Aすみだの自然を再発見!爽快リバービューコース  

コース 踏破記  

今日は墨田区の「Aすみだの自然を再発見!爽快リバービューコース」を歩きます。両国駅西口から隅田川テラスに出て早春の川風を感じながら浅草まで歩きます。吾妻橋西詰からのスカイツリーの絶景を楽しんだ後、隅田公園に隣接する牛嶋神社の撫牛に願いを込め、長命寺さくら餅で知られる山本や前まで歩きます。最初に歩いたのは2022年の3月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年4月に改めて歩きました。

Aすみだの自然を再発見!爽快リバービューコース

春〜秋頃は、朝に隅田川テラスの水路に集まるカニがかわいらしいです!川沿いには様々な種類の桜も。自然を感じる意外なポイントがあっておもしろいですよ。(提案者:飯野さん)

「Aすみだの自然を再発見!爽快リバービューコース」の歩行距離は約3.4km(約4、900歩)、歩行時間は約50分、消費カロリーは約150Kcalです。

スタート地点:JR総武線両国駅西口
ポイント1 国技館
相撲の殿堂。界隈では、お相撲さんがぶらり散歩していることも。
ポイント2 旧安田庭園
しっとりとした雰囲気のある日本庭園。
ポイント3 隅田川テラス
川沿いに舗装された遊歩道。屋形船や水上バスがゆっくりと進む様子など、水辺の景観が楽しめます。
ポイント4 吾妻橋からの風景
吾妻橋からは隅田川と、スカイツリーやユニークなデザインの建物が見られます。
ポイント5 源森川水門
川の水位を調整する水門。通常は開放されています。
ポイント6 隅田公園
池にはカワセミが姿を見せることも!
ポイント7 墨堤の桜
春には川沿いの桜と菜の花のコントラストがきれいです。様々な種類の桜も見られます。

ゴール地点:長命寺さくら餅山本や前


スタート地点のJR総武線両国駅西口から歩き始めます。



国技館通りに面して横綱像が建っています。この通りには何カ所か横綱像があって、これは一番新しいようです。手形のレリーフには「白鵬」と書いてあります。あまり似てないように思いますが。



国技館の外柵の前に案内板が立っています。忠臣蔵に架空の人物が登場していたとは知りませんでした。

忠臣蔵
Site of Tawaraboshi Gemba’s stable
俵星玄蕃の道場跡

宝蔵院流の槍の名手、俵星玄蕃は忠臣蔵に登場する架空の人物で、彼の道場は、本所横網町のこの辺りにあったとされています。上杉の家老・千坂兵部が二百五十石の高禄で、吉良家に召抱えようとしますが、赤穂浪士の世を忍ぶ苦心に同情を寄せた玄蕃はこれを断りました。屋台の夜なき蕎麦屋「当たり屋十助」に姿を変えて吉良邸を探っていた赤穂浪士・杉野十平次の前で、「のうそば屋、お前には用の無いことじゃが、まさかの時に役に立つかも知れぬぞ見ておくがよい」と、槍の技を披露しました。討入り当夜、助太刀に駆けつけると、杉野に会い、たいへん驚き、吉良邸外の守りを固め、本懐成就に協力したとされます。




国技館通りに沿って、葛飾区が輩出した浮世絵師の葛飾北斎を紹介する案内板が幾つかあります。最初は、駒止石の絵と解説です。

葛飾北斎 駒止石 −馬尽−

文政時代(1818年〜1830年)の正月の配り物として摺られた「馬尽」シリーズの一枚です。手前側に駒止石、一番奥には雪を頂いた富士山が描かれています。寛永八年(1631年)の初夏、暴風雨で隅田川が氾濫し、あたり一帯が大洪水に見舞われた際、三代将軍家光が本所地区の被害状況調査を命じたところ、旗本阿部豊後守忠秋ただ一人がその濁流を馬上巧みに渡河し忠誠心を示したという逸話があり、その際に馬を繋いだのが「駒止石」です。当時は椎の木屋敷の前の隅田川岸にありましたが、現在は旧安田庭園内で見ることができます。

Uma-Zukushi: Komadome-ishi (Horse Series: Hitching Stone)

One of the Horse Series that were printed to hang during the New Year period in the Bunsei Era (1818-1830). A stone for hitching horses is located at the front, and the snow-covered Mt. Fuji appears in the background. The Sumida River overflowed owing to a violent rainstorm in early summer 1631, and the third Shogun, Iemitsu, ordered a survey to be carried out to assess damage inflicted on the Honjo district when the entire area was flooded, and it is said that only Tadaaki Abe, a direct retainer of the Shogun, displayed his loyalty to the Shogun by skillfully crossing the turbid waters alone on horseback to carry out this order. The hitching stone shown in this print is said to be the stone to which he tied his horse during this. This bank of the Sumida River was located in front of the Shiinoki Mansion at that time, and the former Yasuda Gardens can be seen from this point today.




北斎の掲示板がもうひとつ立っています。

葛飾北斎 新柳橋の白雨 御竹蔵の虹 −絵本隅田川両岸一覧−

狂歌絵本「隅田川両岸一覧」三巻のうち、中巻の一枚です。にわか雨に降られ、傘を持った人々が新柳橋の上を走っている様子が、隅田川の対岸から描かれています。白雨というのは天気雨のことです。左奥の橋は御蔵橋で、幕府の材木蔵であった「御竹蔵」の入堀に架かっていました。奥一帯の「御竹蔵」には当初は建築用の資材が保管されていましたが、現在の猿江公園の材木蔵に移されるようになると米蔵として使用され、本所御米蔵と称されました。その広大な敷地は、現在の国技館、江戸東京博物館などがあたります。

Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River:
Shinyanagi Bashi no Hakuu Otakegura no Niji
(Sudden Rain at the New Yanagi Bridge/Rainbow Above Bamboo Warehouses)

One of the prints from the second of the three-volume comic tanka picture books, Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River. This print shows a scene of people with umbrellas crossing the New Yanagi Bridge during a light shower, and it is drawn from the opposite side of the Sumida River. The term "sudden rain" refers to an unexpected shower. The bridge on the far left is the Mikura Bridge. It spans the entrance to the Otakegura bamboo warehouses, where the Shogun's timber was stored. The area behind the Otakegura warehouses was used to store building materials at that time, but it became a rice warehouse when it moved to the timberyard located in the present-day Sarue Park, and became known as the Honjo Rice Warehouse. This normous estate is now occupied by the Ryogoku Kokugikan, the Edo Tokyo Museum and other facilities.




更に、もうひとつ。「Cicada」は「蝉」のことです。

葛飾北斎 首尾松の鉤舟 椎木の夕蝉 −絵本隅田川両岸一覧−

隅田川の一年を描いた狂歌絵本「隅田川両岸一覧」三巻のうち、中巻の一枚です。隅田川の対岸から描かれています。釣り舟の向こう、左手に描かれているのが首尾の松です。首尾の松は蔵前にず(ら?)っと並ぶ米蔵の真ん中あたりにあった松で、丁度よい目印になっており、この辺は釣りの名所でした。釣り糸の向こう、右手の森が肥前平戸新田藩松浦家の上屋敷です。この上屋敷には本所七不思議の一つに数えられる「落ち葉なしの椎」があったことから、椎の木屋敷と呼ばれるようになりました。

Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River:
Shubinomatsu no Tsuribune Shiinoki no Yuuzemi
(Fishing Boat by the Shubinomatsu Oine Tree, Evening Cicada in the Shiinoki Forest)

One of the prints from the second of the three-volume comic tanka picture books, Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River, depicting a full year along the Sumida River. This print has been drawn from the opposite bank of the Sumida River. The Shubinomatsu pine tree is located over the far side of the fishing boat on the left-hand side. This tree was located in the center of a long line of trees that flourished in Kuramae and made a perfect landmark for a famous fishing spot located nearby. The forest shown beyond the fishing lines to the right is the Tokyo residence of the Matsuura daimyo family of the Hirada Shinden fuedal clan from Hizen Province. This mansion became known as the Shiinoki Mansion owing to the "Leafless Chinquapin Tree" that appeared in the Seven Wonders of Honjo being located here.




北斎は絵の素材となるスケッチを数多く残しています。

「北斎漫画」(部分)

世界的に有名な絵手本で、海外では「ホクサイ・スケッチ」として親しまれています。全十五冊、総図数は約三千九百図にのぼり、人間や自然、神仏妖怪など、ありとあらゆるものが描かれていて、「絵の百科事典」と呼ぶにふさわしい内容です。

Sketches by Hokusai (part)

The Hokusai Manga, known internationally as "Hokusai's Sketches," is a world-famous collection of sketches of various subjects by the Japanese artist Katsushika Hokusai. Subjects of the sketches include humans, nature, gods and the supernatural. There are roughly 3900 images in this set of 15 volumes, which are worthy of being called the "Encyclopedia of Pictures".




