Cすみだの魅力が凝縮!江戸の粋に出会えるコース  

コース 踏破記  

今日は墨田区の「Cすみだの魅力が凝縮!江戸の粋に出会えるコース」を歩きます。両国駅西口から回向院を経て吉良邸跡と勝海舟生誕の地を巡ります。相撲の町両国ならではのジャンボサイズの衣料品店に納得し、最後は下町の惣菜店駒形軒から手ぶらで帰ります。最初に歩いたのは2022年の3月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年4月に改めて歩きました。

Cすみだの魅力が凝縮!江戸の粋に出会えるコース

思わず誰かに話したくなるような、すみだの魅力や見どころがギュッとつまったエリアです。春は、横網町公園の桜もきれいですよ。(提案者:ひらがなネット株式会社・吉澤さん)

「Cすみだの魅力が凝縮!江戸の粋に出会えるコース」の歩行距離は約3.8km(約5、400歩)、歩行時間は約1時間、消費カロリーは約180Kcalです。

スタート地点:JR総武線両国駅西口
ポイント1 回向院
江戸時代の大泥棒・鼠小僧の墓があります。欠き専用の墓石を削って持ち帰るとお守りに!?
ポイント2 吉良邸跡(本所松坂町公園)
赤穂浪士の討入で知られる吉良上野介の邸跡。
ポイント3 勝海舟生誕の地(両国公園)
ポイント4 ライオン堂
お相撲さん御用達。ビッグサイズの洋服がディスプレイされています。
ポイント5 横網町公園
ポイント6 駒形軒
地元の人に愛される総菜屋。揚げたてのハムカツはサクサク!

ゴール地点:駒形軒前の交差点


スタート地点のJR総武線両国駅西口から歩き始めます。



国技館通りに面して横綱像が建っています。この通りには何カ所か横綱像がありますが、手形のレリーフには四股名が表示されているものの、銅像は顔と土俵入りの姿から想像するしかありません。逆光でよく見えませんが、これは大鵬かな?



墨田区の観光案内板が立っています。今日訪れる名所・旧跡の概要を把握します。

回向院

明暦三年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院。振袖火事で知られる明暦の大火の犠牲者10万人以上の無縁仏供養碑や、鼠小僧の墓があります。また、明和五年(1768年)に境内で初めて勧進相撲が行われました。

Ekoin Temple

This old temple of the Pure Land School of Japanese Buddhism (Jodo-shu) is the site of a memorial to more than 100,000 victims of a great fire in the seventeenth century as well as the grave of Edo-period folk hero Nezumi Kozou.

本所松坂町公園(吉良邸跡)

忠臣蔵で知られる赤穂義士の討ち入りがあった吉良上野介義央の上屋敷跡。当時の86分の1の大きさながら、園内には吉良上野介の首を洗った井戸を再現し、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されています。

Honjo-matsuzakacho Park (Site of the former residence of Kira)

The site of Kira Kouzukenosuke Yoshihisa's mansion, which was raided by the 47 ronin as described in the classic tale of Chuushingura, also includes a reproduction of the Kubiarai-no-ido Well where the ronin washed Kira's head after the raid.

横網町公園

昭和五年(1930年)、関東大震災の身元不明の遺骨を納め、霊を祀るため創建された慰霊施設。「震災記念堂」と称していましたが、戦後、東京大空襲の身元不明の遺骨を合せ納め、「東京都慰霊堂」と改称されました。隣接して復興記念館があります。

Yokoamicho Park

This facility was constructed in 1930 to memorialize the victims of the Great Kanto Earthquake of 1923. A museum commemorating subsequent recovery and reconstruction efforts in the city is located adjacent to the park.




ポイント1 回向院

国技館通りから国道14号線(京葉道路)を渡った先に、円筒を半分に割ったような形の屋根が特徴的な回向院の山門があります。

回向院(Eko−in Temple)

明暦三年(1657年)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は十万人以上、未曾有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引取り手のない有様でした。そこで四代将軍コ川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。有縁・無縁・人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震・関東大震災・東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者・遊女・水子・刑死者・諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。




参道の入口横には回向院の由緒を記した案内板が立っています。鼠小僧次郎吉の本来の墓は南千住の小塚原回向院にあり、両国の墓は明治時代に建てられた供養墓となっています。鼠小僧次郎吉は鈴が森で獄門(斬首刑)になったそうですが、なんで小塚原刑場近くに墓を作ったのでしょうかね?ちなみに、江戸時代の刑場は北に小塚原刑場、南に東海道沿いの鈴ヶ森刑場(南大井)、西に大和田刑場(八王子市)があり、三大刑場といわれました。鼠小僧次郎吉の墓のすぐ隣に「猫塚」と書かれた碑があります。名前のとおり、猫の供養のために建てられた塚です。「猫に小判の話」とは、「文化年間、日本橋に住む時田半治郎という人がいて、家計が窮迫したうえに病気となって苦しい毎日を送っていたところ、日頃かわいがっていた猫が小判をくわえてきて長年の恩にむくいた。それ以来、時田家の家運が次第に開けて、病気も治り家運が挽回し繁栄していった。時田家では、この猫を徳として感謝していたが、猫が死ぬとその霊を回向院に埋葬し、墓を建てた」というお話です。

諸宗山 回向院

明暦三年(1657年)江戸大火(振袖火事)に依る死者10万八千余人を弔うために建立された。

安政大地震(1855年)の死者二万五千人余を初めとして、江戸府内の無縁佛・天災地変に因る死者も埋葬され、近くは大正十二年の関東大地震の死者十万余人の分骨も納骨堂に安置されています。

江戸時代の雰囲気を伝える史蹟記念碑墓地がある。
 明暦三年 大火石塔
 安政二年 大地震石塔
 鼠小僧次郎吉墓
 水子塚 (寛政五年)松平定信建立
 猫に小判の話 猫塚
 勧進相撲発祥の地記念 力塚
 呼び出 定火消墓 木遣塚
 諸動物供養塔
 竹本義太夫墓
 岩P京傳・京山・加藤千陰墓




回向院の境内には、かって大鉄傘と愛称された旧国技館がありました。収容人数一万三千人のドーム型建物を造ったほどですから、境内は相当に広かったのでしょう。隣接する両国シティコアビル中庭にある駐輪場には、タイルの色を変えることによって土俵跡が分かるようになっています。

旧国技館跡

旧国技館は、天保四年(1833年)から回向院で相撲興行が行われていたことから、明治四十二年(1909年)に、その境内に建設されました。建設費は二十八万円(現在の価値では七十五億円程度)です。ドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は一万三千人でした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。しかし、東京大空襲まで、三度の火災に見舞われるなど御難統きで、戦後は進駐軍に接収されました。返還後は日大講堂として利用されていましたが、昭和五十八年(1983年)に解体されました。左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示しています。




大鉄傘については、もうひとつの案内板が置いてあります。明治時代にこのような巨大で難しい構造の建物を建てたのは信じられませんね。

旧国技館(大鉄傘)跡

旧国技館は、江戸時代以来の相撲興行の歴史を刻む回向院の境内に、明治四十二年(1909年)に竣工・開館しました。1万3千人を収容する当時最大規模の相撲常設館で、設計は、日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾と葛西萬司が手がけました。日本初のドーム型鉄骨の建物であったことから、大鉄傘とも呼ばれました。開館当初は両国元町常設館が正式名称でしたが、翌年から国技館という名称が定着しました。開館後は菊人形祭りや講演会などを開催するイベントホールとしても利用されました。この建物は、大正六年(1917年)の火災と同十二年(1923年)の関東大震災、そして昭和二十年(1945年)の東京大空襲などで被害を受けましたが、そのたびに修理され、昭和五十八年(1983年)に老朽化に伴い解体されるまで使用されました。ただし、相撲常設館としての役割は、横綱双葉山の引退披露大相撲として開催された昭和二十一年(1946年)秋場所を最後とし、その後はメモリアルホールと称してプロレスやボクシングなど格闘技の試合会場として使用されました。また、昭和三十三年(1958年)以降は、日本大学講堂として使用されました。なお、旧国技館の解体後、地元の方々が台東区の蔵前国技館に移転していた本場所の誘致に尽力され、昭和六十年(1985年)1月に現在の両国国技館が開館しました。旧国技館の跡地は、現在複合商業施設となり、その中庭にはタイル貼りでかつての土俵の位置が示されています。

Former Site of Kokugikan (Sumo Arena)

Sumo bouts were held at Ekoin Temple during the Edo period. In 1909 the sumo arena later known as Kokugikan was erected on this site, under the name Sumojosetsukan. This domed, steel framed, Western style building was known as Daitessan. Rebuilt numerous times, Kokugikan was in continuous use until its final demolition in 1983.




