Iおいしい野菜とウオーキング、心も体も大満足な野菜コース  

コース 踏破記  

今日は墨田区の「Iおいしい野菜とウオーキング、心も体も大満足な野菜コース」を歩きます。東武スカイツリーライン曳舟駅東口から曳舟川通りを進み、明治通りに入ります。一旦、明治通りから路地に入り、野菜菓子の名店「向じま梅鉢屋」に向かいますが、残念ながら2年前に閉店とのこと。再び明治通りに戻り、今度はキラキラ橘商店街を散策します。コッペパンのお店は今だ健在です。十間橋から逆さスカイツリーを眺めて本物のスカイツリーを訪れます。最初に歩いたのは2022年の3月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年5月に改めて歩きました。

Iおいしい野菜とウオーキング、心も体も大満足な野菜コース

新鮮な野菜を買ったり、野菜を使ったグルメが食べられるポイントがいっぱい!野菜メニューとウォーキングが両方楽しめる、ぜいたくなコースです。

「Iおいしい野菜とウオーキング、心も体も大満足な野菜コース」の歩行距離は約4.0km(約5、700歩)、歩行時間は約1時間、消費カロリーは約180Kcalです。

スタート地点:東武スカイツリーライン曳舟駅東口
ポイント1 すみだ青空市ヤッチャバ
毎週土曜日に開催される青空市。新鮮な野菜やおいしい食材が全国から集まります。
ポイント2 向じま梅鉢屋
江戸時代から続く名店。新鮮な野菜をそのまま菓子に仕立てた「野菜菓子」が名物です。
ポイント3 キラキラ橘商店街
下町情緒あふれる商店街。商店街の中には、新鮮な野菜を扱う複数の八百屋さんがあります。
ポイント4 押上よしかつ
江戸東京野菜をはじめとした東京の食材にこだわった料理が楽しめます。

ゴール地点:東武スカイツリーラインとうきょうスカイツリー駅正面改札口


スタート地点の東武スカイツリーライン曳舟駅東口から歩き始めます。曳舟駅の駅名は、駅開設当時に付近で交差していた曳舟川に由来します。曳舟川は昭和初期に埋立てられ、現在は駅南側を通る道路(曳舟川通り)となっています。曳舟駅は、明治三十五年(1902年)4月1日に東武伊勢崎線の吾妻橋駅(現在の「とうきょうスカイツリー駅」)〜北千住駅間の開業と同時に開設され、2年後の明治三十七年(1904年)4月5日には亀戸線が開通し、曳舟駅は亀戸線の起点となりました。平成十五年(2003年)3月19日には東京メトロ半蔵門線との直通運転が開始され、曳舟駅は浅草方面と押上方面と亀戸方面の分岐駅となりました。昭和五十四年(1979年)6月16日に5階建ての駅ビル「東武曳舟ビル」が東口に竣工し、併設の曳舟東武ボウルが開場しました。屋上に設置されたボーリングのピンが駅のシンボルになりました。しかし、平成二十三年(2011年)3月11日に発生した東日本大震災で駅ビルの壁面が崩落して架線が損傷する被害を受け、その後駅ビルは解体され、跡地には平成二十九年(2017年)4月1日に東京曳舟病院が開院しました。あまり知られてはいませんが、副駅名は「東京曳舟病院前」となっています。



駅の南側は関東大震災や東京大空襲による災禍を免れた地域であったため、老朽化した木造建物や狭隘な道路が多く、東京でも有数の密集市街地を形成していました。URが事業主体となり、地区内に新たな区画道路を新設し、人と車の利便性や安全性を確保すると共に、商業と住宅が調和した複合的な拠点を目指して市街地再開発事業が行われました。T街区ではイーストコア曳舟一番館・二番館からなる2棟の超高層住宅が建てられ、U街区には大型商業施設であるイトーヨーカドーを誘致して平成二十二年度に事業が完了しました。



