- 青龍E潮風漂う荒川に沿って葛西橋へ「砂町の歴史を探そう」
- コース 踏破記
- 今日は江東区の「青龍E潮風漂う荒川に沿って葛西橋へ「砂町の歴史を探そう」」を歩きます。都営新宿線東大島駅から荒川河川敷の遊歩道を歩き、江東区東部エリアの寺社仏閣、東砂天祖神社・富賀岡八旛宮・生田稲荷神社・大島稲荷神社(大島神社)・宝塔寺を巡ります。江東区のお散歩コースの中で最長の9kmの長距離です。最初に歩いたのは2022年の2月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年3月に改めて歩きました。
青龍E潮風漂う荒川に沿って葛西橋へ「砂町の歴史を探そう」
見どころ満載、新たな東砂を再発見することができます。
「青龍E潮風漂う荒川に沿って葛西橋へ「砂町の歴史を探そう」」の歩行距離は約9.0km(約12、860歩)、歩行時間は約2時間15分、消費カロリーは約405Kcalです。
スタート地点:都営新宿線東大島駅大島口
↓
- ポイント1 荒川ロックゲート
-
水面の高さが違う荒川と旧中川は、ロックゲートのお陰で船が行き来できます。
↓
- ポイント2 東砂天祖神社
-
江戸時代初期に、深川八郎右衛門が開発した八郎右衛門新田の鎮守でした。拝殿前に鎮座している左右の狛犬は、子供の狛犬を抱いています。
↓
- ポイント3 富賀岡八旛宮
-
天平勝宝元年創建。深川富岡八幡宮の元宮で、富士塚もあり。
↓
- ポイント4 大島稲荷神社(大島神社)
-
耕地荒廃や悪疫を除くため、江戸時代に創建されました。
↓
- ポイント5 宝塔寺
-
江戸時代より続く「塩舐め地蔵」で商売繁盛を祈願!
↓
ゴール地点:都営新宿線東大島駅大島口
スタート地点の都営新宿線東大島駅大島口から歩き始めます。
江東区には四神をモチーフにしたモニュメントが区内の東西南北各地域に配置されています。「四神」とは、中国で古代から伝えられてきた天の四方(東西南北)を司る霊獣で、
北=「玄武」
東=「青龍」
南=「朱雀」
西=「白虎」
とされています。「潮風漂う荒川に沿って葛西橋へ「砂町の歴史を探そう」」は江東区の東エリアを巡りますので、四神のうち東の方角を守護する青龍のグループに入っています。駅前広場の中央の植え込みの中に青龍のモニュメントが置かれています。
青龍(せいりゅう)
天の四方の方角をつかさどる神のうち、東の方角を守護するといわれる。中国古代の思想に由来する「四神(しじん)」のひとつ。
ちなみに、青龍は「春の象徴・川の流れ」を表し、東の方角を守護しますが、青龍と東方との結び付きは、五行説が中央に黄色・北方に黒・東方に青・西方に白・南方に赤と五色を割り当てたことに由来しています。
駅前広場の向かいの高台に大島小松川公園があります。公園は旧中川を挟んで江東区と江戸川区に分かれていて、江東区側には、テニスコート・野球場・サッカー場が併設されたスポーツ広場と広大な芝生が広がる「わんさか広場」があります。江戸川区側には、バーベキューなども可能な自由の広場・旧小松川閘門が保存された風の広場・季節の広場があります。かって、公園の周辺地域は海抜ゼロメートルの工業地帯でしたが、災害時の避難場所となるように土地の嵩上げが行われ、大規模な防災拠点公園として平成九年(1997年)8月1日に開園しました。
わんさか広場には2つの芝生広場があり、バスケットゴールなども設置されていて、様々なレクリエーションに利用されています。「わんさか」とは、「人が大勢押しかける」という意味で使われます。
わんさか広場と道路を挟んだところに、江戸時代の川の関所だった中川船番所資料館があります。
中川船番所資料館
水彩都市・江東の歴史を伝えるために、小名木川の中川口に設置されていた関所「中川番所」の地に資料館を開設し、ジオラマなどにより、中川番所を再現し関東や江戸の水運、江東区の歴史・文化がわかる資料を展示しています。
Nakagawa Funabansho Museum
Nakagawa Lookout controlled boat traffic to and from the city of Edo and stood at the Nakagawa Mouth of Onagi River. The lookout ("funabansho") has been recreated and
re-opened as a museum, with exhibitions that showcase the importance of waterways to the history and culture of Koto City, Edo and the Kanto region as a whole.
資料館の3階に、中川番所のジオラマが再現されています。
中川番所の再現
中川番所は中川関所ともよばれ、河川交通路上における江戸の出入り口に設けられた関所です。小名木川が中川へ流入する中川口の北岸、小名木村に設置されていました。中川対岸の船堀川からは江戸川・利根川水系へとつながり、江戸と関東各地さらには信越・東北方面を結ぶ流通網の要として、ここを通過する船の積荷と人を改めました。江戸時代中期以降、江戸へ運ばれる荷物の品目と数量を把握する機能も担うようになり、海上交通路上における浦賀番所(横須賀市)と並び江戸の東側窓口として重要な機能を果たしました。この番所の建物は平成七年に行われた発掘調査と江戸時代後期に描かれた絵画資料に基づき再現したものです。
壁には、中川番所の機能と役割を解説したパネルが貼られています。
中川番所
江東区の歴史は、広大な低湿地を開発・改良していく歴史でもあります。また、土地の埋立て・開発と並行していくつもの河川が開削され、その水運網をもって巨大都市江戸の消費生活を支えてきました。関東一円をめぐる水運を取り締まる拠点として、江戸時代を通じ重要な役割を担ってきた中川番所の歴史と機能についてみていきます。
中世の低地・江東
関東で荘園が開発される平安時代から鎌倉時代にかけて年貢の輸送や連絡の確保のために、水路や港が整備されていきました。中世の江東は、13世紀前半までに成立した葛西御厨と呼ばれる伊勢神宮領の荘園の一部で、隅田川や太日川(江戸川)といった大河川の河口部に位置していました。現在の亀戸周辺は海岸線に砂洲により築かれた微高地で、ここから河川を利用して陸路と連携し、さらに江戸内湾と関東内陸を結ぶ水運の要地として、中世から発展していました。
中世・江東の情景
「東路の津登」宗長 永正六年成立
(略)翌日市川といふ渡の折ふし、雪風吹て、しばし休らふ間に、むかひの里に云あはする人有て、馬ども乗もてきて、やがて舟渡りして、あしの枯葉の雪うちはらひ、善養寺といふに落着ぬ、面白かりし朝なるべし。此処は炭薪などもまれにして、あしを折たき豆腐をやきて一盃を勧めしは、都の柳もいかで及ぶべからんとぞ(略)
「東路の津登」は連歌師宗長(1448年〜1532年)が永正六年(1509年)7月中旬から12月初旬にかけて、武蔵・上野・下野から房総方面を旅した際の紀行文。房総では舟や馬を乗り継ぎ、当時すでに人馬の継ぎ立てがあって、水上交通が整えられていたことがわかります。ここで紹介した一文は、市川の渡しを渡って、小岩(江戸川区)の善養寺へ至る部分です。川辺に生い茂るアシの枯葉に降り積もる雪を川船で払いながら進む様子や、薪の代わりにアシを火にくべる当時の低湿地の情景が書き留められています。
江戸の形成と小名木川
天正十八年(1590年)江戸入りした徳川家康は、城下町江戸の建設にともない、中世からすでに整えられていた水運をとりこむことにつとめます。神田・日本橋周辺の土地の造成や江戸湊の整備、小名木川の開削などはその一環といえます。小名木川は慶長年間(1596年〜1615年)に干潟沿海の水路として確定していたものを埋め残す形で造られた沿海運河です。小名木川からさらに東へ延びる船堀川も同時期に開削され、江戸城大手門から江戸川・利根川水系へつながる重要な物資の輸送路が確保されました。
河川の改修と水運網の整備
徳川家康は、文禄三年(1594年)利根川水系の会(あい)の川締め切りを手始めに、複雑だった関東諸河川の水路を整備し、関東一円の水運網を整える大土木事業に着手します。荒川は利根川と切り離され、和田吉野川・市野川・入間川を本流とする流れに変わり、それまで江戸湾に注いでいた利根川は常陸川を経て銚子河口へいたる流路に変更されました。これにより海運あるいは、常陸那珂湊(茨城県)より所々を陸送で結びながら河川を使用していた東北諸藩からの江戸廻米は、よりスムーズに江戸まで回漕できるようになりました。
近世の関所
関所は古代からすでに存在していましたが、近世に入ると江戸幕府は峠や河川の渡し場など交通の要所に関所を設け、領内の治安維持にあたりました。江戸につづく五街道はもちろん、脇街道の要所にも設置され、通行には幕府が発行した手形が必要でした。延享二年(1745年)の時点で、全国で53カ所を数え、中川番所はそのひとつに含まれます。これらの関所では、主に、鉄砲をはじめとする武器と女性や怪我人・囚人の通行を取締りました。
深川番所の成立
深川番所は、中川番所設置以前に江戸へ出入する川船を改めた機関です。小名木川の隅田川口に架かる万年橋北岸に設置されていました。設置年代は未詳ですが、正保四年(1647年)に深川番が任命されているのでこのころのことと思われます。寛永年間(1624年〜1644年)には関東一円の河川の大改修工事が完了し、江戸への物資輸送はより便利になりました。同じころ、小名木川南岸の海辺大工町(清澄・白河)には、江戸へ向かう船の積荷を小船に積み替えるために一時着岸する港が成立しています。このように小名木川を利用した水運網が確立し、これらを取締ることを目的に番所が設置されました。
