D歴史と自然を感じながら、名所をめぐる江戸散歩コース  

コース 踏破記  

今日は墨田区の「D歴史と自然を感じながら、名所をめぐる江戸散歩コース」を歩きます。JR総武線両国駅西口から北斎通りを進み、墨田区が輩出した浮世絵の巨匠である北斎美術館を訪れます。残念ながらコロナ渦で休館中でしたが、気を取り直して錦糸公園へ。大横川親水公園を経て新大橋通りを進み、清澄通りから竪川に平行して進み、杉山検校縁の神社を訪れます。最後は回向院で猫と戯れます。最初に歩いたのは2022年の3月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年5月に改めて歩きました。

D歴史と自然を感じながら、名所をめぐる江戸散歩コース

大横川親水公園や大横川テラスには、さまざまな草木や、水鳥といった自然がたくさん!「鬼平犯科帳」ゆかりのスポットも見逃せません。

「D歴史と自然を感じながら、名所をめぐる江戸散歩コース」の歩行距離は約7.0km(約10、000歩)、歩行時間は約1時間45分、消費カロリーは約315Kcalです。

スタート地点:JR総武線両国駅西口
ポイント1 すみだ北斎美術館
すみだ出身の世界的な芸術家・葛飾北斎の作品やその生涯をたどる展示が見られます。
ポイント2 錦糸公園
区民の憩いの公園。園内にはストレッチや体操ができる健康器具があります。
ポイント3 江島杉山神社
日本の鍼(はり)治療法の礎を築いた杉山和一(検校)ゆかりの神社。境内には江ノ島弁財天を模した洞窟も。

ゴール地点:JR総武線両国駅西口


スタート地点のJR総武線両国駅西口から歩き始めます。



国技館通りに面して横綱像が建っています。この通りには何カ所か横綱像があって、これは一番新しいようです。手形のレリーフは「白鵬」と「鶴竜」の2枚ですが、どちらも顔立ちが似てないように思います。



国技館の外柵の前に案内板が立っています。忠臣蔵に架空の人物が登場していたとは知りませんでした。

忠臣蔵
Site of Tawaraboshi Gemba’s stable
俵星玄蕃の道場跡

宝蔵院流の槍の名手、俵星玄蕃は忠臣蔵に登場する架空の人物で、彼の道場は、本所横網町のこの辺りにあったとされています。上杉の家老・千坂兵部が二百五十石の高禄で、吉良家に召抱えようとしますが、赤穂浪士の世を忍ぶ苦心に同情を寄せた玄蕃はこれを断りました。屋台の夜なき蕎麦屋「当たり屋十助」に姿を変えて吉良邸を探っていた赤穂浪士・杉野十平次の前で、「のうそば屋、お前には用の無いことじゃが、まさかの時に役に立つかも知れぬぞ見ておくがよい」と、槍の技を披露しました。討入り当夜、助太刀に駆けつけると、杉野に会い、たいへん驚き、吉良邸外の守りを固め、本懐成就に協力したとされます。




天水桶は神社などで見かけますが、これはその市中版で雨水を貯めて再利用する装置だそうです。

天からの恵みを集めて活かす「両国さかさかさ」天水収穫装置

雨を「よける」のではなく「集めよう」。都会ではとかくやっかいもの扱いされがちな雨。しかし、雨なしには草花も育ちません。雨はありとあらゆる生命の源です。大地を潤し、緑を育み、地下水となります。豊かな地下水は湧水となり、川に豊かな流れをもたらします。コンクリートやアスファルトが目立つ東京のまちも、実は空と大地の間を循環する雨によって支えられているのです。雨は、天水。天からの恵みの水。この装置は、天水をもっと大切に、もっと有効に活かすシンボルとして、大地から空に向けて広がる「逆さ傘」をコンセプトに作られました。下部は、この逆三角屋根に降った雨を貯める容量約600lのタンクになっています。貯めた雨水は、付近の花壇への水やりや打ち水などに活用します。「歩道の緑地」という都市の公共空間で、天からの恵みを集水・貯留・活用し、大地に戻す−。市民と企業と行政との協働による、天水を活かしたまちづくりへの実践です。

天水の収穫と活用
空から降る雨は、命の源。くらしの中で、街並の中で、天からの恵みである雨を有効に活用することは、これからますます深刻化するといわれる都市の環境問題、洪水・渇水や大地震などの自然災害への備えとして、私たちひとり一人が取り組むことのできる解決策のひとつです。墨田区から、全国そして世界へと広がりつつあります。

雨の恵みプロジェクト
ライオン株式会社とNPO法人雨水市民の会は、2008年より協働で「雨の恵みプロジェクト」を推進しています。まちのなかで雨水を貯留、浸透及び利用する意義を探求し、社会への普及を目指して活動しています。

両国駅花いっぱい運動
ライオン社員のボランティアグループ「花ボランティア」は、両国駅周辺の環境美化を目的に、2005年から両国駅周辺の花壇やフラワーポットに草花を植え育てる「花いっぱい運動」をしています。タンクに集めた雨水は、これらの草花への水やりに活用します。

間伐材の活用
天水も緑も循環資源です。森の管理には間伐とその有効利用が欠かせません。この装置には山梨県、栃木県の間伐材を使用し、製作過程での環境配慮にも努めています。

(ライオン株式会社では2006年より森林環境と水環境の保全を目的として、山梨県内で「ラ イオン山梨の森」活動を行っています。)




現在の国技館は地上2階・地下1階建てで、旧両国貨物駅跡地に建設され、昭和五十九年(1984年)11月30日に完成し、翌昭和六十年(1985年)1月場所から使用されています。こけら落としとなった初場所では、北の湖と千代の富士の両横綱によって特別な日のみに行なわれる「三段構え」が披露されました。現在では相撲の他、プロレスや格闘技・ボクシング・株主総会や企業の式典・大学の入学式・コンサートなどが行なわれています。



北斎の掲示板が立っています。

葛飾北斎 新柳橋の白雨 御竹蔵の虹 −絵本隅田川両岸一覧−

狂歌絵本「隅田川両岸一覧」三巻のうち、中巻の一枚です。にわか雨に降られ、傘を持った人々が新柳橋の上を走っている様子が、隅田川の対岸から描かれています。白雨というのは天気雨のことです。左奥の橋は御蔵橋で、幕府の材木蔵であった「御竹蔵」の入堀に架かっていました。奥一帯の「御竹蔵」には当初は建築用の資材が保管されていましたが、現在の猿江公園の材木蔵に移されるようになると米蔵として使用され、本所御米蔵と称されました。その広大な敷地は、現在の国技館、江戸東京博物館などがあたります。

Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River:
Shinyanagi Bashi no Hakuu Otakegura no Niji
(Sudden Rain at the New Yanagi Bridge/Rainbow Above Bamboo Warehouses)

One of the prints from the second of the three-volume comic tanka picture books, Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River. This print shows a scene of people with umbrellas crossing the New Yanagi Bridge during a light shower, and it is drawn from the opposite side of the Sumida River. The term "sudden rain" refers to an unexpected shower. The bridge on the far left is the Mikura Bridge. It spans the entrance to the Otakegura bamboo warehouses, where the Shogun's timber was stored. The area behind the Otakegura warehouses was used to store building materials at that time, but it became a rice warehouse when it moved to the timberyard located in the present-day Sarue Park, and became known as the Honjo Rice Warehouse. This normous estate is now occupied by the Ryogoku Kokugikan, the Edo Tokyo Museum and other facilities.




その横にベンチが設けられていて、背もたれの壁の上には北斎の浮世絵が3枚貼られています。



両国の夕涼み風景が描かれています。

両国夕涼

夕涼に花火見物を楽しむ人々と両国橋や一之橋の情景です。

Evening Cool at Ryogoku

This print depicts people enjoying an evening of fireworks at Ryogokubashi Bridge and Ichinohashi Bridge.




冨嶽三十六景の中の一景です。

冨獄三十六景 御厩川岸より両国橋夕陽見

夕暮れ時でシルエットになった両国橋や富士山を描いています。

Viewing Sunset over the Ryogokubashi Bridge
from the Ommayagashi River Bank, from the series Thirty-six Views of Mount Fuji

This print depicts Ryogokubashi Bridge and Mt. Fuji silhouetted at sunset.




両国花火大会が描かれています。

新板浮絵 両国橋夕涼花火見物之図(部分)

両国橋で花火を上げる景色を、隅田川の西側から描いています。

Watching Fireworks in the Cool of the Evening at Ryogokubashi Bridge,
from the series Newly Published Perspective Pictures (part)

Fireworks at Ryogokubashi Bridge, depicted from the western side of the Sumida River.




北斎は絵の素材となるスケッチを数多く残しています。

「北斎漫画」(部分)

世界的に有名な絵手本で、海外では「ホクサイ・スケッチ」として親しまれています。全十五冊、総図数は約三千九百図にのぼり、人間や自然、神仏妖怪など、ありとあらゆるものが描かれていて、「絵の百科事典」と呼ぶにふさわしい内容です。

Sketches by Hokusai (part)

The Hokusai Manga, known internationally as "Hokusai's Sketches," is a world-famous collection of sketches of various subjects by the Japanese artist Katsushika Hokusai. Subjects of the sketches include humans, nature, gods and the supernatural. There are roughly 3900 images in this set of 15 volumes, which are worthy of being called the "Encyclopedia of Pictures".




交差点の角に石碑が建っています。「花の生涯」は、1963年4月7日から同年12月29日までNHKで放送された大河ドラマ(放送当時は大型時代劇と称した)の第1作です。原作は、舟橋聖一が1952年から1953年まで毎日新聞紙上で連載した歴史小説「花の生涯」で、幕末の大老井伊直弼の生涯を描いた作品です。

舟橋聖一生誕記念碑

作家舟橋聖一は明治三十七年(1904年)12月25日に、本所区横網町二丁目二番地に生る。作家、國文学者として盛名高く、数々の名作を遺すも、その七十二年の生涯は権威に屈せず、市井の文人、文学者として独自の風格を以て貫かれている。代表作の一つ、「花の生涯」は井伊大老の生涯を綴った醇たる逸品であるが、文学者、文化人として、前人未踏の道を歩いた作者の人生行路もまた、そのまま花の生涯と呼ぶにふさわしいものである。
                                       井上靖




国技館の北側に旧安田庭園の西門があります。旧安田庭園は、常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資により元禄年間(1688年〜1703年)に築造されたと伝えられ、かつては隅田川の水を引いた汐入回遊式庭園として整備されました。明治維新後は旧備前岡山藩主池田侯の邸となり、次いで安田善次郎氏の所有となりました。安田氏の没後、大正十一年に東京市に寄附されました。関東大震災・太平洋戦争を経て東京都から墨田区に移管され、全面的改修を行って復元した後、一般に開放されました。現在は、ポンプを使用して人工的に潮入が再現されています。

旧安田庭園の沿革

元禄年間(1688年〜1703年)に、 徳川五代将軍綱吉の生母である桂昌院の実弟で、後の常陸笠間藩5万石の藩主、本庄因幡守宗資が下屋敷として拝領し、この庭園を築造したと伝えられている。中央に「心」字をかたどった池を配し、かつては隅田川の水を引き入れ、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる潮入り池泉廻遊式庭園である。明治になって旧備前岡山藩主池田章政侯爵邸となり、明治二十四年(1891年)には、安田財閥の創始者である初代安田善次郎の所有となった。安田翁の逝去後、故人の遺志により大正十一年(1922年)に家屋及び庭園は、東京市に寄付された。大正十二年(1923年)9月1日の関東大震災により壊滅的な被害を受けたが、残った地割り石組みを基にして復元工事が行われた。旧安田邸跡地は寄付者の名を冠して「旧安田庭園」と命名され、昭和二年(1927年)に民間篤志家の寄付による和風庭園として都内初の一般公開となった。昭和四十二年(1967年)、東京都から墨田区に移管されたのを機に、全面的な改修工事を行い、昭和四十六年(1971年)に新装開園し、現在に至っている。明治時代の文献の中で記載されている姿を今日までよくとどめており、清澄庭園に匹敵する明治時代の代表的庭園の一つであることから、平成八年(1996年)、東京都の「名勝」に指定された。

