- F南北縦断!のんびり寺社めぐりコース
- コース 踏破記
- 今日は墨田区の「F南北縦断!のんびり寺社めぐりコース」を歩きます。スカイツリーが真っ正面に眺められるタワービュー通り・かって舟に人を乗せて曳いた交通手段の曳舟に由来する曳舟川通り・粋な向嶋の面影を残す桜橋通り・巨大防火壁を思わせる高層住宅に沿った墨堤通りを歩きます。最初に歩いたのは2022年の3月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年5月に改めて歩きました。
F南北縦断!のんびり寺社めぐりコース
全長約6kmの区内縦断コース!歩き切ったあとの達成感は格別です。東京スカイツリーや隅田川の景観、寺社めぐりなどを楽しみながら進みましょう。
「F南北縦断!のんびり寺社めぐりコース」の歩行距離は約6.0km(約8、600歩)、歩行時間は約1時間30分、消費カロリーは約270Kcalです。
スタート地点:JR総武線錦糸町駅北口
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- ポイント1 弘福寺
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風邪除けにご利益があるといわれる「咳の爺婆尊」や隅田川七福神の布袋尊を祀っています。
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- ポイント2 長命寺
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鷹狩り中に腹痛になった徳川将軍がここの井戸水で薬をのんだら快癒したことが寺の名前の由来だとか。隅田川七福神の弁財天を祀っています。
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ゴール地点:東武スカイツリーライン鐘ヶ淵駅西口
スタート地点のJR総武線錦糸町駅北口から歩き始めます。
駅前広場に面して、墨田区の巨大な観光案内板が立っています。今回のコースに含まれる弘福寺と長命寺を抜き出してみます。
弘福寺
境内には「咳の爺婆尊」があります。作者の風外和尚の名にちなみ「風外は風の外。だから風邪に効く」ということから、咳や口中の病に効くと、信仰されています。また、隅田川七福神の布袋尊が祀られています。
Kofukuji Temple (Sumidagawa-shichifukujin)
Kofukuji Temple is home to a famous Buddhist statue by Fugai Osho. Based on the sculptor's last name, which by means of a pun on the Japanese words for "wind" and "cold" (in the sense of illness) can be taken to suggest resistance to colds, pilgrims
consider the shrine to be effective in combating coughs and oral disease. The temple is also dedicated to Hotei (the god of contentment and happiness), one of the seven gods of fortune associated with the Sumida River.
長命寺
将軍家光が鷹狩りに来た時、急に腹痛をおこしましたが、住職が加持した庭の井の水で薬を服用したところ、痛みが治まったので、長命水の名をいただき、寺号も長命寺とされました。また、隅田川七福神の弁財天が祀られています。
Chomeiji Temple (Sumidagawa-shichifukujin)
This temple is said to have received its name, which means "long life", after the shogun lemitsu recovered from a sudden onset of stomach pain while hunting with his falcon upon drinking medicine with water from a well in its garden, where the chief priest had prayed. It is also dedicated to Benzaiten (the goddess of music, singing, and dancing), one of the seven gods of fortune associated with the Sumida River.
駅前広場の中央部に奇妙なドーナツ型のオブジェが吊されています。「ヘ音記号」は別名「低音部記号」といい、低い音を表すのに使われます。ト音記号の下1本の加線の音とヘ音記号の上1本の加線の音は同一音で、中央のドの音を表します。オブジェとどういう関係があるのか分かりかねますが。。。
「エコー」(へ音記号)
この作品は「音楽都市墨田区にふさわしいアート作品」という狙いと「駅の循環の場であるロータリー」とを密接に関連させて、様々な音楽的モチーフを用いて構成されています。従来楽譜には曲線が頻繁に使われています。この曲線は大変エレガントであり、私はしばしば彫刻にこの曲線をもちいます。この作品の曲線を構成するへ音記号の「対」の組み合わせは、協和音と不協和音、クレッシェンドとデクレッシェンド、といった音楽における「対」の考え方と通じるものです。協和音は耳に心地よいハーモニーであり、この作品の緊張感とバランスを保った対の形が、駅前広場に「調和」と「一致」をもたらします。タイトルは、この二つのピースが塔に繋がる5本の五線譜(ケーブル)の上で互いに反響しあっているイメージと、低音と高音との共鳴が、音色を生み出す源となるという意味を込め、”ECHO”(エコー)と名付けました。2つの塔のタイル模様は、偉大なる作曲家達の主なる音楽史をたどっています。駅側から見て西の塔は、1500年から1750年まで上から下に向けて示されており、東の塔は、1750年から2000年までを表わしています。西の塔は、各作曲家のたどる線が、一番南の角から時計と逆方向に巻き付くように描かれています。明るい色の水平線は、100年間を表わしています。
1997年 ローレン・マドソン
Loren・Madsen
北斎通りからスカイツリーまで一直線に延びる道路があります。
タワービュー通りの紹介
タワービュー通りとは、錦糸町から東京スカイツリーとを結ぶ約1200mの道路の愛称名です。この愛称名は、道路の正面にスカイツリーがきれいに見えることから、沿道の9町会の方々が選定したものです。電線類の地中化を図って整備を行い、「過去・現在・未来が出会うみち」をデザインコンセプトとして、地域ごとに道路のデザインを変化させています。こちらの、蔵前橋通りから北斎通りまでの約350mについては、墨田区ゆかりの人物、葛飾北斎をモチーフに【江戸の街】を感じさせる色彩で整備し、平成二十七年7月に完成しました。
歩道には電柱がなく、電線類が全て地中に収められていますので、通りのどこからでもスッキリした視界でスカイツリーが眺められます。
通りの右手に、世界のホームラン王と称された王選手の母校の業平小学校があります。
玄関先には、業平小学校開校100周年を記念して制作された王選手の手形と共に、式典に参加した王選手の写真も掲示されています。
タワービュー通りが浅草通りに合流する交差点の右手に「おしなりくんの家」があります。スカイツリーの周辺地域「押上・業平橋地区」をPRするキャラクター「おしなりくん」の家です。押上・業平橋地区の「押(おし)」と「業(なり)」から「おしなりくん」と命名されました。業平橋の名前の由来になった平安の歌人在原業平をモチーフに、タワーをイメージした烏帽子姿が特徴です。性格は朗らかで優しく、何事にも誠実、得意なことは誰でも笑顔にすることです。おしなりくんの家は、「おしなり商店街振興組合」がスカイツリー観光のお客様のお休み処として運営していて、来街者へのおもてなしや地域コミュニティの拠点としてオープンしました。
ところがところが、2025年5月に再訪した時には「おしなりくんの家」は影も形もなくなり、2024年8月に開店した鮨屋さんに変わっていました。おしなりくんは家なき子になってしまったのでしょうか?
