白虎L深川、歴史と文化の散策  

コース 踏破記  

今日は江東区の「白虎L深川、歴史と文化の散策」を歩きます。清澄白河駅から清澄公園を経て隅田川テラスを散策し、深川の古刹を巡ります。最後に古石場川親水公園で失われた川跡を辿ります。最初に歩いたのは2022年の2月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年3月に改めて歩きました。

白虎L深川、歴史と文化の散策

とにかく見どころが多いのがポイントです。深川地区には多くの歴史・文化がつまっていることを再発見できます。

「白虎L深川、歴史と文化の散策」の歩行距離は約6.6km(約9、430歩)、歩行時間は約1時間39分、消費カロリーは約297Kcalです。

スタート地点:東京メトロ清澄白河駅出入口B1
ポイント1 本邦セメント工業発祥之地碑
明治五年、ここに日本初のセメント工場(官営工場)が設立されました。
ポイント2 紀文稲荷神社
江戸の豪商・紀伊国屋文左衛門が、伏見稲荷神社より御霊を拝受して祀った神社です。
ポイント3 法乗院・深川ゑんま堂
寛永六年に創建され、古くから「江戸三えんま」の一つとして親しまれています。現在のゑんま座像は平成元年に建立されました。
ポイント4 深川不動堂
ご本尊は不動明王です。
ポイント5 富岡八幡宮
江戸時代より続く「深川の八幡様」。

ゴール地点:東京メトロ門前仲町駅出入口2


スタート地点の東京メトロ清澄白河駅出入口B1から歩き始めます。



清澄通りの西側には都立清澄庭園の広大な敷地が広がっています。この地には元禄期の豪商だった紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられています。享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、ある程度の庭園が築かれたと推定されています。明治十一年(1878年)、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手しました。明治十三年(1880年)に竣工し、深川親睦園と命名されました。三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、明治二十四年(1891年)に回遊式築山林泉庭園としての完成を見ました。明治二十二年(1889年)には庭園の西側にジョサイア・コンドル設計による洋館が建てられました。大正十二年(1923年)に発生した関東大震災で庭園は大きな被害を受け、邸宅も焼失しました。それを受けて大正十三年(1924年)、三菱三代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈しました。東京市は大正記念館の移築や深川図書館の新館舎建設などの整備を進め、昭和七年(1932年)7月24日に清澄庭園として開園しました。東京都は昭和四十八年(1973年)に残る西半分の敷地を購入し、翌年から整備を開始して昭和五十二年(1977年)に清澄公園として追加開園しました。



海辺橋の南西側袂に芭蕉縁の「採茶庵」を復元した小さな建物があり、奥の細道に出立する直前なのでしょうか、その縁台に腰掛けた旅装姿の松尾芭蕉の彫像が置かれています。



庵の前には案内板が立っています。

江東区登録史跡
採茶庵跡 〜奥の細道はここから〜

採茶庵は、江戸時代中期の俳人杉山杉風の庵室です。杉風は名を市兵衛、または藤左衛門と称したほか、屋号を鯉屋、俳号を採茶庵、五雲亭などとし、隠居したのちは一元と名乗りました。家業は魚問屋で鯉上納の幕府御用もつとめ、小田原町一丁目(中央区)に住んでいました。松尾芭蕉の門人でもあり蕉門十哲に数えられ、「常盤屋句合」・「角田川紀行」などの著作があります。また、芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても知られています。採茶庵があった場所については、杉風の娘婿である隋夢の遺言状に「元木場平野長北角」と書かれています。平野町は海辺橋南詰から万年町二丁目(深川1−8)を挟んだ一角でした。案内板が建っている海辺橋のたもとより140メートルほど南西に位置します。芭蕉は奥の細道の旅に出る前、住居としていた芭蕉庵を手放し、しばらくは採茶庵で過ごしました。門人たちと別れを惜しんだのち、舟で隅田川をのぼり、千住大橋のたもとから奥州へと旅立っていきました。

Site of Saitoan

Saitoan was the hermitage of Sugiyama Sanpu, a disciple of haiku poet Matsuo Basho. Sanpu was one of Basho's top ten most gifted disciples. Saitoan was originally located 140 meters south of this sign at what is now 1-8 Fukagawa. Basho stayed at Saitoan before departing on the journey that led to his masterwork, Oku no Hosomichi (The Narrow Road to the Interior).




庵の前には、採茶庵跡と書かれた石柱も建っています。左右・後面に説明書きがありす。

採茶庵跡

芭蕉の門人鯉屋杉風は今の中央区室町一丁目付近において代々幕府の魚御用をつとめ、深川芭蕉庵もその持家であったが、また平野町内の三百坪ほどの地に彩茶庵を建て、みずからも彩茶庵と号した芭蕉はしばしばこの庵に遊び「白露もこぼさぬ萩のうねりかな」の句をよんだことがあり、元禄二年奥の細道の旅はこの彩茶庵から出立した。




海辺橋の袂から仙台堀川の遊歩道に入ります。遊歩道の脇には芭蕉の句碑が並び、「芭蕉俳句の散歩道」と名付けられています。

芭蕉俳句の散歩道

俳人松尾芭蕉がこの地より出発した「おくのほそ道」の句をお楽しみください。




元禄二年3月27日、芭蕉は千住で見送りの人々と別れ、草加を経て、粕壁(現在の埼玉県春日部市)で宿泊しました。別れに当って「前途三千里」の不安と惜別が去来しました。長旅には慣れた芭蕉でしたが、今回は健康のことや方角が初の東北であったことなど、不安材料は多かったのでしょう。この句の意味としては、「春を惜しんで鳥は鳴き、魚は目に涙を浮かべている。私も春が去るのと同時に、旅立ちの別れに涙を流すことだ。この句を筆記具の使い初め(旅の句の初め)として、進んで行く道はやはりはかどらない。人々は路上に立ち並んで、後ろ姿が見える限りはと思って、見送っているのであろう。」ということでしょう。

   行春や
      鳥啼魚の
         目は泪
            (千住にて)




芭蕉が旧暦5月13日(現在の太陽暦では6月29日)に奥州平泉の高館を訪れた時に詠んだ句で、「今や夏草が生い茂るばかりだが、ここはかつては武士達(源義経やその家来、平泉で栄華を誇った奥州藤原氏一族を指します)が栄誉を求めて奮戦した跡地である。昔のことはひと時の夢となってしまった」といった意味です。

   夏草や
      兵どもが
         夢の跡
            (平泉にて)




芭蕉が旧暦5月27日(現在の太陽暦では7月13日)に出羽国(現在の山形市)の立石寺(山寺)に参詣した際に詠んだ句で、随伴した河合曾良が記した「随行日記」では、「山寺や石にしみつく蝉の声」とされています。「ああ、何という静けさだ・・・。岩に染み通っていくような蝉の声がいよいよ静けさを強めている。」といった意味です。

   閑さや
      岩にしみ入
         蝉の声
            (立石寺にて)




清澄橋を渡って、清澄庭園の西側に隣接する清澄公園に入ります。



かって清澄公園は清澄庭園の一部でした。

東京都 名勝 清澄庭園

清澄庭園は、三菱財閥の創始者・岩崎彌太郎が明治十一年(1878年)に荒廃していた大名の下屋敷や豪族の館跡の土地約3万坪を買い上げ、大規模な造園工事を開始し、弟・彌之助、長男・久彌へと岩崎家3代によって明治二十四年(1891年)に「廻遊式林泉庭園」が完成されました。当時は「深川親睦園」といわれ、三菱社員の慰安や内外賓客を招き接待する場として用いられていました。

●深川親睦園当時と現在の敷地

●深川親睦園当時
庭園の主な施設として、河田小三郎が設計監理した日本館、英国人建築技師ジョサイア・コンドルの設計監理による西洋館がみられました。これらの建造物は鹿鳴館時代の明治文化を反映した豪華さにおいて、岩崎家の権勢を天下に誇示したものでした。



●現在
大正十二年(1923年)の関東大震災により、西半分を中心として壊滅的被害を受け、岩崎家が翌十三年に破損の少なかった東半分を公園用地として当時の東京市に寄付しました。昭和七年(1932年)より清澄庭園として一般公開されました。




今回は清澄公園の南側の遊歩道を通って清川橋に出ます。



ポイント1 本邦セメント工業発祥之地碑

清川橋から隅田川に向かいます。右手に日本最大のセメントメーカーである太平洋セメント深川工場があります。工場前の道路脇には、セメント工業の歴史を示す記念碑が建っています。



此の地には、かって日本初のセメント工場である深川セメント製造所がありました。明治五年(1872年)に前身となる大蔵省所管の深川摂綿篤製造所が着工し、近代建築に必要なポルトランドセメントの国産化を図ることを目的としましたが、果たせぬまま明治七年(1874年)に工部省に移管されました。責任者の宇都宮三郎が渡欧し、技術を習得後の明治八年(1875年)に工場を造り直し、深川セメント製造所となりました。製造所で日本初の国産セメントの製造に成功した5月19日はセメントの日となりました。その後、明治十七年(1884年)に官営模範工場の売却が行われ、深川セメント製造所も対象となりました。製造所は浅野総一郎らに売却され、官営製造所の歴史を閉じました。これが浅野セメントとなって浅野財閥の基礎になりました。工場は、浅野セメントとして存続し、現在、製造所の敷地跡はアサノコンクリート深川工場(太平洋セメント)の他、読売新聞社有地となっています。「本邦セメント工業発祥の地」の石碑が建っています。

本邦セメント工業発祥之地

此地ハ元仙台藩ノ蔵屋敷跡ニシテ、明治五年大蔵省土木寮ニ於テ始メテセメント製造所ヲ建設セリ。同七年工部省ノ所管トナリ、深川製作寮出張所ト改メラレ、技師宇都宮三郎氏ニ依リ湿式焼成法ヲ採用シ、初メテ外国品ニ劣ラサル製品ヲ得タリ。明治十年一月深川工作分局ト改称サレ、工場ノ拡張相次テ行ハレ、同十六年四月逐ニ初代浅野総一郎ノ経営ニ移リ、浅野工場ト称スルニ至ル。明治三十一年ニ月浅野セメント合資會社創立ト共ニ本社工場トナリ、同三十六年十一月本邦最初ノ廻転窯ヲ設置シ事業愈盛大トナレリ。大正元年十月組織ヲ改メ株式會社トナリ、東京工場ト改称シ今日ニ及フ。蓋シ此地ハ本邦セメント工業創生ノ地ニシテ、同時ニ又當社発祥ノ地タリ。仍而茲ニ其然ル所以ヲ録シ之ヲ記念ス。

THE MONUMENT OF THE BIRTHPLACE OF CEMENT INDUSTRY IN JAPAN AND ALSO ASANO CEMENT (THE CURRENT TAIHEIYO CEMENT CORPORATION).