THE HISTORY OF KYU-YASUDA GARDENS

In the Genroku Era (1688 - 1703), a feudal lord in the later Hitachi-Kasama Clan of 50,000 koku, Honjo Inabanokami Munesuke, who was a younger blood brother of the biological mother (Keishoin) of Tsunayoshi Tokugawa, the fifth shogun, received this land from the Bakufu as a suburban residence and is said to have constructed this garden. This garden has a pond in the shape of the Japanese character "kokoro" (heart) at its center and uses a system known as shioiri by which the pond is fed from the Sumida River, so the water level in the pond rises and falls with the ebb and flow of the river's tide. After the Meiji Restoration, it was the home of the Lord Ikeda Akimasa of the late Bizen-Okayama Clan and, then, in 1891, it became the property of Yasuda Zenjiro, founder of the Yasuda Financial Group. After Zenjiro's death, as specified in his will, the garden and house were donated to Tokyo City in 1922. However, on September 1 of the following year (1923), the grounds were almost completely destroyed by the Great Kanto Earthquake. The City began re-construction. "Kyu-Yasuda Gardens". work on the garden, using as a base the ishigumi stone formations, which fortunately remained, and then named the gardens after the donor -- In 1927, it was opened to the public as the first Japanese garden, donated by a private charitable person. Taking the opportunity of its jurisdiction transfer from the Tokyo Metropolitan Government to Sumida City in 1967, it was fully re-constructed and, in 1971, it was completely restored to the original condition of former times when it was called a "distinguished garden". In 1996, this garden was designated a Metropolitan Place of Scenic Beauty as a typical garden of the Meiji Era.




両国中学校の正門脇の植え込みの中に記念碑が建っています。「良い歯の日」の経緯については 碑文に詳しく書かれている通り、大正十四年(1925年)に本所歯科医師会が口腔衛生の啓蒙のために行った児童の歯科検診と「優良歯牙所持者表彰」に始まりました。このような活動は日本国内はもとより、世界的にも前例のない画期的なものだったといわれています。この活動がきっかけとなり、昭和三年(1928年)から全国的に6月4日を「虫歯予防デー」と制定されましたが、戦時中は一時中断していました。昭和三十三年(1958年)に、毎年6月4日〜10日を「歯の衛生週間」として復活し、虫歯予防の運動が行われています。

良い歯の日発祥記念碑

歯科界の黎明期に 本所歯科医師会は 入江義次 五十嵐庭治君等の提唱で 口腔衛生普及運動を起した その始は奥村鶴吉 加藤清治 川上為次郎 岡本清纓 高津武の諸先生に依頼して 当時の本所高等小学校(現墨田区立両国中学校)で区内学童の口腔診査を実施した 会員の積極的活動とライオン歯磨の後援によってこの運動は 日本歯科界最初の企画として当時の新聞に報道された この時学童数名を選び 表彰状と「良い歯の日」と記したメダルを贈った 大正十四年(1925年)十一月七日のことである 本会の唱導は多くの反響をよび 後年「ムシ歯予防デー」として発展するところとなった 本会発足五十周年に当り国民保健向上の一齣であるこのことが 永く後世に伝わるように この碑を記念事業として建てるものである




江戸東京博前交差点で清澄通りを横断し、北斎通りに入ります。江戸東京博物館は、江戸・東京の歴史と文化を振り返り、未来の都市と生活を考える場として平成五年(1993年)3月に開館しました。菊竹清訓の設計によるユニークな建物で、開館以来東京を代表する文化施設として、徳川家康の江戸入府から現代に至る約400年間を中心に、貴重な実物資料や復元模型・体験型資料を用いて紹介しています。江戸東京博物館は大規模改修工事のため、2022年4月1日から2026年春(予定)まで全館休館中です。ということは、最初に訪れた時はギリギリ開館していたんですね。



北斎通りは、かっての本所割下水の跡を辿っています。

本所割下水

割下水とは、かつてここを流れていた下水の呼称です。1650年代末以降の本所開拓の中で開鑿(かいさく)された下水で、かつてはその両側に道がありました。あの有名な葛飾北斎も、割下水付近の住人だったようです。この付近は、いわゆる本所七不思議の舞台の一つとして知られてきましたが、特に近年は葛飾北斎ゆかりの地として有名になっています。割下水は昭和初期に暗渠(あんきょ)となり、平成二年から五年にかけての歩道整備を経て現在のような道路となりました。平成六年8月以来、「北斎通り」の名前で親しまれています。

"WARI-GESUI" (divided-sewage) is the name of a sewage which was used to run around this area. It was the sewage canalized as a part of reclaiming of Honjo area in late 1650s and there used to be pavements on both sides. It is said that the famous Katsushika Hokusai was also a resident of neighbor of the WARI GESUI. This neighborhood, which had been known as one of the so-called Seven Wonders of the Honjo, became famous as the Land of Katsushika Hokusai in recent years. The sewage had been rebuilt as under drain or closed conduit in the early Showa era and further developed as the sidewalk as current through pavement engineering from 1990 to 1993. It has been known as Hokusai Street since August 1994.




当時の地図を見ますと、赤丸の「現在地」から大横川と交差して東方向に真っ直ぐに本所割下水が延びていることが分かります。南北に通る道路には橋が架けられていましたが、「青芽橋」もそのひとつだったのでしょう。



ポイント1 すみだ北斎美術館

緑町公園に隣接して、「すみだ北斎美術館」があります。現代的で斬新な外観は付近の建物とは一線を画しています。美術館の建物は大きな1棟ではなく、スリット(切れ目・隙間)による緩やかに分割された建物とすることで、周辺の下町市街地のスケールとの調和が図られています。スリットは、地上階部分ではアプローチの空間となっていて、周辺地域のどこからでもアクセスすることができます。



2022年に訪れた時はコロナ禍で閉館していました。



緑町公園には多くの案内板が立っています。墨田区の観光案内紹介のパネルの隣に、葛飾北斎生誕地の案内板が立っています。

葛飾北斎生誕地(墨田区亀沢付近)

宝暦十年(1760年)九月二十三日、本所南割下水(墨田区亀沢)付近に生まれた北斎は、浮世絵の役者絵を出発点として、狩野派、光琳派、大和絵など、さまざまな流派の技法を学び、新しい画風をどんどん確立させて、多くの名作を遺しました。代表作「冨嶽三十六景」は、天保二年(1831年)から天保四年(1833年)にかけて制作。とても七十歳を過ぎてからの作品とは思えません。八十歳を過ぎても創作意欲は衰えず、死の床に就いた嘉永二年(1849年)、「あと十年、いや五年でよいから生きさせてくれ、そうすれば真の画工になれる」といって息を引き取ったといわれています。常に新しい画法に取り組んできた北斎らしい臨終の言葉でした。




墨田区の観光案内紹介の中で、今回のコースで訪れる名所・旧跡を抜き出してみます。最初は、「両国国技館」です。

両国国技館

大相撲の殿堂。昭和六十年(1985年)、新国技館として蔵前から両国に復帰。1月、5月、9月に本場所を開催。相撲博物館が併設されており、相撲の歴史を体験できる(場所中以外は無料)。雨水は地下のタンクに貯められ、飲料以外の用途に使用されています。

Ryogoku Kokugikan (Sumo Hall)

Sumo tournaments are held every January, May, and September at this arena. The new Kokugikan was built in 1985 to return the tournaments to the historic Ryogoku location after a time in Kuramae. The stadium houses the Grand Sumo Hall of Fame and Museum (free admittance, except when tournaments in session). The rainwater is collected in a tank placed at the basement to use in the facility.




「江戸東京博物館」と「すみだ北斎美術館」です。

江戸東京博物館

失われつつある江戸・東京の歴史遺産を守るとともに、東京の歴史と文化を振り返ることによって、未来の東京を考えるために設立された博物館。江戸から昭和にかけての町並みが再現されており、日本橋も復元されています。

Edo-Tokyo Museum

This museum was built to preserve and exhibit the historical heritage of the city of Tokyo. An understanding of Tokyo's origins and history as Edoserves as a basis for considering the future of the metropolis. Displays re-create various aspects of city life, from Edo's founding in 1603 through the 20th century. A huge reconstruction of the bridge, Nihombashi, is included in the exhibits.

すみだ北斎美術館

すみだで生まれ、その生涯のほとんどをすみだで過ごした、世界的に有名な浮世絵師・葛飾北斎(1760年〜1849年)。北斎を区民の誇りとして永く顕彰するとともに、新たな文化創造の拠点として、平成二十八年(2016年)11月に開館した美術館です。

The Sumida Hokusai Museum

Katsushika Hokusai (1760-1859) is a world-renowned ukiyo-e artist who was born in Sumida and who spent almost his entire life in the area. Opened in November 2016, the Sumida Hokusai Museum is a museum dedicated to the artist, and one which is intended to permanently celebrate him as an honored citizen of Sumida City as well as to function as a new focal point for the creation and nurturing of culture.




「旧安田庭園」です。

旧安田庭園

江戸時代の丹後宮津藩主、本庄因幡守屋敷跡で、隅田川を利用する(現在は人工)、潮入り回遊式の庭園。明治二十二年(1889年)、旧安田財閥の安田善次郎の所有となり、大正十一年(1922年)に東京市に寄贈されました。区立公園として無料開放されています。

Kyu-Yasuda Gardens

This is a circuit-style garden that used to bring seawater through the Sumida River (currently by artificial means). The garden is located in the remains of the residence of Honjo Inabanokami, the domain head of Tango Miyazu. It came into the hands of Zenjiro Yasuda of the former Yasuda Zaibatsu in 1889, and was donated to Tokyo City in 1922. It is now open to the public free of charge as a ward park.




「横網町公園」です。

横網町公園

昭和五年(1930年)、関東大震災の身元不明の遺骨を納め、霊を祀るため創建された慰霊施設。「震災記念堂」と称していましたが、戦後、東京大空襲の身元不明の遺骨を合せ納め、「東京都慰霊堂」と改称されました。隣接して復興記念館があります。

Yokoamicho Park

This facility was constructed in 1930 to memorialize the victims of the Great Kanto Earthquake of 1923. A museum commemorating subsequent recovery and reconstruction efforts in the city is located adjacent to the park.




「野見宿禰神社」と「回向院」です。

野見宿禰神社

相撲の開祖野見宿禰をまつり、明治になって建立されました。境内には歴代横綱の石碑があります。また、本場所前には相撲協会の神事が行われます。

Nomi-no-sukune-jinja Shrine

Built in the Meiji era, this shrine deifies Nomi-no-sukune, the founder of Sumo in ancient times. There are stone monuments of successive sumo champion wrestlers (Yokozuna). The Japan Sumo Association conducts a Shinto ritual always before the official Sumo tournaments.

回向院

明暦三年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院。振袖火事で知られる明暦の大火の犠牲者10万人以上の無縁仏供養碑や、鼠小僧の墓があります。また、明和五年(1768年)に境内で初めて勧進相撲が行われました。

Ekoin Temple

This old temple of the Pure Land School of Japanese Buddhism (Jodo-shu) is the site of a memorial to more than 100,000 victims of a great fire in the seventeenth century as well as the grave of Edo-period folk hero Nezumi Kozo.




