- K歩いた後はひとっ風呂!?緑と下町を感じるコース
- コース 踏破記
- 今日は墨田区の「K歩いた後はひとっ風呂!?緑と下町を感じるコース」を歩きます。吾妻橋東詰から隅田川テラスを経て源森橋を渡り、スカイツリータウン沿いに進みます。拡幅工事が予定されている四ツ目通りを経て曳舟たから通りを香取神社まで進み、最後は北十間川の遊歩道を散策します。さくら湯でひとっ風呂はなし。最初に歩いたのは2022年の3月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年6月に改めて歩きました。
K歩いた後はひとっ風呂!?緑と下町を感じるコース
イチ押しは四季を肌で感じられる「緑と花の学習園」で、花や緑にふれる機会が少ない人にオススメです。商店街や銭湯など、すみだらしいスポットも楽しめます。(提案者:墨田区在勤 石村さん)
「K歩いた後はひとっ風呂!?緑と下町を感じるコース」の歩行距離は約5.4km(約7、700歩)、歩行時間は約1時間20分、消費カロリーは約240Kcalです。
スタート地点:吾妻橋東詰
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- ポイント1 おしなり公園
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ボランティアの方が作ったお花のバスケットがきれい!
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- ポイント2 キラキラ橘商店街
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食べ歩きも楽しめます♪
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- ポイント3 緑と花の学習園
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多種多様な草木があり、春はしだれ桜が優雅です。
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- ポイント4 北十間川沿い遊歩道
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護岸が整備されていて歩きやすい道。
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- ポイント5 さくら湯
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ゴール地点:東武スカイツリー線とうきょうスカイツリー駅正面改札口
スタート地点の吾妻橋東詰から墨田区の隅田公園に入ります。
墨田区のあちこちに立てられている鬼平情景の案内板があります。
吾妻橋(大川橋)
江戸時代、両国橋、新大橋、永代橋に次いで隅田川に架けられた四番目の橋です。安永三年(1774年)、長谷川平蔵二十九才の時、町人からの幕府への願いが受け容れられ、架橋されました。民営のため武士を除く利用者から渡賃二文を徴収して維持費に充てました。長さ八十四間(約150メートル)、幅三間半(約6.5メートル)あり、正式名は大川橋です。吾嬬神社への参道にあたるとして吾妻橋への改名願いが出されましたが、それが叶ったのは明治九年(1876年)になってからです。鬼平犯科帳でも数々の作品に登場します。なかでも人気の、亡父遺愛の銀煙管が鍵となる「大川の隠居」では、平蔵を乗せた友五郎の櫓さばきも巧みな舟が、吾妻橋をくぐって大川を遡っていく名場面に出てきます。
3枚のパネルに墨田区の観光案内が紹介されています。今回訪れる所のみを抜粋します。
東京スカイツリー
2012年5月22日に開業した電波塔で、足元には複合商業施設も併設されています。高さ634m、自立式電波塔としては世界一となり、350mと450mの展望台からは関東一円を見渡す大パノラマが広がります。
TOKYO SKYTREE
This broadcast tower was opened on May 22, 2012. At the foot of this tower, a commercial complex is located. The height is 634m, which is the world's tallest free-standing structure. From the observation platforms at the height of 350m and 450m, a huge panoramic view of the Kanto Area can be enjoyed.
隅田公園
隅田川をはさんで、墨田区と台東区にまたがる臨水公園。墨田区側は旧水戸藩屋敷の日本庭園を含む都内有数の桜の名所として知られる。園内には、「牛嶋神社」「常夜灯」「墨堤植桜之碑」「藤田東湖の詩碑(正気之歌)」等がある。
Sumida Park
This park lies in both Sumida and Taito. The Sumida side contains a Japanese garden, once part of the feudal residence of the powerful Mito-clan, that is renown for its cherry blossoms. Within the park are Ushijima-jinja Shrine, stone lantern, and two memorial stele. One is dedicated to the planting of cherry trees, and another is
a poem (Shoki-no-uta) by Fujita Tohko.
