白虎M深川・豊洲水辺散策  

コース 踏破記  

今日は江東区の「白虎M深川・豊洲水辺散策」を歩きます。門前仲町駅から古石場川親水公園・大横川親水公園・越中島公園を経て相生橋と朝潮大橋・春海橋を渡り、ららぽーと豊洲でショッピング三昧を楽しみます(買ったのはコーヒーだけですが)。最初に歩いたのは2022年の2月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年3月に改めて歩きました。

白虎M深川・豊洲水辺散策

川沿いが多く、ウォーターフロントを感じる気持ち良い、見晴らしのいいルートです。歴史ある深川エリアから新しい豊洲エリアへの変化も楽しめます。

「白虎M深川・豊洲水辺散策」の歩行距離は約5.6km(約8、000歩)、歩行時間は約1時間24分、消費カロリーは約252Kcalです。

スタート地点:東京メトロ門前仲町駅出入口2
ポイント1 古石場川親水公園
テーマは「水辺の香り」。水路には海水が流れ込みます。牡丹園もあります。
ポイント2 越中島公園
「隅田川テラス」の公園は、ウォーキング・ジョギングの定番コース。桜や夜景のスポットとしても人気♪
ポイント3 晴海橋梁
貨物専用の臨港鉄道晴海線の遺構である晴海橋梁は、昭和三十二年に完成しました。赤茶色のアーチが特徴的ですが、廃橋のため通行はできません。
ポイント4 アーバンドック ららぽーと豊洲
造船所跡地は約180のショップが集まる大型ショッピングモール。水上バスの発着場も利用できる!
ポイント5 がすてなーに ガスの科学館
ガスとエネルギー、地球環境について紹介。

ゴール地点:東京メトロ豊洲駅出入口7


スタート地点の東京メトロ門前仲町駅出入口2から歩き始めます。



木場方向に向かって最初の信号で永代通りを右折し、大横川に架かる巴橋を渡ります。大横川の両岸には桜並木が続いています。お天気はイマイチですが、春爛漫の風景です。



左手にこじんまりとした住吉神社が鎮座しています。住吉三神の守護により、神功皇后は三韓征伐を無事達成し、その帰途、摂津国西成郡田蓑島(現在の大阪市西淀川区佃)で住吉三神を遥拝しました。これが大阪佃の住吉の社(現在の田蓑神社)の始まりです。その後、天正年間から大阪田蓑島の人々と徳川家康公とが深い関わりを持つようになり、家康公の命により漁業の傍ら田も作ることになり、村名を田蓑から佃へと改め、また田蓑の名を残すために神社名を住吉神社から田蓑神社へと改めました。その後、家康公が関東下降の折りに摂津国佃の漁夫33人と、分神霊を奉載した住吉の社の神職平岡権大夫好次が江戸へ下り、寛永年間に幕府から鐵砲洲向かいの干潟を与えられて築島しました。そして故郷の名をとり佃島とし、この地に社地を定め、正保三年(1646年)6月29日に、住吉三神・神功皇后・徳川家康の神霊を奉遷祭祀しました。これが佃住吉神社の起源です。住吉神社は佃島の対岸に位置し、佃島の漁民の網干場が作られたことから此の地を「深川佃町」と呼ぶようになり、佃島の住吉神社の分社が祀られるようになったとのことです。

住吉神社の由来

天正十八年(1590年)に徳川家康が江戸へ入城した時に摂津の国、佃村(大阪市西淀川区佃町)の漁民を江戸に呼び寄せ、海と川の漁猟の許可を与え、江戸城へ魚類の納入を命じた。寛永年間には漁民に隅田川河口の鉄砲洲東の干潟が与えられ、その地を故郷の地名をとって佃島と名づけ、白魚上納の特権を与えた。その後、享保四年(1719年)に富岡八幡宮の南方海浜に佃島漁民の網干場の土地が与えられ深川佃町と称した。今の牡丹二、三丁目にあたり、此処に、佃島住吉神社より分霊された小祠が祀られている。深川佃町はその後、町家の地になり一層発展して深川岡場所(花柳街)のひとつとなり、地名を通称「つくだ」または「あひる」と呼ばれたのである。寛政四年(1792年)頃の花街の妓楼は料理茶屋が十五軒、水茶屋も十軒程あって大層繁栄した。天保の改革により花街も一時は衰退したが、後に復興して明治維新まであったといわれている。尚、境内の石鳥居、石灯篭は江東区の有形文化財、力石(さし石)は区の民俗文化財に指定されている。




境内社二社が祀られています。祠の前には沢山の小石が積まれています。祈願成就の石でしょうか。

車折(くるまざき)神社

祭神  清原頼業公

車折神社は京都嵯峨にあり、鎌倉時代初期に、朝廷より、車折大明神の号と、正一位を贈られたという由緒ある神社。学問の上達並びに商売繁盛と売掛金回収にご利益があることで知られている。神社の石を授かり、願いを込めて神棚に祀り、祈願成就の上は石を一個、先に授かった石に添えて神前に奉納するという風習がある。

合祀 芸能神社

祭神 天宇受売命(あめのうずめのみこと)

車折神社の境内神社であり、芸能の神様として、芸能の上達を祈る多くの人達の信仰をあつめている。




こちらは神社の石のようです。

「お願い石・お守り石」 (祈念神石)