天水桶は神社などで見かけますが、これはその市中版で雨水を貯めて再利用する装置だそうです。

天からの恵みを集めて活かす「両国さかさかさ」天水収穫装置

雨を「よける」のではなく「集めよう」。都会ではとかくやっかいもの扱いされがちな雨。しかし、雨なしには草花も育ちません。雨はありとあらゆる生命の源です。大地を潤し、緑を育み、地下水となります。豊かな地下水は湧水となり、川に豊かな流れをもたらします。コンクリートやアスファルトが目立つ東京のまちも、実は空と大地の間を循環する雨によって支えられているのです。雨は、天水。天からの恵みの水。この装置は、天水をもっと大切に、もっと有効に活かすシンボルとして、大地から空に向けて広がる「逆さ傘」をコンセプトに作られました。下部は、この逆三角屋根に降った雨を貯める容量約600lのタンクになっています。貯めた雨水は、付近の花壇への水やりや打ち水などに活用します。「歩道の緑地」という都市の公共空間で、天からの恵みを集水・貯留・活用し、大地に戻す−。市民と企業と行政との協働による、天水を活かしたまちづくりへの実践です。

天水の収穫と活用
空から降る雨は、命の源。くらしの中で、街並の中で、天からの恵みである雨を有効に活用することは、これからますます深刻化するといわれる都市の環境問題、洪水・渇水や大地震などの自然災害への備えとして、私たちひとり一人が取り組むことのできる解決策のひとつです。墨田区から、全国そして世界へと広がりつつあります。

雨の恵みプロジェクト
ライオン株式会社とNPO法人雨水市民の会は、2008年より協働で「雨の恵みプロジェクト」を推進しています。まちのなかで雨水を貯留、浸透及び利用する意義を探求し、社会への普及を目指して活動しています。

両国駅花いっぱい運動
ライオン社員のボランティアグループ「花ボランティア」は、両国駅周辺の環境美化を目的に、2005年から両国駅周辺の花壇やフラワーポットに草花を植え育てる「花いっぱい運動」をしています。タンクに集めた雨水は、これらの草花への水やりに活用します。

間伐材の活用
天水も緑も循環資源です。森の管理には間伐とその有効利用が欠かせません。この装置には山梨県、栃木県の間伐材を使用し、製作過程での環境配慮にも努めています。

(ライオン株式会社では2006年より森林環境と水環境の保全を目的として、山梨県内で「ラ イオン山梨の森」活動を行っています。)




ポイント1 国技館

現在の国技館は地上2階・地下1階建てで、旧両国貨物駅跡地に建設され、昭和五十九年(1984年)11月30日に完成し、翌昭和六十年(1985年)1月場所から使用されています。こけら落としとなった初場所では、北の湖と千代の富士の両横綱によって特別な日のみに行なわれる「三段構え」が披露されました。現在では相撲の他、プロレスや格闘技・ボクシング・株主総会や企業の式典・大学の入学式・コンサートなどが行なわれています。



両国国技館の正面左手にある稲荷門から中へ入ると、左手にふたつの神社があります。左が豊国稲荷神社で、右が出世稲荷神社です。両社とも、国技館の移転の度に遷座してきました。力士たちの開運・出世・興行の成功祈願や勝利祈願のために祀られたもので、まるで双子のように同じ鳥居・手水舎・狛狐・社殿が並んでいます。国技館の隅にあって目立ちませんが、相撲好きの方には魅力溢れる聖地となっています。真向かいには相撲関連の売店があり、様々な相撲グッズが買えるようになっています。



ポイント2 旧安田庭園

国技館の北側に旧安田庭園の西門があります。旧安田庭園は、常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資により元禄年間(1688年〜1703年)に築造されたと伝えられ、かつては隅田川の水を引いた汐入回遊式庭園として整備されました。明治維新後は旧備前岡山藩主池田侯の邸となり、次いで安田善次郎氏の所有となりました。安田氏の没後、大正十一年に東京市に寄附されました。関東大震災・太平洋戦争を経て東京都から墨田区に移管され、全面的改修を行って復元した後、一般に開放されました。現在は、ポンプを使用して人工的に潮入が再現されています。

旧安田庭園の沿革

元禄年間(1688年〜1703年)に、 徳川五代将軍綱吉の生母である桂昌院の実弟で、後の常陸笠間藩5万石の藩主、本庄因幡守宗資が下屋敷として拝領し、この庭園を築造したと伝えられている。中央に「心」字をかたどった池を配し、かつては隅田川の水を引き入れ、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる潮入り池泉廻遊式庭園である。明治になって旧備前岡山藩主池田章政侯爵邸となり、明治二十四年(1891年)には、安田財閥の創始者である初代安田善次郎の所有となった。安田翁の逝去後、故人の遺志により大正十一年(1922年)に家屋及び庭園は、東京市に寄付された。大正十二年(1923年)9月1日の関東大震災により壊滅的な被害を受けたが、残った地割り石組みを基にして復元工事が行われた。旧安田邸跡地は寄付者の名を冠して「旧安田庭園」と命名され、昭和二年(1927年)に民間篤志家の寄付による和風庭園として都内初の一般公開となった。昭和四十二年(1967年)、東京都から墨田区に移管されたのを機に、全面的な改修工事を行い、昭和四十六年(1971年)に新装開園し、現在に至っている。明治時代の文献の中で記載されている姿を今日までよくとどめており、清澄庭園に匹敵する明治時代の代表的庭園の一つであることから、平成八年(1996年)、東京都の「名勝」に指定された。

THE HISTORY OF KYU-YASUDA GARDENS

In the Genroku Era (1688 - 1703), a feudal lord in the later Hitachi-Kasama Clan of 50,000 koku, Honjo Inabanokami Munesuke, who was a younger blood brother of the biological mother (Keishoin) of Tsunayoshi Tokugawa, the fifth shogun, received this land from the Bakufu as a suburban residence and is said to have constructed this garden. This garden has a pond in the shape of the Japanese character "kokoro" (heart) at its center and uses a system known as shioiri by which the pond is fed from the Sumida River, so the water level in the pond rises and falls with the ebb and flow of the river's tide. After the Meiji Restoration, it was the home of the Lord Ikeda Akimasa of the late Bizen-Okayama Clan and, then, in 1891, it became the property of Yasuda Zenjiro, founder of the Yasuda Financial Group. After Zenjiro's death, as specified in his will, the garden and house were donated to Tokyo City in 1922. However, on September 1 of the following year (1923), the grounds were almost completely destroyed by the Great Kanto Earthquake. The City began re-construction. "Kyu-Yasuda Gardens". work on the garden, using as a base the ishigumi stone formations, which fortunately remained, and then named the gardens after the donor -- In 1927, it was opened to the public as the first Japanese garden, donated by a private charitable person. Taking the opportunity of its jurisdiction transfer from the Tokyo Metropolitan Government to Sumida City in 1967, it was fully re-constructed and, in 1971, it was completely restored to the original condition of former times when it was called a "distinguished garden". In 1996, this garden was designated a Metropolitan Place of Scenic Beauty as a typical garden of the Meiji Era.




旧安田庭園の中央には、「心」を模した池が広がっています。



かっては、池の水は隅田川から引き込まれていました。

潮入りの再現について

江戸時代、この庭園は隅田川の水を引き入れた池を配し、潮の干満によって変化する景観を楽しむ技法を設けた「潮入り池泉廻遊式庭園」として造成されました。その後、水位調整のための水門は、昭和三十年代までの隅田川の水質環境の悪化や、出水対策のための堤防補強に伴って昭和四十年頃には、閉じられ、導水溝も埋められ、図の位置に往時の姿をとどめる遺構として水門跡が現状のまま保存されています。墨田区では、昭和四十六年に本園北側に約750uの貯水槽(貯水槽量約800トン)を地下に造り、池と貯水槽に水を移動させることにより、人工的に干満を表現する潮入りを再現しました。写真1は満潮時(午前9時)、写真2は干潮時(午後3時から4時)の写真で、1日で30cmの変化が見られます。干潮時には、一部池底の飛石が露出し、歩行が可能になります(図参照)。




水門跡は、西門から入った左手隅に保存されています。

水門跡

江戸時代にこの庭園が造成された折、隅田川から水を引き込み、潮の干満によって池の水位を上下させ、それとともに見え隠れする岩や護岸、浮沈する島等の景観変化を楽しむという技法がとられました。これは「潮入」と呼ばれるものです。この水門は、潮入池の水位調整のために造られたものでしたが、昭和三十年代までの隅田川の水質環境の悪化や、出水対策のための堤防補強に伴って、昭和四十年頃には閉じられ、導水溝も埋められてしまいました。潮入の池は、都内ではほかに浜離宮庭園や旧芝離宮庭園、清澄庭園などでも採り入れられていましたが、現在も目にすることができるのは、浜離宮のみとなりました。墨田区では、潮入の再現を図るため、昭和四十六年に本園北側に約七百五十平方メートルの貯水槽(貯水量約八百トン)を地下に造り、池と貯水槽に水を移動させることにより、人工的に干満を表現する潮入を再現しました。本園の水門は、現在では当初の機能を失ってはいますが、往時の姿をとどめる遺構として現状のまま保存されています。




公園の東南角に大きな石が顔を出しています。

両国物語 駒止石

三代将軍家光の寛永年間の半ばにあたる八年(1631年)に秋の台風に見舞われ隅田川は大洪水となりました。本所側の被害は特に甚大で、これを憂慮した家光は、その状況を調べさせよう としました。しかし、あまりの濁流に誰もが尻込みをする中、旗本阿部豊後守忠秋が進み出て、現在の柳橋の辺りから、馬を乗り入れました。忠秋は、馬を巧みに操って川を渡り、被害状況を調べて回りましたが、その際、馬を止めて休憩したところが駒止石です。当時、この辺りに住んでいた人々が忠秋の徳を敬い、この地に駒止稲荷を祀りました。




神社名は確認できませんが、恐らく駒止石の近くにあることから、これが駒止稲荷なのでしょう。



ポイント3 隅田川テラス

とあるビルのエスカレータを上がって隅田川テラスに向かいます。このビルは建物の中心部に都市から川へと通り抜けができる半屋外空間「すみだリバーゲート」を設け、川と都市を繋いでいます。

◆隅田川テラス

隅田川では河川テラスを順次整備しています。この河川テラスを歩くと勝鬨橋から白鬚橋まで隅田川を眺めながら散策することができます。川沿いには江戸東京の歴史や文化を今なお残している町があり、テラスを歩くと今まで知らなかった隅田川の素晴らしさ、懐かしい面影に出会うことができるかもしれません。




施設には、ホテル・東京都による水上バス待合所・墨田区による両国子育てひろばの3つの機能を中心に、シェアサイクルやカーシェアなどの機能も誘致して交通結節点としての機能も持たせています。



東京都は、水辺の賑わいを創出し、都市の魅力を向上させていくことを目指して、隅田川の防潮堤に「隅田川テラスギャラリー」を設け、中央区浜町地区・墨田区両国地区・台東区今戸地区にそれぞれの地区の江戸時代から昭和時代の文化や街並みなどの錦絵を展示しています。両国地区では、両国地域の伝統的な江戸情緒を感じられる錦絵と地元小・中学校の卒業制作作品や在校生制作作品を展示しています。



両国の風景が描かれています。

東都両國之風景

空を広く取り、丁寧に影を描き込むなど、西洋絵画のような雰囲気を漂わせた作品。両国橋を、西詰(にしづめ)の上流側から描いている。画面右側に高くそびえるのは、筵(むしろ)等で作られた見世物小屋。本来両国橋西詰めは火除け地(ひよけち)のため、建築は許可されていない。そのため見世物小屋も水茶屋(みずぢゃや)も、いつでも取り壊せるよう簡単な作りとなっている。全体として静かな印象を与える絵に仕上がっている。




明治初期に架けられた木橋の様子が描かれています。

東京名勝両國橋新築(図?)