墨田区で六番目の「E向島を愛した文人たちの足跡を訪ねる文学散歩コース」を歩いた際に、墨田区役所前の広場にあった「ASICS CONNECTION TOKYO(アシックスコネクショントウキョウ)」が閉鎖されたと書きましたが、その跡に同じようなコンセプトのブラジル生まれのサッカーブランド「ATHLETA」がプロデュースしたアスレチッククラブが2022年5月6日にオープンしていました。
1階にはアットホームで陽気なブラジリアンカフェの「que bom!」があり、隅田川に面してテラス席もあります。シュハスカリアキボンのお肉を使ったお弁当をはじめ、ポンデケージョやアサイーなどキボン!ならではのメニューが揃っていて、開放的な雰囲気で気持ち良く過ごせます。2階はブラジリアン柔術の道場もあるようです。
墨田区役所脇の広場に勝海舟の銅像が建っています。
建立の記
勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政六年(1823年)一月三十日、江戸本所亀沢町(両国四丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治三十二年(1899年)一月十九日(発表は二十一日)赤坂の氷川邸で逝去されました。勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
海舟生誕百八十年
平成十五年(2003年)七月二十一日(海の日)
北十間川が隅田川から分岐する地点と浅草を結んで東武鉄道の鉄橋が架かっています。かっては電車が通るだけでしたが、令和二年(2020年)に橋梁沿いの歩道橋「すみだリバーウォーク」がオープンしました。午前7時から午後10時まで解放され、徒歩で自由に渡ることができます。床面に隅田川を見下ろすのぞき窓があるほか、東京スカイツリー公式キャラクターの「ソラカラちゃん」のイラストが隠されているなど、遊び心あふれる趣向も凝らしています。鉄道の橋梁や東武鉄道の車両が走る様子を間近に見ることができるので、鉄道好きにも楽しめます。
隅田川から北十間川が分岐する地点に源森川水門があります。北十間川は、総延長3.24kmの荒川水系の一級河川であり、江戸時代初期に開削された運河です。川の名称は、本所の「北」を流れる川幅が「10間」の川であることに由来します。以前は大横川の分流点より西を源森川(別名:源兵衛堀)、東を北十間川と呼んでいました。水門の名前もかっての呼び名の源森川に因んでいます。
水害のない町に
源森川水門
隅田川と荒川に挟まれた江東三角地帯は、ゼロメートル地帯といわれ、満潮時には大部分が水面下となり、過去にたびたび大水害に見舞われてきました。外郭堤防・水門・排水機場は、高潮や洪水、津波などの水害から、この地域の安全を守るはたらきをしています。
江東三角地帯には、小名木川、北十間川などの堀状の内部河川が縦横に流れています。源森川水門は、北十間川が隅田川に合流する地点に設けられ、平常時は開放されていますが、台風が接近し高潮のおそれのある場合はもちろん、台風以外でも高潮位が予想されるどきは閉鎖します。また、地震により津波のおそれが生じたときは、ただちに閉鎖します。このように水門は、通常は内部河川への出入
口として、非常時には閉鎖して防潮堤としての機能を持っています。
墨堤通りの手前に奇妙なオブジェが建っています。吾妻橋の袂にあったアート作品と同じ趣旨で設置されたみたいです。
GTS GEIDAI TAITO SUMIDA Sightseeing Art Project
GTS観光アートプロジェクトは、東京藝術大学(G)・台東区(T)・墨田区(S)の頭文字からなる三者共催の地域連携プロジェクトです。
ゆらぎツリー
この作品は、そよ風が起こした漣(さざなみ)が、鏡面のように澄み切った水面に波紋を投げかけた時に、そこに映り込んですこしゆらぎ始めた東京スカイツリーをイメージソースとし、制作したものです。逆立ちしたようにも見える姿はユーモラスでもあります。また、この先の枕橋からは、北十間川に映りこむ実際の逆さツリーを見ることもできます。このゆらぎツリーが、この場に定着し、皆さんに愛されることを願っています。