境内には、相撲に関した様々な石碑が建っています。

相撲関係石碑群<力塚>

墨田区と相撲の関わりは、明和五年(1768年)九月の回向院における初めての興行にさかのぼります。以後、幾つかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。天保四年(1833年)十月からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場所として、年に二度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されています。明治時代に入っても、相撲興行は回向院境内で続いていましたが、欧風主義の影響で一時的に相撲の人気が衰えました。しかし、明治十七年(1884年)に行われた天覧相撲を契機に人気も復活し、多くの名力士が生まれました。そして、明治四十二年(1909年)に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく相撲が開催できるようになり、相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。カ塚は、昭和十一年に歴代相撲年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時にこの場所に玉垣を巡らせ、大正五年(1916年)に建てられた角力記と法界万霊塔もこの中に移動しました。現在は、相撲興行自体は新国技館に移りましたが、力塚を中心としたこの一画は、相撲の歴史が七十六年にわたり刻まれ、現在もなお相撲の町として続く両国の姿を象倣しています。




境内に案内板がずらりと並んでいます。



左端は、「石造明暦大火横死者等供養塔」の案内板です。供養塔は、明暦三年(1657年)1月に発生し、江戸市中の繁華街を焼いた明暦の大火による焼死者・溺死者を始めとして、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者・その他の横死者に対する供養のために造立されました。

東京都指定有形文化財(歴史資料)
石造明暦大火横死者等供養塔 一基

明暦三年(1657年)一月、江戸市中の繁華街を焼いた有名な明暦の大火による焼死者・溺死者をはじめとして、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者その他の横死者に対する供養のために造立されたものである。もと、回向院本堂の向って右に存した三仏堂の前に建てられていたが、堂舎の位置がその後移転したにもかかわらず、この供養塔の位置はほとんど動いていないものと思われる。総高3.05メートル、延宝三年(1675年)頃建立された。願主は回向院第二世住持信誉貞存。

Tangible cultural property (Historical Material)
Sekizo Meireki Taika oshisya-to Kuyoto

This is a tower built for victims of the Great Fire at Meireki time. It was built around 1675 by the petition from the second chief priest of Ekoin Temple, Shinyo Teizon. There used to be many fires in Edo. Since merchants, who account for a half of the population in Edo, were crammed into limited areas, a single fire could cause serious damage. The Great Fire at Meireki time is a common term for three fires that occurred consecutively from January 18 to 19. Most of the city center at the time (current Chiyoda and Chuo wards) was affected by the fire and tens of thousands of people were killed. The main stone is in rectangular shape and all four surfaces were chamfered. On top of the main stone, a coping stone with bargeboards on all four sides, and houju (sacred gem) are placed on. Two lotus-shaped base and two square pedestal stones are at the bottom. The total height is 305cm (coping stone 68cm, main stone 162cm, lotus-shaped base and pedestal stones 75cm). The tower was originally built in front of Sanbutsu-do hall at the right side of the main hall of Ekoin Temple. Later the halls were moved but it is assumed that the location of the tower has not been moved. In Ekoin Temple, there are many other memorial towers for the neglected. In the east side of the main hall, many memorial towers and gravestones of the famous can be seen.




供養塔自体は、境内の奥にまとめられた石碑群の前列右端(通路の右の石碑)にあります。



加藤千蔭墓の案内板です。お墓自体は、鼠小僧次郎吉の墓の裏側にあるそうですが見落としました。加藤千蔭は江戸時代中期の歌人・国学者で、碑面には草書体の美しい文字で「橘千蔭墓」と陽刻されています。加藤千蔭は文化五年の正月に「橘千蔭」と自筆した紙を回向院の住持に託し、その年の9月2日に没しました。墓碑の「橘千蔭」の文字は本人のものといわれています。

東京都指定旧跡
加藤千蔭墓

江戸中期の国学者、歌人。芳宜園と号し、千蔭は名。耳梨山人、逸楽窩、江翁などとも号していた。通称加藤又左衛門といい、能因法師の末裔だという。父は江戸の与力として八丁堀に住み、千蔭は父から歌を学んだ。また賀茂真淵に師事し、のち父の職を継いだ。天明八年(1788年)病気のため職を辞し、学問研究に専念した。老境に入っていよいよ研さんを積み、著書は世に千蔭本と呼ばれて流布した。博識をもって世に知られ、かつ著書「万葉解」は高く評価されて幕府から賞されたという。また、絵を建部綾足に学び人びとは争ってこれを求めたという。文化五年(1808年)九月二日歿。年七十五。著書には「万葉集略解」「万葉新採百首」「香取日記」その他多い。



墓碑はネットからの転載です。


岩瀬京伝墓の案内板です。お墓自体は、加藤千蔭墓の前にあるそうですが見落としました。墓碑裏面の碑文は弟の岩瀬京山が撰文し、墓碑銘も自撰自書しました。

東京都指定旧跡
岩瀬京伝墓

江戸時代の著名な戯作者。名は醒、字は酉星。京橋南伝馬町に住んでいたため号を京伝とし、愛宕山の東に当ることにちなんで山東といった。彼は深川木場の質屋に生まれ、若くして浮世絵を北尾重政に学び、北尾政演の名で黄表紙のさし絵などを描いた。「御存商売物」が蜀山人に認められ、「江戸生艶気樺焼」によって一躍黄表紙作家として広く知られるようになった。さらに「令子洞房」で洒落本作家としての地歩を築いたが寛政三年(1791年)風俗を乱すものとして手鎖五十日の刑に処せられ、以後読本作家に転じた。著書には「仕懸文庫」「孔子縞于時藍染」「心学早染草」「傾城買四十八手」「近世寺跡考」「骨董集」その他多い。文化十三年(1816年)九月七日歿。年五十七。



墓碑はネットからの転載です。


岩瀬京山墓の案内板です。岩瀬京山は岩瀬京伝の弟にあたり、お墓は兄の岩瀬京伝の墓の右横にあるそうですが見落としました。

東京都指定旧跡
岩瀬京山墓

江戸時代の著名な戯作者である山東京伝の弟で同じく戯作者である。名を百樹といい、字を鉄梅といった。鉄筆堂は号で、通称は利一郎、のち京山と改めた。はじめ篠山侯に仕え、のちこれを辞して兄京伝の業を継ぎ、やがて剃髪して涼仙と号した。著書には「稗史小説」「蜘蛛の糸巻」その他がある。安政五年(1858年)九月二十四日流行病コロリ(コレラ)にかかって歿した。なお、兄京伝の墓を建てたのは京山である。半居士、覧山の別号がある。



墓碑はネットからの転載です。


回向院の境内には、様々な動物の慰霊碑や供養碑があり、動物供養の発祥寺ともいわれています。境内の中央に聳える白い建物は、馬頭観世音菩薩像を安置する馬頭観音堂です。徳川四代将軍家綱の愛馬が亡くなった際に回向院に葬ることになり、その供養のために二世信誉貞存上人は自ら馬頭観世音菩薩像を刻みました。その像が安置されているのが馬頭観音堂です。病気平癒などにご利益があるとして信仰を集め、江戸三十三箇所観音参り第4番札所となっています。



文化十三年(1816年)に建立された猫の報恩伝説で知られる「猫塚」もあります。ちなみに、別の本では次のように記述されているそうです。

両替屋に通っていた魚屋は、いつもそこの飼い猫に魚肉を与えていました。ところがある時、魚屋は病気で商売に出られなくなってしまい、お金が無くなり困っていましたが、誰かが2両置いていってくれたため、なんとか食いつなぐことができ、やがて病気も治ったといいます。再び両替屋に出かけてみると、そこに猫がいません。理由を尋ねると、猫が小判をくわえて逃げるところを家の者が見つけ、殴り殺してしまったということです。魚屋は猫が自分のところにお金を届けてくれていたと知り、猫の死骸をもらって回向院に葬りました。それが猫塚として今に残っているということです。

猫の恩返し(猫塚)

猫をたいへんかわいがっていた魚屋が、病気で商売ができなくなり、生活が困窮してしまいます。すると猫が、どこからともなく二両のお金をくわえてき、魚屋を助けます。ある日、猫は姿を消し戻ってきません。ある商家で、二両くわえて逃げようとしたところを見つかり、奉公人に殴り殺されたのです。それを知った魚屋は、商家の主人に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋とともにその遺体を回向院に葬りました。江戸時代のいくつかの本に紹介されている話ですが、本によって人名や地名の設定が違っています。江戸っ子の間に広まった昔話ですが、実在した猫の墓として貴重な文化財の一つに挙げられます。




境内中央の石碑群の中に、海難事故による溺死者を埋葬供養した「石造物海難供養碑」が幾つか建っています。

<墨田区登録文化財>
石造海難供養碑

回向院は、明暦の大火を契機に開かれた寺院で、様々な災害による犠牲者を弔う供養碑が多く建立されています。それらの中に六基の海難供養碑を見ることができます。六基のうち三基は伊勢白子(現三重県鈴鹿市)関係の碑です。江戸時代の白子港は木綿を主力商品とした伊勢商人の物資輸送の拠点として繁栄していました。

@「南無阿弥陀仏」海上溺死群生追福之塔
文政十年(1813年)に菱垣廻船十組問屋が建立。安政大地震で倒れたのち安政三年(1856年)に再建。正面の名号は増上寺六十六世大僧正冠譽の揮毫を碑刻したものです。

A「溺死四十七人墓」
明治二年(1869年)、函館戦争の援軍として横浜から出港した肥後熊本藩(現熊本県)のお雇い蒸気船が上総川津村(現千葉県勝浦市川津)の沖で沈没し二百六十余名が亡くなりました。そのうち、富岡文吉らが知る四十七名を供養するために建立しました。

B「南無阿弥陀仏」勢州白子参州平坂溺死者供養塔
文化十一年(1814年)江戸大伝馬町太物問屋仲間が白子、平坂(現愛知県西尾市平坂町)二港に属する溺死者のために建立しました。名号は徳本の書です。台座部分には中村仏庵の撰書により、天明二年(1782年)の大黒屋光太夫の一件から、文化十一年に至る海難小史が綴られています。

