B名物の甘味でひと休みもOK。すみだの名刹をめぐるコース  

コース 踏破記  

今日は墨田区の「B名物の甘味でひと休みもOK。すみだの名刹をめぐるコース」を歩きます。多聞寺から墨堤通りに出て、白鬚神社から向島百花園を訪れます。更に墨堤通りを進み、長命寺・弘福寺・牛嶋神社と、ふた月遅れの隅田川七福神巡りをします。最初に歩いたのは2022年の3月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年4月に改めて歩きました。

B名物の甘味でひと休みもOK。すみだの名刹をめぐるコース

神社がたくさんあり、途中でおいしいものが食べられたりと休憩スポットもたくさん。また、道が広く休日は車も少ないので、お年寄りの方も安心して歩けます。(提案者:区民・佐藤さん)

「B名物の甘味でひと休みもOK。すみだの名刹をめぐるコース」の歩行距離は約4.6km(約6、600歩)、歩行時間は約1時間10分、消費カロリーは約210Kcalです。

スタート地点:多聞寺
本尊は隅田川七福神のひとつ「毘沙門天」。狸塚があり、「たぬき寺」とも呼ばれます。
ポイント1 白鬚神社
隅田川七福神の「寿老神」としても親しまれている神社。
ポイント2 向島百花園
江戸時代に開園。早春の梅と秋に咲く萩の花が見事。茶亭でお茶も楽しめます。
ポイント3 長命寺・弘福寺
長命寺の「桜もち」もぜひ♪
ポイント4 牛嶋神社
境内の「撫牛」を撫でると病が治る!?休息はここでどうぞ。
ポイント5 勝海舟像
すみだで生まれた幕末の英雄・勝海舟像はここに。

ゴール地点:吾妻橋東詰


スタート地点は多聞寺ですが、最寄り駅は東武スカイツリーラインの鐘ヶ淵駅になります。鐘ヶ淵駅の西口に面した東西に延びる細い道路は、かっての古代東海道の道筋でした。

武蔵・下総を結んだ古代東海道

東武線鐘ヶ淵駅の付近には、武蔵国と下総国を結ぶ古代の官道がありました。古代東海道と呼ばれるこの街道は、現在の墨田区北部を東西に貫き、京の都から常総方面に至る幹線道路として多くの人々に利用されたと考えられます。官道に定められた年代は、九〜十世紀と想定されます。「大日本地名辞書」に「隅田村より立石、奥戸を経、中小岩に至り、下総府へ達する一径あり、今も直条糸の如く、古駅路のむかし偲ばる」と記されるように、明治十三年(1880年)の地図からは、古代の官道の特徴を示す直線道を見出すことができます。また、この道筋には大道や立石など古代の官道跡に見出される地名が墨田区墨田・葛飾区四ツ木(大道)、江戸川区小岩(大道下)に確認できます。また、葛飾区立石には、古代の標石に使用されたと考えられている立石様が残っています。これらは古代東海道の名残を示すものといえます。鐘ヶ淵駅から西に進むと隅田川に至ります。江戸時代より前の時代、隅田川を渡るには船がおもな交通手段でした。承和二年(835年)の太政官符で渡船の数を二艘から四艘にしたことは、隅田川を往来する人々の増加を物語っています。その行程をたどるのが「伊勢物語」東下りの場面です。在原業平が「名にしほは いざ事とはむ宮こ鳥 わがおもふ人はありやなしやと」と詠ったとされる場所は、古代東海道をつなぐ渡であったのです。




スタート地点:多聞寺

鐘ヶ淵駅から曲がりくねった細い路地を抜けて多聞寺に着きます。多聞寺は、天徳年間(957年〜961年)に創建され、当初は現在の隅田川神社付近に位置し、「大鏡山明王院隅田寺」と称し、本尊は不動明王でした。天正年間(1573年〜1593年)に、当時の住職だった鑁海によって現在地に移され、「隅田山吉祥院多聞寺」に改称し、本尊も毘沙門天に変更されました。多聞寺は墨田区内の最北端にあり、関東大震災や戦災で被害を免れたため、昔日の面影を残す数少ない寺院となっています。寺前の道は古代から続く街道の名残りです。多聞寺は毘沙門天を祀ることから、文化年間(1804年〜1818年)に隅田川七福神のひとつに組み込まれました。以来、現在に至るまで正月期間中は七福神巡りで賑わいます。

隅田川七福神コース案内板
多聞寺 毘沙門天

多聞寺はその昔、墨田堤の外側、水神森近くにあったが、四百年ほど前、徳川氏が江戸に移った直後、今の場所に移された。本尊の毘沙門天は、弘法大師の作と伝えられる。毘沙門天は佛法の守護神のひとりで、世界の中心に聳える須弥山の北方を厳然として守っていたとされる。またの名を多聞天とも申し上げる。しかし、その反面、三界に余るほどの財宝を保有していて、善行を施した人びとには、それを分け与えたといわれる。強い威力を持つ一方で富裕でもあるという神格が、福徳の理想として、七福神に含められ、信仰された理由である。




多聞寺の山門は木造茅葺切妻造四脚門の様式をとり、多聞寺に残る唯一の江戸期木造建築であり、墨田区内最古の建造物と考えられています。享保三年(1718年)に焼失し、現在の山門はその後に再建されました。

墨田区指定有形文化財
多聞寺山門

多聞寺山門は、木造切妻造の四脚門で、現在では珍しい茅葺屋根を持ちます。幅が太く深い文様を彫り出す点に特徴のある簡素な和様の造りですが、控柱の礎石(礎盤)など一部に禅宗様の技法が確認できます。寺伝によれば、多聞寺の山門は、慶安二年(1649年)の建立後、享保三年(1718年)二月に焼失しています。再建年は不明ですが、寺の過去帳に享和三年(1803年)二月の火災に関する記録が見え、その中に「表門は焼けず」とあります。また、専門家による調査の結果、現存する山門の建立年代は十八世紀を降らない、との判断が得られています。これらのことから、この山門は享保三年以降に再建され、享和三年の火災で焼失を免れたものではないかと考えられています(ただし後年幾度か改修が行われています)。多聞寺山門は、このように、建立年代が江戸時代中期に遡る可能性が考えられる貴重な文化財です。平成十六年十月一日に墨田区指定有形文化財に指定されました。

注記:
山号額「隅田山」(正法金對書)の裏に「明和九辰三月吉日造営」、「現住法印興應代」、「願主 瀧澤逸平 規知」と刻まれています。このため、現存する山門を明和九年(1772年)の造営物と見る説もあります。

Tamonji-Sanmon

Tamonji-Sanmon (Main Gate) is a wooden four-legged gate with a gabled thatched roof. It is thought to have been built in around the middle of 18th century, and is a precious cultural asset that preserves traditional Japanese architectural techniques to the present day.




お寺の案内板には、注記の方を採用しているみたいです。

多聞寺の山門

山門中央の「隅田山」と記された山号額の裏に「明和九年」(1772年)と彫られており、現存する墨田区内最古の建造物として区登録有形文化財とされています。屋根を支える本柱の前後に二本ずつの控柱をもつところから四足門または四脚門と呼ばれる形式の門です。一部には朱と思われる痕跡があり、建立当初は朱塗り瓦葺きであったことが察せられます。その後、享和三年(1803年)の火災、安政二年(1855年)の大地震などの被害を受け、後に茅葺にされたものと思われます。その後もこの門は、排仏毀釈、関東大震災、十五年戦争などの天災と人災の歴史をくぐり抜け、娑婆(人間自身が作り出した苦しみの世界)の人々の営みを見据えてきました。これからも、安楽を願う人々を見守ってくれるでしょう。




山門左側にある「毘沙門天」の案内碑は、当時向島に在住していた榎本武揚の筆によるものです。



山門を入った右手に六地蔵が並んでいます。六地蔵とは、六道の思想に基づいて地蔵菩薩の像を6体並べて祀ったものです。

<墨田区登録文化財>
六地蔵坐像

この六地蔵像は総高約150センチで、いずれも安山岩の四石からなっており、地面から一、二段目は方形の台石、三段目は蓮台、その上に、それぞれ60センチの丸彫り地蔵坐像がのっている。像容は向かって右から持物不明の坐像が二体、両手で幡を持つ半跏像、両手で宝蓋を持つ坐像、持物不明の半跏像、合掌している坐像の順に並んでいます。欠損や修復の跡がみられますが、僧覚誉理慶(利慶)が願主となり、七年間にわたって隅田村内の地蔵講結衆の二世安樂を願って造立されたことが刻銘から読み取ることができます。隅田村地蔵講中の数年間にわたる作善行為を知り得る、貴重な資料といえます。六地蔵の製作年代は右から、正徳三年(1713年)二月吉祥日、同四年八月吉祥日、同三年八月吉祥日、同二年二月吉祥日、享保元年(1716年)九月吉祥日、同三年十月日と刻まれています。




その手前には、東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨や平成三年(1991年)に西日暮里で発見された戦災樹木が屋外展示されています。



浅草国際劇場の鉄骨です。

東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨

昭和二十年(1945年)3月10日未明、アメリカ軍B29爆撃機330機による無差別絨毯爆撃を受け、下町一帯は”炎の夜”と化した。この東京大空襲により下町は壊滅状態に陥り、死者10万人、重傷者11万人、100万人が家を失った(犠牲者の氏名、正確な人数は現在も不明)。この元浅草国際劇場の鉄骨(1998年現在、大部分は江戸・東京博物館に展示中)は、東京大空襲を語り継ぐ、数少ない歴史的”証人”である。風船爆弾の工場となっていた浅草国際劇場も直撃弾を受け、屋根を支えていた鉄骨は曲がり、ちぎれ、天井の大部分が抜け落ち、たくさんの人々が焼死した。目の前の痛ましくひきちぎられた鉄骨に向かって目を閉じてみると、炎の夜の恐怖が戦争の実相を伝える”証人たち”に静かに心を傾け、不殺生の誓いを新たにしましょう。




戦災樹木です。焼損した樹木の展示は珍しいですね。

戦災の証言者

パールハーバーから半世紀、終戦から46年目の1991年8月12日、この木は荒川区西日暮里1丁目2番7号(旧、三河島4丁目3420番〜3421番)に新しくビルを建てるための掘削により発見されました。東京地域では、1942年4月18日から、1945年8月15日に至るまでに71回の空襲がありました。ここに展示されている木は、43回目の1945年4月13日の23時から14日の2時22分にかけての空襲で焼かれた木です。当日の投下爆弾は高性能弾81.9t、焼夷弾2037.7tで罹災地域は、西日暮里を含め139ヶ所に及びました。戦火で焼け爛れたこの木は、生命の尊さを訴えるとともに、今、平和憲法のもと、再び戦火にまみれる事のない国を作ることを、私たちに求めています。

Monument of World War II

The monument, the burnt tree was discovered in 1-2-7 Nishinippori, Mikawashima) (former address 4-3420, 3421 Arakawa-ku (former address where the construction of a new building had started, on August 12, 1991, a half century from the battle of Pearl Harbor, the 46th year from the end of World War II. There were 71 raids from April 18, 1942 to August 15, 1945. Now the tree that is displayed in this place is the one that was burnt in the air raids from 11 p.m. April 13, 1945 to 2:22 a.m. April 14, 1945. The bombs dropped were high quality bombs, 81.9t and The damaged area spread 139 places incendiaries 2037.7t containing Nishinippori. This an appeal for precious life. tree that was burnt in the war makes Now we should try to build a peaceful country forever under the peaceful constitution.