中川番所の成立
明暦三年(1657年)の大火を契機に幕府は江戸の防火対策の一環として、本所深川の開発に取り組み、江戸市中から武家屋敷や寺院を移転させました。またこの時期に竪川・十間川(横十間川)・大横川・ 北十間川・六間堀などの運河の開削も行われました。こうして本所深川地域は江戸市中に組み込まれ、深川番所はその機能を低下させていき、寛文元年(1661年)6月、中川口へ移転しました。敷地面積は東西26間余、南北17間余。以後中川番所として、深川番所の機能を受け継ぎ、江戸時代中期以降は、商品荷物の流通を把握する機能も担うようになりました。
中川番所の役人
中川番所に勤めた役人は中川番とよばれ、寄合に属する旗本で、3千石から8千石の、かなり高禄の旗本が勤めていました。勤務形態は3名から5名の中川番が5日交代で勤務しましたが、実際に番所に詰めたのは家臣で、旗本自身は将軍の御成りなどの特別な時以外は詰めなかったようです。幕末の記録では、中川番の下に番頭2名・添士2名・小頭2名が置かれ、さらにその下に下役人が存在しています。これらの下役人の服務規程として、船改めは小頭の立合いのもとで行い、みだりに品に手をかけないこと、親兄弟でも番所の中へ入れてはいけないこと、博打や乱酔、喧嘩・口論、番所構内および近辺での殺生、買い物などが禁止されていました。
中川番所の高札
中川番所が隅田川口から中川口に移転した寛文元年(1661年)に出された高札の文言です。
- 一、
-
夜間の江戸からの出船は禁止、入船は許可する。
- 一、
-
中川番所前を通過する時には、乗船している人々は笠や頭巾を脱ぎ、船は戸を開けて内部を見せる。
- 一、\DT>
-
女性は身分の上下によらず、たとえ証文があっても一切通行は許可しない。
- 一、
-
鉄砲は二・三挺までは改めの上通行を許可するが、それ以上の場合は指図を請ける。そのほかの武具についても同様である。
- 一、
-
人が入ることのできる大きさの器は確かめたうえ、異常がなければ通す。小さい器に関しては改めには及ばない。万一、不審な点があれば船を留め置き報告をする。
附 囚人や怪我人、死人についても、証文がなければ通行は許可しない。
以上が中川番所の通関規定の基準となるものですが、これには例外やその時々の政策によって緩和されるものもありました。番所の通船は明六つから暮六つ(日の出から日没)と規定されていましたが、幕府における特別な公務の場合には老中や目付からの証文があれば夜間でも出船できました。また、夜間の入船を許可されていたのは生魚・野菜類など生鮮食品のみでした。女性の通行に関しては、抜け道もあったようですが、縁組や神社仏閣への参詣のための通行は認められました。また、規定以上の武器武具が通行する時には、所定の手続きが必要とされました。
武家荷物の査検
中川番所での通関手続きがとくに厳重だったのは、高札にも定められている通り、鉄砲とそれに関連した物資(玉・硫黄・鉛など)でした。しかもこれらは武士とそれに準じる身分の者だけに限られ、商人や職人が自分の荷物として通関させることはできませんでした。また身分により数量制限や通関手続きが異なりました。大名の領地の所替などで大量に武器荷物が通る時には老中の証文が必要で、査検にあたっては日数をかけ、鉄砲は包を解いて調べ、玉数にいたるまで改めました。参勤交代については武器武具が含まれていなければ、あらかじめ提出しておいた印鑑と証文を照合することで通行を許されました。
商品荷物の査検
江戸時代中期以降になると、関東地廻り経済の進展に伴い、さまざまな物資が河川を利用して江戸へ運ばれるようになります。幕府はこうした商品流通上に果たす通船改めの機能に着目し、幕府の流通政策や物価政策の実効を確認する目的で、特定の品物に限り綿密な査検を行い、数量を把握するようになります。中川番所を通関するにあたってとくに手続きを必要とした品物を御規定物と呼びます。御規定物は、ある時期に一括して定められたものではなく、幕府の政策展開のもとで個々に定められていったものです。
地廻り酒問屋と中川屋清蔵
寛政三年(1791年)12月、幕府は米価高騰に伴い酒造高を従来の3分の1に減らすよう発令し、それが実施されているかどうかを確かめるため、翌四年1月より浦賀番所・中川番所および川船役所の出先機関である橋場船改役所において酒荷物の査検を開始しました。中川番所で査検の対象としたのは関東周辺の地廻り酒でした。しかし、問屋での受取りと番所での査検の日限とに誤差が生じ、町奉行所から理由を問いただされるなどしたため、地廻り酒問屋の要望で小名木村で船宿を営む中川屋清蔵が通関手続きを代行するようになります。
庶民にとっての中川番所
江戸時代中期以降になると、幕府の積極的な経済政策の展開により、地方へも貨幣経済が浸透していきます。その結果は文化にも影響を与え、農民・町人の間にも豊かな文化が芽生えます。庶民がこぞって旅をするようになるのも、こうした経済の進展と文化の伝播によりもたらされたもののひとつです。江戸では四季折々の行楽が楽しまれましたが、主流は日帰りの名所めぐりでした。日本橋小網町の行徳河岸(中央区)からは、小名木川を通り行徳(市川市)へ向かう定期船が就航し、船遊山を楽しむ多くの人々が中川番所の前を通過していきました。庶民にとって中川番所がどのような存在であったのかは、庶民が残した川柳や紀行文からうかがえます。
幕末期の中川番所
19世紀後半、混迷する幕政を反映して各地で政治運動が激化していきます。こうした潮流を迎え中川番所の査検方法にも変化がみられます。桜田門外の変(1860年)の後、人別・荷物改めを強化し、番所の外では船手組による通船改めが行われました。また中川番に番所周辺の見回りを命じるなど、中川口での警戒に力を入れていきます。しかし一方では、参勤交代制度が緩和され、大名の妻子の帰国が許可され、武器の通行手続きも簡略化されるなど、それまでの機能が徐々に希薄になっていったといえます。
中川番所の廃止
慶応三年(1867年)10月、大政奉還が布告され、翌四年4月、江戸城が開城され、同年9月明治と改元されます。中川番所では、明治二年(1969年)2月、全国の関所が一斉に廃止されたのちも、軍務官の管轄下で水戸藩士が詰めて印鑑の査検を行っていましたが、若森県(茨城県・千葉県)から民部省への問い合わせにより、同年5月廃止が正式に指令されました。ここに深川番所の設置から約220年にわたり、川船の航行を取締ってきた中川番所は終焉を迎えました。
3階の常設展示室には多数の資料と当時の水運を解説したパネルが壁一面に貼られています。
資料館の2階には、区民から寄贈された資料をもとに、昭和三十年代から昭和四十年代の生活の様子を再現する「郷土の歴史・昭和の暮らし紹介展示室」があります。
中川船番所資料館の前の横断歩道を渡ると、旧中川の堤防上に「旧中川・川の駅」の施設があります。
旧中川・川の駅
川の駅は、旧中川と小名木川との合流地点に、新たな水辺のにぎわい拠点として平成二十五年(2013年)3月に開設されました。水陸両用バスが川に進水するためのスロープが整備されており、勢いよく川に飛び込む水陸両用バスの姿を間近で見ることができるほか、誰でも立ち寄れるにぎわい施設があります。
Former Nakagawa River Station
This "river station" opened in March of 2013 at the junction of Old Nakagawa River and Onagi River to serve as a new community base for the waterside. A slope has been
installed to allow amphibious buses access to the river, and visitors can observe the impressive splash made by the buses during transition. Anyone is welcome to the lively facility, which is used as a gathering space.
旧中川の河川敷には東屋も建てられています。夏には日陰で川風を感じながら休息できそうです。
「中川番所」から「旧中川・川の駅」へ
江戸最初の運河・小名木川が開かれました
天正十八年(1590年)江戸に城下町を作ることになった徳川家康は、江戸への物資の輸送路として、小名木川を開きました。江戸に通じる最初の運河です。下総国行徳産の塩を江戸へ運ぶために開いたとされていますが、以後米・醤油・野菜など多くの物資や人がここを往復しました。沿岸はしだいに町場となって、現在の江東区の原型が作られていきました。
寛文元年(1661年)中川番所ができました
利根川をはじめ関東各地の河川が整備され、「奥川筋」(江戸の奥)と呼ばれる水体系となりました。関東一円の「奥川筋」と江戸の運河がつながったことから、人やモノの動きをおさえるため、江戸幕府はこの地に、寛文元年(1661年)中川番所を開きました。ここが、水路としての江戸への入り口になった瞬間でした。
現代版の中川番所をコンセプトに「旧中川・川の駅」を整備
この旧中川・川の駅は、かつて江戸の入り口として舟運で賑わっていた、中川の風景を復活させることをコンセプトにしております。水陸両用バスが入出水するスロープや、カヌー・カヤックなど、地元密着のウォータースポーツが利用可能な乗船場を整備しました。観光船や防災船着場など、多様な水辺利用の拠点として活用していきます。
川の中にバスが浮かんでいます。一直線にスロープに向かって進んできます。
無事に水中からスロープを上がって停車場に着きました。水陸両用バスって、日本には何台あるんでしょうか?
