- H東部のおだやかな自然と歴史ある寺社をめぐるコース
- コース 踏破記
- 今日は墨田区の「H東部のおだやかな自然と歴史ある寺社をめぐるコース」を歩きます。北十間川沿いの遊歩道を歩き、吾妻橋の名前の由来となった吾嬬神社に詣で、その後は穏やかな旧中川沿いの散策を楽しみます。最初に歩いたのは2022年の3月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年5月に改めて歩きました。
H東部のおだやかな自然と歴史ある寺社をめぐるコース
旧中川水辺公園は開けていて気持ちがよく、河川敷には渡り鳥が来ることも。自然や古くからある寺社が残っていて、すみだの歴史が感じられます。(提案者:区民・米田さん)
「H東部のおだやかな自然と歴史ある寺社をめぐるコース」の歩行距離は約4.0km(約5、700歩)、歩行時間は約1時間、消費カロリーは約180Kcalです。
- スタート地点:十間橋
-
十間橋と柳島歩道橋から眺めるスカイツリーは見事!
↓
- ポイント1 法性寺
-
葛飾北斎も参拝していたといわれる歴史あるお寺。
↓
- ポイント2 吾嬬神社
-
吾妻橋の名前の由来になったともいわれる。鎮守の森と狛犬が見もの。
↓
- ポイント3 立花大正民家園
-
幾多の災害もまぬがれた大正時代の民家。建物内も見学できます。
↓
- ポイント4 旧中川水辺公園
-
川には鳥や魚などの生き物がいて、春には桜を楽しむことも♪土手の上からスカイツリーも顔を出します!
↓
ゴール地点:ゆりのき橋
今回から新しいパソコンを使ってHPを作成していきます。今まで使っていたパソコンは取り立てて不満もなく使い易かったのですが、Windows12がなかなか出てこないので痺れを切らして買い換えました。4年の間にパソコンのスペックはより高性能になり、私にはちょっと贅沢な構成になりました。
CPU:Intel Core i7(6コア/12スレッド)→(10コア/12スレッド)
メモリ:16GB→32GB
ストレージ:256GB SSD+2TB HDD→2TB SSD
でも、スペックが上がった割にはそれほど速さは感じません。あと、気になった点は、
@電源口がなくなり、USB−TypeCポートを使うようになったこと。
通常、電源は差しっぱなしなので、折角のUSB−TypeC3.2ポートが塞がれて無駄になっています。
なんでこんな設計にしたのでしょうか?
A同じWindows11なのに、ユーザーインターフェースが異なっています。慣れるまで戸惑いそうです。
BOfficeはサブスクなので簡単にインストールできますが、OUTLOOKが新旧バージョンあって、間違いやすいです。
サブスク対象はCLASSIC版ですが、新しいOUTLOOKを選択すると見た目も使い方も全く異なります。
なんだかんだで、移行が終わるまでに1日を費やしました。今はなんとか新しいパソコンでHP作りにいそしんでいます。
スタート地点の十間橋から歩き始めます。十間橋の最寄り駅は、半蔵門線・東武線・京成線・都営地下鉄の押上駅になります。十間橋は北十間川に架かる橋です。北十間川はかっては見向きもされなかったドブ川でしたが、東京スカイツリーの開業でにわかに表舞台に出ました。それと共に、東京スカイツリーの絶景ポイントとして十間橋もその存在が知られるようになりました。