祈念神石を選び神前に向かい心の中で願い事を強く念じます。祈念神石はお守りとして持ち歩くか安置して日々、願い事を念じて下さい。尚、祈願成就の際は、祈念神石を新しい石とともに神前に奉還します。




社殿は小さいながらも格式があります。狛犬は「鈴昭和」と呼ばれ、木彫り神殿狛犬を元にして作られたものです。胸を張り喉に鈴があるのが特徴です。



ポイント1 古石場川親水公園

前のコースでは、関口橋から古石場川親水公園を出ましたが、今回は逆に関口橋から公園に入ります。

古石場川親水公園

牡丹一丁目から古石場二丁目までを流れる古石場川、約750mの水路を整備してつくられた古石場川親水公園。水路の両岸には、牡丹町の名にちなんで開かれた牡丹園、子供たちの歓声が響くジャブジャブ池、そしてかつての古石場の面影にちなみ様々な自然石を配置した石の広場などが続きます。護岸ギャラリーやサイクリングロードも設置され、人々の憩いの場として親しまれています。

ぼたん園

牡丹町という名にちなんで設置された30種470株からなる牡丹園。色鮮やかな牡丹の花が彩る風景に、心もふと安らいでいきます。

ジャブキャブ池

子供たちが安心して裸足で遊べるように、コンクリートでできたこの池は、水と太陽にたわむれるチビッ子の明るい声が響きわたっています。

石の広場園

江戸城を築城した時に石置場として使われた古石場。その歴史を裏付けるように、かつての石置場の面影を残して、たくさんの石の姿が見られます。




古石場川親水公園には、牡丹園が2ケ所あります。ひとつは前コースにあった関口橋手前の牡丹園で、もうひとつは更に規模が大きい石島橋手前の牡丹園です。

牡丹園

以前、この地域には、牡丹を栽培する屋敷が多かったという昔の面影とこの公園のある牡丹町の地名から、ここに牡丹園をつくりました。この牡丹園は古石場橋をはさんで二箇所設置されており、花期には美しい花を咲かせます。

              ボタン(牡丹)
  (学名) Paeonia suffruticosa Andr
  (別名) ハッカグサ、フカミグサ、ナトリグサ
(植物分類) ボタン科、ボタン属   (園芸分類) 花木、落葉、低木
(原産地)  中国北西部       (用途)   庭園、公園、鉢植え
(花ことば) はじらい、富貴・壮麗  (花期)   4月上旬〜5月上旬




牡丹園には沢山の種類の牡丹の花が咲き乱れています。一本一本の花に名札が付けられていますが、私にはサッパリ分かりません。

牡丹について

牡丹はその美しさから「百花の王」や「花神」、「富貴花」などと呼ばれ、春に咲く大輪の花は他の花々を圧倒する存在感があります。日本では「立てば芍薬、座れば牡丹」と、美しい女性を表すことわざにも用いられているほか、美術や工芸、詩歌などの題材でも用いられ、日本の文化に深く根付いています。原産は中国北西部で、日本へは奈良時代に伝わったとされ、当初は薬用植物として植えられていました。その後、平安時代以降からは観賞用として栽培されはじめ、以来、1000年を超える自然交雑や自家受粉を繰り返しながら、300品種以上ともいわれる数多くの園芸品種が生み出されています。




牡丹町公園脇の護岸には、沢山の壁画が描かれています。「古石場川護岸ギャラリー」と呼ばれています。子供達が描いた作品のように見えますが、れっきとしたアート作品です。何れの作品も30年近い月日が経って経年変化することによって、キャンバスとなっている護岸のコンクリートの素材感がより顕著になり、味淡い深い表情になっています。中には、ストリートアートも混じっているようです。



壁画の中には橋を渡っている都電の絵もあります。どこの橋かは分かりませんが。



古石場川が流れていた時代には、牡丹町公園と対岸のちどり幼稚園の間に橋が架かっていました。

ちどりばしの記憶

牡丹町公園とちどり幼稚園を結び、多くの人に親しまれてきた、ちどりばし。ちどりばしの記憶を残すため、橋名板を使用し記念碑としました。




公園が大横川に向かって直角に曲がるコーナーに「ジャブジャブ池」があります。象さんの滑り台があり、ウオーターダイビングができそうです。周囲は壁画に囲まれ、他では見られないユニークな水遊び場になっています。7月〜9月の期間中のみ利用できますので、今は閉じられています。



公園から石島橋に上がって、隅田川方向に大横川沿いの遊歩道を進みます。



桜も散り始めの頃となりましたが、名残の桜を愛でようと大横川には鈴なりの花見客を乗せたお花見クルーズの遊覧船が水面を進んでいます。



清澄通りが大横川を渡る地点に黒船橋が架かっています。黒船橋は、欄干に櫓風のデザインが施され、同様の装飾が橋上に建てられている街路灯のライトの部分にも取り付けられています。街路灯の足元に置かれているプランターも船の形をしていて、橋全体で統一された意匠がなされています。黒船橋の嬌名は、享保十七年(1732年)に浅草蔵前黒船町が火災にあった際、焼け跡が日除け地となったため、同町の住民が深川黒江町に移転して地名にしたことに由来するとか、戦国時代に徳川家康に勧誘されたウィリアム・アダムス(三浦按針)が黒船リーフデ号を係留したことに由来するとか、諸説があります。



