G緑ゆたかな公園と、歴史を感じながら歩くコース  

コース 踏破記  

今日は墨田区の「G緑ゆたかな公園と、歴史を感じながら歩くコース」を歩きます。広大な東白鬚公園を散策し、隣接した隅田川神社と木母寺で墨東の歴史に思いを馳せます。最初に歩いたのは2022年の3月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年5月に改めて歩きました。

注記:歩く順番に従って、隅田川神社と東白鬚公園を入れ替えました。

G緑ゆたかな公園と、歴史を感じながら歩くコース

夏は東白鬚公園のアサガオがきれいです。昔からある建物も多いので、古地図を見ながら神社を目印にして歩くのも楽しいですよ。広くて歩きやすい道が多いのもポイントです。(提案者:区民 本田さん)

「G緑ゆたかな公園と、歴史を感じながら歩くコース」の歩行距離は約4.4km(約6、300歩)、歩行時間は約1時間10分、消費カロリーは約210Kcalです。

スタート地点:墨田区立第一寺島小学校
ポイント1 子育地藏堂
江戸時代、堤防改修中に発見されたという地蔵尊が祀られています。
ポイント2 東白鬚公園
四季折々の草花が楽しめます♪災害時には避難広場になります。
ポイント3 隅田川神社
「水神社」とも呼ばれ、社殿前には狛犬のかわりに狛亀が鎮座しています。
ポイント4 木母寺
「梅若伝説」ゆかりの梅若塚や、伊藤博文の筆跡が彫られた大きな石碑があります。
ポイント5 榎本武揚像
幕末から明治に活躍した榎本武揚は、向島にゆかりの深い人物。
ポイント6 蓮花寺
本尊は、空海自筆と伝わる弘法大師画像。

ゴール地点:墨田区立第一寺島小学校


スタート地点の地蔵坂通りに面した墨田区立第一寺島小学校から歩き始めます。幸田露伴の次女の幸田文は、大正六年(1917年)に第一寺島小学校を卒業しています。



第一寺島小学校のはす向かいに都立墨田川高等学校の裏門があります。墨田川高等学校は、旧制府立七中を前身とし、かっては一高をはじめとする旧制高校や海軍兵学校・陸軍士官学校などへの進学者を輩出していました。文人墨客に愛された向島の地に設立されたことから、優秀な国語教師が多く在籍し、校歌は初代の砂崎徳三校長が近隣に居住していた幸田露伴宅にお三度参りをし、露伴がその熱意に心打たれて作詞したといわれています。ちなみに、作曲は「あかとんぼ」や「こいのぼり」で有名な童話作家である弘田龍太郎によるものです。



墨田川高等学校に隣接して「喜楽里すみだ工房」があります。喜楽里すみだ工房は、旧寺島図書館跡に建てられ、令和元年(2019年)4月1日にオープンした知的障害者の就労継続支援B型の施設です。施設内では利用者の能力に合った軽作業を取り入れ、一人一人の自立を支援しています。自主生産品の高級パンや、設立当時からの伝統を守ってきたクッキーはどこにも負けない美味しさです。広々としたカフェで焼きたてのパンを頂くこともできます。

魁(さきがけ)の地

明治十二年10月12日、この地に茅葺き農家を一部改修して、寺島村立寺島小学校が創立した。村の発展とともに児童が増え、明治三十九年頃、西校舎(現第一寺島小学校)に校地を拡大した。大正十二年に寺島町となり、大正十三年には第二寺島小学校が開校し、寺島小学校は第一寺島小学校となる。昭和三年には第三寺島小学校が開校する。寺島町では旧制中学校の誘致を進め、大正十一年の府立七中(現都立墨田川高校)開校に伴い、敷地の一部を分割し、新校舎が出来るまでは、この地にあった旧小学校の校舎を利用して授業をおこなった。子ども達の学びの場を整えた寺島町では、大人も学ぶ場として、昭和四年に寺島町立図書館を開館し、府立七中の先生を講師とした講座も開催された。公立の図書館が少なかった時代のため寺島町が向島区になると、図書館は都立日比谷図書館の分館となり、戦後、墨田区立となった。平成三十一年、障害の有無に関わらず差別のない、いきいきと暮らせる街をめざして「喜楽里すみだ工房」が開設された。寺島のまちで、教育・福祉を先導する施設が展開したこの地は、まちに暮らす人々の幸せをつむぐ「魁の地」と言える。なお、「公立寺島小学校発祥之地」石碑は、第一寺島小学校創立80周年を記念し建立され、書は、「書の巨人」と言われ、寺島小学校同窓生で文化勲章を受賞した「西川 寧」氏の揮毫となる。本石碑の他、子育て地蔵と白鬚神社にも西川氏の書が残されている。令和元年10月「墨田区立第一寺島小学校創立140周年」、「喜楽里すみだ工房開設」を寿ぎ、この解説板を設ける。
                                 第一寺島小学校同窓会




入口の脇には、昭和三十五年(1960年)に墨田区立第一寺島小学校の創立80周年を記念して建てられた「公立寺島學校發祥之地跡」の石碑があります。



墨堤通りから地蔵坂通りが分岐する交差点の角に、“日本一のきびだんご”の看板を掛けた「吉備子屋」があります。きびだんごの専門店で、茶屋風の店内に置かれたリアカーで作られたビー玉大の団子は、注文をしてから串に刺さったきびだんごを茹でてきな粉をまぶしてくれます。栄養価の高いタカきびで作られた団子はとてもやわらかで、お店特製のきな粉がたっぷりとかけられた団子は優しい味わいでほっこりします。お店で食べていくことも、お持ち帰りすることもできます。私は観ていませんが、「孤独のグルメ」にも登場したそうです。昔話の「桃太郎」を読んだ息子さんの「きびだんごが食べたい」という願いを叶えるために作り始めたそうです。



ポイント1 子育地藏堂

地蔵坂通りを挟んだ反対側に子育地蔵堂があります。



子育地蔵堂建立の経緯が案内板に書かれています。

子育地蔵堂

この御堂に祀られている地蔵菩薩は、文化年間(1804年〜1818年)に行われた隅田川の堤防修築工事の際に土中から発見されたと伝えられています。初めは村の子供たちが、神輿がわりにこの地蔵をかついでいたそうです。この地蔵には、次のような伝承があります。ある日、この地に古くから住む植木屋平作に雇われていた夫婦が川沿いの田地で殺される事件がおきました。犯人はすぐには分かりませんでしたが、この地蔵が村の子どもの口をかりて犯人の名を告げたのだとか。そこで平作は、この地に地蔵を安置して朝夕に供養するようになりました。その後、天保三年(1832年)四月に十一代将軍徳川家斉が鷹狩に来て平作宅にて休憩した際、この地蔵の由来を聞いて参拝しました。平作が、このことを記念して御堂を建てて地蔵を安置すると、人々はこぞって参詣しました。出産・眼病その他諸病の平癒開運を祈ると霊験が現れたそうです。当時は平作地蔵あるいは塩地蔵、また子育地蔵と様々な名前で呼ばれました。御堂前の坂は、明治四十四年(1911年)、堤防工事の土盛り以降、現在まで「地蔵坂」の名で親しまれています。昭和八年(1933年)に建てられた由来碑と御堂建立百年御忌供養塔は、地元出身の書家、西川寧(文化勲章受章者)が揮毫したものです。




左側の石碑が「子育地蔵尊御由来」碑、右側の細長い石柱が「子育地蔵尊御堂建立百年御忌供養塔」です。



墨堤通りを北方向に進んだ右手に白鬚神社があります。



白鬚神社は、天暦五年(951年)に慈恵大師が近江国の琵琶湖湖畔に鎮座する白鬚大明神の分霊をここに祀ったことが始まりとなっています。主祭神は猿田彦命で、古事記や日本書紀などによれば、正しい方位を示される国土開拓の神として記されています。現在では導き・みちひらきの神として商売繁昌や旅立安全・交通安全・方災除の神として人気です。白鬚神社は、かつては白鬚の森と呼ばれた緑の美しい場所にあり、向島八景・隅田川二十四景のひとつに数えられていました。江戸の風流人・文化人の詩碑や墓碑などが数多く残されています。白鬚神社は旧寺島村の鎮守で、隅田川七福神の寿老神(寿老人)を祀っていることでも知られています。お正月には初詣と合わせて、江戸時代新春の行楽「隅田川七福神めぐり」も行われています。

白鬚神社

祭神 猿田彦大神
   天照大御神  高皇産霊神
   神皇産霊神  大宮能売神
   豊由気大神  健御名方神

由緒
天暦五年(西暦951年)に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の御分霊をここにまつったと、社伝の記録は伝えている。天正十九年(1592年)には、時の将軍家より神領二石を寄進された。当社の御祭神猿田彦大神が、天孫降臨の際に道案内にたたれたという神話より、後世お客様をわが店に案内して下さる神としての信仰が生れた。社前の狛犬は山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が文化十二年に奉納したもので、その信仰のほどがしのばれる。明治四十年には氏子内の諏訪神社を合祀した。