北十間川は江戸時代初期に開削された運河で、西は隅田川、東は旧中川と接続します。総延長3.24kmの荒川水系の一級河川で、横十間川との合流点より西は墨田区内を流れ、東は墨田区と江東区の区界となっています。十間川の名称は、本所の「北」を流れる川幅が「10間」の川であることに由来します。以前は大横川の分流点より西を源森川(別名源兵衛堀)、東を北十間川といいました。江戸時代に明暦の大火後の本所開発の一環として、源森川は万治年間に材木輸送のため、また北十間川は寛文三年(1663年)に農業用水のために開削されました。当初両川は繋がっていましたが、隅田川増水時の洪水被害が著しく、寛文十二年(1672年)に間に堤が築かれ分断されました。明治十八年(1885年)に住民の要請で源森川と北十間川が再び接続され、これにより旧中川と隅田川が最短距離で結ばれることとなりました。業平橋駅で鉄道貨物とも連携して下町の物流に重要な役割を果たしましたが、戦後舟運は衰退して重要性は低下しました。昭和五十三年(1978年)には大横川との分流点に北十間川樋門が設定されて航路が再び東西に分断され、また現在大横川・曳舟川などかつての接続河川は多くが埋め立てられており、水運の役目はほとんど果たされていません。押上の業平橋地区では、平成二十四年(2012年)5月22日に開業した東京スカイツリーの建設に合わせ、それに面する北十間川も脚光を浴びています。周辺の再開発に合わせて親水テラス・船着場・水質浄化装置などが整備され、東京ソラマチと対岸とを結ぶ歩行者専用のおしなり橋も新たに架けられました。浅草などの他の観光地と連絡する水上バスの運行も構想され、水運としての機能の復活が期待されていますが、川幅が狭いために隅田川を横断できる大きさの船が通行するには無理があり、また北十間川樋門が航路を塞いでいるため、西部と東部で水位が異なり、大規模な工事による閘門化が必要であるなど課題も多くあります。令和二年(2020年)には隅田公園と枕橋から東武橋付近を一体整備した北十間川・隅田公園観光回遊路整備事業が完成しました。十間橋の直ぐ先で大横川が分岐しています。
十間橋を有名にしたのは、橋から眺めるスカイツリーと逆さツリーです。程よく濁った水面に映る逆さスカイツリーは一見の価値があります。
- ポイント1 法性寺
-
十間橋の南詰めに法性寺があります。法性寺は、500年以上の歴史を持つ日蓮宗の寺院で、足利幕府の明応元年(1492年)に法性房日(セン)上人によって開山され、久遠実成本師釈迦牟尼佛(大曼荼羅)を本尊に祀っています。江戸時代から信仰する人が多く、「柳島の妙見さま」と慕われています。境内には江戸城の鬼門よけとして置かれた妙見堂と松の古木があります。また、多くの名優や画伯などが吉運を開いたと伝えられ、葛飾北斎が信仰していた寺としても有名です。葛飾北斎は妙見菩薩を信仰、法性寺を題材とした「柳島妙見堂」「妙見宮」等の作品を数多く残しています。
境内には、葛飾北斎の顕彰碑が建立されています。北斎の絵が細部まで再現されて石碑に刻まれています。
浅草通りに面して建っている年代物の石碑は、かっての道標とのことです。
境内に「昔ばなし柳塚」と彫られた石碑が建っています(見落としましたので、写真はネットからの転載です)。江戸時代に睦会と称して運営されていた落語は、明治十七年(1884年)に三遊・柳派に分裂しましたが、三遊派は明治二十二年(1889年)に「三遊塚」の記念碑を木母寺に建立しました。この石碑はそれに対抗した柳派の記念碑と考えられています。
昔ばなし柳塚