明治八年(1875年)に架けられた洋式木橋の新築当初の姿である。作者の三代広重は、初代広重の門人で本名は寅吉(のち寅次郎)といった。初代の跡を継いだ兄弟子の二代広重が師の娘と離婚して師家を去ったため、その後に婿に入った寅吉が広重の名を継ぐこととなった。その画風は初代の影響を受けること少なく、文明開化の風俗を描くことに長けており、「開化絵」の代表的絵師として名を馳せた。




夏の夕べの風景が描かれています。

江戸八景両國橋の夕照

夕日の残る両国橋界隈の様子を描く。遠くに見える大きな橋が両国橋で、橋の左手には東岸の回向院の境内に立つ見世物小屋や幟(のぼり)が見え、右には両国橋西詰(りょうごくばしにしづめ)の見世物小屋と幟もちらりとのぞく。手前に架かるのは柳橋。人の往来も多く、「書画会(しょがかい)」の幟なども立ち、柳橋界隈の賑わい振りがよくわかる。空には花火が上がり、夏の夜の宴がいよいよ始まる。




花魁や芸者達が乗る舟が華やかに描かれています。

隅田川花の賑ひ

竹屋の渡し付近を描いている。花魁や芸者達の乗る船が、墨堤上の賑やかさに花をそえている。渡し場の奥には、三囲(みめぐり)神社の鳥居が見える。竹屋の渡しは三囲神社鳥居付近と、待乳山(まつちやま)のふもとを流れる山谷堀の南岸を結んでいた。




墨堤の桜が描かれています。

隅田川の桜

墨堤の桜は、八代将軍徳川吉宗が享保二年(1717年)、木母寺門前から寺島村上がり場までの堤に桜を植えたことに始まる。その後も桜は植え増され、文政十年(1827年)の「江戸名所花暦」では、墨堤は「江戸第一の花の名所」と言われた。




花見の風景が描かれています。

東京名所之?

水面におおいかぶさる桜と、隅田川から大挙して押し寄せる人々、酔って踊る人が描かれ、花見の時期の賑やかさが見てとれる。画面奥には吾妻橋、隅田川西岸には浅草寺・凌雲閣が見え、はるか彼方には富士山が描かれる。




中学校と小学校の生徒・児童による卒業記念の壁画です。



杭が沢山並んでいます。両国橋への水流の負荷を減らすために川底に打ち込まれた杭だそうです。

両国の百本杭

明治時代ごろまでの隅田川の川岸には、強い水勢を弱め護岸の役目を果たす多数の杭が打ち込まれていました。特に、両国橋より上流の左岸側(現在のJR総武線と両国橋のあいだ)に打たれた杭は「百本杭」の愛称で呼ばれ親しまれていました。幼少をこの地で過ごした芥川龍之介は、作品「本所深川」で百本杭のあった頃の隅田川の風景を振り返っています。また、幸田露伴の著した東京の水辺の風景についての随筆「水の東京」でも「百本杭」について、「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出でたるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特に深し。ここにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり。」と記しています。「百本杭」を題材とした絵画も何点か描かれており、江戸時代から続く昔の隅田川の風景を偲ばせる名所となっていたようです。

当時の護岸の復元

当時の隅田川の護岸は石積でつくられていました。明治時代の柳橋の写真を見ると、あまり規格化が厳密ではない間知石による布積の技法(布目崩し)で積まれていたことがわかります。隅田川テラスギャラリーの整備において、当時の護岸景の一部をここに復元しました。背景の堤防壁面には、当時の隅田川の様子を描写した絵画を展示しています。また、蔵前橋の上流側には、当時の護岸形状をモチーフとした花壇を布目崩しの技法を用いて設置しました。材料は、当時の東京で多く用いられていた真鶴産の安山岩(小松石)と良く似た秋田の男鹿石を用いています。




蔵前橋は、昭和二年(1927年)11月に竣工した隅田川に架かる橋で、蔵前橋通りが通り、橋全体が稲の籾殻を連想させる黄色に塗装されています。昭和二十九年(1954年)9月から昭和五十九年(1984年)12月まで橋の西詰に蔵前国技館があり、高欄には力士などのレリーフが施されています。関東大震災の復興計画により現在の橋が架橋され、それ以前は「富士見の渡し」と呼ばれていた渡船場がありました。



厩橋(うまやばし)は、関東大震災の復興事業として昭和四年(1929年)9月に完成した橋で、春日通りが通っています。現在の橋は長さ151.4m・幅24.5mの三連アーチ橋で、昭和六十二年(1987年)から平成元年(1989年)にかけての隅田川著名橋整備事業で補修・補強や装飾が行なわれ、親柱上部には馬が浮かび上がるステンドグラスが取り付けられ、橋全体に馬を連想させるレリーフが施されています。橋名は西岸にあった「御厩河岸(蔵前の米蔵の荷駄馬用の厩)」に因んでいます。この場所には、江戸時代の元禄年間頃から続いていた「御厩の渡し」がありました。明治五年(1872年)に花見客の人出でこの渡し舟が転覆する事故があり、以前から転覆事故が多かったこともあって「三途の渡し」と揶揄されていました。



駒形橋は、関東大震災後の復興計画により、昭和二年(1927年)6月に架橋され、浅草通りが通っています。橋名は、橋の西詰にある「駒形堂」に因んでいます。橋が架かる前は、この場所に「駒形の渡し」がありました。国内で初めての本格的な鋼中路式アーチ橋で、令和六年(2024年)9月に土木学会選奨土木遺産に認定されました。

◆隅田川の橋

隅田川には古くから橋が架けられ、各種の災害で度々架け替えが繰り返されましたが、「渡し」の頃からの名称、初期の橋の形式、橋詰の風情などに名残が継承されています。本格的な橋が隅田川に架けられたのは江戸時代初期(1594年)で、千住大橋が初めてでした。関東大震災による復興で架橋された橋は、今日でも立派に機能しており、これら先人たちの技術と近代の技術で架けられた橋とが競うように並ぶ隅田川は、橋の博物館とも呼ばれます。

◆駒形橋

【橋長】 149.6m 【幅員】22.0m
【構造】中央径間: 中路式ソリッドリブタイドアーチ橋
    側径間:  上路式ソリッドリブアーチ橋

駒形(こまがた)の名は、浅草寺に属する駒形堂に由来します。土地の人々によれば、コマカタは清く発音してコマガタと濁らないと伝えています。ここは古来交通の要地で、”駒形の渡し”のあったところです。江戸の巷説に有名な「君はいま 駒形あたり ほととぎす」の句は、文芸・美術などの上で、 駒形堂とともに、この辺りの雰囲気を伝えるものです。関東大震災の後、復興事業の一環として、この地に新しく優美なアーチ橋が設計され、昭和二年(1927年)に完成しました。




吾妻橋が初めて架けられたのは、安永三年(1774年)10月で、それまではこの場所に「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟がありました。徳川家康の入府から江戸時代にかけて隅田川に架橋された5つの橋のうちの最後の橋で、明和六年(1769年)4月に浅草花川戸の町人伊右衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が幕府によって許可され、着工後5年で完成しました。当時の橋は、長さ八十四間(約150m)・幅三間半(約6.5m)で、武士以外の全ての通行者から2文ずつ通行料を取ったと記録に残っています。天明六年(1786年)7月の洪水の際に永代橋・新大橋がことごとく流され、両国橋も大きな被害を受ける中で吾妻橋は無傷で残り、架橋した大工や奉行らが褒章を賜ったといわれています。橋名は、当初は「大川橋」と呼ばれていましたが、これは近辺で隅田川が「大川」と呼称されていたことに因んでいます。しかし、江戸の東にあるために町民たちには俗に「東橋」と呼ばれ、後に慶賀名として「吾妻」とされた説と、東岸方面の向島にある「吾嬬神社」へと通ずる道であったことから転じて「吾妻」となったという説があります。明治九年(1876年)6月に木橋として最後の架け替えが行われた際に、正式に現在の橋名である「吾妻橋」と命名されました。この最後の木橋は、明治十八年(1885年)7月の大洪水で流出した千住大橋の橋桁が上流から流されてきて橋脚に衝突し、一緒に流失してしまいました。そのため、明治二十年(1887年)12月に隅田川最初の鉄橋として再架橋されました。鋼製プラットトラス橋で、人道橋・鉄道(東京市電)橋・車道橋の3本が平行して架けられていました。大正十二年(1923年)9月1日の関東大震災によって木製だった橋板が焼け落ちてしまい、一時的な補修の後で昭和六年(1931年)に現在の橋に架け替えられました。

◆吾妻橋

【橋長】150.0m 【幅員】20.0m
【構造】3径間鋼ソリッドリブタイドアーチ橋

吾妻(あづま)の名は、古来、東国・関東地方を総称するアズマの語に由来しています。また立花の吾嬬神社にもゆかりをもっています。もとは”竹町の渡し”のあったところで、安永三年(1774年)に住民によって有料の橋が架けられ、大川橋と呼ばれていましたが、後には吾妻橋と通称されました。明治九年(1876年)には、吾妻橋を正式の名称とし、その後明治二十年(1887年)に鉄製のトラス橋として完成しました。現在の橋は、昭和六年(1931年)に架け替えられました。




