J空・風・緑が心地よい快適リバービューコース  

コース 踏破記  

今日は墨田区の「J空・風・緑が心地よい快適リバービューコース」を歩きます。曳舟川通り・八広中央通り・荒川土手・ゆりのき橋通りを周遊して八広駅に戻ります。最初に歩いたのは2022年の3月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年6月に改めて歩きました。

J空・風・緑が心地よい 快適リバービューコース

八広駅から住宅街を抜けると、開放感あふれる荒川土手へ。土手からは、すみだのまち並みや東京スカイツリーが一望できます。空と風と緑を感じながら、心地よく歩けるコースです。

「J空・風・緑が心地よい快適リバービューコース」の歩行距離は約5.1km(約7、300歩)、歩行時間は約1時間20分、消費カロリーは約230Kcalです。

スタート地点:京成押上線八広駅南出口
ポイント1 三輪里稲荷神社
煎じて食すと、のどや声の病に効くといわれる「こんにゃく御符」を毎年初午の日に授与することから通称「こんにゃく稲荷」と呼ばれます。
ポイント2 荒川土手
河川敷に野球場やサッカー場が広がり開放感いっぱい!

ゴール地点:京成押上線八広駅南出口


スタート地点の京成押上線八広駅南出口から歩き始めます。八広駅は、大正十二年(1923年)7月11日に荒川駅という駅名で開業しました。荒川(当時は荒川放水路と呼ばれていました)の土手上に位置していたため、開業当初から長い間荒川駅として営業していましたが、昭和七年(1932年)に荒川区が成立した後は誤解や誤乗を招くことがありました。荒川橋梁の架け替えや駅の高架化を機に、平成六年(1994年)4月1日に地元町名の「八広駅」に改名しました。「八広」という町名は、昭和四十年(1965年)12月1日の住居表示実施に伴って、従来の寺島町六・八丁目、隅田町四丁目・吾嬬町西五−九丁目の8地区が合併して新たな町域が成立した際に、縁起の良い「八」の字を採り、その字体から「末広がり」の縁起を担いで命名されたものです。



高架下のコンコースを出て、ゆりのき橋通りに出ます。コンコースと呼ぶには通行する人が少なすぎますが。



ゆりのき橋通りは、更生橋交差点で曳舟川通り・国道6号線(水戸街道)と交差します。国道6号線はこのひとつ先の四ツ木橋南交差点も通っているのですが、なぜかここから二股の道筋になっています。国道6号線は、昭和二十七年(1952年)7月30日に現在の四ツ木橋が開通しましたが、橋の前後で慢性的に渋滞が発生したことから、曳舟川通りを延長する形で国道6号線の川下側に新橋「新四ツ木橋」を建設し、昭和四十八年(1973年)4月5日に竣工し、供用を開始しました。なので、この区間が2ルートになっているのです。



更生橋交差点を左折して曳舟川通りに入ります。



長浦神社はかつて第六天社と称し、別当は新義真言宗の鏡池山真光寺(現在は廃寺になっています)でした。明治に入って「第六天」の祭神や社号を改める際に、この地域の小名(小字)だった「長浦」を冠したと思われます。



ポイント1 三輪里稲荷神社

けやき児童遊園を回り込むようにして左折し、住宅街の路地を進みます。八広中央通りに出て三輪里稲荷交差点を渡った路地の奥に三輪里稲荷神社があります。三輪里稲荷神社の祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、慶長十九年(1614年)に出羽国(山形県)湯殿山の大日坊がかつての大畑村の総鎮守として羽黒大神の御分霊を勧請し、三輪里稲荷大明神として鎮座しました。現在は通称「こんにゃく稲荷」として八広の地を守護しています。「こんにゃく稲荷」の由来は、初午の日に授与される「こんにゃくの御符」を竹串ごと煎じてそのお湯を服用すると喉の患いや風邪に神験あらたかと大畑村の土地に伝えられ、三輪里稲荷神社を「こんにゃく稲荷」というようになったのだそうです。平成二六年(2014年)に鎮座四百年祭の奉祝行事が開催されました。



境内に案内板が立っています。

三輪里稲荷神社(こんにやく稲荷)

慶長十九年(1614年)出羽国(山形県)湯殿山の大日坊長が大畑村(八広、東墨田、立花の一部)の総鎮守として羽黒大神の御分霊を勧請し三輪里稲荷大明神として御鎮座致しました。通称「こんにゃく稲荷」と呼ばれて人々の信仰を集めてまいりました。「こんにゃく稲荷」のいわれは、初午の日に当社が「こんにゃくの護符」を授与され、これをいただき煎じて服用すれば、のどや風邪の病に効くとされることに依ります。




八広中央通りを荒川に向かって進みます。右手に和牛レストランがあります。



レストランの壁には水車が取り付けられています。建物は新潟県から移築され、水車は岐阜県で使用されていたものだそうです。外見だけを見ると新築されたようにしか見えませんね。