枕橋南詰から北十間川脇の道を源森橋に向かって進みます。鬼平犯科帳には枕橋が次のように登場します。
枕橋 さなだや
当時は堀留となっていた源森川に架かる橋で、作品の中では源森橋、源兵衛橋と名を変えて出てきます。その北隣の水戸家下屋数に引き込まれた水路に架かる小梅橋と対になると夫婦が枕を並べた様子に似ていることから、枕橋と呼ばれていました。鬼平犯科帳では、その北詰にある蕎麦屋(さなだや)がいっしょに数多く登場します。「蛇の眼」ではその店で、平蔵独特の勘ばたらきからあやしい奴に出くわし、追跡する場面があります。実はこの男、大盗・蛇の平十郎で、源兵衛橋の下に潜り込んで、まんまと逃げ失せてしまいます。鬼平犯科帳の番外編とされる「にっぽん怪盗伝」収録の「正月四日の客」は、(さなだや)が舞台になり、亭主の庄兵衛と客の亀の小五郎とのむだ口のない遣り取りが実にいい味を出しています。
枕橋から少し離れた植え込みの中に、枕橋の案内碑が建っています。
枕橋の由来
寛文二年(1662年)、関東郡代であった伊奈半十郎により、中之郷(現在の吾妻橋)から向島に通じる源森川に源森橋が架けられた。またその北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。その後、堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅した。明治八年、残った源森橋は正式に枕橋と呼ばれることとなった。現在の枕橋は昭和三年に架け替えられたものである。昭和六十三年、本橋は東京都著名橋に指定された。
源森橋で北十間を渡ります。
源森橋
源森橋の名前の由来は、現在の枕橋(本橋から約二百メートル隅田川寄りの橋)、古くは源森橋と呼ばれていたものが、明治初期に枕橋に正式決定されたことから、本橋を源森橋と呼ぶようになったことによるものである。その昔、現在の枕橋(旧源森橋)が関東郡代であった伊奈半十郎により中之郷瓦町(現在の吾妻橋地区)から新小梅町(現在の向島地区)に通ずる源森側(現在の北十間川)に架けられた。また枕橋(旧源森橋)北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋(旧源森橋、新小梅橋)は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。その後、水戸屋敷内への堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅し、残った旧源森橋は明治初期に正式に枕橋と呼ばれることになり、旧源森橋の東側にあった本橋を源森橋と公称した。現在の源森橋は、昭和三年に架設した鋼橋(上路式アーチ橋)が約八十年経過し、老朽化したため、平成十九年三月に鋼橋(鋼床版鈑桁)に架け替えられたものである。
源森橋はスカイツリーの絶好の眺望ポイントのひとつです。
「東京ミズマチ」は、2020年に東武鉄道の高架下を利用してオープンした複合商業施設です。北十間川の親水テラスに面し、川面を眺めながらゆったりと食事できるレストランもあります。
コネクトすみだ[まち処]は、墨田区の「ものづくりの名産品」がどこよりも揃っているお店です。ロゴマークの江戸紋様である毘沙門亀甲は、財宝や福徳をもたらしてくれる七福神の一神である毘沙門天さまの甲冑にこの文様が使われていて、特に縁起良い吉祥文様となっています。また、中の図柄を「人」にすることで、「人と人がつながる」というイメージを表しています。沿線食堂は、2022年6月18日に東京ミズマチにオープンし、「食べて守ろう!沿線にある食堂の味」をスローガンにして、大切な食堂の味を多くの人たちに届け、食を通じた沿線の食堂のサポートを行っています。