当時の工場の全景を描いた石碑も建っています。

江東区史跡 セメント工業発祥の地

当地は日本で初めてのセメント工場があった場所です。明治八年、工部省が本格的なセメントの製造に成功しました。上図手前の隅田川、右側の仙台堀などの泥土を原料の一部として使い、試行錯誤の末、外国品と遜色のない国産のセメントを作り上げました。明治十六年、当社創業者のひとりである浅野総一郎が払い下げを受け、その後民間のセメント工場として発展を遂げました。




浅野総一郎の銅像が建っています。小柄そうですね。

浅野セメント(現 太平洋セメント株式会社)の創設者
初代社長 浅野総一郎翁像

THE STATUE OF THE LATE MR. SOICHIRO ASANO, THE FOUNDER AND FIRST PRESIDENT OF ASANO CEMENT (THE CURRENT TAIHEIYO CEMENT CORPORATION).




明治時代に製造され、海中で長期間使用されたコンクリートブロックの実物が保存されています。

明治二十七年に製造されたコンクリートブロック

明治二十二年(1889年)〜明治二十九年(1896年)に行われた横浜港築港工事で、その防堤基礎用として明治二十七年(1894年)に製造して海中に沈設され、昭和六年(1931年)同港改築に際し引き上げられたコンクリートブロックである。このコンクリートはアサノ普通ポルトランドセメントを使用したもので、配合はセメント:砂:(砂利と小割栗石)が1:2.8:5.2(容積比)、水セメント比は40%程度と推定される。37年間海中にあっても損傷は認められず、優れたコンクリートであったことを証明している。

THE BASE CONCRETE BLOCK OF THE BREAKWATER OUTSIDE OF YOKOHAMA HARBOUR PLACED ON THE SEA-BOTTOM IN 1894 AND RECOVERED IN 1931.




渋沢栄一と浅野セメントとの関わりが解説されています。

江東区 渋沢栄一ゆかりの地
浅野工場

明治十七年(1884年)、浅野総一郎は栄一の協力のもと、工部省深川工作分局の払い下げを受け「匿名組合浅野工場」としました。セメントの需要の高まりもあり、事業を順調に進展させ、大正二年(1913年)に浅野セメント株式会社(現在の太平洋セメント株式会社)となりました。この場所はセメント工業発祥の地として、関連のモニュメントや当時の設備が保存され ています。




仙台堀川が隅田川に合流する地点に、清澄排水機場と排水樋門があります。清澄排水機場は、地盤沈下の著しい江東三角地帯を水害から守り、合わせて環境の整備を行う「江東内部河川整備事業」の一環として建設された外郭ポンプ施設です。台風などによる高波や地震による津波のときは排水樋門が閉鎖されます。このときに降った雨は下水道から内部河川に排水されます。この排水機場は内部河川に降った雨を外海(隅田川)に吐出して溢れることを防ぐ役目を果たします。

清澄排水機場

事業概要
清澄排水機場は、地盤沈下のいちじるしい江東三角地帯を水害から守り、あわせて環境の整備を行う「江東内部河川整備事業」の一環として建設されたポンプ施設です。台風などによる高潮や、地震によって津波が発生するおそれがあるときは、水門が閉鎖されます。このときに降った雨は下水道により、内部河川に排水され、水位が上昇します。この排水機場は、内部河川にたまった水を外海(隅田川)に排水してあふれることを防ぎ、みなさまの生活を守る重要な働きをします。




排水樋門の前に、かって仙台堀川に架かっていた「上之橋」の親柱が保存されています。

上之橋

上之橋は、江戸時代から仙台堀の佐賀町河岸通りに架る橋として、大きな役割を果たしてきた。中之橋、下之橋とともに、佐賀町を上佐賀、中佐賀、下佐賀に分ける橋であった。本橋は、昭和五年(1930年)震災復興事業により架設され、昭和五十九年、清澄排水機場建設に伴い撤去された。ここに橋名を刻んだ親柱四本を保存し、橋の歴史を永くとどめるものとする。

形式 一径間鋼製アーチ橋 
橋長 34m
幅員 18m




中之橋についても案内板が立っています。

観光高札 中之橋跡

中之橋は、中之堀の隅田川口に架かっていた橋です。中之堀は、かつて隅田川と現在の大島川西支川とを結んでいました。今は一部が埋め立てられてL字形に残っています。中之堀は、寛永六年(1629年)に佐賀町ができた時にすでにあったと伝えられていることから、中之橋も当時から当地に架かっていたと考えられます。元禄十二年(1699年)の元木場の移転にともない、中之堀の川幅は10間へ広げられ、仙台堀の上之橋、油堀の下之橋とともに幕府により架け替えられています。それまでは、元木場の材木問屋たちが維持管理していました。上之橋、中之橋、下之橋と並ぶ様子は、隅田川下流を代表する独特な景観をつくりだしていました。




隅田川テラスは、堤防を補強する護岸基礎を親水施設として開放した場所です。現在、隅田川テラスは隅田川の両岸約47kmの内、約36kmの区間で整備され、都心の貴重な水辺空間として多くの人たちに利用されています。



日本橋川が隅田川に合流する先に緩やかな弧を描いた永代橋が架かっています。元禄十一年(1698年)に架橋された木造の水代橋は、現在の永代橋の場所よりも約150m上流のこの付近に架けられていました。橋名の由来は、当時このあたりが永代島と呼ばれれていたことからと名付けられたようですが、一説には五代将軍綱吉の50歳を迎えた記念として名を付けられたとも伝えられています。江戸時代には橋桁が高く取られたこともあり、橋上からは“西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総、限りなく見え渡り眺望よし”などといわれるほどの美しい景色が広がっていました。歌川広重が江戸後期に描いた「東都名所永代橋全図」には、隅田川河口のこの辺りに多数の廻船が停泊している様子がうかがえます。また、永代橋西詰のにぎわいとともに、幟が立つ高尾稲荷社へ参詣する入びとの姿などもみられ、詩情豊かな情景が描かれています。なお、永代橋が現在の場所に移されたのは明治三十年(1897年)のことで、道路橋としては初めてとなる鋼鉄橋に生まれかわりました。その後、開東大震災で被災したため、大正十五年(1926年)に現在の橋へと架け替えられました。上流に架かる清洲橋の女性約で優美な雰囲気とは対照的に、男性的で重厚感あふれる永代橋は、隅田川の流れとともに広く都民に親しまれています。



江戸時代の永代橋の様子を描いた絵と共に、橋を解説したプレートがあります。

永代橋

元禄十一年(1698年)、幕府の命によって「深川の渡し」にかわる木橋が架けられた。永代橋の歴史はここに始まる。享保四年(1719年)大破の折には一旦廃橋と決められたものの、両岸住民の熱意がみのって民間維持の橋として再建し、以後、公用となって文明開化の時代をむかえる。明治三十年(1897年)鉄橋に姿を改めた永代橋は、もとの橋から約150米下流の現在の位置に移り、関東大震災により大破、今の橋は詩人として知られた木下杢太郎の兄太田円三の設計、大正十五年(1926年)完成したものである。東岸永代島から下流をとらえたのが左の絵である。船の停泊するのは佃島、橋の上の人々を見おろすように、はるか品川御殿山も描かれる。




橋の袂に案内板が立っています。

@永代橋

現在の橋は、1926年に架けられたものです。1897年に、道路橋としては日本で初めて鉄が使用されましたが、床が木製だったため関東大震災で焼損し、震災復興橋として現在の姿になりました。

佐賀町の歴史

かつてこのあたり一帯は海岸の干潟でしたが、埋立地として開発されました。佐賀町は、この町の地形が、肥前の佐賀港に似ているところから命名されました。佐賀町では入堀が整備され、日本橋や神田の材木屋が使用した木場(元木場)がありました。

A赤穂浪士休息の碑

1702年、大石内蔵助が率いる赤穂浪士の一行が、本所松坂町(現在の墨田区両国三丁目)の吉良邸討ち入り後、一ツ目通りを引き上げの途中、乳熊屋で休息し、一行が甘酒の接待を受けたといわれています。
(東京下町Sエリア情報ページ 下町探偵団より提供)




永代橋の袂から佐賀町河岸通りを北に進みます。



とあるお店の前に、「赤穂義士休息の地」と書かれた石碑が建っています。この場所にあったちくま味噌屋が赤穂浪士と親交があったらしく、吉良邸討ち入り後、泉岳寺に向かう途中で甘酒の接待を受けて休息したとのことです。今でも毎年討入りの12月14日になると、店先で甘酒を振舞ってくれるそうです。

赤穂義士休息の地

赤穂四十七士の一人大高源吾守葉は俳人としても有名でありますが、ちくま味噌初代竹口作兵衛木浄とは其角の門下として徘界の友でありました。元禄十五年十二月十四日討入本懐を遂げたる義士達が永代橋へ差し掛るや、あたかも當所乳熊屋味噌店の上棟の日に當り作兵衛は一同を店に招き入れ甘酒粥を振る舞ひ労を犒らったのであります。大高源吾は棟木に由来を認め、又看板を書き残し泉岳寺へ引き上げて行ったのであります。




歩道脇に石碑が建っています。

食糧ビルディング(旧東京廻米問屋市場)跡地

明治十九年(1886年)、この地に東京の「廻米」を扱う問屋市場として設けられ、昭和二年(1927年)に建替えら(れ?)た近代建築。第2次世界大戦以後は、米の流通方法の激変によりその機能は失われましたが、建物だけは「食糧ビルディング」の名称で残り、80年代以降は画廊が集まり、現代アートの発信地としての脚光を浴び、テレビや映画のロケ地として、たびたび使用されました。昭和初期の建物として、深川の昔をしのばせており、連続したアーチ型の窓による外観形成、回廊に囲まれたパティオ(スペイン風中庭)がおもむきのある建物として、平成二年度に第1回江東区まちなみ景観賞を受賞しました。




大島川西支流に、真新しい御船橋が架かっています。大島川西支流は、江戸時代に大島川と称された本川の一部で、現在の永代二丁目一番から福住二丁目八番に至る的820メートルの小河川です。大島川の名称の由未は、右岸の町名大島町にちなむもので、元禄十二年(1699年)、深津八郎右衛門により付近の埋立てと同時に開削され、いつの頃か福住海岸と称され、渋沢栄一邸などがその海岸に建てられ、荷物の積みおろしなどで大変にぎわっていました。昭和四十年の河川法により、本川の大島川は正式名称として大横川と呼ばれるようになり、大島川の名称は東西両支流の名に残るのみとなりました。



橋の袂の小広場に、かっての御船橋の親柱が保存されています。

御船橋架替碑

御船橋は、昭和三年(1928年)関東大震災による帝都復興事業の区画整理街路橋として、東京市(現在の東京23区)によって架けられました。東京大空襲での被害を免れ、現在までの交通を支えるため補修・補強を繰り替えしてきましたが、供用90年経過した平成三十年(2018年)に老朽化により撤去され、令和三年(2021年)に現在の橋に架け替えられました。

中小河川に架かる震災復興橋梁の特徴として、親柱や高欄のデザインに凝ったものが多く、御船橋は単純な曲線と直線・幾何学的な装飾で構成されるアール・デコのデザインを採用しています。ここに旧橋の記憶として、親柱1基、高欄の一部、橋桁の橋歴板を残します。




ポイント2 紀文稲荷神社

紀文稲荷神社は、豪商紀国屋文左衛門が航海の安全と商売の繁盛を祈って京都伏見稲荷神社から御霊を拝受し、この地にお祀りしたのが始まりです。元の境内は現在地より北西約30mの奥まったところにありましたが、昭和六十二年(1987年)の大和永代ビルディング建設に伴い、昭和六十二年(1987年)3月31日に遷座祭を執り行い、移転しました。