C「紀州大川徳福丸富蔵船溺死人之墓」
安政四年(1857年)四月二十日に紀州大川浦(現和歌山県和歌山市大川)の富蔵船の乗組員七名が江戸から帰郷の途上、遠州相良沖(現静岡県牧之原市)で溺死しました。彼らを供養するために、江戸の樽廻船問屋井上重次郎と酒問屋、荒荷方の荷受人たちが世話人となり建立しました。

D「勢州白子三州高濱船溺死一切精霊」
寛政元年(1789年)、三河平坂の施主が建立した帆掛船型の碑です。帆の正面には犠牲者七名の戒名と俗名が、帆の裏面には白子の大黒屋光太夫と高浜の弥兵衛船の死者が一切精霊としてあわせて供養されています。

E勢州白子戎屋専吉船溺死者等供養塔
文政八年(1825年)の伊豆神津島(現束京都神津島村)沖の溺死者のために建立されました。のちに、天保、安政の遭難者名を追刻しました。



時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。

<墨田区民俗文化財指定>鼠小僧供養墓

碑の正面には「天保二年八月十八日」 「俗名 中村 次良吉之墓」
「教覚速善居士」「道一書」
裏面には 「大正十五年十二月十五日 建立」
左側には 「永代法養料金 五拾圓也 細川 仁三」と刻まれている

鼠小僧は寛政九年(1797年)生まれの実在の盗賊であり、「武江年表」によると天保三年(1832年)八月十九日に浅草で処刑されている。「甲子夜話」によれば、武家屋敷にのみ押し入ったため庶民からは義賊扱いされていると記されている。後に幕末の戯作者河竹黙阿弥が、権力者である大名家に自在に侵入し被権力者側である庶民に盗んだ金を配るという虚構の鼠小僧を主人公とした作品を世に送り出したことから人気に火がつき、演劇界においては現在まで続く当り狂言の一つとなった。明治十二年一月の「朝野新聞」によると歌舞伎の一門の一人である市川団升が狂言が当った礼として碑と永代供養料十円の寄付を行うほどの熱の入れようであったと伝えており、施主として刻まれ、墓の横にも石灯籠を寄進している。細川仁三とは市川団升のことであるとみる説もある。文学界においても茶川龍之介が「戯作三昧」・「鼠小僧次郎吉」・「復習」と三度題材に取り上げるなどとしており、虚構の鼠小僧の人気は高い。江戸時代、犯罪者には墓を作ることが禁止されていた。しかし歌舞伎や狂言での成功によって、祈願対象物としての墓の必要性が生じ、この供養碑が作られたと思われる。

*他方、供養墓の前にある小さな供養費は正面に供養墓同様「教 覚 速 善 居 士」と刻まれているが、別名「欠き石」とも呼ばれるものである。鼠小僧の墓石を欠き、財布や快に入れておけば金回りが良くなる、あるいは持病が治るとも言われ、成就した人々の奉納した欠き石は数年ごとに建て替えられ続け、現在までに数百基にも及んでいるという。発生時期は不明であるが、明治十八年(1885年)に初演された河竹黙阿弥の「四千両小判梅集」には台詞の中でこの信仰の事が触れられている。

「この供養碑は変貌著しい墨田区と歌舞伎とのかかわりを示す資料でもあり、そこにはまた庶民のささやかな幸福追求の対象物としての価値も含まれる」



長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方が後を絶ちません。



回向院から吉良邸跡に向かう途中に幾つか案内板が立っています。

忠臣蔵
吉良邸裏門跡

吉良邸の裏門はこの辺りにありました。赤穂浪士討ち入りの際、裏門からは大石主税以下二十四名が門を叩き壊して侵入、寝込みを襲われ半睡状態に近い吉良家の家臣を次々と斬り伏せました。吉良家にも何人か勇士がいましたが、寝巻き姿では鎖帷子を着込み完全武装の赤穂浪士には到底敵わなかったようです。広大な屋敷の中で一時間余り続いた討ち入りは、壮絶なものでしたが、吉良家側の死傷者が三十八名だったのに対し、赤穂浪士側は二名が軽い傷を負っただけでした。




前原伊助は赤穂浪士四十七士の一人で、赤穂藩に金奉行として勤仕していたことから財政に明るく、このことが商人に成りすまして吉良邸裏門近くに移住し、「米屋五兵衛」と称して店を開業しながら吉良家の動向を探ることに役立ちました。

忠臣蔵
前原伊助宅跡

この辺りに、前原伊助宅がありました。伊助は、赤穂浪士四十七士の一人で、浅野家家臣前原自久の長男として生まれ、延宝四年(1676年)に家督を継ぎます。金奉行として勤仕したため、商才に長けていました。浅野内匠頭の刃傷事件後は江戸急進派として単独で別行動を取りました。初めは日本橋に住んでいましたが、やがて吉良邸裏門近くの本所相生町二丁目に移り住み、「米屋五兵衛」と称して店を開業し、吉良家の動向を探りました。その後、大石内蔵助と行動をともにしました。討ち入りの直前には、亡君の刃傷事件から討ち入りまでの経過を漢文体で克明に書き綴った「赤城盟伝」を著しています。




葛飾北斎と赤穂浪士との意外な接点が書かれた案内板が立っています。

絵画と文学
鏡師中島伊勢住居跡

中島伊勢の住居は、赤穂事件の後、町人に払い下げられ、本所松坂町となったこの辺りにありました。伊勢は、幕府御用達の鏡師で、宝暦十三年(1763年)、後に葛飾北斎となる時太郎を養子とします。北斎の出生には不明な点が多く、はっきりとしたことは判りません。中島家はこの養子縁組を破綻にし、実子に家督を譲りますが、北斎はその後も中島姓を名乗っていることから、中島伊勢の妾腹の子だったという説もあります。飯島虚心の「葛飾北斎伝」によると、北斎の母親は赤穂事件に登場する吉良方の剣客、小林平八郎の娘で、鏡師中島伊勢に嫁いでいるとしています。この話は、北斎自身が広めたようです。




夏目漱石が教師をしていた学校跡の案内板が立っています。近くには芥川龍之介の文学碑もあり、本所は文学に縁がありますね。

絵画と文学
江東義塾跡

文豪、夏目漱石が明治十九年(1886年)から約一年間教師をしていた私立学校江東義塾はこの辺りにありました。当時漱石は、大学予備門(一高)で学んでいましたが、ここで教師をするようになってから、さらに学業に励み、ほとんどの教科で首席でした。漱石は「夏目漱石全集」(筑摩書房)の「談話」の中で、「その私学は有志が協同で設けたもので、・・・月に使えるお金は五円で、少額であるが、不足なくやって行けた。時間も、午後二時間だけで、予備門から帰って来て教えることになっていた。だから、夜は落ち着いて自由に自分の勉強をすることができた。」といったことが書かれています。




吉良邸跡(本所松坂町公園)と道路を挟んだ反対側に、赤い鳥居が目を惹く飯澄稲荷神社があります。飯澄稲荷神社は、本所松坂町と吉良邸の屋敷神・地域神として祀られているそうです。



ポイント2 吉良邸跡(本所松坂町公園)

吉良邸跡は現在本所松坂町公園になっています。

本所松坂町公園由来

この公園は「忠臣蔵」で広く知られる、赤穂義士の討入があった、吉良上野介義央の上屋敷跡です。その昔、吉良邸は松坂町一・二丁目(現、両国二・三丁目)のうち約8,400平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ちならび、いまではそのおもかげもありません。昭和九年三月地元町会の有志が、遺跡を後世に伝えようと、旧邸跡の一画を購入し史蹟公園として、東京市に寄付したもので、昭和二十五年九月墨田区に移管されました。周囲の石壁は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁長屋門を模した造りで、園内には、元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷社などの遺蹟があり当時をしのばせております。また内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されております。




本所松坂町公園の前には立派な板碑が建っています。「赤穂義士遺蹟 吉良邸跡」と読めます。

忠臣蔵(Site of former residence of lord Kira)
吉良邸跡

吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西七十三間・南北三十五間で、面積は二千五百五十坪(約8400平方メートル)だったとされています。吉良上野介が隠居したのは元禄十四年(1701年)三月の刃傷事件の数ヵ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりにこの本所ニツ目に屋敷を与えています。現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の八十六分の一の大きさに過ぎません。この公園内には、吉良上野介座像、邱内見取り図、土地寄贈者リストなどの他、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されています。




入口を入った左手に、境内社のような感じの小さな稲荷神社があります。吉良邸の屋敷神ということではなかったようです。

松坂稲荷大明神由来

「松坂稲荷」は「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したものです。「兼春稲荷」は徳川氏入国後、現今の社地たる松坂町方面に御竹蔵を置かれし当時、其の水門内に鎮座せしもので元禄十五年の赤穂浪士討入り後、吉良邸跡へ地所清めのために遷官(宮?)され、昭和十年に既存の「上野稲荷」と合祀され、当本所松坂公園開園とともに当所に遷座されました。




園内の隅っこには首洗いの井戸があります。雪が降っていたとの話もありますので、首を洗った義士もさぞ冷たかったことでしょう。



正面中央には、吉良上野介の座像が置かれています。結構穏やかな表情をしていますね。愛知県幡豆郡吉良町の華蔵寺に吉良上野介が50歳(1691年当時)の頃に自から作らせた木彫の座像が現存し、それを基にして型や大きさを全く同じにし、衣冠も当時の色を再現したとのことです。

