白虎K水辺の散歩道〜アオサギに会える道〜  

コース 踏破記  

今日は江東区の「白虎K水辺の散歩道〜アオサギに会える道〜」を歩きます。深川北スポーツセンターから木場公園・仙台堀川公園を進み、野鳥の島から横十間川親水公園を北上し、小名木川クローバー橋を渡って猿江恩賜公園を一周します。最初に歩いたのは2022年の2月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年3月に改めて歩きました。

白虎K水辺の散歩道〜アオサギに会える道〜

和船に乗船体験もできて、お子様と一緒にボート遊びもできる横十間川親水公園、都会のオアシスです。

「白虎K水辺の散歩道〜アオサギに会える道〜」の歩行距離は約4.2km(約6、000歩)、歩行時間は約1時間3分、消費カロリーは約189Kcalです。

スタート地点:深川北スポーツセンター
ポイント1 豊住魚釣場
釣具・餌を持参すれば、ヘラブナ、コイなどの釣りが無料で楽しめます。
ポイント2 野鳥の島
木々が生い茂る川の小島では、さまざまな鳥たちが羽を休めています。
ポイント3 和船
希望すれば櫓漕ぎ体験もできます。
ポイント4 小名木川クローバー橋
小名木川と横十間川の交差点にあり、橋の中央には四つ葉のクローバーが描かれています。
ポイント5 猿江恩賜公園
新大橋通りの北側には中央広場と貯木場を再現した「ミニ木蔵」、南側には野球場と日本庭園があります。

ゴール地点:都営地下鉄新宿線住吉駅A3出入口


スタート地点の深川北スポーツセンターから歩き始めます。深川北スポーツセンターは、体育室・トレーニング室・屋内プールなどを備えた江東区立の総合屋内スポーツ施設です。子どもからシニアまで誰もが利用できるようにバリアフリーを基本に整備された施設で、各種の健康体操教室・スポーツ教室を開催するなど、地域スポーツの拠点として多くの区民に利用されています。



深川北スポーツセンターに隣接して、福富川公園があります。福富川は、かって仙台堀川と交わり、木場の貯木場としても利用されていました。その福富川を埋め立てて公園にしたのが現在の福富川公園です。「木場の香り」をテーマに整備した、延長0.5km・面積0.5haの小さな公園で、木に因む施設が多く設けられています。様々な樹種の木々が茂る園内には、鯉や亀が泳ぐ幾つもの池や、木製水門の模型などがあり、都会の喧騒をしばし忘れることが出来る静かな空間となっています。公園の入口には、「旧吉岡水門」が保存されています。



深川北スポーツセンターから仙台堀川に沿って末広橋まで進み、木場公園に入ります。

木場公園

広い園内には、シンボルの木場公園大橋、イベント広場、冒険広場、ふれあい広場、都市緑化植物園などがあり、憩いの広場となっています。また、毎年10月に行われる「江東区民まつり」のメイン会場でもあり、園内の北側には、「東京都現代美術館」もあり多くの人でにぎわいます。またバーベキュー場やドッグランも併設されています。

Kiba Park

This wide space, used by many for recreation and relaxation, features the representative Kiba Park Ohashi Bridge, a playground area, a barbecue area, a dog park, and a botanical garden. Every October, the Koto City Community Festival is held here to great excitement. The north part of the park leads up to the Museum of Contemporary Art Tokyo, another popular destination.