多聞寺には狸に纏わる伝承があることから、「たぬき寺」とも呼ばれています。境内の左手には、悪さをした化け狸を葬った狸塚があります。案内板によれば、江戸時代以前は多聞寺のある辺りは草木の生い茂る河原で、毒蛇や「牛松」という大木の根元の穴に住み着いた妖怪狸など多数の妖怪がいる恐ろしい場所でした。そこで、鑁海和尚はその穴を塞ぎ、寺院を建立して妖怪を追い払うことにしましたが、化け狸の悪戯は酷くなるばかりでした。ある晩、和尚の夢に大入道が現れ、手を引くよう脅しました。そこで和尚が一心に本尊を拝むと、毘沙門天の使いが妖怪狸の前に現れ、説得を試みました。次の朝、二匹の狸が門前で死んでいるのを見つけた和尚と村人は彼らを哀れみ、牛松や狸の供養のために塚を築いたということです。

狸塚のいわれ

むかし、江戸幕府が開かれる少し前、今の多聞寺のあたりは隅田川の河原の中で草木が生い茂るとても寂しいところでした。大きな池があり、そこにはひとたび見るだけで気を失い、何か月も寝込んでしまうという毒蛇がひそんでいました。また、「牛松」と呼ばれるおとなが五人でかかえるほどの松の大木がありました。この松の根元には大きな穴があり、妖怪理がすみつき人々をたぶらかしていたのです。そこで、鑁海和尚と村人たちは、人も寄りつくことができないような恐ろしいこの場所に、お堂を建てて妖怪たちを追いはらうことにしました。まず「牛松」を切り倒し、穴をふさぎ、池をうめてしまいました。するとどうでしょう、大地がとどろき、空から土が降ってきたり、いたずらはひどくなるばかりです。ある晩のことでした。和尚さんの夢の中に、天までとどろくような大入道があらわれて、
「おい、ここはわしのものじゃ、さっさと出て行け、さもないと村人を食ってしまうぞ。」
とおどかすのでした。和尚さんはびっくりして、一心に御本尊さまを拝みました。やがて、ご本尊毘沙門天のお使いが現れて妖怪狸に話しました。
「おまえの悪行は、いつかおまえをほろばすことになるぞ。」
次の朝、二匹の狸がお堂の前で死んでいました。これを見つけた和尚さんと村人たちは、狸がかわいそうになりました。そして、切り倒してしまった松や、埋めてしまった狸への供養のためにもと塚を築いたのでした。この塚はいつしか「狸塚」と呼ばれるようになりました。




墨堤通りに向かう途中に広大な空き地があります。この場所には、かって鐘淵紡績の工場がありました。鐘淵紡績は、明治二十年に三越・大丸・白木屋などの大手呉服商5社が出資して東京綿商社として創立しました。そして、当時の物流の大動脈を形成していた墨田区最北端の鐘ヶ淵周辺で操業を開始しました。創業開始当初は約400人だった従業員も大正十一年には約4000人に達しました。鐘紡が規模を拡大するのに応じて、周辺には商店が増加し、鐘紡の企業城下町として繁栄しました。しかし、昭和四十四年(1969年)に工場は移転しました。ちなみに、「鐘ヶ淵」の地名は江戸時代に誕生しました。元和六年(1620年)、寺院移転の目的で寺の鐘を乗せた船が隅田川を横断していたところ、誤って鐘を落としてしまい、二度と引き上げることが叶いませんでした。それ以降、この近辺を鐘ヶ淵と呼ぶようになったということです。



墨堤通りの西側には都営白髭東アパートという白鬚防災団地があります。白鬚防災団地は、東京都が鐘紡の跡地を利用し、関東大震災の教訓から火除けの役割を果たす防火壁として建てられたのだそうです。大規模災害が発生した時に備え、防火シャッターや巨大貯水タンク・放水銃の他、緊急時の地下連絡通路や発電機設備が設置されていて、非常時には白鬚東地区に約4万人が避難できるようになっています。白鬚防災団地と隅田川の間には、南北に1km以上延びる細長い東白鬚公園が設けられています。



東白鬚公園の案内板(左側)です。

東白鬚公園

墨田区の北端、隅田川に沿うような細長い形の東白鬚公園。付近は住宅や工場が多く点在する広範なゼロメートル地帯。一度、大地震が発生すれば、大災害となる危険性の高い地域にある公園として、様々な防災上の工夫がこらされています。公園の東側に立ち並ぶ13階建での高層住宅には、防災シャッターや避難用ゲートなどが設置され、屋上には散水用放水銃もあり、非常時に備えています。園内には火の粉や熱風から身を守るための樹木を多く植え、南と北にひとつずつある池は、避難者の衣服や荷物についた火の粉を消すための物。地盤も周辺より高くなるよう作られています。その他、非常用トイレも設けられています。公園中央にそびえるシンボルタワーは、江戸時代の火消人足組が高く揚げたまといをイメージしています。




東白鬚公園の案内板(右側)です。

防災拠点の緑の広場

墨田区の北端、隅田川に沿うように南北に細長い東白鬚公園は、緑とレクリエーションの場です。公園の東側には、13階建の高層住宅が並んでいます。公園と住宅、そしてリハビリ専門病院等をあわせ、この区域一帯は、江東デルタ地区の防災拠点。もし大地震や火災がおきた時には、公園は避難広場となります。

開園年月日   昭和六十一年6月1日
開園面積    103、127.60u
所在地     東京都墨田区堤通2丁目
主な植物    シイ、シラカシ、マテバシイ、ケヤキ、クロガネモチ、ヤブツバキ
施設      小野球場兼用競技場、テニスコート

Down town green plaza as disaster shelter

This is a long, narrow Higashi-Shirahige Park in the northern tip of Sumida River lying along the river from north to south and is recreational area with new greenery. High-rise 13-storied residential buildings are lined up on the Eastern side of the park. This entire area with the park and the housing and a specialized rehabilitation hospital is planned as a base for disaster prevention in the Koto Delta Region. The park is to be an open shelter in case of strong earthquake or big fire.




墨堤通りは鐘ヶ淵陸橋交差点の下をアンダーパスで潜っていますので、交差点は陸橋のようになっています。交差点の中央にある分離帯に菱形のモニュメントが建っています。モニュメントには、「鐘ヶ淵」の地名の由来を図解したレリーフと、安藤広重の「名所江戸百景 木母寺内川御前栽畑」のレリーフが組み込まれています。

鐘ヶ淵の由来には隅田川がこのあたりで直角に曲がり、それが工匠の使う曲尺(矩尺)に似ているところから又、寺院の移転の際に梵鐘(ぼんしょう)が川に落ちたところからの二説が伝えられています。

これは広重の「木母寺内川御前栽畑(名所江戸百景)をレリーフにしたものです。徳川将軍の食膳に供する野菜を栽培する畑を御前栽畑といい、ここの内川(入江)を船で出入りすることができました。




交差点の角に、葛飾北斎の「富嶽三十六景 隅田川関屋の里」のパネルが立っています。関屋の里は「江戸名所図会」によれば、木母寺より北の牛田村の隅田川に面した一帯を指しています。疾駆する三騎連れの武士は領国への急を知らせる早馬でしょうか。早朝の朝駆けの使者の気ぜわしさが感じられます。馬や武士たちの服の色は異なり、華やかな色どりさえ感じさせます。躍動感のある近景に対して、静かで雄大な赤富士を遠景に持ってきた北斎の構図が窺えます。

隅田川関屋の里 −冨嶽三十六景−

葛飾北斎が72歳頃に版行した代表作「冨嶽三十六景」シリーズの一枚です。現在の墨田区堤通2丁目から足立区千住曙町、千住関谷町のあたりが描かれています。画面には高札以外の家も見えず草原と田んぼが広がり、手前から奥へ蛇行して伸びる土手と存在感ある松、朝焼けの富士山が見える穏やかな早朝の中、疾走する三騎の人馬は躍動感に溢れている印象的な作品です。武士たちの衣装、馬体、馬具の細部に至るまで明るい色使いが施されています。天保二年(1831年)頃の作品です。

Thirty-six Views of Mount Fuji: Sumida-gawa Sekiya no Sato

A print from the representative Thirty-six Views of Mount Fuji series created by Katsushika Hokusai when he was about 72 years old. This scene depicts the area around Senju Akebono-cho and Senju Sekiya-cho in Adachi-ku as seen from the current 2-Chome Tsutsumi-dori, Sumida-ku. Apart from an official bulletin board, no houses can be seem amid the grasslands and paddy fields, and the impressive pine tree on the bank stretching from the foreground into the distance and the sight of Mt. Fuji bathed in the sunrise produce a very impressive piece of work overflowing with three horseback riders racing through the peaceful early morning scene. The samurai warriors, the horses and the harnesses are all depicted in bright colors. This print was created around 1831.




都営白髭東アパートの中央付近に小さな梅若公園があり、榎本武揚の銅像が建っています。榎本武揚は明治四十一年(1908年)に73歳で亡くなり、大正二年(1913年)に榎本武揚が晩年を過ごした墨東(隅田川東岸)の木母寺境内に銅像が建立されました。その後、木母寺は移転して、かつての境内は現在の都営白髭東アパートの敷地になりましたが、榎本武揚像は動かされずに建立された場所に残りました。高さ4mの台座の上に、高さ3mの榎本武揚像が聳え立っています。

墨田区登録有形文化財
銅造榎本武揚像

本像は、榎本武揚没後の大正二年(1913年)五月に建立されました。銅製で、像高は約3メートルあり、南を向き、大礼服姿で荘重な趣を呈しています。彫刻は、衣服の質感や顔の表情が細かく表現され外形描写に優れています。榎本武揚(1836年〜1908年)は、戊辰戦争終盤の箱館戦争で明治新政府軍と戦った旧幕臣として著名な人物です。武揚は箱館戦争の中心人物として投獄されましたが、維新後は明治政府に出仕し、文部大臣、外務大臣等、政府の要職を歴任しました。晩年は向島に構えた別荘で過ごし、馬に乗って歩く姿が見られたようです。建立にあたっては、大隈重信や大倉喜八郎、渋沢栄一、益田孝など政財界を代表する人物等が協力しました。原型作者は藤田文蔵と田中親光であり、鋳造者は平塚駒次郎です。この銅像は、平成十二年十二月七日に墨田区登録文化財に登録されました。

The Bronze Statue of Enomoto Takeaki

This statue was erected in May 1913 after the death of Enomoto Takeaki. The statue, made of bronze with about 3 meters in height, is facing south and showing solemn appearance with full-dress uniform. The sculpturing is excellent in outline description with fine texture of clothing and expression of his face. Enomoto Takeaki (1836 - 1908) is prominent as one of the former retainers of shogunate, who fought against Meiji New Government Army at the Hakodate War, which was the last stage of the Boshin War. People representing political and business worlds, such as Okuma Shigenobu, Okura Kihachiro, Shibusawa Eiichi and Masuda Takashi, cooperated in building the statue. The sculptors of original mold are Fujita Bunzo and Tanaka Chikamitsu, and the caster is Hiratsuka Komajiro.