旧中川を中川大橋で渡ります。橋からは東大島駅が眺められます。川の両端に駅の出入口があり、ホーム部分は川を跨いでいます。日本広しといえども、川の真上に駅があるのは東大島駅だけではないでしょうか?
川を渡ると、江戸川区側の大島小松川公園が南北に広がっています。道路を挟んで南側は「風の広場」、北側は「季節の広場」になります。
風の広場には芝生が広がり、高台にありますので木々の間から眺望も楽しめます。
遊歩道の脇に、中世ヨーロッパの城を思わせるような巨大な建築物が建っています。旧小松川閘門を移築・保存したものだそうです。コンクリートの風化具合だけを見れば、もう何十年もここに建っているように見えますね。案内板は2022年に訪れた時は立っていましたが、2025年に再訪した時はQRコードによる案内に変っていました。
旧小松川閘門
この建物は、その昔、小松川閘門と呼ばれていました。閘門とは水位の異なる二つの水面を調節して船を通行させる特殊な水門のことです。川は、現在のように車などの交通機関が普及するまでは、大量の物資(米、塩、醤油など)を効率よく運べる船の通り道として頻繁に利用されました。ここは、その船の通り道である荒川と旧中川との合流地点でしたが、たび重なる水害を防ぐために明治四十四年、荒川の改修工事が進められ、その結果、水位差が生じて船の通行に大きな障害となりました。この水位差を解消させるために昭和二年、小松川閘門が完成し、その後、車などの交通機関が発達して、船の需要が減少し閉鎖に至るまでの間、重要な役割を果たしました。本来、この閘門は、二つの扉の開閉によって機能を果たしていましたが、この建物はそのうちの一つで、もう一つの扉は現在ありません。また、この建物も全体の約2/3程度が土の中に埋まっていて昔の面影が少ないのですが、今後、この残された部分を大切に保存して周辺地域の移り変わりを伝えるのに役立てる予定です。
囲いの中に奇妙なモニュメントが置いてあります。怪魚のような、はたまた人間の顔をした魚のような理解に苦しむ姿をしています。
森のギャラリー
ムー大陸よりU
安藤泉
第27回UBEビエンナーレ(現代日本彫刻展)2017
現代文明をはるかに上回る文明を築いていたと言われるムー大陸は、約1万2000年前に突然、太平洋の海底に沈んだとされている。悠遠太古のムー大陸からの来訪者は現代の人類社会の現状を、どう評するのであろう。
VISITOR FROM Mu NO.II
ANDO Izumi
Mu, which supposedly had much sophisticated civilization than ours, is said to have
sank under the Pacific Ocean about 12,000 years ago. If someone visited the modern world from ancient Mu, what would their opinion be about the current human society?
風の広場から下りると、平成橋の袂に出ます。平成橋は旧中川にかかる道路橋で、東岸は江戸川区小松川一丁目・西岸は江東区東砂二丁目になります。平成六年(1994年)に開通し、橋長105m・幅員16.6mのアーチ橋の一種に位置付けられるローゼ橋の構造となっていて、橋軸が流心に対し78.3度の斜角が付けられた斜橋であることが特徴です。開通前は、江戸川区と江東区は旧中川で分断されていましたが、平成橋によって往来が容易となり、防災拠点の避難路としても重要な役割を持っています。
荒川のスーパー堤防(荒川高規格堤防)上には、南北2キロメートルに亘ってソメイヨシノ・大島桜・山桜など10種類以上の約1、000本の桜(小松川千本桜)が植栽されています。各桜の木の幹には番号タグが付けられていて、1から順番に番号が振られています。最後の番号は確か1000を超えていたと思います。
- ポイント1 荒川ロックゲート
-
荒川ロックゲートは、荒川と旧中川とを結ぶ閘門(ロックゲート)と呼ばれる施設です。閘門とは、水面の高さが違うふたつの川の間を船が通行出来るようにするための構造物です。川と川の間に水門を造って水位を調節し、水面の高さを同じにして船を通す仕組みになっています。昔から荒川流域は舟運が盛んでしたが、荒川放水路の完成後、荒川と旧中川は水面差が最大3.1メートルにもなったため、船の往来ができるように水位調整機能を持った小松川閘門が昭和五年(1930年)に造られました。これにより、荒川と旧中川・小名木川・隅田川が結ばれました。その後、小松川閘門は昭和五十年代に閉鎖されましたが、川を利用した災害復旧活動が見直されるようになり、新たに平成十七(2005年)に荒川ロックゲートが完成しました。これにより、災害時に鉄道や道路が使えなくなった際、川を通して救援物質や復旧資材の運搬・被災者の救出など災害復旧活動の支援が出来るようになるなど、地域の防災拠点となっています。
荒川ロックゲート
ロックゲート(=閘門)は、水位の異なる二つの河川を繋ぐための施設で、船が乗る「エレベーター」のような役目を果たします。荒川と旧中川は「水位差が最大で約3.1m」にもなりますが、荒川ロックゲートが完成する事により結ばれ、荒川と隅田川にはさまれた“江東デルタ地帯”への水上交通が両方向から確保できるようになりました。
江東デルタ地帯の新しい防災ネットワーク
荒川ロックゲートの完成によって、災害時においては、救援物資や復旧資材の運搬、被災者の救出など災害復旧活動の支援が可能となり、広域的な防災ネットワークとして活躍します。また、平常時においても、プレジャーボートでの水上観光やカヌー・レガッタ・Eボートでの舟遊びなど、水辺ならではの楽しさが広がり、川と川を通じた新たな交流が期待されます。
ロックゲートの特徴
- 震災時、船を使った復旧支援活動を行うため、閘門としては初めて阪神・淡路大震災クラスでも耐えられる構造になっています。
- 震災時、閘門内をいち早く船舶が通過できるよう、日本最速のゲート開閉速度となっています。
災害時は水上交通が活躍します
阪神・淡路大震災では、ビルや高架橋の倒壊などによって鉄道や道路といった陸上交通に大きな被害が生じました。その際、 地震直後の物資や人員の輸送などの災害復旧活動において水上交通は大きな役割を果たしました。
荒川ロックゲートのイメージ図です。
実際はこのようになります。左が旧中川側、右が荒川側です。
荒川ロックゲートの役割について解説した案内板があります。
ARAKAWA LOCK GATE
江東デルタ地帯の水上ネットワーク網
荒川ロックゲートの完成によって、 災害時においては、救援物資や復旧資材の運搬、 被災者の救出など災害復旧活動の支援が可能となり、広域的な防災ネットワークとして活躍します。また、平常時においてもプレジャーボートでの水上観光やカヌー、レガッタ、Eボートでの舟遊びなど、水辺ならではの楽しさが広がり、 川と川を通じた新たな交流が期待されます。
水路の左手脇にふたつの大きな解説板が置かれています。左側は「荒川の水のつながり」、右側は「荒川ロックゲート周辺の変遷」と題されています。
「荒川の水のつながり」にある石碑は、解説板から少し離れたところにあります。碑文は仰々しくてイマイチこの場にはそぐわないように感じますが。
荒川の水のつながり
石碑
荒川の水源地には、滝沢ダムという新しいダムがあります。この石碑は、滝沢ダムの湖底となる場所から採取された石を用いています。荒川は、利水面で上流と下流の結ぴつきが強い河川です。その上流と下流を結ぶシンボルとして、この石碑を設置するものです。この場所は、荒川と江東デルタ地帯を結ぶ機能(ロックゲート)や、水運と陸運を結ぶ機能や、人と水上交通を結ぶ機能(リバーステーション)があり、この石碑が様々な事柄を結び付けるシンボルとなります。
源流
かってここは、荒川の上下流を結ぶ船運の要、閘門は過去と現在をつなぐ舟の通り道、そして未来へと続く源流となる。
荒川の源流
荒川は、甲斐・武蔵・信濃の三国にまたがる標高2,475mの甲武信ケ岳を源とし、奥秩父の険しい山々に深い谷をきざみ、東に流れます。
五つのダム
上流の山地では、下流域を洪水から守るとともに、水資源の開発を行うため、二瀬ダム・浦山ダム・滝沢ダム・合角ダム・有間ダムがあります。ダムは、河川の上流部に水を貯め、人間社会の必要に応じて水循環の一部をコントロールします。洪水の時は流入する水の一部を貯めて下流の洪水量を少なくし、渇水の時は貯水池の水を放流して下流で必要な水を補給します。