紀文稲荷神社縁起

江戸中期(元禄時代)の豪商紀国屋文左衛門が京都伏見稲荷神社より御霊を拝受し、この地にお祀りしたのが当紀文稲荷神社です。紀国屋文左衛門は第五代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保・荻原重秀等と結び風浪を冒して紀州よりミカンを江戸に運び、また材木商として明暦の大火に木曽の木材を買い占め、数年で巨万の財を築き豪遊して紀文大尽と称せられたことはあまりにも有名です。紀国屋文左衛門の店は八丁堀にあり、その下屋敷が現在の第一勧業銀行深川支店あたりにありました。当時この付近一帯は運河が縦横に走り、此処に紀国屋文左衛門の船蔵があり、航海の安全と商売繁盛を祈って、この地にお稲荷様を祀ったものです。以前この付近一帯は窪田家の所有地でありましたが、窪田家の没落とともに祀る人もなく荒れるがままに放置されておりました。昭和の始め頃、この付近に疫病が流行し行者にその平癒をお願いしたところ、何処かに放置されたお稲荷様があるはずで、そのお稲荷様を祀れば疫病は平癒すると言うご神示を戴き、当時草原と化していたこの付近を捜索した結果、荒れ果てた祠を発見し、肥料商人中田孝治が発起人となり、現在の社殿を建立・お祀りしたところ疫病は平癒し商売も大繁盛しました。爾来、商売繁盛家内安全のお稲荷様として広く信仰を集めて参りました。富士浅間神社龍神様は中田孝治が富士講の講元をしていたことから、冨士浅間神社の御霊を拝受してお祀りしたものです。元の境内は現在地より北西約三十米の奥まったところにありましたが、昭和六十二年大和永代ビルディング建設に伴い、三菱倉庫株式会社の深い信仰心に基づく真摯な移転作業により昭和六十二年三月三十一日遷座祭を執り行い、現地に移転しました。又、境内にある石はこの付近にあった米問屋・肥料問屋等で働く力自慢の人達が差し上げることが出来た大石に自分の名を刻み記念としたものです。現在でも当神社総代鶴岡秀雄氏が会長をされている深川力持睦会がその伝統を受け継ぎ東京都から無形民俗文化財に指定されております。




富士浅間神社は、肥料商人中田孝治が富士講の講元をしていたことから富士浅間神社の御霊を拝受してお祀りしたものです。龍神は、富士講によって造られたものです。



境内にずらりと並べられた石は、江戸時代頃から流行った力比べの一種で、この付近にあった米問屋・肥料問屋などで働く力自慢の人達が差し上げることが出来た大石に自分の名を刻み記念としたものです。現在でも深川力持会がその伝統を受け継ぎ、東京都から無形民俗文化財に指定されています。



紀文稲荷神社から大島川西支流沿いに永代通りの福島橋に向かいます。福島橋の手前の道路脇に佐久間象山の案内板が立っています。

江東区登録史跡 佐久間象山砲術塾跡

この地は、佐久間象山が西洋砲術塾を開いた信濃国(長野県)松代藩下屋敷があった場所です。象山は松代藩士で、幕末の兵学者・思想家として著名です。文化八年(1811年)松代城下で生まれ、名は啓、通称は修理、雅号は「ぞうざん」と称したともいわれています。天保四年(1833年)江戸へ出て佐藤一斎に朱子学を学び、同十三年(1842年)、藩主真田幸貫より海外事情の調査を命じられました。おりしも、イギリス・清国間で勃発したアヘン戦争(1840年〜1842年)に衝撃を受け、おもに海防問題に取組み、九月には江川太郎左衛門(英龍・坦庵)に入門して西洋砲術を学びました。嘉永三年(1850年)七月、深川小松町(永代一丁目)の下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教え、このころ、勝海舟も入門しました。同年十二月、いったん松代へ帰藩しますが、翌年再び江戸へ出て、木挽町(中央区)に砲術塾を開きました。門下には、吉田松陰・坂本龍馬・加藤弘之など多彩な人物がいました。安政元年(1854年)、ペリー来航に際し、吉田松陰が起こした密航未遂事件に連座して松代に幽閉されました。元治元年(1864年)に赦され、幕府に招かれて京都に上りましたが、七月十一日、尊王攘夷派浪士に暗殺され、五四歳の生涯を閉じました。




福島橋を渡ると、ビルの前に「渋澤シティプレイス永代」と書かれた広場があります。かって、ここに渋沢栄一の邸宅があったそうです。

江東区登録史跡 渋沢栄一宅跡

渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保十一年(1840年)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。二十五歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治六年(1873年)に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力をそそぎました。晩年は社会公共事業に貢献し、昭和六年(1931年)九十二歳で没しました。栄一は、明治九年(1876年)に深川福住町(永代二丁目)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。同二十一年(1888年)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されました。栄一と本区との関係は深く、明治二十二年(1889年)から同三十七年(1904年)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のために尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治三十年(1897年)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正五年(1916年)、実業界を引退するまでに五百余の会社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。




渋澤シティプレイス永代の地には、かって渋澤倉庫がありました。

澁澤倉庫発祥の地

「わが国の商工業を正しく育成するためには、銀行・運送・保険などと共に倉庫業の完全な発達が不可欠だ」。日本資本主義の生みの親である、澁澤栄一は、右の信念のもと、明治三十年三月、私邸に澁澤倉庫部を創業した。この地は、澁澤倉庫発祥の地である。澁澤榮一の生家は、現在の埼玉県深谷市にあり、農業・養蚕の他に藍玉(染料)の製造、販売も家業としていた。この藍玉の商いをするときに使用した記章が*(ちぎり・りうご)であった。明治四十二年七月、澁澤倉庫部は、澁澤倉庫株式会社として組織を改めたが、この*の記章は、現在も「澁澤倉庫株式会社」の社章として受け継がれている。澁澤シティプレイス永代建築を記念し本碑を建立する。




永代通りから葛西橋通りに入ります。歩道の脇に「伊能忠敬住居跡」の石碑が建っています。石碑には、伊能忠敬の業績について記された碑文が刻まれています。

伊能忠敬住居跡

伊能忠敬は千葉県に生れ、江戸にでて高橋東岡に測量術を学び寛政七年幕府の命をうけて全国を測量し、沿海路程図を完成した。その測量の原点は忠敬の居宅であった。忠敬ははじめこの付近にすみ、のち中央区八丁堀にうつり正確な地図を完成した。忠敬は文政元年四月十三日七十四歳をもって死去し、台東区源空寺に葬られている。




葛西橋通りから、深川モダン館通リに入ります。



路地の四つ角に昭和の時代を彷彿とさせる「深川モダン館」の建物があります。

深川東京モダン館

この建物は、昭和七年(1932年)に東京市深川食堂として建築され、その後、内職補導所、福祉作業所として転用されました。そして、平成二十年(2008年)に関東大震災の復興建築物かつ唯一東京市営食堂の建造物として現存していることから、国登録有形文化財となりました。現在は江東区の文化と観光の拠点として、まちあるき案内事業をはじめ、展示や講座などの事業を行っています。

Fukagawa Tokyo Modan Kan

This building was first constructed as Fukagawa Cafeteria for Tokyo City back in 1932. It then went through several iterations, eventually becoming a Registered Tangible Cultural Heritage of Tokyo in 2008 for its connections to reconstruction efforts after the great Kanto earthquake of 1923, and for being the sole city cafeteria building still in existence. It currently functions as an information centre for tourists, a gallery and classrooms.




深川東京モダン館は、かって東京市が社会事業施策として設置した市設食堂のひとつでした。

江東区登録有形文化財(建造物)
国登録文化財
旧東京市深川食堂

東京市深川食堂は、東京市が社会事業施策として、大正九年(1920年)から順次設置した十六カ所の市設食堂のひとつです。延床面積は106坪。関東大震災の復興事業の一環として、昭和六年(1931年)に着工、翌七年三月に竣工しました。市設食堂とは低所得者のために安くて栄養のある食事を提供する施設のことです。昭和十一年に閉鎖されましたが、昭和十三年に東京市深川栄養食配給所として活動を再開、東京大空襲で被災しましたが全焼をまぬがれ、戦後部分修復して、東京都の職業斡旋施設となり、昭和三十二年には授産機能、昭和三十六年には福祉機能が追加されました。昭和五十四年に江東区へ移管され、「江東区内職補導所」と改称し、数度の名称変更を経て、平成十八年に閉鎖されるまで利用されました。構造は二階建て鉄筋コンクリート、外壁はモルタル下地吹上仕上げ。大震災の教訓を活かし、当時の最先端技術である鉄筋コンクリートが採用されました。デザインの特徴は、明るく開放的な吹き抜け空間になっている階段室と、二階南側のスチール・サッシュ窓にあります。震災復興の近代建造物としての稀少性が認められ、平成二十年に国登録文化財に登録されました。




現在は、まちあるき案内所として使用されています。ちょっとお邪魔してみます。



館内には戦前に使用されていたと思われる牛乳瓶や建物の外壁の一部などが展示されています。



深川食堂の歴史と建物の特徴を解説したパネルが展示されています。

昭和の生き証人「深川東京モダン館」

国登録有形文化財(建造物)「旧東京市深川食堂」

深川東京モダン館は、東京市が社会事業として順次建設をすすめていた市設食堂で、震災復興事業の一環として昭和七年(1932年)に建築された東京市深川食堂を改修した建物です。大正十二年(1923年)に起きた関東大震災は、死者約9万2千人、全壊・焼失約47万戸という未曾有の大災害をもたらしました。震災で住む場所を失った人びとに、安くて栄養のある食事を提供するためには公共の食堂が是非とも必要でした。そのため東京市(1944年に東京都となる)では市内の数カ所に食堂を増設しました。この深川東京モダン館の前身である「深川食堂」は、最後に造られた市設食堂でした。深川食堂は震災復興が一段落した後も、社会事業の役割をになう公営食堂などとして運営されていましたが、第二次世界大戦末期の空襲で建物の内部が焼けてしまいました。戦後は職業安定所や内職補導所、障害者通所授産施設として活用されてきましたが、平成十八年(2006年)にその役割を終え、解体を含め建物をどうするのかが問題となりました。専門家による調査で、この建物は昭和初期の近代建築の姿を今日に伝える貴重な文化遺産であるとの評価を受け、江東区は保存と活用を決めました。また平成二十年(2008年)には、国登録の有形文化財(建造物)として認定されました。昭和の初めに、新鮮な驚きを与えて人々を魅了したモダンスタイルを今日に伝えるこの建物は、また、激動の昭和の歴史の生き証人でもあります。今後は保存され、江東区の観光と文化の拠点「深川東京モダン館」として装いを新たにし再出発します。

建物の特徴

深川東京モダン館は、昭和初期に建築された建物の姿を今日に伝える貴重な文化遺産です。昭和初期の1930年代には、建物から装飾を取り去って、できるだけシンプルで単純な形を追求した建築が時代の最先端として登場し世界中に広まりました。「単純なものは美しい」という言葉に象徴されるこの傾向は、建築だけでなく美術や音楽の世界にも見られ「モダニズム」とか「モダンスタイル」と呼ばれました。モダニズムは近代の合理主義精神が形となったものとされています。