大きな石台に、榎本武揚の生涯と銅像建立の経緯が記されています。

墨田区登録有形文化財
銅造榎本武揚像

「榎本武揚」
榎本武揚は、天保七年(1836年)に幕臣の子として江戸に生まれ育ち、昌平坂学問所(昌平黌)で学び、安政三年(1856年)幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入りました。その後、オランダに留学し、最新の知識や技術を身につけ、慶応二年(1866年)幕府注文の軍艦開陽丸を回送し帰国しました。武揚帰国後の日本は「大政奉還」「王政復古」という体制転換を迎え、武揚は戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館戦争では、五稜郭を中心に明治政府に抵抗しましたが、明治二年(1869年)降伏しました。その後、武揚は投獄されましたが傑出した人材として赦免され、明治政府に出仕しました。明治八年(1875年)には、海軍中将兼特命全権公使として、樺太(サハリン)・千島交換条約の締結に尽力しました。明治十八年(1885年)伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命されると、旧幕臣でありながら逓信大臣に就任以降、文部、外務、農商務大臣などの要職を歴任しました。また、東京農業大学の前身である私立育英黌農業科を創設したほか、化学、電気、気象などの各学会に関わりを持ち、日本の殖産産業を支える役回りを積極的に引き受けました。晩年は成島柳北邸(現言問小学校)の西側に屋敷を構え、悠々自適の日々を過ごしました。明治四十一年(1908年)10月に73歳でなくなりましたが、墨堤を馬で散歩する姿や、向島百花園で草花を愛でる姿が見られたそうです。

Sumida Ward Registered Tangible Cultural Property. Statue of Enomoto Takeaki
Enomoto Takeaki was born in 1836 to a retainer of the shogun. In the Boshin Civil War (1868-1869), Enomoto led the forces of the former shogunate and occupied the Goryokaku star fortress in Hakodate, Hokkaido. Although imprisoned after losing the Battle of Hakodate, his talents were recognized by the new Meiji government, who pardoned him and appointed him to a government post. In addition to negotiating the Treaty of Saint Petersburg (1875) as a special envoy to Russia, Enomoto went on to serve as Minister of Communications, Minister of Education, Foreign Minister, and Minister of Agriculture and Commerce at various times throughout his career. He was also given the rank of viscount. He died on October 26, 1908, at the age of 73. According to historical accounts, he was often seen riding his horse along the banks of the Sumida River and admiring the flowers of Mukojima-Hyakkaen Garden.

「銅像について」
本像は青銅製で、高さ約400cmの台座上に像高約300cmの榎本武揚の立像が乗っています。建立は大正二年(1913年)5月で、当時の木母寺の境内である当該地に建てられました。白鬚東地区防災拠点建設に伴い木母寺は移転しましたが、本像は当該地に残されました。本像の原型作者は田中親光、藤田文蔵、鋳造者は平塚駒次郎であることが台座背面に記されています。また、建設者に大隈重信、大倉喜八郎、渋沢栄一など当時の政財界の代表的人物が名を連ねています。原型作者のひとりである藤田文蔵は、洋風彫刻界における先覚者として位置づけられ、代表作に陸奥宗光銅像(外務省)や井伊直弼銅像(掃部山公園、太平洋戦争で供出)、狩野芳崖胸像(東京国立博物館)などが知られています。




墨堤通りに面して、隅田川神社の鳥居が建っています。参道は都営白髭東アパートを貫いて、東白鬚公園の奥にある拝殿まで延びています。隅田川神社の創建について記録はありませんが、源頼朝が創建したものと伝えられています。元の名を浮島神社といい、古くは水神社・水神宮・浮島宮などとも呼ばれ、「水神さん」として親しまれてきました。明治五年(1872年)に現在の社名に改名されました。隅田川神社は地域の鎮守神であると共に、隅田川一帯の守り神でもあり、水運業者や船宿などの川で働く人たちの信仰を集めた他、「水神」の名から水商売の人々にも信仰されました。



墨堤通りに面して、フランスの片田舎にありそうなビストロ風のレストランがあります。ワインに合うお料理はないかなとボードを見たら、葡萄畑で育った蝸牛のエスカルゴ・ブールギニヨンがお勧めと書いてありました。蝸牛の好物は葡萄の葉だそうで、昔はブルゴーニュの葡萄畑には沢山の蝸牛が生息していたそうです。「エスカルゴ・ア・ラ・ブルギニョン」は、ハーブを入れたブイヨンで煮てから、殻にパセリ・ニンニク・エシャロットをバターにすりこんだ「エスカ ルゴバター」を一緒に詰めて、たこ焼き器のような専用の丸い溝のあるお皿に蝸牛を入れて焼き、フォークで蝸牛を取り出して頂きます。サザエなどの貝にも似た食感です。お皿に残ったソースは、パゲット(フランスパン)に絡めて食べます。ニンニクの香りがなんとも食欲をそそります。サイゼリアの名物メニューですね。



現在の墨堤通りは、かっての古代東海道の「下の道」でした。鐘ヶ淵駅の前に立っていた案内板にも書いてありましたね。

下の道

承和二年(835年)の太政官符に「武蔵国下総両国境、住田河四艘・・・」の記載がみられます。住田渡(隅田渡)は現在の白髭橋辺と考えられ、大正三年(1914年)の架橋頃まで、永々と続く隅田渡がありました。古代東海道の官道であり、鎌倉街道、奥羽・水戸街道などの道すじにもなっていました。この墨堤堤を下る道も古道で、古くから「下の道」と呼ばれ、鎌倉街道の「下の道」とも想定させます。源頼朝が敵対する常陸国の佐竹氏討伐に、また、奥州征伐にも使用された道とも考えられます(吾妻鏡)。さらに時代が下り、戦国時代には国府台合戦の小田原北條軍の使用路でもあり、郷土の歴史を知るうえからも貴重な道すじです。




レストラン「カタヤマ」は、墨田区でステーキといえばこのお店の名前が必ず出てくると言っても過言ではない、墨堤通り沿いに位置する庶民的な洋食屋さんです。こちらのお店は主に前沢牛とオージービーフのステーキを中心にしているのですが、かなりお手頃な価格で美味しいステーキが味わえます。なので家族連れも多く、店内はいつも賑わっています。その為、休日に来店する際は多少待つことになります。でも、外で待つのではなく、お店の隣に待合用のスペースが用意されていますので大丈夫。お肉は国産かオージー、それぞれ4段階から選ぶことが出来ます。こちらのお店はステーキの美味しさを追求した結果、駄敏丁カット(ダビンチョウカット)というカット方法を考案し特許まで取得しているそうです。駄敏丁カットとは、下処理した肉を棒状に切断後、筋や余分な脂肪を取り除き、分厚くても柔らかい肉を形成するためのカット方式なんだそうです。



コースマップには、白鬚橋東交差点の角付近にセイコーミュージアムが表示されています。セイコーミュージアムは、国内最大級の時計の博物館で、元々は「セイコー時計資料館」として昭和五十六年(1981年)に開設され、平成二十四年(2012年)4月のセイコー創業130周年の記念事業として全館をリニューアルし、「セイコーミュージアム」へと衣替えしました。古い時計から最新の時計まで様々な時計が約13、000点も収蔵され、時計や時間に関する貴重な文献も約16、000冊が閲覧可能となっています。しかししかし、向島のセイコーミュージアムは建物の老朽化により平成三十一年・令和元年(2019年)12月に閉館し、令和二年(2020年)8月19日にセイコー創業の地である銀座に移転・オープンしました。跡地ではマンション工事が行なわれていました。



ポイント1 白鬚神社

白鬚神社は、天暦五年(951年)に慈恵大師が近江国の琵琶湖湖畔に鎮座する白鬚大明神の分霊をここに祀ったことが始まりとなっています。主祭神は猿田彦命で、古事記や日本書紀などによれば、正しい方位を示される国土開拓の神として記されています。現在では導き・みちひらきの神として商売繁昌や旅立安全・交通安全・方災除の神として人気です。白鬚神社は、かつては白鬚の森と呼ばれた緑の美しい場所にあり、向島八景・隅田川二十四景のひとつに数えられていました。江戸の風流人・文化人の詩碑や墓碑などが数多く残されています。白鬚神社は旧寺島村の鎮守で、隅田川七福神の寿老神(寿老人)を祀っていることでも知られています。お正月には初詣と合わせて、江戸時代新春の行楽「隅田川七福神めぐり」も行われています。

白鬚神社

祭神 猿田彦大神
   天照大御神  高皇産霊神
   神皇産霊神  大宮能売神
   豊由気大神  健御名方神

由緒
天暦五年(西暦951年)に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の御分霊をここにまつったと、社伝の記録は伝えている。天正十九年(1592年)には、時の将軍家より神領二石を寄進された。当社の御祭神猿田彦大神が、天孫降臨の際に道案内にたたれたという神話より、後世お客様をわが店に案内して下さる神としての信仰が生れた。社前の狛犬は山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が文化十二年に奉納したもので、その信仰のほどがしのばれる。明治四十年には氏子内の諏訪神社を合祀した。

隅田川七福神
当社に寿老神を配し奉るのは、文化の頃この向島に七福神をそろえたいと考えた時に、どうしても寿老人だけが見当らなかった。ふと白鬚大明神はその御名から、白い髪の老人の神様だろうから、寿老人にはうってつけと、江戸人らしい機智を働かせて、この神を寿老人と考え、めでたく七福神がそろったといわれる。隅田川七福神に限り、寿老神と神の字を用いる所以である。




寿老神様は拝めませんでしたが、案内板が立っています。

白鬚神社 寿老神

白鬚神社は往古の寺島村の鎮守であって、祭神を昔風に平たく申し上げると白鬚大明神である。江戸時代の終りに近く、町人文化が全盛の時期、当村の百花園に集っては風流を楽しんでいた文人たちが、隅田川の東岸で初春の七福神詣を始めようとしたとき、どうしても近縁の寺社に寿老人が見つからない。そこで機知を働かせ、鎮守の白鬚大明神は、白いお鬚の御老体であろうから、まさに寿老神としてたたえるのにふさわしいということになり、めでたく七福神が誕生したわけである。寿老神は、人びとの安全と健康とを守る長寿の神として崇敬されている。




境内には多くの石碑が建っています。富士塚はありませんが、向島の冨士講について記した案内板が立っています。

<墨田区登録文化財>
山玉向島講社の碑

山玉向島講社は、かつて向島地域にあった富士講の一つで、山玉深川元講の枝講だったと考えられています。明治八年(1875年)七月頃には既に存在し、構成員は主に寺島・中ノ郷・須崎の三地区に居住していました。専用の祭祀具をあつらえて月拝みを行い、夏季には二十名前後の人数で富士山を登拝していたようです。井戸の後ろに立つ石碑二基は、その山玉向島講社が大正十一年(1922年)三月に建立しました。向かって左側に立つ石碑には「奉納基本金 大正十一年三月」と見え、四代目先達玉山丈行、講元松本萬次郎、そして当時の世話人二十二名の名前が刻まれています。また、右側に立つ石碑には総勢八十二名の名前と五軒の屋号が確認できます。ここに立つ石碑二基は、このように百名をこえる人々が基本金の奉納を記念して建立したものです。基本金の意味するところは不明ですが、奉納者は屋号記名した五軒を除き全て男性です。これらの人々は各家の戸主であった可能性が高いことから、基本金の奉納は地域をあげて協賛すべき性格の事業だったと考えられます。なお、四代目先達玉山丈行は本名を重城丈吉といい、白鬚神社の氏子総代の一人でした。遅くとも大正七年八月までには大先達に昇格し、同九年八月三日には富士登山三十三度大願成就を果たして富士吉田の御師「大番城」の屋敷に記念碑を建立していました。左に立つ石碑は玉山丈行が講社創設以来四人目の先達に当たることを示しており、講社の沿革を知るうえでも貴重な情報を提供しています。




