- 白虎J芭蕉の史跡めぐり〜芭蕉に会いに行こう〜
- コース 踏破記
- 今日は江東区の「白虎J芭蕉の史跡めぐり〜芭蕉に会いに行こう〜」を歩きます。深川北スポーツセンターから仙台堀川に沿って桜並木の緑道を進み、芭蕉の俳句を眺めながら清澄公園を経て、隅田川テラスを歩きます。最後に、芭蕉稲荷神社に詣でて芭蕉記念館を訪れます。最初に歩いたのは2022年の2月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年3月に改めて歩きました。
白虎J芭蕉の史跡めぐり〜芭蕉に会いに行こう〜
芭蕉俳句の散歩道は川風が気持ち良く、春は桜がきれいです。時間があれば芭蕉記念館もおすすめです。
「白虎J芭蕉の史跡めぐり〜芭蕉に会いに行こう〜」の歩行距離は約3.2km(約4、580歩)、歩行時間は約48分、消費カロリーは約144Kcalです。
スタート地点:深川北スポーツセンター
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- ポイント1 採茶庵跡
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採茶庵(さいとあん)は、松尾芭蕉の門人・杉山杉風の庵室でした。
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- ポイント2 芭蕉俳句の散歩道
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仙台堀川沿いの遊歩道には、芭蕉の句板が並んでいます。
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- ポイント3 隅田川テラス
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「隅田川テラス」は隅田川両岸にある親水遊歩道の総称。
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- ポイント4 芭蕉庵史跡展望庭園
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閉園後の夕方5時、芭蕉像は隅田川のほうを向き、ライトアップされます。
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- ポイント5 芭蕉記念館
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芭蕉ゆかりの地にあり、俳句文学の各種資料を展示しています。
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ゴール地点:都営地下鉄新宿線森下駅A4出入口
スタート地点の深川北スポーツセンターから歩き始めます。深川北スポーツセンターは、体育室・トレーニング室・屋内プールなどを備えた江東区立の総合屋内スポーツ施設です。子どもからシニアまで誰もが利用できるようにバリアフリーを基本に整備された施設で、各種の健康体操教室・スポーツ教室を開催するなど、地域スポーツの拠点として多くの区民に利用されています。
深川北スポーツセンターに隣接して、福富川公園があります。福富川は、かって仙台堀川と交わり、木場の貯木場としても利用されていました。その福富川を埋め立てて公園にしたのが現在の福富川公園です。「木場の香り」をテーマに整備した、延長0.5km・面積0.5haの小さな公園で、木に因む施設が多く設けられています。様々な樹種の木々が茂る園内には、鯉や亀が泳ぐ幾つもの池や、木製水門の模型などがあり、都会の喧騒をしばし忘れることが出来る静かな空間となっています。公園の入口には、「旧吉岡水門」が保存されています。
仙台堀川を亀久橋で渡ります。仙台堀川は、江東区を流れる河川です。旧中川と隅田川を結ぶ運河のひとつでした。仙台堀川は、江東区木場の大横川交差地点を境にして、東西で河川形態は全く異なります。大横川交差地点から隅田川までの区間は河川水面は海水面と同じ水位であり、途中で平久川と大島川西支川に分流し、江東区清澄付近で隅田川に合流します。合流する手前には清澄排水機場があります。大横川交差点より東側では仙台堀川は堰き止められて海水面より水位が低くなっており、埋め立てられて仙台堀川親水公園となっています。「仙台堀」の名前は、北岸にあった仙台藩邸の蔵屋敷に米などの特産物を運び入れたことに由来します。そのため、「仙台堀」とも呼ばれていました。以前は小名木川〜横十間川間に開削された砂町運河、横十間川〜大横川間の十間川、大横川〜隅田川間の仙台堀川と分けられていましたが、1965年の河川法改正によりひとつにまとめられました。大横川と交差する地点では三十間川とも呼ばれていました。仙台堀川の両岸の遊歩道には桜の木が沢山植えられていて、春には満開の桜のトンネルが出現します。今は固い芽のままですが。
亀久橋は、関東大震災の復興事業の一環として架けられた「震災復興橋梁」のひとつです。
震災復興橋梁について
大正十二年(1923年)9月1日の午前11時58分、神奈川県西部(または相模湾北西部)を震源とするマグニチュード7.9の大地震(大正関東地震)が発生しました。震災前、東京市の橋の大部分は木橋で、多くの橋が被害を受けました。震災直後から昭和五年(1930年)にかけて、復興事業の一環として架けられた橋梁は「震災復興橋梁」と呼ばれています。東京市に架けられた「震災復興橋梁」の数は、8年間で約400橋で、江東区域にも多くの「震災復興橋梁」が架けられました。一部の橋は、改修や補修を重ねながら、現在も都市の交通を支えています。
亀久橋の橋名は、橋の南の位置に昭和十五年(1940年)まで存在した「深川亀久町」の町名に由来しています。アール・デコ調に装飾された親柱にはステンドグラスの照明が、またトラスに組んだ橋梁本体にも小型のステンドグラスの橋灯が歩道面と車道面の両側に取りつけられています。歩道側の高欄にも橋灯と同じような左右対称の図案が施されています。
木更木橋を経て、海辺橋まで仙台堀川沿いの遊歩道を進みます。遊歩道の上には桜の木の枝が被さり、春には桜を愛でながらのお散歩が楽しめます。もう少しで開花ですね。
元禄二年(1689年)に松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出発したのは海辺橋の辺りだといわれています。
海辺橋の袂に観光高札が立っています。
観光高札
深川と水
深川では江戸時代から飲料水の確保に大変苦労しました。この地が海面の埋め立てによる造成地であるために井戸水の水質が悪く、その上隅田川が障壁となって神田・玉川両上水の利用ができなかったからです。そのため飲料水は水船に頼らざるを得ませんでした。深川に上水道が完成したのは明治も後半になってからでした。それまでは、神田・玉川両上水の余り水を銭瓶橋(大手町付近)の「吐水口」で水船に積み込んで各地で陸揚げし、「水屋」「水売」と呼ばれる人々が棒手振りで飲料水を売り歩きました。ここ海辺橋の北岸は、江戸時代から「水場」と呼ばれており、この辺りでも水船から飲料水が陸揚げされたものと思われます。
海辺橋の北側には都立清澄庭園の広大な敷地が広がっています。この地には元禄期の豪商だった紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられています。享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、ある程度の庭園が築かれたと推定されています。明治十一年(1878年)、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手しました。明治十三年(1880年)に竣工し、深川親睦園と命名されました。三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、明治二十四年(1891年)に回遊式築山林泉庭園としての完成を見ました。明治二十二年(1889年)には庭園の西側にジョサイア・コンドル設計による洋館が建てられました。大正十二年(1923年)に発生した関東大震災で庭園は大きな被害を受け、邸宅も焼失しました。それを受けて大正十三年(1924年)、三菱三代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈しました。東京市は大正記念館の移築や深川図書館の新館舎建設などの整備を進め、昭和七年(1932年)7月24日に清澄庭園として開園しました。東京都は昭和四十八年(1973年)に残る西半分の敷地を購入し、翌年から整備を開始して昭和五十二年(1977年)に清澄公園として追加開園しました。
- ポイント1 採茶庵跡
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海辺橋の南西側袂に芭蕉縁の「採茶庵」を復元した小さな建物があり、奥の細道に出立する直前なのでしょうか、その縁台に腰掛けた旅装姿の松尾芭蕉の彫像が置かれています。
庵の前には案内板が立っています。
江東区登録史跡
採茶庵跡 〜奥の細道はここから〜
採茶庵は、江戸時代中期の俳人杉山杉風の庵室です。杉風は名を市兵衛、または藤左衛門と称したほか、屋号を鯉屋、俳号を採茶庵、五雲亭などとし、隠居したのちは一元と名乗りました。家業は魚問屋で鯉上納の幕府御用もつとめ、小田原町一丁目(中央区)に住んでいました。松尾芭蕉の門人でもあり蕉門十哲に数えられ、「常盤屋句合」・「角田川紀行」などの著作があります。また、芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても知られています。採茶庵があった場所については、杉風の娘婿である隋夢の遺言状に「元木場平野長北角」と書かれています。平野町は海辺橋南詰から万年町二丁目(深川1−8)を挟んだ一角でした。案内板が建っている海辺橋のたもとより140メートルほど南西に位置します。芭蕉は奥の細道の旅に出る前、住居としていた芭蕉庵を手放し、しばらくは採茶庵で過ごしました。門人たちと別れを惜しんだのち、舟で隅田川をのぼり、千住大橋のたもとから奥州へと旅立っていきました。
Site of Saitoan
Saitoan was the hermitage of Sugiyama Sanpu, a disciple of haiku poet Matsuo Basho. Sanpu was one of Basho's top ten most gifted disciples. Saitoan was originally located 140 meters south of this sign at what is now 1-8 Fukagawa. Basho stayed at Saitoan before departing on the journey that led to his masterwork, Oku no Hosomichi (The Narrow Road to the Interior).