再開発の経緯を解説した案内板が立っています。

歴史と未来をつなぐまちづくり
曳舟駅前地区第一種市街地再開発事業

●「向島」の歴史と「曳舟」の語源
向島は、隅田川を境にして西側から島状の洲が陸地化し、生活の場となった地域です。平安時代から農業が営まれていた寺島を拠点として、東へ請島(浮島)、須崎(洲崎)といった地名が続く、湿潤な土地が広がっていました。江戸期のこの地域は、農家が散在し、周辺は肥沃な低湿地で覆われており、また、曳舟川を中心にして、安藤広重などの絵師が好んで絵筆をとった風光明媚な土地でした。曳舟川は万治二年(1659年)に人々に飲料水を供給する上水として開削され、享保七年(1722年)に上水としての機能を終えた後は葛西地域の灌漑用水や舟運に利用されました。「曳舟」の語源は、小舟の舳先に立てた棒に綱をつけて、岸から人力でその綱を引いて川を遡ったことによるものです。

●明治〜昭和初期の当地区
曳舟川沿いに発展した当地区は、明治期以降、急速に都市化しました。見渡す限りの田園地帯は東京近郊に進出を希望した大規模工場の絶好の立地場所となり、多くの工場が物資の運搬や用水の確保などに都合のよい曳舟川の沿岸に、競って立地を進めました。

●進化する街
曳舟駅周辺地区は墨田区都市計画マスタープラン(平成二十年3月)において区北部地域の「広域拠点」と位置づけられており、交通の利便性を活かした都市機能の集積が期待されています。そのリーディングプロジェクトとして当地区において曳舟駅前地区第一種市街地再開発事業(施行者・独立行政法人都市再生機構)が施行され、現在に至っています。

●地区の愛称とロゴマーク
「イーストコア曳舟」は当地区の愛称で、東京の東の核として再生するという意味が込められています。またロゴマークは、「水と人」が時とともに培ってきた深い歴史を継承し、「舟と水の流れ」をモチーフにデザインされました。流線型のデザインには、地区の愛称「イーストコア曳舟」と併せて、未来をリードする場所になって欲しいという願いが込められています。




イーストコア曳舟一番館の建物の間には、かって路地裏で使われていたポンプや石碑が保存されています。

■路地尊(水時計と手回しポンプ)

この水は雨水を再利用しており、飲用できません。歩道部にある水時計は一定の時間に水が湧き出します。

■馬頭観音

この馬頭観音は、明治三十八年に鈴木亀次郎氏により設置されたもので、再開発地区内の馬頭観音通りに設置されていたものを移設したものです。




ポイント1 すみだ青空市ヤッチャバ

「すみだ青空市ヤッチャバ」は、毎週土曜日午前8時から午後4時頃まで、イーストコア曳舟の広場で開かれています。現在、墨田区には農家も漁家も統計上1軒もありません。そんな墨田区に「作る人」と「食べる人」との距離を縮め、両者がつながり、関係を深める場所を設けて双方が豊かな暮らしを支え合える関係をつくりたいという想いを込めて全国から生産者を招き、かつて墨田区内にあった青果市場「やっちゃ場」からその名をとって、平成二十二年(2010年)に「青空市ヤッチャバ」が始まりました。訪れた日は土曜日ではありませんでしたが、ネット上に青空市の写真がありましたので転載します。



曳舟川通りに面した曳舟文化センターは、昭和六十二年(1987年)に開館した墨田区の施設です。劇場ホール(582席)・レクリエーションホール(250名)・会議室などを備え、本格的な演劇や音楽会、軽運動や展示、各種集会などの文化的交流の場として幅広く利用されています。エントランス前の像は、エスター・ワルトハイマーの作品「風の中で」です。



曳舟川交差点を右折して明治通りに入ります。交差点角には目印の本屋さんがありましたが、何時の間にか更地になっていました。かって、明治通りは京成曳舟駅の東端で京成押上線の線路と平面交差していました。電車の本数が多く、しかも都内の幹線道路である明治通りなので、踏切では度々渋滞が発生していました。それまで事故が起きなかったのは奇跡としかいいようがありません。しかし、京成押上線の押上駅〜八広駅間の連続立体交差事業が平成二十七年(2015年)に完了し、同年8月22日から既に高架となっていた上り線と合わせて下り高架線の使用も開始されました。これによって、既に除去されていた2ヶ所を含めて、区間内8ヶ所の踏切が全て除去されました。



