@すみだの四季を感じる 美しい自然と名所をめぐるコース  

コース 踏破記  

今日は墨田区の「@すみだの四季を感じる 美しい自然と名所をめぐるコース」を歩きます。とうきょうスカイツリー駅正面改札口から大横川親水公園を進み、紅葉橋から能勢妙見山別院と若宮公園を訪れます。その後、横網公園の中にある東京都復興記念館で震災と戦災の悲惨な写真・遺構に目を奪われます。最後は両国駅界隈で大相撲の雰囲気に浸ります。最初に歩いたのは2022年の3月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年4月に改めて歩きました。

@すみだの四季を感じる 美しい自然と名所をめぐるコース

すみだを代表する観光スポット両国と東京スカイツリーをめぐるコース。ウォーキングをしながら、四季の美しい自然と名所も楽しめます。

「@すみだの四季を感じる 美しい自然と名所をめぐるコース」の歩行距離は約3.3km(約4、700歩)、歩行時間は約50分、消費カロリーは約150Kcalです。

スタート地点:東武スカイツリー線とうきょうスカイツリー駅正面改札口
ポイント1 能勢妙見山別院
大阪の「能勢妙見山」唯一の東京別院。勝海舟が篤く信仰をしていたことでも知られ、境内には胸像があります。四季の花々も見どころです。
ポイント2 若宮公園
園内には子ども用遊具のほかに健康遊具があり、大人も運動を楽しめます。また、牛嶋神社の摂社もあります。
ポイント3 刀剣博物館(旧安田庭園内)
数多くの日本刀を保存・公開し、日本刀文化を発信する博物館。館内には休憩スペースもあります。
ポイント4 国技館
大迫力の大相撲観戦ができる相撲の殿堂。2020年に開催する東京オリンピックではボクシングの競技会場になる予定です。

ゴール地点:JR総武線両国駅西口


スタート地点の東武スカイツリー線とうきょうスカイツリー駅正面改札口から歩き始めます。2022年に訪れた時は、駅の入口に煌びやかな装飾がされていましたが、2025年に再訪した時は道路側の入口は閉鎖され、高架の下に新しい入口ができていました。ソラカラちゃんとテッペンペンちゃんとスコブルブルじいさんが並んだキャラクターはスカイツリーの玄関駅として相応しいデコレーションだったんですけどね。


左が2022年当時の駅入口、右が2025年現在の駅入口です。


でも、スカイツリータウン入口の階段脇には、3人(?)のキャラクターが健在です。



東武橋の手前に、北十間川に沿って「おしなり公園」があります。公園の名前は、東京スカイツリーのすぐ下に広がる商店街のイメージキャラクター「おしなりくん」に因んでいます。商店街が位置する押上・業平橋地区の「押(おし)」と「業(なり)を合成して命名されました。おしなりくんは、大横川に架かる業平橋の名前の由来となった平安の歌人在原業平をモチーフに、タワーをイメージした烏帽子姿をしていて、性格は朗らかで優しく、何事にも誠実、得意なことは誰でも笑顔にすることです。



東武橋南詰の小広場から見上げたスカイツリーが一番見応えがあります。



業平橋の手前から大横川親水公園に入ります。大横川は、墨田区・江東区を流れる運河です。かつては流域により亥の堀川や大島川と呼ばれていましたが、1965年の河川法改正により大横川に統一されました。ただし、派流である大島川西支川・大島川東支川・大島川水門などは改称されていません。かつて亥の堀と呼ばれていたのは、小名木川から木場までの区間です。墨田区の業平橋付近で北十間川から分流し南へ流れ、竪川・小名木川・仙台堀川と交差し、横十間川と合流します。江東区木場付近で西に流路を変え、大横川南支川(大横南川支流または大横川南川支流ともいわれていますが、大横川南支流が正しそうです)を分流し、平久川と交差します。江東区永代で大島川西支川を合わせ、その先で隅田川に流入します。

大横川親水公園

大横川を整備した総延長1、800mの親水公園です。錦糸町と押上、業平を結び、橋などを境としてエリアごとに人工のせせらぎや釣堀、広場など特徴ある施設が設けられています。

Oyokogawa-shinsui Park

Oyokogawa-shinsui Park is a water park with the well-maintained Oyokogawa River of a total length of --1,800 meters. The park connects Kinshicho, Oshiage, and Narihira. Within each area divided by a bridge or other borders, you will find unique facilities such as an artificial brook, a fishing hole, and an open space.




公園の中に案内板が立っています。

大横川親水公園案内図

施設の概要
この公園は、大横川の一部を埋め立ててできた親水公園です。公園の大きさは、幅30〜40m、長さ1.85km、面積約63,000平方メートルで、墨田区の中心を流れる北十間川との分流地点から、墨田区の南側を流れる堅川との合流地点までの区間となっており、平成五年(1993年)4月1日に開園しました。園内は北から5つのゾーンに区分され、それぞれ色彩豊かな花の広場と釣堀(釣川原ゾーン)、子供たちがじゃぶじゃぶと遊べる水路(河童川原ゾーン)、緑豊かな渓谷と多様な生き物が生息するビオトープ(花紅葉ゾーン)、開放感のあるイベント広場(パレットプラザゾーン)、様々なスポーツが楽しめる広場(ブルーテラスゾーン)の特徴を持っており、公園利用者へ貴重な憩いの空間を提供しています。

歴史と沿革
大横川の歴史は、明暦三年(1657年)の江戸最大の火災といわれる大火から始まりました。江戸幕府は、復興の際、火除地等の確保のため、家屋の転移を図り、河川を掘り開き橋を架け、土地の整備を行いました。このとき掘られた河川の一つが大横川で、本所地域を南北に貫通しており、近年まで舟運・材木の貯留など産業経済の発展に貢献してきました。しかし、道路・鉄道の整備や経済環境の変化によってかつての機能は失われ、昭和五十六年(1981年)から大横川の埋め立てが進められました。その後、緑と清流を復活させ、豊かな自然を楽しめる憩いの空間づくりを基本に公園整備を行い、平成五年(1993年)に完成しました。横川という名前の由来は、江戸城に対して横の方向に流れていることからきています。その後、昭和四十年(1965年)施行の河川法により水系を一にしていた大島川とつなげて、大横川と呼ばれるようになりました。




大横川親水公園魚釣場は、昭和五十七年にヘラブナ釣りが楽しめる親水公園の主要施設として設置されました。延長約130m・幅8m・水面面積約1、040uで、墨田区では隅田公園魚釣場(円周約80m・水面面積約240u)と共に貴重な区営の釣場となっています。しかし、利用者の低迷や区外利用者の増加によって現状の見直しが行なわれ、令和八年度に全面リニューアルが予定されています。令和九年度からは現在の1/2から1/3程度の規模に縮小され、かつ有料施設として運営されることになりました。尚、隅田公園魚釣場は令和八年度末をもって閉鎖され、墨田区の魚釣場は大横川親水公園に集約されます。