庵の前には、採茶庵跡と書かれた石柱も建っています。左右・後面に説明書きがありす。
採茶庵跡
芭蕉の門人鯉屋杉風は今の中央区室町一丁目付近において代々幕府の魚御用をつとめ、深川芭蕉庵もその持家であったが、また平野町内の三百坪ほどの地に彩茶庵を建て、みずからも彩茶庵と号した芭蕉はしばしばこの庵に遊び「白露もこぼさぬ萩のうねりかな」の句をよんだことがあり、元禄二年奥の細道の旅はこの彩茶庵から出立した。
- ポイント2 芭蕉俳句の散歩道
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採茶庵跡から仙台堀川の遊歩道に入ります。遊歩道の脇には芭蕉の句碑が並び、「芭蕉俳句の散歩道」と名付けられています。
芭蕉俳句の散歩道
俳人松尾芭蕉がこの地より出発した「おくのほそ道」の句をお楽しみください。
私でも知っている句が幾つもあります。
清澄橋を渡って、清澄庭園の西側に隣接する清澄公園に入ります。
かって清澄公園は清澄庭園の一部でした。
東京都 名勝 清澄庭園
清澄庭園は、三菱財閥の創始者・岩崎彌太郎が明治十一年(1878年)に荒廃していた大名の下屋敷や豪族の館跡の土地約3万坪を買い上げ、大規模な造園工事を開始し、弟・彌之助、長男・久彌へと岩崎家3代によって明治二十四年(1891年)に「廻遊式林泉庭園」が完成されました。当時は「深川親睦園」といわれ、三菱社員の慰安や内外賓客を招き接待する場として用いられていました。
●深川親睦園当時と現在の敷地
●深川親睦園当時
庭園の主な施設として、河田小三郎が設計監理した日本館、英国人建築技師ジョサイア・コンドルの設計監理による西洋館がみられました。これらの建造物は鹿鳴館時代の明治文化を反映した豪華さにおいて、岩崎家の権勢を天下に誇示したものでした。
●現在
大正十二年(1923年)の関東大震災により、西半分を中心として壊滅的被害を受け、岩崎家が翌十三年に破損の少なかった東半分を公園用地として当時の東京市に寄付しました。昭和七年(1932年)より清澄庭園として一般公開されました。
●深川親睦園当時の建物
●西洋館
英国人建築技師ジョサイア・コンドルの設計監理によるもので、明治十九年(1886年)に着工して明治二十二年(1889年)に竣工しました。鹿鳴館時代の建築技術が生かされた建坪782坪(約2581u)で、鋳鉄製テラス、イスラム風ドーム、オランダ風の装飾破風などのデザインを有していました。しかし、大正十二年(1923年)の関東大震災の際に焼失してしまいました。
●日本館
河田小三郎により設計監理された日本館は建坪315坪(約1040u)で、大広間、茶室、小集会場、松の茶屋などを備えた壮大な木造家屋でした。明治十九年(1886年)着工、明治二十二年(1889年)に竣工しました。しかし、大正十二年(1923年)関東大震災の際に焼失しました。
●涼亭
明治四十二年(1909年)、英国陸軍元帥キッチナーを迎えるため保岡勝也が設計し、この涼亭が建てられました。
●現在の大正記念館
初代の大正記念館は、昭和二十年3月10日の東京大空襲によりほぼ全焼してしまいました。その後、貞明皇后のご葬儀の「葬場殿」資材の下賜をうけ、昭和二十六年(1951年)着手、昭和二十八年(1953年)に完成しました。現在の大正記念館は、近代風数寄屋造りで平成元年に全面改修したものです。
●現在の涼亭
庭園の日本情緒を有している数寄屋造りの涼亭は、震災・戦災と2度の災厄をまぬがれて焼け残った唯一の建造物です。現在の建物は、昭和六十年(1985年)に全面改修しましたが、構造外見は往時の姿をとどめています。
中央の芝生広場を囲んで桜の木が20本ほど植えられ、春のお花見の場ともなっています。公園入口に聳え建つ昔ながらの時計台が印象的です。公園内には子ども達が楽しめる遊具はさほど多くはありませんが、夏になると水が入る「ジャブジャブ池」があります。
清川橋から隅田川に向かいます。右手に日本最大のセメントメーカーである太平洋セメント深川工場があります。工場前の道路脇には、セメント工業の歴史を示す記念碑が建っています。
此の地には、かって日本初のセメント工場である深川セメント製造所がありました。明治五年(1872年)に前身となる大蔵省所管の深川摂綿篤製造所が着工し、近代建築に必要なポルトランドセメントの国産化を図ることを目的としましたが、果たせぬまま明治七年(1874年)に工部省に移管されました。責任者の宇都宮三郎が渡欧し、技術を習得後の明治八年(1875年)に工場を造り直し、深川セメント製造所となりました。製造所で日本初の国産セメントの製造に成功した5月19日はセメントの日となりました。その後、明治十七年(1884年)に官営模範工場の売却が行われ、深川セメント製造所も対象となりました。製造所は浅野総一郎らに売却され、官営製造所の歴史を閉じました。これが浅野セメントとなって浅野財閥の基礎になりました。工場は、浅野セメントとして存続し、現在、製造所の敷地跡はアサノコンクリート深川工場(太平洋セメント)の他、読売新聞社有地となっています。「本邦セメント工業発祥の地」の石碑が建っています。
本邦セメント工業発祥之地
此地ハ元仙台藩ノ蔵屋敷跡ニシテ、明治五年大蔵省土木寮ニ於テ始メテセメント製造所ヲ建設セリ。同七年工部省ノ所管トナリ、深川製作寮出張所ト改メラレ、技師宇都宮三郎氏ニ依リ湿式焼成法ヲ採用シ、初メテ外国品ニ劣ラサル製品ヲ得タリ。明治十年一月深川工作分局ト改称サレ、工場ノ拡張相次テ行ハレ、同十六年四月逐ニ初代浅野総一郎ノ経営ニ移リ、浅野工場ト称スルニ至ル。明治三十一年ニ月浅野セメント合資會社創立ト共ニ本社工場トナリ、同三十六年十一月本邦最初ノ廻転窯ヲ設置シ事業愈盛大トナレリ。大正元年十月組織ヲ改メ株式會社トナリ、東京工場ト改称シ今日ニ及フ。蓋シ此地ハ本邦セメント工業創生ノ地ニシテ、同時ニ又當社発祥ノ地タリ。仍而茲ニ其然ル所以ヲ録シ之ヲ記念ス。
THE MONUMENT OF THE BIRTHPLACE OF CEMENT INDUSTRY IN JAPAN AND ALSO ASANO CEMENT (THE CURRENT TAIHEIYO CEMENT CORPORATION).