橋の北詰には、門前仲町を始め江戸市中に建てられていたという火の見櫓を模したモニュメントが建っています。

門前仲町の火の見櫓

鉄骨造地上二階建、床面積23.43u、高さ9m

江戸時代、江戸市中には火災の早期発見のため多くの火の見櫓が立っていました。高さ三丈(約9m)ほどの櫓の上部には半鐘が取り付けられいち早く火災の発生を知らせてくれました。深川の南部にも佐賀町下の橋際(佐賀二)富吉町(永代一)門前仲町などに火の見櫓が立てられていました。なかでも門前仲町の櫓は今の門前仲町の交差付近、かつての富岡八幡宮一の鳥居近くにありました。周辺は永代寺・富岡八幡宮・三十三間堂といった江戸名所が集り、現在同様に門前町としておおいににぎわっていた場所です。この櫓は深川一の繁華街を守ると云う大きな役割をはたしていました。「災害のない街」を願う気持ちは今も昔も変わりません。




越中島橋を渡り、ヤマタネの対岸の遊歩道を大島川水門に向かって進みます。ヤマタネは、越中島に本社を置く倉庫業準大手で、米の卸売大手企業でもあります。創業者の山崎種二は、「米は味にあり」と語り、徹底した品質管理の下で「ヤマタネファミリーライス」が生まれ、全国に流通していきました。また、山崎種二は横山大観と親交があるなど近代日本画の収集家でもあり、現代日本画専門の山種美術館を設立しました。



永代河岸通りから、大横川を渡ってヤマタネのある越中島へ入るには練兵衛橋を渡らないといけませんが、この橋はヤマタネ専用の橋のため、一般の通り抜けはできません。



なので、越中島公園に行くには、練兵衛橋のすぐ横に架かっている人道橋の越中島連絡橋を渡るしかありません。



越中島連絡橋は、大横川が隅田川に合流する手前に架かっています。橋を渡ると、大島川水門が聳えています。

大島川水門の役割

大島川水門は、大横川と隅田川との合流地点に位置し、周辺地域を水害から守るための防潮水門です。大横川は江東三角地帯を流れる江東内部河川と呼ばれる川の一つです。高潮などにより隅田川の水位が上昇した時には水門を閉鎖し、高潮の侵入による江東内部河川の水位上昇を防ぎ、水害から地域を守ります。通常は江東内部河川への船の出入口として、閉鎖時には防潮堤として機能します。また、大きな地震があったときにも直ちに閉鎖して津波に備えます。




ポイント2 越中島公園

大島川水門の脇から越中島公園に入ります。越中島公園は、隅田川の派川(晴海運河)沿いの区立公園で、昭和四十六年(1971年)4月1日に開園しました。北は大島川水門から南は清澄通り(相生橋の袂)まで延びる南北に細長い公園で、ベンチが多数あり、夜間でもかなり明るいので、デートスポットとしても利用されています。越中島は、かって砲術練兵場として使用された歴史があります。嘉永六年(1853年)にペリー提督率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航し、嘉永七年(1854年)の神奈川条約締結を契機として、幕府は国土防衛と軍事調練の必要性を痛感しました。そこで、安政二年(1855年)に越中島新田・海辺新田・忍藩(武蔵国埼玉郡)の別邸の一部と寄洲を合併して幕府の訓練場を置きました。翌年越中島に砲術調練場を置き、さらに翌年武術調練場として越中島を埋立拡張しました。さらに埋立てを続けて講武所付調練場とし、ここで諸兵の調練を行いました。



公園からは、永代橋や中央大橋、対岸の大川端リバーシティ21の超高層住宅、場所によっては東京タワーなどの夜景、さらに運河を流れる屋形船などを見ることができます。



公園内は大きく4段に分かれ、上から3段はともにスロープでつながったバリアフリーになっていて、足腰の不自由な人や車椅子・自転車に乗りながらでも移動できます。上段はメインストリートで、子どもの自転車教習のための小型信号機や車線のほか、簡易な砂場や幼児と小学校低学年の子どもが水遊びできるじゃぶじゃぶ池などがあります。中段はベンチと草花に囲まれた静かな通りになっていますが、幅がやや狭くなっています。下段には水上バス「東京水辺ライン」の発着場があり、さらに立入り禁止となっていますが親水テラスもあります。



清澄通りに面した小広場に巨大な錨が保存されています。案内板がなかったので、どんな船で使われていたのか分かりませんでした。



正面に明治丸が見えますが、横断歩道がないので越中島通りの分岐点に架けられた歩道橋まで進みます。



歩道橋を下り、東京海洋大学の敷地に沿って清澄通りを進みます。東京海洋大学は、海洋の研究・教育に特化した大学です。平成十五年(2003年)10月に共に120年以上の歴史を持つ東京商船大学と東京水産大学が統合し開学しました。平成十六年(2004年)4月から学部生の受け入れを開始しました。工学部では乗船実習が義務となっています。旧東京商船大学は長年日本商船隊を支えた船乗りを輩出し、水産立国の礎を築いた旧東京水産大学とともに、現在でも海に関連する科学・工学的な専門分野における教育と研究でその良き先達となることを目指しています。越中島キャンパスには海洋工学部が置かれ、船舶職員の養成とロジスティクスの分野の教育と研究を行っています。海洋工学部(東京商船大学)の前身である私立三菱商船学校は、明治八年(1875年)11月に設立され、大正十四年(1925年)に東京高等商船学校に改組されました。海洋科学部(東京水産大学)の前身である大日本水産会水産伝習所は、明治二十一年(1888年)に設立されました。両学部とも120年以上の歴史を持っています。当初、商船学校は永代橋袂の霊岸島(現在の中央区新川)に繋がれた成妙丸を校舎としていましたが、後に水産伝習所の校舎があった越中島に移設されました。東京高等商船学校は明治・大正・昭和を通して難関校として有名で、俗に「陸士・海兵・高等商船」と受験生から呼ばれ、陸軍士官学校・海軍兵学校と並び称されるほど全国から秀才が集まっていました。