建設時期の特徴
  • 関東大震災復興事業として着工された現存する数少ない建築である。
構造上の特徴
  • 耐震耐火の性能を満たすべく当時の最先端技術である鉄筋コンクリート造として建設された。
デザイン、建築材料の特徴
  • 入口に続く階段空間が2階天井までを全面窓とした吹き抜け空間となっていて明るく開放的である。
  • 2階の南側の窓がモダンデザインの特徴である水平に連続するスチール・サッシになっている。
  • ※窓枠はすでに位置を変え付け替えられていたため、改修工事により、位置について復元をした
  • 昭和初期のモダン建築に多く見られる丸窓がある。この6つの丸窓は大通りから真っ直ぐに見え、本建造物を強く印象づける役割を果たしている。




コーヒーを飲んで一休みすることもできます。



清澄通りと首都高9号深川線が交差する地点に油掘川公園があります。油掘川を埋め立てた跡地に造られた小さな公園ですが、油掘川の名残りを残す貴重な痕跡です。油堀川は現在の江東区佐賀二丁目で隅田川から分流して東に流れ、大島川西支川や平久川と交差して現在の木場二・三・五丁目の間を流れて大島川東支川を横切り、木場掘に注いでいた全長1.65kmの割堀でした。油堀川には、和倉橋・永居橋・下之橋・千鳥橋・富岡橋(俗に閻魔堂橋)という橋が架かっていました。元禄十二年(1699年)に開削され、物資の運搬に使われました。深川の十五間川・油堀・堀川とも呼ばれました。現在の佐賀町や福住町の両岸には特に油問屋が多く、緑橋の南西には油商人会所もあり、川に沿って一色河岸・油堀河岸・数矢河岸がありました。昭和四十九年(1974年)から埋め立てが始まり、昭和五十年(1975年)には水路は消滅しました。昭和五十五年(1980年)にはその上に首都高速9号深川線が建設されました。かつて割堀であった高架下は、現在では遊歩道や駐車場・駐輪場・公園などになっています。



清澄通りに面した歩道脇には、今は存在しない富岡橋の親柱がモニュメントとして残されています。親柱の大きさからみても、富岡橋は相応の規模だったのでしょう。



清澄通りと葛西橋通りが交差する地点に面した小さな公園のトイレの壁に、富岡橋を舞台にした物語の一場面が描かれています。

清澄通りをはさんだ法乗院は、江戸時代より、「深川えんま」として有名である。この画は、梅雨小袖昔八丈「髪結新三」の一場面で、描かれている橋は、「えんま堂」の前にかかっていた黒亀橋、もとの富岡橋のことである。



清澄通りの歩道脇の植え込みの中に、映画監督の小津安二郎誕生の地の案内板が立っています。

小津安二郎誕生の地(深川1−8−8)

江東区の生んだ世界的映画監督小津安二郎は、明治三十六年(1903年)十二月十二日、この地に生をうけました。生家は「湯浅屋」という屋号の肥料問屋でした。安二郎が十歳のとき、三重県松阪町に転居、中学校卒業後、尋常小学校の代用教員を一年間勤めた後、大正十二年(1923年)再び上京、深川和倉町に住み、松竹蒲田撮影所に撮影助手として入社しました。昭和二年(1927年)監督に昇進、処女作時代劇「懺悔の刃」を監督しました。その後の小津安二郎監督作品は、「出来ごころ」に代表されるような、下町特有の情緒や人情味が描かれ、またローアングルによる撮影スタイルなどによって、家族の触れ合いや日常生活を端的に描く独特の作風を作り上げていきました。昭和三十七年(1962年)「秋刀魚の味」を発表、映画人としては、初の芸術院会員となりました。この作品が小津安二郎の遺作となり、翌昭和三十八年(1963年)六十歳で死去しました。その作品の価値は死後内外共にいよいよ高まり、世界最高の映像作家として評価されています。




清澄通りの反対側に3つのお寺が並んで建っています。一番左の心行寺は雙修山養源院と号し、元和二年(1616年)に八丁堀に創建され、寛永十年(1633年)に現在地に移りました。寺名の養源院は、延宝元年(1673年)に錦帯橋を架橋した第二代岩国藩主吉川広嘉(1621年〜1680年)の正室です。心行寺は、深川七福神(福禄寿)のひとつとして親しまれています。

心行寺(福禄寿)

由来
心行寺は雙修山養源院と号し、開山は、光蓮社団誉一露屋道で、養源院は開基です。元和二年(1616年)に、八丁堀に創建され、寛永十年(1633年)に現在地に移りました。養源院は岩国藩主吉川広嘉(1621年〜1680年)の妻で、承応三年(1654年)に没しました。広嘉は岩国藩主として二代目で、延宝元年(1673年)には、錦帯橋を架橋しています。深川七福神(福禄寿)のひとつとして親しまれています。




境内にも案内板が立っています。
浄土宗 心行寺

双修山養源院と号し、元和二年(1616年)京橋八丁堀寺町に創立、開山は観智国師の高弟光蓮社団誉一路屋道上人、周防岩国城主吉川監物の室養源院殿の発願開基による。寛永十年(1633年)現在地に移転、当時境内地は、間口42間奧行42間総坪数1764坪、影窓院・正寿院の二末寺があった。大正十二年関東大震火災の厄にかかり、昭和七年再建された本堂庫裡(くり)も昭和二十年戦災のため再度烏有(うゆう)に帰した。現本堂は、浅香富三氏設計により奈良平安朝樣式に現代風を加味し、昭和四十三年に落慶した。本堂両脇間に観無量寿経変相図(曼荼羅)ならびに三尊来迎図(守屋多々志画伯模写)がある。

史跡

開基養源院殿墓 五重石塔  宝筐印咒塔
五世鶴屋南北墓 松本交山墓 工藤琳甫墓
悟道軒円玉墓  深川七福神福祿寿堂




福禄寿が安置されているのは、心行寺の六角堂です。



福禄寿は、一説には、中国の北宋で仁宋が治世した時代の嘉祐(かゆう)年間(1056年〜1063年)に実在した道士であると言われています。

福禄寿は、星宿の神、南十字星の化身ともいわれて、長寿をつかさどる人望福徳の福神であります。背丈が低く、頭がきわめて長く、白髪童顔の姿をし、年齢数千年といわれ、長寿をつかさどる福神、杖を右手に、左に長命の鳥、鶴を従え長命と円満な人格を人々に授ける福神であります。また福(幸福)と禄(財)と寿(長命)の三つの福徳を授ける福神ともいわれています。



境内の奥には、地蔵とふたつの石塔が立っています。左から五重層石塔、真ん中が影窓院(ようそういん)地蔵、右側は宝篋印咒塔(ほうきょういんじゅとう)です。



五重石塔は、元亨四年(1324年)3月24日の銘があり、江東区に現存する最古の金石文となっています。

五重層石塔

空風火水地五層の石塔で、「元亨四年」の銘がある。元亨四年は1324年で、江東区内に現存する最も古い年号を記録している。




塔頭(たっちゅう)とは、 禅宗で大寺の高僧の死後、弟子がその徳を慕って墓の塔の頭(ほとり)に構えた寮舎をいいます。また、大寺院の敷地内にある小寺院や別坊といった脇寺を指すこともあります。

影窓院地蔵

「御府内備考続編」によると、この石造地蔵菩薩立像は、当寺に影窓院と正壽院の二つの塔頭があり、影窓院にあったので、この呼称がある。結縁地蔵として緑むすび、願いごと成就の地蔵尊として江戸時代から参詣の人々で大いに賑った。




宝筺印咒塔(ほうきょういんじゅとう)は、文化文政年間に江戸の名妓といわれた川口直が夫・忠七の菩提を弔うために建立したものです。

宝篋印咒塔(北州塚)

文化文政の頃江戸の名妓であった川口直が、その夫忠七の菩提を弔うために建てたものである。川口直は、大田蜀山人作詩の清元「北州」に、あの甲高い節付けをしたので有名で、又隅田村から小梅村の境まで、独力で楓樹を植えた。幕末の頃、その紅葉は向島の名物でもあった。 芸妓をやめて日本橋薬研堀に「川口」という料亭を開き、後、浅草橋に移って胡麻味噌の石焼き豆腐を呼び物にして、非常に繁昌した。夫の忠七は、「竹明」と号して笛の名手であった。




ポイント3 法乗院・深川ゑんま堂

心行寺の隣には法乗院があります。深川えんま堂(ゑんま堂)として知られ、寛永六年(1629年)に開かれた真言宗豊山派のお寺です。

法乗院(深川ゑんま堂)

法乗院は、寛永六年(1629年)の創立で、江戸時代から「深川の閻魔さん」と親しまれてきました。近年復興した閻魔さまは、高さ3.5m、幅4.5mの巨大な座像にハイテク技術を内蔵し、光や音とともに閻魔さまの声で仏の教えが語られます。また、左手には金色の地蔵菩薩をいただいています。

Hojoin Temple (Fukagawa Enmado Temple)

Hojoin Temple was built in 1629 and has been a familiar local establishment since the Edo period. Many people refer to the Temple as the "Enma of Fukagawa". The newly installed statue of Enma (God of the Underworld) measuring 3.5m in height and 4.5m in width is outfitted with technological enhancements. Visitors can experience receiving advice and Buddhist teachings here by making an offering, which triggers lights, sounds, and the voice of Enma to echo through the temple.




えんま堂には日本最大の閻魔大王座像が安置されています。



本堂1階には江戸時代に描かれた「地獄極楽絵」が展示されています。境内には「日本三大仇討ち」で知られる曽我五郎の足跡石があるなど見どころも豊富です。曽我五郎の仇討ち話は長くなるので省略します。



法乗院の隣に陽岳寺があります。陽岳寺は、今川家・武田家・徳川家と戦国時代に三家に仕え、海上から支援した向井将監源忠勝が開基となったお寺です。向井氏は伊勢湾を支配する海賊衆で、武田信玄が水軍を編成したときに配下となり、武田家滅亡後に向井正綱は徳川家康に仕え、江戸入府時には二千石の御船奉行となりました。その子忠勝は大坂冬の陣で戦功をたて、子孫代々左近将監を務めるように命じられました。御船奉行は江戸防衛が役目で、江戸湊沿いに屋敷を構え、忠勝は隅田川沿いに霊巌島を築く工事も手がけたといわれています。

陽岳寺 (向井忠勝)

向井忠勝(1582年〜1641年)は、60歳で没しました。戒名は、陽岳寺殿天海玄祐居士です。陽岳寺は、寛永十四年(1637年)に創建され、開山は文室祖郁禅師で、開基は忠勝です。慶長二年(1597年)16歳で、後の将軍秀忠に仕え、大坂冬・夏の両度の戦いには水軍を率い、摂津尼崎へ出陣しました。寛永二年(1625年)父の跡を継ぎ、子孫は代々船手頭の職を世襲しました。