木場公園の歴史が書かれた案内板が立っています。

都立木場公園ができるまで

木場公園は、仙台堀川をはさみ南北にまたがる面積24.2haの総合公園です。昭和四十四年11月に発表された江東防災6拠点の一つとして、大震火災時の避難広場に位置づけられています。また、昭和五十二年4月には「天皇陛下御在位五十年記念事業公園」に指定され、昭和五十三年2月に都市計画決定されました。この公園の計画区域のほとんどは、公園事業に先だって始まった木材関連企業の「新木場」地区への移転跡地です。昭和五十三年3月の事業認可の時点で約65%の土地を取得しており、昭和六十二年度には土地の取得が全て完了しました。その後、北地区から本格的に整備を始め、平成四年6月に都立美術館と地下鉄工事を行っている以外の区域を開園しました。長い年月と多くの課題を乗り越え、開園にこぎつけることができたのは、土地建物所有者を始め、地元関係町会、江東区、区議会などの理解と協力のおかげです。公園の整備計画では、下町らしさを強調しつつ、安全な防災空地の確保と快適な生活環境をつくることをめざしました。また、芸術文化、スポーツなど多様な公園利用状況をふまえて次のような考え方で公園整備をすすめました。
  1. 江東地区の防災拠点の一つとして、樹木を出来るだけ多く植え「水と緑の森林公園」とする。
  2. 記念物的な施設や公園橋をつくり、「記念公園にふさわしい景観」をつくる。
  3. 芸術文化の中心的施設として、東京のシンボルともなる「都立美術館」をつくる。
  4. 身近なスポーツ施設として、「テニスコート」をつくる。
  5. 身近な生活の緑と密着(した?)施設として、「緑の相談所」をつくり、これと連携した「都市緑化植物園」をつくる。なお、公園の南北を結ぶ「木場公園大橋」は、仙台堀川や葛西橋通りを一気にまたぐ斜張橋で、この地域のシンボルとなるものと期待しています。




木場公園は、葛西橋通りと仙台堀川を挟んで北地区と南地区に分かれています。両地区を結ぶのは「木場公園大橋」です。全長250m・主塔の高さ60mの規模で、斜張橋を支えるケーブルが長く延び、美しい姿をしています。広々とした橋の上は車両が通行しない歩行者専用橋のため、安心してお散歩やジョギングが楽しめます。今日は橋の上には上がらず、橋脚の下を通り抜けます。



木場公園を出て、崎川橋交差点から大栄橋に向かいます。



大栄橋は、大正十二年に発生した関東大震災の復興事業の一環として架けられた「震災復興橋梁」のひとつです。主構造にトラスを用いた橋梁になっています。トラスとは、まっすぐな直線部材で構成された骨組構造のことです。大栄橋は斜材の傾斜の方向を交互に変えたトラスの一種であるワーレントラス構造になっています。平成八年に床版・橋面・高欄・橋台敷・桁補強・橋名塔・橋梁灯などを整備する景観工事が行なわれました。

震災復興橋梁について

大正十二年(1923年)9月1日の午前11時58分、神奈川県西部(または相模湾北西部)を震源とするマグニチュード7.9の大地震(大正関東地震)が発生しました。震災前、東京市の橋の大部分は木橋で、多くの橋が被害を受けました。震災直後から昭和五年(1930年)にかけて、復興事業の一環として架けられた橋梁は「震災復興橋梁」と呼ばれています。東京市に架けられた「震災復興橋梁」の数は、8年間で約400橋で、江東区域にも多くの「震災復興橋梁」が架けられました。一部の橋は、改修や補修を重ねながら、現在も都市の交通を支えています。

大栄橋の諸元
 橋梁形式: 一径間ワーレン鋼構橋
 橋  長: 37.6m
 橋梁幅員: 13.4m
 架設年月: 昭和四年11月




仙台堀川は大栄橋で大横川と合流します。大横川は、墨田区・江東区を流れる運河です。かつては流域により亥の堀川や大島川と呼ばれていましたが、1965年の河川法改正により大横川に統一されました。ただし、派流である大島川西支川・大島川東支川・大島川水門などは改称されていません。かつて亥の堀と呼ばれていたのは、小名木川から木場までの区間です。墨田区の業平橋付近で北十間川から分流し南へ流れ、竪川・小名木川・仙台堀川と交差し、横十間川と合流します。江東区木場付近で西に流路を変え、大横川南支川(大横南川支流または大横川南川支流ともいわれていますが、大横川南支流が正しそうです)を分流し、平久川と交差します。江東区永代で大島川西支川を合わせ、その先で隅田川に流入します。



石住橋交差点の角に千石地蔵尊の祠がひっそりと建っています。昭和二十年(1945年)3月10日の東京大空襲により焼野原と化し、犠牲となった人々の慰霊のために建てられた地蔵尊です。

千石地蔵尊の由来

昭和二十年三月十日未明、米軍機の大空襲により、我が郷土は焼野原と化し、掘割や路傍、学校などで、尊い生命が数多く奪われ、殆ど肉親に逢うこともなく葬られました。劫火(ごうか:世の終末に全世界を焼きつくすという大火)に追われて逃げ惑い、離れ離れになった家族の行方を捜して、焼跡に住み続けた。杉岡挂治郎氏らの有志が、夥しい死者の霊を悼み、同年五月頃、当地に地蔵尊を祀り、供養を続けて参りました。この度山崎ムメ氏外有志が、地区内の風致化に伴い、豊かな景観に添う御堂修築を発願し、会員及び地元の有志や企業のご賛同により竣工しました。茲にみ霊のご冥福を祈り、二度と無残な悲しみを繰り返さぬよう、恒久平和を希って、この碑を建立します。