当時の工場の全景を描いた石碑も建っています。
江東区史跡 セメント工業発祥の地
当地は日本で初めてのセメント工場があった場所です。明治八年、工部省が本格的なセメントの製造に成功しました。上図手前の隅田川、右側の仙台堀などの泥土を原料の一部として使い、試行錯誤の末、外国品と遜色のない国産のセメントを作り上げました。明治十六年、当社創業者のひとりである浅野総一郎が払い下げを受け、その後民間のセメント工場として発展を遂げました。
浅野総一郎の銅像が建っています。小柄そうですね。
浅野セメント(現 太平洋セメント株式会社)の創設者
初代社長 浅野総一郎翁像
THE STATUE OF THE LATE MR. SOICHIRO ASANO, THE FOUNDER AND FIRST PRESIDENT OF ASANO CEMENT (THE CURRENT TAIHEIYO CEMENT CORPORATION).
明治時代に製造され、海中で長期間使用されたコンクリートブロックの実物が保存されています。
明治二十七年に製造されたコンクリートブロック
明治二十二年(1889年)〜明治二十九年(1896年)に行われた横浜港築港工事で、その防堤基礎用として明治二十七年(1894年)に製造して海中に沈設され、昭和六年(1931年)同港改築に際し引き上げられたコンクリートブロックである。このコンクリートはアサノ普通ポルトランドセメントを使用したもので、配合はセメント:砂:(砂利と小割栗石)が1:2.8:5.2(容積比)、水セメント比は40%程度と推定される。37年間海中にあっても損傷は認められず、優れたコンクリートであったことを証明している。
THE BASE CONCRETE BLOCK OF THE BREAKWATER OUTSIDE OF YOKOHAMA HARBOUR PLACED ON THE SEA-BOTTOM IN 1894 AND RECOVERED IN 1931.
- ポイント3 隅田川テラス
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仙台堀川が隅田川に合流する地点に、清澄排水機場排水樋門があり、その脇から隅田川テラスに下ります。清澄排水機場は、地盤沈下の著しい江東三角地帯を水害から守り、合わせて環境の整備を行う「江東内部河川整備事業」の一環として建設された外郭ポンプ施設です。台風などによる高波や地震による津波のときは排水樋門が閉鎖されます。このときに降った雨は下水道から内部河川に排水されます。この排水機場は内部河川に降った雨を外海(隅田川)に吐出して溢れることを防ぐ役目を果たします。隅田川テラスは、堤防を補強する護岸基礎を親水施設として開放した場所です。現在、隅田川テラスは隅田川の両岸約47kmの内、約36kmの区間で整備され、都心の貴重な水辺空間として多くの人たちに利用されています。
隅田川テラスに下りますと、目の前に優雅な清洲橋が眺められます。
清洲橋
【橋長】 186.2m
【幅員】 25.9m
【構造】 自碇式鋼鉄製吊橋
大正十四年に起工、工費約300万円(当時)を費やして昭和三年3月に完成しました。長さ186.2m、幅25.9m。ドイツのライン河に架かる世界の美橋、ケルン市の吊り橋をモデルとして設計された優美で女性的な橋です。橋名は深川の清澄町と日本橋中洲町を結ぶ橋であることから、その町名の頭字を一字ずつとってこの名が付けられました。
小名木川が隅田川に合流する地点に萬年橋が架かっています。萬年橋は関東大震災後の震災復興橋梁のひとつです。
震災復興橋梁について
大正十二年(1923年)9月1日の午前11時58分、神奈川県西部(または相模湾北西部)を震源とするマグニチュード7.9の大地震(大正関東地震)が発生しました。震災前、東京市の橋の大部分は木橋で、多くの橋が被害を受けました。震災直後から昭和五年(1930年)にかけて、復興事業の一環として架けられた橋梁は「震災復興橋梁」と呼ばれています。東京市に架けられた「震災復興橋梁」の数は、8年間で約400橋で、江東区域にも多くの「震災復興橋梁」が架けられました。一部の橋は、改修や補修を重ねながら、現在も都市の交通を支えています。
萬年橋の諸元
橋梁形式: 一径間下路単純タイドアーチ橋
橋 長: 56.3m
橋梁幅員: 17.7m
架設年月: 昭和五年11月
萬年橋の袂に川船番所跡の案内板があります。川船番所は当初この地点に置かれたのですが、その後旧中川と接続する番所橋付近に移されました。
川船番所跡
川船番所は幕府により設けられた番所で、万年橋の北岸に置かれ、川船を利用して小名木川を通る人と荷物を検査しました。設置の年代は明らかではありませんが、正保四年(1647年)に深川番の任命が行われていることから、この頃のことと考えられています。江戸から小名木川を通り利根川水系を結ぶ流通網は、寛永年間(1624年〜1644年)にはすでに整いつつあり、関東各地から江戸へ運ばれる荷物は、この場所を通り、神田・日本橋(現中央区)など江戸の中心部へ運ばれました。こうしたことから、江戸への出入口としてこの地に置かれたことと思われます。建物の規模などは不洋ですが、弓・槍がそれぞれ五本ずつ装備されていました。明暦三年(1657年)の大火後、江戸市街地の拡大や本所の掘割の完成などに伴い、覚文元年(1661年)川口に移転しました。以後中川番所として機能することとなり、当地は元番所と通称されました。
江戸時代当時の萬年橋について解説したプレートが置かれています。
万年橋
万年橋は、区内の橋のなかでも古く架けられた橋のひとつです。架橋された年代は明らかではありませんが、延宝八年(1680年)の江戸図には「元番所のはし」として記されているので、この頃にはすでに架けられていたことがわかります。江戸時代には、この橋の北岸に小名木川を航行する船を取締る、通船改めの番所が置かれていました。この巻所は、寛文年間(1661年〜1673年)の頃に中川口へ移され、このため「元番所のはし」とも呼ばれました。小名木川に架けられた橋は、船の通航を妨げないように高く架けられていました。万年橋も虹型をした優美な橋で、安藤広重は「名所江戸百景」のなかで「深川万年橋」としてとりあげています。また、葛飾北斎は「富嶽三十六景」のひとつに「深川万年橋下」として、美しい曲線を描く万年橋を大きく扱い、その下から富士山を望む、洋画の影響をうけた錦絵を残しています。
萬年橋の袂には、清洲橋の絶景ポイントと書かれた案内板が立っています。でも、橋の全景は見えないのですが。
ケルンの眺め
ここから前方に見える清洲橋は、ドイツのケルン市に架けられたライン河の吊橋をモデルにしております。この場所からの眺めが一番美しいといわれています。
Kolner Aussicht
"Kiyosubashi", die Brucke von Kiyosu im Vordergrund, wurde nach dem Vorbild der den Rhein uberspannenden Hangebrucke von Koln gebaut. Dieser Standort ist fur seine
besonders schone Aussicht bekannt.