ポイント4 吾妻橋からの風景

隅田川テラスを上がって吾妻橋を渡ります。



吾妻橋の袂に隅田川クルーズ船の船着き場がありますが、ここから眺めるスカイツリーはベストビューポイントです。スカイツリーの左側には墨田区役所の建物、右側にはアサヒビールの本社社屋とホール棟と、構図が抜群です。アサヒビール本社社屋は、形や色がビールジョッキになっています。金色の液体に泡がモコモコしている様子はまさしくビールです。ホール棟の屋上にある金のオブジェは、“アサヒビール社員の燃える心”をイメージした「金の炎」だそうです。フランス語では「フラムドール」というのだとか。何も知らない観光客は絶対にそうとは思わないですよね。下の黒い部分は「聖火台」だそうで、そこはビアレストランになっており、キンキンに冷えた工場直送ビールをいただけます。私も頂いたことがあります。飲み比べセットがお得です。



吾妻橋の西詰に、GTS観光アートプロジェクトのひとつである「そらちゃん」の像が建っています。大理石の彫刻にガラスとモザイクを組み合わせた作品です。「そらちゃん」は招き猫で、両目と胸のハートには色ガラスの凹レンズがはめ込まれていて、東京スカイツリーや周辺の風景が小さくいくつも映ることでおもしろいパノラマが楽しめます。

GTS GEIDAI TAITO SUMIDA Sightseeing Art Project
GTS[東京藝術大学・台東区・墨田区]観光アートプロジェクト2010−2012

GTS観光アートプロジェクトは、平成二十二年度より平成二十四年度までの3年間の計画で行われた、東京藝術大学(G)、台東区(T)、墨田区(S)による三者共催の地域連携プロジェ クトです。浅草と東京スカイツリーを結ぶ隅田川両岸地域は、江戸時代から桜の名所であり、浅草寺を始めとした由緒ある名所・旧跡が数多く点在するエリアです。GTS観光アートプロジェクトは、東京スカイツリーの建設にあわせて浅草と東京スカイツリーをアートで結ぶため東京スカイツリーのビューポイントに環境アート作品を12作品設置しました。地域の観光とあわせてアート巡りの旅をお楽しみください。




吾妻橋を戻って、墨田区側の隅田公園に入ります。墨田区のあちこちに立てられている鬼平情景の案内板があります。

吾妻橋(大川橋)

江戸時代、両国橋、新大橋、永代橋に次いで隅田川に架けられた四番目の橋です。安永三年(1774年)、長谷川平蔵二十九才の時、町人からの幕府への願いが受け容れられ、架橋されました。民営のため武士を除く利用者から渡賃二文を徴収して維持費に充てました。長さ八十四間(約150メートル)、幅三間半(約6.5メートル)あり、正式名は大川橋です。吾嬬神社への参道にあたるとして吾妻橋への改名願いが出されましたが、それが叶ったのは明治九年(1876年)になってからです。鬼平犯科帳でも数々の作品に登場します。なかでも人気の、亡父遺愛の銀煙管が鍵となる「大川の隠居」では、平蔵を乗せた友五郎の櫓さばきも巧みな舟が、吾妻橋をくぐって大川を遡っていく名場面に出てきます。




3枚のパネルに墨田区の観光案内が紹介されています。今回訪れる所のみを抜粋します。

牛嶋神社

本所牛嶋の総鎮守社。境内には「なで牛」があり、心身快癒の祈願物として信仰されています。また、5年に1度の大祭では、鳳輦(牛車)を中心とする古式豊かな行列が、氏子五十町安泰祈願巡行を行います。

Ushijima-jinja Shrine

The precincts of Ushijima-jinja Shrine, the head Ushijima-jinja shrine, include a statue known as Nadeushi, or the "Touching Cow", which visitors touch while praying for physical and emotional healing. Once every five years, a procession incorporating a number of ancient rites centering on an elaborate ox-drawn cart winds its way through the surrounding area to pray for the peace and safety of its residents.

隅田公園

隅田川をはさんで、墨田区と台東区にまたがる臨水公園。墨田区側は旧水戸藩屋敷の日本庭園を含む都内有数の桜の名所として知られる。園内には、「牛嶋神社」「常夜灯」「墨堤植桜之碑」「藤田東湖の詩碑(正気之歌)」等がある。

Sumida Park

This park lies in both Sumida and Taito. The Sumida side contains a Japanese garden, once part of the feudal residence of the powerful Mito-clan, that is renown for its cherry blossoms. Within the park are Ushijima-jinja Shrine, stone lantern, and two memorial stele. One is dedicated to the planting of cherry trees, and another is a poem (Shoki-no-uta) by Fujita Tohko.



墨田区役所脇の広場に勝海舟の銅像が建っています。

建立の記

勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政六年(1823年)一月三十日、江戸本所亀沢町(両国四丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治三十二年(1899年)一月十九日(発表は二十一日)赤坂の氷川邸で逝去されました。勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
  海舟生誕百八十年
  平成十五年(2003年)七月二十一日(海の日)




北十間川が隅田川から分岐する地点と浅草を結んで東武鉄道の鉄橋が架かっています。かっては電車が通るだけでしたが、令和二年(2020年)に橋梁沿いの歩道橋「すみだリバーウォーク」がオープンしました。午前7時から午後10時まで解放され、徒歩で自由に渡ることができます。床面に隅田川を見下ろすのぞき窓があるほか、東京スカイツリー公式キャラクターの「ソラカラちゃん」のイラストが隠されているなど、遊び心あふれる趣向も凝らしています。鉄道の橋梁や東武鉄道の車両が走る様子を間近に見ることができるので、鉄道好きにも楽しめます。



墨堤通りの手前に奇妙なオブジェが建っています。吾妻橋の袂にあったアート作品と同じ趣旨で設置されたみたいです。

GTS GEIDAI TAITO SUMIDA Sightseeing Art Project
GTS観光アートプロジェクトは、東京藝術大学(G)・台東区(T)・墨田区(S)の頭文字からなる三者共催の地域連携プロジェクトです。


ゆらぎツリー
この作品は、そよ風が起こした漣(さざなみ)が、鏡面のように澄み切った水面に波紋を投げかけた時に、そこに映り込んですこしゆらぎ始めた東京スカイツリーをイメージソースとし、制作したものです。逆立ちしたようにも見える姿はユーモラスでもあります。また、この先の枕橋からは、北十間川に映りこむ実際の逆さツリーを見ることもできます。このゆらぎツリーが、この場に定着し、皆さんに愛されることを願っています。




枕橋はスカイツリーの絶好の眺望ポイントのひとつです。



ポイント5 源森川水門

北十間川が隅田川から分岐する地点に源森川水門があります。北十間川は、総延長3.24kmの荒川水系の一級河川であり、江戸時代初期に開削された運河です。川の名称は、本所の「北」を流れる川幅が「10間」の川であることに由来します。以前は大横川の分流点より西を源森川(別名:源兵衛堀)、東を北十間川と呼んでいました。水門の名前もかっての呼び名の源森川に因んでいます。



枕橋を渡った先の歩道脇に、鬼平情景の案内板が立っています。

枕橋 さなだや

当時は堀留となっていた源森川に架かる橋で、作品の中では源森橋、源兵衛橋と名を変えて出てきます。その北隣の水戸家下屋数に引き込まれた水路に架かる小梅橋と対になると夫婦が枕を並べた様子に似ていることから、枕橋と呼ばれていました。鬼平犯科帳では、その北詰にある蕎麦屋(さなだや)がいっしょに数多く登場します。「蛇の眼」ではその店で、平蔵独特の勘ばたらきからあやしい奴に出くわし、追跡する場面があります。実はこの男、大盗・蛇の平十郎で、源兵衛橋の下に潜り込んで、まんまと逃げ失せてしまいます。鬼平犯科帳の番外編とされる「にっぽん怪盗伝」収録の「正月四日の客」は、(さなだや)が舞台になり、亭主の庄兵衛と客の亀の小五郎とのむだ口のない遣り取りが実にいい味を出しています。




ポイント6 隅田公園

墨堤通りを渡って隅田公園に入ります。此の地は、江戸時代には水戸藩の蔵屋敷でした。

隅田公園の歴史解説
小梅邸と明治天皇行幸

江戸時代、この地は水戸徳川家の蔵屋敷で、上屋敷の小石川邸(その外庭が小石川後楽園)が明治時代初めに砲兵工廠となったため、この小梅邸が本邸(当主・徳川昭武:十五代将軍慶喜の弟)となりました。小梅邸は、北十間川から隅田川に出る舟運の要衝であると同時に、水戸と小石川邸を結ぶ水戸街道沿いにあって街道の要衝でもありました。江戸時代から桜の名所であった隅田堤の桜が満開の明治八年(1875年)4月4日、明治天皇が小梅邸に行幸され、その時の御製が石碑に刻まれています。これは徳川関係屋敷への最初の行幸で、明治政府と徳川の和解の場でした。行幸啓は以後5回に及び、明治二十九年(1896年)には洋館が造られました。

Sumida Park History Description
"Koume Residence and Emperor Meiji's visit"

In the Edo period, this used to be the daimyo's city storehouse of the Mito-Tokugawa family. Since their main residence, the Koishikawa Residence (The outer court is Koishikawa Korakuen), became an artillery arsenal in the early Meiji period, the Koume Residence became their main residence. (The head of the family was Akitake Tokugawa, younger brother of the 15th shogun, Yoshinobu Tokugawa). The Koume Residence as well as being a key point for water transportation from the Kitajukken River to the Sumida River, because of its location along Mitokaido, which connects Mito and the Koishikawa Residence, also served as a key point for the highway. On April 4, 1875, when the cherry blossoms of Sumida Tsutsumi (embankment of the Sumida River), a famous place for cherry blossoms since the Edo period were in full bloom, Emperor Meiji made an imperial visit to the Koume Residence. The poem written by the Emperor upon his visit is engraved on the stone monument. It was the first visit made to the Tokugawa-related residence. It is also where the Meiji government and Tokugawa reconciled. Five more visits were made since then and in 1896, a Western-style house was also built.