スカイツリーの直下に来ました。ここから見上げるのが一番迫力がありますね。
東武橋を渡った右手に、北十間川に沿って細長く続く「おしなり公園」があります。公園の名前は、スカイツリーのすぐ下に広がる商店街のイメージキャラクター「おしなりくん」に因んでいます。ひょとして、おしなりくんはホームレスになって公園で寝泊まりしているのかも。
スカイツリータウン入口の階段脇には、ソラカラちゃん・テッペンペン・スコブルブル3人(?)のキャラクターが健在です。
スカイツリーの先で曳舟川通りに入ります。交差点の角に舟形をしたコンクリート製の案内碑が置かれています。
曳舟川通りの名称の由来となった「曳舟」とは、水路に浮かべた船を水路沿いの陸路から牽引する船引きのことです。
曳舟川の由来
曳舟川は、徳川幕府が本所開拓に伴う上水として、万治二年(1659年)に開削したものです。当時は本所上水、亀有上水などと呼ばれ、瓦曽根(現越谷市)の溜井から分水して、亀有から四ツ木をへて本所と深川の各地に配水されたようです。その後、享保七年(1722年)に上水としては利用されなくなりましたが、川筋の脇を四ツ木街道が通り水戸街道に接続しているため、次第に重要な交通路として利用されるようになりました。この川が「曳舟川」と呼ばれるようになったのは、「サッパコ」と呼ばれる田舟のような舟に旅人を乗せ、岸から引かせたことによるものです。また、曳舟川には古くから多くの橋が架けられており、薬師橋、鶴土手橋、地蔵橋、庚申橋などの名前が文献に見られますが、この付近(小梅児童遊園)にも八反目橋が架けられていました。この辺りの小梅という地名は、元は梅香原と呼ばれる海の木の多い地域だったことによるもので、八反目の名も八反梅(80アールの梅林)から来ているとの説もあります。昭和二十九年六月東京都告示によって川としての役割は廃止され、昭和三十年代を中心に埋め立てられて、道路として整備されました。
押上二丁目交差点で左折し、桜橋通りに入ります。
本所高等学校の手前に案内板が立っています。普通なら「本所高等学校前」とするのでしょうけど、このバス停は「森鴎外住居跡」になっています。本所高等学校に用事のある乗客は下車ボタンを押し忘れるかも。
森鴎外住居跡
文久二年(1862年)に現在の島根県津和野町に生まれた森鴎外(本名林太郎)は、明治五年(1872年)十歳の時に父静男に随い上京しました。初めに向島小梅村の旧津和野藩主亀井家下屋敷、翌月からは屋敷近くの小梅村八十七番の借家で暮らすようになり、翌年上京した家族とともに三年後には小梅村237番にあった三百坪の隠居所を購入して移り住みました。茅葺の家の門から玄関までの間には大きな芭蕉があり、鴎外が毛筆で写生したという庭は笠松や梅、楓などが植えられた情緒的で凝った造りでした。この向島の家のことを森家では「曳舟通りの家」と呼び、千住に転居する明治十二年まで暮らしました。父の意思で学業に専念する道をつけられた鴎外は、上京二か月後には西周宅に下宿して進文学社でドイツ語を学ぶ日々を過ごし、東京医学校予科(現東京大学医学部)に入学しました。明治九年以後は寄宿舎生活となりましたが、曳舟通りの家には毎週帰り、時おり向島の依田学海邸を訪れて漢学の指導を受けていました。鴎外の代表作「渋江抽斎」には「わたくしは幼い頃向島小梅村に住んでいた」と記し、弘福寺や常泉寺などがある周辺の様子や人々についても詳しく書き残しています。また、明治十年代に原稿用紙に用いたという「牽舟居士」の号は近くを流れていた曳舟川(現在の曳舟川通り)にちなむものでした。鴎外にとって、向島小梅村周辺での生活は短いものでしたが、思い出深い地として記憶にとどめられていたようです。
The Site of the Former Residence of Mori Ogai
Mori Ogai (born as Mori Rintaro) was one of modern Japan's preeminent novelists who also served as a medical officer in the Imperial Japanese Army. Born in 1862 in the town currently known as Tsuwano in Shimane Prefecture, Ogai accompanied his father Shizuo to Tokyo when he was 10 years old. Up until relocating to Senju in 1879, the Mori Family resided here, when it was still called Koume-Mura. After changing residences twice in Koume-Mura, they finally purchased and settled in a thatched-roof house with a spacious garden. This garden, said to have been the object of sketches
by Ogai, was a highly sentimental, sophisticated construction containing the likes of well-trained pine trees, Japanese apricots, and maple trees. This residence in Mukojima was called "the house on Hikifune-Dori" by the Mori Family. In accordance with the will of his father, Ogai was placed on a path of academic learning. Two months after coming to Tokyo, he boarded at the home of renowned philosopher Nishi Amame to receive tutoring in German in a "Shinbungakusha", and subsequently enrolled in what is now the Faculty of Medicine at the University of Tokyo. Through he went on to live a boarding student life in this fashion, he would return to "the house on
Hikifune-Dori" every week, and would occasionally undergo instruction in the Chinese classics at the home of Sinology scholar Yoda Gakkai in Mukojima. In one of his leading works, "Shibue Chusai," Ogai left detailed passages regarding the people and world that surrounded him, writing, "When I was little, I lived in Mukojima's Koume-Mura." Of additional note is that the penname "Hikifune Koji" that Ogai used during the second decade of the Meiji Period comes from "Hikifunegawa" (now Hikifukegawa-Dori), the river that flowed close to his home. While the time in his life that he
spent around Mukojima's Koume-Mura was short, one can see just how deeply that place resonated in his memory.