六堰
江戸時代初期、荒川から大里地区の濯概用水を取り入れるため、6カ所に用水路が造られたものを、安定した取水を行うため、昭和十四年に花園村(現・深谷市)永田地先に造られました。現在は、平成住年〜十四年度にかけて改築され、多くの田畑に水を供給しています。
武蔵水路
武蔵水路は、利根川と荒川を結ぶ水路で、利根大堰から糠田樋管までの約15kmを結ぶ連絡水路として、東京オリンピックが開催された昭和三十九年に着手され、建設中の昭和四十年から緊急通水を開始して、首都圏を渇水から救いました。その後、昭和四十二年に完成し、毎秒最大で、50立方メートルを通水しており、首都圏における安定的な水供給等に貢献しています。
秋ヶ瀬取水堰
秋ヶ瀬取水堰は、荒川河口から約35kmに設置された可動堰で、昭和四十年に完成しました。武蔵水路から荒川に注入され、自然流下した利根川の水を東京都や埼玉県の水道用水、工業用水として使用するために取水を行っている重要な施設です。東京都用の水は朝霞浄水場で、埼玉県用の水は大久保浄水場で浄化され、私たちの貴重な水道水になります。また一部は、新河岸川・隅田川の浄化用水としても使われます。
荒川の河口
荒川の開削前、この付近は中川の河口でした。周辺の土地は、水田として利用されていました。現在では、埋め立てが行われ、葛西臨海公園や葛西橋が設けられています。
「荒川ロックゲート周辺の変遷」には、江戸時代から現在に至る荒川の歴史が解説されています。
荒川ロックゲート周辺の変遷
江戸期
江戸時代の荒川
江戸時代以前の荒川は、元荒川筋を流れ、越谷付近で当時の利根川(古利根川)に合流していました。江戸時代の寛永六年(1629年)に、荒川を利根川から分離する付け替え工事を始めました。久下村地先(現・熊谷市)において元荒川の河道を締め切り、入間川の支川の流路と合わせ、隅田川を経て東京湾に注ぐ流路に変えたのです。以来、荒川の河道は現在のものとほぼ同様の形となりました。これにより埼玉東部低湿地は穀倉地帯に生まれ変わり、また、舟運による物資の大量輸送は大都市・江戸の反映を支えました。
小名木川と舟運で賑わう東の関所
江戸幕府は、行徳の塩を江戸に運び込み、さらに市街地を形成する際に使う盛土を用意するため、隅田川と中川をつなぐ「小名木川の開削」を始めました。利根川と江戸川を行き来できたので、「塩の路」とも言われました。川での「舟運」が盛んとなり、小名木川と中川とが合流する付近にあった「船番所」は江戸の東の関所と呼ばれるほど、船番所を主軸に「人」と「もの」との交流が生まれました。
明治期・大正期・昭和期
放水路の建設
明治四十三年の大洪水をきっかけに、洪水の恐怖から首都東京を守るため、荒川放水路(現在の荒川)の建設が始まりました。北区岩淵に水門をつくって本流を仕切り、延長22km、幅500mの放水路を掘るという大規模なもので、全体の竣工には20年の歳月を要し、昭和五年に完成しました。この荒川放水路の建設は、土地約1,088haの買収、家屋1,300戸の移転、のべ労働人員310万人、総工事は現在価格に換算すると、約2,300億円という大規模なものでした。完成した放水路は、産業物資を輸送する舟運としての利用が多くされました。
閘門の設置から閉鎖まで
昭和五年に荒川放水路が完成した際、旧中川・小名木川・新川との合流部に設置された小松川閘門、小名木川閘門、船堀閘門においては、1日1、200隻もの船が通航するようになり、地域の産業を支えました。しかし、戦後になると地盤沈下や鉄道・自動車交通の発展により物資の輸送方法が変わり、舟運は衰退の一途をたどっていき、昭和五十年代には、閘門が閉鎖されました。
現在
荒川の水位より低い東京の市街地
荒川下流域においては、主に地下水の汲み上げが原因で地盤沈下が進み、最も沈下した地区では4.5m以上の沈下を記録しています。そのため、この地域は東京湾の満潮面よりも低い“ゼロメートル地帯”となっています。荒川放水路の完成後も、堤防の嵩上げなどの対策が行われてきており、現在では、荒川下流部の堤防は周辺の市街地の土地の高さより約10m高くなっています。この堤防が東京や周辺都市を洪永から守っています。
荒川ロックゲートの周辺
この地区は、荒川右岸約2.5km付近に位置しており、荒川と江東デルタ地帯を船で結ぶための荒川ロックゲートと、荷揚げを行うリバーステーション(緊急用船着場)が整備されています。また、周辺には広域避難所となる都立大島小松川公園が整備されており、さらにスーパー堤防の整備を進めることにより、洪水・高潮・地震に強いまちづくりを行います。
小松川リバーステーションは、災害時の復旧活動に必要な資機材や、救援物資等の積み降ろしなどを行う大切な拠点として、また、平常時においては、荒川の舟運の復活を目指して整備されているものです。ここ小松川リバーステーションもそのひとつです。現在、小松川リバーステーションでは、河川工事関係の資材の搬入・搬出や土砂の陸揚げ、防災訓練などとして利用されています。
小松川リバーステーション(船着き場)
緊急時のリバーステーションは・・・
緊急時の災害復旧の拠点となります
大規模災害後の建設機械や土砂等の資材の運搬、また被災者への救援物資(水・食料品・医療品など)の運搬をリバーステーションを利用して行います。
平常時のリバーステーションは・・・
水上バスの利用を促進します
荒川の雄大な景観を一望できる観光船が利用できます。
河川工事の資材運搬基地になります
地球にやさしい船を使って、資材を運搬できます。
物流の基地となります
海上の港から、さまざまな品物を荒川を使って運びます。
荒川・砂町水辺公園は、江東区東砂二丁目の小名木川排水機場から下流の荒川河口までの約3kmにおよぶ南北に長い河川敷の公園です。上流から下流側まで少しずつ趣が異なり、子どもたちの遊び場やスポーツのためのスペース・イベント広場・ 多目的広場に加え、水辺の自然と触れ合えるように、ポケットエコスペース(ビオトープ)が造られています。また、毎年開催される花火大会では、太陽の広場前のスタンドに多くの見物客が集まります。河川敷ではポピーやコスモスなどの四季折々の草花を楽しむことができます。荒川放水路が開削される以前は、この辺りは畑作が行なわれていました。今は全くその面影はありませんが、自然の回復を願っていろいろな試みがなされているようです。せっかくなのでポケットエコスペースを見てみようかと思ったのですが、背丈ほどもある草木に阻まれて諦めました。特に、セイタカアワダチソウなんか、花粉症を引き起こしそうで近寄れません。
荒川・砂町水辺公園(砂村)ポケットエコスペース
このあたりはかつて砂村新田と呼ばれ、都市近郊の野菜の一大生産地であるとともに、その周辺にはヨシ原やため池など、身近な自然に溢れていました。人々が自然と上手に暮らしていた当時のように、人も生き物も豊かに暮らしていける環境の回復を目指し、砂村の名前を冠したポケットエコスペースがつくられました。
◆ポケットエコスペースってなに?
ポケットエコスペースとは、いろいろな野生生物が生息する空間のことで一般的にはビオトープと呼ばれています。江東区内のビオトープは比較的小さい場所が多いため、親しみを込めてポケットエコスペースと呼んでいます。ボランティアの方々の尽力により、生き物が暮らしていくための豊かな環境つづくりが行われています。
葛西橋の手前に旧葛西橋の案内板があります。現在の葛西橋通りは門前仲町から真っ直ぐに東に延び、荒川放水路と中川を渡って江戸川まで続いていますが、旧葛西橋のあったこの付近にはそれらしい接続道路が見当たりません。実は旧葛西橋は、現在の橋より300mほど上流にあり、清洲橋通りの延長上に架けられた木製の橋で、 荒川放水路の掘削に合わせて昭和三年(1928年)に完成し、当時は東京で最も長い橋でした。清洲橋通りが荒川放水路に突き当たる手前には旧葛西橋という交差点名が残っていて、それを物語っています。その後、昭和三十八年(1963年)に新しい葛西橋が完成すると取り壊されました。以前この付近はハゼ釣りの名所であり、橋上にも釣り人が絶えず、橋のたもとには釣り舟屋や釣具屋が軒を連ねていました。現在も釣具屋や屋形船屋が連なり、当時の風景を偲ぶことができます。
旧葛西橋跡