親水公園の上空に陸橋が架かっています。その脇に、かって大横川に架かっていた平川橋のトラスと嬌名板が保存されています。

平川橋落橋記念碑

ここにあった平川橋は、長さ28.17m、幅13.37mの鋼橋(鋼単純ワーレントラス橋)で、関東大震災の復興事業により昭和四年に架けられました。太平洋戦争時には、金属供出のため高欄が撤去されましたが、戦後の昭和二十七年には復旧されました。その後も定期的に補修を続けてきましたが、老朽化が進行したため架橋後82年が経過した平成二十三年にその役目を終えて撤去し、新たに道路として整備しました。永い間、親しまれた本橋の面影を慕い、橋名板とトラスの一部を遺してその歩みを記します。




暑い季節になると子供連れで賑わうのがじゃぶじゃぶ池です。水深は浅いですが、小さな子供達にはちょうど良い遊び場です。夏は子供達で溢れるのですが、今は新緑の季節で閑散としています。

大横川親水公園じゃぶじゃぶ池

北はスカイツリーのふもと付近から始まり、南のJR錦糸町駅付近まで約1.8kmにわたって伸びる「大横川親水公園」。水遊びを楽しめるのは、北の入口から300mほど歩いたエリアです。流れも楽しめる小川はゆったりとした幅があり、水量もたっぷり。地面は歩きやすく水深が浅い場所もあるので、きょうだい一緒に楽しめますよ。1年を通じて水が流れていて、夏にはシャワーも使えます。




大横川親水公園に面して、幅広い階段の上に「すみだパークギャラリーささや」があります。平成二十五年(2013年)にオープンし、「野菜を楽しもう!」がコンセプトのオーガニックカフェで、メニューは動物性のものを一切使わないヴィーガンフードが中心です。飲み物やマフィン・スコーンなどの軽食から、カレーやサンドイッチといった食事も提供しています。「ささやカフェ」がある「すみだパークプレイス」の街区は、水飴製造業の「ささや」の工場跡地です。敷地内には劇場や芝居・ダンスの稽古場・ギャラリーなども設けられていて、カフェにもイベントスペースが併設されています。「すみだパーク」の名前は、これらの施設を含んだ街区全体の愛称でもあります。カフェとなっているのは昭和四十年代に建てられた倉庫をリノベーションした建物で、背の高い切妻屋根が2棟連結した建物が印象的です。天明二年(1782年)に日本橋で創業した「ささや」がこの地に移転し、戦後倉庫業に転換してから貸し倉庫として使用されていました。カフェの名前にはこのような歴史も受け継がれています。倉庫からカフェに改装するに際し、大横川親水公園は公園であると共に法律上は河川扱いとなっているため、一定以上の高さの堤防を設けなければならず、しかも公園に出入口を設けるなど通常では認められない状態でした。そんな折りにスカイツリーが開業し、公園を通る回遊者の増加が見込まれていましたので、行政もカフェの存在が公園の魅力向上につながるいう認識で一致し、店内のトイレを公園利用者に開放することなどを条件に、カフェが「公園の一部」として認められることになったということです。



公園の壁に奇妙な壁画が描かれています。本所七不思議について描かれているようで、文字も絵もおどろおどろしい感じです。

本所七不思議

本所七不思議は、墨田区の本所に江戸時代ころから伝承される奇談・怪談です。江戸時代の典型的な都市伝説の一つであり、古くから落語など噺のネタとして庶民の好奇心をくすぐり親しまれてきました。いわゆる「七不思議」の一種です。



送り拍子木(おくりひょうしぎ)
入江町の時の鐘は、大横川沿い北辻橋近くにありましたが、この鐘近くで夜回りをしていると、どこからともなく拍子木のカチカチという音が聞こえてきた。




足洗邸(あしあらいやしき)
両国のあたりに「足洗い屋敷」という大きな屋敷がありました。 その屋敷では、深夜になると突然「足をあらえ〜」 といって大きな血まみれの足が天井から降りてきました。 屋敷中の下女が集まってきれいに足を洗ってやると、 そのまま天井裏へ帰っていくのです。 ところが、そのまま足を洗わずにいると、 夜が明けるまで屋敷中を暴れ回ったということです。




燈無蕎麦(あかりなしそば)(別名:消えずの行灯(あんどん))
南割下水のあたりに毎夜出る二八そば屋のあんどんは、一晩中ともり、消えたのを見た者がないということです。




狸囃子(別名:馬鹿囃子)
夜半に耳をすますと、遠く、あるいは近くお囃子が聞こえてきますが、どこで奏でているのか確かめられなかったそうです。




送り提灯(ちょうちん)
夜道で前方にチラチラとちょうちんの明かりがみえ、近寄るとパッと消えてはまた前方に現れる無気味なちょうちんです。




片葉の葦(あし)
両国橋近くにあった入堀に生える葦は、不思議なことにどれも片側しか葉がでなかったそうです。




置行堀(置いてけ堀)
一説に錦糸町駅付近にあったといわれ、夕方釣り上げた魚を持って立ち去ろうとすると、堀の中から「置いてけ、置いてけ」と怪しげな声が聞こえたそうです。




七不思議ですが、伝承によって登場する物語が一部異なっていることから8種類以上のエピソードが存在します。

落葉なき椎(しい)
隅田川べりの松浦家の椎の木はよく繁っているのに、どんな時にも落葉したことがないといいます。

津軽の太鼓
大名屋敷の火の見やぐらでは、板木を打つならいでしたが、南割下水近くの津軽家に限って太鼓を打つことが許されていました。





紅葉橋で大横川親水公園を離れ、吊り橋を渡って能勢妙見山別院に向かいます。



橋の袂に、鬼平犯科帳の立て札があります。

鬼平情景 出村の桜屋敷

平蔵と左馬之助が青春を刻んだ高杉道場の北側には、田坂直右衛門の広大な屋敷があり、七十過ぎの当主が奉公人と孫娘のおふさと暮らしていました。ここから道を隔てて斜向い辺りで、春には庭の山桜の花片が、門弟が稽古に汗を流している道場へ舞い込んできたものでした。時にそのおふさが、打ったばかりの蕎麦切と冷酒を下女に持たせ、祖父から申しつかったと道場に現れました。その初々しい乙女のような姿に、平蔵、左馬之助ならずともに顔を赤らめ、はにかみ、師匠に揶揄されたものです。おふさが日本橋の呉服問屋近江屋へ嫁ぐ日、横川を立派な嫁入り道具を載せた舟に囲まれ、白無垢姿でゆったりと行く様を道場の門外から両名が万感の思いで見送る場面は心に残ります。それから二十余年後の展開には愕然とさせられます。