本所高等学校は、かっての牛嶋学校の跡に開校しました。
牛嶋学校跡
明治五年(1872年)学制が発布され、近代的教育制度が始まったわずか六ヶ月後の同六年(1873年)三月二十二日、須崎村(現在の向島二丁目)に公立小学校が設立されました。それが牛嶋学校です。明治十四年(1881年)九月に現在地に移転しました。牛嶋学校は、周辺の人々の教育に対する関心の高さから、公立小学校としては本区で最も早く設立されました。当時、牛嶋学校への寄付者は、須崎村にとどまらず、中ノ郷・小梅村など、現在の向島全域にも及びました。昭和十六年(1941年)、牛島国民学校となりましたが、同二十年(1945年)三月十日の大空襲によって全焼しました。戦後廃校が決まり同二十一年(1946年)、七十三年間の歴史を閉じましたが、この間に堀辰雄・佐多稲子ら多くの著名人を輩出しました。また榎本武揚の筆による「牛嶋学校」の扁額(墨田区登録文化財)が戦災をまぬがれ、現在、すみだ郷土文化資料館に保存されています。そして、昭和二十一年四月、廃校となった牛島国民学校跡に東京都立本所高等女学校が転入開校し、二十三年四月に新制本所高等学校となりました。
本所高等学校の裏手には、江戸時代に越後長岡藩の広大な抱屋敷がありました。
越後長岡藩抱屋敷跡
【越後長岡藩】
元和四年(1618年)、牧野忠成が立藩、以来13代続いた譜代大名です。石高は7.4万石ですが、常に幕閣の中核を担い、幕末には9代忠精、10代忠雅、11代忠恭が続けて老中を務めました。その抱屋敷が小梅村(本所高校西側一帯)にあり、敷地は6、760坪という広大なものでした。しかし、戊辰(北越)戦争では忠恭に仕えた家老・河井継之助の奮闘空しく敗れ、2.4万石に減封、廃藩置県の前年、明治三年(1870年)には藩が廃されました。
【抱屋敷】
江戸時代、全国300諸侯は参勤のため幕府より使途に応じた屋敷を拝領していました。藩主の住む上屋敷、隠居・世継用の中屋敷、物資の保管や保養先の下屋敷などです。これらに対し、抱屋敷は藩自らが農地などを購入して設けたもので、大半は郊外にあり、個人の調度品などを保管したり、時には下屋敷としての用途にも充てられていました。
この辺り一帯には、「小梅」が付く地名・橋名・学校名が多くあります。
すみだゆかりの地名 小梅
【名の由来】
江戸時代、このあたりから北十間川にいたる一帯は小梅村と呼ばれていました。三囲神社の縁起によると、弘法大師が投じた一粒の梅がこの付近に落ち、梅香原と呼ばれるようになったというのが巷間伝わる名の由来です。江戸時代後期に鍬形寫ヨが描いた「江戸名所之絵」には「コムメ」とあり「こんめ」と呼んでいたことがわかります。
【 村の様子】
三井家(越後屋)が江戸進出時にその名にあやかって守護神とした三囲神社、天英院(徳川6代将軍家宣正室)が帰依した常泉寺、水戸徳川家の下屋敷の他、桜の名所の墨堤も近くにあり、浮世絵にも描かれた有名料亭も周辺に数多くありました。文人墨客たちが集い、俳人の小林一茶は「水鳥の住こなしたり小梅筋」「鍬のえに鶯鳴くや小梅村」と詠み、浮世絵師の歌川広重は「名所江戸百景」や「江戸高名会亭尽」で、当時の情景を巧みに描いています。
この後、コースマップでは隅田川の土手を階段で上がって桜橋に向かうのですが、何故か見番通り沿いの弘福寺と長命寺に立寄るようになっています。
- ポイント1 弘福寺
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弘福寺は黄檗宗の寺院で、山号は牛頭山、本尊は釈迦如来です。江戸時代前期の延宝元年(1673年)に黄檗宗の僧鉄牛道機により開山され、稲葉正則が開基となって香積山弘福寺を現在地に移して建てられました。黄檗宗は、日本の三禅宗のうち、江戸時代初期に来日して明朝復興を願った隠元隆gを開祖とする一宗で、本山は隠元隆gが開いた京都府宇治市の黄檗山萬福寺です。江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であり、関東大震災で罹災しましたが、昭和八年(1933年)に再建されました。
門前に、「淡島寒月旧居跡」の案内板があります。
淡島寒月旧居跡
淡島寒月
(安政六年【1859年】10月23日[11月17日とも]〜大正十五年【1926年】2月23日)
明治の趣味人。作家、画家でもある。父親も趣味人である画家の淡島椿岳。井原西鶴を再評価し、そのよさを幸田露伴や尾崎紅葉に説き、世に出すきっかけを作った。
父の淡島椿岳は、江戸時代に大流行した軽焼きせんべいの名店「淡島屋」を経営する実業家で大地主であった。また、知識欲が旺盛で、画を学び、ピアノを買って演奏会を開く趣味人でもあった。明治十七年(1884年)、向島の弘福寺地内に隠居所を建てて住んだ。息子の寒月は西鶴再評価のきっかけをつくり、趣味人として、新聞や雑誌に寄稿。実体験をベースにした小説や江戸にまつわる話などを洒脱なタッチで著わし好評を博した。明治二十六年(1893年)頃、父の使っていた隠居所を梵雲庵と名づけ隠居。「梵雲庵寒月」と号し、悠々自適な生活に入る。夏目漱石の「我が輩は猫である」に水島寒月という学者が登場するが、モデルは寺田寅彦で、名前は寒月から採ったといわれている。収集家としても有名で、梵雲庵には三千余の玩具と江戸関連の貴重な資料があったが、関東大震災ですべて焼失されてしまった。
A multi-talented author and artist
Residence of Awashima Kangetsu
Awashima Kangetsu (1859-1926) is known for both his literature and paintings. His father, Chingaku, was also a painter. He helped popularize the works of Ihara Saikaku in the course of mentoring novelists Koda Rohan and Ozaki Koyo. He is also said to have inspired Natsume Soseki's use of the name "Mizushima Kangetsu" in the novel I am a Cat.