冬木弁天堂の手前の交差点角に小洒落たレストランがあります。フランスの片田舎を彷彿とさせる温もりの空間で、オリジナリティ溢れるバル料理と一緒にワインを愉しめる「バール フランセ ラ・レプブリック」というフレンチのお店です。樹齢250年のウェスタンレッドシダーで覆われるエントランスの扉を開けると、まるでフランスの片田舎に来たかのような感覚に包まれ、店内は優しい灯りが映し出す圧倒的な迫力の太い柱と梁・カウンター・テーブル・椅子などの木製の調度品により、無垢の木に包まれた癒やしの空間になっています。前から気にはなっていたんですけど、昼間のお散歩の途中ではなかなか入りずらいです。



冬木弁天堂は、材木商の上田直次が承応三年(1654年)に開基しました。上田直次は茅場町で材木商となり、「冬木屋」を名乗りました。自邸内に琵琶湖の竹生島の弁財天社(現在の都久夫須麻神社)から分霊を勧請したのが起源となっています。その後、宝永二年(1705年)に茅場町から深川に屋敷を移転した際に邸内の大きな池の畔に竹生島から移した弁財天を安置しました。「冬木」の地名は、この冬木屋に由来しています。明治三年(1870年)になり、それまでは冬木屋の屋敷神で冬木屋関係者のみの神でしたが、一般に開放されました。

冬木弁天堂(弁財天)

由来
冬木弁天堂は、材木商冬木五郎右衛門直次が承応三年(1654年)に江州竹生島(滋賀県)の弁財天の分霊を日本橋茅場町(中央区)の邸内にまつり、宝永二年(1705年)にその孫、弥 平次がこの地に移したと伝えられています。冬木家は、冬木町一帯に広大な屋敷を構える豪商で、東京国立博物館には尾形光琳の描いた冬木小袖と呼ばれる着物が所蔵されています。深川七福神のひとつ(弁財天)として親しまれています。




寛永年間(1624年〜1644年)の巳年に琵琶湖竹生島弁天の出開帳があり、結願の日の夜半に願主上田直次の夢の中に弁天が現れ、「われ今よりこの地に留まって永く来世の衆生を済度せん」と告げ、これを霊夢と感得し、その託宣に従い屋敷内に弁天を祀るようになりました。明暦の大火などの復興需要で商売は繁盛し、三代目弥平次の宝永二年(1705年)に現在地に移り、町屋を建て、町名を屋号から冬木町と名付け、屋敷内に弁天を祀りました。宝暦十年(1760年)、当時有名な仏師津田丹治は江ノ島弁財天の像に模して裸の弁財天像を造り、冬木弁天堂に奉納しました。この像は関東大震災で焼失してしまいましたが、同様の裸の弁天像を本尊として祀り、十二年に一度の巳年にお衣替えの儀式を続けているということです。明治三年(1870年)に冬木家が弁天堂を一般に開放し、誰でもがお参りできるようになり、昭和三十年(1955年)に真言宗系の単立寺院として独立しました。現在の本堂は昭和二十八年(1953年)に再建されました。ガラス戸の間から弁天様が拝めます。



本堂の脇に、明治・大正の俳人の岡野知十の句碑が建っています。

岡野知十 句碑

名月や銭かねいはぬ世が恋し

明治四十三年九月建立
大正十二年九月震災にて焼失
昭和七年七月(1932年)再建

本名  敬胤 明治・大正の俳人
萬延元年(1860年)二月十九日、北海道日高国様似に生る。
昭和七年(1932年)八月十三日、東京にて没す。七十三才
(知十の句碑は、花・月・雪の三基がある)




句碑の後ろに、弁天様のお使い巳(蛇)の洞があります。弁財天とお金は切っても切れない仲のようで、洞の前の水たまりで笊にいれてお金を洗うと御利益があるそうです。



お巳洞の後ろには小さな水盤が保存されています。

亀久稲荷 水盤

現在の冬木十七番の一画は、江戸時代から昭和十四年まで、深川亀久町の町名であった。ここには、「亀久稲荷」が祀られており、毎年五月十五日には町を挙げてお祭りが盛大に行われていた。この稲荷社は現存していないが、江戸時代文政年間(1818年〜1829年)に、当時の町会の有志などにより奉納された水盤が残されている。深川一帯は、関東大震災や東京大空襲などにより歴史遺産の多くが失われたが、現在の冬木では、当冬木弁天堂の石垣石(天保六年・1935年奉納)とともに、現存している貴重な江戸時代の歴史遺産となっている。




水盤の先には一対の狛犬が顔を見合わせています。亀久稲荷に鎮座していたのでしょうけど、神社がなくなって困惑しているようです。



交差点に戻り、深川不動堂に向かいます。首都高の高架下に旧和倉橋の親柱が残されています。ちなみに、昭和四年に和倉橋が架けられる前までは、ここには「和倉の渡し」がありました。

和倉橋由来

この付近は、幕府賄方組屋敷があり碗をしまう倉があったことから「わんぐら」・「わぐら」といった。明治二年からこの付近の町名を深川和倉町といい、油堀川に「わくらの渡し」があった。昭和四年、ここにはじめて和倉橋がかけられ、橋は長さ20.4メートル、幅11メートルの鉄橋であった。昭和五十年、油堀川が埋められたので和倉橋はとりはずされた。




もう一方の親柱の後ろにも案内板が立っています。

和倉橋親柱 2基 〜現代に伝わる震災復興橋梁の面影〜

和倉橋は、大正十二年(1923年)の関東大震災からの復興事業の一環として油堀川に架けられた震災復興橋梁の一つです。昭和四年(1929年)に竣工しました。その後、昭和五十年(1975年)に川が埋め立てられ、橋が撤去されて欄干の端にある親柱2基だけは残されました。現在は、高速9号深川線の高架下の道を挟み南北に置かれています。両親柱は、上中下三段の本体と台石で構成されています。本体・台石はいずれも花崗岩製です。各部材は後にモルタルで接合されました。また正面には、「わくらばし」と記された橋名板(陽鋳・鉄製)がはめられています。この親柱の特徴として、側面に見られる放物曲線状のデザインがあげられます。これは大正期に流行した建築様式である表現主義の影響と考えられます。このように本親柱は、位置・形態に変化がみられますが、失われた震災復興橋梁の面影を現在に伝え、さらに当時流行していた表現主義のデザインを知ることができる貴重な文化財です。

Two Main Pillars of Wakura Bridge

Wakura Bridge was built across Aburabori River as part of a reconstruction project in the aftermath of the Great Kanto Earthquake of 1923. Today, only two pillars from the ends of the bridge (the main pillars) remain. These main pillars, which are made of granite, have iron plates engraved with the bridge's name fitted on their front side. The parabolic curve-shaped design of the pillars showcases the impact and popularity of expressionism during the Taisho period.




2022年に訪れた時には、親橋の後ろに歴史と文化の散歩道の案内板がありましたが、2025年に再訪した時にはパネルがなくなっていました。金属ドロボーに持ち去られたのでしょうか?


左が2022年当時の案内板、右が2025年に再訪した時の支柱だけの案内板です。


ポイント4 深川不動堂

首都高の高架先に、深川不動堂の裏門があります。

深川不動堂

深川不動堂は、千葉県成田市にある成田山新勝寺の東京別院で、「深川のお不動様」と呼ばれ古くから親しまれて来ました。毎日定時に行われる「護摩祈祷」は太鼓4台を使用し、迫力と荘厳さを備え、多くの方が訪れます。また、日本一の天井画(大日如来蓮池図)、「四国八十八カ所巡拝所」、1万体のお不動様の祀る「祈りの回廊」等見所も豊富です。

Fukagawa Fudodo Temple

Fukagawa Fododo Temple is the Tokyo branch of Narita-san Shinshoji Temple from Narita City, Chiba prefecture, and has been a beloved local structure since olden times. The greatly impressive Goma Fire Ritual is held daily at scheduled hours and features the beating of four taiko drums. The temple also houses one the greatest ceiling art of Japan, the Shikoku Pilgrimage, and a prayer hallway decked with 10,000 Buddha statues.




深川不動尊の案内板が立っています。

深川不動尊

由来
深川不動堂は真言宗で、成田山不動堂新勝寺の出張所として明治十一年(1878年)当地に遷座され、同十四年、堂宇が建立されました。元禄(1688年〜1703年)の初め頃より、江戸で成田山不動が盛んに信仰されるようになり、元禄十六年(1703年)本尊不動明王が初めて富岡八幡宮の境内で出開帳されました。以来、出開帳のたびに、その様子が錦絵に描かれ出版されるほどになりました。




深川不動尊に隣接して深川公園があります。深川公園は、浅草・上野・芝・飛鳥山公園と共に東京府が初めて設置した5つの公園のうちのひとつで、明治六年(1873年)に開園しました。元々は富岡八幡宮や別当永代寺の境内地で、信仰を兼ねた行楽地として大変賑わっていました。現在も富岡八幡宮・深川不動堂を訪れる人々や区民の憩いの場となっています。

江東区 渋沢栄一ゆかりの地
深川公園

明治六年(1873年)、東京府に5つの公園が誕生しますが、その一つが深川公園です。近代公園の先駆けとして、公衆トイレやベンチが設置され、現在も人々の集う場所として存在しています。明治四十三年(1910年)の日露戦争の忠魂碑、昭和六年(1931年)の歌仙桜之碑は、いずれも栄一が揮毫し、公園内に建てられています。




深川公園の敷地は、かって富岡八幡宮の境内地でした。

深川公園について

深川公園は、明治六年(1873年)太政官布達によって定められた日本最初の公園の一つです。この公園は元来、富岡八幡宮の境内で遊行の地として大変賑わい、東、西、南側の三面は小堀となり、それぞれに橋がかかっていました。西側には、油堀川より水を引き入れた汐入りの池があり、東側には、小高い丘がありました。明治十二年(1879年)には梅、桜を植え花園として整備しました。明治四十年(1907年)に、上野で開かれた東京勧業博覧会の建物を移築して、明治四十二年(1909年)に深川図書館が建てられましたが、大正十二年(1923年)の関東大震災で焼失しました。震災復興事業では、池を残して庭球場や広場になり、第二次世界大戦中に池は埋められ運動場になりました。この漆喰画は、文化十二年(1815年)伊豆松崎に生まれ、深川で暮らし明治二十二年(1889年)深川で没した漆喰細工の名工左官入江長八(伊豆の長八)にちなみ、伊豆松崎町の漆喰画の名工、左官山本勘一氏の手により、明治末期の深川公園の様子を、深川公園改良工事を記念して製作したものです。




公園の植え込みの中に小さな石碑が建っています。明治初期の神仏分離令で廃寺となるまでは、此の地には富岡八幡宮の別当寺だった「永代寺」がありました。石碑にはその経緯が書かれています。

富岡八幡宮別当永代時跡

長盛法印が寛永四年富岡八幡宮を建立しその別当となり、その坊舎を建て、承応二年京都仁和寺から永代寺の寺号を与えられ、万治元年に寺が廃せられた。永代寺は今の深川公園と付近一帯の広い土地を有し、立派な庭園があって毎年春には山開と称して一般に開放された。