ポイント1 能勢妙見山別院

能勢妙見山別院は、能勢妙見山の唯一の東京別院です。能勢妙見山を領有し、能勢妙見堂を篤く信仰していた旗本能勢頼直の代に江戸の下町本所に下屋敷を受領したため、安永三年(1774年)に屋敷内に堂宇を建立し、妙見大菩薩の分体を祀ったのが始まりです。妙見山別院は明治初年には上地となりましたが、明治七年に能勢頼哲が現在の地を購入して寺となりました。



能勢妙見山別院の縁起を記した案内板が立っています。

略縁起

當山は大阪能勢妙見山の全国唯一の別院であり、能勢家の子孫が代々守護に任じております。今より二百五十年前、安永三年五月十一日の創建です。この地は當時下総国葛飾郡本所横川町と称し、能勢筑前守頼直の江戸下屋敷がありました。ここに妙見堂を建立し、知行所たる摂津国妙見山より妙見尊像を分祀したのがはじまりです。江戸時代末期には幕臣勝小吉が愛息麟太郎、後の勝海舟の開運勝利を水垢離を取って祈願したことは、子母澤寛氏の「父子鷹」に詳しく記されております。震災戦災と二度の火災により宝物は尽く烏有に帰しましたが、妙見尊像はそれらの巨難を免れ、御内陣に今も奉安されております。また、境内には鴎大善神の祠があり、その御札は江戸時代より能勢の黒札と呼ばれ、魔よけの御札として有名です。




妙見山別院は親子鷹でおなじみの勝小吉と勝海舟親子の熱烈な信仰を得ていたことで有名です。そのため、境内には勝縁の品が多く所蔵されていました。その多くは関東大震災と東京大空襲の二度の災禍で焼失してしまいましたが、本尊の妙見大菩薩と勝の筆による掛け軸や写真などは今も現存しています。境内には、勝海舟を偲んで地元有志が建てた胸像もあります。平成二十二年には、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」の龍馬伝紀行で、龍馬と佐那がよく参拝に訪れた寺院として紹介され、歴史ファンなど多くの参詣者が訪れています。

勝海舟翁之像

勝海舟九才の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得、その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎へ、海舟翁の偉徳を永く後世に傳へるため、地元有志に仍ってこの胸像が建られた。




ポイント2 若宮公園

外手小学校の手前に墨田区立若宮公園があります。面積4、594平方メートルの広場は数多くの木々に包まれ、落ち着いた雰囲気が漂います。若宮公園は、関東大震災の復興小公園として整備されました。

関東大震災 復興小公園 若宮公園

関東大震災(1923年9月1日)では、火災が鎮火した要因の一つに公園緑地や広場が焼け止まりとして機能したことがわかり、公園設置の重要性が高まりました。東京市はこれを踏まえ、震災の焼失区域において、震災復興公園として52か所の小公園を整備しました。小公園は、小学校に隣接して整備され、近隣住民の憩いの場や地域コミュニティの中心、地域における防災拠点のほか、校庭の延長や教材園などとしての役割を担ってきました。また、震災復興のシンボルとなるとともに、後の都市公園や児童公園のモデルとなりました。墨田区には当初、小公園が8か所ありましたが、その後、「永倉公園」と「茅場公園」の2か所が廃園となり、現在では6か所となっています。また、国により設置された震災復興大公園の3か所のうち2か所、隅田公園、錦糸公園が墨田区にあります。

The Great Kanto Earthquake of 1923 Small Reconstruction Parks Wakamiya Oark

Following the Great Kanto Earthquake (September 1, 1923), it was found that open spaces and greenery in parks played a major role in helping to extinguish the post-earthquake fires that ravaged the city by acting as firebreaks, which in turn elevated the importance of establishing parks. Based on this knowledge, the (then?) City of Tokyo developed 52 small parks as part of reconstruction efforts in the areas destroyed by fire. In addition to serving as places for local residents to relax, centers for the local community, and local disaster prevention bases, the small parks developed next to elementary schools have also been used by the schools as an extension of the school grounds or as an educational tool to teach children about the plants and flowers growing there. The parks not only became symbols of recovery and reconstruction following the quake, but also served as models for the subsequent development of city parks and children's parks. Initially, there were eight small parks in Sumida City, but two of them, "Nagakura Park" and "Kayaba Park," were subsequently closed, and there are now six. Additionally, two of the three Great Earthquake Reconstruction Parks established by the national government, Sumida Park and Kinshi Park, are located in Sumida City.




園内には、すべり台・ブランコ・アスレチック遊具など、子供用遊具の他、大人向けの様々な種類の運動遊具が設置されています。



毎月第3水曜日の午後には、高齢者のための運動遊具を利用した「うんどう習慣日」が開催されています。

ようこそ”うんどう遊園”へ

「うんどう遊園」は、運動不足の人や体力の維持・改善を必要としている人が、自分の体力水準に合わせ楽しみながらできるよう、スポーツ医学の分野及び実践指導の立場から開発された健康増進施設です。

@つまずかないうんどう     D腹筋・背筋うんどう
A背中と腰を伸ばすうんどう   Eふらつかないうんどう
B腕立て伏せうんどう      F上腕うんどう
Cかいだんうんどう       G全身のびのびうんどう

うんどう教室

うんどうが苦手なひと・高齢者等を対象にうんどう習慣を身につけるため、誰にでもできる”やさしいうんどう教室”をこの場所で開催します。




各遊具には絵入りに解説板が備わっています。

7.上腕うんどう

自分に合った高さを選び両手でしっかりバーをつかみ腰かける。息をはきながら腕をゆっくり伸ばし、次にゆっくり曲げる。

効果                   注意
肩の関節がしっかりし、腕の力がつきます。 無理をすると肩や腕をいためることがあります。




公園からは、広場越しにスカイツリーが見え、開放的な気分を味わえます。



公園に隣接して、牛嶋神社の摂社若宮が鎮座しています。「摂社」というのは本社に付属した神社のことで、「若宮」というのは本宮を別の場所に新たに祀った神社のことです。ここはもともと徳川家光から土地の寄進を受けた御旅所だった場所です。「御旅所」は、神輿が神社から出て渡御する際に一時的に留まる場所のことですが、現在でも大祭の年に二日間に亘って行われる鳳輦渡御で牛車はここで一泊します。現在の建物は昭和五十七年の大祭の時に建てられました。大祭以外の年の祭礼では、東駒形三丁目の神輿は近隣の町会と連合でこの若宮に宮入りします。