この石碑は落語界の一派、柳派の記念碑と考えられます。剥落が激しいため建立年代や人名などが読み取りにくい部分が多いですが、社長・頭取・監査・会計等の役職名が記されています。江戸時代、睦会と称して運営されていた落語は、明治十七年(1884年)三遊派・柳派に分裂して覇を競うようになりました。同二十二年(1889年)には三遊派の記念碑「三遊塚」が区内の木母寺に建立されています。やがて大正六年(1917年)になって、寄席が会社組織となり、300人余りの芸人が月給制度の下に統一されたため、派閥は解消されましたが、統一に反対する150人もの芸人が睦会を結成して対峙しました。
柳島橋で北十間川から横十間川が分岐しています。柳島橋から横十間川を見ますと、川幅はかなり広く、南の方角に真っ直ぐ延びています。人工河川そのものです。横十間川は墨田区・江東区を流れる運河で、一級河川に指定されています。天神川・釜屋堀・横十間堀・横十間堀川とも呼ばれていました。万治二年(1659年)、徳山重政・山崎重政によって開削されました。横十間川の名称は、江戸城に対して横に流れ、川幅が十間(18m)あったことに由来します。天神川とも呼ばれていたのは、亀戸天神の近くを流れていたからです。江東区亀戸と墨田区業平の境界で北十間川から分かれ、南へ流れます。ここから竪川が交差する地点に至るまでは、川の中央が両区の区境となっています。竪川と交差し、さらに小名木川と交差しますが、そこにはX字状の小名木川クローバー橋が架かっています。仙台堀川と交差した後で西に流路を変え、江東区東陽で大横川に合流します。横十間川の周囲は地下水の汲み上げによりゼロメートル地帯となり、天井川となっていましたが、扇橋閘門等により堰き止められ、常時排水することによって、海水面より1メール以上水位が低く保たれています。水位が低下したため、小名木川クローバー橋から大横川に合流する地点までの区間は埋め立てられ、横十間川親水公園として整備されています。
柳島という名前からは、昔ここが島だったと推測されます。橋の高欄には、歌川広重の浮世絵のレリーフが取り付けられています。名所江戸百景「柳しま」のレリーフだそうです。よく判別できませんが、右上の文字は「柳しま 妙見社」でしょうか?先ほど訪れた法性寺は柳嶋妙見山とありましたので、この辺りを描いたのかもしれません。池波正太郎原作の鬼平犯科帳の「唖の十蔵」の一節には、長谷川平蔵の命により小野十蔵率いる捕り手が盗賊の小川や梅吉らを捕らえようとした場所が天神川に架かる柳島橋と書かれています。当時、西詰には妙見堂、東詰には堀左京亮の下屋敷がありました。捕手から逃れた小川や梅吉は東詰にあった堀左京亮の下屋敷の塀を乗り越えて逃走しました。
二人は天神川にかかる柳島橋へかかる。このとき、茶店を出た十蔵たち四名がするすると二人へ追いつき、「小川や梅吉!!」叫びざま、十蔵が編笠をはねつけ、「神妙にしろ!!」「あっ・・・・・」若い男がたまぎるような声を発し、梅吉と共に橋を駈けわたろうするとき、対岸から同心一名、捕手三名が十手をふりかざし、猛然と肉薄して来た。「畜生め!!」梅吉がそれまでの温厚な願望をかなぐり捨て、野猿のように歯をむき出し、「粂、逃げろ!!」と、わめいた。・・・
浅草通りと北十間川を跨いで、柳島歩道橋が架かっています。橋上からのスカイツリーの眺めは絶景です。
ホームセンターと巨大スーパーが合体したオリンピックのお店の入口近くの境橋脇に小さな祠が建っています。かなり年季が入っていますね。
六字名号供養塔 伝祐天書
祐天堂由来