旧葛西橋は、大正十四年(1925年)に東京府会の議決を得て着工し、昭和三年(1928年)に竣工しました。長さ696.4メートル、幅員6.1メートルで、架橋当時は東京で最長の橋でした。正確には、荒川放水路に架けられた長さ549.1メートルの葛西橋と、中川放水路に架けられた長さ147.3メートルの葛西小橋に分かれます。古くからこの付近が葛西と呼ばれていたため、葛西橋と名付けられました。旧葛西橋は、荒川・中川放水路の開削によって隔てられた江東区と江戸川区を結ぶ重要な橋でした。その後、自動車の交通量の増加や橋の老朽化のため、昭和三十八年(1963年)に新しい葛西橋が下流に架橋され、旧葛西橋は廃止されまLた。
現在の葛西橋は「鋼カンチレバー突桁式吊補剛桁」という形式で、中央部分が美しい形状の吊り橋になっています。荒川放水路にもいろんな形状の橋が架かっているんですね。
荒川河川敷の遊歩道から上がって、葛西橋西詰から階段を伝って葛西橋通りに下ります。葛西橋の高架の下には都営バスの引返場(折返し所)があります。ここは、亀戸からの「亀24」と両国からの「両28」系統のバスが折り返していきます。陸橋や橋の下を使って折り返す場所は、都バスだけでも駒沢陸橋(世田谷区)や一之江橋東詰(江戸川区)がありますが、これらの場所と異なるのは、バスの留置スペースが確保されていることです。
- ポイント2 東砂天祖神社
-
葛西橋西詰交差点を右折して神明通りを北に進みますと、右手に東砂天祖神社があります。東砂天祖神社は、元禄十年(1697年)に深川神明宮の分霊を勧請して創建され、八郎右衛門新田の鎮守でした。八郎右衛門新田は、万治年間(1658年〜1661年)に深川村の名主深川八郎右衛門が開拓したことから、八郎右衛門新田という村名になりました。八郎右衛門新田の面積が四十丁(ほぼ40ヘクタール/12万坪)あったことから、東砂天祖神社は四十丁の神明様と称されていました。
鳥居の先に、対の立派な燈籠が建っています。この燈籠は元禄十四年(1701年)の建立のものと文政十二年(1820年)のものがあり、片方は再建されたのかもしれません。
拝殿前には、眼光鋭く獰猛な雰囲気の狛犬が鎮座しています。阿形・吽形共に子を抱いた珍しい姿をしています。
東砂天祖神社と神明通りを挟んだ向かい側に、舟入川公園があります。公園の前には、かって船入川が流れていました。
船入川跡
江戸時代から大正時代まで、この辺りは八郎右衛門新田と呼ばれる農村地域で、この公園の前を南北にはしる通りは、かつて船入川という名の川でした。船入川は、現在清洲橋通りとなっている、境川から南流し、東砂八−六・二十一辺りで堀留めとなっていました。ここでは、道幅が急に狭くなっていて、当時の面影をとどめています。主に、農業用水や荷物の運搬に使われ、両岸の土手の上には、農家や鎮守社が軒を連ね、その背後には耕地が広がっていました。北から出戸の橋、神明橋、土橋、榎本橋という四つの橋が架かっていました。昭和十三年から埋立てられ、十五年に砂利道となりました。今は通称「四十町通り」と呼ばれています。この名の由来は、八郎右衛門新田の面積が、四十町(約40ヘクタール)あったためと言われています。
四十町通りに面して、山響部屋があります。山響部屋は日本相撲協会所属で、出羽海一門の相撲部屋です。昭和六十年(1985年)1月場所限りで現役引退した三保ヶ関部屋所属の横綱北の湖は一代年寄・北の湖となり、同年12月1日に三保ヶ関部屋から分家独立して北の湖部屋を創設しました。しかし、2015年11月20日(11月場所13日目)に師匠である北の湖が急逝し、本場所実施中の緊急措置として部屋付き親方である二十代山響(元幕内・巌雄)が師匠代行を勤めた後、同年11月30日に理事会において山響が部屋の師匠に就任することを承認され、同日に部屋の名称が山響部屋へと変更されました。幕内・北太樹など所属力士16人・行司2人・呼出3人・床山1人はそのまま山響部屋の所属となりました。当初、部屋の施設は北の湖部屋のものを使用していましたが、2017年4月29日に現在の場所に移転しました。
- ポイント3 富賀岡八旛宮
-
富賀岡八旛宮は、藤原鎌足の子孫の藤原豊成が下総に下向の折の749年に創建したとされています。元々は富賀岡八旛宮に奉斎されていた八幡神像が寛永年間に深川の地に移され勧請されて富岡八幡宮となったとされることから、「元八幡宮」とも呼ばれています。享保年間(1716年〜1735年)には境内・参道に3万本もの桜や松が植えられ、景勝地として賑わいました。
富賀岡八旛宮
由来
元八幡(富賀岡八幡宮)の名称は、一説によると、富岡八旛宮を最初に勧請した所で、寛永年間(1624年〜1643年)の初めに今の深川へ移し、そのため、寛文五年(1665年)に旧地を元八幡と称したといわれます。この付近は松樹が生茂り、前方は広大なる海面で、風光明媚な所であったといわれています。また、「江戸名所図会」や、安藤広重の「名所江戸百景」などにも当時の様子が描かれています。
昭和二十年(1945年)の東京大空襲で社殿などが消失しましたが、戦後になって仮殿で復旧され、昭和三十六年(1961年)8月に社殿が再建されました。
富賀岡八幡宮御由緒
当宮は深川富岡八幡宮の元宮として、また、砂村総鎮守として広く知られており、その創建は古く、藤原鎌足の孫、藤原豊成卿が下総守に任じられ下向のみぎり、天平勝宝元年(749年)に創立された区内屈指の古社であります。当宮と深川富岡八幡宮との関係は、この地が宝六島と呼ばれていた寛永初期、京より永代島に移り暫く当宮を拠点に活動していた長盛法師が、当宮に奉祭されていた「八幡像」を、深川八幡宮に移し勧請したことによります。この「八幡像」は、源三位頼政、千葉氏、足利尊氏、鎌倉公方基氏、管領上杉氏から太田道灌へと伝えられ、特に道灌より厚い崇敬を受けていたものであります。享保年間には、境内に桜、松あわせて三万本が植えられ、八代将軍吉宗公お手植えの矢竹なども存在しておりました。この風光明媚な様子は江戸名所図会や安藤広重の名所江戸百景にも描かれ、当地が江戸の景勝地であった事を窺い知る事ができます。現在も境内には都内でも数少ない石造の富士塚や芭蕉句碑、鳳卵石などが残されています。また、この地の由来は、万治二年に開拓者である福井鯖江の砂村新左衛門により新田開発が完成し、砂村新田と名付けられ砂村の地名が生まれました。
「御祭神」 応神天皇(誉田別皇)
比売大神
宇迦之御魂大神 外 五柱
寛永年間、富賀岡八幡宮に祀っていた八幡像を深川富岡八幡宮に勧請したとされていることから富賀岡八幡宮富岡八幡宮の元宮/元八幡/元八幡宮とも呼ばれ、境内には「元八幡旧跡」と記された石碑が建てられています。
「砂村」の地名は、この地を新田開拓した「砂村新左衛門」に因んでいます。砂村新左衛門は越前福井鯖江の出身で、大阪でも新田開発をしています。境内に砂村新左衛門の顕彰碑が建っています。
石碑の由来
福井県鯖江市出身の砂村新左衛門と、その一族が宝六嶋を拠点として、湿原や???干拓と埋立てによって、砂村新田を万治二年(1659年)に造成しました。その範囲は現在の南砂一丁目から七丁目までと東砂八丁目を含むほぼ全域に当ると伝えられています。私達が住む砂町の基礎を築いた偉大な開拓砂村新左衛門の遺徳を偲び、後世に永くその功績を顕彰するため、???????得て同氏にゆかりの深い元?????記念し?の完成を見ることができました。
石碑の前にはスイセンの花壇が造られています。
砂村新左衛門と越前スイセン
この花壇の越前スイセンは、もとは砂村新左衛門出生地の福井県人会有志が奉納したものです。新左衛門350回忌を記念し、地元のみどりのボランティア活動団体により植替えが行われました。
神輿庫には、三基の神輿と一対の獅子頭が収められています。
記
当神輿は現在、江東区南砂全部と東砂八丁目大部分と新砂・新木場地区を区域とする神社の神輿です。台座四尺一寸弱、重量不明。昭和三年、昭和天皇御大典を祝して製作されました。其の後戦災に依り神社・神楽殿等殆ど焼失致しましたが、神輿車だけが戦火を免れ助かりました。戦時中(昭和十八年)金属供出の為鳳凰其の他を取り外し丸裸になり、昭和六十三年秋復元致しました。製作当時の記録等が有りませんので製作時の(昭和三年)寄附札から集計すると金六阡六圓五十銭となります(一圓未満は木札がありませんので)其の金額以上と推察されます。集めたお金で神輿の新調とお祭を執行されたと思われます。尚製作者秋山三五郎氏は当地(南砂四丁目)の出生であります。
獅子頭はどうやって運ぶのでしょうか?