山田記念病院の建物の前に巨大な錨とアンカーチェーンが保存されています。


この錨は歴史ある日本海軍駆逐艦初霜の錨である。初霜はさきの大戦に北はアリューシャン、南は佛印、シンガポール、比島にわたる広い太平洋海域で勇戦、最後は昭和二十年4月戦艦大和沖縄特攻作戦にも参加し、同年7月30日宮津湾に於いて対空戦闘中触雷櫚坐(擱座:かくざ?)して任務を終わった。終戦時には日本海軍の駆逐艦203隻の多くが遠い海に沈み、残存の33隻の内ほとんどを連合国に接収された。初霜は日本に残り解撤され、その錨がこれである。私は昭和十五年軍医長として初霜に乗組み作戦に参加した。縁あって私のところに来たこの錨を伝統ある帝国海軍の遺産として長く後世に残しておきたい。




蔵前通りと清澄通りが交差する角に、横網町公園があります。横網(「よこずな」でなく、「よこあみ」と読みます)町公園は、東京市が陸軍の被服廠(ひふくしょう:軍服などを作る工場)が移転した跡地を買収し、公園として造成を進めていましたが、その最中に発生したのが関東大震災です。まだ空き地状態だった被服廠跡地には周辺の人たちが家から布団や家財道具を持ち出し、続々と避難してきました。ちょうど昼時であったことと、台風の余波で強風が吹いていたこともあり、各所で火災が発生しました。やがてこの被服廠跡にも強風にあおられた炎が四方から迫り、その火の粉が持ち込まれた家財道具などに燃え移りました。激しい炎は巨大な炎の竜巻・火災旋風を巻き起こし、一気に人々を飲み込みました。この地だけで3万8千人もの命が失われました。関東大震災で亡くなった人々の霊を弔慰するため、四十九日に相当する大正十二年10月19日に、この地において東京府市合同の大追悼式を挙行したのがこの公園の歴史を刻む最初の出来事でした。当初「大正震災記念公園」と仮称された公園でしたが、昭和五年(1930年)に慰霊堂(当時は震災記念堂)や鐘楼・日本庭園が完成し、9月1日に横網町公園として開園しました。翌年の昭和六年には復興記念館も完成し、現在の横網町公園となりました。

横網町公園

昭和五年(1930年)、関東大震災の身元不明の遺骨を納め、霊を祀るため創建された慰霊施設。「震災記念堂」と称していましたが、戦後、東京大空襲の身元不明の遺骨を合せ納め、「東京都慰霊堂」と改称されました。隣接して復興記念館があります。

Yokoamicho Park

This facility was constructed in 1930 to memorialize the victims of the Great Kanto Earthquake of 1923. A museum commemorating subsequent recovery and reconstruction efforts in the city is located adjacent to the park.




北門から公園に入ります。公園の案内図があります。

横網町公園

関東大震災(大正十二年・1923年)や、東京空襲(昭和十九年〜二十年・1944年〜1945年)による悲劇を、記憶・伝承し、その犠牲になった多くの人々を慰霊する公園です。

Yokoamicho Park

This park is dedicated to the remembrance of the many victims of the Great Kanto Earthquake (1923) and the Tokyo Air Raid (1944-1945), to commemorate and preserve the memory of these tragedies.

東京都慰霊堂

関東大震災、および東京空襲の遭難者、16万人余の御霊を慰霊する施設です。昭和五年(1930年)に建てられました。堂内には絵画等の展示もあります。どなたでも入堂できます。
入堂無料、9時〜16時30分、年末年始は閉堂

Tokyo Metropolitan Memorial Hall

Built in 1930, this hall is a memorial for more than 160,000 lives lost during the Great Kanto Earthquake and the Tokyo Air Raid. Paintings and other archives are on display in the hall, and it is open to the public.
Free admission, open 9:00 am to 4:30 pm. Closed for the New Year's holiday.

復興記念館

関東大震災からの復興事業を記念するために昭和六年(1931年)に建てられました。関東大震災、東京空襲の被害や復興に関する資料を展示しています。
入館無料、9時〜16時30分(入館)、毎週月曜日(祝日の場合は翌日)および年末年始は休館

Great Kanto Earthquake Memorial Museum

This museum was built in 1931 to commemorate the reconstruction project following the Great Kanto Earthquake. Documents and other materials related to the damage caused by the earthquake and the Tokyo Air Raid, as well as to the ensuing reconstruction, are on display.
Free admission, open 9:00 am to 4:30 pm (entry). Closed on Mondays (if a national holiday, closed the following day) and for the New Year's holiday.





公園内には関東大震災で焼け爛れた多くの遺物が展示されています。

横網町公園復興記念館
(震災記念屋外ギャラリー)

大正十二年(1923年)9月1日午前11時58分に発生した関東大震災の被害は、死者及び行方不明者10万6千人余、負傷者5万2千人余、家屋の損害は69万4千戸余にも達した。ことに家屋の密集した東京の下町では、地震後発生した大火災による猛火、熱風により、諸々の建築物はもちろん多くの人々が焼死し、その光景はさながら地獄絵の如く惨たんたるものであった。当「震災記念屋外ギャラリー」は、その震災による被災品を展示することにより、過去におきたその惨劇を後世に伝え、二度と同じような不幸がおこらないことを深く願って建造されたも のである。

YOKOAMI OPEN GALLERY

The Great Earthquake which occurred in the Kanto region on September 1, 1923, brought unprecedented damage mostly to the cities of Tokyo and Yokohama as well as other places. Especially in congested down town (Shita-machi) housing areas, the Sumida river was buried with many corpses. The Yokoami Open Gallery was constructed in the hope that such a disaster should never be repeated and to make future generations aware of this tragedy by displaying fragments and remains of the damage.