弘福寺の梵鐘は墨田区で確認されている最古のもので、貞享五年(1688年)6月に鋳造されました。現在の鐘楼は安政大地震で倒壊後、昭和八年(1933年)5月に再建されたものです。梵鐘は江戸時代の地誌「江戸名所図会」や「新編武蔵風土記稿」などにも登場し、人々によく知られていました。
亀の上に石碑が乗っています。鳥取藩八代藩主池田斉稷の亀趺の墓碑ですが、お墓は関東大震災を機に、昭和五年(1930年)に鳥取藩主池田家墓所に改葬されました。
境内の小さな祠には、石造りの爺像と婆像からなる「咳の爺婆尊」が祀られていて、風邪やインフルエンザの予防を祈願する参拝者が訪れています。制作した江戸時代の禅僧風外の名が「風(邪)の外」に通じるとして、風邪除けのご利益があると信じられるようになりました。きっとコロナにも効果抜群だったことでしょう。
弘福寺には、隅田川七福神の布袋像が祀られています。「墨田川七福之内 布袋尊」と彫られた石碑の隣には、七福詠碑が置かれています。
何々や 袋の中の 年の卒 七福詠」
隅田川七福神は、文化年間(1804年〜1818年)造園の向島百花園に集った文人達の発案とされています。百花園主の佐原鞠塢が所有していた福禄寿の陶像にちなみ、正月の楽しみごととして機知を働かせ、北から毘沙門天(多聞寺)、寿老神(白鬚神社)(そのものがご神体なので寿老人ではなく、寿老神)、福禄寿(向島百花園)、弁財天(長命寺)、布袋尊(弘福寺)、恵比寿・大国神(三囲神社)を七福神として結びつけたと伝わっています。明治三十一年(1898年)、向島の人々が榎本武揚ら著名人を巻き込んで隅田川七福会を結成し、一巡り約4kmの順路が整備されました。明治四十一年(1908年)には、当時の政府要人が揮毫した七福神案内碑が建立され、今日に至るまで多くの参拝客が訪れています。七福神の各尊像は、現在正月元旦から七草までの間のみ開帳されています。
隅田川七福神コース案内板
弘福寺 布袋尊
黄檗宗弘福寺は、三百余年の昔、名僧鉄牛禅師によって創建された。黄檗宗は禅宗の中でも中國色の強い宗派として知られ、当寺に布袋尊の御像が安置されたのも、実はその黄檗禅の性格に深くかかわるのである。布袋尊は、唐時代の実在の禅僧である。常に大きな布の袋を持ち歩き、困窮の人に会えば袋から財物を取り出しては施し、しかも袋の中身は尽きるきることがなかった。その無欲恬淡(てんたん:物事に執着しないこと)として心の広い人柄は、真の幸福とは欲望を満たすことだけではないことを、身をもって諭した有徳として、世人の尊崇を受け、七福神としても敬われたのである。
- ポイント2 長命寺
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弘福寺の直ぐ先に、「長命寺桜もち」の由来となった長命寺があります。長命寺は、元和元年(1615年)頃の創建と伝えられる天台宗延暦寺末で、古くは宝寿山常泉寺と号していました。寛永年間(1624年〜1644年)に三代将軍家光がこの辺りに鷹狩りに来た際、急に腹痛を起こしましたが、住職が加持した庭の井の水で薬を服用したところ痛みが治まったので、長命寺の寺号を与えたといわれています。今も長命水石文や復元された井戸が残っています。
長命寺は、隅田川七福神のうち弁財天を安置しています。
長命寺 弁財天
当寺の寺号の由来については、有名な故事がある。その昔、三代将軍家光が墨水沿岸で鷹狩を行った際、急に病を催し、止むを得ずこの寺で休息することになった。そして境内の井戸水で薬を服用したところ、たちまち快癒したので、家光は霊験に感じ、長命水の名を捧げた。以後、長命寺と改めたのである。長命寺に弁財天をまつるのは、その長命水に関係がある。弁財天はもともと天竺の水の神であったからである。佛教とともに渡来してきてからは、次第に芸能の上達や財宝をもたらす信仰が加わり、七福神唯一の女性神になったのである。
境内には、松尾芭蕉句碑・十返舎一九の狂歌碑・著名人の墓など多くの石碑があります。松尾芭蕉の「いざさらば」の句碑は、芭蕉が44歳の貞亨四年(1687年)、「笈の小文」の旅の途中に名古屋の夕道邸で開かれた「雪見句会」で詠まれた句です。
いささらは 雪見にころふ 所まて
雪で滑って転ぶところまで手に手をとって、雪見に出かけようというような意味らしいです。雪の上で下駄を履いて歩くと、下駄の歯と歯の間に詰まった雪が雪だるまのようにだんだんと大きくなり、やがて歩けないほど雪塊が大きくなって雪上の下駄履き散歩人は転んだりします。雪で滑って転ぶのではなく、下駄に付いた雪のせいで転ぶのです。
芭蕉雪見の句碑
芭蕉の句碑は、全国で千五百余を数えるといわれますが、その中で「いざさらば 雪見にころぶ 所まで」と刻まれたこの雪見の句碑は、最もすぐれた一つといわれています。松尾芭蕉の門人祇空はこの地に庵をつくり、その後、祇空の門人自在庵祇徳は、庵室に芭蕉像を安置し、芭蕉堂としました。そして、三世自在庵祇徳が安政五年(1858年)に庵を再興し、この句碑を建立したのです。芭蕉は寛永二十一年(1644年)伊賀上野に生まれ、のちに江戸深川六間堀に芭蕉庵を構え、談林派から出て俳諧の境地を高め、「さび」「しおり」「かるみ」に代表される蕉風を不動の地位にしました。元禄七年(1694年)旅先の大阪で没しましたが、其角など数多くの門弟を輩出しています。
石碑が3基並んでいます。一番右側の石碑は、浮世絵師の勝川春英を顕彰するために建てられた「勝川春英翁略伝の碑」です。
<墨田区登録文化財>
「勝川春英翁略傅」の碑
勝川春英は宝暦十二年(1762年)に生まれ、新和泉町(現在の中央区日本橋)に住し、久徳斎と号した勝川派の絵師です。勝川春章の門人で、相撲絵と役者絵を得意とし、兄弟子春好のあと勝川派を牽引しました。文政二年(1819年)五十八歳で没し、浅草善照寺に葬られました。右の碑は、文政八年(1825年)春英の七回忌に門人たちにより建立された顕彰碑です。題額と撰文は江戸時代後期の国学者石川雅望によります。碑文には、冒頭に春英の出自と生没年、続いて春英の人柄やそれにまつわるエピソードが紹介され、最後に建碑の趣旨で締めくくら
れています。春英伝の基本史料に位置づけられる貴重な石碑です。勝川派は役者絵や相撲絵を得意とし、人物の個性を生かした表現で人気を博しました。また、春英とは同門の春朗は勝川派を離脱した後に様々な画境を拓き、のちに北斎と号しました。
The monument of the biographical sketch of Katsukawa Shun-ei
Katsukawa Shun-ei was born in 1762 and trained as an ukiyo-e artist under Katsukawa Shunsho, with the pseudonym of Kutokusai. He succeeded his senior pupil Shunko who had taken over from Shunsho, leading the Katsukawa School and died in 1819 at the age
of 58. In 1825, 6 years after Shun-ei's death, his disciples erected the monument. The text was formulated by Ishikawa Masamochi, a scholar in Native Studies in the latter period of the Edo era. The text introduces Shun-ei's year of birth and death, his personality and episodes in his life. In addition, it states the reason for the
erection of the monument. It is considered a fundamental historic material of Shun-ei biography. The Katsukawa School was good at actors and sumo wrestlers' prints and their unique profile depiction caught on at that time. Shunro who later used the pseudonym of Hokusai, trained at the same school as Shun-ei and produced various genres of work after leaving the Katsukawa School.