隅田川七福神
当社に寿老神を配し奉るのは、文化の頃この向島に七福神をそろえたいと考えた時に、どうしても寿老人だけが見当らなかった。ふと白鬚大明神はその御名から、白い髪の老人の神様だろうから、寿老人にはうってつけと、江戸人らしい機智を働かせて、この神を寿老人と考え、めでたく七福神がそろったといわれる。隅田川七福神に限り、寿老神と神の字を用いる所以である。




寿老神様は拝めませんでしたが、案内板が立っています。

白鬚神社 寿老神

白鬚神社は往古の寺島村の鎮守であって、祭神を昔風に平たく申し上げると白鬚大明神である。江戸時代の終りに近く、町人文化が全盛の時期、当村の百花園に集っては風流を楽しんでいた文人たちが、隅田川の東岸で初春の七福神詣を始めようとしたとき、どうしても近縁の寺社に寿老人が見つからない。そこで機知を働かせ、鎮守の白鬚大明神は、白いお鬚の御老体であろうから、まさに寿老神としてたたえるのにふさわしいということになり、めでたく七福神が誕生したわけである。寿老神は、人びとの安全と健康とを守る長寿の神として崇敬されている。




境内には多くの石碑が建っています。富士塚はありませんが、向島の冨士講について記した案内板が立っています。

<墨田区登録文化財>
山玉向島講社の碑

山玉向島講社は、かつて向島地域にあった富士講の一つで、山玉深川元講の枝講だったと考えられています。明治八年(1875年)七月頃には既に存在し、構成員は主に寺島・中ノ郷・須崎の三地区に居住していました。専用の祭祀具をあつらえて月拝みを行い、夏季には二十名前後の人数で富士山を登拝していたようです。井戸の後ろに立つ石碑二基は、その山玉向島講社が大正十一年(1922年)三月に建立しました。向かって左側に立つ石碑には「奉納基本金 大正十一年三月」と見え、四代目先達玉山丈行、講元松本萬次郎、そして当時の世話人二十二名の名前が刻まれています。また、右側に立つ石碑には総勢八十二名の名前と五軒の屋号が確認できます。ここに立つ石碑二基は、このように百名をこえる人々が基本金の奉納を記念して建立したものです。基本金の意味するところは不明ですが、奉納者は屋号記名した五軒を除き全て男性です。これらの人々は各家の戸主であった可能性が高いことから、基本金の奉納は地域をあげて協賛すべき性格の事業だったと考えられます。なお、四代目先達玉山丈行は本名を重城丈吉といい、白鬚神社の氏子総代の一人でした。遅くとも大正七年八月までには大先達に昇格し、同九年八月三日には富士登山三十三度大願成就を果たして富士吉田の御師「大番城」の屋敷に記念碑を建立していました。左に立つ石碑は玉山丈行が講社創設以来四人目の先達に当たることを示しており、講社の沿革を知るうえでも貴重な情報を提供しています。




「黒人塚」と書かれた供養塔が建っています。てっきり、向島に住んでいた黒人のお墓かと思いましたが、実際は日本人の石碑だそうです。「塚」は墓の意味で使われることもある言葉で、アフリカ系の黒人の墓ではないかと憶測されましたが、実際は「黒人」と号した日本人のものです。浜辺黒人は本芝の書籍問屋の商人で、本名を斯波孟雅といいました。芝浜の頭目であり、当時流行っていた万句合同様、狂歌募集して選を出版する興行を始めたといわれています。応募者は入花料を収め、この塚は歌碑とのことです。享保から寛政までを生き、色黒でお歯黒までしていて、昔の本にはしばしば名前が出てきます。



鷲津毅堂の碑があり、毅堂の業績が刻まれています。鷲津毅堂は幕末・明治の漢学者です。文政八年(1825年)に尾張に生まれました。通称を毅堂または蘇州と号し、父・祖父ともに大変に徳望篤い人物でした。20歳の頃に江戸に出て昌平黌に学び、嘉永六年(1853年)に久留米藩に仕え、次いで尾張侯の招きに応じ侍読となり、さらに教授に進み、毅堂自身も子弟とともに学問に励みました。時に王政復古となり、藩主徳川康勝の議定官に任ぜられて国論を一定し、覇王の思想を隣藩にまで広めました。明治元年(1868年)に朝廷より権弁事を任ぜられ、明治二年(1869年)に大学少丞に転じます。そして権大書記官五等判事・司法少記官・東京学士会々員に列するなど、明治政府の要職を歴任しました。明治十五年(1882年)に司法権大書記官となりますが、同年10月5日に58歳で歿しました。なお、毅堂は永井荷風の母方の祖父にあたります。本碑の篆額は三条実美・撰文は三島毅・書は巌谷一六によります。

鷲津毅堂碑

鷲津毅堂は幕末明治の漢学者です。文政八年(1825年)尾張に生まれました。通称を毅堂または蘇州と号し、父、祖父とも大変に徳望篤い人物でした。二十歳のころ江戸に出て昌平黌に学び、嘉永六年久留米藩に仕え、次いで、尾張侯の招きに応じ侍読(じどく/じとう:天皇の側に仕えて学問を教授する学者のこと)となり、さらに教授に進み、毅堂自身も師弟とともに学問に励みました。時に王政復古となり、藩主徳川康勝の議定官に任ぜられ国論を一定し、覇王の思想を隣藩にまで広めました。明治元年朝廷より権弁事を任ぜられ、同二年大学少丞に転じます。そして権大書記官五等判事、司法少記官、東京学士会々員に列するなど明治政府の要職を歴任しました。明治十五年司法権大書記官となりますが、同年(1882年)十月五日、五十八歳で歿しました。なお、毅堂は永井荷風の母方の祖父にあたります。本碑の篆額は三条実美、撰文は三島毅、書は巖谷一六による碑です。




この地方の名産に、寺島ナスがありました。

江戸・東京の農業 寺島ナス

かつて、白鬚神社の周辺は寺島村といいました。元禄郷帳(1688年〜1704年)によれば、この地域一帯は、水田を主とする近郊農村でしたが、隅田川上流から運ばれてきた肥沃な土はナス作りにも適し、ナスの産地として、その名も「寺島ナス」と呼ばれていました。享保二十年(1735年)の「続江戸砂子温故名跡志」には、「寺島茄子 西葛西の内也。中の郷の先、江戸より一里余」とあり、「夏秋の中の嘉蔬(野菜の意味)とす。」また、文政十一年(1828年)の「新編武蔵風土記稿」には、茄子として、「東西葛西領中にて作るもの」として「形は小なれどもわせなすと呼び賞美す」と江戸近郊の名産であることが記されています。農家は収穫したナスを船を使って、千住や、本所四ツ目、神田の土物店(青物市場)等に出荷していました。江戸時代、悠々と流れる隅田川の東岸。田園地帯であった寺島に、後世に伝えるに値するナスの銘品があったのです。

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Terajima Nasu (Egg plant)

Terajima village around this Shirahige Shrine was paddy rice areas in the years 1688-1704. Fertile soil carried over from the upstream of Sumida River was also ideal for the egg plant which was popular as 'Terajima Nasu'. Farmers shipped their products by boats to the markets of Senju, Honjo-Yotsume and Kanda, etc.




路地を巡って明治通りに出る手前に法泉寺があります。

法泉寺縁起

法泉寺は永平寺と總持寺を両大本山と仰ぎ駒込吉祥寺を本寺とする曹洞宗のお寺です。今から約八百年前、源頼朝公の重臣で奥州を支配した葛西三郎清重公がこの下総国大沼に堤を築いて開墾し、父母追善供養の為に建立したと伝えられており、「寺島村」地名発祥の寺のひとつと云われています。天文元年(1532年)吉祥二世大州安充大和尚により伽藍が再興され、慶安元年(1648年)には江戸幕府より八石五斗の御朱印状を賜りました。寛文二年(1662年)銅造地蔵菩薩立像が建立されたほか、東京大空襲による焼失を免れた数々の文化財が継承されています。四百年の歳月を経て、なおやさしさを偲ばせる三百余基の石仏群が祀られ、粋でゆとり溢れる江戸文化が伝えられています。




門前に北斎の絵を解説した案内板が立っています。

寺島法泉寺詣

文政年間(1818年〜1830年)の中頃の摺物(すりもの)です。摺物とは狂歌師などが知り合いに配るために絵師に注文して作ったプライベートな版画で、売り物とは違い、採算を度外視した豪華な作品が多いのが特徴です。葛飾北斎が為一(いいつ)と名乗っていた60歳〜70歳代中頃の作品で、墨田区東向島の法泉寺を訪れる参詣客の様子が描かれています。門前の右の石柱に「新田義貞公守本尊髻不動明王寺嶌法泉寺」とあります。現在のところ、江戸時代の法泉寺に関する版画はこの作品だけであり、墨田区所蔵のピーター・モースコレクション以外では確認されていない唯一の作品で、墨田区指定有形文化財となっています。

Terashima Hosenji Temple mode (Pilgrimage to Hosenji Temple)

A surimono print from between 1818 and 1830. Surimono prints are woodblock prints that were commissioned for the private use of artists to distribute as gifts to comical tanka artists and other such acquaintances, and because they were not for sale, many of these prints feature a level of exaggerated gorgeousness that would not have been profitable under normal circumstances. This print was created by Katsushika Hokusai under the name of litsu when he was between 60 and 70 years old, and it portrays the many people who visit the Housenji Temple in Higashi-Mukojima, Sumida-ku, to pray. On the right-hand column to the right of the gate is written Nitta Yoshisada-Guardian-Acala-Hosenji. This is the only woodblock print related to the Hosen Temple in the Edo Period currently in existence, and no other ones have been confirmed outside of the Peter Morse collection that is stored in the Sumida-ku archives. It has been designated as a Sumida-ku Tangible Cultural Asset.