石住橋の袂から仙台堀川公園に入ります。

仙台堀川公園

由来
仙台堀川は、江戸時代にその沿岸に仙台藩伊達氏の蔵屋敷があったことからこの名がつきました。仙台堀川が流れる区内東部は特に地盤が低く、「天井川」で常に水害の危険にさらされていた地域でした。そのため防災性を考慮し、緑に重点を置き「区民の森」として造成しました。園内には、桜並木、花の小径、サイクリングロード、多目的広場、親水池などに加え、彫刻、陶壁や護岸ギャラリーなど、心なごませる芸術作品が数多く配置されています。




大門通りに面した仙台堀川公園の西端に観光高札が立っています。

観光高札 深川洲崎十万坪

十万坪とは、現在の千石・石島・千田・海辺・扇橋の辺りです。歌川広重の浮世絵「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」には、深川の名所として描かれています。十万坪は、元禄十四年(1701年)に木場などの築地が完成した後に埋め立てが始まり、西との境には大横川が伸びて小名木川以南を「亥ノ堀川」とも呼ばれるようになりました。当地は、享保年間(1716年〜1736年)に近江屋庄兵衛らにより開墾されて庄兵衛の名字から千田新田と名付けられます。寛政八年(1796年)には一橋家の抱地となりました。浮世絵は、葭や薄の生い茂る茫々たる様子を描いています。浮かぶ桶を狙って大鷲が今にも急下降する場面です。桶には何があるのか、なぜ大鷲なのか、興味がつきません。




仙台堀川公園は、小名木川と接する桜井橋から江東区道大門通石住橋付近までの3.6kmの区間を占める、都内最大規模を誇る江東区立の公園です。「区民の森」という愛称で親しまれています。桜の季節になると、旧境川橋付近より北側の遊歩道沿道は出店も多く、花見客で賑わいます。サイフォンなどで公園内に通水しているため、水は塩辛く、淡水と海水の混ざった汽水域を好むハゼも泳いでいます。仙台堀川は、寛永年間以後に開削され、運河として利用されてきました。さらに横十間川より上流が明治以降に延長されました。昭和になり工業地帯として発達すると、仙台堀川の流れている一帯は付近にあった工場などからの地下水の汲み上げにより地盤沈下が激しくゼロメートル地帯となっていました。これによって川の水位より低い土地が出来上がり、護岸壁の高さもどんどんと上げていかなくてはならない状況でした。特に木場公園から東側の江東内部河川では台風の時などは護岸壁を超えて川から水が溢れる危険がありました。このような危険を回避するために、昭和五十七年(1982年)に木場公園から東部の江東内部河川は扇橋閘門等を設けて堰き止め、排水機場から常時排水することによって水位を下げることとしました。そして水位の下がった仙台堀川東側は埋め立てて公園とする工事が進められました。工事は昭和五十三年(1978年)に始まり、公園としては昭和五十五年(1980年)4月1日に開園しました。その後も工事は進み、昭和六十一年(1986年)に全面的に完成し、仙台堀川の多くは樹木と川とを身近に感じることのできる親水公園と大きく変わりました。西側の境界は大横川合流地点で、北は小名木川合流地点までとなっています。大横川合流地点より西側は仙台堀川として河川になっています。流域は、江東区の北砂・東砂・南砂・千石・東陽にまたがっています。途中で、同じく河川を埋め立てて作った横十間川親水公園と合流しています。公園は各地区ごとにテーマがあり、そのテーマごとに趣向を凝らした造りとなっています。ここは「古代の森」がテーマになっていて、埴輪なんかが置いてありますね。



遊歩道の頭上に千田橋が架かっています。千田橋も関東大地震の震災復興事業のひとつとして架けられた橋梁です。

震災復興橋梁について

大正十二年(1923年)9月1日の午前11時58分、神奈川県西部(または相模湾北西部)を震源とするマグニチュード7.9の大地震(大正関東地震)が発生しました。震災前、東京市の橋の大部分は木橋で、多くの橋が被害を受けました。震災直後から昭和五年(1930年)にかけて、復興事業の一環として架けられた橋梁は「震災復興橋梁」と呼ばれています。東京市に架けられた「震災復興橋梁」の数は、8年間で約400橋で、江東区域にも多くの「震災復興橋梁」が架けられました。一部の橋は、改修や補修を重ねながら、現在も都市の交通を支えています。