安田善次郎と共に、現在の明治安田生命保険相互会社を設立した成島柳北の石碑がレリーフ入りで建っています。成島柳北は、幕末の江戸幕府で将軍侍講・奥儒者・文学者となり、明治時代にはジャーナリストとして活躍しました。森家の養子となり大目付となった次兄の森泰次郎の孫に俳優の森繁久弥がいます。
成島柳北の碑
成島柳北は幕末明治の随筆家であり、実業家です。天保八年(1837年)江戸に生まれました。十八歳のとき、家職をついで侍講に進み、将軍家茂のために経書を講じました。慶応元年以来次第に重んぜられ外国奉行となり、会計副総裁に進み、幕政に加わりました。幕府崩壊とともに職を退き向島の地に暮らしました。明治五年東本願寺の法主に従い訪欧、翌年に帰朝後、公文通誌が朝野新聞と改題され、紙勢を拡張する機会に社長として迎えられ、雑録欄を担当して時事を風刺し、大いに読者を喜ばせました。また、外遊の折、修得した生命保険制度の知識を生かし、日本の生命保険制度の草分けである「共済五百名社」(明治安田生命の前身)の創立に協力。明治十七年(1884年)十一月三十日、四十八歳で没しました。この碑は実業家としての柳北の功績を記念し、明治十八年に建立されました。
石碑が沢山並んだ一番奥の土盛りの上に出羽三山信仰の碑が置かれています。区の文化財指定を受けた貴重なものです。建立の目的は不明ですが、向島・本所北部と浅草に及ぶ隅田川両岸地域における出羽三山信仰と地域住人の結びつきを示しています。
<墨田区登録文化財>
出羽三山の碑
出羽三山は、山形県のほぼ中央に連なる月山、湯殿山、羽黒山の総称で、古来より山岳信仰や修験道の霊場として発展してきました。本碑は文政十一年(1828年)四月に建立されましたが、この時期を含む江戸時代後期には、主に東北、関東地方で講を組織する人々が増え、江戸においても三山登拝を行う人々が少なからずいたといわれています。本碑は、盛土をして高くした上に建てられています。当初の建立地は不明ですが、長命寺によれば、大正十二年(1923年)頃にはすでに現在地にあったようです。碑の正面中央には、胎蔵界大日如来を表す種子アーンクと「湯殿山」の文字が彫られています。そして、向かって右側に阿弥陀如来を表す種子キリークと「月山」の文字を、左側には観世音菩薩を表す種子サと「羽黒山」の文字をそれぞれ配しています。また、左下には揮毫者と思われる「空居」の号が刻まれています。出羽三山を崇拝し祀る習慣の定着が、こうした石碑の建立につながったと分かります。一方、裏面には、日付とともに建立に関係した人々七十九名の名前が居住地ごとに刻まれています。中には判読困難な文字もありますが、浅草、大畑村、請地村、寺嶋村、寺嶋村新田、須崎村、小梅村、中之郷村の人々の名前を確認することができます。江戸時代後期に隅田川をはさむ向島・本所北部と浅草方面に出羽三山信仰が普及し、そこに暮らした人々が信仰を共有していたことがうかがえます。現在区内では、出羽三山信仰に関係する資料の発見例が少ないため、本碑は貴重な資料といえます。
雑草に埋もれて、女優・歌手の木の実ナナさんの小さな歌碑が建っています。木の実ナナさんは墨田区東向島の鳩の街と呼ばれた歓楽街近くの出身です。歌手としては、1982年の五木ひろしとのデュエット曲「居酒屋」が大ヒットしました。
木の実ナナ
風のように踊り
花のように恋し
水のように流れる
隅田川の堤防に設けられた階段を上がりますと、目の前に桜橋が架かっています。桜橋はX字型の人道橋で、昭和六十年(1985年)に架橋されました。
◆桜橋
【橋長】 169.5m 【取付部 6.0m】
【幅員】 12.0m
【構造】 連続鋼X形曲線箱桁橋
桜橋は、台東区今戸と墨田区向島との間で、隅田川両岸の“隅田公園”を結ぶ、隅田川では最初の、そして唯一の歩行者専用橋です。橋の創架は昭和六十年(1985年)、隅田公園の施設の一つとして、台東区と墨田区の共同事業で架橋されました。形状は平面のX字形の特異な形をしています。花見のシーズンには、両岸の桜を楽しむ多くの人がこの橋を渡ります。
左右の歩道が交わる広場の両端には、架橋10周年を記念して設置された巨大な石碑が建っています。シルクロード画家で知られる平山郁夫氏が原画を担当し、二羽の鶴をモチーフにしたレリーフが埋め込まれた「瑞鶴の図 双鶴飛立の図」です。
桜橋の架橋に合わせて、ワシントンのポトマック河畔から桜の木が里帰りしました。
桜橋とポトマック帰りの桜
ワシントンからの贈り物
台東区と墨田区は隅田川を挟んで相対していることから、昭和五十二年に姉妹区協定を結びました。この記念事業として、両区にまたがる隅田公園に歩行者専用の橋を架けることを計画し、昭和六十年に桜橋が完成しました。この架橋に際して、アメリカ合衆国ワシントンD.C.より桜がとどきました。ワシントンD.C.のポトマック河畔の桜並木は世界の名所のひとつになっています。この桜は明治末期頃、当時のタフト大統領夫人が東京を訪れた際に向島の桜に魅せられ、是非ワシントンに植えたいという希望に対して、当時の尾崎行雄東京市長がプレゼントしたものです。約70年の時を経て、その桜の子孫が再び向島の地に戻ってきました。
Sakura Bridge and cherry trees back from Potomac - as a present from Washington D.C.
In 1977 (Showa 52), Taito-city and Sumida-city made a sister-city agreement since they are facing over the Sumida River. As a commemoration project, construction of a bridge
for pedestrians along Sumida Park was planned and "Sakura Bridge" was completed.
In constructing this bridge, some cherry trees were sent from Washington D. C. The cherry trees of Potomac riverside of Washington D. C. is one of the famous place in the world. The end of Meiji era, Mrs. President Taft visited Tokyo. She was fascinated with the cherry blossoms in Mukojima, and hoped to plant cherry trees in Washington D. C. In response to her wish, Mayer of Tokyo city, Yukio Ozaki presented it to Washington D.C. After about 70 years, the posterity of cherry trees has returned to the ground in Mukojima.