構内にお邪魔します。ドーム型の古めかしい2棟の建物が見えます。



手前には、第二観測台があります。

東京商船大学旧天体観測所
(第二観測台)

明治三十六年(1903年)6月建設。現存する日本最古の天文台と推定されている。内部は子午儀(Transit)を備え、授業や天体の観測に利用されていた。平成九年(1997年)12月国の登録有形文化財に指定された。また、令和三年(2021年)日本天文学会より日本天文遺産として認定された。

Tokyo University of Mercantile Marine old celestial observatory
(Second Observatory)

It is estimated to be the oldest existing astronomical observatory in Japan. It was constructed in June, 1903. The observatory has a meridian transit and was used for classes and astronomical observations. The building was registered as a tangible cultural asset in December, 1997.




奥には、第一観測台があります。

東京商船大学旧天体観測所
(第一観測台)

明治三十六年(1903年)6月建設。現存する日本最古の天文台と推定されている。赤道儀室と呼ばれ、内部には東洋一と言われた天体望遠鏡を備え、教育研究に使用された。建物は平成九年(1997年)12月国の登録有形文化財に指定された。また、令和三年(2021年)日本天文学会より日本天文遺産として認定された。

Tokyo University of Mercantile Marine old celestial observatory
(First Observatory)

It is estimated to be the oldest existing astronomical observatory in Japan. It was constructed in June, 1903 as an equatorial observatory to be used for education and research. The observatory had an astronomical telescope, which was said to be the most advanced telescope in the Orient at that time. The building was registered as a tangible cultural asset in December, 1997.




「精神不滅碑」が建っています。戦時中ということもあって、賞賛されたのでしょう。

精神不滅碑

太平洋戦争中の昭和十九年7月と8月、清水高等商船学校学生3名は不屈の精神を持って遠泳訓練に挑んだが、数日来の豪雨の影響もあり、最後まで泳ぎ着いたものの力尽きて死亡した。この碑はその敢闘精神を記すため、昭和十九年(1944年)11月に清水で建てられ、越中島に移された。

The Monument of Spiritual Eternity

During the Pacific War, three students of the Shimizu Nautical College were dead after a long-distance swim training. In 1944, this monument was built in memory of their challenging spirit.




招魂碑も建っています。こちらは学生が乗船した船が難破したようです。

招魂碑

東京商船学校生であった田副重右衛門は、英国船に乗船して米国に渡る途中暴風雨に遭遇して死亡した。この碑は僚友たちが出資して明治二十一年10月に建てられ、題字は逓信大臣榎本武揚の篆書である。平成五年(1993年)江東区有形文化財登録。

The Monument in Memory of Ascension of Juemon Tazoe

He was a student of the Tokyo Nautical School and passed away in a rainstorm while aboard a British ship, This monument was built by his colleagues in memory of their dead friend. In 1993, it was registered as a Koto-ku tangible cultural property.




こちらの石碑は、先生を慕った門弟達によって建てられたものです。

G.E.O.ラムゼー功徳碑

ラムゼー(1839年〜1885年)先生は、明治九年(1876年)6月から6年間本学の前身校である三菱商船学校で航海術を教えた教員で、優れた人格・識見に対する尊敬と称賛の念を込め、没後の明治十九年(1886年)門弟達により碑が建立された。平成五年(1993年)江東区有形文化財登録。

The Monument in Memory of Charity of George E.O.Ramsey

This monument was built in memory of George E.O.Ramsey in 1886. He had greatly contributed to sailor training as a professor in the Mitsubishi Nautical School for six years since 1876.




古びたコンクリート塀に何やらプレートが貼り付けてあります。塀がくすんでいるのは年月のせいばかりではなく、空襲時の炎のせいかもしれません。

東京大空襲のときに構内の樹木を守った塀

清澄通りに面したコンクリート製の塀は関東大震災後につくられました。昭和二十年(1945年)3月10日の東京大空襲のときには、通りの向かいにあった糧秣廠が焼けて炎が大学の敷地に降りかかり、構内の樹木は燃えてしまいましたが、この塀によって根元の部分は守られました。そのため焼けた樹木も生き返り、現在のような大木になっております。平成二十四年(2012年)6月29日にアルミ鋳物製の柵として改装された際、構内の樹木を守った塀として一部残すことにしました。

Portion of the original fence that protected the campus trees from the Great Tokyo Air Raid

The original concrete fence was built after the Great Kanto Earthquake. On the 10th of March 1945, when the Great Tokyo Air Raid erupted, many of the trees in the campus were burnt down by the blazing fire from a food-storage warehouse on the other side of the Kiyosumi Street. Thanks to this fence, however, the roots of the trees were not damaged, and new trees grew again. On the 29th of June 2012, when the original concrete fence was replaced with a new aluminum fence, this part of the old fence was intentionally left unremoved to commemorate its role as the protector of the campustrees.




