましょう。
仙台堀川公園には約500本の桜の木が植えられていて、3月下旬頃から全長900メートルものソメイヨシノの桜並木が出現して江東区の春の名物になっています。
ソメイヨシノ
染井吉野。落葉高木。葉の出る前に淡紅色で一重の花を枝いっぱいにつけます。花色は満開にちかづくにつれ淡くなります。
バラ科
今は蕾のままですが、開花まで1週間位でしょうか?お花見の雪洞が待ちきれないようです。
仙台堀川公園の由来を記した案内板が立っています。
仙台堀川公園
由来
この川は、大正十年に、砂町運河として民間の手によって開削された例の少ない運河で、その後仙台堀川と合流しました。仙台堀川は、江戸時代にその沿岸に仙台藩伊達氏の蔵屋敷があったことからこの名がつきました。仙台堀川が流れる区内東部は特に地盤が低く、「天井川」で常に水害の危険にさらされていた地域でした。そのため防災性を考慮し、緑に重点を置き、桜並木のほか250種類の樹木約24、000本が並ぶ「区民の森」として造成しました。
じゃぶじゃぶ池もリニューアルされました。
清洲橋通りを渡った先に砂町魚釣場があります。砂町魚釣場は江東区が管理している無料の釣り堀で、釣れる魚はヘラブナと鯉です。都内で手軽に釣りが楽しめる釣堀として人気です。初めて釣りを始める初心者にもお勧めです。釣り堀ではありますが、釣り竿や餌など釣り具一式の販売・レンタルはありませんので全て持参する必要があります。釣り竿は1人1本までで、長さは18尺(5.4m)までの決まりがあります。この日もヒマなおじさん達で賑わっていました。
しかし、しかし、砂町魚釣場は料金の安い工業用水を利用して運営していますが、東京都の工業用水事業が廃止となる予定のため、令和四年12月28日(水)をもって閉鎖されるとの告知がされています。
砂町・豊住魚釣場の閉鎖について
砂町・豊住魚釣場の閉鎖について
砂町・豊住両魚釣場では、料金の安い工業用水を利用して運営してまいりましたが、令和四年度末にて工業用水が廃止となることとなりました。加えて、施設の老朽化等もあり、砂町・豊住両魚釣場は、永きにわたりご愛顧をいただいているところですが、令和四年12月28日(水)をもって閉鎖することといたしました。
<具体的な閉鎖理由>
- 工業用水道廃止のため。(上水道に切り替えると、費用が約7倍になる。)
- 施設の性質上、節水の取組は困難であり、ろ過装置の設置にも多額の費用がかかる。
- 利用者が減少している。(2魚釣場の令和元年度の延べ利用者は11、482人で、平成二十九年度に比べ、5、135人減少している。)
- 週3日以上魚釣場を利用する方は、砂町73.8%、豊住46.8%であり、利用者が固定化する傾向にあり、新たな需要は見込みづらい。
- 事業開始から40年以上が経過し、陥没や漏水など施設の老朽化がみられ、改修に多大な費用を要する。
※工業用水道事業とは
東京都の工業用水道事業は、地盤沈下防止のため、地下水揚水規制に伴う代替水を供給する事業として始まりました。その後、昭和五十年代以降地盤沈下がほぼ沈静化し目的を果たしましたが、工場の郊外移転等により需要の減少傾向が続き、料金収入が落ち込むなど厳しい経営状況となっていました。加えて、施設・設備の老朽化が進行しており、今後の需要増も見通せないことから、東京都は令和五年3月31日をもって工業用水道を廃止することを決定しました。
砂町魚釣場の跡地利用について
砂町魚釣場跡地を区民農園として整備
砂町魚釣場跡地を区民農園として整備予定です。特に、居住区に近い城東区民農園は、応募倍率が約6倍と非常に高くなっております。新たに区民農園を整備することで、より多くの区民の農園利用の機会と緑地の拡大を図ります。また、農園利用者に限らず、仙台堀川公園等の近隣施設に来訪する方の利便性を高めるため、自動車駐車場もあわせて整備いたします。区民農園は、令和七年度に開園予定です。
※豊住魚(釣)場跡地について
令和四年度より東京都の豊住橋の架替工事が予定されているため、今後の工事進捗状況を把握しつつ、跡地利用を検討してまいります。
2025年2月に再訪した時は、跡地を区民農園に転用するための工事が進んでいました。区民農園は、令和七年度に開園予定とのことです。
区民農園の竣工を織り込んだ真新しい案内板が準備されています。
砂村の農業