「黒人塚」と書かれた供養塔が建っています。てっきり、向島に住んでいた黒人のお墓かと思いましたが、実際は日本人の石碑だそうです。「塚」は墓の意味で使われることもある言葉で、アフリカ系の黒人の墓ではないかと憶測されましたが、実際は「黒人」と号した日本人のものです。浜辺黒人は本芝の書籍問屋の商人で、本名を斯波孟雅といいました。芝浜の頭目であり、当時流行っていた万句合同様、狂歌募集して選を出版する興行を始めたといわれています。応募者は入花料を収め、この塚は歌碑とのことです。享保から寛政までを生き、色黒でお歯黒までしていて、昔の本にはしばしば名前が出てきます。



鷲津毅堂の碑があり、毅堂の業績が刻まれています。鷲津毅堂は幕末・明治の漢学者です。文政八年(1825年)に尾張に生まれました。通称を毅堂または蘇州と号し、父・祖父ともに大変に徳望篤い人物でした。20歳の頃に江戸に出て昌平黌に学び、嘉永六年(1853年)に久留米藩に仕え、次いで尾張侯の招きに応じ侍読となり、さらに教授に進み、毅堂自身も子弟とともに学問に励みました。時に王政復古となり、藩主徳川康勝の議定官に任ぜられて国論を一定し、覇王の思想を隣藩にまで広めました。明治元年(1868年)に朝廷より権弁事を任ぜられ、明治二年(1869年)に大学少丞に転じます。そして権大書記官五等判事・司法少記官・東京学士会々員に列するなど、明治政府の要職を歴任しました。明治十五年(1882年)に司法権大書記官となりますが、同年10月5日に58歳で歿しました。なお、毅堂は永井荷風の母方の祖父にあたります。本碑の篆額は三条実美・撰文は三島毅・書は巌谷一六によります。

鷲津毅堂之碑

この石碑は、幕末から明治にかけて活躍した官僚、鷲津毅堂(1825年〜1882年)の事績を称えるために建立されました。太政大臣三條実美によって書かれた立派な篆額を掲げています。明治十六年(1883年)10月の紀年銘によれば、碑文は当時東京大学教授であった三島中洲が執筆し、修史館監事の巌谷一六が浄書しました。碑文彫刻は、井亀泉こと酒井八右衛門によるものです。碑文によれば、毅堂は尾張国丹羽郡丹羽村(現愛知県一宮市)出身の郷士で、二十歳の頃に父親を亡くしたことから、家の再興を熱願した母親の希望に沿い、伊勢の著名な儒学者であった猪飼敬所に学びました。そして、後に江戸へ出て幕府の学問所(昌平黌)に学び、嘉永六年(1853年)に久留里藩(現千葉県君津市)に出仕しました。また、その後は尾張藩に仕官し、藩学明倫堂の督学(学事監督)を務めたほか、藩主徳川慶勝の側近くに仕えて激動の時期の藩政を支えました。そして、維新に際して藩より推薦を受けて新政府に出仕し、その後は文部省や司法省などに勤めました。永井荷風の外祖父としても知られています。




この地方の名産に、寺島ナスがありました。

江戸・東京の農業 寺島ナス

かつて、白鬚神社の周辺は寺島村といいました。元禄郷帳(1688年〜1704年)によれば、この地域一帯は、水田を主とする近郊農村でしたが、隅田川上流から運ばれてきた肥沃な土はナス作りにも適し、ナスの産地として、その名も「寺島ナス」と呼ばれていました。享保二十年(1735年)の「続江戸砂子温故名跡志」には、「寺島茄子 西葛西の内也。中の郷の先、江戸より一里余」とあり、「夏秋の中の嘉蔬(野菜の意味)とす。」また、文政十一年(1828年)の「新編武蔵風土記稿」には、茄子として、「東西葛西領中にて作るもの」として「形は小なれどもわせなすと呼び賞美す」と江戸近郊の名産であることが記されています。農家は収穫したナスを船を使って、千住や、本所四ツ目、神田の土物店(青物市場)等に出荷していました。江戸時代、悠々と流れる隅田川の東岸。田園地帯であった寺島に、後世に伝えるに値するナスの銘品があったのです。

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Terajima Nasu (Egg plant)

Terajima village around this Shirahige Shrine was paddy rice areas in the years 1688-1704. Fertile soil carried over from the upstream of Sumida River was also ideal for the egg plant which was popular as 'Terajima Nasu'. Farmers shipped their products by boats to the markets of Senju, Honjo-Yotsume and Kanda, etc.




ポイント2 向島百花園

向島百花園は、江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804年〜1830年)に造られた庭園です。庭を造ったのは、それまで骨とう商を営んでいた佐原鞠塢で、交遊のあった江戸の文人・墨客の協力を得て、旗本多賀氏の元屋敷跡である向島の地に花の咲く草花鑑賞を中心とした「民営の花園」を造り、開園しました。開園当初は360本のウメの木が主体で、当時有名だった亀戸の清香庵字臥竜梅の梅屋敷に対して「新梅屋敷」と呼ばれたほどでした。その後、ミヤギノハギや筑波のススキなど、詩経や万葉集などの中国・日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲くようにしました。「百花園」の名称は、一説では「梅は百花に魁けて咲く」または「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたものといわれています。百花園は当時の一流文化人達の手で造られた、庶民的で文人趣味豊かな庭として小石川後楽園や六義園などの大名庭園とは異なった美しさをもっています。昭和五十三年10月には、文化財保護法により国の名勝及び史跡の指定を受けました。早春の梅・水仙・福寿草から始まり、春・夏・秋の山野草、秋の萩など四季それぞれの花の野趣に満ちた庭園で、園内では季節に応じて春の七草・大輪朝顔展・虫ききの会・月見の会などが催され、日本の四季の風情を味わえます。2022年に訪れた時はコロナ禍で閉園していましたが、2025年に再訪した時は再開されていました。

向島百花園

江戸の町人文化が花開いた文化・文政(1804年〜1830年)、骨董商を営んでいた佐原鞠塢は、交友のあった江戸の文人墨客の協力を得て、当園を創設しました。開園当初には多くの梅が植えられ、その後、詩経や万葉集など中国・日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲く草庭となりました。百花園とは、一説では「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたとされます。昭和十三年(1938年)、東京市に寄付され、翌年公開が開始されました。昭和二十年(1945年)の空襲では甚大な被害を受けましたが、昭和二十四年(1949年)に復旧しました。昭和五十三年(1978年)10月に、国の名勝及び史跡の指定を受けました。向島百花園は、庶民的で文人趣味豊かな庭として、江戸時代より今日まで受け継がれてきた花園です。

Mukojima-Hyakkaen Gardens

In the Bunka-Bunsei Period (1804-1830), when the cultural lives of the townspeople of Edo began to thrive, Sahara Kikuu, a wealthy antiques dealer, established this garden with the help of other aficionados of the arts. When the garden first opened, its main feature was its many ume, or Japanese plum, trees. In later years, many different flowers and plants mentioned in classic Chinese and Japanese works of literature and poetry were collected, enabling visitors to enjoy their blooms throughout the year. One theory is that the name "Hyakkaen" was chosen to mean " a garden with a hundred flowers that bloom throughout the four seasons". In 1938, the owner donated the garden to the City of Tokyo, and it was officially opened to the public in 1939. The garden sustained major damage in the air raids of 1945 but was restored in 1949. In October 1978, it was designated by the national government as a place of scenic beauty and historical significance. Mukojima-Hyakkaen Gardens have been passed down from the Edo era to the present day as a garden with the common touch and a rich sense of the men of letters ho helped build it.




入口の前に巨大な石碑が建っています。

東京市碑
向島百花園来由の碑

名勝向島百花園ハ文化元年佐原鞠塢ノ開創スル所ニシテ風流文雅・名所トシテ聞ユルコト久シ鞠塢ハ仙臺ノ人江戸ニ出テテ骨董商ヲ営ミ北野屋平兵衛ト称ス性園圃ノ枝ニ通シ文墨ノ才ニ富メリ晩年産ヲ治メ寺島村多賀氏ノ舊地三千餘坪ヲ購ヒテ閑居スルヤ自ラ鋤鍬ノ労ヲ執リ文苑ノ名士ト胥諮リテ梅樹竝ニ四季百花ノ粹ヲ蒐メ詩韻豊力ナル花園トナス春夏秋冬花開カサルナク東西南北客争ヒ来リ花屋敷百花園ノ名普ク世ニ布クニ至レリ然ルニ明治以来(しばしば)出水ノ厄ニ羅リ園景遂ニ荒廃ニ瀕スルヤ故小倉常吉氏ハ深ク之ヲ惜ミ大正ノ初資ヲ投シテ園地ヲ収メ舊景ヲ保存シ他日公開ノ意図ヲ有セラレシヤ不幸易簀セラレタルヲ以テ未亡人小倉乃?刀自ハ其意思ヲ継承シ昭和十三年十月園地一切ヲ挙ケテ東京市ニ寄附セラレタリ本市ハ寄贈者ノ芳志ヲ體スルト共ニ曩ニ昭和八年史蹟名勝天然記念物保存法ニヨリ指定セラレタル本園保存ノ趣旨ニ遵ヒ鋭意之カ復讐ヲ図り今ヤ公開ヲ見ルニ際シ茲ニ其来由ヲ記シ以テ後世ニ傳フ




正門を入った先に庭門があります。庭門の扁額は蜀山人による揮毫で、門柱には大窪詩仏が書いた「春夏秋冬花不断」と「東西南北客争来」の聯があります。



向島百花園には隅田川七福神のうち福禄寿があり、江戸の昔から谷中と並んで向島の隅田川七福神は有名で、年の始めの七福神巡りが恒例の行事になっています。

隅田川七福神

文化元年(1804年)向島百花園が開園してからここに集まる文人墨客たちが園主佐原鞠塢が福禄寿を祭っているのを知り、この隅田川の東岸にも七福神がそろわないものかと考え、七福神にそれぞれ縁故をもつ神社仏閣を探し出した。そして、初春七草の間に寿福を祝い、家門繁栄、家業隆盛を願う初参りの行事を創始したのが、隅田川七福神のはじまりである。七福神の「七」という数は、陽を表わす奇数であって、古くから、めでたい数字とされている。七難即減、七福即生、万姓安楽という語句は七福神の語源ともいわれ、寿命、有福、人望、清廉、愛敬、威光、大量の七つの神々を象徴するもので、心新たな年頭にあたって参拝し、その年の至福を祈念するならわしが七福神初詣でのいわれてある。




園内には多くの句碑や歌碑が建てられています。芭蕉の俳句の意味は、「長い冬が過ぎ去って、梅が咲き始めた。それだけでも十分春を喜ぶのだが、加えて月も出た。これで早春の役者は十分に揃ったのである。」と、おだやかな季節の移り変わりをゆったりと表現したものです。尚、「はせを」とは芭蕉の署名で、本来ならば「ばせう」と書くところ、「仮名遣いのルール」よりも、美意識・言葉の美しさ・句としての姿・自己のセンスを優先したのだと考えられています。

芭蕉 「春もやや」の句碑

春もやや けしきととのう 月と梅      はせを




山上臣憶良の歌碑には、秋の七草を詠んだ2首が書かれています。秋の七草を現代風に書くと、「ハギ(萩)、オバナ(尾花)、クズ(葛)、ナデシコ(撫子)、オミナエシ(女郎花)、フジバカマ(藤袴)、キキョウ(桔梗)」となります。最後の「朝貌」には諸説あります。そのまま読めば「アサガオ」ですが、さすがに季節に難があります。他にムクゲ、ヒルガオなどの説もありますが、一般には「キキョウ」とされています。この秋の七草は、春の七草と違って「食べる」ものではありません。野花が咲き乱れる野を散策して、目で楽しみ、それをまた歌に詠んだりして楽しむ。そういう中で「これぞ」と山上憶良がとりあげたのがこの七つの野花で、いわば「鑑賞」と思ったらいいでしょう。