常夜灯が保存されています。
墨田区指定有形文化財
石造墨堤永代常夜燈
石造墨堤永代常夜燈は、高さ五メートルを超え、琴柱状の脚が特徴的です。天辺の宝珠部分には牛嶋神社の社紋があり、基台上段には同神社の地位を表す「本所惣鎮守」の銘が彫刻されています。また、石組基壇には「永代常夜燈」の銘と「石工宮本平八」の名前を刻んだ石製プレートがはめ込まれています。東京府文書によれば、この常夜燈は、江戸近郊の名所の演出にあずかってきた牛嶋神社の氏子十七名、具体的には植半や八百松、武蔵屋など有名料亭の主人たちの発意によって設置されたようです。明治四年(1871年)の牛嶋神社の臨時祭に併せて奉納されたもので、元来は墨堤から牛嶋神社旧地(弘福寺西隣)へ下りる坂の頂にありました。設置当時、この付近は夜になると真っ暗だったそうで、常夜燈の火が貴重な明かりとして利用されたことがうかがわれます。発起人十七名が東京府へ提出した設置許可申請書にも、この付近を通行する人々の役にも立つはずだとの思いがしたためられています。この常夜燈は、設置以来、墨堤を代表する風物詩の一つとして絵画にも描かれるなどしてきました。平成二十八年七月二十一日、墨田区指定有形文化財に指定されました。
Treasury stone night-light at the banks of the Sumidagawa river
This lantern is one of the cultural properties in Mukojima being famous for its cherry blossoms, built by parishioners of the Ushijima-jinja shrine in 1871.
もうひとつの案内板が立っています。
常夜燈と渡し舟
隅田川の水運と向島風情の象徴
この常夜燈の置かれている場所は、かつて牛嶋神社の境内地でした。牛嶋神社は隅田公園の整備とともに現在地に移転しましたが、この常夜燈だけはここに残されました。それは墨堤における重要な目印であったためです。この付近にはかつて「竹屋の渡し」が設けられ、春の花見や夏の花火見物、明治に入ってからは向島の花柳界へと遊興客を数多く運んできました。まだ照明が発達していないこの時代にはこの常夜燈の明かりが非常に重要な役割を果たしていました。また、明治の画家達は墨堤の桜とこの常夜燈を好んで組み合わせることにより、向島の風情を描きました。当時の向島の格好のシンボルとしてその姿を今に伝えています。
Joyato and ferryboats - water transportation of Sumida River and the symbol of Mukoji taste
The place where put this "Joyato (night-light)" was precincts of Ushijima shrine once. Although Ushijima shrine was relocated to its present location with construction of Sumida Park, only this "Joyato" was left behind here because it was an important mark in "Bokutei". "Takeya-no-watashi (ferryboat)" was set up this neighborhood once, and many visitors were carried to sightseeing areas. They enjoyed cherry blossom viewing at spring, fireworks at summer, and Karyukai (the world of geisha girls, women with refined manners) in Mukojima in Meiji era for instance. This "Joyato" was very important role then because lighting technologies had not developed yet. In Meiji era, many painters preferred to express the taste of Mukojima by painting the matching of cherry blossoms in "Bokutei" and this "Joyato". It remains its figure as the suitable symbol of Mukojima in those days.
葛飾北斎の絵が解説されています。
須佐之男命厄神退治之図
葛飾北斎晩年期の傑作といわれている、縦1.2m余、横2.8mに及ぶ大きな板絵です。北斎は弘化二年(1845年)頃、牛嶋神社(現在向島1丁目)付近に住んでいたと伝えられ、「須佐之男命厄神退治之図」を奉納しました。この作品は悪病をもたらす厄神たちに今後は悪事を働かないように須佐之男命が証文を書かせている場面を描いたものです。画面右下には「前北斎卍筆 齡八十七歳」の落款があります。残念ながら大正十二年(1923年)、関東大震災で消失してしまいましたが、現在は原寸大の復元パネルが牛嶋神社の社殿に飾られています。
Susanoo no Mikoto Yakujin Taiji no Zu (Killing the God of plague)
This is said to be Katsushika Hokusai' s masterpiece created near the end of his life.
It is a large picture drawn on a board 1.2m in height and 2.8m in width, and it is said that Hokusai created it around 1845 while he was living near the Ushijima Shrine
(currently Mukojima 1-Chome), and it was dedicated to Susanoo no Mikoto Yakujin
Taiji no Zu. This work depicts a scene in which Susanoo no Mikoto is writing a letter
to the god of pestilence imploring him not to spread disease in the future. The seal of Zen Hokusai Manji-Hitsu(signature), 87 Years Old is located in the bottom
right-hand corner. Unfortunately this picture was destroyed during the Great Kanto Earthquake of 1923, and a restored version of the panel in the same dimensions is currently displayed in the main building of the Ushijima Shrine.