萬年橋から隅田川に向かう路地の右手に芭蕉稲荷神社があります。
この地には、かって芭蕉庵がありました。
深川芭蕉庵旧地の由来
俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。たまたま大正六年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。昭和二十年戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和三十年復旧に尽した。しかし、当所が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。
萬年橋は、赤穂浪士が討ち入りの後に泉岳寺に向かった際に通った道筋に当ります。
観光高札
赤穂浪士ゆかりの道
元禄十五年(1702年)12月、本所吉良邸を急襲し、本懐をとげた赤穂浪士47名は、泉岳寺に向かうために竪川一之橋を渡り、絵図点線のように隅田川沿いの道を南下して永代橋を渡ったといいます。途中、小名木川の万年橋、佐賀町あたりの上之橋・中之橋・下之橋を渡って、永代橋のたもとでひと息を入れたと伝えられています。ここから北に伸びる道は、当時の道筋が残っている場所です。赤穂事件で、将軍綱吉は、赤穂藩主浅野長矩を即日切腹させました。綱吉の裁断については、武士道精神に反すると武士や庶民から批判されています。この道は、時代が武断政治から文治政治に移り変わろうとした元禄時代の出来事がしのばれる道です。
- ポイント4 芭蕉庵史跡展望庭園
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階段を上がって芭蕉庵史跡展望庭園に向かいます。庭園は小名木川の河口に面する高台にあり、正面に清洲橋が眺められます。
庭園の中央には、江東区が平成七年(1995年)春に設置した芭蕉の座像が置かれています。芭蕉像は、昼間は庭園内を向いて隅田川の河口や近くの橋から見れば横を向いていますが、夕方5時を過ぎると自ら方向転換して隅田川方向に向くようになっています。向きを変えた芭蕉像はライトアップされ、隅田川を通る遊覧船や屋形船などから眺めることが出来るとのことです。動く座像なんて珍しいですね。
芭蕉翁之像
この像は、芭蕉の古参門人で経済的な庇護者であり、深川芭蕉庵の提供者ともいわれる杉山杉風(1647年〜1732年)が描き、京都の画家吉田偃武が忠実に模写した芭蕉翁之像畫により制作したものです。
(原画 岐阜県高山市 加藤功氏 蔵)
階段横や庭園にはおびただしい数のパネルが並べられています。
「芭蕉文集」の解説パネルです。
芭蕉文集
安永二年(1773年)に、小林風徳が編集出版した「芭蕉文集」に掲載する図である。窓辺の机の上には、筆硯と料紙が置かれ、頭巾を冠った芭蕉が片肘ついて句想を練っている。庭には芭蕉・竹・飛石・古池を描く。以後これが芭蕉庵図の一つのパターンとなる。絵の筆者は二世祇徳で、この人は芭蕉を敬愛すること篤く、「句餞別」の編者でもある。
「埋木の花」の解説パネルです。
埋木の花
明和八年(1771年)に再興された深川要津寺の芭蕉庵を、それから五十五年後の文政九年(1826年)に、平一貞がその著「埋木の花」に実見記録したもの。「古池や」の句碑は、安永二年(1773年)に深川材木町(現佐賀町)に住んだ書家三井親和の筆。現在江東区芭蕉記念館庭園にある「古池や」句碑はその模刻である。
「俳諧悟影法師」の解説パネルです。
俳諧悟影法師
天保八年(1837年)に鶏鳴舎一貫が著した「俳諧悟影法師」の巻頭に載せる図である。画者渓斎は、浮世絵師池田英泉である。構図は安永二年(1773年)刊、小林風徳編「芭蕉文集」所載の図とそっくりだが、描線ははるかに柔軟であり、細部の描写もみごとである。
「深川八貧図」の解説パネルです。
深川八貧図
蝶夢編の「芭蕉翁絵詞伝」の一齣で、いわゆる深川八貧の図である。元禄元年(1688年)十二月十七日の雪の夜、芭蕉のほか苔翠・依水・泥芹・夕菊・友五・曽良・路通の七人が芭蕉庵に集まり、米買・薪買・酒買・炭買・茶買・豆腐買・水汲・飯炊の題で句を作り興じた。芭蕉は米買の題で「米買に雪の袋や投頭巾」と詠んだ。絵はその場面を描いている。
(義仲寺蔵)
「芭蕉翁絵詞伝」の解説パネルです。
芭蕉翁絵詞伝
蝶夢は芭蕉百回忌の顕彰事業の一環として芭蕉の伝記を著作し、狩野正信の絵と共に絵巻物風に仕立て義仲寺に奉納した。その絵を吉田偃武に縮写させ、寛政五年(1793年)に刊行した。図はその一齣で葭垣・枝折戸をめぐらした草庵の中で、芭蕉がみずから笠を作っているところ。笠は竹の骨に紙を貼り重ね、渋を塗り・漆をかけて仕上げる。
「芭蕉翁略伝」の解説パネルです。
芭蕉翁略伝
天保十四年(1843年)は、芭蕉百五十回忌に当たり、さまざまの行事があったが、幻窓湖中は編年体の芭蕉伝記「芭蕉翁略伝」を書き、西巷野巣の校合を得て、弘化二年(1845年)に刊行した。本図はその挿絵で、茅屋に芭蕉・柴門、背後に広々と隅田川の水面を描く。画者は四条派の絵をよくした原田圭岳である。
「俳人百家撰」の解説パネルです。
俳人百家撰
江戸の緑亭川柳が安政二年(1855年)に刊行した「俳人百家撰」に掲載する図である。絵は、天保五年〜天保七年(1834年〜1836年)に刊行された「江戸名所図会」所載の図とそっくりである。上欄の文の内容には誤りも見られるが、芭蕉が「古池や」の句を詠んだ古池が、松平遠江守の屋敷の庭に現存すると書いている。画者の玄魚は浅草の人宮城喜三郎。
「深川芭蕉庵」の解説パネルです。
深川芭蕉庵
俳誌「ホトトギス」明治四十二年一月号に所載の図である。中村不折は幕末慶応二年(1866年)生まれの書家・洋画家。本図は不折の祖父庚建の原画を模写したものであるという。従って本図の原画は十九世紀初頭前後に描かれたものであろう。手前の土橋は、「芭蕉庵再興集」所載図の土橋と似たところがある。
「深川芭蕉庵」のもう一枚の解説パネルです。
深川芭蕉庵
ここ深川の芭蕉庵は、蕉風俳諧誕生・発展の故地である。延宝八年(1680年)冬、当時桃青と号していた芭薫は、日本橋小田原町からこの地に移り住んだ。門人杉風所有の生簀の番小屋であったともいう。繁華な日本橋界隈に比べれば、深川はまだ開発途上の閑静な土地であった。翌年春、門人李下の贈った芭蕉一味がよく繁茂して、やがて草庵の名となり、庵主自らの名ともなった。以後没年の元禄七年(1694年)に至る十五年間に三次にわたる芭蕉庵が営まれたが、その位置はすべてほぼこの近くであった。その間、芭蕉は庵住と行脚の生活のくり返しの中で、新風を模索し完成して行くことになる。草庵からは遠く富士山が望まれ、浅草観音の大屋根が花の雲の中に浮かんで見えた。目の前の隅田川は三つ又と呼ばれる月見の名所で、大小の船が往来した。それに因んで一時泊船堂とも号した。第一次芭蕉庵には、芭蕉は延宝八年冬から、天和二年暮江戸大火に類焼するまでのあしかけ三年をここに住み、貧寒孤独な生活の中で新風俳諧の模索に身を削った。
