E向島を愛した文人たちの足跡を訪ねる文学散歩コース  

コース 踏破記  

今日は墨田区の「E向島を愛した文人たちの足跡を訪ねる文学散歩コース」を歩きます。路地裏の文学碑やかっての遊郭街など、墨田区の様々な名所・旧跡を巡ります。最初に歩いたのは2022年の3月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年5月に改めて歩きました。

E向島を愛した文人たちの足跡を訪ねる文学散歩コース

幸田露伴、佐多稲子、堀辰雄・・・・・・文人たちの住居跡や碑が数多く残っています。文豪の生きた時代に思いをはせながら、文学散歩としゃれこみましょう。

「E向島を愛した文人たちの足跡を訪ねる文学散歩コース」の歩行距離は約3.0km(約4、300歩)、歩行時間は約45分、消費カロリーは約135Kcalです。

スタート地点:東武スカイツリーライン東向島駅
ポイント1 露伴児童遊園(幸田露伴の住居跡・文学碑)
幸田露伴の家があった場所。露伴自らが設計し身ひとつで移動できるカタツムリになぞらえて「蝸牛庵(かぎゅうあん)」と名づけたことから、園内にはカタツムリの遊具が。
ポイント2 鳩の街通り商店街
狭い路地に昭和初期の建築が残り、永井荷風の作品世界を彷彿とさせます。
ポイント3 見番通り
置屋や料亭が建ち並ぶ。お座敷に出る芸妓さんの姿が見られることも。
ポイント4 牛嶋神社
平安時代創建の古社。自分の悪い部分と同じところを撫でると病気が治るといわれる「撫牛」が名物です。
ポイント5 The GREENMARKET SUMIDA
区役所前うるおい広場で開催されるマーケット。全国各地から特産品やこだわりの品が集まります。
ポイント6 ASICS CONNECTION TOKYO
ヨガ、隅田川ラン、カフェを楽しめるスポット。

ゴール地点:都営地下鉄浅草線本所吾妻駅出入口A19


スタート地点の東武スカイツリーライン東向島駅から歩き始めます。東向島駅名の隣に、小さく(旧玉ノ井)と書かれています。東向島駅の開設当初の駅名は白鬚駅でしたが、大正十三年(1924年)に営業を再開した際は玉ノ井駅という名称でした。昭和六十二年(1987年)に現行の駅名に改称され、その後も駅名標には「旧玉ノ井」と表示されています。玉の井は、戦前から昭和三十三年(1958年)の売春防止法施行まで、旧東京市向島区寺島町に存在していた私娼街です。玉の井の起源は、大正中期に浅草観音堂裏に言問通りが開かれるに際して、その近辺にあった銘酒屋などがこの地へ移ってきたのが始まりといわれています。銘酒屋とは、銘酒を売るという看板を出して飲み屋を装いながら密かに私娼を抱えて売春した店をいいます。この後で訪れる鳩の街も玉の井から派生しています。



駅前を通る「東向島粋いき通り(博物館通り)」の博物館とは、東向島駅の高架下にある東武博物館のことです。東武博物館は、東武鉄道に関する資料や車両などを収集・展示している博物館で、東武鉄道創立90周年記念事業として平成元年(1989年)5月20日に開館しました。東武鉄道で実際に使われた蒸気・電気機関車や電車・バスの展示を始め、運転シミュレータやジオラマなどが展示されています。



道路に面した建物の前は展示用のスペースになっています。1720系1721号電車は、デラックスロマンスカーと呼ばれた特急電車でした。どちらの車両も館内から車内に立ち入ることができます。

1720系デラックスロマンスカー

1720系は昭和三十五年に就役し、浅草〜東武日光・鬼怒川方面へと走った特急電車です。当時の車両技術の粋を集めたオール電動車6両固定編成で、昭和四十八年までに7編成作られました。ジュークボックス付きのサロン室を備えるデラックス車両として長い間東武鉄道の看板特急でしたが、100系特急スペーシアにその女王の座をゆずり平成三年引退しました。




200形203号電車は、昭和四十三年に廃止された日光軌道線を走っていました。台車3台の上に車体2両が乗っかっていて、他に類を見ない独特の形状をしています。東武動物公園から移設されました。

日光軌道線203

全長: 18、550mm
幅:   2、200mm
高さ:  3、702mm

日光軌道線は明治四十三年、日光精銅所の資材輸送を主目的に敷設されました。昭和二十二年に当社と合併しましたが、その後、観光客の増加にこたえ、開業以来使用していた旧形車を廃し、昭和二十八年・昭和二十九年に大形車を導入しました。この車両は昭和二十九年に汽車会社で造られた2車体3台車連接式の珍しい電車です。日光軌道線は、昭和四十三年に姿を消しました。




折角なので館内に入ってみます。B1形5号蒸気機関車は東武鉄道開業時の蒸気機関車で、開業時の姿に復元されています。館林観光開発から移設され、東武鉄道記念物12号に指定されています。静止状態ながらも車輪の回転が可能で、毎日数度回転演出が行われています。その際は、近くに据えられた腕木式信号機を進行現示に切り替えてから行われるという本格的なものです。

5号機関車 東武鉄道記念物第12号

長: 14、217mm
巾:  2、308mm
高:  3、658mm

明治三十二年、北千住・久喜間の開業に先立ち、明治三十一年英国ベヤー・ピーコック社製の機関車を12両輸入しました。5号機関車はそのうちの1両で、当時としては大型で長距離用の機関車です。昭和四十年まで伊勢崎線の貨物列車を牽引していました。展示にあたり輸入当時に、ほぼ復元してあります。




今では滅多に見られなくなった腕木式信号機が5号機関車の脇に建っています。

腕木式信号機 うできしきしんごうき

現在の電気信号機が導入される前に使用されていた、腕木(長方形の板)の向きによって合図する信号機。腕木が水平の時は停止、下がった時は進行を表します。夜は腕木に付いている色灯で表します。駅や信号所にある信号レバーを手動で操作し、信号機に接続されているワイヤーを動かして切り替えました。信号レバーは蒸気機関車の後方に展示しています。東武鉄道では平成九年(1997年)まで、使用されました。




デハ1形5号電車は、東武鉄道初の電車です。東武鉄道記念物32号に指定されています。

デハ5電車 東武鉄道記念物第32号

長: 16、129mm
巾:  2、734mm
高:  4、059mm

大正十三年、浅草(現業平橋)西新井間の電化にともない、東武鉄道最初の電車として8両の木造電車が日本車両の東京支店で製造されました。デハ5は東武各線(東上線を除く)を走りました。昭和三十一年からは、西新井工場の車両入換用として使用されていたため、改造されず原形のまま保存されていました。




5700系5703号電車は、引退時の姿で車輛前面部のみ保存されています。アルナ工機(現・アルナ車両)の鉄道車両製造部門の閉鎖により、東武に引き取られたものです。

5700系ロマンスカー

昭和二十六年(1951年)、日光・鬼怒川線の特急として登場。戦後の観光ブームを受けて2年後に増備され、全部で6編成12両製造されました。展示の運転台は増備車の昭和二十八年(1953年)製の5703号(元5711号)です。昭和三十一年(1956年)、1700系ロマンスカーの登場以降は、日光・伊勢崎線の急行、快速、団体用として使用されました。平成三年(1991年)まで40年間走り続け、長年の活躍により鉄道友の会からエバーグリーン賞を受賞しました。




その他、様々な展示がされています。



明治通りを渡って向島百花園に向かいます。向島百花園は、江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804年〜1830年)に造られた庭園です。庭を造ったのは、それまで骨とう商を営んでいた佐原鞠塢で、交遊のあった江戸の文人・墨客の協力を得て、旗本多賀氏の元屋敷跡である向島の地に花の咲く草花鑑賞を中心とした「民営の花園」を造り、開園しました。開園当初は360本のウメの木が主体で、当時有名だった亀戸の清香庵字臥竜梅の梅屋敷に対して「新梅屋敷」と呼ばれたほどでした。その後、ミヤギノハギや筑波のススキなど、詩経や万葉集などの中国・日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲くようにしました。「百花園」の名称は、一説では「梅は百花に魁けて咲く」または「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたものといわれています。百花園は当時の一流文化人達の手で造られた、庶民的で文人趣味豊かな庭として小石川後楽園や六義園などの大名庭園とは異なった美しさをもっています。昭和五十三年10月には、文化財保護法により国の名勝及び史跡の指定を受けました。早春の梅・水仙・福寿草から始まり、春・夏・秋の山野草、秋の萩など四季それぞれの花の野趣に満ちた庭園で、園内では季節に応じて春の七草・大輪朝顔展・虫ききの会・月見の会などが催され、日本の四季の風情を味わえます。2022年に訪れた時はコロナ禍で閉園していましたが、2025年に再訪した時は再開されていました。

向島百花園

江戸の町人文化が花開いた文化・文政(1804年〜1830年)、骨董商を営んでいた佐原鞠塢は、交友のあった江戸の文人墨客の協力を得て、当園を創設しました。開園当初には多くの梅が植えられ、その後、詩経や万葉集など中国・日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲く草庭となりました。百花園とは、一説では「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたとされます。昭和十三年(1938年)、東京市に寄付され、翌年公開が開始されました。昭和二十年(1945年)の空襲では甚大な被害を受けましたが、昭和二十四年(1949年)に復旧しました。昭和五十三年(1978年)10月に、国の名勝及び史跡の指定を受けました。向島百花園は、庶民的で文人趣味豊かな庭として、江戸時代より今日まで受け継がれてきた花園です。

Mukojima-Hyakkaen Gardens

In the Bunka-Bunsei Period (1804-1830), when the cultural lives of the townspeople of Edo began to thrive, Sahara Kikuu, a wealthy antiques dealer, established this garden with the help of other aficionados of the arts. When the garden first opened, its main feature was its many ume, or Japanese plum, trees. In later years, many different flowers and plants mentioned in classic Chinese and Japanese works of literature and poetry were collected, enabling visitors to enjoy their blooms throughout the year. One theory is that the name "Hyakkaen" was chosen to mean " a garden with a hundred flowers that bloom throughout the four seasons". In 1938, the owner donated the garden to the City of Tokyo, and it was officially opened to the public in 1939. The garden sustained major damage in the air raids of 1945 but was restored in 1949. In October 1978, it was designated by the national government as a place of scenic beauty and historical significance. Mukojima-Hyakkaen Gardens have been passed down from the Edo era to the present day as a garden with the common touch and a rich sense of the men of letters ho helped build it.