白鬚橋は隅田川にかかる橋で、明治通りが通っています。橋名は「白鬚神社」に因んでいます。白鬚橋が初めて架けられたのは大正三年(1914年)で、近在の人々が基金を募って資本金を作り「白鬚橋株式会社」を設立し、大正二年4月に着工して約一年で木橋が完成しました。橋に番小屋を置き、大人一人1銭の通行料を取りましたが、当時は渡し舟も多く走り、経営は苦しかったといわれています。後に2銭に値上げしましたが間に合わず、橋の維持に支障をきたすようになり、大正十四年(1925年)に東京府が買い取りました。この場所には、元々「橋場の渡し」と「白鬚の渡し」という渡船場があり、特に橋場の渡しは江戸時代の文禄三年(1594年)に千住大橋が完成して主だった街道筋が移されるまでは隅田川を渡る中心地でした。伊勢物語で、東下り中の主人公(在原業平とされています)が有名な「言問」の歌を詠んだのはこの渡しとされています。
白鬚橋東詰交差点を左折して墨堤通りに入ります。交差点の北東側にレストラン「カタヤマ」があります。レストラン「カタヤマ」は、墨田区でステーキといえばこのお店の名前が必ず出てくると言っても過言ではない、墨堤通り沿いに位置する庶民的な洋食屋さんです。こちらのお店は主に前沢牛とオージービーフのステーキを中心にしているのですが、かなりお手頃な価格で美味しいステーキが味わえます。なので家族連れも多く、店内はいつも賑わっています。その為、休日に来店する際は多少待つことになります。でも、外で待つのではなく、お店の隣に待合用のスペースが用意されていますので大丈夫。お肉は国産かオージー、それぞれ4段階から選ぶことが出来ます。こちらのお店はステーキの美味しさを追求した結果、駄敏丁カット(ダビンチョウカット)というカット方法を考案し特許まで取得しているそうです。駄敏丁カットとは、下処理した肉を棒状に切断後、筋や余分な脂肪を取り除き、分厚くても柔らかい肉を形成するためのカット方式なんだそうです。
現在の墨堤通りは、かっての古代東海道の「下の道」でした。
下の道
承和二年(835年)の太政官符に「武蔵国下総両国境、住田河四艘・・・」の記載がみられます。住田渡(隅田渡)は現在の白髭橋辺と考えられ、大正三年(1914年)の架橋頃まで、永々と続く隅田渡がありました。古代東海道の官道であり、鎌倉街道、奥羽・水戸街道などの道すじにもなっていました。この墨堤堤を下る道も古道で、古くから「下の道」と呼ばれ、鎌倉街道の「下の道」とも想定させます。源頼朝が敵対する常陸国の佐竹氏討伐に、また、奥州征伐にも使用された道とも考えられます(吾妻鏡)。さらに時代が下り、戦国時代には国府台合戦の小田原北條軍の使用路でもあり、郷土の歴史を知るうえからも貴重な道すじです。
墨堤通りに面して、フランスの片田舎にありそうなビストロ風のレストランがあります。ワインに合うお料理はないかなとボードを見たら、葡萄畑で育った蝸牛のエスカルゴ・ブールギニヨンがお勧めと書いてありました。蝸牛の好物は葡萄の葉だそうで、昔はブルゴーニュの葡萄畑には沢山の蝸牛が生息していたそうです。「エスカルゴ・ア・ラ・ブルギニョン」は、ハーブを入れたブイヨンで煮てから、殻にパセリ・ニンニク・エシャロットをバターにすりこんだ「エスカ
ルゴバター」を一緒に詰めて、たこ焼き器のような専用の丸い溝のあるお皿に蝸牛を入れて焼き、フォークで蝸牛を取り出して頂きます。サザエなどの貝にも似た食感です。お皿に残ったソースは、パゲット(フランスパン)に絡めて食べます。ニンニクの香りがなんとも食欲をそそります。サイゼリアの名物メニューですね。
墨堤通りに面して、隅田川神社の鳥居が建っています。参道は都営白髭東アパートを貫いて、東白鬚公園の奥にある拝殿まで延びています。隅田川神社の創建について記録はありませんが、源頼朝が創建したものと伝えられています。元の名を浮島神社といい、古くは水神社・水神宮・浮島宮などとも呼ばれ、「水神さん」として親しまれてきました。明治五年(1872年)に現在の社名に改名されました。隅田川神社は地域の鎮守神であると共に、隅田川一帯の守り神でもあり、水運業者や船宿などの川で働く人たちの信仰を集めた他、「水神」の名から水商売の人々にも信仰されました。
都営白髭東アパートの中央付近に小さな梅若公園があり、榎本武揚の銅像が建っています。榎本武揚は明治四十一年(1908年)に73歳で亡くなり、大正二年(1913年)に榎本武揚が晩年を過ごした墨東(隅田川東岸)の木母寺境内に銅像が建立されました。その後、木母寺は移転して、かつての境内は現在の都営白髭東アパートの敷地になりましたが、榎本武揚像は動かされずに建立された場所に残りました。高さ4mの台座の上に、高さ3mの榎本武揚像が聳え立っています。
墨田区登録有形文化財
銅造榎本武揚像
本像は、榎本武揚没後の大正二年(1913年)五月に建立されました。銅製で、像高は約3メートルあり、南を向き、大礼服姿で荘重な趣を呈しています。彫刻は、衣服の質感や顔の表情が細かく表現され外形描写に優れています。榎本武揚(1836年〜1908年)は、戊辰戦争終盤の箱館戦争で明治新政府軍と戦った旧幕臣として著名な人物です。武揚は箱館戦争の中心人物として投獄されましたが、維新後は明治政府に出仕し、文部大臣、外務大臣等、政府の要職を歴任しました。晩年は向島に構えた別荘で過ごし、馬に乗って歩く姿が見られたようです。建立にあたっては、大隈重信や大倉喜八郎、渋沢栄一、益田孝など政財界を代表する人物等が協力しました。原型作者は藤田文蔵と田中親光であり、鋳造者は平塚駒次郎です。この銅像は、平成十二年十二月七日に墨田区登録文化財に登録されました。
The Bronze Statue of Enomoto Takeaki
This statue was erected in May 1913 after the death of Enomoto Takeaki. The statue, made of bronze with about 3 meters in height, is facing south and showing solemn appearance with full-dress uniform. The sculpturing is excellent in outline description with fine texture of clothing and expression of his face. Enomoto Takeaki (1836 - 1908) is prominent as one of the former retainers of shogunate, who fought against Meiji New Government Army at the Hakodate War, which was the last stage of the
Boshin War. People representing political and business worlds, such as Okuma Shigenobu, Okura Kihachiro, Shibusawa Eiichi and Masuda Takashi, cooperated in building the statue. The sculptors of original mold are Fujita Bunzo and Tanaka Chikamitsu, and the caster is Hiratsuka Komajiro.
大きな石台に、榎本武揚の生涯と銅像建立の経緯が記されています。
墨田区登録有形文化財
銅造榎本武揚像
「榎本武揚」
榎本武揚は、天保七年(1836年)に幕臣の子として江戸に生まれ育ち、昌平坂学問所(昌平黌)で学び、安政三年(1856年)幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入りました。その後、オランダに留学し、最新の知識や技術を身につけ、慶応二年(1866年)幕府注文の軍艦開陽丸を回送し帰国しました。武揚帰国後の日本は「大政奉還」「王政復古」という体制転換を迎え、武揚は戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館戦争では、五稜郭を中心に明治政府に抵抗しましたが、明治二年(1869年)降伏しました。その後、武揚は投獄されましたが傑出した人材として赦免され、明治政府に出仕しました。明治八年(1875年)には、海軍中将兼特命全権公使として、樺太(サハリン)・千島交換条約の締結に尽力しました。明治十八年(1885年)伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命されると、旧幕臣でありながら逓信大臣に就任以降、文部、外務、農商務大臣などの要職を歴任しました。また、東京農業大学の前身である私立育英黌農業科を創設したほか、化学、電気、気象などの各学会に関わりを持ち、日本の殖産産業を支える役回りを積極的に引き受けました。晩年は成島柳北邸(現言問小学校)の西側に屋敷を構え、悠々自適の日々を過ごしました。明治四十一年(1908年)10月に73歳でなくなりましたが、墨堤を馬で散歩する姿や、向島百花園で草花を愛でる姿が見られたそうです。
Sumida Ward Registered Tangible Cultural Property. Statue of Enomoto Takeaki
Enomoto Takeaki was born in 1836 to a retainer of the shogun. In the Boshin Civil War (1868-1869), Enomoto led the forces of the former shogunate and occupied the Goryokaku star fortress in Hakodate, Hokkaido. Although imprisoned after losing the Battle of Hakodate, his talents were recognized by the new Meiji government, who pardoned him and appointed him to a government post. In addition to negotiating the Treaty of
Saint Petersburg (1875) as a special envoy to Russia, Enomoto went on to serve as
Minister of Communications, Minister of Education, Foreign Minister, and Minister of
Agriculture and Commerce at various times throughout his career. He was also given the
rank of viscount. He died on October 26, 1908, at the age of 73. According to historical accounts, he was often seen riding his horse along the banks of the Sumida River and admiring the flowers of Mukojima-Hyakkaen Garden.