吉良上野介義央公座像建立の経緯

平成二十一年六月、吉良邸跡保存会の会合で、吉良上野介像を製作、園内に設置しようとの提案があり、当両国三丁目町会長市川博保氏、吉良邸跡保存会長山田繁男氏及び両国三丁目町会顧問岡崎安宏氏の三者で検討、その結果、時代の推移と共に吉良公への歴史的認識とその評価が変わってきたこの時期に、大変に意義あることと考え、製作を決定する。岡崎安宏氏の知人で横浜在住の造形作家米山隆氏に製作を依頼し、製作に当っては岡崎安宏氏が監修、企画協力を山田繁男氏が担当する。愛知県吉良町に吉良家の菩提寺華蔵寺があり、1690年頃吉良上野介五十歳の時、自らが造らせたと言われている寄木造り(檜材)の座像が現存している。姿・形についてはこれをモデルに、そのほかは愛知県歴史編纂委員会の調査資料を参考にする。吉良上野介の位は従四位上なので束帯は黒、後襟袍の下に緑・藍・紅・白の襟があらわされている。表襟は白色で、左手に太刀、右手に朱塗り平板の笏(しゃく)を持ち正面で足裏を合わせて座す。頭部に巾子冠を被り、頭髪は黒一部白髪である。据え付けた台座は御影石を使用する。本像制作に当たって、両国三丁目町会・吉良邸跡保存会・東京両国ライオンズクラブが資金提供を行い、平成二十ニ年十二月十二日に墨田区へ寄贈する。また、本像の上屋については、愛知県吉良町(現西尾市吉良町)が、吉良上野介義央公座像建立に感銘をうけ建設し、様式については、園内の修景に配慮した銅葺屋根、無垢の木材を用いた温かみのある設えとする。平成二十三年三月に吉良邸跡保存会を通じて墨田区へ寄贈する。




正面右手には、葛飾北斎が描いた「新板浮絵忠臣蔵 第十一段目」の討ち入りの絵と共に、解説文が記されています。その隣には、殿中松の廊下での刃傷事件の様子を描いた絵もあります。

新板浮絵忠臣蔵 第十一段目

「元禄赤穂事件」を描いたシリーズの一枚です。当時の人形浄瑠璃や歌舞伎の演目にも盛んに取り入れられた「仮名手本忠臣蔵」の大詰め、吉良邸への赤穂浪土討ち入りの場面が浮絵の様式で描かれており、軒先や建物のラインが奥行を感じさせます。赤穂浪士に囲まれて孤軍奮闘しているのは、吉良側の剣豪・小林平八郎と思われます。この夜吉良上野介を護って討ち死にした小林平八郎は、自分の曾祖父であると、北斎自ら語っていたそうです。

A print from the series depicting the Genroku Ako Incident. This uki-e print depicts the climax of Kanadehon Chushingura, which was performed frequently in puppet shows and Kabuki at that time, showing the forty-seven Ronin raiding the Kira Residence, and the lines of the building's eaves and the building itself express a deep perspective. The person putting up a solitary fight against the forty-seven Ronin is Heihachiro Kobayashi, one of the Kira master swordsmen. It is said that Hokusai used to speak of Heihachiro Kobayashi, a man who bravely died protecting Kozukenosuke Kira that night, was his own grandfather.




その隣には、討ち入り後の引き上げの様子を描いた絵もあります。両国橋の渡橋を拒否された時のものでしょうか?

この錦絵は、討入りをとげた義士団の引きあげを描いたもので、表門組が左手の一団大星由良之助(大石内蔵助)裏門組が右手の一団大星力弥(大石主税)の一隊である。これから、義士団は両国橋のたもとで奉行・服部彦七の役目上の渡橋拒否にあい、両国橋は渡らず永代橋を渡っていったといいます。



本所松坂町公園の先に両国小学校があり、敷地内に2基の錨が展示されています。

錨の由来

この錨は日露戦争(1904年〜1905年)で活躍した日本海軍の駆逐艦「不知火」のものである。この艦は英国ソーニー・クロフト社製造・起工明治三十一年・進水三十二年・三百二十六トン・(艦長63.5メートル・5470馬力・30ノット・火砲六門・発射管二基・煙突二基)の構造である。錨の裏側にあるアルファベットと1898の刻印は錨の製造年と推定される。猶この錨は両国一丁目の鉄鋼業岡田商事(旧岡田菊治郎商会)が軍艦の解体作業で得たのを昭和の初年に江東(現両国)小学校に寄贈したものである。




小学校の敷地の角には、芥川龍之介の作品である児童文学の「杜子春」の一節と龍之介の自署を刻んだ文学碑が建っています。この碑は、平成二年(1990年)に両国小学校の創立百十五周年を記念して建立されました。両国小学校(当時は江東尋常小学校と呼ばれていました)は芥川龍之介の出身校です。

芥川龍之介 文学碑

芥川龍之介は、明治二十五年(1892年)三月一日、東京市京橋区入船町に新原敬三、ふくの長男として生まれました。辰年辰の日辰の刻に生まれたのにちなんで龍之介と命名されました。生後七ヶ月の時、母ふくが突然発病したために、本所区小泉町十五番地(現両国三丁目)に住んでいたふくの長兄芥川道章に引き取られ、十三歳の時芥川家の養子となりました。芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家で、道章は教養趣味が深く、文学、美術を好み、俳句や盆栽に親しむとともに南画をたしなみ、一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を見学するなど江戸趣味豊かな家庭でした。本所は龍之介の幼児時から少青年期までの大事な時期を育くんだ場所で「大導寺信輔の半生」「本所両国」などの作品にその一端を見ることが出来ます。龍之介は明治三十一年回向院 に隣接する江東尋常小学校付属幼稚園に入園、翌年同小学校(現両国小学校)に入学しました。明治三十八年(1905年)府立第三中学校(現両国高等学校)に入学、同四十三年成績優秀により無試験で第一高等学校第一部乙類に入学しました。その後大正二年東京帝国大学英文科に入学、同五年卒業しました。東大在学中、夏目漱石の門に入り同人誌「新思潮」「新小説」に優れた短編を発表して文壇に華やかに登場しました。

この文学碑は龍之介の代表作の一つである「杜子春」の一節を引用したものです。この両国の地に成育し、両国小学校で学んだ近代日本を代表する作家、芥川龍之介の人生観を学び氏の文才を偲ぶものとして両国小学校創立百十五周年の記念事業として、平成二年十月に建立されたものです。




「杜子春」は鈴木三重吉が創刊した童話・童謡雑誌「赤い鳥」の大正九年(1920年)七月号に発表されました。中国・唐代の伝奇小説を下敷きにし、仙人になろうとしてなり得なかった男の数奇な運命を平易な文章で描いています。現在でも中学校の国語教科書によく採用されていますので、読んだことがある人も多いでしょう。

芥川龍之介文学碑

−−−お前はもう仙人になりたといふ望も持ってゐまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になったら好いと思ふな。」「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」杜子春の聲には今までにない晴れ晴れした調子が罩っていました。」
                                    「杜子春」より




ポイント3 勝海舟生誕の地(両国公園)

両国小学校に隣接して両国公園があります。両国公園は、関東大震災の復興小公園として、他の7公園(うち2公園は廃園となっています)と共に誕生しました。園内にはカラフルでユニークな遊具が点在しています。すべり台はコンクリート製で三日月形をしていて、滑って遊ぶだけではなく、よじのぼったり、アスレチック遊具のように使ったり、様々な遊び方ができます。公園の一番奥にある船の遊具では、ハンドルや舵を回したり、梯子を登ったりできます。他にもサイケデリックなデザインのブランコや、壁登り遊具、動物の乗物などを備えています。

関東大震災 復興小公園

関東大震災(1923年9月1日)では、火災が鎮火した要因の一つに公園緑地や広場が焼け止まりとして機能したことがわかり、公園設置の重要性が高まりました。東京市はこれを踏まえ、震災の焼失区域において、震災復興公園として52か所の小公園を整備しました。小公園は、小学校に隣接して整備され、近隣住民の憩いの場や地域コミュニティの中心、地域における防災拠点のほか、校庭の延長や教材園などとしての役割を担ってきました。また、震災復興のシンボルとなるとともに、後の都市公園や児童公園のモデルとなりました。墨田区には当初、小公園が8か所ありましたが、その後、「永倉公園」と「茅場公園」の2か所が廃園となり、現在では6か所となっています。また、国により設置された震災復興大公園の3か所のうち2か所、隅田公園、錦糸公園が墨田区にあります。

両国公園

墨田区にある震災復興公園
小公園の一つである両国公園は、開園当初は「江東(えひがし)公園」の名称でしたが、「えひがし」と読まれず、「こうとう」と間違われやすいこと、地元から改称の嘆願がなされたこと等の理由により、1965年2月27日に両国公園に名称変更しました。

The Great Kanto Earthquake of 1923 Small Reconstruction Parks

Following the Great Kanto Earthquake (September 1, 1923), it was found that open spaces and greenery in parks played a major role in helping to extinguish the post-earthquake fires that ravaged the city by acting as firebreaks, which in turn elevated the importance of establishing parks. Based on this knowledge, the (then?) City of Tokyo developed 52 small parks as part of reconstruction efforts in the areas destroyed by fire. In addition to serving as places for local residents to relax, centers for the local community, and local disaster prevention bases, the small parks developed next to elementary schools have also been used by the schools as an extension of the school grounds or as an educational tool to teach children about the plants and flowers growing there. The parks not only became symbols of recovery and reconstruction following the quake, but also served as models for the subsequent development of city parks and children's parks. Initially, there were eight small parks in Sumida City, but two of them, "Nagakura Park" and "Kayaba Park," were subsequently closed, and there are now six. Additionally, two of the three Great Earthquake Reconstruction Parks established by the national government, Sumida Park and Kinshi Park, are located in Sumida City.