公園の入口の脇に石碑が建っています。富田木歩は、明治三十年(1897年)に向島小梅町(現在の向島三丁目)に生まれた俳人です。誕生の翌年に高熱のために両足が麻痺し、幼くして両足の自由を失い、小学校にも入学できませんでした。歩行不能・肺結核・貧困・無学歴の四重苦に耐えながら俳句を詠み続け、「犬猫と同じ姿や冬座敷」、「死装束縫ひ(い)寄る燈下秋めきぬ」などの句を残し、「大正俳壇の啄木」の賞賛を受けるまでになりました。木で義足を作って歩くことを工夫した願いが「木歩」の号に表されています。この碑には大正十二年の関東大震災で枕橋の土手まで助けられて避難しましたが、隅田公園枕橋の袂がその終焉の地となってしまったことが碑に記されています。

俳人 富田木歩終焉の地

木歩は本名を一(はじめ)といい、明治三十年に墨田区向島二丁目の鰻屋の次男に生まれました。二歳のとき両脚の自由を失い、小学校に入学できず、彼はいろはカルタ等で遊びながら文字を覚えました。たびたびの洪水で家は貧乏のどん底に陥り、二人の姉は苦界に身を沈め、妹は女工に弟も内職の手伝い、彼も徒弟奉公に出ました。しかし仲間に辛く当られ仕方なくやめました。こうした苦しみと孤独の中で、彼は俳誌「ホトトギス」を知り、俳句に惹かれます。やがて、彼は臼田亜浪に師事して句作に精進し、その俳句は高く評価されるようになります。さらに彼を理解し、援助する新井声風という俳友もでき、彼に俳句を学ぶものもでてきました。しかし、妹も弟も肺患で死に、彼自身も肺を病むといった苦境での句として、
   かそけくも 咽喉鳴る妹(いも)よ 鳳仙花(ほうせんか)
 木歩は関東大震災にあい、声風に背負われて墨堤に避難しましたが、枕橋が焼けて逃げられず、このあたりで焼死しました。二十六歳でした。




隅田公園は桜の名所として知られています。

隅田公園の歴史は植桜の歴史

“隅田堤(墨堤)の桜”は八代将軍吉宗の時代に木母寺に植えられ、花見の名所として地元有志に受け継がれて南に延びていき、明治時代には枕橋にまで到達しました。関東大震災(大正十二年【1923年】)ではほとんどの桜が消滅しましたが、幅員33mの3列の桜並木(ブールバール)を有する日本初のリバーサイドパークとして、昭和六年(1931年)に隅田公園が整備されました。その後、防潮堤の嵩上げや首都高速道路の建設などで昭和四十年(1965年)代に公園の姿は大きく変わりましたが、それらの植桜の営みを引き継ぎ、平成になると桜を愛する人々の寄付によって生育環境の改善を図るとともに、内に新たな桜を植栽しています。現在も地元有志による桜の保全活動が続けられており、1キロに及ぶ桜の景観が楽しめる公園として、次代に守り伝えようとしています。

"The history of Sumida Park is interwoven with
the cultivation and establishment of cherry blossom (sakura)"

The cherry blossom of Sumida Tsutsumi (Bokutei). referred to as Sumida Tsutsumi (Bokutei) no sakura in Japanese was planted at Mokuboji Temple during the reign of the eighth shogun (1684-1751). Tokugawa Yoshimune. Local volunteers established the cherry blossom of Sumida Tsutsumi as a cherry blossom viewing spot, and extended them to the south, the cherry blossom finally reaching Makurabashi by the Meiji era. In 1923, during the 12th year of Emperor Taisho's reign, the Great Kanto Earthquake destroyed most of the cherry blossom. Sumida Park was built in the 6th year of the Showa period (1931) as the first riverside park in Japan. Three lines of cherry blossom on the boulevard extend 33 meters wide. The rise of seawalls and the building of the Metropolitan Expressway. during the 40th year of the Showa period (in 1965). greatly changed the figure of the park. However, local volunteers who had taken over cherry blossom planting worked to beautify the Park again. Entering the Heisei era (around 1989). donations by people who love cherry blossoms have improved the growing environment and promoted the planting of cherry blossoms in the park. Local volunteers are still working diligently to protect and pass down the tradition of cherry blossom planting and viewing in the park, which has resulted in a beautiful cherry blossom landscape extending over 1 kilometer.




ソメイヨシノは代表的な桜の品種ですが、隅田公園には他にも多くの桜の品種が植えられています。

ソメイヨシノ(染井吉野)

桜と言えは(ば?)「ソメイヨシノ」。咲き始めは淡紅色、満開になると白色に近づく。ソメイヨシノは明治以降、圧倒的な人気を誇り、最も一般的な桜として人々に親しまれている。江戸時代後期〜明治時代初期、東京の豊島区染井村(現在の東京都豊島区駒込)で作出・販売された名前は染井村と奈良県吉野山から。生育が早く清楚な花を多く咲かせるため人気を呼び徐々に広がった。戦後も若木から花を咲かし開花が華やかな特性が好まれ、公園や学校などに爆発的な勢いで植えられた。ソメイヨシノはエドヒガンとオオシマザクラの雑種が交雑してできた。挿し木や接ぎ木などでしか子孫を作れないことより、単一の原木を始源とするクローン(=分身)であることがDNA分析で判明している。遺伝子的に親の分身であるため、同一条件下のソメイヨシノは一斉に咲き一斉に花を散らす。このように多数の個体が同一に近い特徴を持つことから「桜の開花予想」(さくら前線)の指標となり、季節の進み具合や遅れ具合など、総合的な気候状況を把握するために利用されている。

Someiyoshino

"Someiyoshino" are the most common cherry tree in Japan since the Meiji era, and familiar to many people as the closest cherry trees. The color of light mazenta at the beginning of bloom, approaching white when it's in full bloom. It's a popular species overwhelming other cherry blossoms. In the late Edo period - the early of the Meiji era, were created and sold in Toshima Ward Somei village in Tokyo. (Now, Komagome Toshima, Tokyo). It's named after this Somei village and Mt.Yoshino, Nara Pref. Its growth werer quick and grew popularly gradually because it made many neat and cleantidy flowers bloom. Flowers are blooming from young trees and flowering are gorgeous, ware planted with explosive momentum at the parks and schols etc. after the 2'nd world war. The DNA analysis has revealed Someiyoshino's a clone originating from a single tree formed by crossing hybrids of Edohan and Ohshimazakura. It have been increased with only human grafting and making cutting. Because all individuals have the same gene, all Someiyoshino cherries all at once and scatters the flowers all at once. Since many individuals have characteristics similar to the same, it's an indicator of "Cherry Blossom Forecast" (Sakura Front Line), which is useful for grasping climate conditions.




隅田公園はスカイツリーの直ぐ近くに位置しているため、絶好のビューポイントになっています。



墨堤の桜は多くの人たちによって維持されています。

平成植桜の碑

墨堤に桜を植え、花見の名所にしたのは徳川八代将軍吉宗でした。吉宗は桜・桃・柳などを植えて、人々の憩える場所にしました。以来人々は、墨堤の桜を大切に守り育ててきました。東都有数の景勝地として人々に知られた墨堤の桜は、これまで幾度も洪水等の危機に見舞われましたが、そのたびに地元の人々が寄付を募り、その寄付で桜を植え直し今日に至っています。高速道路の建設工事に伴い植え替えられた現在の桜は、樹齢も四十年余りの年月を数え、一部の桜は樹勢が衰えてきました。そこで、これまでの歴史的な背景もふまえ、このたびの「墨堤の桜の保全・創出事業」において、桜を愛する人々の寄付によって生育環境の改善を図るとともに、隅田公園内に新たに桜を植栽し、墨田区登録名勝ともなっている墨堤の桜を次の世代に守り伝えていくことになりました。新たな桜植栽にご協力いただいたのは、左記の方々をはじめとする多くの善意あるみなさんです。




隅田公園は、関東大震災後の帝都復興事業により、日比谷公園・浜町公園と並ぶ「三大震災復興公園」のひとつとして整備されました。昭和五十年(1975年)に東京都から墨田区に移管され、昭和五十二年(1977年)には区政施行30周年を記念して大改修が行われました。令和七年(2025年)に完了した再整備第二期工事では、震災復興時の楕円園路の再現や、ひょうたん池の拡張による日本庭園の景観向上を通じて、歴史的・文化的価値を最大限に活用し、老朽化した施設の更新や園路の見通し確保といった安全面の改善も図り、公園のさらなる魅力向上を目指しています。

震災、戦災そして再整備

大正十二年(1923年)9月1日の関東大震災で水戸徳川家の小梅邸は崩壊・焼失し、昭和五年(1930年)、跡地は震災復興局によって隅田公園として整備されました。隅田公園は、隅田川の両岸(本所側・浅草側)に展開し、本所側には三列の桜並木をもつ公園道路と旧小梅邸の園池を取り囲む園路と広場等が整備されました。 震災復興を代表する隅田公園も第二次世界大戦の東京大空襲によって焼け野原になり、大勢の方がこの地に仮埋葬されました。昭和三十三年〜昭和三十六年(1958年〜1961年)、公園は東京都によって復旧整備され、昭和四十六年(1971年)には公園道路上に首都高速道路が造られました。昭和五十二年・昭和五十三年(1977年・1978年)、東京都から移管を受けた墨田区は区制30周年記念事業として公園改修をし、さらに今回(平成三十年〜令和二年(2018年〜2020年))は小梅邸や震災復興公園の遺構を保存・活用しながら、浅草と東京スカイツリーを繋ぐ回廊の拠点として再整備されました。

"Earthquake, War Damage, and Redevelopment"

The Koume Residence of the Mito-Tokugawa family collapsed and was destroyed by the Great Kanto Earthquake on September 1, 1923. In 1930, the site was developed as Sumida Park by the Earthquake Reconstruction Bureau. Sumida Park was developed on both banks of the Sumida River (Honjo side and Asakusa side). On the Honjo side, a park road with three rows of cherry blossom trees, as well as a garden path and open space surrounding the garden and a pond of the former Koume Residence were constructed. Although Sumida Park was the epitome of reconstruction from the earthquake disaster, it was burnt down by the Great Tokyo Air Raids during World War II, and many people were temporarily buried here. From 1958 to 1961, the park was restored and repaired by the Tokyo Metropolitan Government. In 1971, the Shuto Expressway was constructed above the Sumida embankment. In 1977 and 1978, Sumida City, which was entrusted with the development of Sumida Park from the Tokyo Metropolitan Government, renovated the park as a commemorative project for the 30th anniversary of the city. Furthermore, currently, from 2018 to 2020, by preserving and utilizing the remains of the Koume Residence and Sumida Park that had been restored after the earthquake disaster, it is undergoing redevelopment to serve as a base for a promenade that connects Asakusa and Tokyo Sky Tree.