入口の前に巨大な石碑が建っています。

東京市碑
向島百花園来由の碑

名勝向島百花園ハ文化元年佐原鞠塢ノ開創スル所ニシテ風流文雅・名所トシテ聞ユルコト久シ鞠塢ハ仙臺ノ人江戸ニ出テテ骨董商ヲ営ミ北野屋平兵衛ト称ス性園圃ノ枝ニ通シ文墨ノ才ニ富メリ晩年産ヲ治メ寺島村多賀氏ノ舊地三千餘坪ヲ購ヒテ閑居スルヤ自ラ鋤鍬ノ労ヲ執リ文苑ノ名士ト胥諮リテ梅樹竝ニ四季百花ノ粹ヲ蒐メ詩韻豊力ナル花園トナス春夏秋冬花開カサルナク東西南北客争ヒ来リ花屋敷百花園ノ名普ク世ニ布クニ至レリ然ルニ明治以来(しばしば)出水ノ厄ニ羅リ園景遂ニ荒廃ニ瀕スルヤ故小倉常吉氏ハ深ク之ヲ惜ミ大正ノ初資ヲ投シテ園地ヲ収メ舊景ヲ保存シ他日公開ノ意図ヲ有セラレシヤ不幸易簀セラレタルヲ以テ未亡人小倉乃?刀自ハ其意思ヲ継承シ昭和十三年十月園地一切ヲ挙ケテ東京市ニ寄附セラレタリ本市ハ寄贈者ノ芳志ヲ體スルト共ニ曩ニ昭和八年史蹟名勝天然記念物保存法ニヨリ指定セラレタル本園保存ノ趣旨ニ遵ヒ鋭意之カ復讐ヲ図り今ヤ公開ヲ見ルニ際シ茲ニ其来由ヲ記シ以テ後世ニ傳フ




正門を入った先に庭門があります。庭門の扁額は蜀山人による揮毫で、門柱には大窪詩仏が書いた「春夏秋冬花不断」と「東西南北客争来」の聯があります。



向島百花園には隅田川七福神のうち福禄寿があり、江戸の昔から谷中と並んで向島の隅田川七福神は有名で、年の始めの七福神巡りが恒例の行事になっています。

隅田川七福神

文化元年(1804年)向島百花園が開園してからここに集まる文人墨客たちが園主佐原鞠塢が福禄寿を祭っているのを知り、この隅田川の東岸にも七福神がそろわないものかと考え、七福神にそれぞれ縁故をもつ神社仏閣を探し出した。そして、初春七草の間に寿福を祝い、家門繁栄、家業隆盛を願う初参りの行事を創始したのが、隅田川七福神のはじまりである。七福神の「七」という数は、陽を表わす奇数であって、古くから、めでたい数字とされている。七難即減、七福即生、万姓安楽という語句は七福神の語源ともいわれ、寿命、有福、人望、清廉、愛敬、威光、大量の七つの神々を象徴するもので、心新たな年頭にあたって参拝し、その年の至福を祈念するならわしが七福神初詣でのいわれてある。




園内には多くの句碑や歌碑が建てられています。芭蕉の俳句の意味は、「長い冬が過ぎ去って、梅が咲き始めた。それだけでも十分春を喜ぶのだが、加えて月も出た。これで早春の役者は十分に揃ったのである。」と、おだやかな季節の移り変わりをゆったりと表現したものです。尚、「はせを」とは芭蕉の署名で、本来ならば「ばせう」と書くところ、「仮名遣いのルール」よりも、美意識・言葉の美しさ・句としての姿・自己のセンスを優先したのだと考えられています。

芭蕉 「春もやや」の句碑

春もやや けしきととのう 月と梅      はせを




山上臣憶良の歌碑には、秋の七草を詠んだ2首が書かれています。秋の七草を現代風に書くと、「ハギ(萩)、オバナ(尾花)、クズ(葛)、ナデシコ(撫子)、オミナエシ(女郎花)、フジバカマ(藤袴)、キキョウ(桔梗)」となります。最後の「朝貌」には諸説あります。そのまま読めば「アサガオ」ですが、さすがに季節に難があります。他にムクゲ、ヒルガオなどの説もありますが、一般には「キキョウ」とされています。この秋の七草は、春の七草と違って「食べる」ものではありません。野花が咲き乱れる野を散策して、目で楽しみ、それをまた歌に詠んだりして楽しむ。そういう中で「これぞ」と山上憶良がとりあげたのがこの七つの野花で、いわば「鑑賞」と思ったらいいでしょう。

秋の七草 山上臣憶良

其の一 秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り かき数うれば 七種(ななくさ)の花
    (秋の野に咲いている花を指を折って数えると次の七種類の花が美しい。)

其の二 芽(はぎ)の花 乎花葛花(をばなくずばな) 嬰麦(なでしこ)の花 
       姫部志(をみなへし) また藤袴(ふぢばかま) 朝貌(あさがほ)の花

註 朝貌の花については、諸説があり、今日のききょう、むくげ、ひるがお、あさがお等があげられている。




ちなみに、春の七草と夏の七草も植えられています。

春の七草には、せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろがあります。

夏の七草には、きく、ききょう、蓮、おみないし、しますすき、小車煎翁があります。他にもいろいろありますが。



園内の東側奥には細長い池があります。池の一画にはハナショウブなどの花が咲き、夏にはハンゲショウなども楽しめます。



園内には沢山の石碑が建っています。「しのぶ塚」は、初代河竹新七を追善したものです。

しのぶ塚

隅田川よ二面よと歌舞伎にも浄瑠璃にも世にもてはやさるる荵売は、安永四とせ中村座の春狂言に初代中村仲蔵が勤め、前の河竹新七の作なり。そが正本を、ある人より贈られて久しゅう秘蔵せしは、名を嗣ぐ者の幸せと悦びしが、この度ここに埋みて、昔忍ぶの墳と名づけその故よし記しつくるは、隅田川の流れ絶えず伝えて、二面の二つなき功績を、後の世に遺さんとてのわざになんありける。




「きょうげん塚」は、二代河竹新七を追善した碑です。

きょうげん塚

二世河竹新七、俳名に基水、晩に古河黙阿弥と改む。壮年より演劇作者となり、古稀の齢を超えて明治二十五年の春、喜の字の祝さえなしけるに、明くる年料らずも病のために身まかりぬ。その一生の間に書き綴りたる新作の狂言およそ三百余ほどありて、古来の作者に珍しきことなれば、その名を続ける門人等師のむすめと計り、これを後の世に伝えてんと、石を建てて狂言塚と名づけ、初代の名残りの荵塚になずらえて、しのぶの文字を書きつくることしかり。




何故か、日本橋の親柱が建っています。実物にしては小さすぎるので、レプリカと思われます。

日本橋石柱

日本橋の変遷は木橋、石橋、鉄橋時代と各あるが、石橋時代の模造品と思うが、文字は徳川慶喜と伝える。




向島百花園の藤棚は規模は小さいですが、よく知られています。藤は5月上旬頃に棚全体に花房が下がり、見頃を迎えます。



萩は未だ季節ではありませんが、トンネルの準備は万端です。「萩のトンネル」は初秋を彩る向島百花園の名物で、全長約30メートルには紅白の「ミヤギノハギ」と「シロバナハギ」の2種類のハギが咲き誇ります。


右の写真はネットからの転載になります。


ポイント1 露伴児童遊園(幸田露伴の住居跡・文学碑)

向島百花園から路地を巡った先に、幸田露伴の住居跡に昭和二十五年(1950年)に造られた露伴児童遊園があります。幸田露伴は、明治四十一年(1908年)から大正十三年(1924年)までの16年間、蝸牛庵と名づけた住居で数々の名作を書き続けました。作品を書くかたわら、庭で門弟を相手に剣道・弓道・相撲などで遊んだと伝わっています。園内には、文豪を偲んで「幸田露伴文学碑」が建てられています。可愛いカタツムリのオブジェもあります。

露伴児童遊園のこと

ここは文豪幸田露伴が明治四十一年から大正十三年まで蝸牛庵と名付けて親しんだ住居の跡です。露伴は明治二十六年冬、この寺島町かいわいに来住し、それから約三十年最も力の溢れた時期をこの地にすごし、数々の名作を書かれました。当時の露伴は門弟を相手に剣道、弓道、相撲などして、よく庭で遊んだそうです。このゆかりの地を永久に記念したいと露伴を思慕される地主の菅谷辰夫氏が区に寄贈されました。寺島の土地を愛し親しんだ幸田露伴の旧跡を子供たちの楽しい遊び場としていつまでも保存しようと児童遊園を造ったものです。




向島には、かって多くの作家が住んでいました。

向島文学散歩

向島地域には、明治時代以降、魅力ある土地柄に惹かれた多くの作家が住まいを構えました。彼らは、向島での暮らしを作品に残し、かつての向島の様子を伝えてくれます。

Map of Literary Sites in the Mukojima Area

Starting in the 19th century, especially after the Meiji Restoration in 1868, the pastoral atmosphere of the Mukojima area brought many novelists to make their homes here. The writings they left tell of a Mukojima long past, and record the lives of its inhabitants.