禅寺の門前には、よく「不許葷酒入山門」と書かれた石柱が建っていますが、「葷酒(くんしゅ)とは、臭気の強いネギ・ニラなどの野菜と酒を飲食することです。心を乱し修行の妨げになるので、そのようなもの(飲食した状態を含む)を寺の門内に持ち込むことは許さないという意味です。

不許葷酒入山門

葷酒山門に入るを許さず
寛政三年(1791年)二月二十一日

禅寺門前にある戒壇石。香りの強い葱・韮・大蒜等の野菜や酒等は心を乱し修行を妨げるため、寺内への持ち込みとそれらを口にした者の立入りを許さないという意。




境内に歌碑が建っています。

<墨田区登録有形文化財>
窪俊満「故郷の」の歌碑

江戸時代後期の浮世絵師・戯作者の窪俊満(1757年〜1820年)を偲び、彼の友人たちが文政四年(1821年)六月に建立しました。正面には俊満の作品で狂歌作品集にも掲載された「故郷の おやの袖にも やと(ど)るかと おもへは(ば)月は ふたつなきもの」という和歌が刻まれています。裏面には石川雅望による俊満の人物紹介と建碑の経緯を記した一文が刻まれています。書は秋元廣丸、碑刻は窪世祥が受け持ちました。




もうひとつ歌碑が建っています。句の切れ目がよく分かりませんねぇ。

千鳥庵鳥奏の歌碑
寛政九年(1797年) 短冊塚

散日からちるを盛や花の山

思ひきつて飛姿なりほとゝきす

我を山に捨て名月入に鳧

夕煙雪の野末に里ありや

                千鳥庵鳥奏




お地蔵様が立っておられます。

<墨田区登録有形民俗文化財>
石造地蔵菩薩立像

寛文二年(1662年)に祀られた舟形光背をもつ浮彫地蔵菩薩立像で、三人の導師と二十一名の建立者の名前が刻まれています。建立者の中には玉という女性の名前も確認できます。右手は欠損していますが、裳裾の状態から錫杖を持っていたと考えられます。総じて眉目秀麗な造りです。光背には紀年銘とともに「願以此功徳 普及於一切我等与衆生 皆共成佛道(願わくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に、仏道を成ぜんことを)」という有名な回向文が刻まれています。




境内の奥に立派な印塔がふたつ並んで建っています。

田中家 宝篋印塔(左)

田中金左衛門(延宝二年/1674年没)は寺島村の名主で、その子孫田中伊助(金六)は幕府の蝦夷地御用達とし多大な業績を残し浅草新寺町に屋敷を拝領しました。宝篋印塔は経典の奉納建造物です。平成三十年(2018年)の印塔移築の際に塔内より伊助丗七回忌法要(慶應三年/1868年)に納経された宝篋印陀羅尼経を確認しました。

齊藤家 宝篋印塔(右)

この宝篋印塔と江戸中期(1710年〜1790年)に建立された個人墓の戒名より、齊藤家の約三百年間の墓所継承が伺えます。当寺過去帳にも宝暦三年(1753年)小谷野・喜右衛門や明和五年(1764年)に小谷野・六右衛門の施主名があり、小谷野村(現・葛飾区堀切)の齊藤家祖先と伝えられています。




墓地の前に、幹や枝が切られた老木が立っています。源頼朝の時代から生きながらえたタブノキなんだそうです。ホントかなぁ。。。

タブノキ
墨田区特別保全樹木
樹齡約六百〜八百年

昭和五十年の地方自治体法改正の折、東京都から墨田区へ移管された唯一の保存樹です。日本初の林学博士で「公園の父」と言われ、丸の内から日比谷公園への巨木「首かけイチョウ」移植でも著名な本多静六氏は「本所の樹木と人生」(大正五年)で下記のように表しています。

「今を去ることは七百年前、源頼朝が隅田川を渡りし際、此の木に白旗を立てしという由来ある由緒あり此名木が・・(中略)・・蓋しこれ東部第一の大たぶにして又本所区内第一の老木なるべし。」




江戸時代の墓石が密集して並んでいます。家単位のお墓でなく、個人単位でお墓を作ったみたいですね。

江戸期 個人墓

江戸期のお墓は戒名を刻んだ個人墓で建立されました。ここには200年〜400年の歳月を経た有縁無縁を含め300余基の江戸期墓石をご供養し安置しています。その後お墓は明治以降に角柱石塔型先祖代々墓として広まりました。

   碑と向き合い、刻まれた文銘を読むと
      碑を建てた人への思いが広がる
                                    中野日出夫

中野先生は昭和五十二年より墨田区文化財調査員として多大な功績を残され、当山の個人墓など450基も考証して頂きました。




白鬚橋東詰交差点近くの墨堤通りに面したレストラン「カタヤマ」は、墨田区でステーキといえばこのお店の名前が必ず出てくると言っても過言ではない、墨堤通り沿いに位置する庶民的な洋食屋さんです。こちらのお店は主に前沢牛とオージービーフのステーキを中心にしているのですが、かなりお手頃な価格で美味しいステーキが味わえます。なので家族連れも多く、店内はいつも賑わっています。その為、休日に来店する際は多少待つことになります。でも、外で待つのではなく、お店の隣に待合用のスペースが用意されていますので大丈夫。お肉は国産かオージー、それぞれ4段階から選ぶことが出来ます。こちらのお店はステーキの美味しさを追求した結果、駄敏丁カット(ダビンチョウカット)というカット方法を考案し特許まで取得しているそうです。駄敏丁カットとは、下処理した肉を棒状に切断後、筋や余分な脂肪を取り除き、分厚くても柔らかい肉を形成するためのカット方式なんだそうです。



レストラン「カタヤマ」のすぐ先にある「八百七」は激安の野菜屋さんです。見た目はイマイチですが、味は普通に美味しい野菜が軒先に並んでいます。品物をよく選んで買えばとてもお得です。ミニトマトをどっさり買ったら、暫くはトマトばかり食べる羽目になりました。



ポイント2 東白鬚公園

東白鬚公園は、隅田川に沿うように南北に細長い公園です。付近は住宅や工場が多く点在する広範なゼロメートル地帯で、一度大地震が発生すれば大災害となる危険性の高い地域にある公園として様々な防災上の工夫がなされています。公園の東側に建ち並ぶ13階建ての高層住宅には防災シャッターや避難用ゲートなどが設置され、屋上には散水用放水銃もあって非常時に備えています。園内には火の粉や熱風から身を守るための樹木を多く植え、南と北にひとつずつある池は震災時等に避難者が利用する水洗式非常用トイレの水源として活用されます。公園中央に聳えるシンボルタワーは、江戸時代の火消人足組が高く掲げた纏をイメージしています。

防災拠点の緑の広場

墨田区の北端、隅田川に沿うように南北に細長い東白鬚公園は、緑とレクリエーションの場です。公園の東側には、13階建の高層住宅が並んでいます。公園と住宅、そしてリハビリ専門病院等をあわせ、この地域一帯は、江東デルタ地区の防災拠点。もし大地震や火災がおきた時には、公園は避難広場となります。

設置年月日  昭和六十一年6月1日
開園面積   103、127.60u
所在地    東京都墨田区堤通2丁目
主な植物   シイ、シラカシ、マテバシイ、ケヤキ、クロガネモチ、ヤブツバキ
施設     小野球場兼用競技場、テニスコート

Down town green plaza as disaster shelter

This is a long, narrow Higashi-Shirahige Park in the northern tip of Sumida River lying along the river town to south and is recreational area with new greenery. High-rise 13-storied residential buildings are lined up on the Eastern side of the park. This entire area with the park and the housing and a specialized renabilitation hospital is planned as a base for disaster prevention in the Koto Delta Region. The park is to be an open shelter in case of strong earthquake or big fire.