千田橋の諸元
 橋梁形式: 三径間連続非合成鈑桁橋
 橋  長: 38.7m
 橋梁幅員: 11.8m
 架設年月: 昭和四年12月




ポイント1 豊住魚釣場

千田橋の先に豊住魚釣場があります。豊住魚釣場は、江東区が運営している無料の釣り堀で、ヘラブナや鯉が放流されています。釣り竿や餌など釣り具のレンタルや販売はしていないので、すべて自分で用意して持参する必要があるものの、利用料金が無料なので連日多くの釣り好き区民で賑わっています。釣り竿は1人1本まで、長さは13尺(3.9m)以内、リール・吸い込み針・ギャング針は使用不可、返しのない釣り針(スレ針)を利用すること等の決まりがあります。釣った魚はキャッチアンドリリースとなっています。釣り堀にはトイレがあり、周辺には飲食店やコンビニもあるので、1日ゆったりとヘラブナ釣りをのんびりと楽しむ休日にぴったりです。この日もヒマなおじさん達で賑わっていました。



しかし、しかし、豊住魚釣場は料金の安い工業用水を利用して運営していましたが、東京都の工業用水事業が廃止となり、令和四年12月28日(水)をもって閉鎖されました。2025年2月に再訪した時はベンチも取り払われていました。今は案内板だけが寂しく立っています。跡地はどうなるのでしょうか?



四ツ目通りが通る豊住橋の下を潜ります。公園の壁に奇妙な模様が浮き出ています。

「本陶壁(高さ2.0m 長さ20.0m)は”しぶき”をテーマとしたもので、静かな流れから、躍動する波に変り、そして渦となり、飛沫となって拡がり、再び波に変化し、おだやかな流れに戻ってゆく現象を焼物独得の配色と造形で表現されている」



吊り橋も架かっています。



吊り橋の先には広場があり、トーテム・ポールが目を引きます。

トーテム・ポール(TOTEMPOLE)

トーテム・ポールは、カナダ北西岸に住む先住民がトーテム崇拝の対象としてきたもので、その造形は、芸術的にも高く評価されています。ここに立てられたトーテム・ポールは、カナダのブリティッシュ・コロンビア州林産審議会から江東区との友好親善と両国の木材産業発展のシンボルとして、1984年4月にカナディアン・シーダークラブを通じて本区に寄贈された3本のうちの1本で、他の2本は新木場駅前、舟木橋児童遊園(*)に立てられています。

注記:(*)舟木橋児童遊園のトーテム・ポールは老朽化のため、撤去しました。




仙台堀川公園から横十間川親水公園に入ります。仙台堀川と横十間川が交差する地点の手前に東屋が建っていて、周囲は竹林で覆われています。横十間川は墨田区・江東区を流れる運河で、一級河川に指定されています。天神川・釜屋堀・横十間堀・横十間堀川とも呼ばれていました。万治二年(1659年)、徳山重政・山崎重政によって開削されました。横十間川の名称は、江戸城に対して横に流れ、川幅が十間(18m)あったことに由来します。天神川とも呼ばれていたのは、亀戸天神の近くを流れていたからです。江東区亀戸と墨田区業平の境界で北十間川から分かれ、南へ流れます。ここから竪川が交差する地点に至るまでは、川の中央が両区の区境となっています。竪川と交差し、さらに小名木川と交差しますが、そこにはX字状の小名木川クローバー橋が架かっています。仙台堀川と交差した後で西に流路を変え、江東区東陽で大横川に合流します。横十間川の周囲は地下水の汲み上げによりゼロメートル地帯となり、天井川となっていましたが、扇橋閘門等により堰き止められ、常時排水することによって、海水面より1メール以上水位が低く保たれています。水位が低下したため、小名木川クローバー橋から大横川に合流する地点までの区間は埋め立てられ、横十間川親水公園として整備されています。



ポイント2 野鳥の島

横十間川と仙台堀川が交差する地点に、周囲から隔離された野鳥の島があります。



木のてっぺんに鳥が休んでいます。渡り鳥でしょうか?