秋の七草 山上臣憶良

其の一 秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り かき数うれば 七種(ななくさ)の花
    (秋の野に咲いている花を指を折って数えると次の七種類の花が美しい。)

其の二 芽(はぎ)の花 乎花葛花(をばなくずばな) 嬰麦(なでしこ)の花 
       姫部志(をみなへし) また藤袴(ふぢばかま) 朝貌(あさがほ)の花

註 朝貌の花については、諸説があり、今日のききょう、むくげ、ひるがお、あさがお等があげられている。




ちなみに、春の七草と夏の七草も植えられています。

春の七草には、せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろがあります。

夏の七草には、きく、ききょう、蓮、おみないし、しますすき、小車煎翁があります。他にもいろいろありますが。



園内の東側奥には細長い池があります。池の一画にはハナショウブなどの花が咲き、夏にはハンゲショウなども楽しめます。



園内には沢山の石碑が建っています。「しのぶ塚」は、初代河竹新七を追善したものです。

しのぶ塚

隅田川よ二面よと歌舞伎にも浄瑠璃にも世にもてはやさるる荵売は、安永四とせ中村座の春狂言に初代中村仲蔵が勤め、前の河竹新七の作なり。そが正本を、ある人より贈られて久しゅう秘蔵せしは、名を嗣ぐ者の幸せと悦びしが、この度ここに埋みて、昔忍ぶの墳と名づけその故よし記しつくるは、隅田川の流れ絶えず伝えて、二面の二つなき功績を、後の世に遺さんとてのわざになんありける。




「きょうげん塚」は、二代河竹新七を追善した碑です。

きょうげん塚

二世河竹新七、俳名に基水、晩に古河黙阿弥と改む。壮年より演劇作者となり、古稀の齢を超えて明治二十五年の春、喜の字の祝さえなしけるに、明くる年料らずも病のために身まかりぬ。その一生の間に書き綴りたる新作の狂言およそ三百余ほどありて、古来の作者に珍しきことなれば、その名を続ける門人等師のむすめと計り、これを後の世に伝えてんと、石を建てて狂言塚と名づけ、初代の名残りの荵塚になずらえて、しのぶの文字を書きつくることしかり。




何故か、日本橋の親柱が建っています。実物にしては小さすぎるので、レプリカと思われます。

日本橋石柱

日本橋の変遷は木橋、石橋、鉄橋時代と各あるが、石橋時代の模造品と思うが、文字は徳川慶喜と伝える。




向島百花園の藤棚は規模は小さいですが、よく知られています。藤は5月上旬頃に棚全体に花房が下がり、見頃を迎えます。



萩は未だ季節ではありませんが、トンネルの準備は万端です。「萩のトンネル」は初秋を彩る向島百花園の名物で、全長約30メートルには紅白の「ミヤギノハギ」と「シロバナハギ」の2種類のハギが咲き誇ります。


右の写真はネットからの転載になります。


路地裏の小さな広場に、昔懐かしい手押しのポンプが設置されています。

路地尊4号基
「会古路地」

行き止まりの路地をつなげて、あまった場所を「ひろば」にしました。地球にやさしい「リサイクル」をテーマにして、「雨水」や、浄水場の「汚泥」で作ったレンガを使いました。子ども会の資源回収の拠点としても使われています。「外灯」などのデザインは、二寺小学校の先輩、漫画家の滝田ゆうさんのイメージをいかしています。

   貯水量 10トン 平成三年5完成




地蔵坂通りの名称は、墨堤通りとの分岐点に子育地蔵堂があることに因んでいます。



子育地蔵堂建立の経緯が案内板に書かれています。

子育地蔵堂

この御堂に祀られている地蔵菩薩は、文化年間(1804年〜1818年)に行われた隅田川の堤防修築工事の際に土中から発見されたと伝えられています。初めは村の子供たちが、神輿がわりにこの地蔵をかついでいたそうです。この地蔵には、次のような伝承があります。ある日、この地に古くから住む植木屋平作に雇われていた夫婦が川沿いの田地で殺される事件がおきました。犯人はすぐには分かりませんでしたが、この地蔵が村の子どもの口をかりて犯人の名を告げたのだとか。そこで平作は、この地に地蔵を安置して朝夕に供養するようになりました。その後、天保三年(1832年)四月に十一代将軍徳川家斉が鷹狩に来て平作宅にて休憩した際、この地蔵の由来を聞いて参拝しました。平作が、このことを記念して御堂を建てて地蔵を安置すると、人々はこぞって参詣しました。出産・眼病その他諸病の平癒開運を祈ると霊験が現れたそうです。当時は平作地蔵あるいは塩地蔵、また子育地蔵と様々な名前で呼ばれました。御堂前の坂は、明治四十四年(1911年)、堤防工事の土盛り以降、現在まで「地蔵坂」の名で親しまれています。昭和八年(1933年)に建てられた由来碑と御堂建立百年御忌供養塔は、地元出身の書家、西川寧(文化勲章受章者)が揮毫したものです。




左側の写真の庚申塔の左隣の石碑が「子育地蔵尊御由来」碑です。右側の写真の細長い石柱が「子育地蔵尊御堂建立百年御忌供養塔」です。



墨堤通りに面して、「志”満ん草餅(じまんくさもち)」のお店があります。東京の草餅といえば「志”満ん草餅」と言われるくらい知られ、明治二年(1869年)に隅田川の渡船場横で茶店として創業した当時は墨堤のよもぎを手摘みして草餅を作っていたそうです。時代が進むと衛生面からしっかり管理・栽培されたよもぎを使うようになりましたが、東日本大震災後に福島などのよもぎが手に入らなくなり、さらに気候の変化からよもぎが取れない地域が出てきたそうです。現在では主に北海道からよもぎを取り寄せていますが、よもぎは傷みやすいので、収穫後すぐに送ってもらわないと中から熱を持って風味が落ちてしまい、北海道からの輸送には気を遣うそうです。



見番通りが墨堤通りに合流する交差点脇に小さな野球場があります。プロ野球公式戦通算868本のホームラン、13年連続を含む15回のホームラン王、1シーズン55ホームランなど、前人未到の大記録を打ち立てた元読売ジャイアンツの王貞治選手が少年時代に野球に明け暮れたのが、終戦後の1949年に「少年に明日への希望」をスローガンとして誕生した日本で最初の少年野球場の隅田少年野球場でした。墨田区に生まれた王選手は少年時代から飛び抜けた長打力があり、よくホームランボールが隅田川に飛び込んでいたために虫取り網で拾っていたそうです。隅田公園少年野球場の入り口ゲートには、王選手の代名詞とも言える一本足打法のレリーフが掲げられています。

隅田公園少年野球場

この少年野球場は、昭和二十四年戦後の荒廃した時代に「少年に明日への希望」をスローガンとして、有志や子ども達の荒地整備による汗の結晶として誕生した日本で最初の少年野球場です。以来数多くの少年球児がこの球場から巣立っていったが、中でも日本が誇る世界のホームラン王巨人軍王貞治氏もこの球場から育った一人です。




野球場の隣に、「言問団子」のお店があります。

言問団子と郡司大尉

江戸後期、向島で植木屋を営んでいた外山佐吉は、文人墨客に手製の団子を振舞う「植佐」という団子屋を開くと、花見客や渡船客の間でも人気となった。明治元年、長命寺に逗留していた歌人の花城翁より、在原業平が詠んだ「名にしおはゞ いざ言問はん 都鳥 我が想ふ人は ありやなしやと」に因んだ命名の勧めを受けた佐吉は、「言問団子」と名づけ、業平神社を建て、都鳥が飛び交うこの辺りを「言問ヶ岡」と呼んだ。明治十一年、佐吉が始めた灯籠流しによりその名は広く知られていった。後に「言問」は、言問橋や言問通りなどの名称で定着したが、ルーツは「言問団子」である。また、この裏手にある桟橋からは、明治二十六年3月20日千島開拓に向かう郡司大尉率いる5艘の端艇が出発している。隅田川両岸はこれを憂国の壮挙と称える群衆で埋まり、花火が打ち上げられ、歓呼の声と楽隊の演奏が響く中での船出であった。この時、大尉の弟、幸田露伴はこれに同乗して横須賀まで見送っている。

The dumplings that inspired the naming of Kototoi Bridge and Kototoi Street
Kototoi Dango and Lieutenant Gunji

This district was originally named Kototoi-ga-oka by a gardener Toyama Sakichi, inspired by the word kototoi (to speak or exchange words) in a poem penned by Ariwara no Narihira. Toyama went on to build the Narihira Shrine and open a dumpling store, where Kototoi Dango (dumplings) were born. In 1893, an expedition bound for the Kuril Islands was launched from a jetty near here under the command of Lieutenant Gunji.




ちょっとお高いですけど、記念に買って持ち帰りました。



墨堤通りを挟んだ斜め先には、「長命寺桜もち」で知られる「山本や」があります。「山本や」の桜もちの由来は、創業者の山本新六が享保二年(1717年)に大川の土手の桜の葉を樽の中に塩漬けにして桜もちを考案し、向島の名跡・長命寺の門前にて売り始めました。その頃から桜の名所だった隅田堤(墨堤通り)は花見時には多くの人々が集い、花見客に桜もちが大いに喜ばれました。これが江戸に於ける桜もちの始まりです。「もち」は小麦粉製の薄皮、「小豆」は北海道産、「葉」は西伊豆の松崎産オオシマザクラという創業以来変わらない素材と製法で作られています。



1個だけ買って持ち帰りました。



ポイント3 長命寺・弘福寺

見番通りに入った先に、「長命寺桜もち」の由来となった長命寺があります。長命寺は、元和元年(1615年)頃の創建と伝えられる天台宗延暦寺末で、古くは宝寿山常泉寺と号していました。寛永年間(1624年〜1644年)に三代将軍家光がこの辺りに鷹狩りに来た際、急に腹痛を起こしましたが、住職が加持した庭の井の水で薬を服用したところ痛みが治まったので、長命寺の寺号を与えたといわれています。今も長命水石文や復元された井戸が残っています。



長命寺は、隅田川七福神のうち弁財天を安置しています。

長命寺 弁財天

当寺の寺号の由来については、有名な故事がある。その昔、三代将軍家光が墨水沿岸で鷹狩を行った際、急に病を催し、止むを得ずこの寺で休息することになった。そして境内の井戸水で薬を服用したところ、たちまち快癒したので、家光は霊験に感じ、長命水の名を捧げた。以後、長命寺と改めたのである。長命寺に弁財天をまつるのは、その長命水に関係がある。弁財天はもともと天竺の水の神であったからである。佛教とともに渡来してきてからは、次第に芸能の上達や財宝をもたらす信仰が加わり、七福神唯一の女性神になったのである。




境内には、松尾芭蕉句碑・十返舎一九の狂歌碑・著名人の墓など多くの石碑があります。松尾芭蕉の「いざさらば」の句碑は、芭蕉が44歳の貞亨四年(1687年)、「笈の小文」の旅の途中に名古屋の夕道邸で開かれた「雪見句会」で詠まれた句です。
   いささらは 雪見にころふ 所まて
雪で滑って転ぶところまで手に手をとって、雪見に出かけようというような意味らしいです。雪の上で下駄を履いて歩くと、下駄の歯と歯の間に詰まった雪が雪だるまのようにだんだんと大きくなり、やがて歩けないほど雪塊が大きくなって雪上の下駄履き散歩人は転んだりします。雪で滑って転ぶのではなく、下駄に付いた雪のせいで転ぶのです。