昭和四十一年に設けられた当時の説明板等に拠りますと、その由来は、元禄年間に祐天上人が千葉方面に往来の途中、この付近の川の中や川岸に多くの水死者のあるのを見て、非常に心を痛め、その霊を懇に回向されました。その際に、これらの仏に戒名を与え祐天上人、自らが筆を取って石にその戒名を記された供養塔をここに残されました。後年、この供養塔を奉った祠が、この祐天堂であります。それ以来、この付近では水死者もなく、またこの付近の子供たちが水辺で遊んでいても溺れたためしが無かったと言い伝えられ、この付近に住む人々によって、水難除・安産・子供の守護の祠として崇め奉られ今日に至ります。(近年では、この祠に、交通安全祈願をなさる方も多いと聞きます。)また、毎年七月二十四日を由縁の日と定め、祐天上人の遺徳を仰ぎ、精霊の供養を営む日と定められてまいりました。
祠の横に古めかしい道標が立っています。「木下川」といいますと、水が流れる川を思い浮かべますが、どうも川の名前ではなく、遙か昔には実際に流れていたかもしれませんが、単に地名に「川」という字が付いているだけのようです。読み方も「きのしたがわ」ではなく、「きねがわ」と読むみたいです。荒川に架かる「木根川橋」も、「木下川」からきたのかもしれません。
木下川やくしみち道標
高さ71センチのこの道標は、ここ境橋から、木下川薬師堂(葛飾区東四ッ木一丁目)へ至る木下川薬師道(現在の仲居掘通り)を示すものです。
刻銘は、正面に 木下川
やくしみち
右側面に、本石町
賽暦十一年辛巳孟春
左側面に、あつまもり
あつまもりとは、吾妻権現社のことで境橋を渡った右手北十間川沿いにありました。本石町は日本橋の町名で、この道標の建てられた賽暦十一年(1761年)頃には、きっと江戸町人の参詣が盛んだったことがうかがえます。
堂内には供養塔が祀られています。
北十間川の両岸には遊歩道が整備されています。
- ポイント2 吾嬬神社
-
福神橋の左手先に吾嬬神社があります。吾嬬神社の創建時期は定かではありませんが、墨田区内では最も古い歴史がある神社のひとつです。ご祭神は弟橘媛(おとたちばなひめ)と、十二代景行天皇(西暦70年〜130年頃)の皇子である倭建命(やまとたけるのみこと【日本武尊とも書きます】)です。神社には次の様な言い伝えがあります。
倭建命は、父景行天皇から東国の鎮圧をするように命じられました。倭建命一行は相模の国(神奈川県)まで来て、三浦半島から東京湾を船で横断して上総国(千葉県)木更津に向かいます。しかし、海上で暴風に遭い大時化(おおしけ)となり進むことも戻ることも出来ず大変難儀をしました。ここで倭建命に伴われてきたお妃の弟橘媛は船が沈没する危険を感じ、荒れ狂う海神の心を鎮めるために自ら海中に身を投じました。すると海上は瞬く間に穏やかになり、倭建命一行を乗せた船は海上を走る様に進み、全員が無事木更津に上陸することが出来ました。東国の鎮圧を終えた倭建命は東京湾奥の浮洲まで来ます。そこには弟橘媛が身にまとっていた衣・櫛などの形見の品が流れ着いていました。景行天皇四十二年(112年)、倭建命はこの地に弟橘媛の形見の品を納めて塚を築きます。この場所に「吾がつま」に因んだ吾嬬神社が創建されました。また、ここに倭建命が食事に用いていた楠の木の箸二本を刺すと、やがて箸に根・枝が生じ相生(あいおい)のご神木になったといわれています。江戸時代には「吾嬬の森 連理(れんり)の楠」と崇められ、江戸名所にもなりました。連理とは「二本の木の枝と枝が繋がった様子で、夫婦の契りが深いことの喩え」です。隅田川に架かっている「吾妻橋」(当初は大川橋と称した)の名称は、吾嬬神社参拝への北十間川沿いの道に通じることから付けられました。正治元年(1199年)には、北条泰時によって社殿が造営されました。