コースマップでは、歯医者さんの角で明治通りから路地に入るようになっているのですが、どこを探しても歯医者さんは見つかりません。適当なところで左折したら、住宅街の中に染め物工房がありました。墨田区には小規模な工房を「小さな博物館」として認定し、広報しています。ここもその中のひとつと思われます。

小さな博物館・すみだ工房ショップ

小さな博物館では、墨田区を象徴する産業と文化に関する職人技や珍しいコレクションを展示しています。工房ショップは、工房と店舗が一体化した、「ものづくり」の現場公開と販売を行う新しいスタイルのショップです。

Sumida Small Museums / Sumida Manufacturing Shops

The Sumida Small Museums exhibit the special artisan skills and rare collections that relate to Sumida's symbolic industries and culture. The Sumida Manufacturing Shops are new-style shops that combine a manufacturer within a shop, opening their monozukuri (literally means "manufacturing things") spot to the visitors while selling their products.




ポイント2 向じま梅鉢屋

迷いながらも路地を抜け、八広はなみずき通りに出ます。三吾小学校の隣に、江戸の技「砂糖漬け」を守り続ける唯一の菓舗「向じま梅鉢屋」のお店がある筈なのですが見当たりません。ネットで調べてみましたら、跡継ぎの人がいなかったために2020年12月31日をもって閉店したのだそうです。野菜菓子は、煮込みから、冷やし、味を浸透させるという工程を2日〜1週間もかけて何度も、根気良く繰り返すという大変な作業なのでやむを得ない決断だったのでしょう。跡地には、建物の写真から判断すると、清水工業という会社が居抜きで入っているようです。



こんな感じのお菓子だったようです。



ポイント3 キラキラ橘商店街

再び明治通りに出て、セブンイレブン向かいの路地からキラキラ橘商店街に入ります。



キラキラ橘商店街はおよそ400メートルの長さの場所に商店が立ち並び、昭和の風情とおいしいグルメを楽しめる商店街です。日本に「商店街」という概念ができたのは、昭和三十七年(1962年)に商店街振興組合法が公布されてからだといわれています。それまでは住民は「市場」と呼ばれる所で生活に必要なものを買っていました。昭和初期の頃は京島を始めとした墨田区北部に小さな工場が多く、周辺で暮らす人も多くいました。第二次世界大戦が始まり、墨田区南部の錦糸町一帯は東京大空襲の戦禍を免れることができず、大きな被害を被りました。しかし北部の京島は奇跡的に大きなダメージを受けず、ここにあった「市場」が徐々に大きくなり、全盛期には映画館まで建てられたそうです。大型商業施設の普及などにより、当時に比べると賑わいも減りつつありますが、今でも墨田区で1位・2位を争う元気な商店街になっています。



お店を幾つかご紹介します。ハト屋パン店は商店街を代表するお店です。大正元年(1912年)に創業しましたが、前の店主が亡くなってしまった平成二十九年(2017年)に一度閉店しました。しかし、このお店が売りに出されていることを知った新しい店主は、「貴重な建物と看板を守りたい」と思って購入を決め、店内をリノベーションして令和二年(2020年)に「ハト屋パン店」の看板を掲げてお店を復活させました。商品は手作りのコッペパンを使ったもののみです。ちなみに、新しい店主は一級建築士であり、博士号も取得しています。東京にある長屋建築が大好きで、ここ京島に引っ越してきたのだそうです。



1個だけとお願いして買い求めました。持ち帰り用には、ビニールの袋を付けてもらえます。意外と小ぶりでしたが、美味しく頂けました。



「たこ焼きこんこん」は、商店街の真ん中にあり、休日になるとほぼ必ずお客さんが店の周りでたこ焼きを食べています。ご主人は友人の紹介でこの商店街を訪れ、平成七年(1995年)にお店を開きました。作るたこ焼きは関西風で、タコは豊洲市場で仕入れているそうです。お値段も激安です。