「大横川親水公園」です。

大横川親水公園

大横川を整備した総延長1、800mの親水公園です。錦糸町と押上、業平を結び、橋などを境としてエリアごとに人工のせせらぎや釣堀、広場など特徴ある施設が設けられています。

Oyokogawa-shinsui Park

Oyokogawa-shinsui Park is a water park with the well-maintained Oyokogawa River of a total length of 1,800 meters. The park connects Kinshicho, Oshiage, and Narihira. Within each area divided by a bridge or other borders, you will find unique facilities such as an artificial brook, a fishing hole, and an open space.




すみだ北斎美術館と緑町公園のある場所は、江戸時代に弘前藩津軽家の大名屋敷がありました。藩主からの依頼により、北斎は屏風に馬の絵を描いて帰ったというエピソードが残されていることなどから、この場所は北斎とゆかりの深い土地であるといえます。

津軽の太鼓・津軽家上屋敷跡

南割下水に面した弘前藩主・津軽越中守の上屋敷には、火の見櫓がありました。通常、火の見櫓で火災を知らせる時は板木を鳴らしますが、この櫓には板木の代わりに太鼓が下がっていて、その太鼓で火事を知らせていました。なぜこの屋敷の櫓だけに太鼓が許されていたのかは誰も知らず、不思議なこととされていました。これが本所七不思議の一つ「津軽の太鼓」の話です。七不思議とはいいますが、伝説なので伝わり方によって話もまちまちで、話の数も七つと決まったわけではありません。この「津軽の太鼓」には「越中守屋敷の火の見櫓の板木を鳴らすと、奇妙なことに太鼓の音がする」という話も伝えられています。




此の地には、江川太郎左衛門の屋敷もあったようです。「前」と付いていますので、津軽家上屋敷の前にあったのかも。

江川太郎左衛門屋敷跡前

江川太郎左衛門は、伊豆韮山を本拠地とした幕府の世襲代官で、太郎左衛門とは江川家代々の当主の通称です。なかでも有名だったのが、三十六代の江川英龍(1801年〜1855年)です。彼は洋学の中でも、とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、日本に西洋砲術を普及し、韮山に反射炉を築いて江戸防御のため、江戸湾内に数ヶ所あった砲台(お台場)を造りました。また、日本で初めてバンを焼いた人物だともいわれています。この屋敷は、代官の役所も兼ねていて、土佐国中濱村の漁師で、嵐で遭難し、米国の捕鯨船に救われ、ほぼ十年振りに帰国した中濱萬次郎を敷地内の長屋に住まわせ、英語を講義させたといわれています。




北斎は本所南割下水付近に生まれたとありますが、南割下水とは掘割の一種です。

南割下水

明暦の大火後に、幕府は本所深川の本格的な開発に乗り出します。まず着手したのは、竪川、大横川、北十間川、横十間川などの運河と掘割の開削と、両国橋の架橋です。掘割の一つが南割下水で、雨水を集めて川へ導くために開削されたものです。北には(現在の春日通り)北割下水も掘られました。幅は一間(約1.8メートル)から二間足らずで、水も淀み、暗く寂しい場所でしたので、本所七不思議の「津軽屋敷の太鼓」「消えずの行灯」「足洗い屋敷」の舞台にもなりました。昭和初期に埋め立てられましたが、この付近で葛飾北斎が生まれたところから、今では「北斎通り」と名を変えています。また、この辺りには、三遊亭円朝や歌舞伎作者の河竹黙阿弥も住んでいました。




緑町公園の1ブロック先の交差点角に野見宿禰(のみのすくね)神社があります。「野見宿禰」とは、日本書紀に登場する相撲の神様のことです。出雲国(島根県)出身と伝えられ、垂仁天皇七年7月7日に天皇の前で大和国(奈良県)に住んでいたという剛勇の當麻蹶速と相撲を取って勝ちました。この対戦は相撲の起源説話として広く知られ、勝った宿禰はのちに相撲の神様として祀られるようになりました。

野見宿禰神社

かつてこの東側に相撲の高砂部屋がありました。明治十八年(1885年)に親方の高砂浦五郎が、津軽家上屋敷の跡地であったこの地に、相撲の神様として知られる野見宿禰を祀ったのが、この神社の始まりです。石垣の石柱には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、本場所前には必ず、相撲協会の神事が行われます。境内には、昭和二十七年(1952年)に相撲協会によって建てられた歴代横綱石碑があり、その一基には、初代の明石志賀之助から四十六代朝潮太郎までの名前が、もう一基には四十七代柏戸剛以降の名前が刻まれています。




明治十七年(1884年)に建てられた元の社殿は東京大空襲によって焼失しましたが、昭和二十八年(1953年)6月に再建され、現在に至るまで相撲関係者の崇敬を集めています。



境内には、昭和二十七年(1952年)11月に相撲協会により建立された「歴代横綱之碑」があります。

歴代横綱の石碑

歴代横綱の名前を刻んだ二基の石碑は、昭和二十七年(1952年)十一月に日本相撲協会が建立しました。一基は、初代明石志賀之助から四十六代朝汐(潮)太郎までの名前を刻み、もう一基には、四十七代柏戸剛以降の名前が刻まれています。野見宿禰神社は、明治十七年(1884年)に初代高砂親方(高砂浦五郎)が相撲の始祖とされる「野見宿禰」を祀ったのが始まりです。玉垣には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、今でも東京での本場所前には、必ず日本相撲協会の関係者が神事を執り行うなど、相撲界が信仰している神社です。創建当時は、神社の東側に初代高砂親方の部屋があったそうです。また、この地は、陸奥弘前藩津軽家の上屋敷跡でもあります。

The stone monument of successive YOKOZUNA

The shrine believed in by the people in the sumo world, NOMI-NO-SUKUNE, the God of Sumo is deified. The stone monument of was built in November 1952 on which names of successive grand champions, "YOKOZUNA" are carved.




歴代横綱の石碑は2基建っていて、左側の1基には初代明石志賀之助から46代朝潮太郎まで、右側の1基には47代柏戸剛以降の横綱の名前が刻銘されています。名前が赤と黄色に色分けされていますが、何か規則があるのでしょうか?



葛飾通りは大横川親水公園と交差しています。大横川親水公園は、錦糸公園の後で訪れます。



またまた巨大な名所・旧跡の観光案内板が建っています。緑町公園の案内板になかったところだけ追加します。



最初は、「錦糸公園」です。

錦糸公園

明治期に帝国陸軍が兵士の食料を保管する糧秣廠がおかれた地で、関東大震災後の帝都復興事業により整備されました。開園は昭和三年(1928年)です。

Kinshi Park

The food warehouse for soldiers of the imperial army was located here in the Meiji era. This park was laid out in the Imperial Capital Reconstruction Work and opened in 1928.




次は、「すみだトリフォニーホール」です。

すみだトリフォニーホール

音楽都市すみだの拠点となる本格的コンサートホール。アコースティックな音楽を聴くのに最適な大ホールと、アーティスト体験の場として幅広く利用できる小ホールがあります。新日本フィルハーモニー交響楽団の活動拠点でもあります。

Sumida Triphony Hall

This well-designed concert facility is the home base for the New Japan Philharmonic orchestra and hosts many other musical events that promote Sumida's reputation as a city of music and culture. It houses two halls. The larger hall with fine acoustics is dedicated to musical performances including occasional pop concerts. The smaller one, besides' various musical recitals, also hosts lectures and workshops.




そして、「時の鐘」です。

撞木橋(時の鐘)跡碑

竪川と(大?)横川の合流付近に、本所・深川のまちまちに時を告げる「時の鐘」がありました。鐘を打ち鳴らす撞木(しゅもく)から近くにあった北辻橋、南辻橋、新辻橋の3つの橋を「撞木橋」と名づけられたが、昭和六十三年(1988年)に撤去されました。

This Marks the Site of the Shumoku Bridges (and Bell)

Near the former junction of the Tatekawa and Yokokawa rivers in mid 17th century stood a bell regularly rung to announce the hours for the Honjo and Fukagawa neighborhoods. Three nearby bridges: Kitatsuji, Minamitsuji, and Shintsuji were called the Shumoku bridges after the wooden hammer (shumoku) used to strike the bell. They were dismantled in 1988.




北斎通りが大横川と交差する地点には、長崎橋が架かっていました。

長崎橋の由来

ここにあった長崎橋は、元禄十年(1697年)当時の本所奉行鈴木浜九郎、鳥屋久五郎、両名によって、墨田区亀沢四丁目より同錦糸一丁目に架けられました。最初は長さ10間(18.0m)、幅2間半(4.5m)の木橋でしたが、その後何回となく架け替えられ、昭和四年6月には、鋼橋(トラス)になりました。この橋は、大横川親水河川整備事業によりその役目を終えて撤去しました。なお、橋の名前は、当時西側に隣接した本所長崎町の地名にちなんで長崎橋と名付られ、永い間、親しまれた本橋の面影を慕い橋名板を残して、その歩みを記します。




大横川親水公園を渡った先の交差点角に、津軽稲荷神社があります。江戸時代、この場所には「本所に過ぎたるものがふたつあり、津軽大名と炭屋塩原」で有名な弘前藩津軽家の中屋敷がありました。中屋敷とは郷土の産物を保管したりする大名の私邸のことで、津軽藩は墨田区内にいくつかの中屋敷を持っていました。明治時代に屋敷を撤収した後は陸軍が兵士の食料を保管する糧秣廠を設置し、この稲荷社だけが残されました。当時、屋敷には守護神として屋敷神(稲荷)が必ず祀られましたが、屋敷神は土着性が強く、明治時代の廃藩置県で弘前藩関係者が去った跡も他に移動せず、この場所に残されたのです。津軽稲荷神社の前を走る道路には、かつて南割下水と呼ばれる堀割が流れていました。ここは区内にいくつか推定される「おいてけ堀」推定地のひとつでもあります。境内社として弁財天社が祀られています。



津軽稲荷神社の斜め向かいに、「すみだトリフォニーホール」があります。「トリ(tri)」は「3」、「フォニー(phony)」は音を表し、合成して「トリフォニー(triphony)」は「3つの音が響くこと」を意味し、アーティスト・ホール・観客が三位一体となって音楽を創造していこうという意味が込められています。すみだトリフォニーホールは、大ホールと小ホールの他に3室の練習室を備えたコンサートホールで、平成九年(1997年)に開業しました。開業当初から新日本フィルハーモニー交響楽団のフランチャイズ演奏会場になっています。大ホールは定員1、801名(オーケストラピット使用時は1、601名)で、ドイツのドレスデンにあるイェームリッヒ社製の壮大なパイプオルガン(4、735本のパイプと66個のストップで構成)が設置されています。



すみだトリフォニーホールの先から北に向かって一本の道路が延びています。タワービュー通りは、北斎通りからスカイツリーまでの約1.2キロメートルを一直線に結び、スカイツリーの建設に合わせて整備が行われました。設計から完成まで約8年の歳月をかけ、平成二十八年に全区間が開通しました。電線が地中化されているために眺めを遮るものがなく、また車道と歩道の段差を小さくして歩道の幅も広げたバリアフリー設計が取り入られています。



ポイント2 錦糸公園

錦糸公園は、大正十二年(1923年)に発生した関東大震災によって壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として、隅田公園(台東区・墨田区)、浜町公園(中央区)と並んで計画されました。此の地は元々は帝国陸軍の糧秣厰倉庫でしたが、昭和三年(1928年)7月に面積約5.6万平方メートルの広さを有す区内有数の公園として開園しました。戦時中は空襲からの避難所としての役割や戦災で命を落とした人たちの仮埋葬所としても利用され、昭和二十年(1945年)の東京大空襲では1万余の遺体が当公園に仮埋葬されました。戦後は人々の憩いの場として使われるようになり、次第に体育館や噴水池などが整備されてきました。