一番手前は自動車のシャーシの残骸です。日本で車両番号第一号という記念すべき車両ですが、見る影もありません。

自動車の焼骸
Remains of a Burnt Car

自動車のボディが焼失し、シャシーだけが残ったもの。この自動車は車両番号第一号という古い歴史を持ち、銀座の明治屋商店で震災直前まで使用されていたという。




次は発電機でしょうか、鉄の塊としか見えませんね。

百馬力電動機
Burnt Electro−Motor

大日本麦酒株式会社吾妻橋工場内で焼損した、100馬力の電動機。




釘が溶けて鉄の塊になっています。

洋釘の焼塊
Mass of Melted Nails

深川区清澄町倉庫に貯蔵してあった樽入りの釘が、火災による高熱のため溶解し、ひとつのかたまりとなったものである。




印刷機は未だ原形を留めています。

印刷機
Burnt Printing Machine

当時、神田区(現在の千代田区)美土代町にあった三秀社印刷工場内で、火災により焼損した印刷機である。




天水桶は裂けて下部の一部だけが残っています。

天水桶
Burnt Rainwater Tank

湯島聖堂に備えつけてあった天水桶(雨水を貯める桶)が猛火により焼損したものである。




鳥居は石で出来ていますので焼けることはないのですが、地震の揺れで倒壊したのでしょう。

鳥居の柱
Broken Torii Pillar

浅草区(現在の台東区)駒形にある桜守稲荷の境内にあった鳥居が、激震により倒壊してしまったものである。




建築材とは思えませんね。

花崗岩
Wreckage of Granite

日本銀行の建築材として使用されていた花崗岩の残がい。震災の猛威は頑強な建築物をも破壊してしまったのである。




アメのように曲がっているとはこの状態ですね。

鉄筋コンクリート柱
Wreckage of a Concrete Pillar

東京の中でも悲惨を極めた地域のひとつであった、麹町区(現在の千代田区)丸の内の内外ビル玄関脇の破損した柱である。




魚雷は暴発しなかったのでしょうか?

魚形水雷
Burnt Torpedo

東京高等商船学校(現東京商船大学→東京海洋大学)内で焼損した魚形水雷(魚雷)の残がいである。




復興記念館内には、関東大震災と太平洋戦争で生み出された数多く展示品が並べられ、日本が被った悲惨な実態が間近で見られます。

東京都復興記念館案内

震災復興記念館は、大正十二年(1923年)9月1日に発生した関東大震災の被害や惨状、その後の復興事業を伝えるため、昭和六年(1931年)8月18日に開館しました。館内には震災復興を祝って昭和四年(1929年)9月に開かれた帝都復興展覧会の展示品、絵画や写真・図表・被災資料及び市民からの寄贈品などが展示されています。震災から立ち直った東京は、太平洋戦争末期の空襲で再び焼け野原となりました。そこで戦後、戦災関係資料の展示が追加され、「東京都復興記念館」と名称を変更しました。今では震災・戦災の記憶とともに、昭和初期の都市計画や街づくりを伝える貴重な展示施設となっています。




1階には、関東大震災に関する多数の資料・遺品が展示されています。



2階には、太平洋戦争に関する多数の資料・遺品が展示されています。



東京都慰霊堂は、建築家伊藤忠太の手によるものです。

東京都慰霊堂由来

この堂は、大正十二年(1923年)の関東大震災の後に、東京市内で災害の最も悲惨であったここ被服廠跡に、遭難死者のご遺骨を納める霊堂として建てられ「震災記念堂」と名付けられました。そして、遭難者の霊を祀り、その加護によって今後このような災害の起こらないことを祈願するため、毎年9月1日の震災記念日に慰霊大法要を執り行い、併せて「焦土のなかから東京を復興させた官民の熱心な協力」の思い出をあらたにしようとしたものです。ところが、その悲願も空しく、21年を経た昭和十九年(1944年)の冬から、首都東京は戦争により空からの爆撃を受けて、関東大震災の数倍もの惨禍を被りました。そこで、この戦災遭難者の霊と御遺骨を併せてこの堂に奉安し、昭和二十六年(1951年)9月に名称を「東京都慰霊堂」と改め、最も被害が大きかった東京大空襲の日の3月10日にも毎年東京都慰霊協会主催による慰霊大法要が行なわれるようになりました。

*利用時間   9:00〜16:30(年末年始休み)
*施設概要   施工日   昭和五年(1930年)4月30日
        構造    鉄骨鉄筋コンクリート造
        延床面積  1、470u 最高高さ 40.9m
        設計者   伊東忠太
        納骨数   震災 58、000体、戦災 105、000体




公園の隅には、幽冥鐘の堂が建っています。文中の王一亭は、清朝末期に活躍した中国の実業家・書画家・銀行家・政治家です。上海を中心に活動した一方、中国同盟会にも参加した革命派の人物でもあります。画家としても優れた業績を残し、仏教徒としての活動も顕著でした。

幽冥鐘の由来

この梵鐘は、関東大震災により遭難した死者を追悼するため、中国仏教徒から寄贈されたものです。震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の招賢寺及び上海麦根路の玉仏寺で、それぞれ念仏法要が営まれ、中国在留の同胞に対しても参拝を促しました。また、各方面の回向が終わった後は、「幽冥鐘一隻を鋳造して、之れを日本の災区に送って長年に亘って撃撞し、此の鐘声の功徳に依って永らく幽都の苦を免れしめむ」と宣言しました。その後、中国国内で鋳造し、杭州から上海・横浜経由で大正十四年(1925年)11月1日、記念堂建設地(横網町公園)に運ばれました。この鐘を安置する鐘楼は、昭和五年(1930年)8月31日に現在地に完成し、同年10月1日「梵鐘始撞式」を行いました。なお、これら一連の事業の遂行にあたっては、上海の王一亭氏の特段のご尽力がありました。




関東大震災により亡くなった児童の慰霊碑が建っています。

震災遭難児童弔魂像

大正十二年(1923年)9月1日の関東大震災により東京市(当時)の小学校児童約5千人が亡くなりました。この死を悼み、冥福を祈るため、全市学校長等が弔魂碑建立を計画し、寄付を募りました。その寄付金により、彫刻家小倉右一郎氏に製作を依頼、昭和六年(1931年)5月16日に除幕式が行われました。その後、像部分は、昭和十九年(1944年)、金属回収のため撤去されましたが、昭和三十六年(1961年)、都は、小倉右一郎氏の高弟である、津上昌平、山畑阿利一両氏に製作を依頼し、往時の群像を模して再建されました。

台座の裏面には次の言葉が記されています。

大正十二年九月一日の大震火災の為に我が東京市小学校児童の死亡せし者無慮五千人其の惨状言語に絶せり学校長等深く之を哀み之を悼み相議りて当時幸に難を逃れ生を全うせる都下の学童をして此の不遇の霊を慰め不幸の魂を弔はしめむことを企画し第五回の忌辰に際して之を発表するや忽ちにして学童の共鳴する者十八萬二千二十七名に及び其の醸金一萬四千六十六圓四十七銭に達せり乃ち小倉右一郎氏に託して震災記念堂の傍に此の群像を建設し保存資金を添えて之を財団法人東京震災記念事業協会に寄附し永く当時を追憶し其の冥福を祈らむとす