吾嬬神社
御祭神 弟橘姫ノ命
日本武(尊?)ノ命
縁起
往時は吾嬬の森八丁四方と云はれ、また浮洲の森とも呼ばれ、こんもりと茂った森林の神域にあった名社である。草創は遠く景行天皇(十二代)の頃にさかのぼり御祭神は弟橘姫ノ命を主神とし、日本武尊ノ命を御合祀奉斎してあります。正治元年(1199年)北條泰時が幕下の葛西領主遠山丹波守らに命じて神領三百貫を寄進し、社殿を造営した嘉元元年(1303年)開創の真言宗宝蓮寺(現亀戸四丁目)を別当寺とし吾嬬大権現と称した。以後武家の尊宗があって、安永三年(1774年)大川橋の新設にあたり江戸から当社えの参道にあたるところから橋名を吾妻橋と称したともいゝ、明治二十一年に数村を合せて吾嬬村と称したのは時の府知事高崎五大の発案で社名をとったのである。抑(そもそも)当社御神楠は、昔時日本武ノ命東夷征伐の御時相模の国に御進向上総の国に到り給はんと御舟ニ召されたるに海中にて暴風しきりに起り来て、御船すでに危ふかりしに御后橘媛ノ命海神の心を知りて御身を海底に沈め給ひしかば怱海上おだやかに鎮りたり時に一つの島忽然と現れ到る心を知りて御船をば浮洲に着けさせ嶋にあがらせ給ひてあゝ吾妻恋しと宜ひしに俄かに東風吹き来りて橘媛ノ命の御召物海上に浮び磯部にたじ寄らせ給ひしかば尊大きに喜ばせ給ひ橘媛ノ命は食し給ひし楠木の御箸を以て末代天下平安ならんには比著忽ち根枝を生じし処葉茂り連理の男木女木となれり。神代より二千有余年の星霜おし移ると云え共尚梢えの色変らず栄えし処、名樹も第二次大戦の災禍を被り焼け落ちて化石の如き姿で残った其一部を以て賽銭箱を造り、御神前に永く保存される事となった。以後、御神徳に依る数々の奇瑞を現わし、諸人の助けとなりたる神樹を惜みて明治維新百年祭を記念して元木に優る名樹に成長を祈念しつゝ、二本の名木が植えられた。爾来十年余念願成就の兆し現れ、日毎に葉茂り枝栄えたり。これこそ御神木の再生ならんと此由来を御世に伝えんと略してしるす也。
境内には多くの石碑が建っています。「高麗剣」の歌碑に記されている「俳諧歌場・紀真顔」ですが、これは江戸時代の狂歌師だった鹿津部真顔の号です。鹿津部真顔は、宿屋飯盛・頭光・金埒らと共に狂歌四天王と称されました。天明狂歌が奔放無軌道に陥ったことを是正しようと、鎌倉室町期の狂歌を本来の姿であるとする「俳諧歌」を提唱しましたが、一般からは親しまれず、結果として狂歌の衰退をもたらしました。
拝殿に上がる石段の両脇には、「縁起の碑」や源延平による「皇国は」の歌碑が並んでいます。どちらも内容は分かりません。
「縁起の碑」の隣には、古い社号碑も保存されています。
石段を上がると、神明鳥居が建っています。その奥に拝殿があります。
社殿の右隣りに、末社の福神稲荷神社があります。元は亀戸四丁目に鎮座していましたが、大正十一年(1922年)に吾嬬神社旧社務所の位置に遷座しました。その後、第二次世界大戦の災禍を受けて周囲の家屋が焼け尽きた中、この社殿だけが全く被害を受けなかったことで、人々は崇拝の念を高めました。
福神稲荷神社
宇賀之魂之命
御祭神 大国主之命
金山彦之命
当社は元亀戸四丁目地蔵川岸のほとりに鎮座ましましたが、(1922年)吾嬬神社旧社務所の位置に有縁の地とし御遷座もうしあげました。その後第二次世界大戦の災禍をうけ、周囲家屋他草木に到る迄焼け尽きた中、この社殿全く無被害の不思議な現象に奇跡なりと御神徳に人々は驚異の目を見張りました。吾嬬神社復興事業(1946年)執行の折、社殿を現在の場所へ再び御遷座申し上げ、此処に吾嬬神社と共に庶民の守護神とて奉祭申し上げて居ります。尚、この奇跡の社殿を出来る限り永く保存して次世代に伝え様と略して印す次第であります。