錦糸公園はスカイツリーを眺められる公園として、子ども連れのファミリーでいつも賑わっています。春には約160本のソメイヨシノなどの桜が咲き誇り、墨田区を代表するお花見スポットとなっていて、夏にはドライミストや水が飛び出る施設で涼めるなど、四季折々を感じることができます。



「ふれあい広場」にはイベントなどを開催できるオープンスペースが広がっています。「ちびっこ広場」は児童ゾーンと幼児ゾーンに分かれていて、複合遊具等で子どもが楽しめる空間となっています。「水と緑と花の広場」は噴水を囲んで芝生が広がっていて、自然との触れ合いや、かけっこなどを楽しめます。



公園内には、ひがしんアリーナ(墨田区総合体育館)・テニスコート・野球場といった運動施設も設置されています。



公園の北側には、隣接して長く精工舎の工場がありましたが、再開発によりオフィスや飲食店などが入った商業施設「オリナス」が平成十八年(2006年)にオープンしました。



公園を入った右手に、千種稲荷神社(ちぐさいなりじんじゃ)があります。千種稲荷神社の創建年代は不詳ですが、柳島村の守護神として祀られたと伝えられています。五穀豊穣・商売繁盛だけでなく、火除けの守護神としても御利益があります。明治時代に入り、此の地が旧陸軍兵器廠錦糸堀倉庫となり、倉庫の建設によって神社は撤去されてしまいました。その後、この一帯で火災が多発するようになったため、再度神社を戻したところ火災は解消しました。しかし、戦時中に再び神社が撤去されるとまた火災が頻発するようになり、再度神社を戻したところ火災は発生しなくなり、関東大震災でも被害が殆どなかったことから、今も火除けの守護神として信仰されています。

千種稲荷神社由来記

千種稲荷神社は、江戸時代此の地が湿地帯であり荒廃のままになっていたが、寛文から延宝の二十年間(徳川四代将軍家綱の時代)の長きにわたり治水を目的として土木工事が行われ、更に其の後この地を武家の下屋敷の敷地として整地を行い、なお商家の営業も地域内に許可され、加えて横十間川が当時船運の盛んな処であった関係で、武家屋敷が横十間川をはさんで両側に軒を連ねていたと云う頃より此の柳島村の守護神として祭られていたものと伝えられて居ります。その後徳川幕府は明治政府に替り、明治二年大政官の布達により、従来の武家制度は廃止され、武家下屋敷も解体されて農耕地に変わり、其の武家下屋敷解体の際にも此の稲荷社は保護されて郷土の守護神として残されました。其の後、政府は陸軍糧秣廠本所倉庫を此の地に建設し、其の敷地内に此の稲荷社があり、陸軍省は敷地整地に際しこの稲荷社を取払いし処、其の後倉庫並びに周辺に再三火災発生し、陸軍省も面目問題として苦慮を重ね、後になり敷地内より取払ったままになっていた稲荷社に気付き、旧位置に再建して祀りし処、不思議にも其の後火災等全くなくなりました。大正十二年の震災には、此の地一帯は灰燼に化したが稲荷社には少しの被害も受けませんでした。昭和三年七月十八日、復興局の手により創設された錦糸公園も開園となり、同じ頃、神田より製菓業者が公園の周辺に集団移住し、営業を開始せし処早々より町内に火災多発して町民は不安に苦しんでいた処、或る時静岡県より来られた行者さんが、昔より此の地に祀られて有った守護神が公園建設の際園内の何れかに放置されたままに成っているとの言葉に町内有志により探し出し、公園課の了解を得て稲荷社を旧位置に祀りし処、其の後火災も無くなり又、商売繁盛、災厄消除等諸々の願いも成就するとて、多くの信者が参拝致す様になりました。昭和二十年三月十日の空襲にも、此の稲荷社は少しの被害もなく多くの人が境内に避難し、戦火を免れました。昭和二十九年千種講世話人相計り、戦後荒廃した稲荷社の整備計画が建てられ、其の年より、玉垣、鳥居、参道、水屋、石燈籠、本殿の増改築等、遂年に渉り工事を重ね境内の整備を完了した次第であります。昭和三十年五月十八日付を以って右建物一切を東京都の申し出により都に寄贈致し、保存と管理を千種講が委任されました。その後昭和四十年四月から墨田区の公園となりました。昭和五十年千種講より春秋二回にわたり吉野桜を区の公園課に寄贈し、よりよい桜の公園として其の景観の向上を願っている次第であります。




社殿の前の賽銭箱の台座には「千種講」と書かれていて、扁額に二匹の狐が跳ねている彫刻が掲げられています。



錦糸公園を出て西に向かい、清平橋から大横川親水公園に入ります。



遊歩道の脇に、架け替え前の清平橋の鋼材がモニュメントとして展示されています。

清平橋の由来

大横川親水公園をまたぐ清平橋は、関東大震災の復興事業により昭和四年に架けられました。かつては川の西側が清水町、東側が太平町と呼ばれていたことから、両町名から一文字ずつ取って清平橋と名づけられました。架橋時は長さ38.97mの鋼橋(3径間ゲルバー橋)でしたが、老朽化が進行したため、架橋から82年が経過した平成二十三年に、長さ10.00mのコンクリート橋(プレテンション方式PC単純床版橋)に架け替えました。架け替えを記念して、旧橋の橋名板と鋼材の一部を遺してその歩みを記します。




大横川親水公園の案内板が立っています。

大横川親水公園案内図

施設の概要
この公園は、大横川の一部を埋め立ててできた親水公園です。公園の大きさは、幅30〜40m、長さ1.85km、面積約63,000平方メートルで、墨田区の中心を流れる北十間川との分流地点から、墨田区の南側を流れる堅川との合流地点までの区間となっており、平成五年(1993年)4月1日に開園しました。園内は北から5つのゾーンに区分され、それぞれ色彩豊かな花の広場と釣堀(釣川原ゾーン)、子供たちがじゃぶじゃぶと遊べる水路(河童川原ゾーン)、緑豊かな渓谷と多様な生き物が生息するビオトープ(花紅葉ゾーン)、開放感のあるイベント広場(パレットプラザゾーン)、様々なスポーツが楽しめる広場(ブルーテラスゾーン)の特徴を持っており、公園利用者へ貴重な憩いの空間を提供しています。

歴史と沿革
大横川の歴史は、明暦三年(1657年)の江戸最大の火災といわれる大火から始まりました。江戸幕府は、復興の際、火除地等の確保のため、家屋の転移を図り、河川を掘り開き橋を架け、土地の整備を行いました。このとき掘られた河川の一つが大横川で、本所地域を南北に貫通しており、近年まで舟運・材木の貯留など産業経済の発展に貢献してきました。しかし、道路・鉄道の整備や経済環境の変化によってかつての機能は失われ、昭和五十六年(1981年)から大横川の埋め立てが進められました。その後、緑と清流を復活させ、豊かな自然を楽しめる憩いの空間づくりを基本に公園整備を行い、平成五年(1993年)に完成しました。横川という名前の由来は、江戸城に対して横の方向に流れていることからきています。その後、昭和四十年(1965年)施行の河川法により水系を一にしていた大島川とつなげて、大横川と呼ばれるようになりました。




北斎通りを横断し、JR総武線の高架下を潜り、国道14号線(京葉道路)を横断し、馬車通りに出ます。歩道の真ん中に鐘を吊した小さな堂が建っています。江戸時代、大横川の左岸には時の鐘を撞く鐘楼がありました。当時は、時を知らせる手段は鐘を撞くこと以外にはありませんでした。そのため、江戸城で打ち出され太鼓の音(のちに日本橋本石町の鐘楼の鐘)を、周辺の鐘楼が鐘の音に換えて打ち出し、順次この鐘の音を引き継いで江戸の隅々へと時を知らせていきました。従って、江戸城と周辺の町内とでは、少し時間にずれが生じるのが普通でした。また、当時は不定時法を採用していたことから、季節に応じて時間の長さが変化しました。従って夜明けは常に明け六ツ(六時)、日没は常に暮れ六ツ(六時)だったのです。日本橋本石町の鐘の音は、ここ本所の鐘楼に伝えられました。鐘楼の近くには時鐘屋敷があり、町会で選ばれた撞き番の人が待機していたそうです。

撞木橋(しゅもくばし)跡の由来

ここに架かっていた撞木橋は万治二年(1659年)当時の本所奉行・徳山五兵衛、山崎四郎左衛門両名によって墨田区江東橋1丁目より同緑4丁目の大横川に架けられました。最初は長さ10間、幅2間の木橋でしたが、その後幾度となく架け替えられ昭和五年(1930年)7月には鋼橋(トラス)になりました。この橋は大横川親水河川整備事業によりその役目を終えて昭和六十二年(1987年)10月に撤去されました。なお、ここは堅川・大横川の交差辻なので北辻橋、南辻橋、新辻橋などが架けられましたが、北辻橋西側の大横川河岸に「本所時之鐘」の鐘撞堂があったことから、これらの橋は俗称として「撞木橋」と呼ばれてきました。その後、北辻橋が撞木橋を正式に名称とするようになったものと思われます。




大横川は馬車通りを越えた先で竪川(たてかわ)と交差します。竪川は、墨田区と江東区を流れる人工河川、つまり運河の一種です。江戸城に向かって縦(東西)に流れることからこの名称となりました。竪川の上には渋滞で悪評のある首都高速7号小松川線が通っています。大横川親水公園には水は流れていなかったのですが、この先竪川との交差地点から先の大横川は満々とした水が満ちています。とすると、竪川からの水が大横川に流れ込んでいるのでしょうか?



樫川の手前で右折した先のビルの角に案内板が立っています。

鬼平情景 長谷川平蔵の旧邸

付け火が元の明和九年(1772年)の目黒行人坂の大火は約一万五千人が亡くなったといわれ、明暦の大火に次ぐものでした。その下手人を捕えたのが、平蔵宜以の実父、長谷川平蔵宣雄です。この手柄で、同年秋に京都町奉行所に出世しましたが、年号が変わった翌、安永二年(1773年)六月に客死してしまいました。家督を継いだ平蔵宣以は天明七年(1787年)、四十二才の時に火付盗賊改方の長官に就任することになります。京都へ家族で移るまで住んでいたのが、入江町の屋敷でした。義母に「妾腹の子」といじめられ、その反発で屋敷を飛び出し、本所・深川を根城に「入江町の銕」と呼ばれ、後に密偵となる相模の彦十などを引き連れ、放蕩無頼の青春を送っていました。




架け替えられて間もない南辻橋の脇から大横川の遊歩道を進みます。大横川の両岸には散策路が設けられていて、沢山の桜の木が植えられています。春になると両岸は桜並木となり、宴会はできませんが花見客で溢れます。



菊川橋西詰にある菊川橋児童遊園内に、小さな夢違(ゆめたがえ)之地蔵尊堂があります。東京大空襲の時に亡くなった方々を弔い、同時にこのような悪夢の消滅を願って善夢が導かれるようにと、38周年に当る1983年3月10日に遺族や関係者によって建立されました。