万治二年(1659年)、砂村新左衛門一族が「砂村新田」を開拓しました。この地域は海に近く、土地がアルカリ性であるため、田んぼよりも畑に適しており、砂村ナスや砂村ネギ、砂村三寸人参などが豊富に採れるようになり、東砂三丁目には「東京都特産砂村採種場」がつくられま
した。採れた農作物は、水運を利用して江戸のまちに届けられ、逆に、江戸のまちで出たし尿や魚のあらなどは、肥料として農地に運ばれました。生ごみの発酵熱を利用した「トコバ」(温床)による促成栽培なども行われ、旬よりも早く出荷する「野菜の早出し」をしていました。
仙台堀川公園
大正期以降は工業化・都市化により、農業は減少していきました。一方で、大正六年(1917年)の大洪水で被災した砂町地区の復興と工業発展のため、昭和八年(1933年)に民間会社によって砂町運河が開削されました。砂町運河は工場運営のために重要な役割を果たしたものの、地盤沈下や度重なる高潮被害によって民間での維持管理が極めて困難になり、昭和二十三年(1948年)に東京都に寄贈され、昭和四十年(1965年)の河川法改正により「仙台堀川」となりました。その後、昭和五十四年(1979年)に「区民の森」をテーマに仙台堀川公園が整備され、この場所に砂町魚釣り場ができ、約40年間区民の身近なレジャー施設として親しまれました。砂町魚釣り場は工業用水の廃止に伴い令和四年(2022年)に閉鎖され、その跡地を区民農園として再整備しました。
工事中の区民農園の先に「ふれあいの森」が広がっています。ここには全国の都道府県から集められたそれぞれの県花・県木が植樹されています。ちなみに、江東区の県花はサザンカで、県木はクロマツです。
- ポイント4 旧大石家住宅
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ふれあいの森の一画に、今は滅多に目にすることがない茅葺きの「旧大石家住宅」が建っています。
旧大石家住宅は、江戸時代に建てられた区内最古の民家建築です。安政の大地震・大正の大津波・関東大震災・戦災と幾つもの災害を免れ、建築当初の姿をとどめた貴重な住宅です。平成六年3月に江東区の有形文化財(建造物)に指定されると共に解体調査を行い、平成八年に仙台堀川公園内のふれあいの森に移築復元されました。
江東区指定有形文化財(建造物)
旧大石家住宅
旧大石家住宅は、平入り寄棟造りで、木造茅葺きの区内最古の民家です。規模は、梁行が三間半、桁行が五間半です。江戸時代後期、舟入川(四十丁川)南端の堀留に面して建てられた、半農半漁の典型的な住宅建築です。大石家の伝えによれば、安政二年(1855年)の大地震でも倒壊しなかったといわれています。その後も大正六年(1917年)の大津波、関東大震災、戦災をまぬがれました。戦後増改築が行われましたが、基本的な構造に変化はありません。区内で戦後取り壊しを行っていない木造茅葺きの民家は、旧大石家住宅が唯一の例であり、江戸時代の関東南部ないしは江戸近郊農村における農家の母屋の姿を残す、たいへん貴重な住宅といえます。その文化的・歴史的価値を守り伝えるため、平成六年三月に区の有形文化財(建造物)に指定するとともに、解体工事を行い、平成八年九月、当地に移築復元しました。
旧大石家住宅は、土・日・祝日のみ見学が可能になっています。季節によって変る展示と常設展示があります。
公園がL字型になった地点から西方向に幅の広い遊歩道が延びています。ここには、かって砂町運河がありました。
砂町運河跡
区民の憩いの場として親しまれているこの仙台堀川公園は、かって砂町運河として民間の手により開削された、例の少ない運河です。砂町が農村から工業の町へと発展していくなかで、船による輸送力の向上を見越して運河の開削が計画され、大正八年(1919年)に東京運河土地株式会社が創立されました。同十一年に着工し、小名木川の合流点から現在の都立東高校の正面にあたる東砂7−19までの南北の一線、続いて旧舟入川合流点から横十間川合流点までの東西の一線が昭和八年(1933年)までに完成しました。昭和二十三年(1948年)、東京都に移管されて砂町川と名称を改め、昭和四十年、河川法の改正に伴い、仙台堀川の一部となりました。昭和三十年ごろまでは、周辺の製材工場の木材が水面に浮かぶ光景がみられましたが、砂町が工業地帯から住宅地へと変貌をとげると、運河としての役割も終わり、昭和五十五年に埋め立てられ、親水公園として生まれかわりました。
広場の中央に大きな石碑が置かれています。
仙台堀川公園の由来