野鳥の島付近で見られる鳥たちが解説されています。



横十間川親水公園ではボート遊びも楽しめます。



ポイント3 和船

江東区では現在7艘の和船を所有していて、その内の6艘が横十間川親水公園に係留されています。これらの和船は、「和船操船」の伝統技術保存を目的として「和船友の会」の活動に使用されていて、「和船友の会」の協力により、一般の人たちも乗船できます。希望者には櫓漕ぎの体験も行われています。体験は20分程度ですが、川風を感じながら江戸情緒を味わうことができます。



三島橋と水門橋の間には、子供向けに江東区の水上アスレチックなる施設が設けられています。

水上アスレチックの遊び方

ターザンロープ
さいごまでおちないように

GOGOロープ
ロープをたぐって進もう 1人乗りだよ

ウキウキ渡し
ロープをひっぱり出航だ!

UFOクライム
UFO(円盤)に足をかけて、鎖をつかんで進もう

ぐらぐら橋
ぐらぐらゆれるよ。バランスをしっかりとって走らないでね。




水門橋の上には、マイクロ水力発電の設備があります。

マイクロ水力発電

若洲風力発電施設に続く新たな再生可能エネルギーのシンボルとして、平成二十七年3月18日に横十間川親水公園・水門橋にマイクロ水力発電施設が完成しました。発電の様子を実際に目で見て実感してもらうことによる環境学習、及び「水彩都市・江東」を象徴する新たな観光資源として活用されていきます。発電した電気は電力安定化装置で整えた後に、表示モニター・ライトアップ用LED照明・カメラに利用しております。発電出力は最大で1KW程度、1ヶ月の発電電力量は600KWh程度になります。




注記:2025年に再訪した時は水門橋が工事中で、水上アスレチック施設もマイクロ水力発電も見れませんでした。

ポイント4 小名木川クローバー橋

横十間川は小名木川クローバー橋で小名木川と平面交差します。旧深川区内では、小名木川に約200m間隔で橋が架けられているのに対し、四ツ目通から東は1km間隔で進開橋・丸八橋・番所橋が架けられているだけで、南北の往来は非常に不便でした。そこで、歩行者・自転車が小名木川の南北の往来を容易にすることを目的として架けられたのが小名木川クローバー橋です。延長140.5m・幅員4.8m〜12.8mで、平成六年(1994年)12月に供用を開始しました。横十間川と小名木川の両方の川を渡れるようにするため、橋は中央部で十字に交差していて、北西岸は江東区猿江二丁目・北東岸は大島一丁目・南東岸は北砂一丁目・南西岸は扇橋三丁目にそれぞれ位置しています。現在はドラマのロケ地としても利用されています。



隅田川に架かる桜橋と同じように、中央部は広場になっています。広場には、四つ葉のクローバーが描かれています。



橋の周辺には、船の舳先を模した展望台や、かって使われていた錨などのモニュメントも設置されています。



小名木川クローバー橋はハゼ釣りの好ポイントとして有名です。ハゼはシーズンとなれば小名木川や横十間川のいたるところに生息していますが、橋付近は流れ込みなどもあってハゼの集まるポイントとなっています。また、護岸に手すりがあり、公園とまではいかないまでもやや広いスペースが取れるため、人気の釣りスポットになっています。



大島橋の袂に釜屋堀子育地蔵堂があります。大島橋が最初に架けられたのは、元禄十三年(1700年)で、場所は今より南の横十間川が小名木川に合流するところでした。現在の地に移されたのは昭和二年(1927年)7月のことです。堂内には、慶安四年(1651年)銘の古いお地蔵さまが安置されています。また、五百羅漢寺への参詣の道でもあったために、釜屋堀子育地蔵堂には文政十二年(1829年)建立の「五百らかん道標」が残っています。

釜屋堀子育地蔵堂

大島橋が最初に架けられたのは、元禄十三年(1700年)で、場所は今より南の横十間川が小名木川に合流するところであった。小名木川に沿っていた行徳道をつなぐ役割を果たしていた。現在地に移されたのは、昭和二年七月のことである。この付近は、かつて鋳物師の釜屋六右衛門・七衛門の工房があり、多くの名作が生み出された。また、五百羅漢寺(大島四丁目付近)への参詣の道でもあり、釜屋堀子育地蔵堂には、「五百らかん道標」(文政十二年)が残っている。