作家達の旧居を図示した地図が添えられています。ちなみに、向島に住んだ作家達には、幸田露伴の他、成島柳北・依田學海・村上浪六・富田木歩・佐多稲子・淡島寒月・饗庭篁村・谷崎潤一郎・正岡子規・吉川英治・森鴎外・堀辰雄などがいます。



幸田露伴の文学碑が建っています。

幸田露伴文学碑

世おのづから數といふもの有りや。有りといへば有るが如く、無しと為せば無きにも似たり。洪水天に滔るも、禹の功これを治め、大旱地を焦せども、湯の徳これを濟へば、數有るが如くにして、而も數無きが如し。
                                    「運命」より




幸田露伴が住んだ蝸牛庵を解説したパネルが立っています。その前には、庵の名前の由来となったカタツムリのオブジェが2体置かれています。



最初は、幸田露伴と向島についてです。

蝸牛庵物語
幸田露伴と向島

幸田露伴(慶応三年【1867年】〜昭和二十二年【1947年】)は、明治・大正・昭和の三代にわたって、小説をはじめ評論や随筆、詩歌、考証研究などに幅広く活躍し、大きな足跡を残した文学者です。若き日の明治二十年代から、「風流仏」や「五重塔」などの名作を次々に発表し、尾崎紅葉とともに「紅露時代」と並び称されました。向島にはじめて住んだのは明治二十六年のことで、現在の白髭橋近くにいた父母や兄が、隅田川対岸の橋場へと転居したのにともない、そのあとに入ったのです。岐雲園と称されるこの家は、もと幕末の外国奉行だった岩瀬忠震が建てたもので、汐入の池や梨畑のある広い庭を持っていました。




2枚目は、向島蝸牛庵についてです。

向島蝸牛庵

露伴が岐雲園に住んだのはわずか一年ほどでしたが、数年後の明治三十年にはふたたび向島へと戻り、当地よりほど近い、雨宮酒店の隠居所を借りて居を定めました。現在、博物館明治村に移築されているこの家では、のちに作家になる娘の幸田文が生まれています。「蝸牛庵」とは露伴の家のことで、若いころから転居続きだった自分を、殻を背負って歩くかたつむり(蝸牛)に喩えたのが由来です。生涯にわたって用いられた庵号で、特定の建物を指すわけではありませんので、区別のためにしばしば地名を冠して呼ばれます 。




3枚目は、居を構えた向島についてです。

当地について

明治四十一年(1908年)、露伴はみずからの設計で家を新築し、当地に移り住みました。短期間の居住におわった岐雲園をのぞけば、ここが第二の向島蝸牛庵にあたります。隣には割烹料亭「雲水」の庭が広がるすぐれた環境で、中国明代の靖難の変を題材にした歴史小説「運命」をはじめ、「幽情記」や「望樹帰」といった代表作がいくつも執筆されました。この家で少女時代をすごした幸田文は、当時の様子を「みそっかす」や「糞土の墻」に美しく描いています。しかし、関東大震災によって井戸水が濁ってしまったことなどから、大正十三年、一家は十六年あまりをすごしたこの地を離れ、小石川に移転していったのです。




最後は英文の解説です。

Modern Author Koda Rohan and his "Snail Cottage"
Koda Rohan (1867-1947) was a famous writer active throughout Japan's modern period.

By the middle of the Meiji Period, when modern Japanese literature arose under the influence of Western culture, Rohan had already received recognition as a first-class writer through novels such as Furyubutsu (The Icon of Liberty) and Gojunoto (The Five-Storied Pagoda). He continued to publish pieces including novels, book reviews, essays, and poetry for nearly sixty years until after World War II . Rohan lived in the Mukojima area three times, each time in a different house. He first stayed in a large estate in the northern part of Mukojima near Shirahige-bashi Bridge in 1893, but only for a year D. Rohan lived in the area for the second time in 1897, renting a wing of Amemiya's liquor shop, which was located near this site 2. Aya Koda, his daughter who would later become a popular writer in her own right, was born there. Starting in 1908, Rohan lived here in Mukojima for the third time 3. It is said that the house located here was designed by Rohan himself. Here he wrote many well-known masterpieces including Unmei (Destiny), but the Great Kanto Earthquake of 1923 made the well water cloudy, so he moved out the following year. Rohan often called his house Kagyuan, or "Snail Cottage". The writer had moved often since his youth, and through this moniker he compares himself humorously to the snail, which carries its shell as it travels. Combining this name with that of the area, the house once located on this site is called Mukojima Kagyuan.




ポイント2 鳩の街通り商店街

露伴児童遊園を出て道なりに進みますと、鳩の街通り商店街に入ります。そこはまるで昭和時代にタイムスリップしたかのような街の佇まいです。鳩の街通り商店街は、昭和三年(1928年)に設立された寺島商栄会から続く、一世紀近くの歴史を持つ古い商店街です。東京大空襲を免れたために、通りの道幅は戦前のままです。



鳩の街通り商店街は、水戸街道から墨堤通りまでの約370m続く商店街で、お惣菜店・鮮魚店・美容室・カフェなど約30店が営業しています。戦火を逃れた街並みは、新しい建物・古い建物・リノベーションした個性的な建物が混在し、どこか不思議な風景を感じさせます。国道6号線(水戸街道)に面した商店街の入口にはピンク色のアーチが架かり、アーチには可愛らしい鳩のマークが施されています。



ただ、商店街の中には建物が取り壊されて空き地になっているところもあります。更地に鳩が休んでいるところは、商店街の名前にピッタリですね。



そんな鳩の街通り商店街ですが、昔からの伝統ある商店に加えて、近年では古い建物をリノベーションした個性的な新しいお店も登場し、下町の隠れた観光スポットとして人気を集めています。空きアパートを改装した商店街直営の創業支援施設「チャレンジスポット!鈴木荘」事業など、空き店舗活性化の取組みが評価され、経済産業省の「新・がんばる商店街77選」に全国から選ばれました。



昭和二年築の元薬局をリノベーションして開業した「古民家カフェこぐま」など、鳩の街通り商店街の雰囲気が気に入って出店したお店も多くあります。



空き地には、タイで見かけるサムローに似た人力三輪自転車が展示されています。



商店街の一画にある寺島保育園の外柵に、吉川英治旧居跡の案内板が貼られています。

吉川英治旧居跡

本名:吉川英次(明治二十五年【1892年】8月11日〜昭和三十七年【1962年】9月7日)
「鳴門秘帖」「宮本武蔵」「三国志」「新・平家物語」など、長編約80編、短編約180編という膨大な小説を執筆。国民文学作家と親しまれ、昭和三十五年に文化勲章受章。

明治二十五年(1892年)、横浜生まれ。父は旧小田原藩士。県庁勤務の後、牧場経営に失敗し、家運が傾いたため、小学校を中退。職を転々としながら、朝から晩まで働き通した。18歳の時、上京。本所菊川町(立川4丁目)のラセン釘工場に住み込み、夜は、本所林町(菊川1丁目)の府立夜間職工学校で、工芸図案を学ぶ。その後、浅草三筋町にある輸出用金属象嵌の下絵描きの徒弟となった。

   貧しさも あまりの果ては 笑ひ合ひ
        (吉川雉子郎の名で発表した川柳)

大正六年(1917年)、25歳の時に下谷の花街で知り合った赤沢やすと、この付近で同棲を始め、母たちを近くの借家に呼んだといわれている。本格的な作家活動は、30歳で「親鸞」を初めて新聞連載した時に始まる。以後、創刊された「キング」に「剣難女難」、大阪毎日新聞に「鳴門秘帖」を連載し、国民文学作家としての地位を不動のものにした。

A popular novelist and recipient of the Order of Cultural Merit
Residence of Yoshikawa Eiji

Yoshikawa Eiji (1892-1962) was a prolific author responsible for around 80 full-length novels including The Secret Record of Naruto, Miyamoto Musashi, Romance of the Three Kingdoms, and The New Tale of Heike, as well as around 180 shorter works. In 1960 this popular author was awarded the Order of Cultural Merit.




墨堤通りに向かう途中のマンションの角に、榎本武揚旧居跡の案内板が立っています。

榎本武揚旧居跡

本名:榎本武揚(天保七年【1836年】8月25日〜明治四十一年【1908年】10月26日)
箱館戦争で官軍と戦ったが、3年間の投獄後は新政府で文部大臣、外務大臣などを歴任した。下町情緒を好み、門(かど)づけの三味線弾きを家に呼び込んだり、ひいきの力士に相撲の型をとらせて楽しんだという。また墨堤植桜之碑や牛島小学校の篆額に揮毫している。

父は幕臣で、伊能忠敬にも師事した知識人であった。武揚も幼い頃から学才に長け、昌平黌で儒学を、江川太郎左衛門から蘭語、中濱萬次郎から英語をそれぞれ学び、恵まれた環境で洋学の素養を身につけた。19歳で箱館奉行の従者として蝦夷地に赴き、樺太探検に参加する。安政三年(1856年)には長崎海軍伝習所に学び、蘭学や造船学、航海術を身につけた。文久二年(1862年)に幕府留学生としてオランダに渡って、船舶に関する知識をさらに深める一方、国際法や軍学を修めた。慶応三年(1867年)、幕府が発注した軍艦「開陽」に乗艦して帰国、翌四年に海軍副総裁に任ぜられた。戊辰戦争では徹底抗戦を唱えたが、五稜郭で降伏、3年間投獄された。この箱館戦争で敵将ながらその非凡の才に感服した黒田清隆の庇護を受け、北海道開拓使に出仕。明治七年(1874年)に駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て文部大臣、外務大臣などを歴任した。明治三十八年(1905年)から、73歳で没する同四十一年までこの付近で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたという。

A vassal of the Shogun who became a Meiji leader Residence of Enomoto Takeaki

Enomoto Takeaki (1836-1908) was gaoled for supporting the defeated Shogun's forces during the Meiji restoration, but later he was enlisted to serve the new government in several ministerial posts. He was known for his love of the spirit of downtown Tokyo.