東京海洋大学は晴海運河に面しています。その一画に明治丸記念館があり、巨大な帆船の明治丸が保存されています。明治丸は、明治政府が英国グラスゴーのネピア造船所に燈台巡廻業務用に発注し、明治七年に竣工した鉄船(現在の船はすべて鋼船)で、翌明治八年に横浜へ回航されました。一等飛脚船同様の出来と言われたこの船は、特別室やサロンを備えた豪華な仕様の新鋭船で、単に燈台業務ばかりでなく、ロイヤルシップの役目も兼ねていました。明治天皇はじめ多くの高官が乗船し、わが国近代の重要な場面で活躍しました。なかでも明治八年、小笠原諸島の領有権問題が生じた際に、日本政府の調査団を乗せ、英国船より早く小笠原に到達しました。このことによって、小笠原諸島はわが国の領土となったのです。その後の沖ノ鳥島・南鳥島の領有を含め、日本は領海と合わせて世界第6位となる447万平方キロメートルの排他的経済水域を確保することとなりました。その約3分の1に当たる約150万平方キロメートルが東京都小笠原村に属しています。また、明治九年、明治天皇が東北・北海道巡幸の際、青森から乗船され函館を経由し7月20日に横浜に安着されました。この日を記念して昭和十六年に「海の記念日」が制定され、平成八年に国民の祝日「海の日」となりました。およそ20年間を燈台巡廻船として活躍した明治丸は、明治二十九年年に商船学校(東京海洋大学の前身)に譲渡されました。それからは係留練習船として昭和二十年までの約50年間に、5000余人の海の若人を育てました。大正十二年の関東大震災や、昭和二十年の東京大空襲では、被災した多くの住民を収容し、災害救援にも貢献しています。昭和五十三年には、わが国に現存する唯一隻の鉄船であり、鉄船時代の造船技術を今に伝える貴重な遺産として、国の重要文化財に指定されました。船としての重要文化財指定は明治丸が初めてです。その後、老朽化が進んだため、再び平成二十五年12月より、東京海洋大学と文部科学省により大規模修復工事が行われました。平成二十七年3月に竣工し、その美しい姿がよみがえりました。手前の案内板の文字は読み取れませんが、恐らく以下の内容と思われます。

重要文化財明治丸について

本船は明治の初頭に、我国政府が英国に発注して建造した豪華な灯台視察船であった。明治六年にグラスゴー市のネピア造船所において建造が開始され同七年(1874年)十一月に竣工、翌八年初頭に出港し同年二月、横浜港に到着した。建造当時は、二本マストのトップスル・スクーナ型帆装鉄造汽船で総トン数1028トン、長さ73米、幅9米、機関は往復動汽機二基の双螺旋船、実馬力1530馬力、平均速力11.5ノットを誇っていた。明治九年(1876年)の夏、明治天皇は東北巡幸に際し、青森から本船に座乗され、函館経由七月二十日無事横浜港に帰着された。「海の記念日」はこの日に因んで昭和十六年に制定されたものである。当時の御座所跡は現在も残っている。爾来、本船は約二十年間灯台視察船として活躍したが、明治二十九年(1896年)十月、当時霊岸島にあった商船学校(本学の前身)の係留練習船として貸与され、その沖合(現在の永代橋下流)に係留された。翌三十年十一月、本校に移管された後三木マストのシップ型に改装され、明治三十四年(1901年)十二月、越中島のこの地に定係された。本船が商船学校の神聖な教場として活用されたのは昭和二十年八月に至るまでの五十年間で、この船を?なる船として巣立った海の若人の数は万人に達する(?)。この間、明治四十四年および大正六年には来した猛台風による高波で提座したり、大正十二年九月の関東大震災、さらに昭和二十年三月の東京大空に遭遇するなど数々の試練や災禍に対しても、この地と共に耐えぬき災者を収容するなど江東の人々からも信頼と敬愛を得てきた。終戦の年の九月、越中島の学舎と共に進駐軍に接収され、不幸にも本学の管理も出来ないままに荒廃し遂に昭和二十六年(1951年)漏水のためボンド内に沈座するに至った。その後漸く接収が解除されるに及んで、これを引 掲げ、昭和三十五年(1960年)の本学八十五周年記念事業、さらに昭和五十年(1975年)の百周年記念事業の一環として、同窓有志や海運業界・海事諸団体等の芳志・支援によって本船復元の第一歩が踏み出された。明治丸は現存する唯一の鉄船(現在の船は総て鋼船である)であり、我が国造船技術史上の貴重な遺例として昭和五十三年(1978年)五月、船としては初めて国の重要文化財に指定され、昭和五十五年(1980年)四月から文化庁及び本学の協力により本船の保存修復及び基盤整備工事が行われ昭和六十三年(1988年)一月に完工した。明治丸は、ここにその優美な姿を再現し、永久に保存されるとともに、その栄光の歴史が語り継がれることになった。




相生橋は隅田川派川に架かる橋で、上流の永代橋に相対する橋として名付けられました。形式は、大正八年に市電を通すため改築した先々代の橋の姿にならい、トラス橋としました。トラス橋は、細長い部材を三角形に組みたでて橋桁とした橋です。新しい相生橋は、隅田川や中の島公園とともに多くの人々の憩いの場として親しまれるよう整備されました。橋の長さは149.1m・幅員36.8mです。平成十年12月19日に全線開通しました。