小梅橋船着場は、2021年春に隅田公園とミズマチから東京スカイツリーへ向かう北十間川に新しくオープンしました。北十間川から隅田川や両国・日本橋方面へのクルージングが様々な舟運事業者によって運航されています。現在はイベント船が中心のため、運航日時は不定期になっています。小梅橋は、北十間川に架かる橋梁で、最初の橋は1953年に完成してから約63年が経過して老朽化が進んだため掛け替えが行われ、2020年4月1日に現在の新橋が開通しました。「小梅」という地名は、元は「梅香原(うめがはら)」と呼ばれた梅の木が多い地域だったことに由来し、梅の名所でした。
小梅橋の先にプレハブの建屋とフェンスに囲まれた広場があります。パデル東京ミズマチは、スペイン発祥の人気ラケットスポーツ「パデル」が楽しめる専用施設です。パデルはテニスとスカッシュをあわせたようなスポーツで、世界で2、500万人の競技人口を持ち、欧州や南米ではテニスの人口を上回る国も多く、老若男女がプレーできる国民的なスポーツです。あまり馴染みのないスポーツですが、多くの企業が協賛しているとのことです。
スカイツリーにやってきました。スカイツリータウン入口の階段脇には、ソラカラちゃん・テッペンペン・スコブルブル3人(?)のキャラクターが健在です。
- ポイント1 おしなり公園
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北十間川に沿って細長く続く「おしなり公園」があります。公園の名前は、スカイツリーのすぐ下に広がる商店街のイメージキャラクター「おしなりくん」に因んでいます。商店街が位置する押上・業平橋地区の「押(おし)」と「業(なり)を合成して命名されました。おしなりくんは、大横川に架かる業平橋の名前の由来となった平安の歌人在原業平をモチーフに、タワーをイメージした烏帽子姿をしていて、性格は朗らかで優しく、何事にも誠実、得意なことは誰でも笑顔にすることです。
公園の柵の上には沢山の鉢が据えられ、地元のサポーターによって手入れされた花々が季節毎に咲き誇っています。
公園の中程には、対岸をつなぐ「おしなり橋」という歩行者専用の橋が架かっています。
橋の広場の隅っこに、東京スカイツリーを建てるために行われた再開発事業のあらましを解説した案内碑が立っています。
押上・業平橋駅周辺土地区画整理事業
■事業の概要
・事業名称:押上・業平橋駅周辺土地区画整理事業 ・事業期間:平成十七年12月〜平成二十五年3月
・事業主体:押上・業平橋駅周辺土地区画整理組合 ・施行面積:約6.4ha
・事業包括受託者:独立行政法人都市再生機構 ・地権者数:16名
■押上・業平橋駅周辺地区の歴史
当地区では、明治三十五年(1902年)に東武鉄道の吾妻橋駅(現とうきょうスカイツリー駅)が開業し、昭和初期に現在の浅草駅が開業するまで「人と物資の輸送ターミナル」としての役割を果たしていた。当時、地区内には船渠(ドック)が整備され、鉄道貨物輸送と北十間川を利用した舟運の結節点として、人や物のみならず多くの文化や情報が往来した。また、大正元年(1912年)には、京成電鉄の押上駅が開業し、交通結節点を形成していた。その後、押上一丁目では戦災復興土地区画整理事業が実施され現在の市街地の骨格が形成された。昭和二十四年(1949年)、磐城コンクリート工業(株)業平橋工場(現東京エスオーシー(株))が操業し、生コンクリート工場発祥の地となった。昭和二十八年(1953年)には日立コンクリート(株)押上工場も操業開始し、この地は、戦後復興期・高度経済成長期を支える産業の拠点となるとともに、押上通り商店街も大いに賑わった。当地区はこのように発展をしてきたが、トラック輸送の急成長など時代の流れにより鉄道貨物輸送は減少し、平成五年(1993年)には約100年におよぶ鉄道貨物ヤードの歴史に幕を閉じ、大規模な低未利用地として再開発が待たれていた。平成十五年(2003年)の半蔵門線の押上までの延伸および東武伊勢崎線との相互直通運転開始を契機とし、まちづくりの機運が高まる中、平成十七年(2005年)12月には地権者による押上・業平橋駅周辺土地区画整理組合が設立され、都市計画事業としての土地区画整理事業がス
タートした。同事業は、国および東京都からの支援を受けるとともに、地権者の協力により建物移転等が順調に進められ、平成二十四年(2012年)3月に道路、駅前広場、公園の基盤整備を完了した。ここに地権者の労をねぎらい、竣工を記念し記念碑を建立する。