夢違之地蔵尊縁起

大正十二年(1923年)、関東大震災に於ける下町の惨禍は遭難死者五万八千名に及び、その遺骨を収納し、東京都慰霊堂が建立され、その加護と平安を願い毎年九月一日を記念日と定め、官民あげて法要が営まれているが、この地も焦土と化し、その物故者も多いため、毎年その慰霊法要を行うに至った。昭和十六年(1941年)太平洋戦争勃発し、戦局利あらず、殊に昭和二十年(1945年)三月九日より十日にかけての米戦略爆撃機B29による東京大空襲は最も熾烈を極め僅か数時間で下町を中心に二十七万八千余戸を焼失し無慮七万八千余の殉難者を出した.広島・長崎の原爆の戦史に比類する永遠に忘れ得ぬ悲惨な史実である。まだ春浅き三月九日夜半、雨あられの如く投下された焼夷弾は、いとまなき出火となり、立ち向かう術もなく、劫火の中を、親は子を子は親を、呼び合い叫び逃げまどい、或は壕に入り、水面に飛込み、或は公園、校舎に走り、ついに力尽きてその声も消え果て、やがて倒れ重なりまっ黒な焼身と化し、水に入りては沈泥に骸と果て、翌朝光の中の惨状は眼を覆うばかりであった。生き残れる者僅かに してそのさまは亡者のようであった。この地の殉難者数約三千余名といわれている。この地蔵尊の在わします菊川橋周辺の惨禍は、東京大空襲を語るとき後世まで残るもので霊地として守らねばならない聖域である。而して復興なり昭和五十八年(1983年)三月十日、誠心集い浄財を集め、仏縁深き弥勒寺住職の教示を得てこれか悪夢の消滅を願い、これを善夢に導き、再びこの悲史をくり返さないようにと、夢違之地蔵尊と命名され開眼法要、殉難者追悼供養を施行した。時移り再び多大なる協賛を得て夢違之地蔵尊縁起の史碑建立となり、地蔵講が生まれた。願わくば子々孫々への加護と人類の平和を祈念して本日此処に慰霊法要を謹んで行うものである。




菊川橋西詰から新大橋通りを西に向かいます。鬼平こと、長谷川平蔵は明和元年(1764年)に父の屋敷替えによって築地からこの地に移り住みました。天明六年(1786年)、父の家督を継いで御先手弓頭に昇進して火付盗賊改役になり、8年間の在職中に石川島の人足寄場を創設したり、多くの犯罪者を更生させたことは有名です。敷地面積1、238坪(4、085u)に及んだ屋敷の東端にあたる歯科医院前の植え込みの中に、「長谷川平蔵・遠山金四郎」屋敷跡のモニュメントが建っています。

長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡

この一帯は、江戸時代に火付盗賊改役・長谷川平蔵や江戸町奉行、遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)が暮らした屋敷跡です。長谷川家は家禄400石の旗本でした。平蔵宣以十九歳の明和元年(1764年)、父平蔵宣雄の屋敷替えにより、築地から本所三之橋通り菊川の1200坪余りの屋敷へ移りました。宣以は、火付盗賊改役として通例二〜三年の任期のところ、没するまで八年間に及び在職し、盗賊逮捕に実績を上げました。池波丈太郎の「鬼平犯科帳」は、その情景を彷彿とさせます。また職業訓練をもって社会復帰を目的とする石川島の人足寄場(にんそくよせば)を提案、実現させました。寛政七年(1795年)病のために、50歳で本所の屋敷で没しました。その後、弘化三年(1846年)に、孫の四代目平蔵の屋敷替えにより、江戸町奉行遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)の下屋敷になりました。 遠山金四郎は江戸北町奉行に天保十一年(1840年)に任命されました。金四郎は天保十四年(1843年)奉行を罷免されますが、老中水野忠邦失脚後の弘化二年(1845年)三月、再び南町奉行として任命されました。以後、名奉行の名を残す評判を集め、「遠山の金さん」として浪曲や講談に登場するほど人々にも慕われました。天保改革で弾圧を受けた歌舞伎を浅草猿若町に再生したことは、金四郎の尽力によると伝えられています。この地は江戸の町人感覚にも通じ、治安に貢献した二人のゆかりの土地です。




森下駅前交差点で右折し、清澄通りを北に向かいます。森下駅の北側出口から直ぐの場所に、斜めに延びた細長い五間堀公園があります。

五間堀公園

五間堀公園は、五間堀を埋め立て後の昭和十七年(1942年)に開園した公園で、区内でも非常に歴史のある区立公園です。時代の変化とともに、住宅が周辺に立ち並び、人口が増えていくにつれ、休養のために緑地の設置が切望されることとなり、当時の東京市により本園が開園されました。公園敷地の約半分は墨田区にまたがっていますが、昭和二十五年(1950年)に東京都から公園の全区域が江東区へ移管されており、現在でも江東区で公園の管理をしています。開園当時に発行された「五間堀公園案内」には、「園地は三方を道路に接したる路傍小公園であって、附近居住の方々の運動休養と安全なる兒童の遊戯場たることを目的として設計せられ、中央廣場には兒童の為にブランコ、滑臺砂場等の遊戯施設を設けると共に、地元有志よりの寄贈に係る鐵棒固定圓木を設置し、」と記載があります。また、埋め立てられた五間堀には、五間堀公園の他にも、高森公園、森下三丁目第一〜第三児童遊園があります。




「五間堀」とは、小名木川と竪川を結ぶ六間堀から分かれる入堀だったところで、五間堀という名称の由来は、当時の川幅が5間(約9メートル)だったところから付けられたそうで、近くにある六間堀とともに江戸時代から重要な水路でした。ちなみに、五間堀が開削された時期は、1600年代半ばとされています。昭和に入ってからの二度の埋め立てにより、現在はその面影はありません。

江東区登録史跡 五間堀跡

五間堀は小名木川と竪川を結ぶ六間堀からわかれる入掘です。五間堀という名称は川幅が五間(約9m)であるところから付けられ、六間堀とともに江戸時代から重要な水路でした。五間堀の初見は寛文十一年(1671年)の江戸図で、六間堀とともに記載されており、五間堀が開削された時期は、明暦の大火(1657年)によって付近一帯の再開発がなされた万治年間(1658年〜1660年)ころか、それ以前と考えられます。五間堀は江戸時代には富川町(森下三)までで堀留となっていましたが、明治八年(1875年)、付近の地主であった元尾張藩主徳川義宜により掘りすすめられ、明治十年ころに小名木川まで貫通しました。昭和十一年(1936年)・昭和三十年の二度の埋め立てにより、現在、五間堀は全て埋め立てられています。




五間堀公園の北側に弥勒寺があります。弥勒寺は、慶長十五年(1610年)に僧宥鑁によって創建された後、元禄二年(1689年)に現在地に移転しました。弥勒寺は真言宗関東四ヶ寺のひとつとしての重要な役割を果たし、徳川光圀から寄進された薬師如来像など、江戸十三薬師のひとつとして、また御府内八十八ヶ所霊場の46番札所としても知られ、寺領100石の朱印状を拝領するなど、歴史的重要性の高いお寺です。お寺の門前には、「贈正五位杉山総検校墓所」の石碑が建っています。



本堂の左手奥には、杉山和一の墓所があります。杉山和一は、伊勢国安濃津(現在の三重県津市)出身の鍼灸師で、検校(盲人の役職の最高位の名称)であることから「杉山検校」とも称されます。鍼を管に通して打つ施術法である杉山流管鍼(かんしん)法を創始したと伝えられ、鍼・按摩技術の取得教育を主眼とした世界初の視覚障害者教育施設とされる「杉山流鍼治導引稽古所」を開設しました。

東京都指定旧跡
杉山和一墓

江戸時代の鍼医。慶長十五年(1610年)伊勢に生まれ名は和一といい、父は藤堂家の家臣。幼くして失明し、江戸に出て鍼術を検校山瀬琢一に学んだ。江ノ島弁天祠に詣でて断食祈願を行い、杉山流管鍼術を創案した。さらに京都の入江豊明について鍼術を学び、その道の奥義を窮めた。貞享二年(1685年)、五代将軍綱吉の病を治療して厚く賞され、のちに禄五百石を賜り、さらに三百石を加えられた。元禄五年(1692年)関東総検校に任ぜられ、本所一ツ目に方一町(約一万二千平方メートル)の宅地を与えられた。和一はここに鍼治講習所と弁天堂を建立したほか、諸国に講堂を建てて多くの門人を育てた。著書には「療治之大概集」「選鍼三要集」「医学節要集」等がある。元禄七年(1694年)五月十八日、八五歳で没した。

Historic Places
Sugiyama Waichi Haka
(The grave of Sugiyama Waichi)

Sugiyama Waichi (1610-94) is an acupuncturist in the early Edo period. He lost his eyesight in his childhood, and then came up to Edo and learned acupuncture from Yamase Takuichi, a Kengyo (the highest rank within an association of blind men). Fasting and praying at Enoshima Benten Shrine, he established the Sugiyama method of tube acupuncture. In 1685, he successfully cured the fifth shogun Tsunayoshi's illness and received high praise. Waichi was appointed the first Head of Kengyo for Kanto region in 1692.




杉山和一の墓石の隣には、「はり供養塔」も建っています。

医療はり供養塔建立由来記

東洋医学は中国に始まり、三千年の歴史を数えますが、我が国も1600年「奈良朝」前に鍼術が伝わり?くての后、鍼灸の発達は官命により著しく進歩を遂げたことは申す迄もありません。江戸時代初期「1767年」幕府は医学館を創設し、中国の古法を学ばし?ひと云ふ記録があります。この度新しく建立した「はり」供養塔は先師杉山検校の鍼管を?り、先哲の遺徳を顕彰すると共に、鍼術を以て施療した幾多の同業の慰霊と同時に、使用ずみの管鍼に対する感謝の意味を表したものであります。即ち塔は六角の基礎は検校が帰依し、参籠中の霊告に依って発見したと伝えられる江之島弁財天の神徳を現はし、台座の三行三角は鍼法の?奥を究める熱意をこめて人体の基本的な型を象徴して居ります。身体の重要機能は古来から木は「青」、肝胆火「赤」は心と小腸、土「黄」は胃と脾金「白」は肺と大腸水「黒」は腎と膀胱の五要素であります。先端の小さな五輪は龍頭です。三輪は地水火風空の宇宙を表します。さて、五行は仏菩薩となる為の行為として・・・

何か五行の部分の意味が分からないので、ここで解読を断念。。。



心が折れて、石碑も解読を断念。。。



ポイント3 江島杉山神社

二之橋南交差点を左折して進みますと、万年橋通りの手前に江島杉山神社があります。

江島杉山神社

鍼術の神様・杉山和一(1610年〜1694年)が五代将軍綱吉から、ここ本所一ツ目に約一万二千平方の土地を拝領し総録屋敷を建て、その西隣に弁才天の一社を建立したのが、江島杉山神社の始まりです。神奈川県藤沢市の江ノ島弁財天と、杉山和一総検校が祀られています。和一は、現在の三重県津市の出身で幼いころに失明しましたが、江戸に出て鍼術を学び、江ノ島弁天の岩屋にこもり鍼術の一つである管鍼術を授かりました。その後、京都でも鍼術を学び、再び江戸に戻り鍼の名人として活躍しました。この評判を聞いた綱吉は和一を「扶持検校」として召し抱え、日夜自分の治療に当たらせました。