墨堤通りが隅田川に向かってクランク状に曲がる交差点脇に小さな野球場があります。プロ野球公式戦通算868本のホームラン、13年連続を含む15回のホームラン王、1シーズン55ホームランなど、前人未到の大記録を打ち立てた元読売ジャイアンツの王貞治選手が少年時代に野球に明け暮れたのが、終戦後の1949年に「少年に明日への希望」をスローガンとして誕生した日本で最初の少年野球場の隅田少年野球場でした。墨田区に生まれた王選手は少年時代から飛び抜けた長打力があり、よくホームランボールが隅田川に飛び込んでいたために虫取り網で拾っていたそうです。隅田公園少年野球場の入り口ゲートには、王選手の代名詞とも言える一本足打法のレリーフが掲げられています。

隅田公園少年野球場

この少年野球場は、昭和二十四年戦後の荒廃した時代に「少年に明日への希望」をスローガンとして、有志や子ども達の荒地整備による汗の結晶として誕生した日本で最初の少年野球場です。以来数多くの少年球児がこの球場から巣立っていったが、中でも日本が誇る世界のホームラン王巨人軍王貞治氏もこの球場から育った一人です。




ポイント3 見番通り

交差点の先から道路は二手に分かれ、右側の道路は「見番通り」となります。通りの入口付近に置屋の見番所があるところから付けられたようです。「置屋」とは、芸者や遊女を抱えている家のことで、料亭・待合・茶屋などの客の求めに応じて芸者や遊女を差し向けるところです。「見番」とは、その土地の料理屋・芸者屋・待合の業者が集まってつくる三業組合の事務所の俗称をいいます。また、芸者を登録したり、客席に出る芸者の取り次ぎをしたり、玉代の計算などの事務を扱うこともあります。



向嶋墨堤組合は見番のようなので、これが通りの名前の由来になったのでしょう。

向嶋墨堤組合

江戸中期になると社会も安定し、連歌や俳諧などの会席が料理茶屋で開かれるようになった。こうした宴の席に華を添えるため、踊りや唄で客をもてなす芸妓が現れ、花柳界が誕生。以降、幕末まで大いに栄えた。しかし、明治に入ると、急速な近代化の中でこうした「江戸情緒」は徐々に失われていく。伝統や文化の喪失を惜しむ多くの文化人は、風光明媚な向島に居を移し、新たな文学や芸術を創造し、花街もかつての賑わいを取り戻していった。粋な空間で楽しむ「お座敷遊び」は、文人墨客に愛され、やがて一般の人にも波及していった。向島には、今なお料亭のお座敷と芸妓、舞や唄などの伝統芸能が脈々と継承されており、一種独特の文化圏が保たれている。向嶋墨堤組合は、料亭、置屋、芸妓衆など花街の統括管理が主な業務で、平成二十四年3月現在、16軒の料亭が加盟し、100名を越える芸妓衆が登録している。規模は都内随一で、作法、所作に始まり、お座敷でのおもてなしの心を身につけるために、西川流や猿若流などの日本舞踊の他、鳴物、清元、長唄、常磐津、笛を専属の師匠について修練している。

Affiliates include 16 restaurants and more than 100 geigi performers
Mukojima Bokutei Cooperative

Mukojima managed to resist the wave of modernization that swept Japan in the Meiji era, and retains the spirit of old Edo to this day. The Mukojima Bokutei Cooperative works to preserve the historical district, schooling geigi-performing artists in the traditional arts and overseeing traditional restaurants.




見番通りに面して、「長命寺桜もち」の由来となった長命寺があります。長命寺は、元和元年(1615年)頃の創建と伝えられる天台宗延暦寺末で、古くは宝寿山常泉寺と号していました。寛永年間(1624年〜1644年)に三代将軍家光がこの辺りに鷹狩りに来た際、急に腹痛を起こしましたが、住職が加持した庭の井の水で薬を服用したところ痛みが治まったので、長命寺の寺号を与えたといわれています。今も長命水石文や復元された井戸が残っています。



長命寺は、隅田川七福神のうち弁財天を安置しています。

長命寺 弁財天

当寺の寺号の由来については、有名な故事がある。その昔、三代将軍家光が墨水沿岸で鷹狩を行った際、急に病を催し、止むを得ずこの寺で休息することになった。そして境内の井戸水で薬を服用したところ、たちまち快癒したので、家光は霊験に感じ、長命水の名を捧げた。以後、長命寺と改めたのである。長命寺に弁財天をまつるのは、その長命水に関係がある。弁財天はもともと天竺の水の神であったからである。佛教とともに渡来してきてからは、次第に芸能の上達や財宝をもたらす信仰が加わり、七福神唯一の女性神になったのである。




境内には、松尾芭蕉句碑・十返舎一九の狂歌碑・著名人の墓など多くの石碑があります。松尾芭蕉の「いざさらば」の句碑は、芭蕉が44歳の貞亨四年(1687年)、「笈の小文」の旅の途中に名古屋の夕道邸で開かれた「雪見句会」で詠まれた句です。
   いささらは 雪見にころふ 所まて
雪で滑って転ぶところまで手に手をとって、雪見に出かけようというような意味らしいです。雪の上で下駄を履いて歩くと、下駄の歯と歯の間に詰まった雪が雪だるまのようにだんだんと大きくなり、やがて歩けないほど雪塊が大きくなって雪上の下駄履き散歩人は転んだりします。雪で滑って転ぶのではなく、下駄に付いた雪のせいで転ぶのです。

芭蕉雪見の句碑

芭蕉の句碑は、全国で千五百余を数えるといわれますが、その中で「いざさらば 雪見にころぶ 所まで」と刻まれたこの雪見の句碑は、最もすぐれた一つといわれています。松尾芭蕉の門人祇空はこの地に庵をつくり、その後、祇空の門人自在庵祇徳は、庵室に芭蕉像を安置し、芭蕉堂としました。そして、三世自在庵祇徳が安政五年(1858年)に庵を再興し、この句碑を建立したのです。芭蕉は寛永二十一年(1644年)伊賀上野に生まれ、のちに江戸深川六間堀に芭蕉庵を構え、談林派から出て俳諧の境地を高め、「さび」「しおり」「かるみ」に代表される蕉風を不動の地位にしました。元禄七年(1694年)旅先の大阪で没しましたが、其角など数多くの門弟を輩出しています。




石碑が3基並んでいます。一番右側の石碑は、浮世絵師の勝川春英を顕彰するために建てられた「勝川春英翁略伝の碑」です。

<墨田区登録文化財>
「勝川春英翁略傅」の碑

勝川春英は宝暦十二年(1762年)に生まれ、新和泉町(現在の中央区日本橋)に住し、久徳斎と号した勝川派の絵師です。勝川春章の門人で、相撲絵と役者絵を得意とし、兄弟子春好のあと勝川派を牽引しました。文政二年(1819年)五十八歳で没し、浅草善照寺に葬られました。右の碑は、文政八年(1825年)春英の七回忌に門人たちにより建立された顕彰碑です。題額と撰文は江戸時代後期の国学者石川雅望によります。碑文には、冒頭に春英の出自と生没年、続いて春英の人柄やそれにまつわるエピソードが紹介され、最後に建碑の趣旨で締めくくら れています。春英伝の基本史料に位置づけられる貴重な石碑です。勝川派は役者絵や相撲絵を得意とし、人物の個性を生かした表現で人気を博しました。また、春英とは同門の春朗は勝川派を離脱した後に様々な画境を拓き、のちに北斎と号しました。

The monument of the biographical sketch of Katsukawa Shun-ei

Katsukawa Shun-ei was born in 1762 and trained as an ukiyo-e artist under Katsukawa Shunsho, with the pseudonym of Kutokusai. He succeeded his senior pupil Shunko who had taken over from Shunsho, leading the Katsukawa School and died in 1819 at the age of 58. In 1825, 6 years after Shun-ei's death, his disciples erected the monument. The text was formulated by Ishikawa Masamochi, a scholar in Native Studies in the latter period of the Edo era. The text introduces Shun-ei's year of birth and death, his personality and episodes in his life. In addition, it states the reason for the erection of the monument. It is considered a fundamental historic material of Shun-ei biography. The Katsukawa School was good at actors and sumo wrestlers' prints and their unique profile depiction caught on at that time. Shunro who later used the pseudonym of Hokusai, trained at the same school as Shun-ei and produced various genres of work after leaving the Katsukawa School.




安田善次郎と共に、現在の明治安田生命保険相互会社を設立した成島柳北の石碑がレリーフ入りで建っています。成島柳北は、幕末の江戸幕府で将軍侍講・奥儒者・文学者となり、明治時代にはジャーナリストとして活躍しました。森家の養子となり大目付となった次兄の森泰次郎の孫に俳優の森繁久弥がいます。

成島柳北の碑

成島柳北は幕末明治の随筆家であり、実業家です。天保八年(1837年)江戸に生まれました。十八歳のとき、家職をついで侍講に進み、将軍家茂のために経書を講じました。慶応元年以来次第に重んぜられ外国奉行となり、会計副総裁に進み、幕政に加わりました。幕府崩壊とともに職を退き向島の地に暮らしました。明治五年東本願寺の法主に従い訪欧、翌年に帰朝後、公文通誌が朝野新聞と改題され、紙勢を拡張する機会に社長として迎えられ、雑録欄を担当して時事を風刺し、大いに読者を喜ばせました。また、外遊の折、修得した生命保険制度の知識を生かし、日本の生命保険制度の草分けである「共済五百名社」(明治安田生命の前身)の創立に協力。明治十七年(1884年)十一月三十日、四十八歳で没しました。この碑は実業家としての柳北の功績を記念し、明治十八年に建立されました。




石碑が沢山並んだ一番奥の土盛りの上に出羽三山信仰の碑が置かれています。区の文化財指定を受けた貴重なものです。建立の目的は不明ですが、向島・本所北部と浅草に及ぶ隅田川両岸地域における出羽三山信仰と地域住人の結びつきを示しています。