押上駅前広場から四ツ目通りに出ます。幹線道路ながら押上以北は道幅の狭い通りでしたが、現在拡幅のための用地買収が進んでいます。京島二丁目交差点を右折して、昭和時代にタイムスリップしたかのような雰囲気の曳舟たから通りに入ります。蛇足ですが、京島二丁目交差点は東京に初めて出来たスクランブル交差点で、1971年4月5日に「調布市上布田」・「世田谷区八幡山」・「大田区 入洗小前」・「練馬区北町二丁目」の都内4ヵ所の交差点と同時に設けられました。渋谷のスクランブル交差点が誕生したのは、その3週間後の1971年4月26日のことです。
通りには新旧取り混ぜたお店が見られます。浪花家は、麻布十番浪花家総本店の暖簾分け店である両国浪花家本店で修行した主人が昭和三十五年に独立・開店したお店です。鯛焼き以外においなりさん・かんぴょう巻き・おにぎりも売っています。鯛焼きは薄皮にあんこがタップリ入っています。あんこがたくさん入るように、通常の鉢型より彫が深めな特注品を使っているらしいです。パリッと焼けた香ばしい皮がとても美味しく、あんこも甘すぎず上品な味です。最初に訪れた2022年3月時点では営業していましたが(シャッターは閉まっていましたが)、残念ながら2025年5月に再訪したときは閉店していました。「東京えんとつ」は、ぎっしりとクリームが詰まった東京えんとつの工房直営店です。店頭の看板には「下町のケーキ屋さん」と書いてありますが、色々なケーキが置いてあるのではなく、ショーケースに並んでいるのは「日向夏のタルト」以外は全て「東京えんとつ」です。カップケーキの様な形のシフォンケーキで、中にクリームが入っています。プレーンの他、苺・チョコ・メロンの載ったものもあります。お店のお勧めは「プレーン」で、ふわふわのシフォン生地にカスタードとホイップが2層構造になったクリームが入っています。
通りの脇の小さな広場に年代物の手押しポンプが据え付けられています。昔、下町ではよく見られた風景です。
たから一休
Takara−ikkyu
京島地区まちづくり協議会と町会が、この「手押しポンプと地下埋設の雨水貯留槽」に誰もが分るように愛称をつけることとし、平成七年(1995年)に「たから一休」と命名しました。
- ポイント2 キラキラ橘商店街
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キラキラ橘商店街はおよそ400メートルの長さの場所に商店が立ち並び、昭和の風情とおいしいグルメを楽しめる商店街です。日本に「商店街」という概念ができたのは、昭和三十七年(1962年)に商店街振興組合法が公布されてからだといわれています。それまでは住民は「市場」と呼ばれる所で生活に必要なものを買っていました。昭和初期の頃は京島を始めとした墨田区北部に小さな工場が多く、周辺で暮らす人も多くいました。第二次世界大戦が始まり、墨田区南部の錦糸町一帯は東京大空襲の戦禍を免れることができず、大きな被害を被りました。しかし北部の京島は奇跡的に大きなダメージを受けず、ここにあった「市場」が徐々に大きくなり、全盛期には映画館まで建てられたそうです。大型商業施設の普及などにより、当時に比べると賑わいも減りつつありますが、今でも墨田区で1位・2位を争う元気な商店街になっています。
キラキラ橘商店街の外れの曳舟たから通りに面して田丸神社があります。
神社の入り口に案内板が立っています。なんだかよく意味がわかりませんねぇ。
田丸神社由来