公園の南側には南池、北側には北池が設置されていて、非常用トイレの水源として使われます。

南池

この池の水は、震災時等に避難された方々が利用する水洗式非常用トイレの水源として活用されます。災害時に備えて、池の水を大切にしてください。

Minami Pond

The ponds are an emergency water source for flushing toilets in the event of an earthquake or other emergency. Please help to preserve this water for use during an emergency.




公園内にはあちこちに花壇が設けられていて、季節毎にいろんな花が咲いています。桜の園もありますね。



隅田川神社の手前に、「隅田宿跡」の案内板が立っています。

隅田宿跡

当地は古東海道の渡河地で、平安時代の末頃には隅田宿が成立していたといわれています。隅田宿は、治承四年(1180年)に源頼朝が布陣したと伝わる宿で(「吾妻鏡」)、元来は江戸氏など中世武士団の軍事拠点であったと考えられています。遅くとも南北朝時代までには人と物が集まる都市的な場が形成されたようで、歌人藤原光俊が詠んだという十三世紀中期の歌には、多くの舟が停泊してにぎわう様子が描かれています(「夫木和歌抄」)。また、室町時代成立の「義経記」には「墨田の渡り両所」と見え、隅田宿が対岸の石浜付近と一体性を有する宿であったらしいこともうかがえます。対岸との関係については今なお不明な点を多く残しますが、隅田川東岸部における宿の広がりについては、江戸時代の地誌に載る一部の伝承と絵地図が参考になります。それらを分析した研究成果によれば、所在範囲はおよそ図示したように想定されます。なお、人質にさらわれた梅若丸とその母の悲話を伝えた梅若伝説、そして罪業深い老母と娘の悲劇を伝えた石枕の伝説(一ツ家伝説)など、隅田川流域にはいくつか著名な伝説が残されました。この付近に成立した隅田宿は、そうした伝説を育む場でもあったようです。




ポイント3 隅田川神社

隅田川神社は、「水神社」と呼ばれ、かっては樹木が繁茂して「水神の森」とも称され、また隅田川の増水にあっても沈むことがなく「浮島」の名もありました。昔から河川交通の要衝であり、海運・運送業者の尊崇を集めていました。祭神は速秋津比古ほか三神を主神とし、また水の神様らしく境内には石亀や「船の錨」など、水や川や舟に関するものが祀ってあります。維新の時には社掌矢掛弓雄が大いに社運を盛り上げた模様で、彼の手になる歌碑、記念碑が多数残っています。また、墨田地域に残された伝統芸能「隅田囃子」の活動もこの神楽殿を中心に行われています。

水神の森跡

荒川下流のこの付近には、かつて浮島状の小さな森がありました。この森は、川を下ってきた人々にとっては隅田川の入口を知らせる森として、一方、川を溯上する人々にとっては鐘ヶ淵の難所が近いことを知らせる森として格好の目印となっていました。また、この森の中には水神を祀る小社が古くからあり、特に舟運業にかかわる人々の信仰を集めていました。その水神社が、現在ここに鎮座する隅田川神社の前身です。社伝によれば、神社の草創事情は不明ですが、治承四年(1180年)11月に源頼朝が暴風雨のなか隅田川を渡ろうとした時に安全祈願し、風波を鎮めたという伝説があります。また、嘉元年間(1303年〜1306年)に圓満院宮が隅田川を遊覧した際に立ち寄り、水神の梵字を書いて奉納したとか、戦国時代前期の江戸城主太田道灌が社殿を修造したなどという伝説もあります。江戸時代には、延宝年間(1673年〜1681年)に浅草山之宿・花川戸付近の人々が講を結んで水神祭を執行するようになり、これが元禄元年(1688年)を境に数艘の舟渡御を伴う例大祭へ発展したとされています。また、宝暦九年(1759年)には神輿を造営し、この時以来、6月の例大祭で神輿を供奉する舟が数艘くり出すようになったとも伝えられています。なお、水神社は、寛政九年(1797年)3月に造立された石造りの小さな祠を本社としていましたが、文化年間(1804年〜1818年)を越えた頃には、今日見るような立派な木造の複合社殿が建てられるようになりました(現存する社殿は、安政江戸地震の後の再建です)。

墨田区登録有形文化財 隅田川神社資料

水神社は元来神職無住の小社でしたが、明治元年(1868年)11月に備中国小田郡矢掛村(現 岡山県矢掛町)出身の矢掛弓雄(実名は朝倉二郎)が来住し、神事を司るようになりました。そして同六年6月に隅田川神社を正式の社号とし、興隆が図られました。こうしたことから、隅田川神社には、かつて矢掛弓雄によって管理されていた多数の什物が伝来しました。それらの中には、矢掛弓雄が嘉永元年(1848年)2月以降の京都遊学中に制作した各種絵巻物の写しなどがあります。また、矢掛自身が誂えた絵馬をはじめ、三種の神器や楽器、あるいは神社経営に関する帳簿や隅田川神社ほか周辺諸社の略縁起などもあります。さらに矢掛の文化活動の一端を示す資料もあり、中でも彼の手元に集められた当地の伝説に関係する遺物などは、草創期の郷土史研究のありようを彷彿させ、注目されます。なお、矢掛弓雄には、幕府の禁裏附(幕府が朝廷監視のために設置した役職)の下僚として勤務した時期がありました。また、京都御所を警固中に禁門の変(1864年)の勃発に接し、それ以降、あるいは水戸天狗党の鎮圧に向かう幕府軍に加わって敦賀(現 福井県)へ赴いたり、あるいは鳥羽・伏見の戦いに出陣するなど、幕末・維新期の激動を間近に目撃するような体験がありました。このため、什物の中には、そうした激変期の記憶を共有したと推定される福羽美静、鈴木重嶺、本居豊穎、小杉榲邨、小中村清矩など、当時活躍した人々との交流を示す資料も散見します。これら隅田川神社の什物は、「隅田川神社資料」763点として、平成三十一年3月8日付けで墨田区登録文化財に登録されました。




現在の社殿は、安政五年(1858年)に建築され、首都高の建設によって昭和五十年(1975年)に現在地に移築されました。社殿の斜め上には、首都高の高架が通っています。

墨田区登録有形文化財
隅田川神社社殿

隅田川神社社殿は、元来ここから100メートルほど北側にありましたが、首都高速道路向島線の建設に伴い、昭和五十年(1975年)頃、ここへ移されました。建築形式は、正面一間・側面二間・背面二間の本殿、正面一間・側面二間の幣殿、正面三間・側面二間の拝殿からなる、いわゆる権現造の複合社殿です。棟札によれば、この社殿は、嘉永元年(1848年)再建の旧社殿が安政江戸地震により倒壊したことから新築されました。拝殿が安政五年(1858年)、その奥の幣殿・本殿がそれぞれ元治元年(1864年)の建築です。また、当時の大工の名前も確認でき、拝殿が酒井兼次カ・手塚巳之助・同源次郎の三人、幣殿・本殿が手塚伊織による建築であったことが知られます(いずれも浅草在住の大工)。この社殿は、大正十三年(1924年)に屋根が瓦葺から銅板葺へ変更されましたが、破風などの屋根飾りのほか、足先の大きい蟇股や虹梁、本殿脇障子の彫刻が、江戸時代後期から幕末頃の特徴を示しています。隅田川神社社殿は、このように建築年と作者が明らかであり、かつ建築当時の意匠を良好にとどめた貴重な江戸時代の神社建築です。こうしたことから、令和二年八月二十七日付けで墨田区登録有形文化財に登録されました。

Before May, 1873, Sumidagawa-Jinja Shrine was called Suijin-sha Shrine and it serves as a place for worship of both Suijin (the gods of water), and Funadama (the guardian deity of ships). These gods are worshipped by the people who live near Sumida River, and in the old days were particularly revered by people whose livelihoods were in any way reliant on water transportation. The shrine buildings are a fine example of traditional Japanese Shinto architecture. The haiden hall used for worship that is the frontmost of the complex was built in 1858, while the heiden hall where the offerings to the deities are made and the honden where the kami are enshrined were both erected in 1864. In Sumida City, this shrine is a rare example of the early modern Shinto architecture.




狛犬ならぬ「狛亀」が睨みを利かせています。



再び、白鬚公園に戻ります。遊歩道脇に北斎の絵の解説版が立っています。

雪月花 隅田

雪景色の隅田河畔を描いた作品で、月の淀川、花の吉野と共に選ばれた三名所の一枚です。画面中央の森の中には木母寺と料亭「植半」、手前には水神社と呼ばれた隅田川神社を配し、厚い雪を積もらせています。当時はいずれも雪景色の名所と言われました。画面上下の濃い藍色が、夜が明け切らない早朝の印象を与えていて、静寂さとそこはかとない郷愁を感じさせる作品です。そして、静かな冬の朝の中にも舟で網を仕掛ける人や雪の中を行く二人の人物が描かれ、左下の都鳥らしき鳥たちもアクセントとなっています。文政末から天保初(1830年)年頃の作品です。

Setsugetsuka (Snow, moon and flowers) Sumida

This print depicts the snow-covered banks of the Sumida River, and it is one of the three famous scenes selected alongside Tsuki-no-Yodogawa and Hana-no-Yoshino. The Mokuboji Temple and the restaurant Uehan can be seen in the forest in the center of the print, and thick snow covers the Sumidagawa Shrine, which was known as the Water Shrine, in the forefront. This print is said to be the most famous of all snow scenes from that period. The faint azure color at the top and bottom of the print leave the impression that the scene is depicting early morning just as the dawn is breaking, and it portrays a silent and faintly nostalgic scene. It also includes fishermen casting their net and two people walking through the snow in the silence of the winter morning, and a bird that appears to be a black-hooded gull adds an accent to the bottom left-hand corner of the print. It was created around 1830.