大島橋を渡り、横十間川の左岸(東側)沿いの道路を北上します。橋の袂に釜屋堀公園があります。「釜屋堀」の名前は、江戸幕府三代将軍家光の時代に太田氏釜屋六右衛門と田中氏釜屋七右衛門がこの辺りで鋳物業を行ない、鍋・釜などを造っていた鋳造所があったことに由来するとされています。

東京都釜屋堀公園 昭和十九年五月開園

本園地タル釜屋堀ノ一帯ハ、明治二十年二月我國科學肥料製造ノ嚆矢タル東京人造肥料會社創業ノ地ニシテ近代農業ノ發達ニ多大ノ寄興セシ由緒アル處ナリ。茲ニ科學肥料事業ニ盡瘁セラルル有志相諮ラレ、永ク此地ヲ記念スベク用地二百五十餘坪ヲ本都ニ寄附セラル。今ヤ公園施設成リ、開園ニ際シテ其由來ヲ刻シ寄贈者ノ芳志ヲ後世ニ傅フ。




釜屋堀公園の中に「釜屋跡」の石碑が建っています。

釜屋跡

太田氏釜屋六右衛門と田中氏釜屋七右衛門は通称釜六・釜七と称し、寛永十七年今の滋賀県から港区にきてまもなくこの付近に住い、釜六は明治時代まで、釜七は大正時代まで代々鋳物業を盛大に続けて知られ、なべかまの日用品をはじめ、ぼん鐘・仏像・天水おけなどを鋳造した。




石碑の隣には、「尊農」と記された巨大な石碑が建っています。渋沢栄一は、人口増加による食糧問題の解消のために高峰譲吉(1854年〜1922年)らと共に、化学肥料による農作物の生産性向上を計画し、明治二十年(1887年)に日本初の化学肥料会社となる東京人造肥料会社(現在の日産化学株式会社)を設立しました。当初、化学肥料は世間になかなか理解されず、その普及は一筋縄ではいきませんでした。また工場が火災に遭い全焼してしまうという悲劇にも見舞われ、会社の存続の危機にも直面しました。けれども栄一は、「国家の為めになる事業であり、農村振興上必要なものであると考へ、而も将来必ず有望な事業となる」「私一人でも諸君の株式全部を引き受け、借金をしてもこの社業を継続経営して必ず事業を成し遂げる決心」と述べ、事業の発展に尽力しました。昭和十八年(1943年)12月1日、東京人造肥料会社の創業の地である城東区大島町(現在の江東区大島)で「化学肥料創業記念碑」の除幕式が行われ、式典には渋沢栄一の嫡孫である渋沢敬三も参列しました。記念碑の建設会発起人には、化学肥料業界の関連会社・団体および関係者の他、栄一の事績を顕彰するため財界人によって結成された財団法人青淵翁記念会も名を連ねてました。記念碑のある此の地は東京都に寄付され、翌年釜屋堀公園として開園しました。記念碑は日本の農業発展に貢献した栄一ら先人の功績を今日に語り継いでいます。題字の「尊農」は、大日本農会第四代総裁の梨本宮守正王が揮毫しました。

尊農

先覺澁澤榮一・益田孝等ノ諸氏ハ、維新當初ニ於テ我カ國運ノ躍進ハ必スヤ人口ノ激増ヲ来シ、食糧問題ハ實ニ邦家将来ノ緊要案件タルヘキヲ洞察シ、農業ノ發達ト肥料ノ合理的施用トニ因リ之カ増収ヲ企圖スヘキ堅キ決意ヲ為シ、歐米ニ於ケル化學肥料ノ研鑽者タル峰譲吉氏ノ協力ヲ得テ、明治二十年初メテ此ノ地ニ東京人造肥料會社ヲ設立シ、過燐酸肥料ノ製造ヲ開始セリ。是レ我國ニ於ケル化學肥料製造ノ嚆矢ナリ。本事業ハ官民ノ協力二因リテ漸次進展シ、後更ニ空中窒素固定工業ノ勃興スルニ及ヒ、農業生産ノ飛躍的増収ニ絶大ナル貢獻ヲ爲スニ至レリ。今ヤ曠古ノ非常時局ニ際會セルモ、能ク一億國民ノ食糧ヲ確保シ、前線銃後些ノ憂ナキニ至リシハ、蓋シ化學肥料ノ発達普及ニ負フモノ多シト謂フヘシ。同社ハ後ニ大日本人造肥料株式會社ト改稱シ、此ノ地ハ 釜屋堀工場トナリシモ、不幸大正十二年ノ關東大震災ニ壊滅シ爾來二十星霜ノ久シキ寂トシテ之ヲ顧ルモノナキヲ遺憾トシ、茲に關係同志胥謀リ碑ヲ其ノ阯ニ建テテ由來ヲ刻シ、永ク偉績ヲ顕彰スルト共ニ、我國農業ノ興隆ヲ期シ以テ皇國ノ盛運ヲ奉頌ス。