芭蕉雪見の句碑

芭蕉の句碑は、全国で千五百余を数えるといわれますが、その中で「いざさらば 雪見にころぶ 所まで」と刻まれたこの雪見の句碑は、最もすぐれた一つといわれています。松尾芭蕉の門人祇空はこの地に庵をつくり、その後、祇空の門人自在庵祇徳は、庵室に芭蕉像を安置し、芭蕉堂としました。そして、三世自在庵祇徳が安政五年(1858年)に庵を再興し、この句碑を建立したのです。芭蕉は寛永二十一年(1644年)伊賀上野に生まれ、のちに江戸深川六間堀に芭蕉庵を構え、談林派から出て俳諧の境地を高め、「さび」「しおり」「かるみ」に代表される蕉風を不動の地位にしました。元禄七年(1694年)旅先の大阪で没しましたが、其角など数多くの門弟を輩出しています。




石碑が3基並んでいます。一番右側の石碑は、浮世絵師の勝川春英を顕彰するために建てられた「勝川春英翁略伝の碑」です。

<墨田区登録文化財>
「勝川春英翁略傅」の碑

勝川春英は宝暦十二年(1762年)に生まれ、新和泉町(現在の中央区日本橋)に住し、久徳斎と号した勝川派の絵師です。勝川春章の門人で、相撲絵と役者絵を得意とし、兄弟子春好のあと勝川派を牽引しました。文政二年(1819年)五十八歳で没し、浅草善照寺に葬られました。右の碑は、文政八年(1825年)春英の七回忌に門人たちにより建立された顕彰碑です。題額と撰文は江戸時代後期の国学者石川雅望によります。碑文には、冒頭に春英の出自と生没年、続いて春英の人柄やそれにまつわるエピソードが紹介され、最後に建碑の趣旨で締めくくら れています。春英伝の基本史料に位置づけられる貴重な石碑です。勝川派は役者絵や相撲絵を得意とし、人物の個性を生かした表現で人気を博しました。また、春英とは同門の春朗は勝川派を離脱した後に様々な画境を拓き、のちに北斎と号しました。

The monument of the biographical sketch of Katsukawa Shun-ei

Katsukawa Shun-ei was born in 1762 and trained as an ukiyo-e artist under Katsukawa Shunsho, with the pseudonym of Kutokusai. He succeeded his senior pupil Shunko who had taken over from Shunsho, leading the Katsukawa School and died in 1819 at the age of 58. In 1825, 6 years after Shun-ei's death, his disciples erected the monument. The text was formulated by Ishikawa Masamochi, a scholar in Native Studies in the latter period of the Edo era. The text introduces Shun-ei's year of birth and death, his personality and episodes in his life. In addition, it states the reason for the erection of the monument. It is considered a fundamental historic material of Shun-ei biography. The Katsukawa School was good at actors and sumo wrestlers' prints and their unique profile depiction caught on at that time. Shunro who later used the pseudonym of Hokusai, trained at the same school as Shun-ei and produced various genres of work after leaving the Katsukawa School.




安田善次郎と共に、現在の明治安田生命保険相互会社を設立した成島柳北の石碑がレリーフ入りで建っています。成島柳北は、幕末の江戸幕府で将軍侍講・奥儒者・文学者となり、明治時代にはジャーナリストとして活躍しました。森家の養子となり大目付となった次兄の森泰次郎の孫に俳優の森繁久弥がいます。

成島柳北の碑

成島柳北は幕末明治の随筆家であり、実業家です。天保八年(1837年)江戸に生まれました。十八歳のとき、家職をついで侍講に進み、将軍家茂のために経書を講じました。慶応元年以来次第に重んぜられ外国奉行となり、会計副総裁に進み、幕政に加わりました。幕府崩壊とともに職を退き向島の地に暮らしました。明治五年東本願寺の法主に従い訪欧、翌年に帰朝後、公文通誌が朝野新聞と改題され、紙勢を拡張する機会に社長として迎えられ、雑録欄を担当して時事を風刺し、大いに読者を喜ばせました。また、外遊の折、修得した生命保険制度の知識を生かし、日本の生命保険制度の草分けである「共済五百名社」(明治安田生命の前身)の創立に協力。明治十七年(1884年)十一月三十日、四十八歳で没しました。この碑は実業家としての柳北の功績を記念し、明治十八年に建立されました。




石碑が沢山並んだ一番奥の土盛りの上に出羽三山信仰の碑が置かれています。区の文化財指定を受けた貴重なものです。建立の目的は不明ですが、向島・本所北部と浅草に及ぶ隅田川両岸地域における出羽三山信仰と地域住人の結びつきを示しています。

<墨田区登録文化財>
出羽三山の碑

出羽三山は、山形県のほぼ中央に連なる月山、湯殿山、羽黒山の総称で、古来より山岳信仰や修験道の霊場として発展してきました。本碑は文政十一年(1828年)四月に建立されましたが、この時期を含む江戸時代後期には、主に東北、関東地方で講を組織する人々が増え、江戸においても三山登拝を行う人々が少なからずいたといわれています。本碑は、盛土をして高くした上に建てられています。当初の建立地は不明ですが、長命寺によれば、大正十二年(1923年)頃にはすでに現在地にあったようです。碑の正面中央には、胎蔵界大日如来を表す種子アーンクと「湯殿山」の文字が彫られています。そして、向かって右側に阿弥陀如来を表す種子キリークと「月山」の文字を、左側には観世音菩薩を表す種子サと「羽黒山」の文字をそれぞれ配しています。また、左下には揮毫者と思われる「空居」の号が刻まれています。出羽三山を崇拝し祀る習慣の定着が、こうした石碑の建立につながったと分かります。一方、裏面には、日付とともに建立に関係した人々七十九名の名前が居住地ごとに刻まれています。中には判読困難な文字もありますが、浅草、大畑村、請地村、寺嶋村、寺嶋村新田、須崎村、小梅村、中之郷村の人々の名前を確認することができます。江戸時代後期に隅田川をはさむ向島・本所北部と浅草方面に出羽三山信仰が普及し、そこに暮らした人々が信仰を共有していたことがうかがえます。現在区内では、出羽三山信仰に関係する資料の発見例が少ないため、本碑は貴重な資料といえます。




雑草に埋もれて、女優・歌手の木の実ナナさんの小さな歌碑が建っています。木の実ナナさんは墨田区東向島の鳩の街と呼ばれた歓楽街近くの出身です。歌手としては、1982年の五木ひろしとのデュエット曲「居酒屋」が大ヒットしました。

木の実ナナ

風のように踊り
  花のように恋し
     水のように流れる




長命寺の直ぐ先に弘福寺があります。弘福寺は黄檗宗の寺院で、山号は牛頭山、本尊は釈迦如来です。江戸時代前期の延宝元年(1673年)に黄檗宗の僧鉄牛道機により開山され、稲葉正則が開基となって香積山弘福寺を現在地に移して建てられました。黄檗宗は、日本の三禅宗のうち、江戸時代初期に来日して明朝復興を願った隠元隆gを開祖とする一宗で、本山は隠元隆gが開いた京都府宇治市の黄檗山萬福寺です。江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であり、関東大震災で罹災しましたが、昭和八年(1933年)に再建されました。



門前に、「淡島寒月旧居跡」の案内板があります。

淡島寒月旧居跡

父の淡島椿岳は、江戸時代に大流行した軽焼きせんべいの名店「淡島屋」を経営する実業家で大地主であった。また、知識欲が旺盛で、画を学び、ピアノを買って演奏会を開く趣味人でもあった。明治十七年(1884年)、向島の弘福寺地内に隠居所を建てて住んだ。息子の寒月は西鶴再評価のきっかけをつくり、趣味人として、新聞や雑誌に寄稿。実体験をベースにした小説や江戸にまつわる話などを洒脱なタッチで著わし好評を博した。明治二十六年(1893年)頃、父の使っていた隠居所を梵雲庵と名づけ隠居。「梵雲庵寒月」と号し、悠々自適な生活に入る。夏目漱石の「我が輩は猫である」に水島寒月という学者が登場するが、モデルは寺田寅彦で、名前は寒月から採ったといわれている。収集家としても有名で、梵雲庵には三千余の玩具と江戸関連の貴重な資料があったが、関東大震災ですべて焼失されてしまった。

A multi-talented author and artist
Residence of Awashima Kangetsu

Awashima Kangetsu (1859-1926) is known for both his literature and paintings. His father, Chingaku, was also a painter. He helped popularize the works of Ihara Saikaku in the course of mentoring novelists Koda Rohan and Ozaki Koyo. He is also said to have inspired Natsume Soseki's use of the name "Mizushima Kangetsu" in the novel I am a Cat.




弘福寺の梵鐘は墨田区で確認されている最古のもので、貞享五年(1688年)6月に鋳造されました。現在の鐘楼は安政大地震で倒壊後、昭和八年(1933年)5月に再建されたものです。梵鐘は江戸時代の地誌「江戸名所図会」や「新編武蔵風土記稿」などにも登場し、人々によく知られていました。



亀の上に石碑が乗っています。鳥取藩八代藩主池田斉稷の亀趺の墓碑ですが、お墓は関東大震災を機に、昭和五年(1930年)に鳥取藩主池田家墓所に改葬されました。



境内の小さな祠には、石造りの爺像と婆像からなる「咳の爺婆尊」が祀られていて、風邪やインフルエンザの予防を祈願する参拝者が訪れています。制作した江戸時代の禅僧風外の名が「風(邪)の外」に通じるとして、風邪除けのご利益があると信じられるようになりました。きっとコロナにも効果抜群だったことでしょう。



弘福寺には、隅田川七福神の布袋像が祀られています。「墨田川七福之内 布袋尊」と彫られた石碑の隣には、七福詠碑が置かれています。

  何々や 袋の中の 年の卒 七福詠」

隅田川七福神は、文化年間(1804年〜1818年)造園の向島百花園に集った文人達の発案とされています。百花園主の佐原鞠塢が所有していた福禄寿の陶像にちなみ、正月の楽しみごととして機知を働かせ、北から毘沙門天(多聞寺)、寿老神(白鬚神社)(そのものがご神体なので寿老人ではなく、寿老神)、福禄寿(向島百花園)、弁財天(長命寺)、布袋尊(弘福寺)、恵比寿・大国神(三囲神社)を七福神として結びつけたと伝わっています。明治三十一年(1898年)、向島の人々が榎本武揚ら著名人を巻き込んで隅田川七福会を結成し、一巡り約4kmの順路が整備されました。明治四十一年(1908年)には、当時の政府要人が揮毫した七福神案内碑が建立され、今日に至るまで多くの参拝客が訪れています。七福神の各尊像は、現在正月元旦から七草までの間のみ開帳されています。

隅田川七福神コース案内板
弘福寺 布袋尊

黄檗宗弘福寺は、三百余年の昔、名僧鉄牛禅師によって創建された。黄檗宗は禅宗の中でも中國色の強い宗派として知られ、当寺に布袋尊の御像が安置されたのも、実はその黄檗禅の性格に深くかかわるのである。布袋尊は、唐時代の実在の禅僧である。常に大きな布の袋を持ち歩き、困窮の人に会えば袋から財物を取り出しては施し、しかも袋の中身は尽きるきることがなかった。その無欲恬淡(てんたん:物事に執着しないこと)として心の広い人柄は、真の幸福とは欲望を満たすことだけではないことを、身をもって諭した有徳として、世人の尊崇を受け、七福神としても敬われたのである。