櫓の声波ヲ打つて腸氷ル夜や涙
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
氷苦く偃鼠が咽をうるほせり
天和三年(1683年)冬、友人素堂たちの好意で、五十三名の寄謝を得て、「本番所森田惣左衛門御屋敷」の内に、第二次芭蕉庵が完成した。草庵の内部は、壁を丸く切りぬき砂利を敷き出山の釈迦像を安置し、へっついが二つ、茶碗が十個と菜刀一枚、米入れの瓢が台所の柱に掛けてあった。「野ざらし紀行」「鹿島詣」「笈の小文」の旅はここから旅立った。
古池や蛙とびこむ水の音
花の雲鐘は上野か浅草か
蓑虫の音を聞きに来よ草の庵
元禄二年(1689年)「おくのほそ道」の旅立ちの際手離された旧庵の近くに、元禄五年五月杉風らの尽力で第三次芭蕉庵が成った。新庵は、三部屋から成り、葭垣、枝折戸をめぐらし、池を前に南面し、水楼の趣きがあった。他に預けてあった芭蕉も移し植えられた。
名月や門に指し来る潮頭
川上とこの川下や月の友
秋に添うて行かばや末は小松川
芭蕉庵の所在地は、元禄十年松平遠江守の屋敷となり、翌十一年には、深川森下町長慶寺門前に、什物もそのまま移築されたようである。
「小名木川五本松と芭蕉の句」の解説パネルです。
小名木川五本松と芭蕉の句
松尾芭蕉は、延宝八年(1680年)冬より小名木川と隅田川が合流する辺りにあった深川芭蕉庵に住んでいました。「奥の細道」の旅を終えた芭蕉は元禄六年(1693年)、50歳の秋に小名木川五本松のほとりに舟を浮かべ、「深川の末、五本松といふ所に船をさして」の前書きで「川上とこの川下や月の友」の一句を吟じました。この句は、「今宵名月の夜に私は五本松のあたりに舟を浮かべて月を眺めているが、この川上にも風雅の心を同じゅうする私の友がいて、今頃は私と同様にこの月を眺めていることであろう」の意で、老境に入った芭蕉が名月を賞しながら友の事を想う心が淡々と詠まれています。「五本松旧跡」(猿江二丁目16番 小名木川沿い)とは、江戸時代、丹波綾部藩九鬼家の下屋敷の庭にあった五本の松の大木のことで、徳川三代将軍家光公がその小名木川の川面に張り出した立派な老松を激賞したことから、「小名木川五本松」として、又、月見の名所として一躍江戸市民の人気を博しました。この芭蕉句碑は、その地にあった住友セメントシステム開発株式会社が創立20周年を祝して平成二十年12月4日に社屋の敷地に建立したもので、今回同社屋の移転に伴いご寄贈いただき、ここに再建立いたしました。
再び、隅田川テラスに下ります。上流には新大橋が架かっています。
◆新小名木川水門
森下を東西に流れている小名木川は、一説には、天正十八年(1590年)8月、徳川家康が江戸入府した際、行徳(千葉県)から塩を搬入するために開削した直線水路で、小名木四郎兵衛が水路の開削にあたったので、この名が付けられたと言われています。
◆江東区芭蕉記念館・芭蕉庵史跡展望公園(休館日:月曜)
松尾芭蕉は、延宝八年(1680年)に日本橋から深川の草庵(芭蕉庵)に移り住み、この地から「おくのほそ道」の旅へ出かけ、多くの紀行文や名句を残した俳人です。江東区芭蕉記念館はそのゆかりの地に建てられました。館内には芭蕉遺愛と伝えられる「石の蛙」や、芭蕉をはじめ江戸時代から近現代までの俳句文学資料が随時展示されています。芭蕉像がある芭蕉庵史跡展望庭園からは、隅田川沿いの眺望を楽しめます。
隅田川テラスから上がり、再び万年橋通りを北に進みます。歩道の脇に石柱が建っています。最初に新大橋が架橋されたのは元禄六年(1693年)で、「大橋」と呼ばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名付けられました。当時の橋は現在の位置よりもやや下流側にありました。その後、明治十八年(1885年)に新しい西洋式の木橋に架け替えられ、明治四十五年(1912年)7月19日にはピントラス式の鉄橋として現在の位置に生まれ変わりました。竣工後間もなく市電が開通し、アールヌーボー風の高欄に白い花崗岩の親柱など、特色あるデザインが見られました。現在の橋は、昭和五十二年(1977年)に架けられたものです。石碑には「旧新大橋跡」と書かれていますが、こういった経緯を見ると「新大橋」がどの時代の橋を指すのか分かりにくいですね。
旧新大橋跡
旧新大橋は元禄六年十二月この地先の隅田川に架設起工し五十二日間で完成し長さ百間幅員三間七寸あり当時橋名は両国橋を大橋と称していたのでこの橋を新大橋といった。 近くの深川芭蕉庵に住んでいた芭蕉は新大橋の工事中「初雪や かけかかりたる 橋の上」の句をよみ、また橋の完成をみて「ありがたや いただいて踏む 橋の霜」の句をよんだ。
- ポイント5 芭蕉記念館
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江東区芭蕉記念館は、松尾芭蕉関係資料の収集と展示を行い、俳句などの文学活動の振興を図ることにより、区民の文化の向上に貢献るために設置された施設です。江東区は、日本文学史上偉大な業績を留めた松尾芭蕉縁の地であり、松尾芭蕉を始めとする俳句文学関係の各種資料を展示する他、会議室と研修室を備えた文学活動の拠点施設としての機能も担っています。
芭蕉を記念して
松尾芭蕉は延宝八年(1680年)三十七歳から元禄七年(1694年)五十一歳、大阪への旅に出発するまで、常盤一丁目にあった庵の周辺に芭蕉を植えて深川芭蕉庵と称し、ここを本拠として「奥の細道」等の旅に出発し、多くの紀行文や俳句を残し、文学史上偉大な足跡を記した。芭蕉庵が芭蕉歿後武家屋敷となり、幕末から明治にかけて滅失してしまったのを地元の方が惜しみ、この地を「深川芭蕉庵跡」として句碑等を作り保存されてきた。そして大正十年十一月東京府の旧跡に指定された。しかしこの地が狭隘であったので今般江東区はここに芭蕉記念館を建設し、併せて地元の協力により「旬碑」等をも移管した。ここに芭蕉の業績を顕彰し、永く旧跡を保存するとともに、芭蕉関係の資料等を公開し、より充実した記念館としていきたい。
昭和五十六年四月吉日
館名を記した石碑の脇には、「芭蕉」の俳号の由来となったバショウの花が植えられています。「盥」とは「たらい:桶」のことです。
バショウ
芭蕉野分して
盥に雨を
聞夜哉
季語◇野分(秋) 天和元年(1681年)
館の前に、案内板が立っています。
芭蕉記念館
由来