和牛処 やまだいら

この建物は、新潟県山平村(現、十日町市松代)にて、昭和二十九年まで県内で只一軒の茅葺き屋根の役場として知られていました。その後、山平屋初代社長樋口丈吉様の実家として使用されていた建物を、平成二十五年に当地に移築、再建したものです。現行の建築基準法、消防法に適合した建物として設計され、内部は古民家造りとなっております。そして、此の建物に合うように実物の水車を配置しましたが、この水車は岐阜県高山に現存するものを、東京東信用金庫様が寄贈されたものです。




歩道の上に、ツーリング仕様の自転車を停めた2人の若者の像が立っています。自転車に乗っていた2人がたまたまここで出会い、「旅をしているのかい?」といった感じの会話をしているように見えます。2人のTシャツの胸には、「Ryo」と「Gen」と刺繍されています。Ryoさんは軽装で、Genさんはリアキャリアにシュラフを積みフロントバッグもあるので旅の途上のように思えます。この像は平成六年(1994年)に設置された東京出身で現在は長野在住の池田宗弘氏という彫刻家による「仲間と」という作品だそうです。八広とどう繋がるのかはわかりません。



その先の植え込みの中に、地面に埋もれるように「やくしみち」と彫られた道標が建っています。

やくしみち道標

江戸時代の享保年間(1716年〜1736年)に、八代将軍徳川吉宗は、徳川家の祈願所であった浄光寺を参詣の折、要所に寺への道しるべを建てさせたといわれています。この道標は、それらの内の一つで、一面に「大畠村講中」とあることから、かつてこの付近に所在した大畑村の人びとによって建立されたものと推定されています。今は「右やくしみち」とある標示面が手前に、「左りゑとみち」とあるそれが右側にあり、行く手を正しく示しませんが、かつては木下川薬師として庶民の信仰を集めた浄光寺と江戸との間に建ち、道案内の役割を果たしていたはずです。ちなみに、浄光寺は現在葛飾区東四つ木一丁目に所在していますが、荒川放水路の開削に伴い大正八年(1919年)に移転するまでは現在の木根川橋のやや下流に位置し、各方面からこの寺の旧地へ通じた道が薬師道と呼ばれました。江戸時代後期に江戸近郊の踏査記録を残した清水徳川家の家来、村尾正靖が、その薬師道の往年のルートを推考するうえで参考になる絵図を描きのこしています。




八広中央通りを進み、荒川土手に上がりますと、木根川橋の袂に出ます。木根川橋を通る道路は都道449号新荒川堤防線と合流して南北二手に分かれ、直進する道路はありません。現在の四ツ木橋・新四ツ木橋・木根川橋には複雑な歴史があります。荒川放水路(現在の荒川)開削前は、綾瀬川と曳舟川通りが交差する所に木ノ下橋が架かっていました(現在の新四ツ木橋の綾瀬川区間)。大正十一年(1922年)6月30日、荒川放水路開削に伴って橋長451メートル・幅員5.5メートルの鉄筋コンクリート橋脚を持つ木製の方杖桁橋が架橋されました。これが旧四ツ木橋です。旧四ツ木橋の位置は現在の国道6号線の道筋ではなく、約500m下流の京成押上線荒川橋梁のすぐ下流側の八広中央通りの延長上にありました。昭和四十四年(1969年)12月に木製の旧四ツ木橋が解体され、代わりに旧四ツ木橋の約100m下流に木根川橋が橋長539.6メートル・幅員10.5ートル(車道6.5メートル、歩道2メートル×2)の7径間下路式平行弦ワーレントラス橋で架橋されました。右岸側にある旧四ツ木橋の取り付け道路は残され、木根川橋へクランク状に接続されました。一方、現在の国道6号線(水戸街道)に橋を架ける話は早くからあり、戦前に工事が始まりましたが戦争で中断し、戦後の昭和二十七年(1952年)7月に開通しました。開通時には旧四ツ木橋も存在していたため、新四ツ木橋と呼ばれました。その後、新四ツ木橋周辺の慢性的な交通渋滞対策として、昭和四十八年(1973年)4月5日に新たな橋が約200メートル離れた曳舟川通りの延長上に架橋されました。この時、既に木製の四ツ木橋は撤去された後であったこともあり、橋は「新四ツ木橋」と呼ばれ、それまでの新四ツ木橋の名称は現在の「四ツ木橋」になりました。木根川橋が旧四ツ木橋とずれた場所に架橋されたため、八広中央通りと繋がらなくなったのですね。ちなみに、さだまさしの曲に「木根川橋」があります。なんでこんな橋を知っていたんでしょうか?