拝殿の左手から裏に向かいます。正面に境内社の浅間神社が鎮座しています。小さな祠ですが、朱色の鳥居と参道まで備えています。
浅間神社の隣には「砂町の富士塚」があります。富士塚とは、富士山信仰によって江戸時代後半に爆発的に広まり、東京・千葉・埼玉・神奈川などに数多く作られた人造の富士山のことです。富賀岡八幡宮にある砂町の富士塚は、高さ約4m、直径13mの大きさで、江東区内で唯一現存する石造り富士塚です。毎年7月1日に行なわれる富士山の山開きにあわせて祭事が催されています。
砂村の富士信仰の象徴
江東区指定有形民俗文化財
砂町の富士塚
富賀岡八幡宮の富士塚は、江戸時代末の天保四年(1833年)までに、富士講のひとつ山吉講によって作られた富士塚です。江戸時代後半に爆発的に広まり、「江戸八百八講」と称された富士講は、信仰の対象であった富士山のうつしを住居の近くに築きました。富士塚に登ることによって、本山に登山するのと同じ功徳が得られるものと考えたのです。砂町の富士塚には頂上に向う登山口として、正面(西)に吉田口を、背面(東)に大宮口を、右側面(北)に須走口を作っています。現在では途中までしか行けませんが、中腹を真横に周回できるように中道巡りの道が作られています。右(北)には宝永山を表す小さい高まりを作り、塚の左裾には胎内と呼ぶ横穴を作っています。頂上に登り、富士山の方角を拝すると浅間嶽大日如来碑と対面するようになっています。塚はもともと30mほど北にありました。当初は土山だったようですが、昭和八年(1933年)水害のため形が崩れたので表面を溶岩(伊豆黒ボク石)で固め、昭和三十七年(1962年)現在地に移築されました。塚に附随している数多くの富士講碑により、現代まで続く富士講の活発な活動をうかがうことができます。
23区内の富士塚には幾つも上りましたが、富賀岡八幡宮の富士塚は登山が禁止されていなくても、登山道に取っかかりがなくて私には無理です。
砂村囃子は、享保年間(1716年〜1736年)の初めに金町の香取明神社(現在の葛西神社)の神官能勢環が農民に囃子を教え、それが近隣の農村に広まったものと伝えられています。葛西囃子や神田囃子と同じく江戸近辺の祭囃子のひとつで、大太鼓1・締太鼓2・篠笛1・鉦1で演奏します。富賀岡八幡宮を始め、区内神社の祭礼・祝儀の場などで演奏されています。3つの石碑が並んだ砂村囃子記念碑が建っています。
砂村囃子
凡そ二百七十余年の伝統を継承し、江戸祭囃子を代表する一つとして砂村囃子は時代の変転と共に幾盛衰を経て今日迄伝えられ、此の間多数の名人上手を輩出して来た。昭和五十五年十月東京都江東区初の文化財保護条例の規定により区教育委員会より無形民俗文化財の認定を受け、翌年三月其の保持団体として砂村囃子睦会を指定されたことは郷土の爲欣幸の至りである。将来一層研鑽し、広く愛好されるよう此の伝統芸能を末永く伝承し地域社会に貢献すべきである。本年は指定十周年に当り此処に記念碑を建つ。
葛西橋通りに出ます。左手に「イオン館」・「東館」・「西館」の3棟の建物からなる大型複合施設のトピレックプラザがあります。施設の管理・運営を行なっているのはトピー工業の子会社である株式会社トピーレックです。トピー工業は、鉄鋼事業、ホイール・自動車部品、建設機械用足回り部品など、一貫した生産体制を持つ金属加工の総合企業です。この地にはかつてトピー工業東京製造所が立地していました。その跡地に、ゴルフ練習場・テニスクラブ・スイミングクラブなどのスポーツ施設「トピレックプラザ」が1975年4月に開業しました。1977年7月には、敷地内に商業施設としてイトーヨーカドー南砂町店が開店しました。1990年代後半に入ると、隣接する高層マンション建設計画に付随して施設のリニューアルが計画されたのに伴い、イトーヨーカドー店は閉店し、建物は一旦解体されました。建て替え後、2000年6月にスポーツ施設のリニューアルが完了し、スポーツクラブ「オッソ」が先行開業し、同年11月29日にはジャスコ(現在はイオンスタイル)、ドイト(ホームセンター)、ラウンドワン(アミューズメント施設)を核店舗とした商業施設がオープンしました。商業施設には飲食店・書店・学習塾なども入居しています。
仙台堀川公園に入ります。仙台堀川は、江東区を流れる河川です。旧中川と隅田川を結ぶ運河のひとつでした。仙台堀川は、江東区木場の大横川交差地点を境にして、東西で河川形態は全く異なります。大横川交差地点から隅田川までの区間は河川水面は海水面と同じ水位であり、途中で平久川と大島川西支川に分流し、江東区清澄付近で隅田川に合流します。合流する手前には清澄排水機場があります。大横川交差点より東側では仙台堀川は堰き止められて海水面より水位が低くなっており、埋め立てられて仙台堀川公園となっています。「仙台堀」の名前は、北岸にあった仙台藩邸の蔵屋敷に米などの特産物を運び入れたことに由来します。そのため、「仙台堀」とも呼ばれていました。以前は小名木川〜横十間川間に開削された砂町運河、横十間川〜大横川間の十間川、大横川〜隅田川間の仙台堀川と分けられていましたが、昭和四十年(1965年)の河川法改正によりひとつにまとめられました。大横川と交差する地点では三十間川とも呼ばれていました。仙台堀川公園は、小名木川と接する桜井橋から江東区道大門通石住橋付近までの3.6kmの区間を占める、都内最大規模を誇る江東区立の公園です。「区民の森」という愛称で親しまれています。桜の季節になると、旧境川橋付近より北側の遊歩道沿道は出店も多く、花見客で賑わいます。サイフォンなどで公園内に通水しているため、水は塩辛く、淡水と海水の混ざった汽水域を好むハゼも泳いでいます。仙台堀川は、寛永年間以後に開削され、運河として利用されてきました。さらに横十間川より上流が明治以降に延長されました。昭和になり工業地帯として発達すると、仙台堀川の流れている一帯は付近にあった工場などからの地下水の汲み上げにより地盤沈下が激しくゼロメートル地帯となっていました。これによって川の水位より低い土地が出来上がり、護岸壁の高さもどんどんと上げていかなくてはならない状況でした。特に木場公園から東側の江東内部河川では台風の時などは護岸壁を超えて川から水が溢れる危険がありました。このような危険を回避するために、昭和五十七年(1982年)に木場公園から東部の江東内部河川は扇橋閘門等を設けて堰き止め、排水機場から常時排水することによって水位を下げることとしました。そして水位の下がった仙台堀川東側は埋め立てて公園とする工事が進められました。工事は昭和五十三年(1978年)に始まり、公園としては昭和五十五年(1980年)4月1日に開園しました。その後も工事は進み、昭和六十一年(1986年)に全面的に完成し、仙台堀川の多くは樹木と川とを身近に感じることのできる親水公園と大きく変わりました。西側の境界は大横川合流地点で、北は小名木川合流地点までとなっています。大横川合流地点より西側は仙台堀川として河川になっています。流域は、江東区の北砂・東砂・南砂・千石・東陽にまたがっています。公園は各地区ごとにテーマがあり、そのテーマごとに趣向を凝らした造りとなっています。途中で、同じく河川を埋め立てて作った横十間川親水公園と合流しています。
広場の中央に大きな石碑が置かれています。
仙台堀川公園の由来
砂町地区をL字型に流れる仙台堀川は、川幅三十六メートル・延長約二千八百メートルに及び、かつては砂町運河として開削されたのが始まりである。この運河は大正六年の大水害で被災した砂町地区の復興と工業振興のために、大正十年東京運河土地株式会社によって開削が始められ、昭和八年に完成したものである。その後、地域の工業発展のために重要な役割を果たしたものの大正十二年の関東大震災以来の地盤沈下に加え、度重なる高潮の襲来などで運河の維持が極めて困難となり、昭和二十三年東京都に上地されることになった。上地された後、砂町運河は砂町川と改称され、いかだの係留や舟行などに利用されていた。そして昭和四十年の河川法の改正に伴い、隅田川に結ぶ従来からの仙台堀川と合流し、一級河川仙台堀川に一本化されたのである。仙台堀川は長年の地盤沈下により護岸のかさ上げが繰り返され、漏水が各所に発生し、水質の汚濁が進んだことにより、防災上危険な河川との指摘をうけ、その状態での河川の維持は困難となった。そこで区は地域住民の埋立て要望が高まる中で、河川の安全性を確保し、河川のよみがえりを図ることを緊急課題として取り組み、昭和五十三年一部水路を残し、高水敷を造成する画期的な工事に着手した。この画期的な工事は地域住民の協力のもとに順調に進み、河川の安全性確保の目処が立った昭和五十五年四月仙台堀川は親水公園として生まれ変わり、ここに河川の再生をみたのである。
公園がL字型になった地点から西方向に幅の広い遊歩道が延びています。ここには、かって砂町運河がありました。
砂町運河跡
区民の憩いの場として親しまれているこの仙台堀川公園は、かって砂町運河として民間の手により開削された、例の少ない運河です。砂町が農村から工業の町へと発展していくなかで、船による輸送力の向上を見越して運河の開削が計画され、大正八年(1919年)に東京運河土地株式会社が創立されました。同十一年に着工し、小名木川の合流点から現在の都立東高校の正面にあたる東砂7−19までの南北の一線、続いて旧舟入川合流点から横十間川合流点までの東西の一線が昭和八年(1933年)までに完成しました。昭和二十三年(1948年)、東京都に移管されて砂町川と名称を改め、昭和四十年、河川法の改正に伴い、仙台堀川の一部となりました。昭和三十年ごろまでは、周辺の製材工場の木材が水面に浮かぶ光景がみられましたが、砂町が工業地帯から住宅地へと変貌をとげると、運河としての役割も終わり、昭和五十五年に埋め立てられ、親水公園として生まれかわりました。
「ふれあいの森」には、全国の都道府県から集められたそれぞれの県花・県木が植樹されています。ちなみに、江東区の県花はサザンカで、県木はクロマツです。
ふれあいの森の一画に、今は滅多に目にすることがない茅葺きの「旧大石家住宅」が建っています。
旧大石家住宅は、江戸時代に建てられた区内最古の民家建築です。安政の大地震・大正の大津波・関東大震災・戦災と幾つもの災害を免れ、建築当初の姿をとどめた貴重な住宅です。平成六年3月に江東区の有形文化財(建造物)に指定されると共に解体調査を行い、平成八年に仙台堀川公園内のふれあいの森に移築復元されました。
江東区指定有形文化財(建造物)
旧大石家住宅
旧大石家住宅は、平入り寄棟造りで、木造茅葺きの区内最古の民家です。規模は、梁行が三間半、桁行が五間半です。江戸時代後期、舟入川(四十丁川)南端の堀留に面して建てられた、半農半漁の典型的な住宅建築です。大石家の伝えによれば、安政二年(1855年)の大地震でも倒壊しなかったといわれています。その後も大正六年(1917年)の大津波、関東大震災、戦災をまぬがれました。戦後増改築が行われましたが、基本的な構造に変化はありません。区内で戦後取り壊しを行っていない木造茅葺きの民家は、旧大石家住宅が唯一の例であり、江戸時代の関東南部ないしは江戸近郊農村における農家の母屋の姿を残す、たいへん貴重な住宅といえます。その文化的・歴史的価値を守り伝えるため、平成六年三月に区の有形文化財(建造物)に指定するとともに、解体工事を行い、平成八年九月、当地に移築復元しました。