新大橋と清洲橋が望める隅田川のほとり、松尾芭蕉が庵を結んだゆかりの地に、この記念館は建設されました。ここには、芭蕉研究家からの寄贈品を中心に、芭蕉関係の貴重な資料が展示されています。また、研修室(和室)は俳句や短歌を楽しむ人たちに利用されています。庭園には、池や滝、芭蕉の句に詠まれた草木が植えられ、築山にほこらと「古池や・・・」の句碑があります。
館内に入りますと、庭園には芭蕉の句に詠まれた草木が植えられていて、四季折々の草花を楽しめます。また、園内には句碑も置かれています。句碑には、「草の戸も 住み替る代ぞ ひなの家」と書いてあります。芭蕉は「奥の細道」の旅へ出発する前月、9年間住んだ芭蕉庵を人に譲り、採荼庵に転居して旅の準備をしました。「住み慣れてきたこのみすぼらしい草庵も住み替わるべき時がきた。誰かあとで引っ越してくる人が、おひなさまを飾って華やかになることがあるだろう。」といった意味です。「代」とは、「時期・季節」のことです。
ムクゲ
道のべの
木槿は馬に
くはれけり
季語◇木槿(秋) 貞享元年(1684年)
記念館は、3階が常設展示室で2階は企画展示室になっています。常設展示室では、パネルなどを使って松尾芭蕉について分かりやすく解説しています。江東区内の芭蕉縁の史跡や旅姿を復元した袈裟なども展示されています。
芭蕉の紀行文は「おくのほそ道」が有名ですが、その他にも「野ざらし紀行」・「鹿島紀行」・「笈の小文」・「更科紀行」などがあります。「おくのほそ道」について、詳しい解説がされています。
芭蕉が住んだ深川についても詳しく解説されています。
「古池や 蛙飛び込む 水の音」の句の誕生秘話が解説されています。
芭蕉と深川芭蕉庵
「古池や蛙飛び込む水の音」誕生
貞享三年(1686年)春、芭蕉庵で芭蕉と門人たち約40名が集まって、蛙を題材にした句合が行われました。そこで芭蕉の詠んだ句が「古池や蛙飛び込む水の音」(季語:蛙〈春〉)でした。解釈には諸説ありますが、門人・各務支考は「古池や」句の成立事情を俳論書「葛の松原」(元禄五年(1692年)刊)に記しています。中七(中央の七文字)を「蛙飛びこむ」と考えた芭蕉に其角は「上五(はじめの五文字)は「山吹や・・・」が良いのでは?」と提案しましたが、芭蕉は「古池や・・・」と詠みました。山吹といえば蛙の鳴き声、蛙の鳴き声といえば山吹という古くからの和歌の伝統に対し、伝統にとらわれない芭蕉の革新性を表しており、後に「蕉風」を代表する作品となりました。
芭蕉の旅姿はこんな(↓)恰好だったようです。芭蕉の顔については諸説あります。
芭蕉はどんな顔だったの?
芭蕉を描いた肖像画はたくさんありますが、その顔立ちはさまざまです。生前に描かれたもの、亡くなった後に描かれたもの、写実的なもの、崇高なイメージで偶像化(英雄や神様のような存在)されたものなど、それぞれ特徴があります。
芭蕉の顔立ちについて、「水鶏塚」享保二十年(1735年)という本には次のようなことが書いてあるよ。
顔立ちは面長で、背丈は高くもなく低くもなく、頬高く眉長く、まなざしはしっかりとし、鼻柱が通り、耳たぶ厚く、唇薄く、痩せた姿である。
その他、芭蕉自筆の本や芭蕉が遺愛した石の蛙を始め、沢山の資料が所狭しと展示されています。
芭蕉が深川芭蕉庵において愛好していたと伝えられる石の蛙。小松石を彫ったもので、縦26cm、横20cm、高さ6cmの台座に、蛙の体長は21cm。芭蕉没後、深川芭蕉庵は、武家屋敷となり、その場所は明確でない。大正六年(1917年)九月の台風による高潮の後、この石の鮭が発見され、現在、芭蕉稲荷神社のある場所が芭蕉庵の旧跡として、大正十年(1921年)東京府から史跡の指定をうけた。
俳句の歴史を解説したパネルが3枚貼られています。一枚目は芭蕉以前の歴史です。
俳句の歴史@ 〜芭蕉以前
和歌は、日本で8世紀には行われていた詩歌で、同じく古代王朝で盛んだった漢詩(からうた)に対して、「やまとうた」ともいわれます。五七五七七の31音で表現する短歌と、五七を3回以上繰り返して七で結ぶ長歌が代表的な詩形で、古くは「万葉集」にみられます。その形が成立するのは、唐風文化の影響が衰え、日本独自の文化が発展した平安時代初期、醍醐天皇の勅命で紀貫之らが編纂した「古今和歌集」によるとされます。四季を詠む自然の歌と恋の歌による古典的美意識の形成、枕詞・掛詞・歌枕などの表現技法などが生み出され、のちの日本文学に大きな影響を与えました。やがて、1人で詠む短歌から五七五の長句に、別の作者が七七の短句を付ける連歌が生まれます。さらには複数の人が長句と短句をつなげて一定数に至る百韻・五十韻・世吉(四十四)・歌仙(三十六句)などの形式が成立しました。歌人では、鎌倉時代の藤原定家ら新古今歌人が活躍し、より文芸性が高まり、王朝貴族の間で愛好されました。特に、「新古今和歌集」に多くの歌が収録された漂泊の歌人・西行は、芭蕉あこがれの歌人としてその創作に大きな影響を与えました。一方、一般庶民による連歌も盛んになり、3月の桜の季節に京都毘沙門堂などの寺院で寂忍らの地下連歌師による「花の本連歌」が行われ連歌は広く普及していきました。芸術性の高い和歌が盛んになる一方、滑稽で面白みがある「俳諧歌」も詠まれました。「俳諧之連歌」といわれた滑稽な連歌は、あくまで連歌師の余技という位置づけがされましたが、次第に詩歌の一ジャンルとしての地位を獲得していき、室町時代後期には、山崎宗鑑編「俳諧連歌抄(犬筑波集)」が編まれ、「俳諧」として独立していく素地が作られました。蕉門の土芳は、芭蕉以前の俳諧を「利口のみにたわむれ」た(言葉遣いの巧みさに遊ぶ)だけといいました(「三冊子」)。近世初期に松永貞徳の貞門派が和歌に用いない俗語を用いた初心者にもわかりやすい俳諧を普及させました。対して、西山宗因の談林派はより自由で笑いの要素が強い俳諧で人々を大いに笑わせ、延宝期前後の10年ほど流行しました。しかし、これらはしだいにマンネリ化し停滞していきました。松尾芭蕉もはじめは談林俳諧に身を置きましたが、天和期の漢詩文調の流行を経て、作風を変化させ芭蕉独自の俳諧を目指していきます。
二枚目は芭蕉以後の歴史です。
俳句の歴史A 〜芭蕉以後