<墨田区登録文化財>
出羽三山の碑

出羽三山は、山形県のほぼ中央に連なる月山、湯殿山、羽黒山の総称で、古来より山岳信仰や修験道の霊場として発展してきました。本碑は文政十一年(1828年)四月に建立されましたが、この時期を含む江戸時代後期には、主に東北、関東地方で講を組織する人々が増え、江戸においても三山登拝を行う人々が少なからずいたといわれています。本碑は、盛土をして高くした上に建てられています。当初の建立地は不明ですが、長命寺によれば、大正十二年(1923年)頃にはすでに現在地にあったようです。碑の正面中央には、胎蔵界大日如来を表す種子アーンクと「湯殿山」の文字が彫られています。そして、向かって右側に阿弥陀如来を表す種子キリークと「月山」の文字を、左側には観世音菩薩を表す種子サと「羽黒山」の文字をそれぞれ配しています。また、左下には揮毫者と思われる「空居」の号が刻まれています。出羽三山を崇拝し祀る習慣の定着が、こうした石碑の建立につながったと分かります。一方、裏面には、日付とともに建立に関係した人々七十九名の名前が居住地ごとに刻まれています。中には判読困難な文字もありますが、浅草、大畑村、請地村、寺嶋村、寺嶋村新田、須崎村、小梅村、中之郷村の人々の名前を確認することができます。江戸時代後期に隅田川をはさむ向島・本所北部と浅草方面に出羽三山信仰が普及し、そこに暮らした人々が信仰を共有していたことがうかがえます。現在区内では、出羽三山信仰に関係する資料の発見例が少ないため、本碑は貴重な資料といえます。




雑草に埋もれて、女優・歌手の木の実ナナさんの小さな歌碑が建っています。木の実ナナさんは墨田区東向島の鳩の街と呼ばれた歓楽街近くの出身です。歌手としては、1982年の五木ひろしとのデュエット曲「居酒屋」が大ヒットしました。

木の実ナナ

風のように踊り
  花のように恋し
     水のように流れる




長命寺の直ぐ先に弘福寺があります。弘福寺は黄檗宗の寺院で、山号は牛頭山、本尊は釈迦如来です。江戸時代前期の延宝元年(1673年)に黄檗宗の僧鉄牛道機により開山され、稲葉正則が開基となって香積山弘福寺を現在地に移して建てられました。黄檗宗は、日本の三禅宗のうち、江戸時代初期に来日して明朝復興を願った隠元隆gを開祖とする一宗で、本山は隠元隆gが開いた京都府宇治市の黄檗山萬福寺です。江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であり、関東大震災で罹災しましたが、昭和八年(1933年)に再建されました。



門前に、「淡島寒月旧居跡」の案内板があります。

淡島寒月旧居跡

淡島寒月
(安政六年【1859年】10月23日[11月17日とも]〜大正十五年【1926年】2月23日)
明治の趣味人。作家、画家でもある。父親も趣味人である画家の淡島椿岳。井原西鶴を再評価し、そのよさを幸田露伴や尾崎紅葉に説き、世に出すきっかけを作った。

父の淡島椿岳は、江戸時代に大流行した軽焼きせんべいの名店「淡島屋」を経営する実業家で大地主であった。また、知識欲が旺盛で、画を学び、ピアノを買って演奏会を開く趣味人でもあった。明治十七年(1884年)、向島の弘福寺地内に隠居所を建てて住んだ。息子の寒月は西鶴再評価のきっかけをつくり、趣味人として、新聞や雑誌に寄稿。実体験をベースにした小説や江戸にまつわる話などを洒脱なタッチで著わし好評を博した。明治二十六年(1893年)頃、父の使っていた隠居所を梵雲庵と名づけ隠居。「梵雲庵寒月」と号し、悠々自適な生活に入る。夏目漱石の「我が輩は猫である」に水島寒月という学者が登場するが、モデルは寺田寅彦で、名前は寒月から採ったといわれている。収集家としても有名で、梵雲庵には三千余の玩具と江戸関連の貴重な資料があったが、関東大震災ですべて焼失されてしまった。

A multi-talented author and artist
Residence of Awashima Kangetsu

Awashima Kangetsu (1859-1926) is known for both his literature and paintings. His father, Chingaku, was also a painter. He helped popularize the works of Ihara Saikaku in the course of mentoring novelists Koda Rohan and Ozaki Koyo. He is also said to have inspired Natsume Soseki's use of the name "Mizushima Kangetsu" in the novel I am a Cat.




弘福寺の梵鐘は墨田区で確認されている最古のもので、貞享五年(1688年)6月に鋳造されました。現在の鐘楼は安政大地震で倒壊後、昭和八年(1933年)5月に再建されたものです。梵鐘は江戸時代の地誌「江戸名所図会」や「新編武蔵風土記稿」などにも登場し、人々によく知られていました。



亀の上に石碑が乗っています。鳥取藩八代藩主池田斉稷の亀趺の墓碑ですが、お墓は関東大震災を機に、昭和五年(1930年)に鳥取藩主池田家墓所に改葬されました。



境内の小さな祠には、石造りの爺像と婆像からなる「咳の爺婆尊」が祀られていて、風邪やインフルエンザの予防を祈願する参拝者が訪れています。制作した江戸時代の禅僧風外の名が「風(邪)の外」に通じるとして、風邪除けのご利益があると信じられるようになりました。きっとコロナにも効果抜群だったことでしょう。



弘福寺には、隅田川七福神の布袋像が祀られています。「墨田川七福之内 布袋尊」と彫られた石碑の隣には、七福詠碑が置かれています。

  何々や 袋の中の 年の卒 七福詠」

隅田川七福神は、文化年間(1804年〜1818年)造園の向島百花園に集った文人達の発案とされています。百花園主の佐原鞠塢が所有していた福禄寿の陶像にちなみ、正月の楽しみごととして機知を働かせ、北から毘沙門天(多聞寺)、寿老神(白鬚神社)(そのものがご神体なので寿老人ではなく、寿老神)、福禄寿(向島百花園)、弁財天(長命寺)、布袋尊(弘福寺)、恵比寿・大国神(三囲神社)を七福神として結びつけたと伝わっています。明治三十一年(1898年)、向島の人々が榎本武揚ら著名人を巻き込んで隅田川七福会を結成し、一巡り約4kmの順路が整備されました。明治四十一年(1908年)には、当時の政府要人が揮毫した七福神案内碑が建立され、今日に至るまで多くの参拝客が訪れています。七福神の各尊像は、現在正月元旦から七草までの間のみ開帳されています。

隅田川七福神コース案内板
弘福寺 布袋尊

黄檗宗弘福寺は、三百余年の昔、名僧鉄牛禅師によって創建された。黄檗宗は禅宗の中でも中國色の強い宗派として知られ、当寺に布袋尊の御像が安置されたのも、実はその黄檗禅の性格に深くかかわるのである。布袋尊は、唐時代の実在の禅僧である。常に大きな布の袋を持ち歩き、困窮の人に会えば袋から財物を取り出しては施し、しかも袋の中身は尽きるきることがなかった。その無欲恬淡(てんたん:物事に執着しないこと)として心の広い人柄は、真の幸福とは欲望を満たすことだけではないことを、身をもって諭した有徳として、世人の尊崇を受け、七福神としても敬われたのである。




見番通りに面して赤煉瓦塀があります。今は駐車場になっているようですが、煉瓦工場にしては狭すぎるし、個人宅にしては立派過ぎるし、元は何だったのでしょうか?



見番通りに面して三囲神社(みめぐりじんじゃ)があります。墨田区の案内板には次のように紹介されています。

三囲神社

元禄六年(1693年)の江戸かんばつの折、俳人・宝井其角が句を詠み奉納すると、翌日大雨が降ったと伝えられています。境内には、「雨乞いの句碑」があります。また、隅田川七福神の恵比寿・大国神が祀られています。

Mimeguri-jinja Shrine (Sumidagawa-shichifukujin)

Haiku poet Takarai Kikaku is said to have dedicated a reading of his poem here as an offering during the Edo drought of 1693, triggering a great rain the following day. The shrine's precincts include a haiku-inscribed statue memorializing this event. The shrine is dedicated to Daikokuten (the god of wealth, farmers, agriculture, rice, and the kitchen) and Ebisu (the god of fishermen, good luck, and workingmen), two of the seven gods of fortune associated with the Sumida-gawa River.


三囲神社の創立年代は不詳ですが、当初は田中稲荷と称していました。言い伝えによれば、近江国三井寺の僧源慶が当地に遍歴した際に小さな祠のいわれを聞き、社壇を改築しようと掘ったところ壺が出土しました。その中に、右手に宝珠を、左手にイネを持ち、白狐に跨った老爺の神像がありました。このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神像の回りを3度回って死にましだ。これが「三囲」の名称の由来とされています。元禄六年(1693年)に起きた旱魃の際、俳人宝井其角が偶然当地を訪れました。地元の人々の哀願により、この神に雨乞いする者に代わって、「遊(ゆ)ふた地や 田を見めくりの 神ならは」と一句を神前に奉ったところ、翌日になって雨が振りました。このことから三囲神社の名は広まり、松阪の豪商・三井氏が江戸に進出した際に守護神として崇め、越後屋の本支店に分霊を奉祀しました。元々は牛嶋神社の隣にありましたが、洪水で流され、隅田川に堤が築かれることになった時に南へ少し移動しました。その堤のために、対岸から見ると鳥居が堤から奇妙に頭だけ出しているように見え、浮世絵などに好んで描かれました。

三囲神社

弘法大師が祀ったという田中稲荷が始まりとされる。当時は、現在地より北の田んぼの中にあった。文和年間(1352年〜1356年)に近江の三井寺の僧である源慶が社を改築した折、土中から白狐にまたがる老翁の像を発見。その像の周りをどこからともなく現われた白狐が、三度回って消えたという縁起から「三囲」の名がつけられた。三井家は江戸進出時にその名にあやかって守護神とし、平成二十一年(2009年)に三越池袋店の閉店に伴い、シンボルだった青銅製のライオン像が境内に移設された。日照りが続いていた元禄六年(1693年)、俳人宝井其角が能因法師や小野小町の故事に倣い、「ゆたか」を頭字に詠みこんだ

   「ゆふだちや 田を見めぐりの 神ならば」

の句を献じたところ、翌日には雨が降り評判になったという話が伝わっている。

Home to the guardian deity of the Mitsui family
Mimeguri Shrine

This shrine was choosen by the great merchant family Mitsui when they started operating in Tokyo. "Mimeguri" means "three times around". It derives from a 1300s legend about a priest Genkei in West Japan who witnessed a magical white fox running around a recently unearthed sculpture of an old man mounted on a white fox three times, and then disappearing.