その隣には、化学式が記された石板と、それを解説した碑文が並んでいます。

窒素+燐酸+加里

植物ガ栄養トスル肥料ノ成分ハ窒素燐酸加里カ主テアッテ、之ヲ三要素ト稱ヘ窒素ハ主トシテ葉ヲ、燐酸ハ果實ヲ、加里ハ幹根ヲ形成スルモノテアル。肥料ニハ古來動植物質ノ腐熟シタモノヲ多ク用ヰタカ、近代科學ノ發達ハ化學的ニ窒素燐酸加里ノ各肥料ヲ多量且ツ廉價ニ生産スルコトニ成功シ、是ニ依ッテ農作物等ノ収穫ハ劃期的躍進ヲ見ルニ至ッタ。此ノ處一体ハ實ニ我國化學肥料ノ先驅タル過燐酸石灰製造工業創始ノ地テアル。




釜屋堀公園の北隣に、都立科学技術高等学校があります。都立科学技術高等学校は、将来の科学者・技術者を育成することを目的として平成十三年(2001年)に創立され、全国に先駆けて科学技術科が設置されました。普通科目の他に特殊なカリキュラムを備えていて、幅広い分野を学ぶことができるため、文系大学への進学も可能となっています。令和三年度からスーパーサイエンスハイスクールの指定を受けています。学校内には太陽光発電システムが導入され、校舎内の電力をまかなっているのだそうです。今日は快晴なので、発電量が大きくなっているのでしょう。

太陽光発電システム

太陽光発電は、光を受けると電気を発生する太陽電池を利用した発電方式です。この太陽電池は、性質の異なる2つの半導体の層からできていて太陽の光を受けると、一方がプラス一方がマイナスとなり、直流の電気を流すことができます。一般的に100[平方センチメートル]で最大1.3[W]の電力が発生します。本校に設置されているパネルは82[u]ですから、最大10[kW]まで発生可能です。この直流の電気は、パワーコンディショナを通して交流の電気に変換され、本校の変電室をとおして、校内で使用する電力の一部をまかないます。太陽光発電は、それ自体二酸化炭素を出さない、地球にやさしいクリーンなエネルギーであり、本校の校舎は環境に配慮した建物となっています。




都立科学技術高等学校の北隣に、ザ・ガーデンタワーズという2棟の超高層マンションが並んでいます。高層ビルが少ない江東地域に於いては圧倒的な存在になっています。地上39階・地下2階建・高さ134.3m・敷地面積12、700uで、総戸数は470戸を有しています。平成九年(1997年)1月の完成当時は江東区で最も高いマンションであり、下町方面での超高層ビル建設の先駆けとなりました。



東西に長い敷地の中央に庭園が配置され、東端にサンライズタワー・西端にサンセットタワーが建っています。



ポイント5 猿江恩賜公園

本村橋を渡り、猿江恩賜公園に入ります。

猿江恩賜公園

由来
ここは、江戸時代、幕府直轄の貯木場であったところで、明治時代になって新政府が引き継ぎ、宮内省御用貯木場となりました。大正十三年昭和天皇御成婚記念として東京市に払い下げられた用地と旧猿江貯木場跡地を公園として整備したものです。園内には、照明付野球場、全天候型庭球場や江戸幕府材木蔵の由来を記した石柱などがあります。時計台、やたい椰子、桜などが色を添え、区民の憩いの広場となっています。




この地は、享保十八年(1733年)に江戸幕府公認の貯木場として開かれました。明治維新後には政府御用達の貯木場になり、大正十三年(1924年)の皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の成婚を記念して猿江貯木場の一部(現在の南園部分)が東京市に下賜され、昭和七年(1932年)4月29日に南園部分が猿江恩賜公園として開園しました。昭和四十七年(1972年)猿江貯木場が江東区潮見に移転して廃止されると、東京都が現在の北園部分の跡地を買収し、昭和五十八年(1983年)に全面開園となりました。