明治三十八年冬他界した妻の言葉で「父が以前行った事のある所に宝財として土地を求めよ」に従いそこを訪れたところ昔はその栄を物語るも手入れもされず、樹木でおい茂り、中央に池がある荒れ果てた土地があった。あまりにもひどくあきらめんとしたが去るには地相が如何にも捨て難く、購入し地盛り古い池の埋立をしたところ、年を越したころには緑が茂るようになった。この土地の北隅の樹木の小陰に所があり、塵埃をはらい四辺を清め、心からのお祠りをし永世の奉りを誓った。その夜枕辺に稲荷の主神咲栃の神がおたちになり、静かな声で「忠よ汝は善く我安居を清めてくれました、その厚き志に感謝し貯財の道を教えましょう。北半里を出ない中に水田があり土地を求めなさい。そこの地を開けば多くの人がここに居を求め人の為、又家運の為にもなり無上の幸福があなたに訪れるでしょう」の言葉を言い残し幻の如く闇に消えました。その声、裳の姿、畳障子の音までも私の目、耳底にのこり夢と思うも夢でなくその夜は眠ることもできずに夜を明かした。翌年三十九年にそのお告げの通り今の地に咲栃の神をお祠りしたところ多くの方が今日居をかまえられた。その土地こそが、現在のこの地である。それ以来大正十二年九月一日の大震災又戦災も逃れ、咲栃の神の言に従って開かれた土地は栄え家々は日に日に盛運に進みその神徳に感謝してもしきれない
ものである。
原忠三郎 謹書より
以後、今にいたるまで「財のたまる」「幸のたまる」「難を逃げる」田丸神社としてあがめられている。
情報経営イノベーション専門職大学は、令和二年(2020年)4月に開学した専門職大学です。専門職大学とはあまり馴染みがない名称ですが、平成二十九年(2017年)5月24日の学校教育法の改正によって設けられた日本の職業大学です。修業年限は4年で、卒業すれば「学士(専門職)」の学位が得られます。教員の約80% は実務家であり、640時間の臨地実務実習、起業やプレゼンテーションについて4年間必修で学ぶイノベーションプロジェクトなど、理論と実践でイノベーション人材を育成します。
- ポイント3 緑と花の学習園
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緑と花の学習園は、植物の栽培について学べる施設です。園内には、約280種類5100本の植物が植栽され、花壇には季節の花が四季折々の彩りをつけ、潤いと安らぎを与えてくれます。毎週土曜日には樹木医やグリーンアドバイザーが招かれ、緑化相談を行っています。また、各種講習会も行っていて高枝剪定バサミを借りて、木の剪定を体験することができます。緑化ボランティアと緑と花のサポーターの活動拠点となっていて、植物の手入れなどを区と協働で取り組んでいます。
墨田区立緑と花の学習園
区立のミニ植物園です。ご自由にお入りいただけます。入園料は無料です。
植物が見られます
緑と花の学習園には、約350種類の四季折々の植物が植栽されており、うるおいと安らぎを与えてくれます。春には園内にある9種の桜が咲き誇ります。
緑化講習会を開催しています
季節に合わせた内容で、初心者の方から経験者の方まで楽しめる講習会を実施しています。植物やお花と触れ合うことで癒しの効果もあるそうです。
緑化相談を行っています
緑と花の学習園では、植物に関する専門家(樹木医・グリーンアドバイザー)による緑化相談を実施しています。お花や樹木の維持管理等についてお困りのことがありましたら是非ご活用ください。
入口を入って左手は桜と花壇のコーナーになっています。
ソメイヨシノや垂れ桜もあります。桜の季節でなかったのは残念ですが。
ソメイヨシノ(染井吉野)
ほぼ全国に分布し、「さくらの開花予想」の基準となっています。江戸末期に江戸染井村(現在の豊島区)の植木職人等が育成し「吉野桜」として売り出されました。
花弁の色: 白色〜淡紅色
大きさ: おおむね3〜5cm
花弁数: 一重
開花期: 4月上旬
系統: オオシマザクラ×エドヒガンザクラ
入口を入って右手は桜と野草園のコーナーになっています。時期が異なる写真もありますが。
棚を潜った園内の左手奥には季節の花木が区分けして植えてあります。
右手奥には多彩な果樹の木が植えられています。ブドウの木も実を付け始めています。
杏の木もあります。小さな実を付けていますね。
緑と花の学習園の先で文化二丁目交差点に出ます。変則五叉路の正面には観梅で知られる香取神社があります。亀戸には香取神社が2社あります。ひとつは明治通りに面した亀戸香取神社、そしてもうひとつはこの小村井香取神社です。亀戸香取神社はスポーツの神様として知られていますが、小村井香取神社は梅の香梅園として有名です。平安時代末期、この地を開拓するために千葉県香取郡から六軒の人々が移住し、香取神宮の御分霊を鎮守したのが始まりです。御神徳は、開拓・産業開発・海上守護・心願成就・縁結び・安産・勝運・交通安全・災難除けなどの御利益があります。