神社の石垣には、三越の創始者だった日比美勲の歌が彫られています。

日比翁助 石垣の歌碑

   いしがきの 小石大石持合ひて 御代は
      ゆるがぬ 松ヶ枝の色          日比美勲

日比翁助は号を美勲と称し、三越呉服店の会長・わが国近代的百貨店の創始者であった。茲来百年、松を新たに植え、旧観を復した。




鬼平犯科帳でも登場しています。

三囲神社(三囲稲荷社)

三井家(越後屋)が江戸進出時に三囲の名にあやかって守護神としました。港区にあった三井八郎右衛門邸が小金井市の江戸東京たてもの園に移築される際には、屋敷神であった顕名霊社、三角鳥居、家紋の入った水鉢などが寄贈されました。鬼平犯科帳にも数回、登場しますが、特別長編「迷路」の「妙法寺の九十郎」には、三囲稲荷社は、大川の堤の道を一段下った鳥居から田圃の中を松並木の参道が東に伸びた先にあり、境内は広くはないが、美しい木立と竹林に囲まれ、本社は立派なものであると、当時のたたずまいが描かれています。




三囲神社と横道を挟んだ反対側に「すみだ郷土文化会館」があります。

すみだ郷土文化資料館

隅田川を中心とした墨田区の歴史伝統文化を紹介し、その遺産を継承していくことを目的とした「ふるさと博物館」。保存資料はもとより、模型やマルチメディアなどを駆使しさまざまな趣向をこらして紹介されています。

Sumida Heritage Museum

This hometown museum was established to introduce visitors to the history and traditional culture of Sumida Ward with a focus on the Sumida River, thereby helping ensure that the area's rich legacy will be passed on to future generations. Visitors can enjoy a range of preserved historic materials as well as elaborate exhibits including models and multimedia displays.




入口の脇には、戦争中に墨田区で使用されていた防火用水の石桶が展示されています。

防火用水
岡本郁雄氏寄贈

防火用水は、空襲による被害を防ぐ目的で設置された用水桶です。戦時期に各家に配られた防空マニュアル「時局防空必携」(大日本防空協会発行)には、「空襲は必ず受けるもの」として、一戸あたり100リットル以上の水を常備する必要性が記されており、自治体や町会の指導の下で数多くの防火用水が設置されました。展示している防火用水は、本所区(現墨田区)東駒形の岡本家に昭和十七年〜昭和十八年(1942年〜1943年)ころ設置されたもので、戦時中はこの用水を用いて頻繁に防空訓練が行われていました。しかし、昭和二十年(1945年)3月10日の東京大空襲では、300機以上ものB29爆撃機によって想定をはるかに超える量の焼夷弾が投下され、猛火が町を襲ったため、用水の備えは全く役に立たなかったそうです。寄贈者の岡本氏は空襲の際、関東大震災の記憶を持つ母親の機転で、あらかじめ地域で決められていた避難所に避難せず、人の避難する方向とは反対の場所に避難したため、一命をとりとめましたが、住居は全焼し、この防火用水だけが焼け跡に残りました。戦後、多くの防火用水は廃棄され、現在では目にすることが難しくなっていますが、東京都内で最も大きな空襲被害を受けたこの地域の戦争の記憶を後世に伝える、貴重な資料であるといえます。




すみだ郷土文化資料館がある場所には、かって佐多稲子が住んでいました。

佐多稲子旧居跡

本名:佐田イネ(明治三十七年【1904年】6月1日〜平成十年【1998年】10月12日)
「キャラメル工場から」を雑誌「プロレタリア藝術」に発表。プロレタリア文学の新しい作家として認められる。戦後は、婦人民主クラブの創立に奔走、民主化運動に貢献した。作品は映画やテレビドラマになったものもある。昭和五十九年(1984年)に朝日賞受賞。

小学生の頃から利発な文学少女であったが、11歳の時に、結核で亡くなった母の治療費や父の放蕩などで家計はひっ迫。叔父を頼って、父、祖母とともに長崎から上京、向島小梅町52番地(現在、隅田公園内)の家に身を寄せることになる。牛嶋尋常小学校5年に転入したものの、家計を助けるために、キャラメル工場で働かなければならず、結局、小学校は5年で中退してしまった。その後、料亭、工場、書店などで働きながら、小説や短歌を投稿。これらの経験が、後に「キャラメル工場から」という作品にまとめられ、出世作となった。戦後、すぐに書かれた自叙伝ともいえる「私の東京地図」には、長く暮らした向島周辺のことが書かれている。「私の地図の、江戸案内の版画的風景には、三囲神社も書かれている。いつもひっそりとしていた神社だ。淀んだどぶ池のそばに、閉めたままの障子の白さを見せていたのは其角の家だ、と子ども心にも知っていた」

A leading figure in women's proletarian literature
Residence of Sata Ineko

Sata Ineko (1904-1998) launched her career with the novella From the Caramel Factory, and soon became part of the new wave of proletarian literature. After WWII she strove to establish the Women's Democratic Club, contributing significantly to the democratization movement in Japan.




隅田公園に入ります。墨田区の案内板には次のように紹介されています。

隅田公園

隅田川をはさんで、墨田区と台東区にまたがる臨水公園。墨田区側は旧水戸藩屋敷の日本庭園を含む都内有数の桜の名所として知られる。園内には、「牛嶋神社」「常夜灯」「墨堤植桜之碑」「藤田東湖の詩碑(正気之歌)」等がある。

Sumida Park

This park lies in both Sumida and Taito. The Sumida side contains a Japanese garden, once part of the feudal residence of the powerful Mitoclan, that is renown for its cherry blossoms. Within the park are Ushijima shrine, stone lantern, and two memorial stele. One is dedicated to the planting of cherry trees, and another is a poem (Shoki-no-uta) by Fujita Tohko.


墨田区で公営の魚つり場は、大横川親水公園魚つり場と隅田公園魚つり場の2ケ所だけです。隅田公園魚つり場は、昭和五十二年に子供達が釣りを楽しめるようにと設置されました。円周約80m・水面面積約240uで、墨田区では大横川親水公園魚つり場(延長約130m・幅8m・水面面積約1、040u)と共に貴重な区営の釣場となっています。しかし、利用者の低迷や施設の老朽化によって現状の見直しが行なわれ、令和八年度末をもって魚つり場は閉鎖され、跡地は子供が楽しめる水施設や来園者が交流できる広場となる予定です。尚、大横川親水公園魚つり場は全面リニューアルが予定され、令和九年度からは現在の1/2から1/3程度の規模に縮小され、かつ有料施設として運営されることになっています。墨田区の魚つり場は大横川親水公園に集約されることになります。



墨田区側の隅田公園は、言問橋を挟んで南北に分かれています。言問橋の下にはアンダーパスがあり、橋を横断する必要はありません。隅田公園は桜の名所として知られていますが、それには長い歴史がありました。

隅田公園の歴史は植桜の歴史
隅田公園の歴史解説

“隅田堤(墨堤)の桜”は八代将軍吉宗の時代に木母寺に植えられ、花見の名所として地元有志に受け継がれて南に延びていき、明治時代には枕橋にまで到達しました。関東大震災(大正十二年【1923年】)ではほとんどの桜が消滅しましたが、幅員33mの3列の桜並木(ブールバール)を有する日本初のリバーサイドパークとして、昭和六年(1931年)に隅田公園が整備されました。その後、防潮堤の嵩上げや首都高速道路の建設などで昭和四十年(1965年)代に公園の姿は大きく変わりましたが、それらの植桜の営みを引き継ぎ、平成になると桜を愛する人々の寄付によって生育環境の改善を図るとともに、園内に新たな桜を植栽しています。現在も地元有志による桜の保全活動が続けられており、1キロに及ぶ桜の景観が楽しめる公園として、次代に守り伝えようとしています。

"The history of Sumida Park is interwoven with
the cultivation and establishment of cherry blossom (sakura)"
Sumida Park History Description

The cherry blossom of Sumida Tsutsumi (Bokutei), referred to as Sumida Tsutsumi (Bokutei) no sakura in Japanese was planted at Mokuboji Temple during the reign of the eighth shogun (1684-1751), Tokugawa Yoshimune. Local volunteers established the cherry blossom of Sumida Tsutsumi as a cherry blossom viewing spot, and extended them to the south, the cherry blossom finally reaching Makurabashi by the Meiji era. In 1923, during the 12th year of Emperor Taisho's reign, the Great Kanto Earthquake destroyed most of the cherry blossom. Sumida Park was built in the 6th year of the Showa period (1931) as the first riverside park in Japan. Three lines of cherry blossom on the boulevard extend 33 meters wide. The rise of seawalls and the building of the Metropolitan Expressway, during the 40th year of the Showa period (in 1965), greatly changed the figure of the park. However, local volunteers who had taken over cherry blossom planting worked to beautify the Park again. Entering the Heisei era (around 1989), donations by people who love cherry blossoms I have improved the growing environment and promoted the planting of cherry blossoms in the park. Local volunteers are still working diligently to protect and pass down the tradition of cherry blossom planting and viewing in the park, which has resulted in a beautiful cherry blossom landscape extending over 1 kilometer.