「吾嬬の森」とは吾嬬大権現社のことで、現在の吾嬬神社を指します。拝殿の左手に、石碑と案内板があります。
<墨田区登録文化財>
吾嬬森碑
この碑は、明和三年(1766年)に儒学者山県大貳により建立されたと伝わります。「吾嬬の森」とは、吾媛神社の代表的な呼び名で、江戸を代表する神社の森のひとつとして「葛西志」や「江戸名所図会」にも紹介されています。碑の内容は、地元に伝わる神社の来歴となっており、日本武尊の東征、尊の妃・弟橘媛の入水により海神の怒りを鎮めたこと、人々がこの神社の地を媛の墓所として伝承し、大切に残してきたことなどが刻まれています。「新編武蔵風土記稿」には、碑は神木の傍らに建てられていたと記されています。神木とは、墨田区登録文化財である「連理の樟」のことです。一つの根から二つの幹を見せる姿は、歌川広重の「江戸名所百景」にも描かれています。左の絵は広重の作品「江戸名所道化 吾嬬の森梅見」で、中央にひときわ高くそびえるのが「連理の樟」です。明治四十三年(1910年)の大水や関東大震災、東京大空襲などにより森は失われましたが、長く地域に根ざした伝承は、この碑を通じても垣間見ることができます。
漢文調であるのと、碑文が読み取れないのでスキップ。
吾嬬森碑の奥の一段高くなったところに、石像の本殿が鎮座しています。周囲は瑞垣(鉄柵)で囲われていて中には入れません。柵内の本殿前に安置されてい阿吽形式の狛犬の台座の側面には、日本橋魚河岸周辺の商人と思われる世話人10名と奉納者22名の名前が刻まれています。この狛犬は、海運・漁業・商売繁盛を祈願した奉納物と考えられています。
<墨田区登録文化財>
狛犬 安永二年五月銘
この狛犬は比較的小型の一対ですが、世話人10名と奉納者22名もの名前が刻まれています。そのほとんどが禁地小田原町(中央区築地六・七丁目)や本船町地引河岸(中央区日本橋本町)など日本橋の商人であることから、海運・漁業関係者とのつながりをよく表しているといってよいでしょう。このことは吾嬬神社の由来に起因しています。日本の神話に、日本武尊命が現在の東京湾を舟で渡っている時に海神の怒りに触れ、往生していた時に妻の弟橘媛が海に身を投げて海神の怒りを鎮めたという話があります。この媛の品が流れ着いた所がこの地だったということです。以来、海や川で働く人々の守護神として信仰されてきたわけです。また、昔は地盤沈下していなかったため、この社の裏の「吾嬬の森」と呼ばれた森が小山のように広がり、海上からの好目標だったことも崇敬を集めた理由のひとつでしょう。現在、鉄柵の奥にあるために近づくことはできませんが、かえって台座に刻まれた人名など、良い状態で保存されています。
石柵には、日本橋の本小田原町・本船町の文字が見えます。
日本武尊は、御廟を築山して弟橘媛の霊を供養し、この場所で食事をしました。食後、使われた樟の箸2本を御廟の東の方に挿して天下太平を祈ったと伝わっています。後にこの2本の箸が根枝を生じ、葉が茂り大きな樟に成長し、ふたつの幹が連なっている楠ということで、「相生(2本の幹が同じ根から生えること)の楠・連理(れんり)の楠」と呼ばれました。江戸時代に疫病が流行り死者が多く出た時にこの御神木の枝葉を煎じて飲むと平癒したため、人々は病が治ったらお礼参りの際に赤い幟を奉納したのだそうです。明治時代には幹周りが4〜5mあったそうですが、大正時代に枯れてしまいました。今は、根と幹の一部が残存しています。