境内にも由緒を記した案内板が立っています。

江島杉山神社 由緒

当社は神奈川県藤沢市江島神社の弁財天を奉斎し、またその弁財天を深く信仰した杉山和一を併せ祀る。杉山和一(慶長十五年<1610年>〜元禄七年<1694年>)は三重県津市の武家の生まれで幼い頃失明し、身を立てるために鍼術を志す。江戸の山瀬琢一に入門し修行に励む中、江島弁財天の岩屋にて七日七夜の参籠をした。業が明けた日外に出ると大きな石に躓いてしまうが何か手に刺さる物があり探ってみると、筒の様にくるまった枯葉(スダジイ)の中に一本の松葉が入っていた。「いくら細い鍼でも管に入れて使えば盲人の私にも容易く打つ事が出来る」。こうして、現在鍼治療の主流である管鍼術が生まれた。躓いた石は「福石」として、本社江島神社の境内に祀られている。この後より深く鍼治を学ぶため京都の入江豊明の元へ入門する。そして江戸で治療所を開くと、その噂は瞬く間に広がった。同時に多くの弟子を輩出し、世界初の盲人教育の場、職業の確立を進めた。寛文十年(1670年)一月、和一は六一歳にして検校の位を受けた。その名声により五代将軍徳川綱吉の医師として務めるようになる。元禄五年(1692年)五月九日将軍より総検校に任ぜられる。和一が八十三歳の時、綱吉公の難病を治療した功により「何か望みの物は「ないか」との問いに「唯一つ、目が欲しゅうございます」と答え、ここ本所一ツ目に総録屋敷の領地を賜り更に和一が高齢になっても月参りを欠かさなかった江ノ島弁財天が敷地内に勧請された。翌年には壮麗な社殿が建立、本所一ツ目弁天社と呼ばれ江戸名所となり、多くの信仰を集めた。元禄七年(1694年)五月十八日八十四歳没。明治四年、当道座組織が廃止され総録屋敷も没収されるが、当社は綱吉公が古跡並の扱いとしたため残され、社名も江島神社となる。明治二十三年四月杉山和一霊牌所即明庵も再興し、境内に杉山神社を創祀。震災、戦災により二つの社殿とも焼失するが戦後昭和二十七年合祀し、江島杉山神社となる。




総禄(録?)屋敷跡の案内板も立っています。杉山和一は、元禄六年(1693年)6月に五代将軍綱吉の治療の功で褒美を尋ねられ、目を請いました。そこで綱吉は頓知を効かせ、一ツ目(本所一之橋際の土地)と関東総録検校職を与えたと伝えられています。「総録(惣録/惣禄)屋敷」とは、関東周辺の琵琶法師や鍼灸師・按摩などの盲人を統括していた屋敷のことで、他に「一ツ目総録(惣録/惣禄)屋敷」ともいわれました。

杉山和一と総禄(録?)屋敷跡

ここは江戸時代、関東周辺の琵琶法師や鍼灸師、按摩などの盲人を統括していた総禄(録?)屋敷の跡です。杉山和一は慶長十五年(1610年)、伊勢国安濃津(三重県津市)で生まれました。幼時に失明、はじめ江戸の山瀬検校に鍼灸を師事しましたが、後に京都の鍼師入江豊明に弟子入りしました。厳しい修業の後、江ノ島の岩窟で断食祈願を行いました。その満願の明け方、霊夢を通して新しい鍼管術を考案しました。杉山流管鍼術は、鍼を管に入れ、的確にツボを押さえるという画期的なものでした。その後の和一の名声は日増しに高まり、寛文十年(1670年)、検校に任じられました。さらに五代将軍綱吉の治療の功で褒美を尋ねられ、和一は目を請いました。綱吉は一ツ目(本所一之橋際の土地)と関東総禄(録?)検校職を与えたと伝えられています。時に元禄六年(1693年)六月のことでした。一町四方(約一万二千平方メートル)の土地に総禄(録?)屋敷と神社が建てられ、現在の場所には鍼治講習所もありました。現在の神社の名は、土地の拝領者と厚い信仰をささげた江ノ島弁財天を意味します。社殿の南側には江ノ島の岩窟を模した洞窟があります。




鍼治講習所跡の案内板も立っています。

「杉山流鍼治稽古所(講習所)跡」

かつてこの地には盲人達が杉山流鍼按摩術を学んだ教育施設・稽古所がありました。杉山流鍼按摩術とは、江戸時代の盲人鍼医杉山検校和一(1610年〜1694年)によって創始された鍼按摩術で、「杉山流鍼治稽古所」の他に「講習所」「学校」とも呼ばれていました。この地には、明和年中(1764年〜1772年)関東の盲人の最高位で、第二十五代惣禄(録?)若村検校春一の時、神田小川町より移転し、明治四年(1871年)太政官布告により廃止されるまでこの地に存在しました。稽古所は「四間余に五間」で、二十畳余の建物でした。この稽古所を中心に江戸近郊四ヶ所(千住・板橋・新宿・品川)、さらに全国四十五ヶ所へと広がっていきました。当地の稽古所の源は、天和二年(1682年)九月十八日、麹町の杉山検校邸内で始まった稽古所にあります。また、墨田区にゆかりの勝海舟(1823年〜1899年)は、ここで学んだ米山検校銀一(1702年〜1772年)の曾孫にあたります。




境内の池の手前に、杉山検校頌徳碑が建っています。



碑文は点字で書かれています。当然私には読めません。でも、点字を翻訳した案内板が頌徳碑の脇に立っています。

(点字銘板)
贈正五位 杉山検校頌徳碑

天つ日昇りましてもの皆明し。杉山検校顕れまして世の病人と盲いとは皆済われたり。杉山検校和一は慶長十五年伊勢の国の津に生れましき。いとけなくして盲いとなられければ鍼の道を究めて世を済わばやと志し、江戸に出でて山瀬検校に学びつれども、飽かぬ節々多かりければ、終に江ノ島の宮居に詣でて食し物をさえ断ちて祈りを籠められけり。願果つる夜の夢に管と鍼とを得て驚き欣び、ここに初めて管鍼の技は世に顕れたり。のち京都に行きて入江豊明に学びあるは自ら究め、身を砕き歳を重ねて、ついにその上に栄えし鍼の博士の道を明からめ、元禄二年五月徳川の五代将軍に召されて奥医師となられけり。こはまさしく鍼科が内科、外科と並びて薬師の道の一科となれりしなり。五百歳余り廃れたる道を興したるにて、いみじき御功にこそ東山天皇の御代、元禄五年四月に盲官の式目を改めさせられ、總検校を江戸に置かせらるることとなりて、この検校ぞ先ず總検校に挙げられける。扶持八百石被づけられ、江戸本所一ツ目の橋の傍らに広らかなる大宅をさえ賜ばせられぬ。ここに鍼の道の学び舎を建てて、なお北は陸奥より南は筑紫の果てに至るまで、この道の学び舎を置き広く学ばしめられしかば、国内の盲いら皆ここに学びてその技を得けり。星移りもの代われども、いま鍼の道にかかずらうもの何時よろず誰かはこの検校の御影に寄らざるべき。世に育まるべき盲いにして、反りて世を済い、世を過ごすたずきを得つるは異国々に例なきことにして、こは皆この検校の御功なり。元禄七年、検校八十路余り五つという年の五月十八日、病にて身罷られぬ。著しし書に「医学節用集」、「撰鍼三要素」、「療治乃大概集」ありて永くこの道の鑑なり。天皇この検校の御功をしるし給い、こたび東宮の御慶事を折りとして正五位を贈らせらるる。貴きろかも畝傍の宮柱太しく仕え奉りしより、三千歳に近くすぐれたる人々いやつぎつぎに顕れしかど、盲いにしてかかる御功立てたる人は類あらじかし。ここにこの御影による遠近の人々諮りて大正十三年五月十八日二百歳余り五十歳の祭りに仕りて、その形見にとてこの碑を検校がおわしし所と偲びつつ、ここに建つることとはしつ。その人々が筆執りてよと言わるるままに不二之舎あろじ直正記す。

   花は笑み波はさざめくぬばたまの
      闇を払ひて日の出づるとき

昭和五年五月検校の二百八十歳の祭りも滞ることなく済ませける。その形見にと年古りて壊ちけるこの碑も読み難くなりしかば、新たにその板作りなしここに施復なせり。




岩屋は相州江ノ島の洞窟を模して寛政五年に造られました。宗像三神、杉山総検校、宇賀神(人頭蛇尾)が祀られています。



宗像三神は洞内の右手奥に祀られています。

宗像三姉妹像

弁才天が主尊として祀られるようになったのは平安時代頃からと推定され、本地垂迹説による神仏混淆で日本古来の神と習合してからのようである。本未宇宙神ではなく水と土地の神という観念が強いから、民衆との親しみは深く希いを託し易い存在の神として人気がある。特に農業神・海上神・施福・学問・音楽・弁舌等に霊験あり、又土地の鎮主とし地主神として祀られている。




杉山総検校像は、洞内の正面に祀られています。



宇賀神は、洞内左手奥に祀られています。

宇賀神

ウガは、ウカ・ウケ等食物を表す語で日本古来の穀霊信仰に根ざした食物神であり、神道の宇迦之御魂神(稲荷神)と同一神といわれる。音楽・学問・弁舌・福徳と幅広い御利益がある弁才天と習合したのは、農耕に深く関係する水神信仰によるものである。弁才天の使いが白蛇といわれることから宇賀神の姿が人頭蛇身になった。




キョワ!



一之橋で竪川を渡ります。

一之橋

幕府は低湿地であった本所の開発にあたり、洪水の被害を最小限に止めるため排水路を碁盤目状に開削し、掘り出した土を陸地の補強、嵩上げに利用しました。排水路は隅田川に対し縦・横に開削されました。万治二年(1659年)、縦の代表格、竪川の開削と同時に架けられ、隅田川から入って一ツ目の橋という意で命名されたのが、この一之橋で長さ十三間、幅二間半ほどありました。竪川の両岸には全国から水運でもたらされる様々な物品を扱う商家や土蔵などが建ち並び、橋を行き交う人々も多く、大いに賑わいました。一之橋は、赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際に最初に渡った橋としても知られています。




竪川は直ぐ先の竪川水門で隅田川から分岐しています。



葛飾北斎の案内板があります。

葛飾北斎 宮戸川長縄 −千絵の海−

水が織り成す造形美と漁師達を描いた「千絵の海」シリーズの一枚。浜町河岸から見た宮戸川の漁風景と、両国界隈の景観が描かれています。宮戸川とは、江戸時代の隅田川下流の呼称の一つ。長縄は、一本の幹糸から多くの釣糸を垂らす釣法のことです。奥の建物は幕府の軍船を係留する「御船蔵(おふなぐら)」で、今の千歳一丁目から新大橋にかけての一帯にありました。4、800坪の土地に14棟の船蔵が並び、徳川家光が新造した軍船形式の御座船「安宅丸(あたけまる)」も係留されていたことから、この一帯は「御船蔵安宅町」と呼ばれていました。

Chie no Umi: Miyatogawa Naganawa (Sea at Chie: Long-line Fishing on the Miyato River)

A print from the Sea at Chie series composed with formative art depicting the interwoven water and fishermen. The fishing scene on the Miyato River as seen from the banks of Hamacho shows a panorama of the neighborhood of Ryogoku. The Miyato River was one of the names of a downriver portion of the Sumida River during the Edo Era. Long-line fishing is a method of fishing in which many hooked lines lead off from a single main line. The buildings at the rear are the Ofunagura boat houses in which the Shogun's military vessels were stored, and this consists of an area from Chitose 1-chome to Shin-Ohashi Bridge today. Fourteen boathouses were lined up along an area of land 4,800 tsubo (15,864 square meters) in size, and this piece of land was called Ofunagura Atakecho owing to the fact that Iemitsu Tokugawa's newly-build state barge, the Atake Maru, which assumed the shape of a military vessel, was also anchored here.