お惣菜の鳥正、おでん種の大黒屋とか。



八百屋では越前屋ストアー、魚屋では武藤水産なんかあります。



昔はなかったスーパーですが、何時の間にか2軒ほど営業しています。小さな店舗と共存共栄できればいいのですけど。



こじゃれた喫茶店もオープンしています。変わったところではホステルも。



商店街を盛り上げようと、地域密着型アラフォーアイドルグループも結成されました。ちなみに、メンバーは平均年齢40歳超の商店街の奥様達のようです。たちばな館は、シアターキューブリックのアンテナショップです。劇団オリジナルグッズや帰ってきたキューピッドガールズのCDの他、楽しい街歩きをサポートするパンフレットが用意されています。



キラキラ橘商店街の外れの曳舟たから通りに面して田丸神社があります。



神社の入り口に案内板が立っています。なんだかよく意味がわかりませんねぇ。

田丸神社由来

明治三十八年冬他界した妻の言葉で「父が以前行った事のある所に宝財として土地を求めよ」に従いそこを訪れたところ昔はその栄を物語るも手入れもされず、樹木でおい茂り、中央に池がある荒れ果てた土地があった。あまりにもひどくあきらめんとしたが去るには地相が如何にも捨て難く、購入し地盛り古い池の埋立をしたところ、年を越したころには緑が茂るようになった。この土地の北隅の樹木の小陰に所があり、塵埃をはらい四辺を清め、心からのお祠りをし永世の奉りを誓った。その夜枕辺に稲荷の主神咲栃の神がおたちになり、静かな声で「忠よ汝は善く我安居を清めてくれました、その厚き志に感謝し貯財の道を教えましょう。北半里を出ない中に水田があり土地を求めなさい。そこの地を開けば多くの人がここに居を求め人の為、又家運の為にもなり無上の幸福があなたに訪れるでしょう」の言葉を言い残し幻の如く闇に消えました。その声、裳の姿、畳障子の音までも私の目、耳底にのこり夢と思うも夢でなくその夜は眠ることもできずに夜を明かした。翌年三十九年にそのお告げの通り今の地に咲栃の神をお祠りしたところ多くの方が今日居をかまえられた。その土地こそが、現在のこの地である。それ以来大正十二年九月一日の大震災又戦災も逃れ、咲栃の神の言に従って開かれた土地は栄え家々は日に日に盛運に進みその神徳に感謝してもしきれない ものである。
                          原忠三郎 謹書より
以後、今にいたるまで「財のたまる」「幸のたまる」「難を逃げる」田丸神社としてあがめられている。




曳舟たから通りと交差して、更にキラキラ橘商店街は続いていますが、お店も少なくなって往来する人もあまり見かけません。商店街が途切れたところに小さな公園があります。墨田区の中でも最も下町色の濃い京島について解説した案内板が立っています。