相生橋

佃島が埋立てられて月島となって人々が住む町が開けるとともに、交通の便や水道が必要になった。そこでまず深川との間にこの相生橋が架けられた。明治三十六年(1903年)のことであった。その後改修され、中の島で大橋と小橋とに分かれるようになった。隅田川がここで左右に大きく分岐するところの左側にあたっていて、川が湾曲するため、上流から流れてきたものが滞留したところである。関東大震災の時も、今次の大戦の空襲のあとにも、さまざまなものが山のように集まった。ことに震災の時までは木橋であったため、橋も延焼した。現在の橋は、大正十五年(1926年)11月に、 震災復興事業の最初の架橋として完成した。




相生橋の下に中の島公園があります。中の島公園は隅田川の中にある水上公園で、川の景観と東京海洋大学(旧東京商船大学)および大学構内に保存されている日本最古の帆付汽船、明治丸(国指定重要文化財)が望める憩の場となっています。園内には、潮の干満によって変化する潮入りの池や、飛び石が潮にひたる渡桟橋などもあり、釣り人や夕涼みに訪れる人が多くいます。

中の島公園

中の島は明治三十六年(1903年)、越中島と佃島を結ぶ相生橋が架けられた時に中継地点となった島です。当時、中の島から佃島側に相生大橋、越中島側に相生小橋の二つの木橋が架けられていましたが、大正十二年(1923年)、震災により焼失してしまいました。昭和二年(1927年)、 相生橋の再建の後、中の島は隅田川唯一の水上公園として整備されました。当時はその珍しさから非常な賑わいをみせました。また、相生橋は木橋のころから月見の名所といわれていました。その後、中の島公園は隅田川の水質汚濁などにより訪れる人も少なくなり、昭和四十八年(1973年)にいったん閉鎖されました。しかし、水質改善がみられた昭和五十五年、隅田川の水を入れ潮の満ち干により水位が変わる感潮池(潮入の池)や、島の南北をつなぐ渡桟橋を設置し、釣りや夕涼みのできる見晴らしのよい公園として再び開園されました。この度、中の島公園は相生橋の再度の架け替えにともない、ハギ・ススキを植栽するなど新しく整備されました。中の島公園と商船大学・明治丸は、昭和六十三年の区民投票により、江東八景のひとつに選ばれています。




初見橋交差点の手前にド派手な看板の「肉のたかさご」があります。昭和二十二年に「高砂牛肉店」として創業して以来、基本方針である「品質本位」を掲げ、精肉店として70余年、初代の教え「一両の客より十文の客を大切にせよ」の教えをもとにお客様に寄り添って今日まで営業しているとのことです。特に、「東京やき豚」と「ローストビーフ」は東京みやげの新定番として好評なようです。JALショッピングでも取り扱われています。ローストビーフに惹かれるのですけど、今日のところはパスします。



初見橋交差点脇から新月陸橋の長いスロープを上がります。新月陸橋は、佃大橋と朝潮大橋を高低差なく繋ぐために架けられた陸橋です。新月陸橋は徒歩で渡ることができませんので、佃大橋と朝潮大橋を通して歩く歩行者は一旦新月陸橋の下の歩道に下りて歩く必要があります。東京マラソンを走った際には、車道がコースになっていましたので、朝潮運河を渡りきるまで佃大橋が続いているものとばかり思っていました。ヘロヘロでそんなことを考える余裕がなかったこともありますが。



スロープを上がり切ると、そこから朝潮大橋が始まります。朝潮大橋は朝潮運河に架かる橋で、橋長は240mあります。



朝潮運河と晴海運河の合流点には、佃水門が設置されています。朝潮大橋のすぐ脇にありますので、かなり迫力があります。



春海橋西交差点を横断し、晴海運河を春海橋の南側歩道で渡ります。



ポイント3 晴海橋梁

春海橋と並行して架けられている晴海橋梁ですが、2022年に訪れた時と2025年に再訪した時で、橋の外観が随分と変わっています。2022年に訪れた時の告知板には以下のように記されています。

令和二年度旧晴海鉄道橋耐震補強工事のお知らせ
休日確保評価型施行工事

旧晴海鉄道橋につきまして、耐震補強工事を行っております。この工事では、現場案内図の赤く着色した部分を施工いたします。工事期間中は、ご不便をおかけすると思いますが、安全に十分に注意し早期完成を目指して施工しますので、ご理解とご協力のほど、よろしくお願いいたします。

【旧晴海鉄道橋の概要】
  • 旧晴海鉄道橋は、昭和三十二年(1957年)に貨物輸送を目的に臨港鉄道東京都専用線として豊洲〜晴海間に架設され、平成元年(1989年)まで使用されていましたが、輸送革新が進み、鉄道輸送からトラック輸送に変わり現在は閉鎖され利用されていません。
  • 中央のローゼ橋、その両側にある連続PC桁は、鉄道橋としては日本初であり、歴史的価値のあるものとなっています。
  • 本橋の歴史的な価値を残しつつ遊歩道にするため、まずは耐震補強を実施していきます。
  • 橋長:190.3m 幅員:3.8m 形式:ローゼ橋(中央部) PC橋(両側部)