公園内にある石造燈明台(明治三十一年在銘)は、深川不動堂境内にあったものを平成二十年(2008年)7月に移設したもので、江東区の有形民俗文化財になっています。



案内板には、当時の写真が添えられています。竣工当時は、上部に八角の火袋がありましたが、関東大震災で倒壊して現在はただの石塔になっています。

江東区指定有形文化財(建造物)
石造燈明台 明治三十一年在銘 一基

日清戦争(1894年〜1895年)の勝利を記念して、深川不動堂の境内南東地に建てられました。明治二十八年十二月に起工し、明治三十一年七月に竣工しました。高さ839.4cm、最大幅373.4cmの大きな燈明台で、内部は煉瓦造り、外壁には安山岩の石板が貼られています。設計及び監督技師の佐立七次郎(1856年〜1922年)は、工部大学校造家学科(現東京大学工学部)の第一期生でジョサイア・コンドルに師事した日本近代建築家の一人です。成田山新勝寺にもほぼ同形状の燈明台(明治二十七年竣工)が現存します。外壁には奉納者・奉納団体が刻まれた石板が359点貼られています。奉納者には「団菊左時代」を築いた九世市川団十郎、五世尾上菊五郎、初世市川左団次をはじめとする歌舞伎役者や常磐津などの芸能界、土木実業組合や東京石工組合、東京株式取引所などの実業界、また魚河岸、船頭、吉原・洲崎の遊廓や割烹料理屋などがみられ、深川不動堂が幅広い人々によって信仰されていたことがうかがえます。竣工当初は上部に八角の火袋がありましたが関東大震災により倒壊しました。平成十九年度に区指定有形文化財に指定され、平成二十年に現在地に移設されました。




永代寺は、寛永元年(1624年)に長盛の開山により永代島に創建されました。江戸時代には富岡八幡宮の別当寺として栄え、深川一帯でも指折りの広大な寺院でした。明治初年の神仏分離により廃寺となり、跡地は現在の深川公園や深川不動堂などになりました。その後、明治二十九年(1896年)に旧永代寺の塔頭の吉祥院が名称を引き継ぎ、再興されたのが現在の永代寺です。門前仲町の地名は、旧永代寺の門前ということで名付けられました。

高野山 真言宗
大栄山 永代寺 略縁起

永代寺は、寛永四年(1627年)に富岡八幡宮別當寺として長盛上人(京都の人、俗姓菅原家、寛永十三年九月二十日寂)によって永代島に創建される。當時の永代島は(現在の永代橋東側一帯)隅田川河口の砂州で、長盛上人がこれを開荒し、寺社地六万五百八坪を所有し、一宇を建立する。現在の深川公園辺りは、曽ての永代寺庭園の一部であった所で、平常は非公開であったが、毎年三月二十一日から二十八日迄は弘法大師の御影供が行われ、その期間に限って「山開き」と称し林泉を開き、江戸庶民に見物を許し大層な賑わいであった様子が江戸名所図会に描かれている。又将軍家違例の時や、世子誕生の折には祈祷札を徴せられ、承応三年(1654年)からは年頭独札の許可、元禄十二年(1699年)には乗輿御免、或京都仁和寺修復のための富突の許可が享保十八年(1733年)に出たこと等、永代寺に対する幕府の信任を示すものである。以上永代寺は、富岡八幡宮と共に大衆に広く知られ、多くの参詣人を集める、江戸を代表する門前町の中心であったが、明治初年(1868年)に発令された神仏分離を契機として行われた廃仏毀釈により廃寺となるも、関東五ヶ寺随一に数えられた名刺を廃絶するに忍びず、同二十九年三月、塔頭(永代寺に付属する寺院をいう。十一院在り)の一つ、吉祥院(元禄五年・1692年・創建、開基宥範)を永代寺と改称し、由緒ある法灯を永く継承する。




永代寺が所蔵する絵画が江東区の有形文化財に指定されています。

江東区指定有形文化財(絵画)
絹本着色地蔵菩薩半跏像 一幅

地蔵菩薩半跏像は、像を描いた本紙を掛け軸に表装したものです。本紙は縦84.0cm、横37.0cm。表装は縦178.8cm、横56.0cmです。地蔵菩薩はやや左を向いて、海中の岩座の上の蓮華座上に半跏に坐っています。また袈裟を着て、右手に錫杖を持ち、左手には宝珠を載せ、宝珠からは雲が立ちのぼっています。衣の文様には金泥や截金で装飾が施されています。地蔵信仰は奈良時代末ごろに日本に伝来し、平安時代後半には六道に輪廻転生する人々を救う菩薩として信仰されてきました。鎌倉時代に流布した像容は僧の姿をして袈裟などの法衣を身につけ、あまねくこの世をまわるという意味から錫杖を持ち、また宝珠を持ちます。本像はその像容と線の描き方から南北朝時代(十四世紀)の製作と考えられます。本像は区内の絵画では古いもので、後世による補筆や大幅な修復がなされなかったことから描かれた当初の姿をよくとどめています。また地蔵菩薩が海中の岩座の上の蓮華座上に坐るという珍しい像容や、截金などにみられる技術の優秀性などから絵画史上において貴重な作品といえます。




ポイント5 富岡八幡宮

深川不動堂と道路を挟んで富岡八幡宮が向い合っています。富岡八幡宮は「深川八幡宮」とも呼ばれています。江戸最大の八幡宮で、八月に行われる祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りのひとつになっています。江戸勧進相撲発祥の神社で、境内には「横綱力士碑」をはじめ大相撲ゆかりの石碑が多数建立されています。

富岡八幡宮

江戸三大祭りの一つに数えられる「深川八幡まつり」で有名です。3年に一度催される本祭りでは、50基余りの神輿がまちなかを練り歩く神輿連合渡御が行われます。担ぎ手に水を掛けることから別名「水掛け祭り」とも称されるその光景は勇壮無比です。富岡八幡宮は、勧進相撲発祥の地であり相撲と縁が深く、「横綱力士碑」「大関力士碑」などが境内にあります。

Tomioka Hachimangu Shrine

This shrine is famous for being the site of Tomioka Hachiman Matsuri, one of the Three Great Festivals of Edo. The largest of the celebrations, the "Hon-Matsuri", is held every 3 years and features a parade of fifty-some portable shrines around town. The carriers of the shrines are dowsed in water as they proceed, which is a spectacle to behold. It is also known as the site of origin for sumo wrestling.




富岡八幡宮には、多くの石造物が置かれています。勧進相撲発祥の地であることから、相撲にまつわる記念碑も見られます。

江東区指定有形文化財(歴史資料)
横綱力士碑

附 陣幕・不知火顕彰碑二基 日月石寄附碑 地固め寄附碑 土台石垣 魚かし石柱二本 土台下玉垣

この横綱力士碑は、横綱の顕彰と相撲の歴史を伝えるため、江戸時代最後の横綱第十二代陣幕久五郎が中心となり、明治三十三年に建てられました。古くから庶民に親しまれてきた相撲は、江戸時代には幕府公認の勧進相撲(寺社修復などを目的に実施)へと発展し、大坂・京・江戸で興行として開催されました。幕府がはじめて江戸での勧進相撲を認めたのは、貞享元年(1684年)の富岡八幡宮境内でした。その後、明和年間(1764年〜1771年)には、春・秋二場所のうち一場所がこの地で開催され、享和元年(1801年)までに本場所三十一回を数えました。その意味で、富岡八幡宮は江戸勧進相撲の発祥地といえます。偉容を誇る横綱力士碑は、同時期に建てられた陣幕・不知火顕彰碑や周辺の石造物(魚かし石柱、土台下玉垣は大正末ごろ)とともに、相撲と地域のつながりを示す貴重な文化財です。




陣幕久五郎の肖像があります。

横綱力士碑

◇建立 明治三十三年
◇重量 約五千五百貫(約二十トン)

当宮では貞享元年(1684年)に幕府の公許のもと初めて勧進相撲が行われ、以後年二場所の相撲興業が定期的に行われた事により江戸勧進相撲発祥の地として知られるようになりました。初代明石志賀之助からの歴代横綱の名が刻まれたこの碑は、第十二代横綱陣幕久五郎が発起人となり各界の協賛を得て奉納されたものです。なお、正面参道・大鳥居手前左側には「大関力士碑」が建立されています。




大関力士碑もあります。

大関力士碑

当宮は江戸動進相撲発祥の地として知られ、明治年間には歴代横綱の名を刻んだ横綱力士碑(本殿に向かって右側の奥)が建立されましたが、この大関力士碑は歴代の大関を顕彰し(横綱に昇進した力士と実際に取組みには入らなかった看板大関を除きます)昭和五十八年に建てられた碑で、九代目市川団十郎と五代目尾上菊五郎が明治年間に寄進した仙台石を利用しています。




富岡八幡宮の大神輿は日本一の大きさだといわれています。

富岡八幡宮御本社神輿 (日本一の大神輿)

  • 当八幡宮には、江戸時代深川に屋敷のあった紀伊国屋文左衛門より三社託宣に因み八幡造り・神明造り・春日造りの三基三様の神輿が奉納され、みこし深川と云われて参りましたが大正十二年の関東大震災で惜しくもその全てを焼失してしまいました。それ以来、御本社神輿の復活は深川っ子の念願でありましたが、平成の御世になり漸く、昔に優るとも劣らない豪華な大神輿が復活致しました。
  • 型の名称   屋根延神社型金地塗神輿
  • 台輪幅    五尺
  • 高さ     十四尺五寸
  • 重量     4.5トン(渡御時における推定)
  • 屋根の大きさ 最大幅十尺(蕨手装着時)
  • 担ぎ棒    十本(本棒二本・縦添棒四本・横添棒四本)
  • ダイヤモンド
  •   鳳凰の目(四カラット二個)・鳳凰の火焙(七カラット)
      狛犬の目(三カラット二個、一対)
      隅木の目(一カラット二個、四体)
      小鳥の目(一カラット二個、四体)
  • ルビー
  •   鳳凰の鶏冠(2、010個)




伊能忠敬の銅像もあります。伊能忠敬は門前仲町に住んで、日本全国の測量の旅に出ました。

伊能忠敬銅像

近代日本地図の始祖である伊能忠敬先生は、事業に成功したあと五十歳のとき江戸に出て、当宮近くの黒江町(現在は門前仲町一丁目)に隠宅を構えていました。約200年前の寛政十二年閏四月十九日(陽暦では1800年六月十一日)の早朝に当宮に参拝して蝦夷地(北海道)測量の旅に出かけました。忠敬先生はこのときを含めて全部で10回の測量を企画しましたが、遠国に出かけた第八回までは、出発の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣して、無事を祈念したのち、千住、品川宿など測量開始地点に向かって歩き出しました。当宮は伊能測量にとってたいへん御縁の深い場所であります。伊能測量開始200年にあたり、「伊能ウォーク」、地図・測量、土地家屋調査士、伊能忠敬研究会などの関係者が中心となって、広く一般から浄財を公募して建立されました。




銅像の脇には、世界測地系の採用を記念して、富岡八幡宮の三等三角点の碑が置かれています。



本殿の横から境内の裏手に行きます。鳥居の笠木が見当たりませんね。

合末社鳥居

昭和十二年に合末社の鳥居として建立されました。残念ながら鳥居の上部が欠落していますが、これは昭和二十年三月十日の東京大空襲の被災によるものです。この大空襲において富岡八幡宮は御本殿をはじめ大部分を焼失しますが、幸い七渡神社・合末社・永昌五社稲荷神社は焼失を免れました。しかし空襲における焼夷弾は、この付近にも落下し、その直撃を受けて鳥居上部が崩れ落ちました。二度と起こってはならない戦争の痕跡を静かに伝えています。