京島の歴史とまちづくり

明治時代の終わり頃までの京島地区(京島二丁目・三丁目)は一面が水田や沼地でした。大正時代となり、鉄道が開通し、道路の整備が進み輸送に車が使用されるようになると、周辺の農地では大規模工場の創業が始まりましたが、京島地区のほとんどは農地のままで、多くのため池があり金魚の養殖が盛んに行われていました。京島地区の急速な都市化は、大正十二年(1923年)の関東大震災後に被災した工場の移設や住民の移住により、昭和初期までの10数年で市街地の原型がつくられました。急速に形成された木造密集市街地は戦災を免れ、そのまま戦後に引き継がれました。戦後復興の好景気とともに町の工場は活気を取り戻し住民も増え、昭和三十年代には京島三丁目の人口密度は世界一と言われるほど、住宅が密集した状態となりました。消防車が入れないような路地や戦前からの木造住宅も多く、京島特有の親しみやすいまちの佇まいを作り出しましたが、一方で密集した老朽木造建築物や細く行き止まりの多い道路など、地震や火災に対して弱い特性を持っていました。こうした現状を何とか解決しようと、昭和五十六年(1981年)に設立した京島地区まちづくり協議会では、まちづくりの目標の一つとして、「自分たちのまちは自分たちで守る」とし、今日に至るまで様々な安全・安心なまちづくりに繋がる活動を行ってきました。平成二十八年(2016年)には、協議会委員の「震災時の火災の猛威から、町、建物、命を守るために自前の水源確保の必要性と、震災前後にも多目的に活用できる水源にすることで町の魅力が一層高まる」との提案から、首都直下地震の切迫性を踏まえた防災設備だけでなく、平時の水景なども幅広く検討を行うことを目的に、協議会のもとに「水活用勉強会(通称:京島井戸端会議)」を発足させました。水活用勉強会では様々な検討のうえ、平成三十年(2018年)8月に防災井戸の整備を含む「緑地整備に関する提案書」を区に提出し、この提案を参考に、「協和井戸端広場」が開設されました。京島地区まちづくり協議会は、協和井戸端広場の維持管理に協力し、京島の地域力を活かし「京島井戸守」として、今後も防災力の向上を目指していきます。




十間橋通りに出て、北十間川を十間橋で渡ります。十間橋は東京スカイツリーの開業により、その絶景ポイントとしてその存在が知られるようになりました。十間橋を有名にしたのは、橋から眺めるスカイツリーと逆さツリーです。程よく濁った水面に映る逆さスカイツリーは一見の価値があります。



十間橋の南詰めに法性寺があります。法性寺は、500年以上の歴史を持つ日蓮宗の寺院で、足利幕府の明応元年(1492年)に法性房日(セン)上人によって開山され、久遠実成本師釈迦牟尼佛(大曼荼羅)を本尊に祀っています。江戸時代から信仰する人が多く、「柳島の妙見さま」と慕われています。境内には江戸城の鬼門よけとして置かれた妙見堂と松の古木があります。また、多くの名優や画伯などが吉運を開いたと伝えられ、葛飾北斎が信仰していた寺としても有名です。葛飾北斎は妙見菩薩を信仰、法性寺を題材とした「柳島妙見堂」「妙見宮」等の作品を数多く残しています。



境内には、葛飾北斎の顕彰碑が建立されています。北斎の絵が細部まで再現されて石碑に刻まれています。



浅草通りに面して建っている年代物の石碑は、かっての道標とのことです。



境内に「昔ばなし柳塚」と彫られた石碑が建っています(見落としましたので、写真はネットからの転載です)。江戸時代に睦会と称して運営されていた落語は、明治十七年(1884年)に三遊・柳派に分裂しましたが、三遊派は明治二十二年(1889年)に「三遊塚」の記念碑を木母寺に建立しました。この石碑はそれに対抗した柳派の記念碑と考えられています。

昔ばなし柳塚

この石碑は落語界の一派、柳派の記念碑と考えられます。剥落が激しいため建立年代や人名などが読み取りにくい部分が多いですが、社長・頭取・監査・会計等の役職名が記されています。江戸時代、睦会と称して運営されていた落語は、明治十七年(1884年)三遊派・柳派に分裂して覇を競うようになりました。同二十二年(1889年)には三遊派の記念碑「三遊塚」が区内の木母寺に建立されています。やがて大正六年(1917年)になって、寄席が会社組織となり、300人余りの芸人が月給制度の下に統一されたため、派閥は解消されましたが、統一に反対する150人もの芸人が睦会を結成して対峙しました。




ポイント4 押上よしかつ

十間橋南詰から浅草通りを2ブロック先で左折すると、路地から一歩引き込んだところに、江戸東京野菜を使ったお料理で知られるお店があります。表からは想像もできませんが、ジャズが流れる店内は堀炬燵と座敷のゆったりした癒しの空間になっています。利酒師・焼酎アドバイザー・ソムリエの資格を持つ店主が料理やその日の気分に合わせた東京の全ての蔵の地酒・焼酎また日本のこだわりのワインをお勧めしてくれます。現代の「リアルな東京の味」をめざし、東京の食材にこだわり、江戸前の刺身や手造豆腐と共にもんじゃお好み焼が楽しめます。旬の江戸東京野菜を組み合わせたセットメニューを選び、次に単品を追加するのが常連さんの証です。