Ryogoku Park

Parks established after the Great Kanto Earthquake of 1923
Ryogoku Park, one of the small parks, was originally named 'Ehigashi Park' when it first opened. However, because it was often misread as 'Koto' instead of 'Ehigashi,' and due to a petition from the local community to change the name, it was renamed to Ryogoku Park on February 27, 1965.




公園の中には幕末に活躍した勝海舟の碑が建っています。

勝海舟生誕の地

勝海舟は、文政六年(1823年)正月三十日、ここにあった男谷精一郎の屋敷で生まれました。父惟寅(小吉)は男谷忠恕(幕府勘定組頭)の三男で、文化五年(1808年)七歳のとき勝元良に養子入りし、文政二年に元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新居を構えました。海舟が男谷邸で生まれたのは、このためだと考えられます。海舟は七歳までの幼少期をこの地で過ごしました。その後は、旗本天野左京の自宅二階(現亀沢二丁目三番)や代官山口鉄五郎の貸家(現亀沢三丁目六番)を転々とし、ようやく落ち着いたのは天保初年、旗本岡野融政の貸地(現緑四丁目二十五番)に転居してからのことでした。海舟は、赤坂に転居する弘化三年(1846年)までそこで暮らし、島田虎之助(豊前中津藩士)に就いて剣の修行に励む一方、向島の弘福寺に通い参禅していたと伝えられています。海舟が海外事情に関心を寄せはじめた時期は分かりませんが、天保十四年(1843年)二十一歳の時には師匠島田のすすめで蘭学者永井青崖(福岡藩士)に師事し、嘉永三年(1850年)には「氷解塾」を開いて西洋兵学を教授しはじめました。米国使節マシュー・ペリーが浦賀に来航したのはまさにその頃、永六年六月三日のことでした。海舟は幕府首脳部に独自の海防論を呈し、安政二年(1855年)正月には目付大久保忠寛の推挙をうけて異国応接掛手附蘭書翻訳御用となり、翌三年に講武所砲術師範役、同六年に軍艦操練所教授方頭取に就くなど、活躍の場を広げていきました。そして、同七年正月には日米修好通商条約の批准使節に随伴し、軍艦咸臨丸の艦長として太平洋横断に成功しました。また、帰国後も軍艦操練所や軍艦奉行を務めるなど、政局の混迷の中でますます重要な役割を担うようになったのです。慶応四年(1868年)三月に行なわれた西郷隆盛との会見は、徳川家の存続と徳川慶喜の助命、無血開城を実現に導き、維新期の混乱収拾に力を発揮した海舟の代表的な事績となりました。海舟は新政府高官に任ぜられますが、明治八年(1875年)十一月に元老院議官を辞した後は著述活動や旧幕臣の名誉回復、経済支援に尽力しました。同十九年(1886年)五月には酬恩義会を創設して将軍家霊廟の保存を図るなど、最期まで旧幕臣としての意識を持ち続けていました。明治三十二年(1899年)一月十九日、海舟は七十七歳で病没。洗足池畔の墓で静かに眠っています。

The birthplace of Katsu Kaishu

The birthplace of Katsu Kaishu, who is a very famous person in Japanese history (1823-1899). Katsu was a servant of the Tokugawa Shogun, who learned advanced knowledge from Western countries including the military in his youth. He took an active role in the mid-19th century dedicated to the modernization of military forces. He served as the captain of the warship 'Kanrin Maru' in 1860, taking a delegate with a mission of ratification of the Convention with the United States to San Francisco.




案内板の奥に小さな広場があり、勝海舟の生涯と幕末の世情を解説したパネルや石碑と共に、刀を添えた椅子が展示されています。



最初は、勝海舟生誕の話です。

勝海舟幕末絵巻
勝海舟の歩みと、様々な出合い
鳶が鷹を生んだ
勝海舟誕生 文政六年(1823年)

勝海舟 通称「麟太郎」、本名「義邦」のち「安芳」
【文政六年(1823年)1月30日〜明治三十二年(1899年)1月19日】

海舟は本所亀沢町にあった、父の実家である、男谷家の屋敷(現在の両国公園)で生まれました。海舟の曽祖父検校は元々は地方の出身で、江戸に出て成功し富を得て旗本男谷家の株を買い入れ、息子(海舟の祖父)平蔵に男谷家を継がせました。海舟の父惟寅は跡継ぎのいない勝家の婿養子となり勝小吉と称することとなりました。勝家は三河以来の古参の幕臣でしたが、小普請組に属する無役で、いわゆる貧乏旗本でした。若年期の海舟は貧しい生活を送りながらも、剣術、蘭学、参禅と修行に励み、この時の剣術と参禅の修行が自分の精神の土台をつくったと、後に本人が語っています。

島田虎之助
【文化十一年(1814年)4月3日〜嘉永五年(1852年)9月16日 】

男谷道場の師範代を勤めたのちに自らの道場を開き、直心影流島田派の祖となった剣客。海舟も従兄である男谷信友の道場で剣術を学んだのち、彼の道場に入門、21歳で直心影流免許皆伝となります。彼の薦めもあって蘭学や参禅修行も修めました。

黒船来航
【嘉永六年(1853年)6月3日】

ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の艦船が、浦賀に来航しました。アメリカの軍事力を前にして、対応に苦慮した老中阿部正弘は、幕閣のみならず広く意見を求めました。このとき海舟が提出した意見書が幕府内で注目され、海舟は、次いで大坂湾の防備体制を検討するための現地調査団の一員に命じられ、自らの手で出世への足ががりを掴みました。




長崎海軍伝習所の話です。

幕府海軍の礎となる
長崎海軍伝習所 安政二年(1855年)

【安政二年(1855年)7月29日】

海軍創設を目指す幕府が、オランダからの支援を受け設立された教育機関。海舟は伝習生を監督する「海軍伝習重立取扱」として、伝習所へ派遣されました。このとき小十人組となり、ようやく無役の小普請組から脱しました。ここで海舟はオランダ語とともに近代西洋技術、実践的な操船技術も習得しました。




勝海舟は咸臨丸の操船を指揮し、日本の船として初めて太平洋を横断しました。

勝海舟アメリカへ
咸臨丸の渡航 安政七年(1860年)

【万延元年(1860年)】

幕府は日米通商条約の批准書交換のため遣米使節団をアメリカに派遣しました。海舟は随行艦咸臨丸に乗船し航海を指揮、アメリカまでの航海は悪天候が続き困難を極めましたが、同乗していたアメリカ海軍大尉ブルック他、アメリカ人乗員の助力もあって、日本の船として始めて太平洋横断に成功しました。安政七年1月13日(1860年2月4日)に品川から出帆したのち、浦賀に寄り、安政七年1月19日(1860年2月10日)に浦賀を出航、安政七年2月26日(1860年3月17日)にサンフランシスコに到着、約43日間で航海したとされています。海舟はアメリカの軍事技術のみならず、政治体制や社会構成について日本との違いを確認しました。

咸臨丸

幕府がオランダから購入した船で、長さ約47m、幅約7.3m、重量380t、約100馬力の蒸気機関を搭載した木造、3本マスト、12門の大砲を備えた帆船で、幕府の所有した初期の軍艦です。安政四年(1857年)にオランダから日本に送られ、長崎海軍伝習所の練習艦となり、太平洋横断後は戊辰戦争にも参加しました。新政府軍に拿捕され、明治政府の開拓史の輸送船となりました。明治四年(1871年)に輸送中に暴風雨に遭い沈没しました。

福沢諭吉
【天保五年(1834年)12月12日〜明治三十四年(1901年)2月3日】

中津藩出身。明治維新後は平民となり主に教育者として尽力しました。慶応義塾の創設者であり、一万円紙幣の肖像にもなっています。軍艦奉行の木村摂津守の従者として、海舟とともに咸臨丸に乗船し、アメリカへと向かいました。アメリカから帰国した翌年には、欧州各国への文久遣欧使節団にも通訳方として同行し、西洋文化を目の当たりにした諭吉は、帰国後、著書、学校、新聞を通して西欧の文化や考え方を日本に広め、学問の大切さを説きました。

ジョン万次郎
【文政十年(1827年)1月1日〜明治三十一年(1898年)1月12日 】

本名は中濱萬次郎。漁師の次男として産まれ、漁の最中に遭難しアメリカの捕鯨船に救助され渡米、アメリカで英語や造船技術などを学びました。帰国後は幕府の旗本となり通訳や教師として活躍しました。通訳として海舟とともに咸臨丸に乗船し、アメリカへと向かいました。




坂本龍馬との出会いです。坂本龍馬は誕生日に死んだんですね。

坂本龍馬

【天保六年(1835年)11月15日〜慶応三年(1867年)11月15日 】

土佐藩出身。海舟に世界情勢と海軍の重要性を説かれ、その所説に感服し弟子となり、海舟の片腕となって神戸海軍操練所設立に尽力しました。龍馬は姉乙女に宛てた手紙で「日本第一の人物」と海舟を絶賛しており、深く尊敬していたことが窺えます。亀山社中(後の海援隊)を結成し薩長同盟の成立や、大政奉還の成立に尽力(し?)するなど、倒幕及び明治維新に大きな影響を与えました。