香取神社
鎮座地 東京都墨田区文花二丁目五番八号
御祭神 經津主大神(ふつぬしのおおかみ)(又の御名 伊波比主大神)
御由緒
經津主大神は天孫降臨に先だち天照大神の勅を奉じ、武甕槌神(鹿島の神)と共に出雲に降り、大國主命と御交渉の結果國土を皇孫に捧げ奉らしめ、次いで國内を平定して日本の建国の基礎を築かれた武勇に優れた神様で國運開発・民業指導・海上守護・縁結び・安産の神様更には、武徳の祖神として廣く仰がれております。當神社は、永萬元年(1165年)の葛西御厨の文書、應永五年(1398年)の葛西御厨注文等に鎮守村名が見られ、平安時代の末期、當地開拓のために千葉県香取郡から六軒の人々が移住し、小村井の氏神様として鎮守しました。大正五年頃まで老樹欝蒼と繁茂し圓形の森林をなし、鳥類はもとより狸の類も巣を作り、隣地には小村井梅園が存して明治四十三年頃までは四季の遊びの場所ともなりました。現在の御社殿は、昭和二十九年の建立で、本殿は流れ造り、拝殿は入母屋流れ造りの総桧造りです。
江戸時代には東隣に作られた小村井梅園が盛況で、将軍家の御成りもあったといいますが、明治四十三年の洪水で廃園となりました。香取神社には元々は梅林はなかったのですが、隣地にあった小村井梅園を再現しようと住職さんが平成六年に境内の一画に「香梅園」を開き、85種類・120本の梅を植え、「呉服枝垂」や「緋の司枝垂」などが咲き誇る満開の風景は非常に見ごたえがあるとのことです。2月中旬から3月上旬頃には「梅まつり」が開かれて訪れる参拝客の目を楽しませています。香梅園は一の鳥居の右手にあります。
小村井梅園の由来
小村井梅園は江戸時代に作られ、当時の名所案内にも数多く紹介された江戸近郊の梅の名所です。香取神社の東側に位置し、小村井村宇出戸五百十一番に三千三百坪の広さを持ち、切絵図には「梅屋敷 名主小山孫左衛門 年毎御成有」と記され、毎年梅花の盛りには将軍家の御成りがあり、御成り梅の名も残っていました。紅梅白梅と姿良く、また老樹も多く、大きな実も穫れました。園内には、築山や池に多くの名石が組まれ、東西に互り松の大木が二列に並び立ち、鴨・鷺など多くの鳥が飛び交い、利根川の魚を畜った釣堀もあり、花菖蒲に秋の七草と、多くの人で賑わいました。安藤広重の「絵本江戸土産」の錦絵には「小村井は亀戸より四、五町巽の方に在り比の所に香取の社あり、その傍梅園ありて満開の節は薫風馥郁として行人の鼻を穿つ実に新古の梅屋敷にも倍したる勝景・・・」と記されています。惜しくも明治四十三年の大水で廃園となりました。面影を忍び、此處にその由来を記して記念とします。
2022年に訪れた時は3月上旬でまだまだ梅は見頃でした。
2025年に再訪した時は5月中旬で、梅の木は緑に包まれていました。
拝殿は一の鳥居と二の鳥居を潜った先の石段上にあります。鳥居は、どちらも神明鳥居の様式となっています。
小村井香取神社から北十間川に向かう左手に、大正十二年(1923年)に吾嬬町工場として操業を開始した花王すみだ事業場があります。花王グループで最も長い歴史を持つすみだ事業場には、花王の研究開発・事業・サプライチェーン・管理部門等が入っています。お昼時には、白衣を着た従業員の姿も見られます。
- ポイント4 北十間川沿い遊歩道
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境橋の袂から北十間川の護岸下の遊歩道に入ります。
場所によっては、逆さスカイツリーに遭遇することもあります。