小広場の真ん中に纏のモニュメントが置かれています。

まといのシンボルタワー

公園の中央にそびえるシンボルタワーは、江戸時代の火消人足組が高く揚げた「まとい」をイメージしたもの。「火事と喧嘩は江戸の花」といわれたように、町人町に家屋が密集し、ほとんどの建物が木と紙で組み立てられていた江戸時代に火災はつきものでした。江戸時代の消防は、延焼防止を目的とする破壊消防を主として、中期以降は、瓦屋根の普及、土壁・土蔵造りなどの防火建築が発達したといわれています。江戸城や大名屋敷の消防隊である「定火消」の発達に対して、町方の自衛消防隊の組織化はなかなか進みませんでした。しかし、八代将軍吉宗の政治改革の過程で、町奉行大岡忠相の指導によって「町火消」の設置が進められました。町火消は、地域ごとに火消組合を組織し、町が火消人足を定雇する消防隊。火事場で互いの勇敢さを競う火消人足の活躍は、文学や演劇の題材となり後世に語りつがれます。




モニュメントの土台の側面にはプレートが貼られています。

纏(まとい)。それは、江戸時代において、火事といえば即、纏といわれ、纏のもとに総力を結集して、消火活動を行い纏が火を消したとまでいわれていました。この公園は、大震火災時には、都民の安全を守る避難場所ともなっています。その安全をあらわすシンボルとして、ここに纏のモニュメントを建造しました。

(現在、社団法人・江戸消防記念会のもとに、11区89組があり、この纏は、第6区7番組のものをもとにしています。)




またまた北斎の絵の案内板が立っています。

梅若の秋月 −風流隅田川八景−

「風流隅田川八景」シリーズの一枚です。「たずねきて 問わばこたえよ 都鳥 すみだ河原の 露ときえぬと」の辞世の句で有名な木母寺に古くから伝わる「梅若伝説」を題材にしています。京の方から騙されて連れられてきた梅若丸は、病に倒れ、隅田宿あたりで僅か12歳の生涯を閉じました。母の花御前は悲しみのあまり狂女となり、我が子を探し彷徨ったと伝えられています。平安時代の話を江戸時代に置きかえ、生前に会えなかった母子が、絵の中では仲睦まじく舟遊びをしている姿で描かれています。文化中期(1804年〜1818年)頃の作品です。

Eight Views of the Elegant Sumida-gawa: Umewaka no Akizuki
(Full moon of Umewaka)

One of the Eight Views of the Elegant Sumida-gawa series. The theme of this print is the Legend of Umewaka handed down from ancient times by the famous Mokuboji Temple as a deathbed poem that goes, "Oh black-hooded gull, if my mother visits and asks, tell her that I have become one, with the dew that lies at the source of the Sumida River." Fooled into being brought from Kyoto, Umewaka Maru became sick and died at the Sumida Inn at the tender age of just twelve years old. His mother, Hanagozen, was so stricken with grief that she went insane, and it is said that she roamed around searching for her lost son. The print shows the two who were unable to meet in life happily enjoying a boat ride as the Heian Period turns into the Edo Period. The print was created between 1804 and 1818.




ポイント4 木母寺

木母寺(もくぼじ)は、貞元元年(976年)に忠円という僧がこの地で没した梅若丸を弔って塚(梅若塚:現在の梅若公園附近にありました)をつくり、その傍らに建てられた墨田院梅若寺に始まると伝えられています。梅若丸は「吉田少将惟房」という名の貴族の子でしたが、梅若丸が5歳の時に父を亡くし、7歳の時に出家して比叡山延暦寺に入りましたが、兵乱に遭い逃げる途中に人買いに騙されてこの地まで連れてこられました。この梅若丸の哀話は、後に浄瑠璃などの伝統芸能の題材となり、隅田川物と呼ばれるジャンルを形成することになりました。天正十八年(1590年)に徳川家康から梅若丸と塚の脇に植えられた柳にちなんだ「梅柳山」の山号が与えられ、江戸時代に入った慶長十二年(1607年)、近衛信尹によって梅の字の偏と旁を分けた現在の寺号に改められたと伝えられていて、江戸幕府からは朱印状が与えられました。江戸に下向する勅使たちが度々訪れていました。明治に入ると、神仏分離に伴う廃仏毀釈により「梅若神社」となりましたが、明治二十一年(1888年)に寺として再興されました。その後白鬚防災団地が建設されるに際し、現在の場所に移転しました。

木母寺由緒沿革

宗旨 天台宗  山号 梅柳山  本尊 慈恵大師(別名 元三大師)  総本山 比叡山延暦寺

当寺は平安時代中期の貞元元年(976年)天台宗の僧、忠円阿闇梨が梅若丸の供養のために建てた念仏堂が起源で、梅若寺と名づけて開かれました。文治五年(1189年)鎌倉時代、源頼朝が奥州遠征の途中に参拝し、長禄三年(1459年)室町時代、太田道灌が訪れ、梅若塚を改修したと伝えられています。天正十八年(1590年)安土桃山時代、徳川家康が参拝し、梅若丸と塚に植えられた柳にちなみ「梅柳山」の山号が与えられます。慶長十二年(1607年)江戸時代に前関白・近衛信尹が訪れ、柳の枝を筆代わりに「梅」の異字体「栂」を「木」と「母」とに分け書して以来、木母寺と改名されました。寛永年間、三代将軍・徳川家光の時代には境内に「隅田川御殿」が建てられ代々の将軍が鷹狩りや隅田川遊覧の休息所として利用され、さらに将軍家に献上するための御前栽畑が作られました。明治元年(1868年)神仏分離令に伴う廃物毀釈のあおりを受け梅若神社となりましたが、明治二十二年(1889年)に寺院への復帰を果たします。昭和二十年(1945年)に米軍の空襲を受けて本堂を焼失し、戦後に復興をとげますが、昭和五十一年(1976年)都市再開発法に基づく東京防災拠点建設事業の実施により、現境内へ移転します。

梅若塚

境内にある梅若塚は能・歌舞伎・謡曲・浄瑠璃等の「隅田川」に登場する文化的旧跡です。当寺に現存する寺宝絵巻物「梅若樟現御縁起」(上中下の三巻から成り、高崎城主・安藤対馬守重治が延宝七年(1679年)に寄進。墨田区登録文化財)には梅若塚の由来が描かれています。

梅若権現御縁起

平安時代の中頃、京都の北白川に吉田少将惟房と美濃国野上の長者の一人娘、花御前という夫婦がおりました。二人には子供がなく日吉大社へお祈りに行きました。すると、神託によって梅若丸という男の子を授かることができたのです。梅若丸が五歳の時、父親の惟房が亡くなり梅若丸は七歳で比叡山の月林寺というお寺へ預けられました。梅若丸は塔第一の稚児と賞賛を受けるほど賢い子共でした。その賢さが災いしたのか比叡山では東門院にいる稚児、松若丸と、どちらが賢いかと稚児くらべにあい東門院の法師達に襲われます。彼らに襲われた梅若丸は山中をさまよったのち、大津の浜へと逃れました。そこで信夫藤太という人買いに連れ去られ東国へと向かいます。旅の途中、病にかかってしまった梅若丸は貞元元年の三月十五日、隅田川の湖畔で

   尋ね来て 問はば応へよ 都島
      隅田川原の 露と消へぬと

と句を残し十二歳という若さで命を落としてしまいました。そこに通りかかった天台宗の僧である忠円阿闍梨は里人と塚を築き柳を植え弔いました。梅若丸が亡くなったあくる年、母は失踪した息子を探し狂女となって東国へと向かいます。そしてちょうど一周忌の日に隅田川に至り渡し守より梅若丸の死を聞きました。大念仏を唱えると梅若丸の霊が現れ再会を果たしますが梅若丸の姿はすぐに消えてしまいました。母は墓の傍らにお堂を建立し妙亀尼となって、そこで暮らしますが悲しみのあまり鏡ヶ池に身をなげてしまいます。すると不思議なことに霊亀が遺体を乗せて浮かびあがりました。忠円阿闍梨はそこに母親の墓所をたて母を妙亀大明神として祀り梅若丸は山王権現として生まれ変わったとのことです。