公園の中央にはひょうたん池があります。ひょうたん池の中央にある中島は、よく見ると「亀」のように見えます。日本庭園によく見られる不老不死を願う施主の気持ちが表れている石組です。



ポイント4 牛嶋神社

隅田公園(南側)の北端に面して牛嶋神社があります。墨田区の案内板には次のように紹介されています。

牛嶋神社

本所牛嶋の総鎮守社。境内には「なで牛」があり、心身快癒の祈願物として信仰されています。また、5年に1度の大祭では、鳳輦(牛車)を中心とする古式豊かな行列が、氏子五十町安泰祈願巡行を行います。

Ushijima-jinja Shrine

The precincts of Ushijima-jinja Shrine, the head Ushijima-jinja shrine, include a statue known as Nadeushi, or the "Touching Cow", which visitors touch while praying for physical and emotional healing. Once every five years, a procession incorporating a number of ancient rites centering on an elaborate ox-drawn cart winds its way through the surrounding area to pray for the peace and safety of its residents.


牛嶋神社は、貞観年間(859年〜879年)頃に慈覚大師が一草庵で素盞之雄命の権現である老翁に会い、牛御前と呼ぶようになったと伝えられています。かつては隅田公園の北側にありましたが、公園の工事のため昭和七年に現在の場所に移りました。本所の総鎮守として知られ、9月15日には例大祭が催されます。

牛嶋神社

貞観二年(860年)に慈覚大師が、御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請創祀したと伝えられる本所の総鎮守。関東大震災で焼失する前は墨堤常夜燈の東側にあった。昭和七年(1932年)に隅田堤の拡張により、現在の場所に再建された。本殿の左右に、牛神が奉納されている他、建長三年(1251年)には牛鬼が社中を走り回り、落として行った牛玉を神宝としたという伝承も残る。また境内には、江戸中期から後期の国学者・加藤千浪の碑や江戸落語を中興したといわれる立川(鳥亭)焉馬(1743年〜1882年)の「いそかすは 濡まし物と 夕立の あとよりはるゝ 堪忍の虹」の狂歌碑などがある。5年に一度の例大祭は、牛が引く鳳輦を中心に古式ゆかしい祭列が、向島から両国に広がる氏子の町内を2日かけて巡り、本所2丁目の若宮公園内にある御旅所で1泊する。返礼の町神輿の宮入れは50基が連なる都内最大の連合渡御となる。

Ushijima Shrine

This is the head shrine of the Honjo neighbourhood, founded circa 860 AD by the great Buddhist leader Jikaku. Legend has it that in 1251 the shrine was visited by a bull demon which dropped a knot of hair as it ran around the shrine, and the knot was enshrined as a sacred treasure. The legend is commemorated in the statues of cattle deity that flank the main shrine building.




本殿前には全国的に珍しい三輪鳥居(三つ鳥居)が建っています。

墨田区登録有形文化財
牛嶋神社社殿・牛嶋神社神輿蔵

牛嶋神社は、元来弘福寺の西隣(向島五丁目)に所在しましたが、関東大震災後、帝都復興計画事業に伴い区画整理が実施された際、当地に遷座しました。その際新築されたのが、現在の社殿と神輿蔵です。

@−墨田区登録有形文化財「牛嶋神社社殿」
本殿、幣殿、拝殿から成る木造複合社殿で、地元の棟梁石川梅吉によって建築され、昭和七年(1932年)に竣工しました。最奥に位置する本殿は入母屋造・銅板瓦棒葺(正面三間、側面三間)で、組物は禅宗様を基調としています。板支輪や蟇股等に亀や鯉、鶯などの彫刻が施されており、全体的に装飾性が高い建築となっています。また、中央に位置する幣殿は両下造・銅板瓦棒葺(正面三間、側面五間)、最前に位置する拝殿は入母屋造・銅板瓦棒葺(正面七間、側面四間)となっており、拝殿正面にはそれぞれ三間の向拝と千鳥破風が取り付けられています。この建物の特徴は、基礎に亀腹を捺すコンクリート造の布基礎です。これは、地震による建物倒壊の危険を緩和する効果をねらったものと考えられます。

A−墨田区登録有形文化財「牛嶋神社神輿蔵」
境内東辺縁部に建てられています。正面二間の切妻造妻入の建物の両側に、幅五間の切妻造の建物が接続した鉄筋コンクリート造の建物です。昭和初期の建物とみられています。この建物は、参道から見る外観を木造瓦葺風に仕立てることで境内景観の統一を図る一方、耐震・耐火性も合理的に満たすよう工夫されたことがうかがわれます。これら二つの建物は、伝統的な建築形式に近代技術を調和させた優れた近代神社建築と評価され、平成三十年十一月八日に墨田区登録有形文化財に登録されました。




境内の「撫牛」は自分の悪い部分と牛の同じ部分を撫でると病が治るという信仰で、肉体だけでなく心も治るという心身回癒の祈願物として有名です。

(墨田区登録文化財)
撫牛

撫牛の風習は、江戸時代から知られていました。自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというものです。牛嶋神社の撫牛は体だけではなく、心も治るというご利益があると信じられています。また、子どもが生まれたときよだれかけを奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するという言い伝えもあります。この牛の像は、文政八年(1825年)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったようです。明治初期の作家、淡島寒月の句に「なで牛の石は涼しき青葉かな」と詠まれ、堀辰雄は「幼年時代」で「どこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった」と記すように、いつも人々に愛されてきました。




境内の入口脇に石碑が並んでいて、その中に江戸落語を中興したといわれる鳥亭焉馬の狂歌碑があります。

<墨田区登録文化財>
烏亭焉馬「いそかすは」の狂歌碑

「いそかすは(がずば) 濡れまし(じ)物と 夕立の
  あとよりはるゝ 堪忍の虹」    談洲楼烏亭焉馬

この狂歌碑は裏面にあるとおり、初世烏亭焉馬自身が文化七年(1810年)に建てた碑です。江戸落語中興の祖と称された烏亭焉馬は本名中村利貞、字は英祝、通称は和泉屋和助です。寛保三年(1743年)生れ、本所相生町五丁目(現 緑一丁目)の大工の棟梁で、狂歌や戯文をよくする文化人としても有名でした。談洲楼の号は五世市川団十郎と義兄弟の契りを結んだことから団十郎をもじったもの、また竪川に住むことから立川焉馬、職業が大工であることから「鑿釿言墨曲尺」とも号しました。元禄時代にひとつの話芸として確立された落語も、その後衰えていきましたが、天明四年(1784年)に向島の料亭武蔵屋において、焉馬が自作自演の「噺の会」を催し、好評を得たことから江戸落語が盛んになっていきました。寛政末年頃には現在の落噺の形が完成し、明治に入って落語という呼び方が定着しました。文政五年(1822年)八十歳で亡くなり、本所の最勝寺に葬られました。
(現在は寺・墓共に江戸川区平井に移転)。




奈良時代には、この地には牧場がありました。

江戸・東京の農業 浮島の牛牧

文武天皇(701年〜704年)の時代、現在の向島から両国辺にかけての牛島といわれた地域に、国営の牧場が設置されたと伝えられ、この周辺もかつては牛が草を食んでいたのどかな牧場で、当牛嶋神社は古代から牛とのかかわりの深い神社でした。大宝元年(701年)大宝律令で厩牧令が出され、平安時代までに全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、天皇の意思により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置され、この付近(本所)にも官牧の「浮嶋牛牧」が置かれたと伝えられています。時代は変わり江戸時代、「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増えることとなりました。明治十九年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、本所区の太平町、緑町、林町、北二葉町と、本所でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。とりわけ、現在の錦糸町駅前の伊藤左千夫「牛乳改良社」や寺島の「大倉牧場」は良く知られています。

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Ukishima Dairy Farm

In the era of the Emperor Monmu (701-704), national cattle farms were said to have been established in the area of so-called Ushijima (Cow Island) which is from Mukojima toward Ryogoku at the present. Since 701, as many as 39 national and 32 Imperial cattle farms were established throughout Japan. Here, in Honjo, was also one of the national farms called 'Ukishima Dairy Farm'. With the introduction of western civilization in the late Edo Era and the resulting increase in demand for dairy products, there were at the peak time a number of dairy farms in Honjo area at the beginning of Meiji Era. Herds of cattle were lazily grazing over the pastures around this shrine.




公園の東の縁に、小説家の堀辰雄の案内板があります。

堀辰雄ゆかりの地

堀辰雄は明治三十七年(1904年)、麹町平河町(現在の千代田区平河町)に生まれました。二歳のとき、母志気に連れられ向島小梅町(現在の向島三丁目)に住む叔母の家に移りました。その後、明治四十一年に母が彫金師上條松吉と結婚し、向島中ノ郷町三十二番地(左図@)で暮らしはじめます。 更にその二年後には大水の影響で新小梅町二ノ四(同A)に移り、ここから牛島尋常小学校(同A)に通います。府立第三中学校(現在の都立両国高校)を卒業した辰雄は、室生犀星の紹介により同校の先輩である芥川龍之介を知り、文学的影響を受けます。関東大震災では九死に一生を得ますが、母を亡くしました。大正十三年(1924年)四月に父松吉が隅田公園東隣の新小梅町八番地(左図B)に住居を新築し、辰雄が結婚して軽井沢へ赴く昭和十三年(1938年)まで父と共にそこで暮らしました。辰雄の夫人多恵氏は随筆「蓮の花」の中でこの家を懐かしみ、「あの竹の植わっていた小さい玄関−辰雄はそんな自分の家を「雀のお宿」と呼んでいた」と記しています。 人生の過半を向島で過ごした辰雄は、「墓畔の家」や「幼年時代」などの作品に、当時の墨堤や近隣の寺社の様子を記しています。「神社の境内の奥まったところに、赤い涎かけをかけた石の牛が一ぴき臥てゐた。私はそのどこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった。」(「幼年時代」)とあるのは、牛嶋神社境内の撫牛のことです。昭和初期の文学の傑作として高い評価を受けた「聖家族」をはじめ、「風立ちぬ」「美しい村」など愛や生死をテーマとする作品を残し、昭和二十八年(1953年)に没しました。




堀辰雄の案内板の隣に、巨大な石碑が建っています。二峯先生とは、幕末から明治時代初期にかけて活躍した書家の高林二峯です。篆額「二峯先生之碑」は勝海舟の揮毫になるものです。