慰霊碑の脇がスカイツリーの絶景スポットだそうです。



西門を出ますと、交差点の向かい側に旧安田庭園の東門があります。旧安田庭園は、常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資により元禄年間(1688年〜1703年)に築造されたと伝えられ、かつては隅田川の水を引いた汐入回遊式庭園として整備されました。明治維新後は旧備前岡山藩主池田侯の邸となり、次いで安田善次郎氏の所有となりました。安田氏の没後、大正十一年に東京市に寄附されました。関東大震災・太平洋戦争を経て東京都から墨田区に移管され、全面的改修を行って復元した後、一般に開放されました。現在は、ポンプを使用して人工的に潮入が再現されています。

旧安田庭園の沿革

元禄年間(1688年〜1703年)に、 徳川五代将軍綱吉の生母である桂昌院の実弟で、後の常陸笠間藩5万石の藩主、本庄因幡守宗資が下屋敷として拝領し、この庭園を築造したと伝えられている。中央に「心」字をかたどった池を配し、かつては隅田川の水を引き入れ、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる潮入り池泉廻遊式庭園である。明治になって旧備前岡山藩主池田章政侯爵邸となり、明治二十四年(1891年)には、安田財閥の創始者である初代安田善次郎の所有となった。安田翁の逝去後、故人の遺志により大正十一年(1922年)に家屋及び庭園は、東京市に寄付された。大正十二年(1923年)9月1日の関東大震災により壊滅的な被害を受けたが、残った地割り石組みを基にして復元工事が行われた。旧安田邸跡地は寄付者の名を冠して「旧安田庭園」と命名され、昭和二年(1927年)に民間篤志家の寄付による和風庭園として都内初の一般公開となった。昭和四十二年(1967年)、東京都から墨田区に移管されたのを機に、全面的な改修工事を行い、昭和四十六年(1971年)に新装開園し、現在に至っている。明治時代の文献の中で記載されている姿を今日までよくとどめており、清澄庭園に匹敵する明治時代の代表的庭園の一つであることから、平成八年(1996年)、東京都の「名勝」に指定された。

THE HISTORY OF KYU-YASUDA GARDENS

In the Genroku Era (1688 - 1703), a feudal lord in the later Hitachi-Kasama Clan of 50,000 koku, Honjo Inabanokami Munesuke, who was a younger blood brother of the biological mother (Keishoin) of Tsunayoshi Tokugawa, the fifth shogun, received this land from the Bakufu as a suburban residence and is said to have constructed this garden. This garden has a pond in the shape of the Japanese character "kokoro" (heart) at its center and uses a system known as shioiri by which the pond is fed from the Sumida River, so the water level in the pond rises and falls with the ebb and flow of the river's tide. After the Meiji Restoration, it was the home of the Lord Ikeda Akimasa of the late Bizen-Okayama Clan and, then, in 1891, it became the property of Yasuda Zenjiro, founder of the Yasuda Financial Group. After Zenjiro's death, as specified in his will, the garden and house were donated to Tokyo City in 1922. However, on September 1 of the following year (1923), the grounds were almost completely destroyed by the Great Kanto Earthquake. The City began re-construction. "Kyu-Yasuda Gardens". work on the garden, using as a base the ishigumi stone formations, which fortunately remained, and then named the gardens after the donor -- In 1927, it was opened to the public as the first Japanese garden, donated by a private charitable person. Taking the opportunity of its jurisdiction transfer from the Tokyo Metropolitan Government to Sumida City in 1967, it was fully re-constructed and, in 1971, it was completely restored to the original condition of former times when it was called a "distinguished garden". In 1996, this garden was designated a Metropolitan Place of Scenic Beauty as a typical garden of the Meiji Era.




旧安田庭園の中央には、「心」を模した池が広がっています。



かっては、池の水は隅田川から引き込まれていました。

潮入りの再現について

江戸時代、この庭園は隅田川の水を引き入れた池を配し、潮の干満によって変化する景観を楽しむ技法を設けた「潮入り池泉廻遊式庭園」として造成されました。その後、水位調整のための水門は、昭和三十年代までの隅田川の水質環境の悪化や、出水対策のための堤防補強に伴って昭和四十年頃には、閉じられ、導水溝も埋められ、図の位置に往時の姿をとどめる遺構として水門跡が現状のまま保存されています。墨田区では、昭和四十六年に本園北側に約750uの貯水槽(貯水槽量約800トン)を地下に造り、池と貯水槽に水を移動させることにより、人工的に干満を表現する潮入りを再現しました。写真1は満潮時(午前9時)、写真2は干潮時(午後3時から4時)の写真で、1日で30cmの変化が見られます。干潮時には、一部池底の飛石が露出し、歩行が可能になります(図参照)。




水門跡は、西門から入った左手隅に保存されています。

水門跡

江戸時代にこの庭園が造成された折、隅田川から水を引き込み、潮の干満によって池の水位を上下させ、それとともに見え隠れする岩や護岸、浮沈する島等の景観変化を楽しむという技法がとられました。これは「潮入」と呼ばれるものです。この水門は、潮入池の水位調整のために造られたものでしたが、昭和三十年代までの隅田川の水質環境の悪化や、出水対策のための堤防補強に伴って、昭和四十年頃には閉じられ、導水溝も埋められてしまいました。潮入の池は、都内ではほかに浜離宮庭園や旧芝離宮庭園、清澄庭園などでも採り入れられていましたが、現在も目にすることができるのは、浜離宮のみとなりました。墨田区では、潮入の再現を図るため、昭和四十六年に本園北側に約七百五十平方メートルの貯水槽(貯水量約八百トン)を地下に造り、池と貯水槽に水を移動させることにより、人工的に干満を表現する潮入を再現しました。本園の水門は、現在では当初の機能を失ってはいますが、往時の姿をとどめる遺構として現状のまま保存されています。




公園の東南角に大きな石が顔を出しています。

両国物語 駒止石

三代将軍家光の寛永年間の半ばにあたる八年(1631年)に秋の台風に見舞われ隅田川は大洪水となりました。本所側の被害は特に甚大で、これを憂慮した家光は、その状況を調べさせよう としました。しかし、あまりの濁流に誰もが尻込みをする中、旗本阿部豊後守忠秋が進み出て、現在の柳橋の辺りから、馬を乗り入れました。忠秋は、馬を巧みに操って川を渡り、被害状況を調べて回りましたが、その際、馬を止めて休憩したところが駒止石です。当時、この辺りに住んでいた人々が忠秋の徳を敬い、この地に駒止稲荷を祀りました。




神社名は確認できませんが、恐らく駒止石の近くにあることから、これが駒止稲荷なのでしょう。



ポイント3 刀剣博物館(旧安田庭園内)