清洲橋通りの手前に砂町魚釣場があります。砂町魚釣場は江東区が管理している無料の釣り堀で、釣れる魚はヘラブナと鯉です。都内で手軽に釣りが楽しめる釣堀として人気です。初めて釣りを始める初心者にもお勧めです。釣り堀ではありますが、釣り竿や餌など釣り具一式の販売・レンタルはありませんので全て持参する必要があります。釣り竿は1人1本までで、長さは18尺(5.4m)までの決まりがあります。この日は休漁日だったようで、釣り堀には網が被せてありました。
しかし、しかし、砂町魚釣場は料金の安い工業用水を利用して運営していますが、東京都の工業用水事業が廃止となる予定のため、令和四年12月28日(水)をもって閉鎖されるとの告知がされています。
魚釣場閉鎖のお知らせ
利用者各位
平素より区営魚釣場をご利用いただき誠にありがとうございます。
豊住・砂町両魚釣場では、料金の安い工業用水を利用して運営してまいりましたが、令和四年度末にて工業用水が廃止となることとなりました。加えて、施設の老朽化等もあり、豊住・砂町両魚釣場は、永きにわたりご愛顧をいただいているところですが、令和四年12月28日(水)をもって閉鎖することといたしました。尚、閉鎖の日までは今まで通りご利用いただけます。
2025年2月に再訪した時は、跡地を区民農園に転用するための工事が進んでいました。区民農園は、令和七年度に開園予定とのことです。
区民農園の竣工を織り込んだ真新しい案内板が準備されています。
砂村の農業
万治二年(1659年)、砂村新左衛門一族が「砂村新田」を開拓しました。この地域は海に近く、土地がアルカリ性であるため、田んぼよりも畑に適しており、砂村ナスや砂村ネギ、砂村三寸人参などが豊富に採れるようになり、東砂三丁目には「東京都特産砂村採種場」がつくられま
した。採れた農作物は、水運を利用して江戸のまちに届けられ、逆に、江戸のまちで出たし尿や魚のあらなどは、肥料として農地に運ばれました。生ごみの発酵熱を利用した「トコバ」(温床)による促成栽培なども行われ、旬よりも早く出荷する「野菜の早出し」をしていました。
仙台堀川公園
大正期以降は工業化・都市化により、農業は減少していきました。一方で、大正六年(1917年)の大洪水で被災した砂町地区の復興と工業発展のため、昭和八年(1933年)に民間会社によって砂町運河が開削されました。砂町運河は工場運営のために重要な役割を果たしたものの、地盤沈下や度重なる高潮被害によって民間での維持管理が極めて困難になり、昭和二十三年(1948年)に東京都に寄贈され、昭和四十年(1965年)の河川法改正により「仙台堀川」となりました。その後、昭和五十四年(1979年)に「区民の森」をテーマに仙台堀川公園が整備され、この場所に砂町魚釣り場ができ、約40年間区民の身近なレジャー施設として親しまれました。砂町魚釣り場は工業用水の廃止に伴い令和四年(2022年)に閉鎖され、その跡地を区民農園として再整備しました。
魚釣場の角で右折し、清洲橋通りを進みます。お菓子屋さんの角で左折し、路地に入ります。
「コ」の字型に回って、再び仙台堀川公園横の道路に出る手前に大塚天祖神社があります。この辺りは江戸時代に開拓された砂村新田地域で、その東隣にあったのが大塚新田でした。大塚天祖神社は、寛永年間(1624年〜1644年)にこの地が開拓された時に勧請されて大塚の鎮守となりました。境内には「神明の松」と名付けられた大きな松の木があり、木の下には元神明の碑がありました。「大正六年(1917年)の大津波」が起きた時は、その松にしがみついて助かったものが何人もいたということです。しかし、松の木はそののち枯れてしまったのだそうです。
仙台堀川公園横の道路に出たところで右折し、城東公園の角を右折します。左手には東砂スポーツセンターがあります。
結構道に迷いながらも、路地奥の分かりにくい場所にある生田神社に辿り着きました。生田神社は、此の地を開拓した際に旧太郎兵衛新田村の鎮守として慶安年間(1648年〜1651年)に創建したといわれています。
元禄年間(1688年〜1704年)初めに疫病が流行した際、里人はこの社に祈り安全を得ました。特に産婦の安全を守護する徳があり、伝え聞いて参りに来る者が多く、社名(生田)はこの神徳によるといわれています。
生田神社
祭神 宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
由緒 慶安年中(1648年〜1651年)当地開発のさい、土地の鎮守とす。
元禄初年(1688年〜1703年)疫病流行のさい、里民当社に祈願し安全を得、特に
産婦の安全を守護し、神徳を崇め遠近より参詣が多い。
路地裏から戻った先に因速寺があります。因速寺は、元和九年(1623年)に釈定玄法師によって開山されました。元々は京橋竹町(現在の中央区京橋)に位置していましたが、その後木挽町(現在の中央区銀座)に移転し、最終的に深川黒江町(現在の江東区永代)に落ち着きました。しかし、大正十二年(1923年)の関東大震災で罹災し、昭和二年(1927年)に現在地に移転しました。因速寺の御本尊は木造阿弥陀如来立像です。
木造阿弥陀如来立像は鎌倉時代の作品で、あの「往生要集」を書いた源信僧都の作と伝えられています。江東区では一番古い仏像で、区の指定有形文化財となっています。
江東区指定有形文化財(彫刻)
木造阿弥陀如来立像
阿弥陀如来立像は因速寺の本尊です。像高は79.0cmで頭、体、両袖などに数材をはぎ寄せた寄木造りです。眼は水晶を入れた玉眼とし、着衣は黒漆地に漆箔、肉身には金泥がほどこされており、白毫と肉髻珠はともに水晶です。印相は、中品下生といわれるかたちをとっています。像は快慶風の作品で、製作時期は鎌倉時代と考えられます。頭と両手足先に江戸時代の補修のあとがわずかにみられますが、製作時の作風を今日に伝えています。因速寺に伝来した時期は不明ですが、「御府内備考続編」の因速寺の項に「本尊阿弥陀如来 木立像二尺七寸余 恵心僧都作」とあり、これは現本尊と同一の仏像の記事です。この記事から、遅くとも江戸時代後期までには安置されていたことがわかります。この像は、区内でもっとも古いものの一つで、関東大震災や戦災の時には本堂から運び出したため、難をのがれました。製作年代が古いというだけでなく、地域に伝えられ続けてきた、たいへん貴重な仏像といえます。
因速寺の墓地には、野菜の促成栽培を始めたと伝えられる松本久四郎のお墓があります。
江東区登録史跡
松本久四郎墓
初代松本久四郎は、近郊農村として野菜を江戸市中に供給していた砂村地域の篤農家で、寛文年間(1661年〜1673年)に蔬菜類の促成栽培を始めた人と伝えられています。旧暦三月中旬に栽培されたナス・キュウリ・インゲンは将軍家に献上され、大いに賞されたといわれています。砂村産の旬を先取りする野菜は、料理屋などに高値で販売され、幕府がぜいたく品として取り締まることもありましたが、初物好きの江戸っ子に支持され続けました。砂村で促成栽培された野菜は、地域を代表する名産品となりました。促成栽培を行う農家は、「タコ」と呼ばれる丈夫な油紙で覆った温室を作り、江戸・東京市中から運ばれた生ごみを発酵させた温床(床場)や炭火の熱を利用して笛を育てました。明治以降も江戸時代の方法を踏襲した野菜の促成栽培が行われていました。現在の墓石は、因速寺が現在地へ移転した昭和二年(1927年)に、七代松本久四郎によって建立されました。墓石の銘文にある享保十九年(1734年)没「釋養圓信士」が初代松本久四郎とされています。
因速寺に隣り合って上妙寺があります。上妙寺は、寛永二年(1625年)に荻勘七郎が開基となって創立されました。荻勘七郎は大和国(現在の奈良県)の出身で、2人の弟と共にこの地を開拓し、「荻新田」と名付けました。その開拓地の一角に設けた寺が上妙寺の起源となっています。上妙寺には、海中から出現した鬼子母神像を安置していることで知られています。
山門の前に古びた石碑が建っています。
江東区指定有形民俗文化財
鬼子母神道道標
江戸時代後期の文化十年(1813年)、上妙寺第十六世日閑の代に神田小柳町(千代田区)の商人井筒屋久治郎・伊勢屋平吉・佐野屋平七の三名を世話人として再建された道標です。当初は小名木川沿いの道に、西向きに建てられ、江戸から来る参詣者の目印となっていましたが、昭和三十年代以降に、上妙寺境内に移されました。本道標は、塔身と基礎で構成され、塔身正面には「南無妙法蓮華経」の題目、右側には建立年代、左側に「是ヨリ鬼子母神道」と刻まれ、基礎には「上妙寺」の寺名と世話人の名前が陰刻されています。鬼子母神道の名称は上妙寺の鬼子母神像に由来します。寺伝によると上妙寺の鬼子母神像は、第八世日達の時代に大津波によって境内に流れ着き、第十一世日龍の時代に鬼子母神尊神堂が造立され、堂内に祀られたと伝承されています。こうした由緒から天保十一年(1840年)刊行の「東都本化道場記」では、「海中出現の鬼子母尊神堂」と紹介されています。この道標は、十九世紀初めには上妙寺鬼子母神の信仰が隅田川を越えて神田まで広がり、江戸の人々が参詣に訪れていたことを示しており、江戸時代以来の上妙寺の鬼子母神信仰を今に伝えるとともに、小名木川南岸の道から上妙寺に至る道が参詣の道としての性格を有していたことを示す貴重な文化財です。
仙台堀川公園に戻り、小名木川に架かる塩の道橋袂から川沿いの遊歩道を進みます。丸八橋を渡った右手に大島稲荷神社(大島神社)があります。
- ポイント4 大島稲荷神社(大島神社)
-
大島稲荷神社
江戸時代中期に小名木川水運をもとに村々が栄え、その鎮守様として五つの神社が建てられましたが、昭和二十年(1945年)3月10日の東京大空襲により町並み全てが灰燼と化し、社殿・社史ともに焼失しました。町並みの復興とともに神社再建の声があがり、昭和二十七年(1952年)に五社を合併し現鎮座地に社殿が建立されました。
Higashi-ojima-jinja Shrine
In the middle of the Edo period, villages along the Onagi River flourished, and five shrines were established as guardians of the land. However, the Bombing of Tokyo on
March 10th, 1945 reduced the area to an ashy wasteland and all of the shrines burned down. During reconstruction, many voices vied for the recovery of the shrines, and in
1952, the Higashi-ojima-jinja Shrine was built as an amalgamation of the original five shrines.