隅田川物

謡曲「隅田川」は世阿弥の息子、観世十郎元雅によって作曲されました。梅若丸と狂女となった母親の悲話として伝わる梅若丸物語は室町時代より「隅田川物」として能楽をはじめ浄瑠璃、歌舞伎、舞踊、謡曲などの演目として盛んに上演されてきました。この「隅田川物」を上演する際に、役者が梅若丸の供養と興行の成功ならびに役者自身の芸道の上達を祈念して「木母寺詣り」を行なったことから、芸道上達の祈願寺として大衆の信仰を集めています。




木母寺の歴史について解説した案内板が立っています。

木母寺境内之図 「新選東京名所図会・隅田堤」
山本松谷画 木母寺蔵

木母寺境内之図は明治三十一年(1898年)、梅岩塚の再興から十年を経た風景です。春昼、俄か雨の中、傘をすぼめて足早に行く婦人を近景として絵の中央に梅若堂、右手に本堂、左奥に料亭、植半が描かれています。この絵の中の世界は昭和二十年四月の戦災をもって過去のものとなりました。そして、画中御堂(梅若堂)だけが、身に多くの爆弾弾片の傷跡を残しながら、時の証人として生き続けています。

木母寺の変遷

江戸時代、当寺では梅若忌(梅若丸を供養する大念仏の行事)や開帳がおこなわれ、多くの参拝者を集めていました。また、幕府から寺領二十五石を与えられ歴代将軍・将軍世子・公家・大名・文人など当代の貴顕とともに、一般庶民も多く訪れる隅田川遊覧の代表的な名所でした。時代が江戸時代から明治時代にかわると、廃仏毀釈により明治元年(1868年)に廃寺し、寺の堂舎は取り除かれ跡地には梅若神社が創建されました。徳川家の庇護を失った梅若神社の経営は苦しく、存続の危機に陥りますが、多くの地域住民と政財界の有力者および文化人たちの支援を受け、明治二十二年(1889年)に寺院への復帰を果たします。神社を再び仏寺にすることは、当時としては非常に困難な事業であり、当寺では、これを明治中興と称しています。その後も、昭和二十年(1945年)四月十三日に米軍の空襲を受けて本堂・庫裏を焼失。さらに同月十五日に爆撃を受け、梅若堂や境内の石碑が大きな被害を被りました。昭和二十五年(1950年)に仮本堂を建立し、二十七年(1952年)に梅若忌が再開され今日に至ります。




境内の中央に能楽堂のような建物があります。

梅若堂

この仏堂は明治の廃仏で一時、梅若神社とされた梅若塚が再び仏式に復帰した年、すなわち明治二十二年の建立になります。当寺一帯が全焼した昭和二十年四月の戦災にも焼失を免れた唯一の仏堂ですが、その後の空襲で受けた爆弾々片による痕跡が所々にみられます。防災拠点内であるため木造建造物の存置は許可されず、覆堂内に納められることになりました。




謡曲「隅田川」のいわれが解説してあります。

謡曲「隅田川」と木母寺

謡曲「隅田川」は、我が子の行方を尋ねさまよう母の悲劇をテーマにした狂女物の代表曲で、探し求めた我が子は既に亡く、その墓前で亡き子の霊の声のみ聞く哀れさは、本曲の圧巻である。梅若権現縁起に「梅若丸は吉田少将惟房郷の子、美濃国野上宿に生まる。母の名は花子。五才で父を失い、七才の時比叡山に登り修学中、人買いに欺かれ、ここ隅田川原まで来たが病を得、貞永元年三月十五日此の地にみまかる。時に十ニ才。いまわの際の「尋ね来て 問わば応えよ 都鳥 隅田川原の 露と消えぬと」との詠歌を哀れんだ天台の僧忠円が里人と計り、一堆の塚を築き柳一株を植えて標とし跡を弔う。これが梅若寺の起源となる。慶長十二年(1607年)梅の字を分けて木母寺と改名された」と書かれている。




梅若堂の脇に梅若塚が移築されています。

梅若塚

   「たづね来て 問はばこたえよ 都鳥
      すみだ河原の露ときえぬと」

の辞世で名高い梅岩塚は中世からは能「隅田川」の文学的旧跡、また江戸時代には梅若山王権現の霊地として尊信されました。




境内には大小いろいろな石碑が建っています。

境内の諸碑

「梅若塚」で知られる境内には、謡曲「隅田川」の碑など30基の石碑があり、著名なものとしては次の諸碑があります。

◆華笠文京翁碑
幕末に出た劇作家花笠文京(魯助)の数奇に富んだ生涯を述べた碑で、弟子である仮名垣魯文が建てました。

◆天下之糸平の碑
高さ五メートル、幅三メートルを越す都内一の巨碑です。明治の初め、貿易で成功を収めた田中平八(通称天下の糸平)の石碑です。親交のあった政治家、伊藤博文の書です。

◆三遊塚
三遊亭円朝が先師初代円生追福のため、明治二十二年に建てた碑です。題字は山岡鉄舟、銘文は高橋泥舟の書です。

◆題隅田堤桜花(隅田堤桜花に題す)の詩碑
亀田鵬斎の作ならびに書で「長堤十里、白にして痕なし、訝しむ澄江の月と共に渾るに似たるを。飛蝶還り迷う三月の雪。香風吹き度(渡?)る水晶の村」と読みます。銘文は九歳の少年、清水孝の書です。文政十二年建立。




「華笠文京翁碑」です。案内板はありません。



「天下之糸平の碑」です。

天下之糸平の碑

幕末から明治にかけて活躍した実業家、田中平八の石碑です。平八は横浜で生糸売込と洋銀売買で巨利を得て、「天下の糸平」と呼ばれました。表面の文字を揮毫した伊藤博文は平八と親交があり、わが国初代の総理大臣です。碑の裏面には平八の生涯と平八と交友があった渋沢栄一など明治の政財界の知名人の名が列ねてあります。これらの人々は木母寺の明治再興(明治二十二年)に協力され、その縁で二年後に建碑されました。高さ5.2メートル、幅3メートル、重量80トンある都内第一の石碑です。




「三遊塚」の碑です。

三遊塚

初代円生(1768年〜1838年)の追善供養と三遊派落語の隆盛を祈念して、三遊亭円朝が明治二十二年(1889年)に建立され(し?)ました。題字は「幕末の三舟」といわれた山岡鉄舟、裏の銘文は高橋泥舟の筆によるものです。




「題隅田堤桜花(隅田堤桜花に題す)の詩碑」です。案内板はありません。碑文には、

   題隅田堤桜花
   長堤十里白無痕   訝似澄江共月渾
   飛蝶還迷三月雪   香風吹度水晶村

と刻まれているそうです。ちなみに、

隅田堤
隅田川東岸の堤のことで、「墨堤」とも呼ばれます。八代将軍徳川吉宗が「庶民が楽しめるように」と桜などを植えさせて以来桜の名所となりました。

長堤
長くつづく堤のことで、隅田堤を指します。

澄江
清く澄んだ川のことで、隅田川を指します。

飛蝶
飛び舞う蝶のことです。

香風
香気を帯びた風のことです。

水晶村
水晶のように美しい村のことです。隅田川が増水すると隅田堤周辺の村々が水で覆われることを表現したものです。




東白髭公園に戻ります。緑濃い木々は防災林の役割も果たしています。

東白鬚公園防災樹

この公園は、江東再開発基本構想に基づき災害時における避難広場の確保と生活環境の整備を目的としてつくられたものです。樹木には、火災による火の粉や熱風から人を守る働きが有ります。このため公園の樹木も防火力の大きい常緑広葉樹を中心に枝葉の密なシイノキ、シラカシ、タブノキ、マテバシイ、ツバキ類などを用いました。この公園は避難した人々を火から守り、火災の延焼を防ぐようつくられたものです。また、ふだんは緑とレクリェーションの広場として広く利用されています。




高層住宅の棟の間には、火災時に炎が内部に入らないようにするためのシャッター式の壁を配置したり、防火扉として五つの門(鐘淵門・梅若門・水神門・寺島門・白鬚橋門)を設けています。ちなみに、「鐘ヶ淵」の由来について解説した案内板が立っています。

「鐘ヶ淵」の由来

鐘ヶ淵は、隅田川と綾瀬川の合流地点で、堤通二丁目の地先にあたります。江戸時代後期の「墨水遊覧誌」には鷺の名所であったと記されています。かつて隅田川が直角に曲がり、それが大工道具の指矩に似ていることから「かねが淵」と呼ばれるようになったといわれています。鐘ヶ淵には、鐘にまつわる伝説がいくつもあります。たとえば、普門院が亀戸(江東区)に移転する際、梵鐘が隅田川に落ちたまま引き揚げられずに沈んでいるという話や、石浜の保元寺(台東区)の鐘が壊れて隅田川に転がり落ちたという話、あるいは八代将軍徳川吉宗が川底に沈んだ長昌寺(台東区)の鐘を引き揚げさせようとしたができなかったなどという話が伝えられています。明治時代には、周辺の開発が進み、紡績工場が建てられて、社名を鐘ヶ淵紡績株式会社としました。この会社こそ、後に世界有数の紡績会社に成長した「鐘紡」で、このエリアにはその東京工場があり、周辺には工場に勤める多くの職員が暮らしました。工場は昭和四十四年(1969年)に操業を停止し、それから次第に景観を変えていきました。