北十間川沿いの道を進んで旧中川との合流点に着きます。ここは墨田区・江東区・江戸川区の3つの区の境界点になるところで、旧中川の右岸(西側)の北十間川の北側は墨田区、南側は江東区、旧中川の左岸(東側)は江戸川区です。旧中川に架かるのは江東新橋で、橋の先のホームセンターには今話題の爆盛り惣菜で話題のロピアが入っています。
旧中川の河川敷に墨田区内の流路を紹介した案内板が立っています。旧中川の流路の北半分しか描かれていませんが、大きくS字型に曲がりくねっているのが見て取れます。これには次のような歴史的経緯があります。
旧中川
江戸時代以前の中川(現在の旧中川)は、古利根川を上流として途中で元荒川と合流し、水元・新宿・奥戸・平井を通り、綾瀬川・堅川・小名木川と通じながら、江戸川に注いでいました。江戸時代に入り、八代将軍徳川吉宗が水害から村を守るために、享保十年(1725年)から享保十四年にかけて散在していた池や沼を利用してひとつの流れをつくりました。そのため、「九十九曲り」をよばれる屈曲の激しい川となりました。この川が中川と呼ばれたのは、隅田川と江戸川の間を流れるからといわれています。大正十三年(1924年)に荒川放水路に放水を開始したことによって分断された中川の下流部分が現在の旧中川になりました。旧中川は江戸川区と墨田区と江東区の境界を流れ、全長が6.68kmの荒川水系の一級河川になっています。江戸川区平井の木下川水門で荒川放水路(荒川本流)から分水し、大きく蛇行しながら南へ流れ、江戸川区小松川の荒川ロックゲートから再び荒川へ合流します。小名木川の扇橋閘門以東に位置するため、水位が荒川より1m低くなっています。川の東側はすべて江戸川区、西側は北十間川との合流地点までは墨田区、それより南の荒川ロックゲートまでは江東区となっています。川岸には東京都ボート協会が高架下を利用した艇庫を所有していて、ボートを練習する社会人や学生が増えています。各種ボートの乗艇が体験できる江戸川区主催のボートフェスティバルも開催されています。江戸時代には歌川広重の名所江戸百景「逆井の渡し」や江戸名所図会の「平井聖天」、新編武藏風土記稿の「逆井渡船場図」などで情緒豊かな川であったことが知られていて、川沿いに史跡が残っています。昭和二十年(1945年)3月10日の東京大空襲では、猛火を逃れようと川に入った3000人以上が犠牲となりました。その犠牲者の慰霊のために、平成十一年(1999年)に「旧中川灯籠流し」が始まり、以来毎年8月15日に行われています。平常時は両端の水門を締め切って荒川へ排水しているため水は流れていませんが、灯篭流しの時だけは木下川水門より取水して荒川ロックゲート側から排水することにより水流を発生させ、灯篭が流れるように工夫しています。
河川敷は墨田区立の旧中川水辺公園になっていて、遊歩道も鋪装され、とても歩きやすくなっています。ワンドと呼ばれる岸辺の浅瀬には、水生植物や鳥・小魚などの生き物が住み着いています。
《ワンドによって水辺環境を豊かに》
前方にある浅瀬を「ワンド」と呼びます。ワンドとは河川敷にある入り江の名称です。ワンドは本川より水深が浅いことから植生および水性植物ともに豊かです。また、流れのあるところ、よどみのところ、浅いところ、深いところ、植物のあるところ、ないところなどとさまざまな自然環境があることで、たくさんの種類の生き物が自分にうまくあった場所を探して生活しています。ワンドによって多様な水辺ができ、豊かな河川環境を創出しています。
野鳥の餌付けでしょうか、ドジョウでも入っているのかな?