見番通りから右折し、隅田川の堤防に設けられた階段を上がりますと、目の前に桜橋が架かっています。桜橋はX字型の人道橋で、昭和六十年(1985年)に架橋されました。



左右の歩道が交わる広場の両端には、架橋10周年を記念して設置された巨大な石碑が建っています。シルクロード画家で知られる平山郁夫氏が原画を担当し、二羽の鶴をモチーフにしたレリーフが埋め込まれた「瑞鶴の図 双鶴飛立の図」です。



桜橋から吾妻橋までの堤防上と墨堤通り沿いには「墨堤桜並木」が続いています。

◆桜橋

【橋長】 169.5m   【取付部 6.0m】
【幅員】 12.0m
【構造】 連続鋼X形曲線箱桁橋

桜橋は、台東区今戸と墨田区向島との間で、隅田川両岸の“隅田公園”を結ぶ、隅田川では最初の、そして唯一の歩行者専用橋です。橋の創架は昭和六十年(1985年)、隅田公園の施設の一つとして、台東区と墨田区の共同事業で架橋されました。形状は平面のX字形の特異な形をしています。花見のシーズンには、両岸の桜を楽しむ多くの人がこの橋を渡ります。

◆墨堤桜並木

“墨堤の桜”は四代将軍徳川家綱の時に始まりますが、本格的に墨堤に植えられたのは、享保二年(1717年)八代将軍徳川吉宗の命によるものです。以来数時にわたり、多くの人々の努力でこの事業は受け継がれ、木母寺、寺島村境から三囲・牛嶋両社を経て、徳川水戸藩邸前・枕橋まで連なったものです。平成十六年度から墨田区側の隅田公園では、この桜の保全と品種の異なる桜を植えて開花期間を長くする新たな桜の名所づくりを、広く住民から寄付を募り住民参加型としての「墨堤の桜の保全・創出事業」を行っています。




桜橋の架橋に合わせて、ワシントンのポトマック河畔から桜の木が里帰りしました。

桜橋とポトマック帰りの桜
ワシントンからの贈り物

台東区と墨田区は隅田川を挟んで相対していることから、昭和五十二年に姉妹区協定を結びました。この記念事業として、両区にまたがる隅田公園に歩行者専用の橋を架けることを計画し、昭和六十年に桜橋が完成しました。この架橋に際して、アメリカ合衆国ワシントンD.C.より桜がとどきました。ワシントンD.C.のポトマック河畔の桜並木は世界の名所のひとつになっています。この桜は明治末期頃、当時のタフト大統領夫人が東京を訪れた際に向島の桜に魅せられ、是非ワシントンに植えたいという希望に対して、当時の尾崎行雄東京市長がプレゼントしたものです。約70年の時を経て、その桜の子孫が再び向島の地に戻ってきました。

Sakura Bridge and cherry trees back from Potomac - as a present from Washington D.C.

In 1977 (Showa 52), Taito-city and Sumida-city made a sister-city agreement since they are facing over the Sumida River. As a commemoration project, construction of a bridge for pedestrians along Sumida Park was planned and "Sakura Bridge" was completed. In constructing this bridge, some cherry trees were sent from Washington D. C. The cherry trees of Potomac riverside of Washington D. C. is one of the famous place in the world. The end of Meiji era, Mrs. President Taft visited Tokyo. She was fascinated with the cherry blossoms in Mukojima, and hoped to plant cherry trees in Washington D. C. In response to her wish, Mayer of Tokyo city, Yukio Ozaki presented it to Washington D.C. After about 70 years, the posterity of cherry trees has returned to the ground in Mukojima.




常夜灯が保存されています。

墨田区指定有形文化財
石造墨堤永代常夜燈

石造墨堤永代常夜燈は、高さ五メートルを超え、琴柱状の脚が特徴的です。天辺の宝珠部分には牛嶋神社の社紋があり、基台上段には同神社の地位を表す「本所惣鎮守」の銘が彫刻されています。また、石組基壇には「永代常夜燈」の銘と「石工宮本平八」の名前を刻んだ石製プレートがはめ込まれています。東京府文書によれば、この常夜燈は、江戸近郊の名所の演出にあずかってきた牛嶋神社の氏子十七名、具体的には植半や八百松、武蔵屋など有名料亭の主人たちの発意によって設置されたようです。明治四年(1871年)の牛嶋神社の臨時祭に併せて奉納されたもので、元来は墨堤から牛嶋神社旧地(弘福寺西隣)へ下りる坂の頂にありました。設置当時、この付近は夜になると真っ暗だったそうで、常夜燈の火が貴重な明かりとして利用されたことがうかがわれます。発起人十七名が東京府へ提出した設置許可申請書にも、この付近を通行する人々の役にも立つはずだとの思いがしたためられています。この常夜燈は、設置以来、墨堤を代表する風物詩の一つとして絵画にも描かれるなどしてきました。平成二十八年七月二十一日、墨田区指定有形文化財に指定されました。

Treasury stone night-light at the banks of the Sumidagawa river

This lantern is one of the cultural properties in Mukojima being famous for its cherry blossoms, built by parishioners of the Ushijima-jinja shrine in 1871.




もうひとつの案内板が立っています。

常夜燈と渡し舟
隅田川の水運と向島風情の象徴

この常夜燈の置かれている場所は、かつて牛嶋神社の境内地でした。牛嶋神社は隅田公園の整備とともに現在地に移転しましたが、この常夜燈だけはここに残されました。それは墨堤における重要な目印であったためです。この付近にはかつて「竹屋の渡し」が設けられ、春の花見や夏の花火見物、明治に入ってからは向島の花柳界へと遊興客を数多く運んできました。まだ照明が発達していないこの時代にはこの常夜燈の明かりが非常に重要な役割を果たしていました。また、明治の画家達は墨堤の桜とこの常夜燈を好んで組み合わせることにより、向島の風情を描きました。当時の向島の格好のシンボルとしてその姿を今に伝えています。

Joyato and ferryboats - water transportation of Sumida River and the symbol of Mukoji taste

The place where put this "Joyato (night-light)" was precincts of Ushijima shrine once. Although Ushijima shrine was relocated to its present location with construction of Sumida Park, only this "Joyato" was left behind here because it was an important mark in "Bokutei". "Takeya-no-watashi (ferryboat)" was set up this neighborhood once, and many visitors were carried to sightseeing areas. They enjoyed cherry blossom viewing at spring, fireworks at summer, and Karyukai (the world of geisha girls, women with refined manners) in Mukojima in Meiji era for instance. This "Joyato" was very important role then because lighting technologies had not developed yet. In Meiji era, many painters preferred to express the taste of Mukojima by painting the matching of cherry blossoms in "Bokutei" and this "Joyato". It remains its figure as the suitable symbol of Mukojima in those days.




三囲神社の鳥居は堤の下に建っていますが、それでも鳥居の上部は対岸から眺められたのでしょう。

<墨田区登録文化財>
堤下の大鳥居と竹屋の渡し

隅田川七福神めぐりや桜の花見など、墨堤の散策は行楽好きの江戸市民に人気がありました。そのランドマークのひとつとされたのが三囲神社の鳥居で、堤下の大鳥居として親しまれていました。土手の下にあったにもかかわらず、対岸からでも鳥居の貫より上が見られるほどの大きなもので、桜の咲く頃に花に囲まれて見える様はたいへん風情があり、歌舞伎の背景や多くの浮世絵などの題材として描かれています。現在のものは文久二年(1862年)の建立です。三囲参詣には吾妻橋を利用する場合と、隅田川を舟で渡る方法とがありました。渡しは、ちょうどこの大 鳥居がある土手下辺りの岸と、浅草山谷堀入口の待乳山下とを結ぶもので、竹屋の渡しと呼ばれていました。竹屋の渡しの名は、山谷堀側の船宿「竹屋」に由来します。墨堤側には「都鳥」という掛茶屋があり、舟を出してもらうために「たけやー」と呼びかける女将の美声が参詣客の評判であったとも伝えられています。昭和五年(1930年)、言問橋の開通により、この渡しは廃止されました。




葛飾北斎が描いた三囲神社の境内図の案内板が立っています。

新版浮絵 三囲牛御前両社之図

版元・伊勢屋利兵衛から板行された「新板浮絵」の一枚です。浮絵とは西洋の遠近法を取り入れた浮世絵技法の一つで、手前が浮き上がって見えることから名づけられました。文化(1804年〜1818年)中期、葛飾北斎50歳頃の作品とされています。手前に鳥居のあたまだけ見えているのが特徴的な三囲神社は隅田川沿いの名所のひとつで、かつて田中稲荷と呼ばれ毎年2月の「初午の祭り」には多くの人出がありました。寛政十一年(1799年)のご開帳は特に盛大で北斎も作品を奉納したと伝えられています。画面左奥には牛御前(現牛嶋神社)も描かれています。

Shinpan Ukie Mimeguri Ushi no Gozenryousha no Zu

A print from the Shinpan Ukie series printed from the original Iseya Rihee woodblock. Ukie, which means "floating picture," are prints using the ukiyoe techniques to which Western styles of perspective have been added, and they are so named as the foreground seems to stand out as if floating. Katsushika Hokusai created this print between 1804 and 1918 when he was around 50 years old. Only the top of the torii gate can be seen in the foreground, but the impressive Mimeguri Shrine was a famous place along the Sumida River, and many people attended the "Hatsuuma Festival", which was known as Tanaka Inari, held in February every year. This was particularly popular in 1799, and it is said that Hokusai donated this work to it. [Ushi Gozen] (currently Ushijima Shrine) is written at the back of the left-hand side of the print.




三囲神社の鳥居は、鬼平情景にも「みめぐりの土手」として登場します。

みめぐりの土手

「大川の隠居」に登場します。大川(隅田川)の土手のうち三囲神社の鳥居の貫から上が川面から見える辺りを指したようです。作品名になった大鯉が現れる直前の場面で、舟から暮色に沈む風景を描写しています。土手の奥には長命寺、寺嶋のくろぐろとした木立が望まれ、目を転ずると浅草寺の大屋根が月光をうけている。このような内容ですが、両岸の寺社の位置関係がよく分かります。竹屋の渡しで結ばれたこの流域からは鬼平犯科帳には三囲神社、対岸の待乳山聖天をはじめ料亭、船宿が多く登場します。「大川の隠居」では平蔵が友五郎を誘って、山谷堀の今戸橋近くの船宿(嶋や)に上がります。杯を交わしながら、平蔵が亡父遺愛の銀煙管に煙草を詰めるところで実に小気味のよい結末となります。




ポイント4 牛嶋神社

言問橋を超えた先から隅田公園が拡がり、隅田公園の北端に面して牛嶋神社があります。牛嶋神社は、貞観年間(859年〜879年)頃に慈覚大師が一草庵で素盞之雄命の権現である老翁に会い、牛御前と呼ぶようになったと伝えられています。かつては隅田公園の北側にありましたが、公園の工事のため昭和七年に現在の場所に移りました。本所の総鎮守として知られ、9月15日には例大祭が催されます。

牛嶋神社

貞観二年(860年)に慈覚大師が、御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請創祀したと伝えられる本所の総鎮守。関東大震災で焼失する前は墨堤常夜燈の東側にあった。昭和七年(1932年)に隅田堤の拡張により、現在の場所に再建された。本殿の左右に、牛神が奉納されている他、建長三年(1251年)には牛鬼が社中を走り回り、落として行った牛玉を神宝としたという伝承も残る。また境内には、江戸中期から後期の国学者・加藤千浪の碑や江戸落語を中興したといわれる立川(鳥亭)焉馬(1743年〜1882年)の「いそかすは 濡まし物と 夕立の あとよりはるゝ 堪忍の虹」の狂歌碑などがある。5年に一度の例大祭は、牛が引く鳳輦を中心に古式ゆかしい祭列が、向島から両国に広がる氏子の町内を2日かけて巡り、本所2丁目の若宮公園内にある御旅所で1泊する。返礼の町神輿の宮入れは50基が連なる都内最大の連合渡御となる。

Ushijima Shrine

This is the head shrine of the Honjo neighbourhood, founded circa 860 AD by the great Buddhist leader Jikaku. Legend has it that in 1251 the shrine was visited by a bull demon which dropped a knot of hair as it ran around the shrine, and the knot was enshrined as a sacred treasure. The legend is commemorated in the statues of cattle deity that flank the main shrine building.