ひょうたん池の中央にある中島は、よく見ると「亀」のように見えます。日本庭園によく見られる不老不死を願う施主の気持ちが表れている石組です。


左が改修前の2022年当時のひょうたん池、右が改修後の2025年現在のひょうたん池です。


明治天皇は、明治八年(1875年)に隅田公園の由来となった水戸徳川家小梅邸を行幸されましたが、日本庭園の中に明治天皇御製歌碑と明治天皇聖蹟を表す石碑が建てられています。歌碑には、「花ぐわし 桜もあれど 此やど乃 よ々のこころを 我はとひけり」という歌が刻まれています。裏面には、「明治八年四月四日 明治天皇先臣昭武の邸に臨ませられ畏くも宸筆の御製を賜ふ此地は當年の邸趾にして大正十二年の大震火災後帝都の復興に際し隅田公園となれり圀順此光栄ある遺蹟を永く世に傳へんと欲し御製を謹書して茲に此碑を建つ」と記されています。



明治天皇が水戸徳川家小梅邸を行幸されたことを記念して、庭園には明治天皇聖蹟を表す石碑と、その脇に水戸邸跡由来記を記した石碑が建てられています。

隅田公園水戸邸跡由来記

コノ地ハ江戸時代 水戸徳川家ノ下屋敷 小梅別邸ガ置カレタトコロデアル 徳川御三家ノ一ツデアル水戸家ガ オ浜屋敷 中央区ニ替エテコノ地ヲ賜ッタノハ 元禄六年 一六九三年 三代綱條公ノ時デアル 屋敷ハ西ハ隅田川ニ面シ南ハ北十間川ヲ巡ラシ 面積オヨソ六万六千平方メートル 約二万坪 南北二百メートル余 東西約三百メートルニワタリ南ニ広ガル梯形ノ地デ  現在ノ向島一丁目ノホボ大半ヲ占メ 墨田区南部ニ置カレタ大 小名屋敷八十余ノウチデ最大ノ規模ヲ誇ルモノデアッタ コノ屋敷ハ 現在後楽園ノ名ガ残ル小石川本邸 駒込別邸 イズレモ文京区 ノ控トシテ 従者デアル蔵奉行 水主 鷹匠ノ住マイナドニアテラレ マタ西側ニ接シタ一角ニハオ船蔵ガ置カレ 水戸家所有ノ船 材木ナドガ保管サレテイタ 弘化元年 一八四四年 烈公トシテ知ラレル九代斉昭公ガ藩政改革ノ一端カラ幕府ノ誤解ヲ招キ駒込別邸デ謹慎ヲ命ジラレタ際 改革派ノ中心デアリ高名ナ水戸学者デアッタ藤田東湖ガ責任ノ一班ヲ負イ蟄居ノ日々ヲ送ッタノモ コノ屋敷内ノ長屋デアッタ ヤガテ明治維新トナリ 十一代昭武公ノ代ヲ以テ藩制度ハ解消 一時政府の管理スルトコロトナッタモノノ 爾後 改メテ水戸家本邸ガ置カレ 明治八年ニハ 明治天皇 同二十五年ニハ 昭憲皇太后ノゴ訪問ヲ受ケタ シカシ大正十二年九月 関東大震災ノ劫火ニヨリ烏有ニ帰シ 二百三十年ニ及ブ水戸屋敷ノ歴史ハココデ閉ジタノデアル 昭和六年 帝都復興計画ニ基ヅキ隅田公園ガ造営サレルト 水戸邸ノ旧跡ハ同園ニ取リ入レラレ 往時ヲシノブヨスガヲソノ一角ニトドメ 広ク市民ノ憩イノ場トナッテイタ シカシソノ後 半世紀近イ歳月トトモニ環境ハ変化シ マタ第二次大戦ノ戦火ノ被害モアリ ソノ面影モオオカタ失ワレタ 昭和五十年 コノ公園ヲ管理スルコトトナッタ墨田区ハ 同五十二年区制施行三十周年ヲ記念シテ改修ニ着手シ コノタビ昔日ノ風趣ヲ伝エル日本風庭園ヲ再現サセタ ココニ カッテノ水戸徳川邸ノ林泉ノ美ガ復元サレタコトヲ機会トシテ一碑ヲ建テ イササカコノ地ノ由来ヲ記シ 後世ニ伝エルモノデアル




公園の東の縁に、小説家の堀辰雄の案内板があります。

堀辰雄ゆかりの地

堀辰雄は明治三十七年(1904年)、麹町平河町(現在の千代田区平河町)に生まれました。二歳のとき、母志気に連れられ向島小梅町(現在の向島三丁目)に住む叔母の家に移りました。その後、明治四十一年に母が彫金師上條松吉と結婚し、向島中ノ郷町三十二番地(左図@)で暮らしはじめます。 更にその二年後には大水の影響で新小梅町二ノ四(同A)に移り、ここから牛島尋常小学校(同A)に通います。府立第三中学校(現在の都立両国高校)を卒業した辰雄は、室生犀星の紹介により同校の先輩である芥川龍之介を知り、文学的影響を受けます。関東大震災では九死に一生を得ますが、母を亡くしました。大正十三年(1924年)四月に父松吉が隅田公園東隣の新小梅町八番地(左図B)に住居を新築し、辰雄が結婚して軽井沢へ赴く昭和十三年(1938年)まで父と共にそこで暮らしました。辰雄の夫人多恵氏は随筆「蓮の花」の中でこの家を懐かしみ、「あの竹の植わっていた小さい玄関−辰雄はそんな自分の家を「雀のお宿」と呼んでいた」と記しています。 人生の過半を向島で過ごした辰雄は、「墓畔の家」や「幼年時代」などの作品に、当時の墨堤や近隣の寺社の様子を記しています。「神社の境内の奥まったところに、赤い涎かけをかけた石の牛が一ぴき臥てゐた。私はそのどこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった。」(「幼年時代」)とあるのは、牛嶋神社境内の撫牛のことです。昭和初期の文学の傑作として高い評価を受けた「聖家族」をはじめ、「風立ちぬ」「美しい村」など愛や生死をテーマとする作品を残し、昭和二十八年(1953年)に没しました。




堀辰雄の案内板の隣に、巨大な石碑が建っています。二峯先生とは、幕末から明治時代初期にかけて活躍した書家の高林二峯です。篆額「二峯先生之碑」は勝海舟の揮毫になるものです。

二峯先生之碑

二峯先生とは、幕末から明治時代初期にかけて活躍した書家の高林二峯のことです。二峯の生涯を称える内容が刻まれたこの碑は明治三十年(1897年)八月十六日に二峯が没した翌年の三月、円通寺(押上二)に建碑され、のちに現在地に移設されました。二峯は、文政二年(1819年)九月三日に上野国後閑村(群馬県安中市)に生まれました。生誕地より望める妙義・榛名の二山にちなみ二峯と号しました。幼少より書の才を現わし、天保十四年(1843年)には幕末の三筆と呼ばれた巻菱湖に師事しようと江戸に出ました。しかし、菱湖はすでに亡くなっていたので、二峯は中国の古筆の研究を進めやがて独自の書法を確立するに至ります。二峯の書は向島百花園の「しのふつか」、「きゃうけん塚」などの碑でも見ることができます。碑文を担当したのは長男の寛です。五峯と号し、父の書風を受け継ぎ、さらに中国の書に近世の諸流を学び、独特の書風を打ち立てました。篆額「二峯先生之碑」は勝海舟(勝安房)が受け持ちました。建碑の中心となったのは、今泉雄作です。東京美術学校(現在の東京藝術大学)創立者の一人で、二峯の弟子として文峯の号を名乗りました。庶務を担当した佐羽喜六は十一才で二峯に入門した後、桐生の豪商に婿入りして佐羽氏を継ぎ、桐生の近代織物業の発展に力を注ぎました。裏面に刻まれる建碑寄付者の中には、二峯の出身地とゆかりのある前橋市長竹内勝蔵や貴族院議員江原芳平などの名も見られます。




牛嶋神社は、貞観年間(859年〜879年)頃に慈覚大師が一草庵で素盞之雄命の権現である老翁に会い、牛御前と呼ぶようになったと伝えられています。かつては隅田公園の北側にありましたが、公園の工事のため昭和七年に現在の場所に移りました。本所の総鎮守として知られ、9月15日には例大祭が催されます。

牛嶋神社

貞観二年(860年)に慈覚大師が、御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請創祀したと伝えられる本所の総鎮守。関東大震災で焼失する前は墨堤常夜燈の東側にあった。昭和七年(1932年)に隅田堤の拡張により、現在の場所に再建された。本殿の左右に、牛神が奉納されている他、建長三年(1251年)には牛鬼が社中を走り回り、落として行った牛玉を神宝としたという伝承も残る。また境内には、江戸中期から後期の国学者・加藤千浪の碑や江戸落語を中興したといわれる立川(鳥亭)焉馬(1743年〜1882年)の「いそかすは 濡まし物と 夕立の あとよりはるゝ 堪忍の虹」の狂歌碑などがある。5年に一度の例大祭は、牛が引く鳳輦を中心に古式ゆかしい祭列が、向島から両国に広がる氏子の町内を2日かけて巡り、本所2丁目の若宮公園内にある御旅所で1泊する。返礼の町神輿の宮入れは50基が連なる都内最大の連合渡御となる。

Ushijima Shrine

This is the head shrine of the Honjo neighbourhood, founded circa 860 AD by the great Buddhist leader Jikaku. Legend has it that in 1251 the shrine was visited by a bull demon which dropped a knot of hair as it ran around the shrine, and the knot was enshrined as a sacred treasure. The legend is commemorated in the statues of cattle deity that flank the main shrine building.