荒川土手下に日枝神社があります。日枝神社は慶長十九年(1614年)に創建されたと伝えられています。創建の謂われは不明ですが、当時開拓に移住した住民が氏神として祀ったとされています。現在の氏子地は元木之下村といい、荒廃した土地を開墾し、一村としたものがその後発展したものです。境内には松・杉・樫等の大木が繁茂し、森林を成していましたが、大正以後はガスや煤煙のためほとんどが枯れてしまいました。



ポイント2 荒川土手

荒川の河川敷は、荒川・四ツ木橋緑地になっています。遊歩道やサイクリングロードが整備され緑も多く、正に「空と風と緑を感じながら心地よく歩けるコース」です。



河川敷には、南面もの野球場やサッカー場があり、休日には試合も開催されています。



土手の上から富士山は見えませんでしたが、スカイツリーと墨田清掃工場の煙突がコラボしています。



土手下に木々が茂った神社の屋根が見えています。延暦七年(788年)に下野国の広智という僧が伝教大師半体作の薬師像を背負って武州にきたところ、中川の辺で不思議な老翁に会いました。翁は名を唱翁といい、像を草庵に安置すべしと告げたために、像を草庵に安置して広智は本国に帰りました。その後、慈覚大師が東国に下った時に不思議な告げにより、その草庵を修理して一寺としました。さきに出た唱翁とは白髭明神であったといわれます。貞観二年(806年)に堂宇が完成し、薬師の守神として祀りました。その後霊験あらたかであったため、近郷の人たちも信仰して下木下川村の鎮守となりました。現在の荒川放水路の中央に鎮座していましたが、荒川改修工事のために大正四年に現在地に遷座しました。



本殿横に、「白髭神社沿革」と題した石碑が置かれています。

白髭神社沿革

私等の先祖が郷土の氏神として精神の故郷の憩と信仰の場である白髭神社は現在の荒川放水路の中央に鎮座し、今は遠き昔に過ぎ去りし明治四十三年の大洪水によって荒川改修工事の為に、当時神社維持運営等は上木下川四分(現葛飾区東四ッ木)下木下川六分(現墨田区)の負担とし、氏子の醵出金にて賄って居りたる為、荒川改修決定と同時に上・下両氏子の代表者により再度の会議の結果、白髭神社は大正四年十一月五日に東京府下南葛飾郡大木村大字上木下川より東京府下南葛飾郡大木村大字下木下川に移転鎮座(現在地)したるものである。又同時に上木下川にあった天満宮の御社を下木下川に移社し、現在王子・白髭両神社の社殿となす。

   大正四年十二月十日
   神社保存明細帳より転写

其後、昭和二十年三月十日の大東亜戦争の戦火に依り焼失せるも、左記の総代が前任総代より昭和四十二年正月申送られし再建の件を引継ぎ、昭和四十六年五月吉日地域内氏子の絶大なる協力と総代の努力に依り新社殿の再建を完成する。又昭和四十七年五月鳥居を、又昭和四十八年五月水屋を、引続き玉垣、植樹を完成し現在に到る。




白髭神社のはす向かいに萬福寺があります。萬福寺は、大永七年(1527年)に開山されました。元々は現在地よりも東に位置していましたが、大正期の荒川放水路の開削により現在地に移転しました。



境内には多くの石仏が祀られています。

萬福寺の石仏群

萬福寺は、大永七年(1527年)に下木下川村に創建しましたが、荒川放水路が開削されたことにより、大正元年(1912年)に現在地に移転しました。参道にある石仏群も、このとき移されました。向っていちばん手前に立つ彫像は、元禄三年(1690年)9月19日銘の阿弥陀如来立像です。光背の右側に刻まれた銘文から、行基作と伝わる本尊の身代わりとして建立されたことがわかります。次に、その左隣に立つ彫像は、天和二年(1682年)9月16日銘の庚申塔です。駒型光背の中央に六臂の青面金剛菩薩立像が刻まれています。これは、区内で確認されている庚申塔の中でも比較的古いものです。かつて盛んに行われた庚申待(庚申の日に神仏を祀り、眠らずに過ごした行事)の痕跡を伝えています。昭和五十九年(1984年)3月15日に「萬福寺の石造庚申塔(青面金剛童子)」という名称で墨田区登録有形民俗文化財に登録されました。石段を挟んでさらに左に立つ彫像は、右膝を立てて頬杖をする姿が印象的です。これは、寛文十二年(1672年)銘の観音菩薩坐像です。当時、念仏供養を行った木下川村の住人31名が奉納したようです。最後に、いちばん奥に並んで立つ二つの彫像は、いずれも地蔵菩薩立像です。現世と来世の安楽を願い、寛文二年(1662年)8月に同時に造立されました。それぞれの光背の右下には、これらを奉納した人びとの名前が刻まれています。




案内板に記された石仏はこの(↓)写真の配置になっています。



旧中川に出て、土手沿いにゆりのき橋に向かいます。



再び、墨田清掃工場の煙突とスカイツリーのコラボがみられます。



ゆりのき橋通りを真っ直ぐに北に向かい、ゴール地点の京成押上線八広駅に着きました。



ということで、墨田区で十一番目の「J空・風・緑が心地よい快適リバービューコース」を歩き終えました。次は墨田区で十二番目のコースである「K歩いた後はひとっ風呂!?緑と下町を感じるコース」を歩きます。




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