一之橋周辺には案内板が林立しています。現在のように酢飯の上にわさびを乗せ、切り身の魚と一緒に握るスタイルを確立したのは華屋与兵衛とされています。

与兵衛すし跡

現代に伝わっている江戸前の握り鮨ができたのは、約二百年前の文政年間で、小泉与兵衛が考案したといわれています。当時は鮨といえば大阪風の押し鮨ばかりだったところを、酢で締めた飯の上に、ワサビをはさんでネタを乗せて握られたものを屋台で立喰いするという新しいスタイルは、一挙に江戸っ子の人気となりました。与兵衛は、握り鮨を岡持ちに入れて盛り場を売り歩くことから始め、屋台、裏店での店売りを経て、文政七年(1824年)に元町(両国一丁目)に「華屋」という屋号の店を開き大繁盛しました。この成功によって鮨屋という形態が確立し、その軒数が増えるに従って、職人が腕を競うようになり、一大食文化を築きました。




「与兵衛鮨発祥の地」と書かれた案内板も立っています。昭和の始めまで営業していたんですね。

与兵衛鮨発祥の地

この横町の左手に、江戸握り鮨発祥といわれる与兵衛鮨がありました。文政の初めに、初代・小泉与兵衛(1799年〜1858年)により大成されました。小泉与兵衛は、霊岸島の生まれでしたが、次々と商売を替えて、本所で暮らすようになりました。その頃に、大阪風の押し鮨にあきたらず、これを江戸風に鮮度を保ち、手早く作る方法を工夫しました。始めは、毎日岡持に鮨を入れて売り歩きましたが、評判を呼ぶようになり、屋台を出し、後には店舗を開くほどになり、殺到する注文に追いつけない繁盛ぶりだったと伝えられます。当時の狂歌にも「鯛比良目いつも風味は与兵衛ずし買手は見世にまって折詰」などと人気のほどを伺うことができます。また、食通の武士の注文に応じて与兵衛が創案した「おぼろの鮨」も大変な人気となりました。屋台で山本のお茶を出したことも人気に拍車をかけました。以後、昭和五年に惜しくも廃業しました。




旧両国橋は現在の地点より50mほど下流に架かっていたそうです。

旧両国橋・広小路跡

旧両国橋は現在の両国橋の下流約五十メートルのこの辺りに架かっていました。完成は万治二年(1659年)十二月。明暦三年(1657年)の大火が大災害となったため、幕府が防災上の理由から架け、武蔵と下総の国を結ぶ橋なので、両国橋と呼ばれました。橋の上は、四方が眺望できる絶景の場所で、近くは浅草の観音堂、遠くは常陸の筑波山まで見えたようです。橋が架かったことで交通の要衝となるとともに、橋の袂には火除け地としての広小路が設けられました。西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。寛保二年(1742年)の調査では一日に二万人以上が往来したとされています。




吉良邸討ち入り後の赤穂浪士は、広小路で休息したと伝えられています。

赤穂浪士休息の地

元禄十五年(1702年)十二月十四日、赤穂浪士は本所二ツ目の吉良邸に討ち入り、主君である浅野内匠頭の仇討ちを成し遂げました。これが世に言う赤穂事件で、芝居などで「忠臣蔵」と呼ばれるようになりました。赤穂浪士が討ち入り後、泉岳寺への引き揚げ前に休息をした場所がここにあった広小路です。吉良家への応援に駆けつけて来るであろう上杉家の家臣たちを迎え撃つ心算であったとの説もあります。休息後、大名との無益な衝突を避けるため、登城路になる旧両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げました。




大山詣での講中の人たちが両国橋の袂で体を清めたのだそうです。昔は隅田川も清流だったのでしょう。

石尊垢離場跡

石尊とは、神奈川県伊勢原市にある大山のことです。山頂の阿夫利神社は、商売繁盛と勝負事に御利益があるので江戸中期、江戸っ子が講を組み、白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけました。出発前に水垢離を取り、体を清めました。その垢離場が旧両国橋の南際にありました。川の底に石が敷いてあり、参詣に出かける者が胸のあたりまで水につかり「さんげさんげ、六根罪障、おしめにはったい、金剛童子・・・」などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを流したのです。その賑わいは、真夏の海水浴場のようだったとされています。




元町は、回向院の門前町として栄えていたそうです。

元町跡

両国橋の東詰めにあった町名です。現在の両国一丁目あたりで、この一帯で最初に拓かれた町屋なので元町といいます。町内は四つに分かれていますが、総坪数は三千二百六十三坪でした。寛文十一年(1671年)の切絵図には回向院門前に「ちゃや」、竪川沿いに「ざいもく」などの記載があり、門前町として賑わっていたことがうかがわれます。十万人を超える死者が眠る回向院には、墓参のため、身分や年齢を問わず、多くの人々が訪れ、両国橋から回向院に向かう通りは、回向院の参道として、おおいに賑わっていました。




かっての回向院の正門は、西に向かって建っていたそうです。現在の両国幼稚園の辺りと思われます。

回向院正門跡

回向院の正門は、かつてこの位置にありました。回向院の伽藍は東京大空襲で焼失しましたが、戦後、再建され、正門は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対する位置に移されました。かつての回向院正門は、江戸城側から両国橋を越えると真正面にあり、橋上からその姿をはっきりと見ることができました。両国橋があたかも回向院参道の一部を成しているかのようで、明暦の大火による焼死者十万人以上を埋葬する回向院の社会的な存在意義を表したものともいえます。両国橋や回向院正門に至る広小路や元町の賑わいは、北斎画「絵本隅田川両岸一覧(両国納涼)」などに描かれています。




国技館通りが国道14号線(京葉道路)から分岐する両国二丁目交差点に面して、円筒を半分に割ったような形の屋根が特徴的な回向院の山門があります。

回向院(Eko−in Temple)

明暦三年(1657年)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は十万人以上、未曾有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引取り手のない有様でした。そこで四代将軍コ川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。有縁・無縁・人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震・関東大震災・東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者・遊女・水子・刑死者・諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。




参道の入口横には回向院の由緒を記した案内板が立っています。鼠小僧次郎吉の本来の墓は南千住の小塚原回向院にあり、両国の墓は明治時代に建てられた供養墓となっています。鼠小僧次郎吉は鈴が森で獄門(斬首刑)になったそうですが、なんで小塚原刑場近くに墓を作ったのでしょうかね?ちなみに、江戸時代の刑場は北に小塚原刑場、南に東海道沿いの鈴ヶ森刑場(南大井)、西に大和田刑場(八王子市)があり、三大刑場といわれました。鼠小僧次郎吉の墓のすぐ隣に「猫塚」と書かれた碑があります。名前のとおり、猫の供養のために建てられた塚です。「猫に小判の話」とは、「文化年間、日本橋に住む時田半治郎という人がいて、家計が窮迫したうえに病気となって苦しい毎日を送っていたところ、日頃かわいがっていた猫が小判をくわえてきて長年の恩にむくいた。それ以来、時田家の家運が次第に開けて、病気も治り家運が挽回し繁栄していった。時田家では、この猫を徳として感謝していたが、猫が死ぬとその霊を回向院に埋葬し、墓を建てた」というお話です。

諸宗山 回向院

明暦三年(1657年)江戸大火(振袖火事)に依る死者10万八千余人を弔うために建立された。

安政大地震(1855年)の死者二万五千人余を初めとして、江戸府内の無縁佛・天災地変に因る死者も埋葬され、近くは大正十二年の関東大地震の死者十万余人の分骨も納骨堂に安置されています。

江戸時代の雰囲気を伝える史蹟記念碑墓地がある。
 明暦三年 大火石塔
 安政二年 大地震石塔
 鼠小僧次郎吉墓
 水子塚 (寛政五年)松平定信建立
 猫に小判の話 猫塚
 勧進相撲発祥の地記念 力塚
 呼び出 定火消墓 木遣塚
 諸動物供養塔
 竹本義太夫墓
 岩P京傳・京山・加藤千陰墓




回向院の境内には、かって大鉄傘と愛称された旧国技館がありました。収容人数一万三千人のドーム型建物を造ったほどですから、境内は相当に広かったのでしょう。隣接する両国シティコアビル中庭にある駐輪場には、タイルの色を変えることによって土俵跡が分かるようになっています。

旧国技館跡

旧国技館は、天保四年(1833年)から回向院で相撲興行が行われていたことから、明治四十二年(1909年)に、その境内に建設されました。建設費は二十八万円(現在の価値では七十五億円程度)です。ドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は一万三千人でした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。しかし、東京大空襲まで、三度の火災に見舞われるなど御難統きで、戦後は進駐軍に接収されました。返還後は日大講堂として利用されていましたが、昭和五十八年(1983年)に解体されました。左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示しています。




大鉄傘については、もうひとつの案内板が置いてあります。明治時代にこのような巨大で難しい構造の建物を建てたのは信じられませんね。

旧国技館(大鉄傘)跡

旧国技館は、江戸時代以来の相撲興行の歴史を刻む回向院の境内に、明治四十二年(1909年)に竣工・開館しました。1万3千人を収容する当時最大規模の相撲常設館で、設計は、日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾と葛西萬司が手がけました。日本初のドーム型鉄骨の建物であったことから、大鉄傘とも呼ばれました。開館当初は両国元町常設館が正式名称でしたが、翌年から国技館という名称が定着しました。開館後は菊人形祭りや講演会などを開催するイベントホールとしても利用されました。この建物は、大正六年(1917年)の火災と同十二年(1923年)の関東大震災、そして昭和二十年(1945年)の東京大空襲などで被害を受けましたが、そのたびに修理され、昭和五十八年(1983年)に老朽化に伴い解体されるまで使用されました。ただし、相撲常設館としての役割は、横綱双葉山の引退披露大相撲として開催された昭和二十一年(1946年)秋場所を最後とし、その後はメモリアルホールと称してプロレスやボクシングなど格闘技の試合会場として使用されました。また、昭和三十三年(1958年)以降は、日本大学講堂として使用されました。なお、旧国技館の解体後、地元の方々が台東区の蔵前国技館に移転していた本場所の誘致に尽力され、昭和六十年(1985年)1月に現在の両国国技館が開館しました。旧国技館の跡地は、現在複合商業施設となり、その中庭にはタイル貼りでかつての土俵の位置が示されています。

Former Site of Kokugikan (Sumo Arena)

Sumo bouts were held at Ekoin Temple during the Edo period. In 1909 the sumo arena later known as Kokugikan was erected on this site, under the name Sumojosetsukan. This domed, steel framed, Western style building was known as Daitessan. Rebuilt numerous times, Kokugikan was in continuous use until its final demolition in 1983.




境内には、相撲に関した様々な石碑が建っています。

相撲関係石碑群<力塚>

墨田区と相撲の関わりは、明和五年(1768年)九月の回向院における初めての興行にさかのぼります。以後、幾つかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。天保四年(1833年)十月からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場所として、年に二度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されています。明治時代に入っても、相撲興行は回向院境内で続いていましたが、欧風主義の影響で一時的に相撲の人気が衰えました。しかし、明治十七年(1884年)に行われた天覧相撲を契機に人気も復活し、多くの名力士が生まれました。そして、明治四十二年(1909年)に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく相撲が開催できるようになり、相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。カ塚は、昭和十一年に歴代相撲年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時にこの場所に玉垣を巡らせ、大正五年(1916年)に建てられた角力記と法界万霊塔もこの中に移動しました。現在は、相撲興行自体は新国技館に移りましたが、力塚を中心としたこの一画は、相撲の歴史が七十六年にわたり刻まれ、現在もなお相撲の町として続く両国の姿を象倣しています。




境内に案内板がずらりと並んでいます。



左端は、「石造明暦大火横死者等供養塔」の案内板です。供養塔は、明暦三年(1657年)1月に発生し、江戸市中の繁華街を焼いた明暦の大火による焼死者・溺死者を始めとして、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者・その他の横死者に対する供養のために造立されました。

東京都指定有形文化財(歴史資料)
石造明暦大火横死者等供養塔 一基

明暦三年(1657年)一月、江戸市中の繁華街を焼いた有名な明暦の大火による焼死者・溺死者をはじめとして、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者その他の横死者に対する供養のために造立されたものである。もと、回向院本堂の向って右に存した三仏堂の前に建てられていたが、堂舎の位置がその後移転したにもかかわらず、この供養塔の位置はほとんど動いていないものと思われる。総高3.05メートル、延宝三年(1675年)頃建立された。願主は回向院第二世住持信誉貞存。

Tangible cultural property (Historical Material)
Sekizo Meireki Taika oshisya-to Kuyoto

This is a tower built for victims of the Great Fire at Meireki time. It was built around 1675 by the petition from the second chief priest of Ekoin Temple, Shinyo Teizon. There used to be many fires in Edo. Since merchants, who account for a half of the population in Edo, were crammed into limited areas, a single fire could cause serious damage. The Great Fire at Meireki time is a common term for three fires that occurred consecutively from January 18 to 19. Most of the city center at the time (current Chiyoda and Chuo wards) was affected by the fire and tens of thousands of people were killed. The main stone is in rectangular shape and all four surfaces were chamfered. On top of the main stone, a coping stone with bargeboards on all four sides, and houju (sacred gem) are placed on. Two lotus-shaped base and two square pedestal stones are at the bottom. The total height is 305cm (coping stone 68cm, main stone 162cm, lotus-shaped base and pedestal stones 75cm). The tower was originally built in front of Sanbutsu-do hall at the right side of the main hall of Ekoin Temple. Later the halls were moved but it is assumed that the location of the tower has not been moved. In Ekoin Temple, there are many other memorial towers for the neglected. In the east side of the main hall, many memorial towers and gravestones of the famous can be seen.