大島稲荷神社の由緒を記した石碑が建っています。
大島稲荷神社御由緒記
御 由 緒
和銅四年(707年)元明天皇大和朝廷時代(蒼稲魂神)が轟く雷鳴とともに、二月初午の日、初めて伊奈利山の験の杉に降臨してから、稲荷信仰として始まると云う。朱雀天皇の天慶五年(蒼稲魂神)に正一位という最高の神位階に昇られました。明正十五年江戸時代ご創建と当神社伝えられる。由来同地は、海辺又は小名木川より近く、数度の津波等により、耕地の荒廃甚だしきため、又悪疫もはやり、村人相謀りて山城の國、伏見なる稲荷の御分霊を此の地に、奉遷して産土神として、災を除き、衣、食、住、福を授け家内安全、出世開運あらゆる産業の大祖神として、御神威高く輝き大島神社と称え、爾来開拓國造営の守護神のご神徳が果しなく拡がり続いて、しかも、如何にご利益或るかを強く物語るもので、崇敬拝厚きも深く受、鎮守様として仰がれたり。
俳人 松尾芭蕉 句(秋に添て 行はや末は 小松川)
俳人 小林一茶 句(水売の いまきた顔や 愛宕山)
俳句碑を残してをります。
松尾芭蕉の石像と句碑が建っています。「秋に添て 行はや末は 小松川」の句は左手の女木塚碑に書かれています。右手の石碑には、「五月雨を あつめて早し 最上川」と書かれています。
大島稲荷神社御鎮座三百五十年大祭記念
松尾芭蕉翁石造像建立之詞書
当神社境内に保存されている「女木塚」句碑にある一句は元禄五年翁が深川より小名木川近在の門人桐奚宅の句会に行く途中船を留め神社に立ち寄り参拝し句会で詠まれたもので
秋に添て
行ばや末ハ
小松川
としたためられております。その後芭蕉翁歿後其日庵(きじつあん)社中により神社にこの句碑が建立されました。本句碑は歴史的価値により、江東区有形文化財に登録されております。平成十三年九月十九日には、大島稲荷神社御鎮座三百五十年式年大祭が開催されました。輝やかしい佳節を迎え総代、氏子、崇敬者一同記念事業の一環として、茲に三百五十年史として縁り深いこの地に遺徳を偲び、其日庵社中に感謝の意をこめて翁の石造像建立して後世に伝えることに相成ました。
芭蕉の石造像の後ろにも、芭蕉と大島稲荷神社の関わりを書いた案内板が建っています。
松尾芭蕉ゆかりの大島稲荷神社
女木塚の裏に其日庵社中造立とありますが年代(不?)詳。この句は大坂へ旅立つ二年前の元禄五年(1692年)芭蕉五十才の時奥の細道に旅立する前の句でありまして芭蕉は深川から船で川下りをして神社の前を流れる小名木川に船を浮かべて洞奚宅に訪ね行く途中船を留て当神社に立寄り参拝を致しまして境内の此の森の中で川の流を眺めながらその際、詠んだのがこの句であります。
秋(アキ)に添(ソ)て行(ユク)はや末(スイ)は小松川
の句を残しております。その後年其日庵の俳人たちが芭蕉をしのんでゆかりの深い大島稲荷神社に句碑を建立その面影が偲ばれます。建立は江戸時代といわれ拓本を取る人も多い。松尾芭蕉が奥の細道に旅立って今年元年が三百年目の年に当ります。
- ポイント5 宝塔寺
-
大島稲荷神社から小名木川の対岸の遊歩道を戻り、塩の道橋から宝塔寺に向かいます。
宝塔寺
慶長十五年(1610年)に法印賢意が創建した真言宗智山派寺院の宝塔寺は、稲荷山小名院と号します。宝塔寺には江東区登録文化財が多数あり、その中でも江戸時代の商人が商売繁盛を願って塩を備えたことが由来の「塩なめ「地蔵」が有名です。また仏前の塩をもらっていぼにぬると治るともいわれ、別名「いぼ取り地蔵」とも呼ばれています。
Hotoji Temple
Hotoji Temple was built in 1610 for the Chisan-ha sect of Shingon Buddhism. It contains many Registered Cultural Properties of Koto, the most famous of which is the
"Shioname Jizo", a Japanese Buddhist Jizo statue to which merchants would pray for good fortune in business by making salt offerings. The salt is believed to cure warts, so the statue is also known as "Ibo-tori Jizo" or "Wart-removing Jizo".
門前に案内板が立っています。
宝塔寺 (塩なめ地蔵)
由来
宝塔寺は真言宗で、稲荷山小名院と号します。境内に安置されている塩なめ地蔵は、もとは、小名木川沿いにあったものを昭和初期に移したものです。江戸時代に、小名木川や行徳道を通る商人たちが、この地蔵の前で休憩し、商売繁盛を願って塩を供えたのが由来と伝えられています。また、仏前の塩をもらっていぼにぬると治るともいわれ、別名「いぼ取り地蔵」とも呼ばれていました。
境内の一画に、六地蔵堂と塩なめ地蔵堂が並んで建っています。地蔵堂再建祈念碑の横面には、はっきりと読み取れませんが、どちらも平成六年に再建されたと記されています。
塩舐め地蔵
この塩舐め地蔵は、石井某によって小名木川から掘り出され、宝塔寺に納められたと伝えられます。小名木川は慶長年間に開削されており、おそらく宝塔寺の開創(慶長十五年・1610年)とともに境内に安置されたものでしょう。塩地蔵とよばれる地蔵尊はきわめて数少なく、供えられた塩をつけると疣が取れるといわれ、疣取り地蔵ともよばれます。また、商売繁昌、航海安全のご利益も授かると伝えられています。
2022年に訪れた時は、記念碑の横に梅の木がありました。そんなに老木でもなかったのですが、どうなったんでしょうか?
地蔵尊の周りには沢山の塩袋が積まれています。お参りの作法も書かれています。2022年に訪れた時の作法と2025年に再訪した時の作法が微妙に違います。何故でしょうか?
?塩なめ地蔵(2022年版)
- 塩をかけずに合掌してお参り下さい。
- ご真言「おん・かかか・びさんま・えい・そわか」。
- 願い事する時はお塩をお供え下さい。
- 供えられた塩を「いぼ」につけると「いぼ」が取れると「いぼ取り地蔵」とも呼ばれます。供えられた塩を持ち帰り、「いぼ」が取れたら改めて塩を供えて下さい。
- 塩なめ地蔵のお札ご希望の方はお寺までお願いします。
合掌
除災招福「塩なめ地蔵」(2025年版)
- 塩をかけずに合掌してお参り下さい。
- ご真言「おん・かかか・びさんま・えい・そわか」。
- 供えられた塩を「いぼ」につけると「いぼ」が取れると「いぼ取り地蔵」とも呼ばれます。お供えの塩を持ち帰り、「いぼ」が取れたら改めて塩を供え、お参り下さい。
- 塩なめ地蔵のお札はお寺までお願いします。
合掌
左が2022年に訪れた時の地蔵堂、右が2025年に再訪した時の地蔵堂です。
ゴール地点の都営新宿線東大島駅に戻ってきました。
ということで、江東区で六番目の「青龍E潮風漂う荒川に沿って葛西橋へ「砂町の歴史を探そう」」を歩き終えました。次は江東区で七番目のコースである「朱雀Fセンタープロムナード」を歩きます。
戻る