2025年に再訪した時の告知板には以下のように記されています。竣工は、令和七年(2025年)6月27日の予定だそうです。

令和五年度旧晴海鉄道橋遊歩道化工事のお知らせ
休日確保評価型試行工事

旧晴海鉄道橋において、「遊歩道化工事」を行っております。この工事では、現場案内図の赤く着色した部分を施工いたします。工事期間中は、ご不便をおかけすることもあるかと思いますが、安全に十分注意して早期完成を目指して施工いたしますので、ご理解とご協力のほど、よろしくお願い致します。




晴海橋梁の歴史と、遊歩道化の概要について案内板が立っています。

東京都専用線の歴史

東京港の専用線は、東京市が昭和五年に汐留駅から芝浦駅までの間、敷設したことがはじまりです。その後昭和二十八年に深川線が敷設され、さらに晴海線、芝浦線、日の出線と増設され、総延長は24km余まで伸びました。昭和四十年代の高度経済成長期には、石炭、コークス、塩、新聞巻取紙、米、小麦、みかん等生鮮食品にいたるまで取扱貨物量も170万トンに達しました。しかし、昭和五十年代に入り輸送革新が進み、陸上貨物は鉄道輸送から自動車輸送に移り、取扱貨物量が年々減少してきたため、昭和六十年に芝浦・日の出線を、昭和六十一年には深川線、平成元年に晴海線が廃止され、東京港と全国JR鉄道を結び貨物輸送に貢献してきた東京都専用線は半世紀にわたる使命を終えました。

東京都専用線の晴海線の一部として開通した旧晴海鉄道橋は当時の名残として残っており、全長190.3mの橋梁はここ春海橋公園から見渡すことができます。




遊歩道化の概要です。

〜旧晴海鉄道橋を遊歩道として生まれ変わらせます〜

<鉄道橋の概要>
旧晴海鉄道橋は、東京港における貨物輸送のために整備した「臨港鉄道東京都専用線晴海線」の一部です。昭和三十二年に晴海線が開通し、高度経済成長の中、主に、小麦やロール紙など数多くの貨物を運んでいました。しかし、鉄道輸送からトラック輸送への転換などもあり、平成元年にその役目を終えました。本橋は、鉄道橋として日本初のローゼ橋及び連続PC桁で整備された歴史的鉄道遺構です。

<遊歩道化に向けて>
豊洲、晴海では、水辺空間の整備が進み、この水辺空間をつなぐ架け橋として、歴史的鉄道遺構である本橋を遊歩道として生まれ変わらせます。有識者等の意見も踏まえながら、本橋の歴史的な価値を残しつつ、レールを歩道部に埋めて活用し、またバリアフリーにも配慮した魅力的な遊歩道を整備します。




ポイント4 アーバンドック ららぽーと豊洲

「三井ショッピングパーク アーバンドック ららぽーと豊洲」は、平成十五年(2003年)3月に閉鎖となった旧石川島播磨重工業(現在のIHI)東京第一工場跡地であるアーバンドック内に建設され、平成十八年(2006年)10月5日にオープンしました。



ららぽーと豊洲は、造船ドック跡地を取り囲むように配された「4艘の船」をモチーフに、海辺のリゾート的な非日常感を味わえるよう構想されました。施設内部の店舗を繋ぐメインモールは、3層吹き抜けとトップライトにより、来訪者は館内に居ながら明るく開放的な印象を持つよう設計されています。海に面した絶好の場所に位置し、人気セレクトショップからインポートブランド、こだわり雑貨まで約180店舗のショップやレストランからなる大型商業施設です。「キッザニア東京」、夕陽やレインボーブリッジの夜景が美しいレストランやバーラウンジ、12スクリーン・1、770席の「ユナイテッド・シネマ豊洲」、平成二十四年(2012年)にリニューアルしたインテリアショップ集積ゾーン「リビングスクエア」、東京湾と豊洲公園を間近に臨む都内随一のロケーションが人気のフードコート「マリーナキッチン」(670席)など、多様なテナントが入居しています。



ららぽーと豊洲の敷地内には、かっての造船ドックの様々な設備が産業遺構として残されています。



巨大なクレーンが目を惹きます。

モニュメントクレーン

NO.2ドッグで使用されていたクレーンをモチーフに製作したモニュメント。




かっての係留ビットは腰掛けになっています。

係留ビット

港に船をロープでつなぎ止めておくときの柱として使われていました。スツールとして再利用しました。




広場にブロックで埋められた跡があります。それぞれの表面には、かって造船所で建造されたであろう船の名前と建造年らしき文字が記されています。

クレーン等の電気系統の配線を埋めていた部分。



庭園も設けられています。

動植物が共存する自然豊かな庭園
ビオガーデン

「ビオトープ」という言葉を聞いた事がありますか?「ビオトープ」とは「BIO(生物)」と「TOPE(場所)」を合わせた言葉です。この考え方を取り入れたのが、アーバンドックららぽーと豊洲の「ビオガーデン」。ここでは四季折々の草花の中で、様々な生き物たちが一緒に暮らしています。そして「ビオガーデン」は、私たちの近くにいる生き物を守る意味もあります。生き物といつまでも仲良く暮らし、新しい命が生まれる瞬間や子育ての姿に触れて感動する。その素敵な喜びを「ビオガーデン」から感じてください。

ビオガーデンにはどんな生物が住んでいるの?