砂町地区をL字型に流れる仙台堀川は、川幅三十六メートル・延長約二千八百メートルに及び、かつては砂町運河として開削されたのが始まりである。この運河は大正六年の大水害で被災した砂町地区の復興と工業振興のために、大正十年東京運河土地株式会社によって開削が始められ、昭和八年に完成したものである。その後、地域の工業発展のために重要な役割を果たしたものの大正十二年の関東大震災以来の地盤沈下に加え、度重なる高潮の襲来などで運河の維持が極めて困難となり、昭和二十三年東京都に上地されることになった。上地された後、砂町運河は砂町川と改称され、いかだの係留や舟行などに利用されていた。そして昭和四十年の河川法の改正に伴い、隅田川に結ぶ従来からの仙台堀川と合流し、一級河川仙台堀川に一本化されたのである。仙台堀川は長年の地盤沈下により護岸のかさ上げが繰り返され、漏水が各所に発生し、水質の汚濁が進んだことにより、防災上危険な河川との指摘をうけ、その状態での河川の維持は困難となった。そこで区は地域住民の埋立て要望が高まる中で、河川の安全性を確保し、河川のよみがえりを図ることを緊急課題として取り組み、昭和五十三年一部水路を残し、高水敷を造成する画期的な工事に着手した。この画期的な工事は地域住民の協力のもとに順調に進み、河川の安全性確保の目処が立った昭和五十五年四月仙台堀川は親水公園として生まれ変わり、ここに河川の再生をみたのである。
仙台堀川公園を出て、葛西橋通りに入ります。右手に「イオン館」・「東館」・「西館」の3棟の建物からなる大型複合施設のトピレックプラザがあります。施設の管理・運営を行なっているのはトピー工業の子会社である株式会社トピーレックです。トピー工業は、鉄鋼事業、ホイール・自動車部品、建設機械用足回り部品など、一貫した生産体制を持つ金属加工の総合企業です。この地にはかつてトピー工業東京製造所が立地していました。その跡地に、ゴルフ練習場・テニスクラブ・スイミングクラブなどのスポーツ施設「トピレックプラザ」が1975年4月に開業しました。1977年7月には、敷地内に商業施設としてイトーヨーカドー南砂町店が開店しました。1990年代後半に入ると、隣接する高層マンション建設計画に付随して施設のリニューアルが計画されたのに伴い、イトーヨーカドー店は閉店し、建物は一旦解体されました。建て替え後、2000年6月にスポーツ施設のリニューアルが完了し、スポーツクラブ「オッソ」が先行開業し、同年11月29日にはジャスコ(現在はイオンスタイル)、ドイト(ホームセンター)、ラウンドワン(アミューズメント施設)を核店舗とした商業施設がオープンしました。商業施設には飲食店・書店・学習塾なども入居しています。
トピレックプラザの角で右折し、南砂七丁目交差点まで真っ直ぐに南下します。南砂七丁目交差点の上には東西線の高架が通っています。交差点を右折し、南砂町駅まで進みます。
- ポイント5 メトロ・スナチカ
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南砂町駅改良工事インフォメーションセンター「メトロ・スナチカ」は、2014年3月25日に南砂町駅前(南砂三丁目公園内)にオープンしました。メトロ・スナチカは、2020年度完成目標(コロナ禍の影響などにより遅延し、現在は2027年度の完成を予定しているものの、さらに後ろ倒しになる見込み)で進められている南砂町駅の線路・ホーム増設(2面3線化)などの大規模工事の内容や工事工程を紹介する施設です。また、東西線の近年の施設・車両の改善に向けた取り組みを紹介するパネルや、東西線の運転シミュレーター(南砂町〜西葛西間)も設置されています。
残念ながら、メトロ・スナチカはコロナ禍により2021年1月18日(月)から休館中で、2025年3月現在でも再開されていません。このまま閉鎖されてしまうのでしょうか?
メトロ・スナチカのすぐ前に位置するゴール地点の東京メトロ南砂町駅出入口2aに着きました。
南砂町駅は現在駅の改良工事中のため、出入口2aは供用を一時的に休止しています。既に廃止された出入口もありますが、工事終了後に出入口2aが再開されるかどうかは不明です。
ということで、江東区で五番目の「青龍D季節の草木を楽しみながら歩く」を歩き終えました。次は江東区で六番目のコースである「青龍E潮風漂う荒川に沿って葛西橋へ「砂町の歴史を探そう」」を歩きます。
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