平日の営業は夜だけですが、休日はランチもやっているようです。メニューをぱっと見たところ、もんじゃ屋さんに見えないこともないのですが。



浅草通りに戻り、京成橋の南詰から北十間川沿いの遊歩道を進みます。途中に幅の広い歩行者専用のおしなり橋が架かっています。



橋の広場の隅っこに、東京スカイツリーを建てるために行われた再開発事業のあらましを解説した案内碑が立っています。

押上・業平橋駅周辺土地区画整理事業

■事業の概要

・事業名称:押上・業平橋駅周辺土地区画整理事業   ・事業期間:平成十七年12月〜平成二十五年3月
・事業主体:押上・業平橋駅周辺土地区画整理組合   ・施行面積:約6.4ha
・事業包括受託者:独立行政法人都市再生機構     ・地権者数:16名

■押上・業平橋駅周辺地区の歴史

当地区では、明治三十五年(1902年)に東武鉄道の吾妻橋駅(現とうきょうスカイツリー駅)が開業し、昭和初期に現在の浅草駅が開業するまで「人と物資の輸送ターミナル」としての役割を果たしていた。当時、地区内には船渠(ドック)が整備され、鉄道貨物輸送と北十間川を利用した舟運の結節点として、人や物のみならず多くの文化や情報が往来した。また、大正元年(1912年)には、京成電鉄の押上駅が開業し、交通結節点を形成していた。その後、押上一丁目では戦災復興土地区画整理事業が実施され現在の市街地の骨格が形成された。昭和二十四年(1949年)、磐城コンクリート工業(株)業平橋工場(現東京エスオーシー(株))が操業し、生コンクリート工場発祥の地となった。昭和二十八年(1953年)には日立コンクリート(株)押上工場も操業開始し、この地は、戦後復興期・高度経済成長期を支える産業の拠点となるとともに、押上通り商店街も大いに賑わった。当地区はこのように発展をしてきたが、トラック輸送の急成長など時代の流れにより鉄道貨物輸送は減少し、平成五年(1993年)には約100年におよぶ鉄道貨物ヤードの歴史に幕を閉じ、大規模な低未利用地として再開発が待たれていた。平成十五年(2003年)の半蔵門線の押上までの延伸および東武伊勢崎線との相互直通運転開始を契機とし、まちづくりの機運が高まる中、平成十七年(2005年)12月には地権者による押上・業平橋駅周辺土地区画整理組合が設立され、都市計画事業としての土地区画整理事業がス タートした。同事業は、国および東京都からの支援を受けるとともに、地権者の協力により建物移転等が順調に進められ、平成二十四年(2012年)3月に道路、駅前広場、公園の基盤整備を完了した。ここに地権者の労をねぎらい、竣工を記念し記念碑を建立する。




スカイツリータウン入口の階段脇には、ソラカラちゃん・テッペンペン・スコブルブル3人(?)のキャラクターが健在です。



ゴール地点の東武スカイツリーラインとうきょうスカイツリー駅に着きました。2022年に訪れた時は、駅の入口に煌びやかな装飾がされていましたが、2025年に再訪した時は道路側の入口は閉鎖され、高架の下に新しい入口ができていました。ソラカラちゃんとテッペンペンちゃんとスコブルブルじいさんが並んだキャラクターはスカイツリーの玄関駅として相応しいデコレーションだったんですけどね。



こちらが新しい駅の改札になります。駅名も、正面口から東口に変わりました。



ということで、墨田区で十番目の「Iおいしい野菜とウオーキング、心も体も大満足な野菜コース」を歩き終えました。次は墨田区で十一番目のコースである「J空・風・緑が心地よい快適リバービューコース」を歩きます。




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