メダカ
メダカは「絶滅危惧種生物」(いなくなるかもしれない生き物)に指定されています。メダカは大きくなっても4cmくらいにしかならない日本で1番小さい淡水魚(川や池などに住む魚)です。体は細長く背中は平らで口は上を向き、大きな目が顔の上の方についています。このような特徴は水の表面でエサを採ることの多い、メダカの生活に適したものです。

ヌマエビ
体長2cmくらいのエビ。小さいから探しづらいかもしれませんが、ミズクサや石の影に隠れていますので、見つけてみましょう。

ヤゴ
トンボの子供。小さい池の泥の中に隠れています。どんなトンボに育つのでしょうか?楽しみです。

昆虫
野草の草地にはバッタやカマキリやチョウが隠れているかもしれません。




ららぽーと豊洲に隣接して豊洲公園があります。公園からは、晴海大橋や豊洲大橋が眺められます。



豊洲公園は、広大な芝生広場・カラフルな遊具やじゃぶじゃぶ池などが整備された子ども広場・サルスベリなどによる花木とモニュメントの広場等から構成されています。



公園内の樹木は旧豊洲公園から移植され、広場にはかって造船工場で使われていたイカリやオモリなどがモニュメントとして展示されています。

豊洲公園の産業遺構モニュメント

豊洲は大正後期から昭和初期にかけての埋立事業によって生まれた街です。この地域には、昭和初期に石川島造船所の造船工場等が立地し、日本の造船産業の発展に大きく貢献してきました。この地域の歴史を未来に受け継ぐため、豊洲公園・花木とモニュメント広場には、造船工場等で使用されていた様々な産業遺構を活用したモニュメントが設置されています(右図参照)。また、豊洲公園以外にも豊洲二、三丁目の各所に、この地域の産業遺構を活用したモニュメントが設置されています。

@係留柱
港に船をロープでつなぎ止めておくときの柱として使われていました。スツールとして再利用しました。

A錘(オモリ)
資材や道具などを持ち上げる、クレーン滑車のオモリとして使われていました。ユニークな形のペンチとして再利用しました。

B錨(イカリ)
船を一定の場所に留めておくため、鎖をつけて海底に沈めるオモリでした。爪が底に食い込むよ うになっています。鎖とともにモニュメントとして再利用しました。

C車輪・レール
資材や道具を運搬するトロッコ列車の車輪と、レールとして使われていました。ベンチとして再 利用しました。




ポイント5 がすてなーに ガスの科学館

緑の丘のような不思議な形をした「がすてなーに ガスの科学館」は、エネルギーやガスの秘密を探検したり、クイズや実験にチャレンジしたり、暮らしを支えるエネルギー・ガスの役割や地球環境問題を楽しみながら理解出来る入館無料の施設です。



館内は、「理解する」「体験する」「発見する」など7つの展示ゾーンに分かれていて、エネルギーやガス、地球環境問題について分かりやすく学習できる工夫が凝らされています。また各フロアでは専門のコミュニケーターがサポートしていて、子どもの気付きや疑問にも答えてくれます。その他土・日・祝日に開催する体験型プログラムや季節のイベントなどもあります。愉快でかわいいキャラクター「プカ」「ポカ」「ピカ」と一緒に、 ガスの不思議な世界を、見て・聴いて・体験してみましょう。



施設には、「屋上緑化」によるヒートアイランド緩和や省エネ、「太陽光発電」「エネファーム」など最新のエネルギー設備が導入されています。面積2、567uの丸屋根の全面に人工土壌を敷き、野芝を植え、緑の丘を再現しています。屋上緑化により、ヒートアイランドの緩和や、省エネを可能にするとともに、景観との調和も図っています。南の方角に見える円筒形の建物は、「ビッグドラム」の愛称を持つテプコ豊洲ビルで、地下には新豊洲変電所があります。



また、屋上の芝生広場からは、都市と海と大空の360°の大パノラマが愉しめます。晴海運河に架かる晴海大橋とその先の豊洲大橋も眺められます。



先ほど立寄ったららぽーと豊洲と豊洲公園も眼下に見えます。



豊洲駅前バス停広場の隅に「白虎」の像が天を睨んでいます。「四神」とは、中国で古代から伝えられてきた天の四方(東西南北)を司る霊獣で、
北=「玄武」
東=「青龍」
南=「朱雀」
西=「白虎」
とされています。江東区には四神をモチーフにしたモニュメントが区内の東西南北各地域に配置されています。江東区最後のコースである「深川・豊洲水辺散策」は江東区の西側を巡りますので、四神のうちの「西=白虎」の守備範囲です。なので、白虎のモニュメントが豊洲駅前広場に面して置かれているのです。

白虎(びゃっこ)

天の四方の方角をつかさどる神のうち、西の方角を守護するといわれる。中国古代の思想に由来する「四神(しじん)」のひとつ。




白虎は天空の西の守護神として、金運を逃がさぬように睨みをきかせて悪運を退散させ、身を守り安心をもたらすといわれています。また変化や移動を司る神様としても崇められ、白虎の気を宿すと優れた行動力を発揮できると考えられています。月の女神の化身とも伝えられ、子宝・安産の神様という面も持ち合わせている強さと優しさを兼ね備えた四神といえます。



ゴール地点の東京メトロ豊洲駅出入口7に着きました。



ということで、江東区で最後の「白虎M深川・豊洲水辺散策」を歩き終えました。次は墨田区で最初のコースである「@すみだの四季を感じる美しい自然と名所をめぐるコース」を歩きます。




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