鐘ヶ淵陸橋交差点の角に、葛飾北斎の「富嶽三十六景 隅田川関屋の里」のパネルが立っています。関屋の里は「江戸名所図会」によれば、木母寺より北の牛田村の隅田川に面した一帯を指しています。疾駆する三騎連れの武士は領国への急を知らせる早馬でしょうか。早朝の朝駆けの使者の気ぜわしさが感じられます。馬や武士たちの服の色は異なり、華やかな色どりさえ感じさせます。躍動感のある近景に対して、静かで雄大な赤富士を遠景に持ってきた北斎の構図が窺えます。

隅田川関屋の里 −冨嶽三十六景−

葛飾北斎が72歳頃に版行した代表作「冨嶽三十六景」シリーズの一枚です。現在の墨田区堤通2丁目から足立区千住曙町、千住関谷町のあたりが描かれています。画面には高札以外の家も見えず草原と田んぼが広がり、手前から奥へ蛇行して伸びる土手と存在感ある松、朝焼けの富士山が見える穏やかな早朝の中、疾走する三騎の人馬は躍動感に溢れている印象的な作品です。武士たちの衣装、馬体、馬具の細部に至るまで明るい色使いが施されています。天保二年(1831年)頃の作品です。

Thirty-six Views of Mount Fuji: Sumida-gawa Sekiya no Sato

A print from the representative Thirty-six Views of Mount Fuji series created by Katsushika Hokusai when he was about 72 years old. This scene depicts the area around Senju Akebono-cho and Senju Sekiya-cho in Adachi-ku as seen from the current 2-Chome Tsutsumi-dori, Sumida-ku. Apart from an official bulletin board, no houses can be seem amid the grasslands and paddy fields, and the impressive pine tree on the bank stretching from the foreground into the distance and the sight of Mt. Fuji bathed in the sunrise produce a very impressive piece of work overflowing with three horseback riders racing through the peaceful early morning scene. The samurai warriors, the horses and the harnesses are all depicted in bright colors. This print was created around 1831.




ポイント5 榎本武揚像

都営白髭東アパートの中央付近に小さな梅若公園があり、榎本武揚の銅像が建っています。



榎本武揚は明治四十一年(1908年)に73歳で亡くなり、大正二年(1913年)に榎本武揚が晩年を過ごした墨東(隅田川東岸)の木母寺境内に銅像が建立されました。その後、木母寺は移転して、かつての境内は現在の都営白髭東アパートの敷地になりましたが、榎本武揚像は動かされずに建立された場所に残りました。高さ4mの台座の上に、高さ3mの榎本武揚像が聳え立っています。

墨田区登録有形文化財
銅造榎本武揚像

本像は、榎本武揚没後の大正二年(1913年)五月に建立されました。銅製で、像高は約3メートルあり、南を向き、大礼服姿で荘重な趣を呈しています。彫刻は、衣服の質感や顔の表情が細かく表現され外形描写に優れています。榎本武揚(1836年〜1908年)は、戊辰戦争終盤の箱館戦争で明治新政府軍と戦った旧幕臣として著名な人物です。武揚は箱館戦争の中心人物として投獄されましたが、維新後は明治政府に出仕し、文部大臣、外務大臣等、政府の要職を歴任しました。晩年は向島に構えた別荘で過ごし、馬に乗って歩く姿が見られたようです。建立にあたっては、大隈重信や大倉喜八郎、渋沢栄一、益田孝など政財界を代表する人物等が協力しました。原型作者は藤田文蔵と田中親光であり、鋳造者は平塚駒次郎です。この銅像は、平成十二年十二月七日に墨田区登録文化財に登録されました。

The Bronze Statue of Enomoto Takeaki

This statue was erected in May 1913 after the death of Enomoto Takeaki. The statue, made of bronze with about 3 meters in height, is facing south and showing solemn appearance with full-dress uniform. The sculpturing is excellent in outline description with fine texture of clothing and expression of his face. Enomoto Takeaki (1836 - 1908) is prominent as one of the former retainers of shogunate, who fought against Meiji New Government Army at the Hakodate War, which was the last stage of the Boshin War. People representing political and business worlds, such as Okuma Shigenobu, Okura Kihachiro, Shibusawa Eiichi and Masuda Takashi, cooperated in building the statue. The sculptors of original mold are Fujita Bunzo and Tanaka Chikamitsu, and the caster is Hiratsuka Komajiro.




大きな石台に、榎本武揚の生涯と銅像建立の経緯が記されています。

墨田区登録有形文化財
銅造榎本武揚像

「榎本武揚」
榎本武揚は、天保七年(1836年)に幕臣の子として江戸に生まれ育ち、昌平坂学問所(昌平黌)で学び、安政三年(1856年)幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入りました。その後、オランダに留学し、最新の知識や技術を身につけ、慶応二年(1866年)幕府注文の軍艦開陽丸を回送し帰国しました。武揚帰国後の日本は「大政奉還」「王政復古」という体制転換を迎え、武揚は戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館戦争では、五稜郭を中心に明治政府に抵抗しましたが、明治二年(1869年)降伏しました。その後、武揚は投獄されましたが傑出した人材として赦免され、明治政府に出仕しました。明治八年(1875年)には、海軍中将兼特命全権公使として、樺太(サハリン)・千島交換条約の締結に尽力しました。明治十八年(1885年)伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命されると、旧幕臣でありながら逓信大臣に就任以降、文部、外務、農商務大臣などの要職を歴任しました。また、東京農業大学の前身である私立育英黌農業科を創設したほか、化学、電気、気象などの各学会に関わりを持ち、日本の殖産産業を支える役回りを積極的に引き受けました。晩年は成島柳北邸(現言問小学校)の西側に屋敷を構え、悠々自適の日々を過ごしました。明治四十一年(1908年)10月に73歳でなくなりましたが、墨堤を馬で散歩する姿や、向島百花園で草花を愛でる姿が見られたそうです。

Sumida Ward Registered Tangible Cultural Property. Statue of Enomoto Takeaki
Enomoto Takeaki was born in 1836 to a retainer of the shogun. In the Boshin Civil War (1868-1869), Enomoto led the forces of the former shogunate and occupied the Goryokaku star fortress in Hakodate, Hokkaido. Although imprisoned after losing the Battle of Hakodate, his talents were recognized by the new Meiji government, who pardoned him and appointed him to a government post. In addition to negotiating the Treaty of Saint Petersburg (1875) as a special envoy to Russia, Enomoto went on to serve as Minister of Communications, Minister of Education, Foreign Minister, and Minister of Agriculture and Commerce at various times throughout his career. He was also given the rank of viscount. He died on October 26, 1908, at the age of 73. According to historical accounts, he was often seen riding his horse along the banks of the Sumida River and admiring the flowers of Mukojima-Hyakkaen Garden.

「銅像について」
本像は青銅製で、高さ約400cmの台座上に像高約300cmの榎本武揚の立像が乗っています。建立は大正二年(1913年)5月で、当時の木母寺の境内である当該地に建てられました。白鬚東地区防災拠点建設に伴い木母寺は移転しましたが、本像は当該地に残されました。本像の原型作者は田中親光、藤田文蔵、鋳造者は平塚駒次郎であることが台座背面に記されています。また、建設者に大隈重信、大倉喜八郎、渋沢栄一など当時の政財界の代表的人物が名を連ねています。原型作者のひとりである藤田文蔵は、洋風彫刻界における先覚者として位置づけられ、代表作に陸奥宗光銅像(外務省)や井伊直弼銅像(掃部山公園、太平洋戦争で供出)、狩野芳崖胸像(東京国立博物館)などが知られています。




梅若公園の奥に梅若丸の史跡があります。

東京都指定旧跡
梅若塚

梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で、謡曲「隅田川」で知られます。梅若丸は京都北白川の吉田少将惟房の遺児で、比叡山で修行中に信夫藤太という人買いによりさらわれ、奥州に向かう途中隅田川のほとりで死にます。その死を哀れんだ天台宗の高僧忠円が築いた墓が梅若塚であると伝えられます。木母寺は忠円により梅若塚の傍らに建てられた墨田院梅若寺が始まりとされます。塚は梅若山王権現として信仰を集めました。木母寺は当該地周辺にありましたが、白髭防災団地建設に伴い現在地に移転しています。

Historic Places
Umewakazuka (The Mound of Umewaka)

Umewakazuka is said to be a grave of Umewakamaru, who is known for a Noh song "Sumida River" concerns to his legend. According to this legend, Umewakamaru was an orphan of Yoshida Shosho Korefusa. Studying in Mount Hiei, he was kidnapped by a slave-dealer Shinobuno Tota. On the way Tota took him to Oshu (present Tohoku region), Umewakamaru got sick and died on the bank of Sumida River. A high monk of Tendai Sect, Chuen, felt a pity for his death and buried him in a mound. This is said to be the mound of Umewaka. Mokuboji Temple is originated from Sumidain Umewakadera Temple which was built beside the mound made by Chuen. Mokuboji Temple and the mound had been located around here, but were both moved to the current place due to the construction of the disaster prevention facilities.