松尾芭蕉は、藤堂藩伊賀付侍大将の藤堂良忠(蝉吟)に仕えたことから俳諧に親しむようになったといわれ、はじめは貞門俳諧を学びました。のち江戸に出ると、延宝三年(1675年)には西山宗因と交わり談林俳諧の俳人として知られるようになり、日本橋で俳諧宗匠としての生活をおくりました。しかし、芭蕉は言葉あそびや奇抜な笑いに走る俳諧にあきたらず、創作に没頭するために宗匠としての生活を捨て、延宝八年(1680年)深川芭蕉庵(江東区常盤)に転居し、芸術性を高めた蕉風を確立していきます。芭蕉が蕉風に開眼した句とされる「古池や蛙飛こむ水のおと」は深川の地で詠まれ、近世文学史にきらめく紀行文「おくのほそ道」への旅もまた深川から始まるなど、深川は俳諧史上の重要な遺蹟であるといえます。芭蕉亡き後、芭蕉の教えを受けた其角・嵐雪(江戸蕉門)・支考(美濃派)・去来(京蕉門)らによって蕉風俳諧が伝えられましたが、次第に俳諧一般は低迷していきます。しかし、江戸時代後期には与謝蕪村が蕉風回帰をとなえ俳諧中興をはたし、芭蕉を崇敬する五升庵蝶夢は芭蕉が埋葬された大津義仲寺(滋賀県)で追悼会「時雨忌」を催して「俳聖芭蕉」のイメージを定着させていきました。江東区域には芭蕉以外の俳人も足跡を残しています。深川生まれの加舎白雄は、安永・明和期に活躍し、諸国を旅して門弟を育てました。また、文化・文政期に庶民的で素朴な独特の人間味ある句風を確立した小林一茶は一時、江東区大島の愛宕神社に住んでいたともいわれます。俳諧が普及する一方で、通俗化や権威化の動きもみられ、天保以降の俳諧は平凡で卑俗化したとして、のちに「月並俳諧」と批判されました。また、自らの師系を芭蕉に結びつけることで権威化を図る宗匠たちが現れました。さらに、寛政二年(1790年)加藤暁台が公家の二条家から俳諧の最高権威者として「花本」宗匠の免許を獲得するとともに、天保十四年(1843年)には、芭蕉が「花本大明神」として神格化されていきました。
三枚目は近代・現代の俳句の歴史です。
俳句の歴史B 〜近代、現代
天保期以降の俳諧は桜井梅室や三森幹雄などの俳人が活躍しましたが、「月並俳諧」として俳句革新を目指す正岡子規から批判され、その克服が俳句革新への道程となり、明治以後のものを「俳句」と呼ぶようになりました。子規は、俳句に自然の美をあるがまま描写する写生の重要性を説き、絵画的で自在な俳人として与謝蕪村を「発見」しました。子規が創刊した雑誌「ホトトギス」は、高浜虚子らに引き継がれ、次世代の俳人が活躍する場となりました。虚子は、子規の理念を昇華し、四季の自然を純粋にうたいあげる「花鳥諷詠」を唱え、近代俳句に多大な影響を及ぼしました。一方、明治末期には子規門で、虚子とたもとを分かった河東碧梧桐や大須賀乙字らが伝統的季語と五七五調を批判する新傾向俳句を、大正期には荻原井泉水らが季語から離れ自由なリズムで詠む自由律俳句を提唱し、五七五の定型律に対して、自由な律動で表現する俳句を確立しました。そこから種田山頭火、尾崎放哉などの口語を生かし、季語も用いない独特な自由律も生まれました。昭和初期には、水原秋櫻子が主宰誌「馬酔木」で虚子の写生俳句を批判し、俳句を文芸として高める俳句の近代化を訴え、若い俳人を刺激しました。これに都会的な素材を硬質に詠む山口誓子が加わり、新興俳句運動として近代俳句に新風を巻き起こしました。しかし、次第に無季や超季なども容認されるようになると、秋櫻子や誓子は運動から離脱しました。日中戦争が始まると厭戦句などもつくられ、1940年〜1941年、治安維持法によって主要な俳人が検挙される事態に至り、運動は壊滅しましたが、現代俳句につながる画期的な俳句革新運動とされます。また、秋櫻子の弟子である石田波郷・加藤楸邨や中村草田男は1939年、「俳句研究」座談会で「俳句における人間の探求」を提唱し、「人間探求派」と呼ばれ、伝統俳句、新興俳句と違う方向をめざしました。戦後、桑原武夫がいわゆる俳句「第二芸術論」を発表し、俳句を他の文芸と区別すべきであると批判し、俳壇に大きな衝撃を与えました。これに抗するように金子兜太らが、社会との主体的な関わりを強調し、現代的なイメージを追及する社会性俳句や前衛俳句を展開しました。国内で俳句が現代化する一方、ブライスが執筆した「Haiku」により俳句が海外に紹介されると、英語など日本語以外の言語で俳句が作られるようになり、国際化が進展します。そして現在、俳句はインターネット上で句会が行われたり、人工知能による実作(AI俳句)の試みが行われるなど、最新技術と伝統的な俳句が融合して、さらなる進歩を遂げつつあるといえるでしょう。
2025年に再訪した時には、芭蕉歿後330年記念の企画展が行なわれていました。
開催のあいさつ
本年は松尾芭蕉が没して330年にあたります。これを記念して芭蕉が没後の俳壇・俳句の歴史にどのような影響を与えたのかを考える企画展を開催いたします。芭蕉が育てた弟子たちは蕉門俳諧を全国に広めます。門流の人々は芭蕉を俳諧の「宗祖」として畏敬の念をもち、江戸後期には神に祀り上げました。近代に入ると盲目的な芭蕉信仰への批判もありましたが、やはり芭蕉は俳句史を代表する俳人として評価され、その影響は今なお絶大なものがあるといえるでしょう。本展を通じて俳句の歴史と後世の俳人に大きな影響を与えた芭蕉という存在の大きさを感じていただければ幸いです。
1枚目のパネルは、「芭蕉へのまなざし」です。
@芭蕉へのまなざし
現代では江戸時代前期の俳諧師(俳人)といえば松尾芭蕉という認識が一般には定着していますが、芭蕉が生きていた時代の俳壇は、芭蕉あるいは蕉門(芭蕉の門人)に限らず、江戸や京・大坂で多くの俳諧師が活躍する時代でした。彼らは有力な俳諧師の1人として芭蕉を直接、あるいは間接的に知っていたでしょうし、芭蕉もまた彼らを通して俳壇全体を意識していたといえます。そのような中で生前の芭蕉は、門人・知人をはじめ、同時代の俳諧師から評価される一方、その先進的姿勢が批判を浴びることもありました。芭蕉は貞門・談林俳諧を経て、従来の俳諧に飽き足らなくなると、天和元年(1681年)には京都の伊藤信徳、椎本才丸(才麿)ら新進の俳諧師らと呼応するように「俳諧次韻」の興行を行い、漢詩文調による新しい俳諧を試みており、先進的な俳諧師の1人に数えられていたといえます。伊丹の俳人・上島鬼貫は直接、芭蕉と交流したかは定かでありませんが、その俳諧には芭蕉の影響が指摘され、芭蕉死後の追善句集に参加するなど芭蕉を意識していたと思われます。また、信徳門の青木鷺水は芭蕉を「日東の杜子美なり、今の世の西行なり」(「誹林良材集」)と絶賛しました。一方で北村湖春(芭蕉の師・北村季吟の子)は芭蕉句「山路きて何やらゆかしすみれ草」を和歌の季語の伝統をふまえていないと批判し、同じく「菰を着て誰人ゐます花の春」も京都の俳諧師からめでたい正月に乞食の句を詠むことを攻撃されるなど、必ずしも好意的なまなざしだけを向けられていたわけではありませんでした。
2枚目のパネルは、「蕉門のゆくえ」です。
A蕉門のゆくえ