猿江恩賜公園案内板

北側地区
以前ここは貯木場として使われ、戦後は林野庁の所管となり、全国の山々から切り出された材木を浮かべていました。その後、猿江貯木場は移転・廃止され、昭和四十七年(1972年)に東京都が跡地を買収しました。その後、北側地区は公園として整備され昭和五十六年(1981年)12月26日に開園しました。

◎ミニ木蔵
かつての木場のように、水面のある環境を残すため造ったもので、水面の広さは約1、600uあります。このミニ木蔵の護岸に使われている石は、材木を長い期間貯蔵するとき、「重し」と して使われていたものです。

開園年月日: 昭和五十六年(1981年)12月26日(北側地区)
主な植物:  イチョウ、ヤマモモ、ケヤキ、サツキ、ソメイヨシノ
施設:    テニスコート、ミニ木蔵

Sarue Park Iformation Board

North side area
This area was used to store lumber and transferred to the administration of the Forestry Agency after World War II. In those days, timber from mountains all across the country could be seen floating in the pond in the area. After that the Sarue Lumberyard moved to Shiomi. Koto Ward, in Tokyo, the Tokyo Metropolitan Government acquired this land, in 1972. The north side was later reconstructed into a park, which was opened to the public on December 26, 1981.

Mini-Kigura (Miniature Lumberyard)
A body of water approximately 1,600m was added preserve the surrounding waterside, reminding people of the historic lumberyard, The stones that embank the miniature lumberyard were used as weights that were placed on lumber during long storage.

Opening date: December 26, 1981(north side)
Major plants: ginkgo, bayberry, zelkova, azalea, and yoshino cherry trees
Public facilities: tennis courts and a mini-kigura (miniature lumberyard)




公園の中程に大きな四角形の池があり、これはミニ木蔵と言います。貯木場であった時代の景観を残すために造られました。ここは江戸時代に「猿江材木蔵」と称していたので、その名を残したのです。

猿江貯木場と猿江恩賜公園

この公園の敷地は、もと猿江貯木場といって材木を水に浮かべて、たくわえておくための場所でした。江戸時代の享保十八年(1733年)ころ幕府の材木蔵として造られたのが始まりで、明治になってからもそのまま、新政府にひきつがれ、やがて皇室の御用材の貯木場となり、御木蔵と呼ばれていました。大正十三年には、その敷地の一部が、当時の東京市に払い下げられ、市は、昭和七年猿江恩賜公園として開園しました。これが現在の住吉地区(新大橋通りの南側)です。その後も北側地区は貯木場として使われ木曽のひのき材を主に常時2千石(およそ550立方メートル)の材木を貯蔵していました。戦後は林野庁の所管となり、東京営林局管内をはじめ、全国の山々から切り出された材木を浮かべていましたが、地盤沈下などの影響でしだいに使いにくくなり、昭和五十一年に貯木場は、江東区潮見へ移転し、約250年にわたった猿江貯木場の歴史も幕を閉じました。東京都では、この跡地を買収し、猿江恩賜公園毛利地区として整備を進めた結果、昭和五十八年にはその全域が完成し住吉・毛利両地区合わせて14.5ヘクタールの緑豊かな公園ができあがりました。

ミニ木蔵と切り石

このミニ木蔵は、かつての貯木場の水面景観を再現し、水面のある環境を残すために地元のみなさんの要望により作られました。水面の広さは、約1、600平方メートルあります。貯木場時代には、この約35倍、およそ56、000平方メートルの水面が広がっていました。ここでは、戦前まで「水中貯木」といって材木を組んだ上に板を渡し、その上に重しの石をのせて材木を水中に沈め、長い間貯蔵するという貯木法が行なわれていました。この方法ですと、海水と真水の混ざり具合のちょうどよかった猿江貯木場では、40年以上も材木の質をそこなうことなく貯木できたと言われています。このときに重しとして使われた石が、ここにある切り石です。貯木場はなくなりましたが、たくさんの切り石が残り、この石を護岸の材料に使って、新しいミニ木蔵が作られています。




ゴール地点の都営地下鉄新宿線住吉駅A3出入口に着きました。



ということで、江東区で十二番目の「白虎K水辺の散歩道〜アオサギに会える道〜」を歩き終えました。次は江東区で十三番目のコースである「白虎L深川、歴史と文化の散策」を歩きます。




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