坂本龍馬と共に尽力した神戸海軍操練所の設立ですが、僅か1年で閉所になりました。

わずか一年の夢の跡
神戸海軍操練所

【元治元年(1864年) 】

【元治元年(1864年)5月開所〜翌慶応元年(1865年)閉所】
海舟は幕府の許可を得て、海軍士官の養成機関である神戸海軍操練所を開設しました。幕府や雄藩の枠を超えた日本国海軍の創設を構想し、血筋、家柄、身分に拘泥せず、有能な人材を集めて養成することが急務と考えた海舟は、幕臣の子弟だけではなく、操練所とともに設けた私塾である海軍塾に諸藩の脱藩浪士も受け入れました。しかし、池田屋騒動や禁門の変などに塾生が参加していたことから、幕府から「激徒養成」とみなされ、海舟は海軍奉公を罷免され、操練所は閉鎖されました。

陸奥宗光
【天保十五年(1844年)7月7日〜明治三十年(1897年)8月24日】

紀伊藩出身。海舟の神戸海軍操練所で航海術などを学び、坂本龍馬の海援隊に加わり、貿易で才能を発揮しました。明治維新後は政治家や外交官として活躍、地租改正の立案や、第二次伊藤内閣では外務大臣として不平等条約の改正や下関条約締結に貢献しました。

山岡鉄舟
【天保七年(1836年)6月10日〜明治二十一年(1888年)7月19日】

江戸生まれの幕臣。武術に天賦の才能を示しました。徳川慶喜の警護役高橋泥舟が、義弟である鉄舟を東征大総督府に徳川慶喜恭順の趣旨を伝える使者として、海舟に紹介しました。鉄舟は、東征軍参謀西郷隆盛と単身で面会し、慶喜恭順の意を伝え、新政府の徳川家に対する条件を確認し、江戸城開城の交渉に向けての大役を果たしました。勝海舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と称されています。

激動の幕末期と勝海舟

ペリー来航以降、その対応をめぐって政争は激化、「安政の大獄」によって、長州藩や水戸藩を中心とする尊王攘夷派と幕府や薩摩藩を主体とする公武合体派の対立が顕著となります。これに朝廷の動静も加わり内政は混迷の度を深めていきました。その中で海舟は、攘夷を排し、有力諸藩と幕府が協力的に国内を統治する新たな政治体制の構築を目指すべきと主張しました。将軍徳川慶喜はあくまで、幕権の回復、強化を目指しますが、武力倒幕などの動きに直面し、ついに大政奉還を上表します。その後、王政復古の大号令が発せられ、慶喜の辞官納地の方針が決定されます。鳥羽・伏見の戦いで完敗した慶喜は大阪城を脱出し江戸に戻ります。このとき慶喜は朝敵となり、官軍となった新政府軍は慶喜追討のため江戸を目指して進撃を開始します。海舟は恭順に意を決した慶喜から陸軍総裁に任命され、会計総裁の大久保忠寛と共に徳川方の首脳として、徳川家の存続に向けて、交渉の最前線に立つこととなります。




江戸無血開城のため、西郷隆盛と面会します。

勝と西郷で江戸を救う
江戸城開城

【慶応四年(1868年) 】

戊辰戰争
【慶応四年(1868年)1月3日〜明治二年(1869年)5月18日】

鳥羽・伏見の戦いから始まる、新政府軍と旧幕府勢力による一連の内戦で、鳥羽・伏見の戦い後、旧幕府勢力の指導者である、徳川慶喜が恭順の意を示し、江戸城を無血開城したことによって、以降の戦闘は恭順に従えない旧幕臣及び東北諸藩による戦いとなります。新政府軍に装備で劣る旧幕府軍は、敗戦を繰り返し、東北各地での戦闘ののち箱館戦争を最後に終結しました。

【慶応四年(1868年)3月から4月】

東征軍が江戸に迫る中、海舟は徳川慶喜の助命と徳川家の存続のため、東征軍参謀西郷隆盛との会談にのぞみました。この会談は3月13、14日の2回にわたって行われ、江戸城明け渡しについての交渉がなされました。海舟は交渉が決裂した場合に備え、民衆を避難させた上で江戸市街を焼き払う焦土作戦と、慶喜を英国に亡命させる準備をしており、和戦両様の態勢を整えていました。また、海舟は英仏公使への事前工作も行っていたと推測されています。海舟から嘆願書を受け取った隆盛は、薩長支持の英公使パークスに攻撃を反対されていることも考慮し、江戸総攻撃中止を決断、駿府の総督府に出頭し、その後、京都二条城での三職会議に臨み、隆盛の尽力によって、海舟の嘆願がほぼ受け入れられるに至りました。これにより、江戸城は天正十八年(1590年)以来、278年間、徳川氏の居城でありましたが、ついに無血開城され、江戸市民は戦火から救われ、外国の軍事介入による内乱も防止されるに至りました。





「勝海舟生誕之地」の石碑が建っています。裏面には勝海舟の経歴が記されています。

勝海舟生誕之地

勝海舟先生は幼名を麟太郎と稱し、文政六年一月晦日この地男谷家邸内に生る。剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、安政七年咸臨丸艦長として渡米す。明治元年三月十三日高輪薩摩邸に於て西郷隆盛と會談、官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百萬の庶民を戦禍より救い東京都繁栄の基礎となせり。明治三十二年一月十九日赤坂氷川の自邸に於て歿す。明治百年を記念し、この碑を建つ。




その隣には、小さな由来碑が建っています。

由来碑

勝海舟は幼名を麟太郎といい、文政六年(1823年)一月三十日この地、男谷精一郎邸内で生れた。剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860年)幕府軍艦咸臨丸艦長として太平洋を横断渡米した。慶応四年(1868年)三月十三日、高輪薩摩邸において、大総督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して、官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。明治三十二年(1899年)一月二十一日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去。行年七十七歳であった。墓は洗足池畔に建立されている。



中央の小碑です。


その右側には、脇差しを掛けた椅子があります。案内板がないので、どういう状況で使用されたのかは不明です。



ポイント4 ライオン堂

国道14号線(京葉道路)と清澄通りが交わる交差点の角に、明治四十年創業の力士達御用達のキングサイズ専門の洋品店ライオン堂があります。



扱っている商品は胸囲・胴囲100cm以上・首囲46cm以上・足は27cm以上のビッグサイズが中心です。店内に入る勇気はありませんが、ショーウインドウ越しに見てもサイズの巨大さが見て取れます。最近はふくよかな女性も増えていますので、女性向けの服も売っているのかなと思ったのですが、確かめられませんでした。ウインドーにポスターが貼ってあり、華奢な女性の写真があったので?と思いましたが、コンサートの広告でした。アメリカには超肥満体の男女が多いので、進出を検討されてみては如何かな。



清澄通りから北斎通りが分岐する角の緑町公園に隣接して、「すみだ北斎美術館」があります。現代的で斬新な外観は付近の建物とは一線を画しています。美術館の建物は大きな1棟ではなく、スリット(切れ目・隙間)による緩やかに分割された建物とすることで、周辺の下町市街地のスケールとの調和が図られています。スリットは、地上階部分ではアプローチの空間となっていて、周辺地域のどこからでもアクセスすることができます。



入口は建物の中心付近にあり、ピラミッドの内部通路を辿って入館するような感じです。世界的な画家として評価の高い葛飾北斎は、宝暦十年(1760年)に本所割下水付近(現在の墨田区亀沢付近)で生まれ、90年の生涯のほとんどを墨田区内で過ごしながら優れた作品を数多く残しました。墨田区では、この郷土の偉大な芸術家である北斎を区民の誇りとして永く顕彰すると共に、地域の産業や観光へも寄与する地域活性化の拠点として「すみだ北斎美術館」を開設しました。この美術館では、北斎及び門人の作品を紹介する他、北斎と「すみだ」との関わりなどについて分かりやすく伝えていくため、展覧会をはじめ様々な普及事業が行われています。



緑町公園には多くの案内板が立っています。墨田区の観光案内紹介のパネルの隣に、葛飾北斎生誕地の案内板が立っています。

葛飾北斎生誕地(墨田区亀沢付近)

宝暦十年(1760年)九月二十三日、本所南割下水(墨田区亀沢)付近に生まれた北斎は、浮世絵の役者絵を出発点として、狩野派、光琳派、大和絵など、さまざまな流派の技法を学び、新しい画風をどんどん確立させて、多くの名作を遺しました。代表作「冨嶽三十六景」は、天保二年(1831年)から天保四年(1833年)にかけて制作。とても七十歳を過ぎてからの作品とは思えません。八十歳を過ぎても創作意欲は衰えず、死の床に就いた嘉永二年(1849年)、「あと十年、いや五年でよいから生きさせてくれ、そうすれば真の画工になれる」といって息を引き取ったといわれています。常に新しい画法に取り組んできた北斎らしい臨終の言葉でした。




すみだ北斎美術館と緑町公園のある場所は、江戸時代に弘前藩津軽家の大名屋敷がありました。藩主からの依頼により、北斎は屏風に馬の絵を描いて帰ったというエピソードが残されていることなどから、この場所は北斎とゆかりの深い土地であるといえます。