「銅像について」
本像は青銅製で、高さ約400cmの台座上に像高約300cmの榎本武揚の立像が乗っています。建立は大正二年(1913年)5月で、当時の木母寺の境内である当該地に建てられました。白鬚東地区防災拠点建設に伴い木母寺は移転しましたが、本像は当該地に残されました。本像の原型作者は田中親光、藤田文蔵、鋳造者は平塚駒次郎であることが台座背面に記されています。また、建設者に大隈重信、大倉喜八郎、渋沢栄一など当時の政財界の代表的人物が名を連ねています。原型作者のひとりである藤田文蔵は、洋風彫刻界における先覚者として位置づけられ、代表作に陸奥宗光銅像(外務省)や井伊直弼銅像(掃部山公園、太平洋戦争で供出)、狩野芳崖胸像(東京国立博物館)などが知られています。
鐘ヶ淵陸橋交差点の角に、葛飾北斎の「富嶽三十六景 隅田川関屋の里」のパネルが立っています。関屋の里は「江戸名所図会」によれば、木母寺より北の牛田村の隅田川に面した一帯を指しています。疾駆する三騎連れの武士は領国への急を知らせる早馬でしょうか。早朝の朝駆けの使者の気ぜわしさが感じられます。馬や武士たちの服の色は異なり、華やかな色どりさえ感じさせます。躍動感のある近景に対して、静かで雄大な赤富士を遠景に持ってきた北斎の構図が窺えます。
隅田川関屋の里 −冨嶽三十六景−
葛飾北斎が72歳頃に版行した代表作「冨嶽三十六景」シリーズの一枚です。現在の墨田区堤通2丁目から足立区千住曙町、千住関谷町のあたりが描かれています。画面には高札以外の家も見えず草原と田んぼが広がり、手前から奥へ蛇行して伸びる土手と存在感ある松、朝焼けの富士山が見える穏やかな早朝の中、疾走する三騎の人馬は躍動感に溢れている印象的な作品です。武士たちの衣装、馬体、馬具の細部に至るまで明るい色使いが施されています。天保二年(1831年)頃の作品です。
Thirty-six Views of Mount Fuji: Sumida-gawa Sekiya no Sato
A print from the representative Thirty-six Views of Mount Fuji series created by
Katsushika Hokusai when he was about 72 years old. This scene depicts the area
around Senju Akebono-cho and Senju Sekiya-cho in Adachi-ku as seen from the current
2-Chome Tsutsumi-dori, Sumida-ku. Apart from an official bulletin board, no houses can be seem amid the grasslands and paddy fields, and the impressive pine tree on the bank stretching from the foreground into the distance and the sight of Mt. Fuji bathed in the sunrise produce a very impressive piece of work overflowing with three horseback riders racing through the peaceful early morning scene. The samurai warriors, the horses and the harnesses are all depicted in bright colors. This print was created around 1831.
墨堤通りは鐘ヶ淵陸橋交差点の下をアンダーパスで潜っていますので、交差点は陸橋のようになっています。交差点の中央にある分離帯の南側に三角形、北側に菱形のモニュメントが建っています。
北側の菱形のモニュメントには、「鐘ヶ淵」の地名の由来を図解したレリーフと、安藤広重の「名所江戸百景 木母寺内川御前栽畑」のレリーフが組み込まれています。
これは広重の「木母寺内川御前栽畑(名所江戸百景)をレリーフにしたものです。徳川将軍の食膳に供する野菜を栽培する畑を御前栽畑といい、ここの内川(入江)を船で出入りすることができました。
鐘ヶ淵の由来には隅田川がこのあたりで直角に曲がり、それが工匠の使う曲尺(矩尺)に似ているところから又、寺院の移転の際に梵鐘(ぼんしょう)が川に落ちたところからの二説が伝えられています。
鐘ヶ淵陸橋交差点を右折して鐘ヶ淵駅に向かいます。駅の手前から南に分岐する細道があります。かっての古代東海道の道筋と思われます。
武蔵・下総を結んだ古代東海道
東武線鐘ヶ淵駅の付近には、武蔵国と下総国を結ぶ古代の官道がありました。古代東海道と呼ばれるこの街道は、現在の墨田区北部を東西に貫き、京の都から常総方面に至る幹線道路として多くの人々に利用されたと考えられます。官道に定められた年代は、九〜十世紀と想定されます。「大日本地名辞書」に「隅田村より立石、奥戸を経、中小岩に至り、下総府へ達する一径あり、今も直条糸の如く、古駅路のむかし偲ばる」と記されるように、明治十三年(1880年)の地図からは、古代の官道の特徴を示す直線道を見出すことができます。また、この道筋には大道や立石など古代の官道跡に見出される地名が墨田区墨田・葛飾区四ツ木(大道)、江戸川区小岩(大道下)に確認できます。また、葛飾区立石には、古代の標石に使用されたと考えられている立石様が残っています。これらは古代東海道の名残を示すものといえます。鐘ヶ淵駅から西に進むと隅田川に至ります。江戸時代より前の時代、隅田川を渡るには船がおもな交通手段でした。承和二年(835年)の太政官符で渡船の数を二艘から四艘にしたことは、隅田川を往来する人々の増加を物語っています。その行程をたどるのが「伊勢物語」東下りの場面です。在原業平が「名にしほは いざ事とはむ宮こ鳥 わがおもふ人はありやなしやと」と詠ったとされる場所は、古代東海道をつなぐ渡であったのです。
ゴール地点の東武スカイツリーライン鐘ヶ淵駅西口に着きました。
ということで、墨田区で七番目の「F南北縦断!のんびり寺社めぐりコース」を歩き終えました。次は墨田区で八番目のコースである「G緑ゆたかな公園と、歴史を感じながら歩くコース」を歩きます。
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