刀剣博物館は、日本刀を保存・公開し、日本刀文化の普及のために日本美術刀剣保存協会の付属施設として昭和四十三年に開館しました。その後、平成二十九年に現在の両国に移転しました。日本刀は古来武器という性質以外に、信仰の対象や権威の象徴としての側面を持ち、また美術品として鑑賞の対象にもなっていました。廃刀令後、本来の日本刀の役割を終え、更に第二次世界大戦後に日本刀は武器と見なされて駐留軍による没収の的となって壊滅の危機に瀕しました。しかし、本間順治・佐藤貫一氏等の活動によって戦後の混乱期を脱し、両氏を中心として昭和二十三年に美術工芸品としての日本刀の保存・鑑賞・研究・伝統継承のための日本美術刀剣保存協会が設立されました。日本刀は日本人の豊かな感性により武器が美術工芸品にまで昇華されたといわれる文化財で、千年を越えて大切に保存され、歴史的・文化的にもその果たした役割が大きいといえます。日本刀に美を感じることは、日本の文化を感じることに繋がります。いまなお製作当時の姿を伝え、燦然と輝いている日本刀は、国内のみならず海外からも非常に高い関心が寄せられています。刀剣博物館は、刀剣類・刀装・刀装具・甲胃・金工資料・古伝書等を多数所蔵し、その中には国宝の(太刀 銘 延吉)や、国行 (来)、国行(当麻)、重要文化財(太刀 銘 信房)、重要美術品(太刀 銘 真景)など、国の指定・認定物件も数多く含まれています。

刀剣博物館の敷地は池泉回遊式の庭園が残る旧安田庭園の一角にあり、このような立地を活かして庭園散策や地域の展示空間、名所旧跡と連携する庭園博物館として計画されました。博物館はこれまで建っていた旧両国公会堂の佇まいを継承し、池に向かって張り出した円筒部とその両側の翼部から構成されています。また公会堂のドームに変わり、頂部にはヴォールト屋根が架けられ、高さを抑えて庭園との調和を図っています。庭園との連続性の高い1階は、ミュージアムショップ、展示・情報ラウンジ、講堂やカフェなど、気軽に立ち寄って利用できるパブリックなスペースを配置し、庭園散策の休憩所や街歩きの拠点としても使えるようになっています。2階には博物館の運営および日本刀の審査や展示の企画を行う管理・学芸の諸室、そして最上階には日本刀の展示室と屋上庭園を配しています。美術工芸品としての日本刀に加え、大名屋敷の庭園と共に日本古来の武家文化を広く発信していくことを目指しています。

2022年に訪れた時はコロナ禍で閉館中、2025年に再訪した時は休館日で入れませんでした。



旧安田庭園を出て国技館通り沿いに進みます。歩道の脇に北斎の浮世絵を紹介する掲示板が立っています。先ほど訪れた駒止石の絵と解説のようです。

葛飾北斎 駒止石 −馬尽−

文政時代(1818年〜1830年)の正月の配り物として摺られた「馬尽」シリーズの一枚です。手前側に駒止石、一番奥には雪を頂いた富士山が描かれています。寛永八年(1631年)の初夏、暴風雨で隅田川が氾濫し、あたり一帯が大洪水に見舞われた際、三代将軍家光が本所地区の被害状況調査を命じたところ、旗本阿部豊後守忠秋ただ一人がその濁流を馬上巧みに渡河し忠誠心を示したという逸話があり、その際に馬を繋いだのが「駒止石」です。当時は椎の木屋敷の前の隅田川岸にありましたが、現在は旧安田庭園内で見ることができます。

Uma-Zukushi: Komadome-ishi (Horse Series: Hitching Stone)

One of the Horse Series that were printed to hang during the New Year period in the Bunsei Era (1818-1830). A stone for hitching horses is located at the front, and the snow-covered Mt. Fuji appears in the background. The Sumida River overflowed owing to a violent rainstorm in early summer 1631, and the third Shogun, Iemitsu, ordered a survey to be carried out to assess damage inflicted on the Honjo district when the entire area was flooded, and it is said that only Tadaaki Abe, a direct retainer of the Shogun, displayed his loyalty to the Shogun by skillfully crossing the turbid waters alone on horseback to carry out this order. The hitching stone shown in this print is said to be the stone to which he tied his horse during this. This bank of the Sumida River was located in front of the Shiinoki Mansion at that time, and the former Yasuda Gardens can be seen from this point today.




北斎の掲示板がもうひとつ立っています。

葛飾北斎 新柳橋の白雨 御竹蔵の虹 −絵本隅田川両岸一覧−

狂歌絵本「隅田川両岸一覧」三巻のうち、中巻の一枚です。にわか雨に降られ、傘を持った人々が新柳橋の上を走っている様子が、隅田川の対岸から描かれています。白雨というのは天気雨のことです。左奥の橋は御蔵橋で、幕府の材木蔵であった「御竹蔵」の入堀に架かっていました。奥一帯の「御竹蔵」には当初は建築用の資材が保管されていましたが、現在の猿江公園の材木蔵に移されるようになると米蔵として使用され、本所御米蔵と称されました。その広大な敷地は、現在の国技館、江戸東京博物館などがあたります。

Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River:
Shinyanagi Bashi no Hakuu Otakegura no Niji
(Sudden Rain at the New Yanagi Bridge/Rainbow Above Bamboo Warehouses)

One of the prints from the second of the three-volume comic tanka picture books, Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River. This print shows a scene of people with umbrellas crossing the New Yanagi Bridge during a light shower, and it is drawn from the opposite side of the Sumida River. The term "sudden rain" refers to an unexpected shower. The bridge on the far left is the Mikura Bridge. It spans the entrance to the Otakegura bamboo warehouses, where the Shogun's timber was stored. The area behind the Otakegura warehouses was used to store building materials at that time, but it became a rice warehouse when it moved to the timberyard located in the present-day Sarue Park, and became known as the Honjo Rice Warehouse. This normous estate is now occupied by the Ryogoku Kokugikan, the Edo Tokyo Museum and other facilities.




歩道脇のベンチにも北斎の絵が添えられています。



両国の夕涼み風景が描かれています。

両国夕涼

夕涼に花火見物を楽しむ人々と両国橋や一之橋の情景です。

Evening Cool at Ryogoku

This print depicts people enjoying an evening of fireworks at Ryogokubashi Bridge and Ichinohashi Bridge.




冨嶽三十六景の中の一景です。

冨獄三十六景 御厩川岸より両国橋夕陽見

夕暮れ時でシルエットになった両国橋や富士山を描いています。

Viewing Sunset over the Ryogokubashi Bridge
from the Ommayagashi River Bank, from the series Thirty-six Views of Mount Fuji

This print depicts Ryogokubashi Bridge and Mt. Fuji silhouetted at sunset.