本殿前には全国的に珍しい三輪鳥居(三つ鳥居)が建っています。

墨田区登録有形文化財
牛嶋神社社殿・牛嶋神社神輿蔵

牛嶋神社は、元来弘福寺の西隣(向島五丁目)に所在しましたが、関東大震災後、帝都復興計画事業に伴い区画整理が実施された際、当地に遷座しました。その際新築されたのが、現在の社殿と神輿蔵です。

@−墨田区登録有形文化財「牛嶋神社社殿」
本殿、幣殿、拝殿から成る木造複合社殿で、地元の棟梁石川梅吉によって建築され、昭和七年(1932年)に竣工しました。最奥に位置する本殿は入母屋造・銅板瓦棒葺(正面三間、側面三間)で、組物は禅宗様を基調としています。板支輪や蟇股等に亀や鯉、鶯などの彫刻が施されており、全体的に装飾性が高い建築となっています。また、中央に位置する幣殿は両下造・銅板瓦棒葺(正面三間、側面五間)、最前に位置する拝殿は入母屋造・銅板瓦棒葺(正面七間、側面四間)となっており、拝殿正面にはそれぞれ三間の向拝と千鳥破風が取り付けられています。この建物の特徴は、基礎に亀腹を捺すコンクリート造の布基礎です。これは、地震による建物倒壊の危険を緩和する効果をねらったものと考えられます。

A−墨田区登録有形文化財「牛嶋神社神輿蔵」
境内東辺縁部に建てられています。正面二間の切妻造妻入の建物の両側に、幅五間の切妻造の建物が接続した鉄筋コンクリート造の建物です。昭和初期の建物とみられています。この建物は、参道から見る外観を木造瓦葺風に仕立てることで境内景観の統一を図る一方、耐震・耐火性も合理的に満たすよう工夫されたことがうかがわれます。これら二つの建物は、伝統的な建築形式に近代技術を調和させた優れた近代神社建築と評価され、平成三十年十一月八日に墨田区登録有形文化財に登録されました。




境内の「撫牛」は自分の悪い部分と牛の同じ部分を撫でると病が治るという信仰で、肉体だけでなく心も治るという心身回癒の祈願物として有名です。

(墨田区登録文化財)
撫牛

撫牛の風習は、江戸時代から知られていました。自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというものです。牛嶋神社の撫牛は体だけではなく、心も治るというご利益があると信じられています。また、子どもが生まれたときよだれかけを奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するという言い伝えもあります。この牛の像は、文政八年(1825年)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったようです。明治初期の作家、淡島寒月の句に「なで牛の石は涼しき青葉かな」と詠まれ、堀辰雄は「幼年時代」で「どこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった」と記すように、いつも人々に愛されてきました。




境内の入口脇に石碑が並んでいて、その中に江戸落語を中興したといわれる鳥亭焉馬の狂歌碑があります。

<墨田区登録文化財>
烏亭焉馬「いそかすは」の狂歌碑

「いそかすは(がずば) 濡れまし(じ)物と 夕立の
  あとよりはるゝ 堪忍の虹」    談洲楼烏亭焉馬

この狂歌碑は裏面にあるとおり、初世烏亭焉馬自身が文化七年(1810年)に建てた碑です。江戸落語中興の祖と称された烏亭焉馬は本名中村利貞、字は英祝、通称は和泉屋和助です。寛保三年(1743年)生れ、本所相生町五丁目(現 緑一丁目)の大工の棟梁で、狂歌や戯文をよくする文化人としても有名でした。談洲楼の号は五世市川団十郎と義兄弟の契りを結んだことから団十郎をもじったもの、また竪川に住むことから立川焉馬、職業が大工であることから「鑿釿言墨曲尺」とも号しました。元禄時代にひとつの話芸として確立された落語も、その後衰えていきましたが、天明四年(1784年)に向島の料亭武蔵屋において、焉馬が自作自演の「噺の会」を催し、好評を得たことから江戸落語が盛んになっていきました。寛政末年頃には現在の落噺の形が完成し、明治に入って落語という呼び方が定着しました。文政五年(1822年)八十歳で亡くなり、本所の最勝寺に葬られました。
(現在は寺・墓共に江戸川区平井に移転)。




奈良時代には、この地には牧場がありました。

江戸・東京の農業 浮島の牛牧

文武天皇(701年〜704年)の時代、現在の向島から両国辺にかけての牛島といわれた地域に、国営の牧場が設置されたと伝えられ、この周辺もかつては牛が草を食んでいたのどかな牧場で、当牛嶋神社は古代から牛とのかかわりの深い神社でした。大宝元年(701年)大宝律令で厩牧令が出され、平安時代までに全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、天皇の意思により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置され、この付近(本所)にも官牧の「浮嶋牛牧」が置かれたと伝えられています。時代は変わり江戸時代、「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増えることとなりました。明治十九年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、本所区の太平町、緑町、林町、北二葉町と、本所でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。とりわけ、現在の錦糸町駅前の伊藤左千夫「牛乳改良社」や寺島の「大倉牧場」は良く知られています。

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Ukishima Dairy Farm

In the era of the Emperor Monmu (701-704), national cattle farms were said to have been established in the area of so-called Ushijima (Cow Island) which is from Mukojima toward Ryogoku at the present. Since 701, as many as 39 national and 32 Imperial cattle farms were established throughout Japan. Here, in Honjo, was also one of the national farms called 'Ukishima Dairy Farm'. With the introduction of western civilization in the late Edo Era and the resulting increase in demand for dairy products, there were at the peak time a number of dairy farms in Honjo area at the beginning of Meiji Era. Herds of cattle were lazily grazing over the pastures around this shrine.




牛嶋神社を出て源森橋で北十間を渡ります。北十間川が隅田川から分岐する地点に源森川水門があります。北十間川は、総延長3.24kmの荒川水系の一級河川であり、江戸時代初期に開削された運河です。川の名称は、本所の「北」を流れる川幅が「10間」の川であることに由来します。以前は大横川の分流点より西を源森川(別名:源兵衛堀)、東を北十間川と呼んでいました。水門の名前もかっての呼び名の源森川に因んでいます。

源森橋

源森橋の名前の由来は、現在の枕橋(本橋から約二百メートル隅田川寄りの橋)、古くは源森橋と呼ばれていたものが、明治初期に枕橋に正式決定されたことから、本橋を源森橋と呼ぶようになったことによるものである。その昔、現在の枕橋(旧源森橋)が関東郡代であった伊奈半十郎により中之郷瓦町(現在の吾妻橋地区)から新小梅町(現在の向島地区)に通ずる源森側(現在の北十間川)に架けられた。また枕橋(旧源森橋)北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋(旧源森橋、新小梅橋)は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。その後、水戸屋敷内への堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅し、残った旧源森橋は明治初期に正式に枕橋と呼ばれることになり、旧源森橋の東側にあった本橋を源森橋と公称した。現在の源森橋は、昭和三年に架設した鋼橋(上路式アーチ橋)が約八十年経過し、老朽化したため、平成十九年三月に鋼橋(鋼床版鈑桁)に架け替えられたものである。




源森橋はスカイツリーの絶好の眺望ポイントのひとつです。



北十間川沿いに、隅田川に向かいます。枕橋はかって源森橋という橋名でした。その名残りで隅田川に面する水門も源森川水門と呼ばれています。



枕橋の南詰に奇妙なオブジェが建っています。吾妻橋の袂にあったアート作品と同じ趣旨で設置されたみたいです。

GTS GEIDAI TAITO SUMIDA Sightseeing Art Project
GTS観光アートプロジェクトは、東京藝術大学(G)・台東区(T)・墨田区(S)の頭文字からなる
三者共催の地域連携プロジェクトです。


ゆらぎツリー
この作品は、そよ風が起こした漣(さざなみ)が、鏡面のように澄み切った水面に波紋を投げかけた時に、そこに映り込んですこしゆらぎ始めた東京スカイツリーをイメージソースとし、制作したものです。逆立ちしたようにも見える姿はユーモラスでもあります。また、この先の枕橋からは、北十間川に映りこむ実際の逆さツリーを見ることもできます。このゆらぎツリーが、この場に定着し、皆さんに愛されることを願っています。




北十間川が隅田川から分岐する地点と浅草を結んで東武鉄道の鉄橋が架かっています。かっては電車が通るだけでしたが、令和二年(2020年)に橋梁沿いの歩道橋「すみだリバーウォーク」がオープンしました。午前7時から午後10時まで解放され、徒歩で自由に渡ることができます。床面に隅田川を見下ろすのぞき窓があるほか、東京スカイツリー公式キャラクターの「ソラカラちゃん」のイラストが隠されているなど、遊び心あふれる趣向も凝らしています。鉄道の橋梁や東武鉄道の車両が走る様子を間近に見ることができるので、鉄道好きにも楽しめます。



ポイント5 勝海舟像

墨田区役所脇の広場に勝海舟の銅像が建っています。

建立の記

勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政六年(1823年)一月三十日、江戸本所亀沢町(両国四丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治三十二年(1899年)一月十九日(発表は二十一日)赤坂の氷川邸で逝去されました。勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
  海舟生誕百八十年
  平成十五年(2003年)七月二十一日(海の日)




ゴール地点の吾妻橋東詰に着きました。

吾妻橋(大川橋)

江戸時代、両国橋、新大橋、永代橋に次いで隅田川に架けられた四番目の橋です。安永三年(1774年)、長谷川平蔵二十九才の時、町人からの幕府への願いが受け容れられ、架橋されました。民営のため武士を除く利用者から渡賃二文を徴収して維持費に充てました。長さ八十四間(約150メートル)、幅三間半(約6.5メートル)あり、正式名は大川橋です。吾嬬神社への参道にあたるとして吾妻橋への改名願いが出されましたが、それが叶ったのは明治九年(1876年)になってからです。鬼平犯科帳でも数々の作品に登場します。なかでも人気の、亡父遺愛の銀煙管が鍵となる「大川の隠居」では、平蔵を乗せた友五郎の櫓さばきも巧みな舟が、吾妻橋をくぐって大川を遡っていく名場面に出てきます。




ということで、墨田区で三番目の「B名物の甘味でひと休みもOK。すみだの名刹をめぐるコース」を歩き終えました。次は墨田区で四番目のコースである「Cすみだの魅力が凝縮!江戸の粋に出会えるコース」を歩きます。




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