芭蕉の門人は其角(「枯尾花」)によると2000人余り、芭蕉の「七部集」に入集した者だけでも400人余りいたとされます。その中でも10人の優れた門人たちを、中国の孔子の秀でた弟子「孔門十哲」にちなみ「薫門十哲」と呼びます。そのメンバーは時に入れ替わることもありますが、初期蕉門の其角をはじめとして、服部嵐雪、内藤丈草、向井去来、杉山杉風、各務支考、森川許六、志太野坡、越智越人、立花北枝があげられますが、河合曽良、広瀬惟然、度会園女などが入ることもあります。芭蕉生前の蕉門は、時期によって離脱・対立を起こすこともありましたが、基本的には芭蕉への敬意の念をもとに緊密に連帯し、新しい俳諧を求める者たちとして一門を形成しました。しかし、芭蕉の死後、元禄十年(1697年)には、蕉門内部で師風の継承をめぐって意見の相違がみられるようになります。そうした中で、奇抜な見立てや趣向を好んだ其角らの俳風「洒落風」が江戸をはじめとする都市俳壇で人気を集める一方、地方では支考の美濃派の平明俗談、岩田涼兎・中川乙由の伊勢派の当意即妙な俳風が農村部の村役人・豪農階級を中心に受け入れられ、蕉風に門人各自の特徴が加えられた俳諧が全国に広まりました。また、去来や服部土芳はそれぞれ「去来抄」「三冊子」を著し、芭蕉の教えを正しく継承する必要性を述べました。その他にも嵐雪の雪門、中国・九州地方を旅した野坡、北枝を中心とした加賀蕉門、芭蕉の甥天野桃隣の太白堂など芭蕉の門流はいくつもの系譜に分かれ、それぞれに師系を受け継いでいくことになります。
3枚目のパネルは、「芭蕉に帰れ」です。
B芭蕉に帰れ
江戸座を中心に都市俳諧が庶民に普及する一方、遊興性の高い点取俳諧が流行し、賭博的な前句付(宗匠などの句に他の人が句を付ける形式)などが幕府の取り締まり対象になりました。俳諧の俗化が進む一方で、薫風俳諧の称賛・回帰を求める人々が現れます。享保十六年(1731年)、薫風回帰の一派が「五色墨」を刊行。その連衆の佐久間長水(柳居)は芭蕉の代表作をまとめた「俳諧七部集」を選定。蕉風復興運動の先駆けとなります。芭蕉50回忌を迎えた寛保三年(1743年)、蕉風回帰の機運はさらに盛り上がり、各地の蕉風俳人が芭蕉の法要や塚・句碑の建立を行い、記念集を刊行しました。建立された塚は芭蕉の墓所である義仲寺(滋賀県大津市)が宝暦十一年(1761年)に発行した「諸国翁塚記」に記載されました。これ以降、新しく芭蕉塚が建立されるたびに追加され、幕末までに全国で400基以上が登録されました。蕉門十哲の1人・服部嵐雪の系統(雪門)を継いだ大島蓼太は「奥の細道」をたどり、芭蕉句の注釈書や真跡集を編纂するなど蕉風の啓蒙に尽力しました。また、与謝蕪村も其角・嵐雪門の早野巴人に学び、蕉風に傾倒。安永二年(1773年)には高井几董編「あけ烏」が出版され、蕪村一派による蕉風復興の宣言が示されました。これに伊勢の三浦樗良、名古屋の加藤暁台らも同調し、蕉風復興は地方俳人にも広がっていきました。また、蕉風復興に注力した五升庵蝶夢を中心に義仲寺でも芭蕉追善活動が行われ、宝暦十三年以降は時雨会など芭蕉追善法要の開催や、句塚建立運動、芭蕉の伝記「芭蕉翁絵詞伝」など芭蕉関連書籍の編纂を展開し、芭蕉顕彰の全国拠点の役割を果たしました。
4枚目のパネルは、「神となった芭蕉」です。
C神となった芭蕉
蕉風復興運動は俗化する俳壇への批判として始まりましたが、義仲寺での啓蒙活動で五升庵蝶夢が芭蕉を求道の「聖」、俳諧の「宗祖」と位置付けたように、次第に芭蕉の人物像と離れた宗教性を帯びていきます。寛政五年(1793年)に義仲寺(滋賀県大津市)で行われた芭蕉100回忌には全国から500人が集まりました。同様の追善事業は各地でも行われ、蕉風復興の一大イベントとなりました。そして、この前後から芭蕉の神格化が始まったと考えられています。寛政二年、芭蕉に朝廷から「正風宗師」が追号され、あわせて蕉風復興を唱えた加藤暁台が歌道の権威・公家の二条家から「花本宗匠」の免許を与えられます。「芭蕉」の名を権威の源泉として機能させたうえで芭蕉に連なる俳諧師に格式が与えられていきます。その権威はさらに強化されていき、寛政五年に神祇白川家から「桃青霊神」、文化三年(1806年)に朝廷から「飛音明神」、芭蕉150回忌にあたる天保十四年(1843年)に神祇管領吉田家から「花本大明神」の神号が与えられ、芭蕉は文字通り神に祀り上げられていきました。権威ある芭蕉ゆかりの品を望む人もおり、直筆の書簡・短冊などを入手し、その鑑定を著名な俳諧宗匠に求めました。一方で芭蕉の俳諧を知りたいという欲求も強くなります。芭蕉没後から芭蕉の俳論や作品集・伝記などの著作はありましたが、芭蕉の注釈書が質・量ともに飛躍的に増大するのは寛政期以降といわれます。そして、天保十四年(1843年)に迎えた芭蕉150回忌では芭蕉の句碑建立が全国的なブームとなり、芭蕉晩年の炭俵調の平明な句風が大衆に受け入れられ、薫風の祖・芭蕉の地位は確固たるものとなっていきました。
5枚目のパネルは、「近代俳句と芭蕉」です。
D近代俳句と芭蕉
明治二十五年(1892年)頃から正岡子規は、革新を目指さず平明でパターン化した教訓的な俳句を毎月同じように作り続ける旧派宗匠を「月並調」と批判します。子規は旧派の象徴となっていた芭蕉の権威を打破するため、芭蕉を「俳諧歴史上の豪傑」としつつも、佳句はわずかで過半は悪句と評しました。子規の俳句革新は俳壇に大きな影響を与えましたが、すぐに旧派が消えたわけではありません。三森幹雄・橘田春湖らは芭蕉を宗教的存在としながら多くの門人を抱えて俳壇をリードし、上田聴秋は近世同様に二条家から「花本宗匠」の免許を受けて活動しました。明治二十六年の芭蕉200回忌では全国で句碑建立、句集刊行などが行われ、特に幹雄は芭蕉を祖神と仰いで深川冬木町に芭蕉神社を創建しました。その後も俳句や詩・小説などの文学で芭蕉は影響を与えます。高浜虚子は芭蕉に洒脱な俳味と自在な風雅の心を見出し、荻原井泉水は芭蕉に漂泊の魂をみてそれを現代に活かそうとし、加藤楸邨ら人間探求派は真剣な人生と文学の態度をくみ取ろうとしたとされます。近代俳人も芭蕉を等閑視することは難しかったといえるでしょう。また、芭蕉の求道的精神を評価した詩人の北村透谷や小説家の島崎藤村。(、?)1人の人間として評価した芥川龍之介や室生犀星をはじめ、様々な文化人が芭蕉にまなざしを向けました。芭蕉を日本文学史上重要な存在だったとする認識は、文化人が繰り返し言及して一般化していきます。そして、出身地・居住地・句作の地など芭蕉の足跡が残る地域では、「芭蕉ゆかりの地」という地域のアイデンティティを醸成していきます。そして、「芭蕉への憶い」は観光・エンターテイメント・地域振興など現代的課題・価値観を取り込みながら、今も再生産され続けています。
ゴール地点の都営地下鉄新宿線森下駅A4出入口に着きました。
ということで、江東区で十一番目の「白虎J芭蕉の史跡めぐり〜芭蕉に会いに行こう〜」を歩き終えました。次は江東区で十二番目のコースである「白虎K水辺の散歩道〜アオサギに会える道〜」を歩きます。
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