梅若塚の案内碑があります。

梅若塚

梅若塚は、謡曲「隅田川」で知られる「梅若伝説」に登場する伝説上の人物である梅若丸の墓であると伝えられます。梅若丸は、京都北白川の「吉田少将これふさ」と美濃国野上の長者の一人娘「花御せん」の子で、父の死後、7歳で比叡山に入り修行に励みます。梅若丸の秀でた才能は評判になりますが、松若丸という同じく優秀な同輩との争いが原因で、みちのくの人商人(人買い)、信夫の藤太にかどわかされてしまいます。奥州に連れて行かれる途中、なれない長旅の疲労により重い病にかかり、藤太は梅若丸を隅田川のほとりに置き去りにしてしまいます。里人たちの看病もむなしく、「たつね来て とはゝこたへよ みやこ鳥 すみたかはらの 露ときえぬと」という辞世の句を残し、貞元元年三月十五日、梅若丸はわずか12歳でその生涯を閉じます。その死を哀れんだ出羽国羽黒山の高僧で下総の御坊忠円阿闍梨が墓を築き、一本の柳を植えて菩提を弔ったのが梅若塚であると伝えられ、梅若丸は山王権現として信仰の対象となっています。

Umewakazuka
(The Mound of Umewaka)

Umewakazuka is said to be the grave of Umewakamaru, a legendary figure known from the Noh song "Sumida-gawa" (Sumida River). According to legend, Umewakamaru was the child of Yoshida Shosho Korefusa of Kitashirakawa in Kyoto. While training at Mount Hiei, he was kidnapped by a slaver named Shinobuno Tota, who tried to take him to Oshu (in modern Iwate Prefecture in northern Japan). Along the way, Umewakamaru became very ill and died on the banks of the Sumida River. Saddened by this death, high monk Chuen of the Tendai school of Buddhism built this grave, Umewakazuka.

「梅若塚と木母寺」

木母寺は梅若塚の傍らに建てられた草庵が梅若寺と呼ばれるようになったのが始まりとされます。その後「梅」の字を分けて「木母」となったと言われます。木母寺は当該地周辺にありましたが、白鬚東地区防災拠点建設に伴い、現存する梅若堂、梅若塚と共に現在の場所に移転しています。

「梅若塚と妙亀塚」

妙亀塚(都指定旧跡)は、梅若丸の母親の墓であると言われます。我が子を探し求めこの地まで来た母親が里人から梅若丸の死を知らされ、梅若丸の菩提を弔うために庵を結びました。その後、母は底なし池に身を投げてしまいます。母が身を投げた池は隅田川の対岸、浅茅か原(現在の台東区橋場付近)にあった池と言われ、妙亀塚は妙亀塚公園(台東区橋場)内にあります。

「梅若権現御縁起」

「梅若伝説」を伝える絵巻物として、「紙本着色梅若権現御縁起 附 漆箱二匣」(墨田区指定有形文化財)があります。これは高崎城主安藤対馬守重治が、延宝七年(1679年)3月に寄進したもので、現在も木母寺が所蔵する寺社縁起物です。原本は保存のため非公開ですが、すみだ郷土文化資料館で複製を所蔵しており、展示されています。

「隅田川物」

謡曲「隅田川」は世阿弥の子、観世元雅によって作曲されました。「隅田川物」とは、この梅若伝説を扱った謡曲「隅田川」を原点とした江戸文芸のジャンルの一つで、歌舞伎や浄瑠璃などで様々な作品が生まれました。




明治期の木母寺の境内を描いた絵が添えられた案内板があります。木母寺の境内の案内板に添えられていた絵と同じですね。

明治期の木母寺境内

江戸時代の木母寺は幕府から寺領を与えられ、多くの参拝者を集めていましたが、明治時代になり神仏分離令に伴う廃仏毀釈のあおりをうけ木母寺は廃寺し梅若神社となりました。幕府の庇護を失った梅若神社の経営は苦しく、存続の危機に陥りますが、様々人々の支援を受け、明治二十二年(1889年)に寺院への復帰を果たしました。現在の木母寺に移築され現存する梅若堂は、木母寺が再興されたのちに建立されたもので、戦時中の空襲から奇跡的に焼失を免れたものです。「木母寺境内之図」は、その梅若堂が当該地に建立された明治期の木母寺の様子を伝える貴重な資料です。画面の中央に梅若堂、右手に木母寺の本堂、左手に料理茶屋がそれぞれ描かれており、堂を中心とした木母寺境内の様子が描かれた一枚です。

Mokuboji Temple Grounds in the Meiji Period

The Umewaka-do is a shrine to Umewakamaru that is today located at Mokuboji, a Buddhist temple. Mokuboji was originally shut down in the Meiji Period due to the anti-Buddhist movement associated with the Meiji government's official separation of Buddhism and Shintoism. In 1889, Mokuboji Temple was restored and the Umewaka-do was built within it. Miraculously, these buildings avoided destruction by air raids in the Second World War. The painting "Mokuboji Temple Grounds" is a precious work of art that depicts Mokuboji Temple in the Meiji Period when the Umewaka-do was constructed there. Umewaka-do is placed in the center of the picture, with the main Mokuboji temple building to the right and a traditional Japanese restaurant (ryotei) to the left. Although this is a picture of the Mokuboji temple grounds, what is located in the center is not the main temple building but Umewaka-do. From this, it is well understood that Umewaka-do truly makes Mokuboji what it is.




墨堤通りに面して、隅田川神社の鳥居が建っています。参道は都営白髭東アパートを貫いて、東白鬚公園の奥にある拝殿まで延びています。隅田川神社の創建について記録はありませんが、源頼朝が創建したものと伝えられています。元の名を浮島神社といい、古くは水神社・水神宮・浮島宮などとも呼ばれ、「水神さん」として親しまれてきました。明治五年(1872年)に現在の社名に改名されました。隅田川神社は地域の鎮守神であると共に、隅田川一帯の守り神でもあり、水運業者や船宿などの川で働く人たちの信仰を集めた他、「水神」の名から水商売の人々にも信仰されました。



ポイント6 蓮花寺

白鬚橋東詰交差点を左折して明治通りに入ります。向島百花園の裏手を通り、くら寿司東向島店の向かい側の路地に入ります。隅田川高校の正門と向い合って蓮花寺があります。



蓮花寺は、「寺島大師」とも呼ばれ寺島の地名のいわれともなった古刹です。江戸時代には霊験あらたかな厄除け大師として有名で、川崎大師平間寺・西新井大師総持寺と共に江戸三大師といわれていました。京都智積院末で真言宗に属し、本尊は空海寺自筆の弘法大師画像と伝えられています。この寺の開山については諸説がありますが、鎌倉幕府五代執権・北条時頼の甥にあたる頼助が諸国回遊の折に寺島に一寺を建立し、時頼が鎌倉に創建した蓮華寺(現在は蓮花寺)を遷したものといわれています。



門前に道標が二基保存されています。ともに蓮花寺とは縁の深い道標です。文化文政の頃には「寺島の大師」として、川崎・西新井の大師と並んで江戸三大師のひとつとして栄えていましたので、厄除けの護符を求めて来る大師参りの人々のために建てられた道標なのでしょう。

<墨田区登録文化財>
道標・二基

「女人済度御自筆 弘法大師」の道標
左右側面に「大しみち(大師道)とあり、もと地蔵坂を登った墨堤にあったものです。片方は蓮花寺で、もう片方の「大しみち」は西新井大師を指したと考えられます。文化十五年(1818年)の建立です。台石に「と組」と記されているので、江戸火消しが建てたのでしょう。

「厄除弘法大師」の道標
右側面に「西 白ひけ はしはみち(白鬚 橋場道)」とあります。文面から、門前に建てられていたものと考えられます。文政五年の建立です。

ともに蓮花寺とはゆかり深い道標です。文化文政のころには「寺島の大師」として、川崎・西新井の大師と並んで江戸三大師の一つとして栄えていました。厄除けの護符をいただきにくる大師参りの人々のために建てられた道標に違いありません。




左が「女人済度御自筆 弘法大師」の道標です。右が「厄除弘法大師」の道標です。



ゴール地点の墨田区立第一寺島小学校に戻ってきました。



ということで、墨田区で八番目の「G緑ゆたかな公園と、歴史を感じながら歩くコース」を歩き終えました。次は墨田区で九番目のコースである「H東部のおだやかな自然と歴史ある寺社をめぐるコース」を歩きます。




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