津軽の太鼓・津軽家上屋敷跡

南割下水に面した弘前藩主・津軽越中守の上屋敷には、火の見櫓がありました。通常、火の見櫓で火災を知らせる時は板木を鳴らしますが、この櫓には板木の代わりに太鼓が下がっていて、その太鼓で火事を知らせていました。なぜこの屋敷の櫓だけに太鼓が許されていたのかは誰も知らず、不思議なこととされていました。これが本所七不思議の一つ「津軽の太鼓」の話です。七不思議とはいいますが、伝説なので伝わり方によって話もまちまちで、話の数も七つと決まったわけではありません。この「津軽の太鼓」には「越中守屋敷の火の見櫓の板木を鳴らすと、奇妙なことに太鼓の音がする」という話も伝えられています。




此の地には、江川太郎左衛門の屋敷もあったようです。「前」と付いていますので、津軽家上屋敷の前にあったのかも。

江川太郎左衛門屋敷跡前

江川太郎左衛門は、伊豆韮山を本拠地とした幕府の世襲代官で、太郎左衛門とは江川家代々の当主の通称です。なかでも有名だったのが、三十六代の江川英龍(1801年〜1855年)です。彼は洋学の中でも、とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、日本に西洋砲術を普及し、韮山に反射炉を築いて江戸防御のため、江戸湾内に数ヶ所あった砲台(お台場)を造りました。また、日本で初めてバンを焼いた人物だともいわれています。この屋敷は、代官の役所も兼ねていて、土佐国中濱村の漁師で、嵐で遭難し、米国の捕鯨船に救われ、ほぼ十年振りに帰国した中濱萬次郎を敷地内の長屋に住まわせ、英語を講義させたといわれています。




北斎は本所南割下水付近に生まれたとありますが、南割下水とは掘割の一種です。

南割下水

明暦の大火後に、幕府は本所深川の本格的な開発に乗り出します。まず着手したのは、竪川、大横川、北十間川、横十間川などの運河と掘割の開削と、両国橋の架橋です。掘割の一つが南割下水で、雨水を集めて川へ導くために開削されたものです。北には(現在の春日通り)北割下水も掘られました。幅は一間(約1.8メートル)から二間足らずで、水も淀み、暗く寂しい場所でしたので、本所七不思議の「津軽屋敷の太鼓」「消えずの行灯」「足洗い屋敷」の舞台にもなりました。昭和初期に埋め立てられましたが、この付近で葛飾北斎が生まれたところから、今では「北斎通り」と名を変えています。また、この辺りには、三遊亭円朝や歌舞伎作者の河竹黙阿弥も住んでいました。




江戸東京博物館は、江戸・東京の歴史と文化を振り返り、未来の都市と生活を考える場として平成五年(1993年)3月に開館しました。菊竹清訓の設計によるユニークな建物で、開館以来東京を代表する文化施設として、徳川家康の江戸入府から現代に至る約400年間を中心に、貴重な実物資料や復元模型・体験型資料を用いて紹介しています。江戸東京博物館は大規模改修工事のため、2022年4月1日から2026年春(予定)まで全館休館中です。ということは、最初に訪れた時はギリギリ開館していたんですね。



ポイント5 横網町公園

蔵前通りと清澄通りが交差する角に、横網町公園があります。横網(「よこずな」でなく、「よこあみ」と読みます)町公園は、東京市が陸軍の被服廠(ひふくしょう:軍服などを作る工場)が移転した跡地を買収し、公園として造成を進めていましたが、その最中に発生したのが関東大震災です。まだ空き地状態だった被服廠跡地には周辺の人たちが家から布団や家財道具を持ち出し、続々と避難してきました。ちょうど昼時であったことと、台風の余波で強風が吹いていたこともあり、各所で火災が発生しました。やがてこの被服廠跡にも強風にあおられた炎が四方から迫り、その火の粉が持ち込まれた家財道具などに燃え移りました。激しい炎は巨大な炎の竜巻・火災旋風を巻き起こし、一気に人々を飲み込みました。この地だけで3万8千人もの命が失われました。関東大震災で亡くなった人々の霊を弔慰するため、四十九日に相当する大正十二年10月19日に、この地において東京府市合同の大追悼式を挙行したのがこの公園の歴史を刻む最初の出来事でした。当初「大正震災記念公園」と仮称された公園でしたが、昭和五年(1930年)に慰霊堂(当時は震災記念堂)や鐘楼・日本庭園が完成し、9月1日に横網町公園として開園しました。翌年の昭和六年には復興記念館も完成し、現在の横網町公園となりました。

横網町公園

昭和五年(1930年)、関東大震災の身元不明の遺骨を納め、霊を祀るため創建された慰霊施設。「震災記念堂」と称していましたが、戦後、東京大空襲の身元不明の遺骨を合せ納め、「東京都慰霊堂」と改称されました。隣接して復興記念館があります。

Yokoamicho Park

This facility was constructed in 1930 to memorialize the victims of the Great Kanto Earthquake of 1923. A museum commemorating subsequent recovery and reconstruction efforts in the city is located adjacent to the park.




公園の案内図があります。

横網町公園

関東大震災(大正十二年・1923年)や、東京空襲(昭和十九年〜二十年・1944年〜1945年)による悲劇を、記憶・伝承し、その犠牲になった多くの人々を慰霊する公園です。

Yokoamicho Park

This park is dedicated to the remembrance of the many victims of the Great Kanto Earthquake (1923) and the Tokyo Air Raid (1944-1945), to commemorate and preserve the memory of these tragedies.

東京都慰霊堂

関東大震災、および東京空襲の遭難者、16万人余の御霊を慰霊する施設です。昭和五年(1930年)に建てられました。堂内には絵画等の展示もあります。どなたでも入堂できます。
入堂無料、9時〜16時30分、年末年始は閉堂

Tokyo Metropolitan Memorial Hall

Built in 1930, this hall is a memorial for more than 160,000 lives lost during the Great Kanto Earthquake and the Tokyo Air Raid. Paintings and other archives are on display in the hall, and it is open to the public.
Free admission, open 9:00 am to 4:30 pm. Closed for the New Year's holiday.

復興記念館

関東大震災からの復興事業を記念するために昭和六年(1931年)に建てられました。関東大震災、東京空襲の被害や復興に関する資料を展示しています。
入館無料、9時〜16時30分(入館)、毎週月曜日(祝日の場合は翌日)および年末年始は休館

Great Kanto Earthquake Memorial Museum

This museum was built in 1931 to commemorate the reconstruction project following the Great Kanto Earthquake. Documents and other materials related to the damage caused by the earthquake and the Tokyo Air Raid, as well as to the ensuing reconstruction, are on display.
Free admission, open 9:00 am to 4:30 pm (entry). Closed on Mondays (if a national holiday, closed the following day) and for the New Year's holiday.





公園内には関東大震災で焼け爛れた多くの遺物が展示されています。

横網町公園復興記念館
(震災記念屋外ギャラリー)

大正十二年(1923年)9月1日午前11時58分に発生した関東大震災の被害は、死者及び行方不明者10万6千人余、負傷者5万2千人余、家屋の損害は69万4千戸余にも達した。ことに家屋の密集した東京の下町では、地震後発生した大火災による猛火、熱風により、諸々の建築物はもちろん多くの人々が焼死し、その光景はさながら地獄絵の如く惨たんたるものであった。当「震災記念屋外ギャラリー」は、その震災による被災品を展示することにより、過去におきたその惨劇を後世に伝え、二度と同じような不幸がおこらないことを深く願って建造されたも のである。

YOKOAMI OPEN GALLERY

The Great Earthquake which occurred in the Kanto region on September 1, 1923, brought unprecedented damage mostly to the cities of Tokyo and Yokohama as well as other places. Especially in congested down town (Shita-machi) housing areas, the Sumida river was buried with many corpses. The Yokoami Open Gallery was constructed in the hope that such a disaster should never be repeated and to make future generations aware of this tragedy by displaying fragments and remains of the damage.




一番手前は自動車のシャーシの残骸です。日本で車両番号第一号という記念すべき車両ですが、見る影もありません。

自動車の焼骸
Remains of a Burnt Car

自動車のボディが焼失し、シャシーだけが残ったもの。この自動車は車両番号第一号という古い歴史を持ち、銀座の明治屋商店で震災直前まで使用されていたという。




次は発電機でしょうか、鉄の塊としか見えませんね。

百馬力電動機
Burnt Electro−Motor

大日本麦酒株式会社吾妻橋工場内で焼損した、100馬力の電動機。




釘が溶けて鉄の塊になっています。

洋釘の焼塊
Mass of Melted Nails

深川区清澄町倉庫に貯蔵してあった樽入りの釘が、火災による高熱のため溶解し、ひとつのかたまりとなったものである。




印刷機は未だ原形を留めています。

印刷機
Burnt Printing Machine

当時、神田区(現在の千代田区)美土代町にあった三秀社印刷工場内で、火災により焼損した印刷機である。




天水桶は裂けて下部の一部だけが残っています。

天水桶
Burnt Rainwater Tank

湯島聖堂に備えつけてあった天水桶(雨水を貯める桶)が猛火により焼損したものである。




鳥居は石で出来ていますので焼けることはないのですが、地震の揺れで倒壊したのでしょう。

鳥居の柱
Broken Torii Pillar

浅草区(現在の台東区)駒形にある桜守稲荷の境内にあった鳥居が、激震により倒壊してしまったものである。




建築材とは思えませんね。

花崗岩
Wreckage of Granite

日本銀行の建築材として使用されていた花崗岩の残がい。震災の猛威は頑強な建築物をも破壊してしまったのである。




アメのように曲がっているとはこの状態ですね。

鉄筋コンクリート柱
Wreckage of a Concrete Pillar

東京の中でも悲惨を極めた地域のひとつであった、麹町区(現在の千代田区)丸の内の内外ビル玄関脇の破損した柱である。




魚雷は暴発しなかったのでしょうか?