本殿前には全国的に珍しい三輪鳥居(三つ鳥居)と「狛牛」があります。

墨田区登録有形文化財
牛嶋神社社殿・牛嶋神社神輿蔵

牛嶋神社は、元来弘福寺の西隣(向島五丁目)に所在しましたが、関東大震災後、帝都復興計画事業に伴い区画整理が実施された際、当地に遷座しました。その際新築されたのが、現在の社殿と神輿蔵です。

@−墨田区登録有形文化財「牛嶋神社社殿」
本殿、幣殿、拝殿から成る木造複合社殿で、地元の棟梁石川梅吉によって建築され、昭和七年(1932年)に竣工しました。最奥に位置する本殿は入母屋造・銅板瓦棒葺(正面三間、側面三間)で、組物は禅宗様を基調としています。板支輪や蟇股等に亀や鯉、鶯などの彫刻が施されており、全体的に装飾性が高い建築となっています。また、中央に位置する幣殿は両下造・銅板瓦棒葺(正面三間、側面五間)、最前に位置する拝殿は入母屋造・銅板瓦棒葺(正面七間、側面四間)となっており、拝殿正面にはそれぞれ三間の向拝と千鳥破風が取り付けられています。この建物の特徴は、基礎に亀腹を捺すコンクリート造の布基礎です。これは、地震による建物倒壊の危険を緩和する効果をねらったものと考えられます。

A−墨田区登録有形文化財「牛嶋神社神輿蔵」
境内東辺縁部に建てられています。正面二間の切妻造妻入の建物の両側に、幅五間の切妻造の建物が接続した鉄筋コンクリート造の建物です。昭和初期の建物とみられています。この建物は、参道から見る外観を木造瓦葺風に仕立てることで境内景観の統一を図る一方、耐震・耐火性も合理的に満たすよう工夫されたことがうかがわれます。これら二つの建物は、伝統的な建築形式に近代技術を調和させた優れた近代神社建築と評価され、平成三十年十一月八日に墨田区登録有形文化財に登録されました。




境内の「撫牛」は自分の悪い部分と牛の同じ部分を撫でると病が治るという信仰で、肉体だけでなく心も治るという心身回癒の祈願物として有名です。

(墨田区登録文化財)
撫牛

撫牛の風習は、江戸時代から知られていました。自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというものです。牛嶋神社の撫牛は体だけではなく、心も治るというご利益があると信じられています。また、子どもが生まれたときよだれかけを奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するという言い伝えもあります。この牛の像は、文政八年(1825年)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったようです。明治初期の作家、淡島寒月の句に「なで牛の石は涼しき青葉かな」と詠まれ、堀辰雄は「幼年時代」で「どこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった」と記すように、いつも人々に愛されてきました。




境内の入口脇に石碑が並んでいて、その中に江戸落語を中興したといわれる鳥亭焉馬の狂歌碑があります。

<墨田区登録文化財>
烏亭焉馬「いそかすは」の狂歌碑

「いそかすは(がずば) 濡れまし(じ)物と 夕立の
  あとよりはるゝ 堪忍の虹」    談洲楼烏亭焉馬

この狂歌碑は裏面にあるとおり、初世烏亭焉馬自身が文化七年(1810年)に建てた碑です。江戸落語中興の祖と称された烏亭焉馬は本名中村利貞、字は英祝、通称は和泉屋和助です。寛保三年(1743年)生れ、本所相生町五丁目(現 緑一丁目)の大工の棟梁で、狂歌や戯文をよくする文化人としても有名でした。談洲楼の号は五世市川団十郎と義兄弟の契りを結んだことから団十郎をもじったもの、また竪川に住むことから立川焉馬、職業が大工であることから「鑿釿言墨曲尺」とも号しました。元禄時代にひとつの話芸として確立された落語も、その後衰えていきましたが、天明四年(1784年)に向島の料亭武蔵屋において、焉馬が自作自演の「噺の会」を催し、好評を得たことから江戸落語が盛んになっていきました。寛政末年頃には現在の落噺の形が完成し、明治に入って落語という呼び方が定着しました。文政五年(1822年)八十歳で亡くなり、本所の最勝寺に葬られました。
(現在は寺・墓共に江戸川区平井に移転)。




奈良時代に、この地には牧場がありました。

江戸・東京の農業 浮島の牛牧

文武天皇(701年〜704年)の時代、現在の向島から両国辺にかけての牛島といわれた地域に、国営の牧場が設置されたと伝えられ、この周辺もかつては牛が草を食んでいたのどかな牧場で、当牛嶋神社は古代から牛とのかかわりの深い神社でした。大宝元年(701年)大宝律令で厩牧令が出され、平安時代までに全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、天皇の意思により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置され、この付近(本所)にも官牧の「浮嶋牛牧」が置かれたと伝えられています。時代は変わり江戸時代、「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増えることとなりました。明治十九年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、本所区の太平町、緑町、林町、北二葉町と、本所でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。とりわけ、現在の錦糸町駅前の伊藤左千夫「牛乳改良社」や寺島の「大倉牧場」は良く知られています。

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Ukishima Dairy Farm

In the era of the Emperor Monmu (701-704), national cattle farms were said to have been established in the area of so-called Ushijima (Cow Island) which is from Mukojima toward Ryogoku at the present. Since 701, as many as 39 national and 32 Imperial cattle farms were established throughout Japan. Here, in Honjo, was also one of the national farms called 'Ukishima Dairy Farm'. With the introduction of western civilization in the late Edo Era and the resulting increase in demand for dairy products, there were at the peak time a number of dairy farms in Honjo area at the beginning of Meiji Era. Herds of cattle were lazily grazing over the pastures around this shrine.




ポイント7 墨堤の桜

言問橋から堤防上の遊歩道に入ります。ここから桜橋までの区間が「墨堤の桜」と呼ばれる最も桜並木が美しいところです。



隅田公園開園時の様子が記されています。

隅田公園の開園
日本初のリバーサイドパーク

大正十二年(1923年)9月1日に発生した関東大震災の直後、時の内務大臣後藤新平の指揮の下で作られた「帝都復興院(復興局)」によって、公園・街路を含む東京の抜本的な都市改造が計画されました。その中に計画された隅田公園は、規模を縮小しながらも言問橋の架橋や東武鉄道の浅草乗り入れ等の事業とあわせて一大開発として整備されました。日本初のリバーサイドパークとして市民にウォーターフロントを開放するという、東京にとっても日本の公園史上でも画期的な公園として実現されました。昭和六年(1931年)の開園には、昭和天皇の記念来訪や、大勢の市民がお弁当を持って詰めかけるといったお祭り騒ぎだったと伝えられています。

The opening of Sumida Park - The first riverside-park in Japan

Right after the Great Kanto Earthquake on September 1 1923 (Taisho 12), the Home Secretary, Shinpei Goto established "Teito-Fukkoin (revival office)" in order them to make a plan for a radical reconstruction of Tokyo including parks and streets. Redevelopment of Sumida Park was a part of the plan. Although the size of the park was decreased, a series of redevelopment was carried out as a whole large project including a construction of "Kototoi Bridge", and a connection to Asakusa station of Tobu Line. This park opened waterfront to citizens as the first riverside-park in Japan, and was very unique in the history of the park design to Tokyo. In 1931 (Showa 6); the emperor in Showa visited the park on the opening day and citizens crowded into the park carrying their lunch packs. like merry-making.




隅田公園の設計思想についても記されています。

開園当初の隅田公園
写真に見る昔の隅田公園

隅田公園は隅田川を挟んで、本所区(現墨田区)と浅草区(現台東区)にまたがっています。本所側は、水戸徳川家小梅邸の敷地を活用した庭園と墨堤の桜並木を活用した遊歩道の整備を行いました。近代都市計画の手法により江戸の堤、河川沿いの桜並木の復活という点では、日本の伝統的なランドスケープ(風景)と西洋の近代的都市計画技術の合体が見事に成功した有意義な事業でした。また公園のデザインはシンプルかつ上品で控えめなものであり、デザイン思想の点で今日学ぶべき所が多くあります。

The beginning of Sumida Park - the early Sumida Park in pictures

Sumida Park locates on the both sides along the Sumida River in Honjo city (current Sumida city) and in Asakusa city (current Taito city). The developments of a garden and an esplanade were carried out on Honjo side. The garden used the site of Mito Tokugawa Koume residence, and the esplanade utilized the scenery of a row of cherry trees in Bokutei. It was a fruitful project that the integration of Japanese traditional landscape and the technique of modern Western city planning were succeeded. This integration revived the banks of the river and a row of cherry trees. The design of the park was simple, elegant, and modest. There are a lot to learn in current design thought.




鬼平情景にも「みめぐりの土手」として登場します。

みめぐりの土手

「大川の隠居」に登場します。大川(隅田川)の土手のうち三囲神社の鳥居の貫から上が川面から見える辺りを指したようです。作品名になった大鯉が現れる直前の場面で、舟から暮色に沈む風景を描写しています。土手の奥には長命寺、寺嶋のくろぐろとした木立が望まれ、目を転ずると浅草寺の大屋根が月光をうけている。このような内容ですが、両岸の寺社の位置関係がよく分かります。竹屋の渡しで結ばれたこの流域からは鬼平犯科帳には三囲神社、対岸の待乳山聖天をはじめ料亭、船宿が多く登場します。「大川の隠居」では平蔵が友五郎を誘って、山谷堀の今戸橋近くの船宿(嶋や)に上がります。杯を交わしながら、平蔵が亡父遺愛の銀煙管に煙草を詰めるところで実に小気味のよい結末となります。




三囲神社の鳥居は堤の下に建っていますが、それでも鳥居の上部は対岸から眺められたのでしょう。

<墨田区登録文化財>
堤下の大鳥居と竹屋の渡し

隅田川七福神めぐりや桜の花見など、墨堤の散策は行楽好きの江戸市民に人気がありました。そのランドマークのひとつとされたのが三囲神社の鳥居で、堤下の大鳥居として親しまれていました。土手の下にあったにもかかわらず、対岸からでも鳥居の貫より上が見られるほどの大きなもので、桜の咲く頃に花に囲まれて見える様はたいへん風情があり、歌舞伎の背景や多くの浮世絵などの題材として描かれています。現在のものは文久二年(1862年)の建立です。三囲参詣には吾妻橋を利用する場合と、隅田川を舟で渡る方法とがありました。渡しは、ちょうどこの大 鳥居がある土手下辺りの岸と、浅草山谷堀入口の待乳山下とを結ぶもので、竹屋の渡しと呼ばれていました。竹屋の渡しの名は、山谷堀側の船宿「竹屋」に由来します。墨堤側には「都鳥」という掛茶屋があり、舟を出してもらうために「たけやー」と呼びかける女将の美声が参詣客の評判であったとも伝えられています。昭和五年(1930年)、言問橋の開通により、この渡しは廃止されました。