供養塔自体は、境内の奥にまとめられた石碑群の前列右端(通路の右の石碑)にあります。



加藤千蔭墓の案内板です。お墓自体は、鼠小僧次郎吉の墓の裏側にあるそうですが見落としました。加藤千蔭は江戸時代中期の歌人・国学者で、碑面には草書体の美しい文字で「橘千蔭墓」と陽刻されています。加藤千蔭は文化五年の正月に「橘千蔭」と自筆した紙を回向院の住持に託し、その年の9月2日に没しました。墓碑の「橘千蔭」の文字は本人のものといわれています。

東京都指定旧跡
加藤千蔭墓

江戸中期の国学者、歌人。芳宜園と号し、千蔭は名。耳梨山人、逸楽窩、江翁などとも号していた。通称加藤又左衛門といい、能因法師の末裔だという。父は江戸の与力として八丁堀に住み、千蔭は父から歌を学んだ。また賀茂真淵に師事し、のち父の職を継いだ。天明八年(1788年)病気のため職を辞し、学問研究に専念した。老境に入っていよいよ研さんを積み、著書は世に千蔭本と呼ばれて流布した。博識をもって世に知られ、かつ著書「万葉解」は高く評価されて幕府から賞されたという。また、絵を建部綾足に学び人びとは争ってこれを求めたという。文化五年(1808年)九月二日歿。年七十五。著書には「万葉集略解」「万葉新採百首」「香取日記」その他多い。



墓碑はネットからの転載です。


岩瀬京伝墓の案内板です。お墓自体は、加藤千蔭墓の前にあるそうですが見落としました。墓碑裏面の碑文は弟の岩瀬京山が撰文し、墓碑銘も自撰自書しました。

東京都指定旧跡
岩瀬京伝墓

江戸時代の著名な戯作者。名は醒、字は酉星。京橋南伝馬町に住んでいたため号を京伝とし、愛宕山の東に当ることにちなんで山東といった。彼は深川木場の質屋に生まれ、若くして浮世絵を北尾重政に学び、北尾政演の名で黄表紙のさし絵などを描いた。「御存商売物」が蜀山人に認められ、「江戸生艶気樺焼」によって一躍黄表紙作家として広く知られるようになった。さらに「令子洞房」で洒落本作家としての地歩を築いたが寛政三年(1791年)風俗を乱すものとして手鎖五十日の刑に処せられ、以後読本作家に転じた。著書には「仕懸文庫」「孔子縞于時藍染」「心学早染草」「傾城買四十八手」「近世寺跡考」「骨董集」その他多い。文化十三年(1816年)九月七日歿。年五十七。



墓碑はネットからの転載です。


岩瀬京山墓の案内板です。岩瀬京山は岩瀬京伝の弟にあたり、お墓は兄の岩瀬京伝の墓の右横にあるそうですが見落としました。

東京都指定旧跡
岩瀬京山墓

江戸時代の著名な戯作者である山東京伝の弟で同じく戯作者である。名を百樹といい、字を鉄梅といった。鉄筆堂は号で、通称は利一郎、のち京山と改めた。はじめ篠山侯に仕え、のちこれを辞して兄京伝の業を継ぎ、やがて剃髪して涼仙と号した。著書には「稗史小説」「蜘蛛の糸巻」その他がある。安政五年(1858年)九月二十四日流行病コロリ(コレラ)にかかって歿した。なお、兄京伝の墓を建てたのは京山である。半居士、覧山の別号がある。



墓碑はネットからの転載です。


回向院の境内には、様々な動物の慰霊碑や供養碑があり、動物供養の発祥寺ともいわれています。境内の中央に聳える白い建物は、馬頭観世音菩薩像を安置する馬頭観音堂です。徳川四代将軍家綱の愛馬が亡くなった際に回向院に葬ることになり、その供養のために二世信誉貞存上人は自ら馬頭観世音菩薩像を刻みました。その像が安置されているのが馬頭観音堂です。病気平癒などにご利益があるとして信仰を集め、江戸三十三箇所観音参り第4番札所となっています。



文化十三年(1816年)に建立された猫の報恩伝説で知られる「猫塚」もあります。ちなみに、別の本では次のように記述されているそうです。

両替屋に通っていた魚屋は、いつもそこの飼い猫に魚肉を与えていました。ところがある時、魚屋は病気で商売に出られなくなってしまい、お金が無くなり困っていましたが、誰かが2両置いていってくれたため、なんとか食いつなぐことができ、やがて病気も治ったといいます。再び両替屋に出かけてみると、そこに猫がいません。理由を尋ねると、猫が小判をくわえて逃げるところを家の者が見つけ、殴り殺してしまったということです。魚屋は猫が自分のところにお金を届けてくれていたと知り、猫の死骸をもらって回向院に葬りました。それが猫塚として今に残っているということです。

猫の恩返し(猫塚)

猫をたいへんかわいがっていた魚屋が、病気で商売ができなくなり、生活が困窮してしまいます。すると猫が、どこからともなく二両のお金をくわえてき、魚屋を助けます。ある日、猫は姿を消し戻ってきません。ある商家で、二両くわえて逃げようとしたところを見つかり、奉公人に殴り殺されたのです。それを知った魚屋は、商家の主人に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋とともにその遺体を回向院に葬りました。江戸時代のいくつかの本に紹介されている話ですが、本によって人名や地名の設定が違っています。江戸っ子の間に広まった昔話ですが、実在した猫の墓として貴重な文化財の一つに挙げられます。




境内中央の石碑群の中に、海難事故による溺死者を埋葬供養した「石造物海難供養碑」が幾つか建っています。

<墨田区登録文化財>
石造海難供養碑

回向院は、明暦の大火を契機に開かれた寺院で、様々な災害による犠牲者を弔う供養碑が多く建立されています。それらの中に六基の海難供養碑を見ることができます。六基のうち三基は伊勢白子(現三重県鈴鹿市)関係の碑です。江戸時代の白子港は木綿を主力商品とした伊勢商人の物資輸送の拠点として繁栄していました。

@「南無阿弥陀仏」海上溺死群生追福之塔
文政十年(1813年)に菱垣廻船十組問屋が建立。安政大地震で倒れたのち安政三年(1856年)に再建。正面の名号は増上寺六十六世大僧正冠譽の揮毫を碑刻したものです。

A「溺死四十七人墓」
明治二年(1869年)、函館戦争の援軍として横浜から出港した肥後熊本藩(現熊本県)のお雇い蒸気船が上総川津村(現千葉県勝浦市川津)の沖で沈没し二百六十余名が亡くなりました。そのうち、富岡文吉らが知る四十七名を供養するために建立しました。

B「南無阿弥陀仏」勢州白子参州平坂溺死者供養塔
文化十一年(1814年)江戸大伝馬町太物問屋仲間が白子、平坂(現愛知県西尾市平坂町)二港に属する溺死者のために建立しました。名号は徳本の書です。台座部分には中村仏庵の撰書により、天明二年(1782年)の大黒屋光太夫の一件から、文化十一年に至る海難小史が綴られています。

C「紀州大川徳福丸富蔵船溺死人之墓」
安政四年(1857年)四月二十日に紀州大川浦(現和歌山県和歌山市大川)の富蔵船の乗組員七名が江戸から帰郷の途上、遠州相良沖(現静岡県牧之原市)で溺死しました。彼らを供養するために、江戸の樽廻船問屋井上重次郎と酒問屋、荒荷方の荷受人たちが世話人となり建立しました。

D「勢州白子三州高濱船溺死一切精霊」
寛政元年(1789年)、三河平坂の施主が建立した帆掛船型の碑です。帆の正面には犠牲者七名の戒名と俗名が、帆の裏面には白子の大黒屋光太夫と高浜の弥兵衛船の死者が一切精霊としてあわせて供養されています。

E勢州白子戎屋専吉船溺死者等供養塔
文政八年(1825年)の伊豆神津島(現束京都神津島村)沖の溺死者のために建立されました。のちに、天保、安政の遭難者名を追刻しました。



時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。

<墨田区民俗文化財指定>鼠小僧供養墓

碑の正面には「天保二年八月十八日」 「俗名 中村 次良吉之墓」
「教覚速善居士」「道一書」
裏面には 「大正十五年十二月十五日 建立」
左側には 「永代法養料金 五拾圓也 細川 仁三」と刻まれている

鼠小僧は寛政九年(1797年)生まれの実在の盗賊であり、「武江年表」によると天保三年(1832年)八月十九日に浅草で処刑されている。「甲子夜話」によれば、武家屋敷にのみ押し入ったため庶民からは義賊扱いされていると記されている。後に幕末の戯作者河竹黙阿弥が、権力者である大名家に自在に侵入し被権力者側である庶民に盗んだ金を配るという虚構の鼠小僧を主人公とした作品を世に送り出したことから人気に火がつき、演劇界においては現在まで続く当り狂言の一つとなった。明治十二年一月の「朝野新聞」によると歌舞伎の一門の一人である市川団升が狂言が当った礼として碑と永代供養料十円の寄付を行うほどの熱の入れようであったと伝えており、施主として刻まれ、墓の横にも石灯籠を寄進している。細川仁三とは市川団升のことであるとみる説もある。文学界においても茶川龍之介が「戯作三昧」・「鼠小僧次郎吉」・「復習」と三度題材に取り上げるなどとしており、虚構の鼠小僧の人気は高い。江戸時代、犯罪者には墓を作ることが禁止されていた。しかし歌舞伎や狂言での成功によって、祈願対象物としての墓の必要性が生じ、この供養碑が作られたと思われる。

*他方、供養墓の前にある小さな供養費は正面に供養墓同様「教 覚 速 善 居 士」と刻まれているが、別名「欠き石」とも呼ばれるものである。鼠小僧の墓石を欠き、財布や快に入れておけば金回りが良くなる、あるいは持病が治るとも言われ、成就した人々の奉納した欠き石は数年ごとに建て替えられ続け、現在までに数百基にも及んでいるという。発生時期は不明であるが、明治十八年(1885年)に初演された河竹黙阿弥の「四千両小判梅集」には台詞の中でこの信仰の事が触れられている。

「この供養碑は変貌著しい墨田区と歌舞伎とのかかわりを示す資料でもあり、そこにはまた庶民のささやかな幸福追求の対象物としての価値も含まれる」



長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方が後を絶ちません。



境内の猫ちゃんとしばし遊びます。警戒心が全くないですね。



ゴール地点のJR総武線両国駅西口に戻ってきました。



ということで、墨田区で五番目の「D歴史と自然を感じながら、名所をめぐる江戸散歩コース」を歩き終えました。次は墨田区で六番目のコースである「E向島を愛した文人たちの足跡を訪ねる文学散歩コース」を歩きます。




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