七渡神社も空襲による焼失を免れました。

七渡神社

御祭神  市杵島姫命
例祭   六月十七日
縁日   毎月第一巳の日

合祀   粟島神社
御祭神  少彦名命
例祭   十月十五日

七渡神社は八幡宮御創建以前よりお祀りされ、八幡様の地主神として「七渡弁天さま」と尊ばれてまいりました。あわせてお祀りされる粟島神社は女性の守り神とされ、二月八日には献針祭(針供養)が行なわれます。




針塚もあります。



木場にまつわる記念碑がふたつ置かれています。ひとつは木遣りの碑です。木遣りの起源は作業唄で、複数人で仕事をする時に力をひとつにまとめるために、掛け声や合図として唄われたものです。木遣りには、材木などを移動する時に唄われる木引き木遣りと、土地を突き固める時に唄われる地形木遣り(土搗唄)があります。時代が進むにつれて、木遣りは作業唄から離れて儀式化・俗謡化するなど、第三者に聴かせるための木遣りへと変貌しました。木場の木遣りは、徳川家康が江戸城造営の時に連れてきた材木商が伝えたものとされていますが、はっきりしたことは分かっていません。木場の筏師(川並)が鳶口ひとつで材木を操る時の労働歌でした。

木場の木遣りの由来

「木場の木遣り」の発祥は古く、現存の文献によれば、既に慶長初期の昔に行れている。当時、幕府のお船手の指図で、伊勢神宮の改築用材を五十鈴川より木造りの掛け声で水揚げをした、とある。元来、神社仏閣の鳥居や大柄な用材を納める場合には木場木遣り特有の「納め木遣り」が用いられ、保存会により今日に伝えられている。元禄の始めには、武家屋敷の並ぶ両国の七つ谷の倉の間部河岸という所で三代将軍家光公に筏の小流し(さながし、筏組)、角乗り、木遣りをご覧に入れ、以後年中行事となった。この時、 川並みという言葉が発祥したと伝えられる。明治十二年、米国のグラント前大統領が来日の際に、木遣りは角乗りと共に上野の不忍池で天覧の栄に浴している。江戸の昔より正月二日から七日に掛け木遣りにて初曳きし、材木屋さんに売り捌くのを年中行事としていた。




もうひとつは角乗りの記念碑です。

角乗りの由来

木場の角乗りは三百余年の昔、徳川幕府から材木渡世の免許を与えられた業者の材木を扱う川並 の祖先の余技として進展し、若者の技術錬磨の目的をもって今日に傳わるものである。其の間、明治初年、三島警視総監時代、水防出初式に始めて浜町河岸で披露。又グラント将軍が来朝の際、上野不忍の池にて催し後、横須賀に於て軍艦進水式の折り、明治天皇の天覧の栄を賜る。其の後、濱離宮や両国橋開通式の祝事に披露されて来た。第二次世界大戦により中断したが戦後有志相倚り、東京木場角乗保存會を設立し、昭和二十七年九月、東京営林署貯木場に於て披露し、同年十一月三日、東京都文化保存条例に基き、都技藝木場の角乗りとして無形文化財に指定された。




富岡八幡宮の裏手から出ますと、左手に八幡堀遊歩道が延びています。八幡堀遊歩道は、富岡八幡宮の東側に南北に走る遊歩道で、かって運河だったところを埋め立てたものです。



遊歩道の入口に案内板が立っています。

八幡橋(旧弾正橋)

由来
旧弾正橋は、明治十一年(1878年)東京府の依頼により工部省赤羽製作所が製作した国産第1号の鉄橋です。昭和四年(1929年)現在地に移され八幡橋と改称し、以来人道橋として活躍してきました。昭和五十二年(1977年)近代橋梁技術史上価値の高い橋であることから、国の重要文化財に指定されました。また、アメリカ人技師スクワイアー・ウィップルの特許を基本としたところから、平成元年10月、国内で初めてアメリカ土木学会より「栄誉賞」を受けました。




遊歩道の中ほどに、八幡橋(旧弾正橋)が架かっています。この八幡橋は、もとは明治十一年に東京市京橋区(現在の中央区)の楓川に架橋されていた弾正橋を移設したもので、鉄を主材料として造った鉄橋としては日本最古のものといわれていて、国の重要文化財に指定されています。

八幡橋(旧弾正橋)

明治十一年(1878年)、東京府の依頼によってエ部省赤羽製作所において鋳造された都内最古の鉄橋で、国の重要文化財です。当初は中央区に架けられましたが、関東大震災後に富岡八幡宮の東隣りに移され、八幡橋と改名されました。長さ15.7m、幅2mの小橋ですが、明治初期の橋の風格を持ち、菊の紋章が取り付けてある技術史の上でも価値の高い橋です。

Hachiman Bridge (Old Danjo Bridge)

This bridge was constructed in 1878, and moved from Chuo City to east of Tomioka Hachimangu Shrine following the great Kanto earthquake in 1923. It is the oldest iron bridge within the Tokyo metropolis and listed as an Important Cultural Property of Japan. Although it is considered small (measuring 15.7m in length and 2m in width), its early Meiji era architecture style adorned with highly technical chrysanthemum motifs makes it an extremely valuable bridge.




案内板と石碑が建っています。案内板には八幡橋が架橋された経緯が解説されています。

国指定重要文化財(建造物)
旧弾正橋(八幡橋)

八幡橋は、東京市で最初に架けられた鉄橋である。長さ15.2メートル、幅2メートル、単径間アーチ橋の形式をとる。アーチは鋳鉄製で五本の直材をつなぎ、その他の引張材は錬鉄製の鋳練混合の橋である。もとは、京橋区(中央区)の楓川に架けられていたものである。経緯については、「八幡橋新橋来歴」に詳しく記されている。この橋は明治十一年(1878年)、東京府の依頼により工部省赤羽製作所で製造された。はじめは弾正橋と称していたが、大正二年(1913年)の市区改正により新しい弾正橋が架けられたため、元弾正橋と改称された。さらに、関東大震災後の帝都復興計画により廃橋となり、昭和四年(1929年)、現在地に移設された。富岡八幡宮の東隣りであるため、名称も八幡橋と改められた。現存する鉄橋としては最古に属するものであり、また、菊の紋章のある橋としても有名である。鋳鉄橋から錬鉄橋に至る過渡期の橋として、近代橋梁史上貴重なものであるとともに、独特な構造手法を用いて施工してあ り、技術史の上でも価値の高い橋である。




石碑には、東京市による解説文とアメリカ土木学会から贈られた栄誉賞が埋め込まれています。

八幡橋鐵構来歴

本橋ノ鐵構ハ東京市最初ノ鐵橋タリシ弾正橋ノ古橋ヲ再用セルモノニシテ明治十一年東京府?工ノ下ニ工部省赤羽製作所ニ於テ鋳造セラレシモノナリ。其ノ後大正二年市區改正ニヨリ附近ニ新ニ弾正橋架設セラレタル結果、之ヲ元弾正橋ト改名シ近年ニ及ヘルモノナリシカ、帝都復興事業區割整理ニ依リ元弾正橋ハ廃橋トナリタルニ付、東京市最古ノ鐵橋ヲ記念セシカ為、其ノ鐵構ヲ取外シ、昭和四年此處ニ新設セラルル八幡橋ニ架設セルモノトス。

JAPAN HISTORIC
CIVIL ENGINEERING LANDMARK

AMERICAN
SOCIETY OF
CIVIL
ENGINEERS
FOUNDED
1852
"THE HACHI MAN BRIDGE"
THE FIRST BRIDGE BUILT OF IRON
MANUFACTURED IN JAPAN
PRESENTED BY THE JAPAN SECTION,ASCE 1989


八幡橋は、明治十一年(1878年)わが国において、最初に日本製の鉄を使って造られた鉄橋で、国の重要文化財や東京の著名橋となっています。橋の形(ウイツプル形トラス)は、米国人スクワイアー・ウイップル(SQUIRED・WHIPPLE)氏の特許が基本となっています。ウイップル形トラス橋の名誉と日本の歴史的土木建造物「八幡橋」の優れた製作技術に対して、平成元年(1989年)米国土木学会より「土木学会栄誉賞」が送られました。




人力車のモニュメントの後には、かっての弾正橋の賑わいの様子を記した案内板が立っています。

八幡橋(旧弾正橋)

八幡橋は、明治十一年(1878年)に京橋区楓川に架けられ、島田弾正屋敷が近くにあったことから弾正橋と呼ばれていました。現在の中央区宝町三丁目付近に位置します。弾正橋は、馬場先門から本所・深川とを結ぶ主要街路の1つで、文明開花のシンボルとして架橋されましたが、その後関東大震災の復興事業により廃橋となってしまいました。しかし昭和四年(1929年)には、その由緒を惜しみ現在地に移設され、八幡橋と名前も改められました。現在では江東区が大切に保存しています。この東京名所図会(三ツ橋の現況)には、明治三十四年(1901年)頃の弾正橋(左奥)が描かれており、当時の情景が偲ばれます。弾正橋・白魚橋 真福寺橋とをあわせて三ツ橋と呼び、古くから有名で人々から親しまれていました。




八幡橋の先に、もうひとつの古橋が保存されています。

旧新田橋

新田橋は、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場五丁目から木場六丁目を結ぶ、町の人びとの暮らしを支え続けてきた小さな橋の人道橋です。大正時代、岐阜県から上京し、木場五丁目に医院の開業をしていた新田清三郎さんが、昭和七年、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、近所の多くの人たちと協力して架けられたものです。当初、「新船橋」と名付けられたが、町の相談役としても人望が厚く、「木場の赤ひげ先生」的な存在であった新田医師は、亡くなった後も地域の人々から愛され、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになりました。また、映画やテレビの舞台ともなり、下町の人々の生活や歴史の移り変わり、出会いや別れ、様々な人生模様をこの橋は静かに見守り続けてきました。




数矢小学校の脇を通って八幡橋を渡ります。

国指定重要文化財(建造物)
旧弾正橋(八幡橋)

八幡橋は、明治十一年東京府の依頼により工部省赤羽製作所が製作した長さ15.2メートル、有効幅員2メートルの単径間アーチ形式の鉄橋である。もと京橋楓川(中央区)にかけられ弾正橋と称したが、大正二年(1913年)市区改正事業により新しい弾正橋がかけられたので、元弾正橋と改称した。大正十二年関東大震災後の帝都復興計画により、元弾正橋は廃橋となり、東京市は、昭和四年(1929年)五月現在地に移して保存し、富岡八幡宮の東隣りであるので八幡橋と称した。アーチを鋳鉄製とし、引張材は錬鉄製の鋳錬混合の橋でありかつ独特な構造手法で施工してある。この橋は鋳鉄橋から錬鉄橋にいたる過渡期の鉄橋として近代橋梁技術史上価値の高い橋である。