両国花火大会が描かれています。

新板浮絵 両国橋夕涼花火見物之図(部分)

両国橋で花火を上げる景色を、隅田川の西側から描いています。

Watching Fireworks in the Cool of the Evening at Ryogokubashi Bridge,
from the series Newly Published Perspective Pictures (part)

Fireworks at Ryogokubashi Bridge, depicted from the western side of the Sumida River.




北斎は絵の素材となるスケッチを数多く残しています。

「北斎漫画」(部分)

世界的に有名な絵手本で、海外では「ホクサイ・スケッチ」として親しまれています。全十五冊、総図数は約三千九百図にのぼり、人間や自然、神仏妖怪など、ありとあらゆるものが描かれていて、「絵の百科事典」と呼ぶにふさわしい内容です。

Sketches by Hokusai (part)

The Hokusai Manga, known internationally as "Hokusai's Sketches," is a world-famous collection of sketches of various subjects by the Japanese artist Katsushika Hokusai. Subjects of the sketches include humans, nature, gods and the supernatural. There are roughly 3900 images in this set of 15 volumes, which are worthy of being called the "Encyclopedia of Pictures".




雨水を貯めて再利用する装置だそうです。

天からの恵みを集めて活かす「両国さかさかさ」天水収穫装置

雨を「よける」のではなく「集めよう」。都会ではとかくやっかいもの扱いされがちな雨。しかし、雨なしには草花も育ちません。雨はありとあらゆる生命の源です。大地を潤し、緑を育み、地下水となります。豊かな地下水は湧水となり、川に豊かな流れをもたらします。コンクリートやアスファルトが目立つ東京のまちも、実は空と大地の間を循環する雨によって支えられているのです。雨は、天水。天からの恵みの水。この装置は、天水をもっと大切に、もっと有効に活かすシンボルとして、大地から空に向けて広がる「逆さ傘」をコンセプトに作られました。下部は、この逆三角屋根に降った雨を貯める容量約600lのタンクになっています。貯めた雨水は、付近の花壇への水やりや打ち水などに活用します。「歩道の緑地」という都市の公共空間で、天からの恵みを集水・貯留・活用し、大地に戻す−。市民と企業と行政との協働による、天水を活かしたまちづくりへの実践です。

天水の収穫と活用
空から降る雨は、命の源。くらしの中で、街並の中で、天からの恵みである雨を有効に活用することは、これからますます深刻化するといわれる都市の環境問題、洪水・渇水や大地震などの自然災害への備えとして、私たちひとり一人が取り組むことのできる解決策のひとつです。墨田区から、全国そして世界へと広がりつつあります。

雨の恵みプロジェクト
ライオン株式会社とNPO法人雨水市民の会は、2008年より協働で「雨の恵みプロジェクト」を推進しています。まちのなかで雨水を貯留、浸透及び利用する意義を探求し、社会への普及を目指して活動しています。

両国駅花いっぱい運動
ライオン社員のボランティアグループ「花ボランティア」は、両国駅周辺の環境美化を目的に、2005年から両国駅周辺の花壇やフラワーポットに草花を植え育てる「花いっぱい運動」をしています。タンクに集めた雨水は、これらの草花への水やりに活用します。

間伐材の活用
天水も緑も循環資源です。森の管理には間伐とその有効利用が欠かせません。この装置には山梨県、栃木県の間伐材を使用し、製作過程での環境配慮にも努めています。

(ライオン株式会社では2006年より森林環境と水環境の保全を目的として、山梨県内で「ラ イオン山梨の森」活動を行っています。)




交差点の角に石碑が建っています。「花の生涯」は、1963年4月7日から同年12月29日までNHKで放送された大河ドラマ(放送当時は大型時代劇と称した)の第1作です。原作は、舟橋聖一が1952年から1953年まで毎日新聞紙上で連載した歴史小説「花の生涯」で、幕末の大老井伊直弼の生涯を描いた作品です。

舟橋聖一生誕記念碑

作家舟橋聖一は明治三十七年(1904年)12月25日に、本所区横網町二丁目二番地に生る。作家、國文学者として盛名高く、数々の名作を遺すも、その七十二年の生涯は権威に屈せず、市井の文人、文学者として独自の風格を以て貫かれている。代表作の一つ、「花の生涯」は井伊大老の生涯を綴った醇たる逸品であるが、文学者、文化人として、前人未踏の道を歩いた作者の人生行路もまた、そのまま花の生涯と呼ぶにふさわしいものである。
                                       井上靖




ポイント4 国技館

現在の国技館は地上2階・地下1階建てで、旧両国貨物駅跡地に建設され、昭和五十九年(1984年)11月30日に完成し、翌昭和六十年(1985年)1月場所から使用されています。こけら落としとなった初場所では、北の湖と千代の富士の両横綱によって特別な日のみに行なわれる「三段構え」が披露されました。現在では相撲の他、プロレスや格闘技・ボクシング・株主総会や企業の式典・大学の入学式・コンサートなどが行なわれています。



両国国技館の正面左手にある稲荷門から中へ入ると、左手にふたつの神社があります。左が豊国稲荷神社で、右が出世稲荷神社です。両社とも、国技館の移転の度に遷座してきました。力士たちの開運・出世・興行の成功祈願や勝利祈願のために祀られたもので、まるで双子のように同じ鳥居・手水舎・狛狐・社殿が並んでいます。国技館の隅にあって目立ちませんが、相撲好きの方には魅力溢れる聖地となっています。真向かいには相撲関連の売店があり、様々な相撲グッズが買えるようになっています。



国技館の外柵の前に案内板が掛かっています。忠臣蔵に架空の人物が登場していたとは知りませんでした。

忠臣蔵
Site of Tawaraboshi Gemba’s stable
俵星玄蕃の道場跡

宝蔵院流の槍の名手、俵星玄蕃は忠臣蔵に登場する架空の人物で、彼の道場は、本所横網町のこの辺りにあったとされています。上杉の家老・千坂兵部が二百五十石の高禄で、吉良家に召抱えようとしますが、赤穂浪士の世を忍ぶ苦心に同情を寄せた玄蕃はこれを断りました。屋台の夜なき蕎麦屋「当たり屋十助」に姿を変えて吉良邸を探っていた赤穂浪士・杉野十平次の前で、「のうそば屋、お前には用の無いことじゃが、まさかの時に役に立つかも知れぬぞ見ておくがよい」と、槍の技を披露しました。討入り当夜、助太刀に駆けつけると、杉野に会い、たいへん驚き、吉良邸外の守りを固め、本懐成就に協力したとされます。




ゴール地点のJR総武線両国駅西口に着きました。



ということで、墨田区で最初の「@すみだの四季を感じる 美しい自然と名所をめぐるコース」を歩き終えました。次は墨田区で二番目のコースである「Aすみだの自然を再発見!爽快リバービューコース」を歩きます。




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