上流に向かって最初の橋である平井橋に着きました。
コースマップには、平井橋から眺めるスカイツリーが絶景と書いてありますが、生憎とビルが建て込んでいて、さほどの見応えはありませんね。
- ポイント3 立花大正民家園
-
河川敷を上がった道路の向かい側から石段を降りた先に小さな門があります。大正時代の民家を公開しているのだそうです。墨田区の掲示板には次のように案内されています。
旧小山家住宅(立花大正民家園)
大正創建の建物で、江戸時代からの農家と町屋の雰囲気を伝えています。庭園には七福神の石造が置かれています。文化的、歴史的に価値のある建物として、住宅部分は区指定文化財となっています。
Kyu-Koyama House (Tachibana Taisho House Garden)
This building was built in Taisho era and has an atmosphere of a traditional farmhouse and townhouse from Edo era. Stone sculptures of Seven Deities of Good Fortune are placed in the garden. The residence section in this building has been designated as a cultural asset by the Ward as a culturally and historically valuable building.
門を入ると、通路の両側には様々な草木が植樹されています。通路の突き当たりには、この家のシンボルツリーとも言うべき巨樹が聳えています。
植え込みの中には七福神の石像が建っています。個人宅の七福神像にしてはかなり本格的な作りです。門を入ると直ぐに寿老人がお出迎えしてくれます。巨樹の脇には福禄寿が微笑んでいます。
布袋尊と毘沙門天も。
恵比寿と大黒天は仲良く並んでお座りです。
住宅は曲尺(かねじゃく)の形に配置されていて、東南の角にふたつの玄関があります。
<墨田区指定有形文化財>
旧小山家住宅
旧小山家住宅は、大正六年(1917年)建築の平屋建寄棟造瓦葺の住宅で、平成十年(1998年)に墨田区に寄贈されました。この住宅は、土間のある整形四間取(方形を四等分した田の字型の間取り)の典型的農家の構造形式と、出格子窓や竪格子戸など町屋の伝統に客間を充実させた構造とを併せもち、近代以降に普及したと考えられる都市近郊住宅の特色をよく留めています。正面に玄関を二つ設け、縁側の両端に押入れと便所を配置している構造は、墨田区周辺地域の他の民家にも見られます。昭和十年代に屋根を茅葺から瓦葺きに葺き替えたほか、土間に床を張るなどの改修が部分的に行われていますが、板ガラスも当時のままの状態で残されるなどほぼ原形を保っており、建築当初の姿を伝えています。関東大震災や東京大空襲などをのがれた旧小山家住宅は、都市化の進んだ墨田区内で数少ない歴史的建造物として、近代以降のこの地域の人々の生活様式の変化を伝える貴重な文化財です。
庭に面した縁側のガラス戸は今となってはとても珍しいですね。居間の畳も年季が入っています。
- ポイント4 旧中川水辺公園
-
墨田区では河川敷を公園として整備し、ソメイヨシノに限らず河津桜・思川・陽光・関山・普賢象・一葉・大山桜・仙台枝垂など、早咲きから遅咲きまでの9種約260本の桜が植えられています。これには、住民参加の桜の植樹の取り組みがあります。
旧中川桜植樹記念
区では、旧中川をより一層区民に親しまれ、魅力的な空間とするために、区の木である桜を植樹し、美しい環境づくりを進めています。その一環として、新たに36本の桜を植樹するために、近隣の皆様に参加者を募り、平成二十四年二月十八日に桜の植樹式が行われました。
河津桜でしょうか、満開に咲き誇っています。河川敷の花壇には桜と競演するかのように菜の花も咲いています。
河川敷からもスカイツリーが眺められます。季節毎にその風景は変わります。
墨田清掃工場の煙突は楽器のたて笛をイメージしてデザインされ、高さが150mあります。東京スカイツリーは墨田区のランドマークですが、墨田清掃工場の煙突ももうひとつの墨田区のランドマーク的な存在です。
ゴール地点のゆりのき橋に着きました。
ゆりのき橋から歩いて帰る訳にもいきませんので、ゆりのき橋通りにある東墨田三丁目バス停から帰途につきます。
ということで、墨田区で九番目の「H東部のおだやかな自然と歴史ある寺社をめぐるコース」を歩き終えました。次は墨田区で十番目のコースである「Iおいしい野菜とウオーキング、心も体も大満足な野菜コース」を歩きます。
戻る