八幡橋東交差点を右折して永代通りに向かいます。歩道の脇の石積の上に石碑が建っています。江戸三十三間堂は、寛永十九年(1642年)に京都の三十三間堂(蓮華王院)を模して浅草に建立され、元禄十四年(1701年)に深川に移されました。京都の三十三間堂は通し矢の舞台として有名ですが、江戸三十三間堂でも江戸時代には諸士の弓術稽古のために通し矢が行われていました。江戸三十三間堂は、明治五年(1872年)に解体されました。先ほど通った「数矢」小学校の校名は、「通し矢」(通称「大矢数」)に由来しているとのことです。

三十三間堂跡

三十三間堂は、京都の三十三間堂に模して寛永十九年浅草に創建され、焼失後元禄十一年富岡八幡宮の東隣に再建されたが明治五年廃され、堂の遺物は深川二丁目正覚寺に移された。當時ここにおいて弓術の練習と競技が行われたことは有名であった。




ありし日の三十三間堂を描いた銅板画と、当時使われていた矢を解説したプレートが石積の上に置かれています。石積の正面には矢の絵が描かれています。

三十三間堂は、南北66間(約118.8m)、東西4間(約7.2m)、四面廻り緑の堂でした。下の矢の絵は1間(約1.8m)の長さを表しています。(一般的な矢の長さは、左手を真横に上げ、指を伸ばし、のどより中指先までの長さに、約5cm〜10cmを加えた長さです。)



大横川に架かる東富橋を渡ります。東富橋は震災復興橋梁のひとつで、昭和五年(1930年)に架けられた橋です。

震災復興橋梁について

大正十二年(1923年)9月1日の午前11時58分、神奈川県西部(または相模湾北西部)を震源とするマグニチュード7.9の大地震(大正関東地震)が発生しました。震災前、東京市の橋の大部分は木橋で、多くの橋が被害を受けました。震災直後から昭和五年(1930年)にかけて、復興事業の一環として架けられた橋梁は「震災復興橋梁」と呼ばれています。東京市に架けられた「震災復興橋梁」の数は、8年間で約400橋で、江東区域にも多くの「震災復興橋梁」が架けられました。一部の橋は、改修や補修を重ねながら、現在も都市の交通を支えています。

東富橋の諸元
 橋梁形式: 鋼単純プラットトラス橋
 橋  長: 40.5m
 橋梁幅員: 18.1m
 架設年月: 昭和五年2月




中央の欄干には、江東区無形文化財の山崎喜作氏の繍画刺繍「深川八景(深浜風景)」のプレートが飾られています。ちなみに、深川八景とは、江戸深川の名所(永代橋の水鏡・永代寺の晩鐘・冬の木場・塩浜・仲町・洲崎弁天・佃の雨・深川八幡宮)を近江八景になぞらえたものです。



東富橋南詰の小広場に、「松平定信 海荘跡」の案内板が立っています。寛政の改革(1787年〜1793年)を行なった節約倹約の松平定信でしたが、隠居後は結構趣味を楽しんでいたようです。

松平定信 海荘(はまやしき)跡

松平定信は、陸奥白河(現在の福島県)藩主で、天明七年(1787年)に老中となり、寛政の改革を実行したことで知られています。海荘は、隠居後の文化十三年(1816年)に入手した抱屋敷で「深川海荘」とも呼ばれました。定信は政治家・学者としての側面のほか、造園家としても著名で、築地の浴恩園、大塚の六園、領地白河の三郭四園、南湖公園といった庭園を造りました。海荘には、これら四園の趣向を取り入れた庭園を築きました。園内には東西に二つの池があり、池を掘るときに出た土で二箇所の築山を築き、それぞれに「松月斎」「青圭閣」と名づけた休息所を建てました。定信は花木を好み、梨園や芍薬の花畑を作ったほか、桜や躑躅、松、楓などさまざまな草木を植えました。なかでも普賢象という遅咲きの桜をとくに愛し、桜の季節には浴恩園や六園で花見を楽しみ、最後に世間の桜が散るころに花盛りを迎える海荘の普賢象を鑑賞したといいます。この園内の様子は、国立国会図書館に所蔵されている「深川入船町御邸松月斎真写之図」に詳しく描かれています。




琴平橋を渡ります。といっても、琴平橋は川に架かる橋ではありません。かって大横川と平久川を繋ぐ木材屋用の掘割・運河の役割を果たしていた古石場川は、その機能が新木場に移転したために埋め立てられ、現在は古石場川親水公園として整備されています。琴平橋は、その上に架かる陸橋なのです。



古石場文化センターを回り込むように進みます。古石場文化センターは、江東区に於ける地域コミュニティ活動と生涯学習の推進を目的に、平成十五年(2003年)に開館した文化施設です。大研修室は柔らかな曲線のプロセニアムアーチと内装が印象的なフラットホールで、グランドピアノも常設されています。シネマ上映会の他、発表会やオーケストラや合唱練習にも利用されています。その他、小津安二郎の紹介・展示コーナーや会議室・研修室・和室・茶室・音楽スタジオ・展示ロビーなどがあり、多様な活動に対応しています。同じ建物に古石場図書館を併設しています。



古石場文化センターの敷地にはトミンハイム古石場の高層住宅が建並んでいます。この辺り一帯は、かっての発電所の跡地になります。

東京市街鉄道株式会社深川発電所跡

現在、古石場文化センターが建つこの地には、かつて東京都交通局の前身の一つである東京市街鉄道株式会社の火力発電所がありました。正式名称を東京市街鉄道株式会社深川発電所といい、同社の電気軌道用発電所として明治三十七年(1904年)9月1日に運転を開始しました。発電所の建物は、2棟のボイラー室と1棟の機械室、2本の煙突で構成され、ボイラー室と機械室は、屋根の骨組みに鋼鉄を用いた煉瓦造りで、合計の建築面積が約3、243uでした。ボイラーの排煙に使われた2本の煙突は、芝浦製作所(現在の株式会社東芝) 製で、煉瓦を裏張りした鋼鉄造りで高さが約50mありました。2本の煙突がそびえ立つ光景は、明治四十二年(1909年)発行の「新撰東京名所図会」第六十三編の挿図「深川古石場町潮除堤の眺望」にも描かれています。この発電所は、ボイラーで水を沸かした水蒸気でタービンを回転させて発電する方法(蒸気タービン)を日本で初めて採用した発電所でした。この方法は初期の火力発電で 用いられた、水蒸気でピストンを動かして発電させる方法(蒸気ピストン)に比べ効率よく発電することができ、 現在の火力発電でも用いられている方法です。使用されたのはゼネラル・エレクトリック社製のカーチス式縦軸蒸気タービン発電機で、運転当初は出力500kWのものが2台でしたが、明治三十八年(1905年)から翌年にかけて出力1、500kWの5台を増設し、500kWの2台は撤去されました。深川発電所は、鉄道会社の合併・買収により所属を明治三十九年(1906年)9月には東京鉄道株式会社、同四十四年(1911年)8月には東京市電気局と変えながら稼働し続けました。大正元年(1912年)9月には、明治天皇の大喪の礼の際に電気局が設置した献灯へ電力を供給しています。しかしながら、国内で水力発電が普及してより効率的な発電ができるようになると、自家発電を止めて外部から電力供給を受けることになり、大正二年(1913年)に閉鎖されました。その後、深川発電所で使用されていた発電機は、日本セメント株式会社の熊本八代第一工場にボイラー付きで15万円(当時)にて買収されました。




古石場文化センターの脇から古石場川親水公園に下ります。

古石場川親水公園

牡丹一丁目から古石場二丁目までを流れる古石場川、約750mの水路を整備してつくられた古石場川親水公園。水路の両岸には、牡丹町の名にちなんで開かれた牡丹園、子供たちの歓声が響くジャブジャブ池、そしてかつての古石場の面影にちなみ様々な自然石を配置した石の広場などが続きます。護岸ギャラリーやサイクリングロードも設置され、人々の憩いの場として親しまれています。

牡丹町という名にちなんで設置された30種470株からなる牡丹園。色鮮やかな牡丹の花が彩る風景に、心もふと安らいでいきます。

子供たちが安心して裸足で遊べるように、コンクリートでできたこの池は、水と太陽にたわむれるチビッ子の明るい声が響きわたっています。

江戸城を築城した時に石置場として使われた古石場。その歴史を裏付けるように、かつての石置場の面影を残して、たくさんの石の姿が見られます。




牡丹園には沢山の種類の牡丹の花が咲き乱れています。一本一本の花に名札が付けられていますが、私にはサッパリ分かりません。

牡丹について

牡丹はその美しさから「百花の王」や「花神」、「富貴花」などと呼ばれ、春に咲く大輪の花は他の花々を圧倒する存在感があります。日本では「立てば芍薬、座れば牡丹」と、美しい女性を表すことわざにも用いられているほか、美術や工芸、詩歌などの題材でも用いられ、日本の文化に深く根付いています。原産は中国北西部で、日本へは奈良時代に伝わったとされ、当初は薬用植物として植えられていました。その後、平安時代以降からは観賞用として栽培されはじめ、以来、1000年を超える自然交雑や自家受粉を繰り返しながら、300品種以上ともいわれる数多くの園芸品種が生み出されています。




石の広場には自然石だけでなく、彫像も置かれています。

石の広場

江戸時代、江戸城築城に必要な石の置き場であり、江戸市中の家屋の土台石などの加工場、置き場になっていたという由来と、古石場の地名からこの広場を石の広場といいます。この広場は水路と一体となった御影石や鉄平石の舗装や護岸、飛石などの加工した石で構成した部分と、山や川にある自然石を置いた土の部分のふたつにわかれています。ここで石の自然の姿や加工された様子などを学習の参考にしてください。




関口橋から地上に上がります。巴橋へ向かう途中の右手に住吉神社があります。

住吉神社の由来

天正十八年(1590年)に徳川家康が江戸へ入城した時に摂津の国、佃村(大阪市西淀川区佃町)の漁民を江戸に呼び寄せ、海と川の漁猟の許可を与え、江戸城へ魚類の納入を命じた。寛永年間には漁民に隅田川河口の鉄砲洲東の干潟が与えられ、その地を故郷の地名をとって佃島と名づけ、白魚上納の特権を与えた。その後、享保四年(1719年)に富岡八幡宮の南方海浜に佃島漁民の網干場の土地が与えられ深川佃町と称した。今の牡丹二、三丁目にあたり、此処に、佃島住吉神社より分霊された小祠が祀られている。深川佃町はその後、町家の地になり一層発展して深川岡場所(花柳街)のひとつとなり、地名を通称「つくだ」または「あひる」と呼ばれたのである。寛政四年(1792年)頃の花街の妓楼は料理茶屋が十五軒、水茶屋も十軒程あって大層繁栄した。天保の改革により花街も一時は衰退したが、後に復興して明治維新まであったといわれている。尚、境内の石鳥居、石灯篭は江東区の有形文化財、力石(さし石)は区の民俗文化財に指定されている。




力石が沢山置かれています。



ゴール地点の東京メトロ門前仲町駅出入口2に着きました。さすがに深川は見所満載でした。



ということで、江東区で十三番目の「白虎L深川、歴史と文化の散策」を歩き終えました。次は江東区で最後のコースである「白虎M深川・豊洲水辺散策」を歩きます。




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