魚形水雷
Burnt Torpedo

東京高等商船学校(現東京商船大学→東京海洋大学)内で焼損した魚形水雷(魚雷)の残がいである。




復興記念館内には、関東大震災と太平洋戦争で生み出された数多く展示品が並べられ、日本が被った悲惨な実態が間近で見られます。

東京都復興記念館案内

震災復興記念館は、大正十二年(1923年)9月1日に発生した関東大震災の被害や惨状、その後の復興事業を伝えるため、昭和六年(1931年)8月18日に開館しました。館内には震災復興を祝って昭和四年(1929年)9月に開かれた帝都復興展覧会の展示品、絵画や写真・図表・被災資料及び市民からの寄贈品などが展示されています。震災から立ち直った東京は、太平洋戦争末期の空襲で再び焼け野原となりました。そこで戦後、戦災関係資料の展示が追加され、「東京都復興記念館」と名称を変更しました。今では震災・戦災の記憶とともに、昭和初期の都市計画や街づくりを伝える貴重な展示施設となっています。




1階には、関東大震災に関する多数の資料・遺品が展示されています。



あまりの揺れに、地震計も壊れてしまいました。

壊れた地震計、そして強い余震

十数秒の初期微動のあと本震がおそい、約2分間ほど激しい揺れが続きました。あまりの揺れの強さに地震計が破損。南北方向の動きを表す波形が途中で切れています。また、関東地震の特徴の一つは、余震の多さです。本震が発生した11時58分から3分後、そして5分後に本震と同規模の余震が発生しました。翌年の丹沢地震までを含めると、マグニチュード7以上の余震は6つに達します。これらの余震は、いずれも兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災 M7.3)に匹敵する規模だったということです。

Broken Seismometer and Powerful Aftershocks

After over ten seconds of the first wave of tremors, the main shock occurred and lasted for approximately two minutes. The intense vibration overloaded the seismometer and damaged it, as shown in the graph; the line indicating the amplitude of vibrations on the north-south axis is broken at one point and after. One of the characteristics of the Kanto Earthquake was frequent aftershocks. One as powerful as the main shock happened just three minutes after the main shock at 11:58a.m., and a second one five minutes after the initial barrage of tremors. Such big aftershocks measuring magnitude-7 or higher happened six times, including the Tanzawa Earthquake, which happened the following year. Apparently, all of the six aftershocks were as big as the Hyogo Prefecture Nanbu Earthquake (the Great Hanshin Awaji Earthquake ~M7.3) of January, 1995.




大地震が発生した時点で止まった市電の時計と、地震後の火災で焼けた洋菓子が展示されています。



都心の火災の様子と銀座の焼け跡です。現在は埋め立てられていますが、三十間堀川が写っていますね。



関東大震災の復興事業も紹介されています。

震災復興期の社会施設−深川食堂

深川食堂(現・深川東京モダン館)は関東大震災の復興事業として建設された、鉄筋コンクリート構造2階建ての市設食堂です。震災の少し前から米騒動などの社会不安や食生活の問題を解決するために、廉価で食事を提供する公衆食堂が都市で設置されました。震災後、東京市は市内10ヶ所(神田、日本橋、三味線堀、上野、深川、丸ノ内、数寄屋橋、本所、両国、九段)に仮設の公衆食堂を建設しました。深川仮設公衆食堂は震災の翌年2月1日に営業を開始し、いったん廃止されますが、その後昭和七年(1932年)4月1日に再び開設されました。




2階には、太平洋戦争に関する多数の資料・遺品が展示されています。



東京都慰霊堂は、建築家伊藤忠太の手によるものです。

東京都慰霊堂由来

この堂は、大正十二年(1923年)の関東大震災の後に、東京市内で災害の最も悲惨であったここ被服廠跡に、遭難死者のご遺骨を納める霊堂として建てられ「震災記念堂」と名付けられました。そして、遭難者の霊を祀り、その加護によって今後このような災害の起こらないことを祈願するため、毎年9月1日の震災記念日に慰霊大法要を執り行い、併せて「焦土のなかから東京を復興させた官民の熱心な協力」の思い出をあらたにしようとしたものです。ところが、その悲願も空しく、21年を経た昭和十九年(1944年)の冬から、首都東京は戦争により空からの爆撃を受けて、関東大震災の数倍もの惨禍を被りました。そこで、この戦災遭難者の霊と御遺骨を併せてこの堂に奉安し、昭和二十六年(1951年)9月に名称を「東京都慰霊堂」と改め、最も被害が大きかった東京大空襲の日の3月10日にも毎年東京都慰霊協会主催による慰霊大法要が行なわれるようになりました。

*利用時間   9:00〜16:30(年末年始休み)
*施設概要   施工日   昭和五年(1930年)4月30日
        構造    鉄骨鉄筋コンクリート造
        延床面積  1、470u 最高高さ 40.9m
        設計者   伊東忠太
        納骨数   震災 58、000体、戦災 105、000体




公園の隅には、幽冥鐘の堂が建っています。文中の王一亭は、清朝末期に活躍した中国の実業家・書画家・銀行家・政治家です。上海を中心に活動した一方、中国同盟会にも参加した革命派の人物でもあります。画家としても優れた業績を残し、仏教徒としての活動も顕著でした。

幽冥鐘の由来

この梵鐘は、関東大震災により遭難した死者を追悼するため、中国仏教徒から寄贈されたものです。震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の招賢寺及び上海麦根路の玉仏寺で、それぞれ念仏法要が営まれ、中国在留の同胞に対しても参拝を促しました。また、各方面の回向が終わった後は、「幽冥鐘一隻を鋳造して、之れを日本の災区に送って長年に亘って撃撞し、此の鐘声の功徳に依って永らく幽都の苦を免れしめむ」と宣言しました。その後、中国国内で鋳造し、杭州から上海・横浜経由で大正十四年(1925年)11月1日、記念堂建設地(横網町公園)に運ばれました。この鐘を安置する鐘楼は、昭和五年(1930年)8月31日に現在地に完成し、同年10月1日「梵鐘始撞式」を行いました。なお、これら一連の事業の遂行にあたっては、上海の王一亭氏の特段のご尽力がありました。




関東大震災により亡くなった児童の慰霊碑が建っています。

震災遭難児童弔魂像

大正十二年(1923年)9月1日の関東大震災により東京市(当時)の小学校児童約5千人が亡くなりました。この死を悼み、冥福を祈るため、全市学校長等が弔魂碑建立を計画し、寄付を募りました。その寄付金により、彫刻家小倉右一郎氏に製作を依頼、昭和六年(1931年)5月16日に除幕式が行われました。その後、像部分は、昭和十九年(1944年)、金属回収のため撤去されましたが、昭和三十六年(1961年)、都は、小倉右一郎氏の高弟である、津上昌平、山畑阿利一両氏に製作を依頼し、往時の群像を模して再建されました。

台座の裏面には次の言葉が記されています。

大正十二年九月一日の大震火災の為に我が東京市小学校児童の死亡せし者無慮五千人其の惨状言語に絶せり学校長等深く之を哀み之を悼み相議りて当時幸に難を逃れ生を全うせる都下の学童をして此の不遇の霊を慰め不幸の魂を弔はしめむことを企画し第五回の忌辰に際して之を発表するや忽ちにして学童の共鳴する者十八萬二千二十七名に及び其の醸金一萬四千六十六圓四十七銭に達せり乃ち小倉右一郎氏に託して震災記念堂の傍に此の群像を建設し保存資金を添えて之を財団法人東京震災記念事業協会に寄附し永く当時を追憶し其の冥福を祈らむとす




慰霊碑の脇がスカイツリーの絶景スポットだそうです。



山田記念病院の建物の前に巨大な錨とアンカーチェーンが保存されています。


この錨は歴史ある日本海軍駆逐艦初霜の錨である。初霜はさきの大戦に北はアリューシャン、南は佛印、シンガポール、比島にわたる広い太平洋海域で勇戦、最後は昭和二十年4月戦艦大和沖縄特攻作戦にも参加し、同年7月30日宮津湾に於いて対空戦闘中触雷櫚坐(擱座:かくざ?)して任務を終わった。終戦時には日本海軍の駆逐艦203隻の多くが遠い海に沈み、残存の33隻の内ほとんどを連合国に接収された。初霜は日本に残り解撤され、その錨がこれである。私は昭和十五年軍医長として初霜に乗組み作戦に参加した。縁あって私のところに来たこの錨を伝統ある帝国海軍の遺産として長く後世に残しておきたい。




ポイント6 駒形軒

駒形軒は、下町の住宅地の中に建つ揚げ物フライの専門店です。唐揚げからコロッケ・メンチなど種類が豊富で、惣菜としても食べ歩きとしても最適です。おじさんの接客も良く心地の良いお店です。



2022年に訪れた時のお値段と比べて、2025年に再訪した時は揚げ物を中心に10円〜20円値上げされていました。でも、何でも値上がりの世の中、これでも上げ幅が少なすぎはしませんかね?



駒形軒が面する交差点をゴール地点とします。



ということで、墨田区で四番目の「Cすみだの魅力が凝縮!江戸の粋に出会えるコース」を歩き終えました。次は墨田区で五番目のコースである「D歴史と自然を感じながら、名所をめぐる江戸散歩コース」を歩きます。




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