葛飾北斎が描いた三囲神社の境内図の案内板が立っています。

新版浮絵 三囲牛御前両社之図

版元・伊勢屋利兵衛から板行された「新板浮絵」の一枚です。浮絵とは西洋の遠近法を取り入れた浮世絵技法の一つで、手前が浮き上がって見えることから名づけられました。文化(1804年〜1818年)中期、葛飾北斎50歳頃の作品とされています。手前に鳥居のあたまだけ見えているのが特徴的な三囲神社は隅田川沿いの名所のひとつで、かつて田中稲荷と呼ばれ毎年2月の「初午の祭り」には多くの人出がありました。寛政十一年(1799年)のご開帳は特に盛大で北斎も作品を奉納したと伝えられています。画面左奥には牛御前(現牛嶋神社)も描かれています。

Shinpan Ukie Mimeguri Ushi no Gozenryousha no Zu

A print from the Shinpan Ukie series printed from the original Iseya Rihee woodblock. Ukie, which means "floating picture," are prints using the ukiyoe techniques to which Western styles of perspective have been added, and they are so named as the foreground seems to stand out as if floating. Katsushika Hokusai created this print between 1804 and 1918 when he was around 50 years old. Only the top of the torii gate can be seen in the foreground, but the impressive Mimeguri Shrine was a famous place along the Sumida River, and many people attended the "Hatsuuma Festival", which was known as Tanaka Inari, held in February every year. This was particularly popular in 1799, and it is said that Hokusai donated this work to it. [Ushi Gozen] (currently Ushijima Shrine) is written at the back of the left-hand side of the print.




桜橋にやってきました。

◆桜橋

【橋長】 169.5m   【取付部 6.0m】
【幅員】 12.0m
【構造】 連続鋼X形曲線箱桁橋

桜橋は、台東区今戸と墨田区向島との間で、隅田川両岸の“隅田公園”を結ぶ、隅田川では最初の、そして唯一の歩行者専用橋です。橋の創架は昭和六十年(1985年)、隅田公園の施設の一つとして、台東区と墨田区の共同事業で架橋されました。形状は平面のX字形の特異な形をしています。花見のシーズンには、両岸の桜を楽しむ多くの人がこの橋を渡ります。

◆墨堤桜並木

“墨堤の桜”は四代将軍徳川家綱の時に始まりますが、本格的に墨堤に植えられたのは、享保二年(1717年)八代将軍徳川吉宗の命によるものです。以来数時にわたり、多くの人々の努力でこの事業は受け継がれ、木母寺、寺島村境から三囲・牛嶋両社を経て、徳川水戸藩邸前・枕橋まで連なったものです。平成十六年度から墨田区側の隅田公園では、この桜の保全と品種の異なる桜を植えて開花期間を長くする新たな桜の名所づくりを、広く住民から寄付を募り住民参加型としての「墨堤の桜の保全・創出事業」を行っています。




桜橋の架橋に合わせて、ワシントンのポトマック河畔から桜の木が里帰りしました。

桜橋とポトマック帰りの桜
ワシントンからの贈り物

台東区と墨田区は隅田川を挟んで相対していることから、昭和五十二年に姉妹区協定を結びました。この記念事業として、両区にまたがる隅田公園に歩行者専用の橋を架けることを計画し、昭和六十年に桜橋が完成しました。この架橋に際して、アメリカ合衆国ワシントンD.C.より桜がとどきました。ワシントンD.C.のポトマック河畔の桜並木は世界の名所のひとつになっています。この桜は明治末期頃、当時のタフト大統領夫人が東京を訪れた際に向島の桜に魅せられ、是非ワシントンに植えたいという希望に対して、当時の尾崎行雄東京市長がプレゼントしたものです。約70年の時を経て、その桜の子孫が再び向島の地に戻ってきました。

Sakura Bridge and cherry trees back from Potomac - as a present from Washington D.C.

In 1977 (Showa 52), Taito-city and Sumida-city made a sister-city agreement since they are facing over the Sumida River. As a commemoration project, construction of a bridge for pedestrians along Sumida Park was planned and "Sakura Bridge" was completed. In constructing this bridge, some cherry trees were sent from Washington D. C. The cherry trees of Potomac riverside of Washington D. C. is one of the famous place in the world. The end of Meiji era, Mrs. President Taft visited Tokyo. She was fascinated with the cherry blossoms in Mukojima, and hoped to plant cherry trees in Washington D. C. In response to her wish, Mayer of Tokyo city, Yukio Ozaki presented it to Washington D.C. After about 70 years, the posterity of cherry trees has returned to the ground in Mukojima.




常夜灯が保存されています。

墨田区指定有形文化財
石造墨堤永代常夜燈

石造墨堤永代常夜燈は、高さ五メートルを超え、琴柱状の脚が特徴的です。天辺の宝珠部分には牛嶋神社の社紋があり、基台上段には同神社の地位を表す「本所惣鎮守」の銘が彫刻されています。また、石組基壇には「永代常夜燈」の銘と「石工宮本平八」の名前を刻んだ石製プレートがはめ込まれています。東京府文書によれば、この常夜燈は、江戸近郊の名所の演出にあずかってきた牛嶋神社の氏子十七名、具体的には植半や八百松、武蔵屋など有名料亭の主人たちの発意によって設置されたようです。明治四年(1871年)の牛嶋神社の臨時祭に併せて奉納されたもので、元来は墨堤から牛嶋神社旧地(弘福寺西隣)へ下りる坂の頂にありました。設置当時、この付近は夜になると真っ暗だったそうで、常夜燈の火が貴重な明かりとして利用されたことがうかがわれます。発起人十七名が東京府へ提出した設置許可申請書にも、この付近を通行する人々の役にも立つはずだとの思いがしたためられています。この常夜燈は、設置以来、墨堤を代表する風物詩の一つとして絵画にも描かれるなどしてきました。平成二十八年七月二十一日、墨田区指定有形文化財に指定されました。

Treasury stone night-light at the banks of the Sumidagawa river

This lantern is one of the cultural properties in Mukojima being famous for its cherry blossoms, built by parishioners of the Ushijima-jinja shrine in 1871.




もうひとつの案内板が立っています。

常夜燈と渡し舟
隅田川の水運と向島風情の象徴

この常夜燈の置かれている場所は、かつて牛嶋神社の境内地でした。牛嶋神社は隅田公園の整備とともに現在地に移転しましたが、この常夜燈だけはここに残されました。それは墨堤における重要な目印であったためです。この付近にはかつて「竹屋の渡し」が設けられ、春の花見や夏の花火見物、明治に入ってからは向島の花柳界へと遊興客を数多く運んできました。まだ照明が発達していないこの時代にはこの常夜燈の明かりが非常に重要な役割を果たしていました。また、明治の画家達は墨堤の桜とこの常夜燈を好んで組み合わせることにより、向島の風情を描きました。当時の向島の格好のシンボルとしてその姿を今に伝えています。

Joyato and ferryboats - water transportation of Sumida River and the symbol of Mukoji taste

The place where put this "Joyato (night-light)" was precincts of Ushijima shrine once. Although Ushijima shrine was relocated to its present location with construction of Sumida Park, only this "Joyato" was left behind here because it was an important mark in "Bokutei". "Takeya-no-watashi (ferryboat)" was set up this neighborhood once, and many visitors were carried to sightseeing areas. They enjoyed cherry blossom viewing at spring, fireworks at summer, and Karyukai (the world of geisha girls, women with refined manners) in Mukojima in Meiji era for instance. This "Joyato" was very important role then because lighting technologies had not developed yet. In Meiji era, many painters preferred to express the taste of Mukojima by painting the matching of cherry blossoms in "Bokutei" and this "Joyato". It remains its figure as the suitable symbol of Mukojima in those days.




葛飾北斎の絵が解説されています。

須佐之男命厄神退治之図

葛飾北斎晩年期の傑作といわれている、縦1.2m余、横2.8mに及ぶ大きな板絵です。北斎は弘化二年(1845年)頃、牛嶋神社(現在向島1丁目)付近に住んでいたと伝えられ、「須佐之男命厄神退治之図」を奉納しました。この作品は悪病をもたらす厄神たちに今後は悪事を働かないように須佐之男命が証文を書かせている場面を描いたものです。画面右下には「前北斎卍筆 齡八十七歳」の落款があります。残念ながら大正十二年(1923年)、関東大震災で消失してしまいましたが、現在は原寸大の復元パネルが牛嶋神社の社殿に飾られています。

Susanoo no Mikoto Yakujin Taiji no Zu (Killing the God of plague)

This is said to be Katsushika Hokusai' s masterpiece created near the end of his life. It is a large picture drawn on a board 1.2m in height and 2.8m in width, and it is said that Hokusai created it around 1845 while he was living near the Ushijima Shrine (currently Mukojima 1-Chome), and it was dedicated to Susanoo no Mikoto Yakujin Taiji no Zu. This work depicts a scene in which Susanoo no Mikoto is writing a letter to the god of pestilence imploring him not to spread disease in the future. The seal of Zen Hokusai Manji-Hitsu(signature), 87 Years Old is located in the bottom right-hand corner. Unfortunately this picture was destroyed during the Great Kanto Earthquake of 1923, and a restored version of the panel in the same dimensions is currently displayed in the main building of the Ushijima Shrine.




ゴール地点の長命寺さくら餅山本や前に着きました。



ということで、墨田区で二番目の「Aすみだの自然を再発見!爽快リバービューコース」を歩き終えました。次は墨田区で三番目のコースである「B名物の甘味でひと休みもOK。すみだの名刹をめぐるコース」を歩きます。




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