二峯先生之碑

二峯先生とは、幕末から明治時代初期にかけて活躍した書家の高林二峯のことです。二峯の生涯を称える内容が刻まれたこの碑は明治三十年(1897年)八月十六日に二峯が没した翌年の三月、円通寺(押上二)に建碑され、のちに現在地に移設されました。二峯は、文政二年(1819年)九月三日に上野国後閑村(群馬県安中市)に生まれました。生誕地より望める妙義・榛名の二山にちなみ二峯と号しました。幼少より書の才を現わし、天保十四年(1843年)には幕末の三筆と呼ばれた巻菱湖に師事しようと江戸に出ました。しかし、菱湖はすでに亡くなっていたので、二峯は中国の古筆の研究を進めやがて独自の書法を確立するに至ります。二峯の書は向島百花園の「しのふつか」、「きゃうけん塚」などの碑でも見ることができます。碑文を担当したのは長男の寛です。五峯と号し、父の書風を受け継ぎ、さらに中国の書に近世の諸流を学び、独特の書風を打ち立てました。篆額「二峯先生之碑」は勝海舟(勝安房)が受け持ちました。建碑の中心となったのは、今泉雄作です。東京美術学校(現在の東京藝術大学)創立者の一人で、二峯の弟子として文峯の号を名乗りました。庶務を担当した佐羽喜六は十一才で二峯に入門した後、桐生の豪商に婿入りして佐羽氏を継ぎ、桐生の近代織物業の発展に力を注ぎました。裏面に刻まれる建碑寄付者の中には、二峯の出身地とゆかりのある前橋市長竹内勝蔵や貴族院議員江原芳平などの名も見られます。




隅田公園は、関東大震災の復興公園として整備されました。

関東大震災 復興大公園
隅田公園

関東大震災(1923年9月1日)では、火災が鎮火した要因の一つに公園緑地や広場が焼け止まりとして機能したことがわかり、公園設置の重要性が高まりました。震災復興公園として、国は「水辺の公園」の隅田公園、「工業地の公園」の錦糸公園、「商業地の公園」の浜町公園、これら3か所の大公園を整備しました。また、東京市は52か所の小公園を整備しました。大公園は、園内周囲を緑陰樹で囲み、散策や休養をしやすいように整備されたほか、園内の一角に運動施設(水泳場、競技場、運動場等)も設置され、広く一般に利用されました。墨田区には、大公園が2か所(隅田公園、錦糸公園)と小公園が6か所(当初8か所の内2か所が廃園)あります。隅田公園は隅田川を挟んで現在の墨田区と台東区にまたがって整備されました。

The Great Kanto Earthquake of 1923 Large Reconstruction Parks
Sumida Park

Following the Great Kanto Earthquake (September 1, 1923), it was found that open spaces and greenery in parks played a major role in helping to extinguish the post-earthquake fires that ravaged the city by acting as firebreaks, which in turn elevated the importance of establishing parks. The national government subsequently developed three large parks as part of reconstruction efforts: Sumida Park along the banks of the Sumida River, Kinshi Park in an area that was mainly industrial at the time, and Hamacho Park in a commercial district. Similarly, the then City of Tokyo also developed 52 small parks. Surrounded by shade trees, the large parks were designed with strolling and relaxation in mind. Also featuring athletic facilities such as pools, sports grounds, and playgrounds, the parks are widely used by the public. There are two large parks (Sumida Park and Kinshi Park) and six small parks (originally eight, but two have been closed) in Sumida City. Sumida Park was developed across the Sumida River, spanning the current Sumida City and Taito City.




開園当初の案内板の内容も添付されています。長くなりますので文字起こしはしませんが。



隅田公園は、関東大震災後の帝都復興事業により、錦糸公園・浜町公園と並ぶ「三大震災復興公園」のひとつとして整備されました。昭和五十年(1975年)に東京都から墨田区に移管され、昭和五十二年(1977年)には区政施行30周年を記念して大改修が行われました。令和七年(2025年)に完了した再整備第二期工事では、震災復興時の楕円園路の再現や、ひょうたん池の拡張による日本庭園の景観向上を通じて、歴史的・文化的価値を最大限に活用し、老朽化した施設の更新や園路の見通し確保といった安全面の改善も図り、公園のさらなる魅力向上を目指しています。

震災、戦災そして再整備

大正十二年(1923年)9月1日の関東大震災で水戸徳川家の小梅邸は崩壊・焼失し、昭和五年(1930年)、跡地は震災復興局によって隅田公園として整備されました。隅田公園は、隅田川の両岸(本所側・浅草側)に展開し、本所側には三列の桜並木をもつ公園道路と旧小梅邸の園池を取り囲む園路と広場等が整備されました。 震災復興を代表する隅田公園も第二次世界大戦の東京大空襲によって焼け野原になり、大勢の方がこの地に仮埋葬されました。昭和三十三年〜昭和三十六年(1958年〜1961年)、公園は東京都によって復旧整備され、昭和四十六年(1971年)には公園道路上に首都高速道路が造られました。昭和五十二年・昭和五十三年(1977年・1978年)、東京都から移管を受けた墨田区は区制30周年記念事業として公園改修をし、さらに今回(平成三十年〜令和二年(2018年〜2020年))は小梅邸や震災復興公園の遺構を保存・活用しながら、浅草と東京スカイツリーを繋ぐ回廊の拠点として再整備されました。

"Earthquake, War Damage, and Redevelopment"

The Koume Residence of the Mito-Tokugawa family collapsed and was destroyed by the Great Kanto Earthquake on September 1, 1923. In 1930, the site was developed as Sumida Park by the Earthquake Reconstruction Bureau. Sumida Park was developed on both banks of the Sumida River (Honjo side and Asakusa side). On the Honjo side, a park road with three rows of cherry blossom trees, as well as a garden path and open space surrounding the garden and a pond of the former Koume Residence were constructed. Although Sumida Park was the epitome of reconstruction from the earthquake disaster, it was burnt down by the Great Tokyo Air Raids during World War II, and many people were temporarily buried here. From 1958 to 1961, the park was restored and repaired by the Tokyo Metropolitan Government. In 1971, the Shuto Expressway was constructed above the Sumida embankment. In 1977 and 1978, Sumida City, which was entrusted with the development of Sumida Park from the Tokyo Metropolitan Government, renovated the park as a commemorative project for the 30th anniversary of the city. Furthermore, currently, from 2018 to 2020, by preserving and utilizing the remains of the Koume Residence and Sumida Park that had been restored after the earthquake disaster, it is undergoing redevelopment to serve as a base for a promenade that connects Asakusa and Tokyo Sky Tree.




「東京ミズマチ」は、2020年に東武鉄道の高架下を利用してオープンした複合商業施設です。北十間川の親水テラスに面し、川面を眺めながらゆったりと食事できるレストランもあります。



枕橋を渡ります。枕橋はかって源森橋という橋名でした。その名残りで隅田川に面する水門も源森川水門と呼ばれています。



枕橋から区役所通りに入ります。墨田区役所の植え込みの中に案内板が立っています。

浩養園跡

この地は常陸谷田部藩細川氏・駿河沼津藩水野氏・越前福井藩松平氏・秋田藩佐竹氏の屋敷として移りかわり、とりわけその邸内の庭が名園として聞こえていました。文政五年(1822年)水野忠成の別邸となって、池を中心に石をふんだんに用いた林泉式庭園を築造。丘を蔡き、浅草寺五重塔・隅田川吾妻橋を望むものでした。万延元年(1860年)佐竹氏に移り、浩養園・佐竹の庭として一層有名となり、明治二十三年から一般公開もされ、多くの人々の憩いの場ともなっていました。その後、明治三十三年札幌麦酒東京工場がここに設置され、三十九年には大日本麦酒吾妻橋工場となり、煉瓦造りの建物が庭園のなかばを占めました。大正九年の工場拡張やつづく震災によって、その面影は失われました。平成に入って墨田区役所・アサヒビール本社・住宅都市整備公団ビル等も建ち、現状のようになりました。




ポイント5 The GREENMARKET SUMIDA

墨田区役所の裏手の高台広場に上がります。いろんなモニュメントが置かれていますが、意味はよく分かりません。



高台には「にぎわい広場」と「うるおい広場」というふたつの広場があります。アサヒビールタワー横の「うるおい広場」では、2016年9月末から月に1回土曜日と日曜日にGREENMARKETという日本全国のこだわりの農産物やその加工品などの食材、暮らしに笑顔が生まれるような雑貨、墨田区内の特産品などを各日約80店舗から選りすぐり、生産者と消費者が直接触れあう形のマーケット(市場)を開催しています。



訪れた日は開催日ではありませんでしたが、ネットに市場の様子が掲載されていました。



ポイント6 ASICS CONNECTION TOKYO

「ASICS CONNECTION TOKYO(アシックスコネクショントウキョウ)」は、スポーツブランドのアシックスが2017年5月に墨田区役所やアサヒビールタワーに隣接してオープンした2階建ての白いビルです。1階にカフェがあり、隅田川に面してテラス席もあります。メニューには食物繊維の多いうどんパスタや効率的に栄養が摂れるベーグルなどがあり、開放的な雰囲気で気持ち良く過ごせます。2階はフィットネススタジオとシャワー施設があります。フィットネスのプログラムは30種類ほど用意されていて、ヨガやワークアウトなどが受けられます。屋外ではインストラクター指導のノルディックウォーキングやランニングなども可能です。隅田川のコースを走るランナーにとって絶好の場所にあるランステとして、遠くから来る人にとても便利な施設として利用されていましたガ、残念ながら2021年3月末をもって閉館しました。



ゴール地点の都営地下鉄浅草線本所吾妻駅に着きました。



ということで、墨田区で六番目の「E向島を愛した文人たちの足跡を訪ねる文学散歩コース」を歩き終えました。次は墨田区で七番目のコースである「F南北縦断!のんびり寺社めぐりコース」を歩きます。




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