十間橋の手前の柳島橋で北十間川から横十間川が分岐しています。横十間川の川幅はかなり広く、南の方角に真っ直ぐ延びています。人工河川そのものです。横十間川は墨田区・江東区を流れる運河で、一級河川に指定されています。天神川・釜屋堀・横十間堀・横十間堀川とも呼ばれていました。万治二年(1659年)、徳山重政・山崎重政によって開削されました。横十間川の名称は、江戸城に対して横に流れ、川幅が十間(18m)あったことに由来します。天神川とも呼ばれていたのは、亀戸天神の近くを流れていたからです。江東区亀戸と墨田区業平の境界で北十間川から分かれ、南へ流れます。ここから竪川が交差する地点に至るまでは、川の中央が両区の区境となっています。竪川と交差し、さらに小名木川と交差しますが、そこにはX字状の小名木川クローバー橋が架かっています。仙台堀川と交差した後で西に流路を変え、江東区東陽で大横川に合流します。横十間川の周囲は地下水の汲み上げによりゼロメートル地帯となり、天井川となっていましたが、扇橋閘門等により堰き止められ、常時排水することによって、海水面より1メール以上水位が低く保たれています。水位が低下したため、小名木川クローバー橋から大横川に合流する地点までの区間は埋め立てられ、横十間川親水公園として整備されています。
北十間川の遊歩道から上がって西十間橋を渡ります。
十間橋と並んで、西十間橋もスカイツリーのビューポイントです。逆さスカイツリーも見られます。
- ポイント5 さくら湯
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浅草通りを横断し、Big−A墨田業平店の角を右折しますと、2ブロック先の左手に銭湯「さくら湯」があります。お風呂の種類は8種類あり、薬風呂やバイブラ風呂・座風呂・シルク風呂などバラエティ豊かなお風呂が揃っています。シャンプーなどの貸し出しやタオルの販売もしているので、お散歩の打ち上げで利用できるのも嬉しいポイントです。今ではなかなか大きなお風呂を体験する機会は少ないので、お子さん連れだといつもと違うお風呂にわくわくするのではないでしょうか。
業平四丁目交差点で四ツ目通りに入り、右折して押上駅前交差点から浅草通りに入ります。左手に近代的なビルに入った春慶寺があります。春慶寺は、元和元年(1615年)に浅草森田町の地に真如院日理上人によって創建されました。その後、寛文七年(1667年)に浅草から本所押上村に移転し、現在まで約400年の歴史を持つ由緒あるお寺です。先代の住職が亡くなってから長らく空き寺になっていた春慶寺は、現在の住職が赴任した当時は檀家が3軒という状態でした。普賢菩薩の信者が建築費用を寄進し、平成十三年に浅草通りに面した現在の堂宇が再建されました。
春慶寺は、江戸時代から「押上の普賢さま」と称されていて、特に辰年・巳年の守り本尊として多くの参詣人で賑わっています。当時の隆盛ぶりは江戸の年中行事を伝える「東都歳時記」や、江戸の風俗や事件を年表形式でまとめた「武江年表」などの中に再三にわたって紹介されています。天明期(1781年〜1789年)の頃に活躍した浮世絵師勝川春潮の「押上村行楽」という浮世絵には、石の道標「押上村」・「普賢菩薩」という文字が見られます。この浮世絵によって江戸の郊外に位置した「押上村の春慶寺にお参りに行く」ことが人々の大きな楽しみであったことがうかがえます。本堂の隣にある普賢堂おまいり処は、普賢菩薩に気軽にお参りしてもらうように設けられました。
普賢堂に祀られている「見返りの白象さま」ですが、お釈迦さまゆかりの地インドでは象は仏菩薩のお使いとされ、大地をしっかり踏みしめて歩く態度が「実践力」を象徴するものと尊ばれてきました。普賢菩薩は、六本の牙をもった白象に乗っています。六本の牙は六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)つまり人間の身心を、白い色は清浄を表しています。
見返りの白象さま縁起
お釈迦さまゆかりの地インドでは、象は仏菩薩の御使いとされ、大地をしっかり踏みしめて歩く態度が「実践力」を象徴するものと尊ばれてきました。仏法御守護の普賢菩薩様は、六本の牙をもった白象にお乗りです。六本の牙は六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)つまり人間の身心を、白い色は清浄をあらわしています。
普賢様は精進努力する者を励まし、懺悔反省する者に活路を示し、よき方向に導く開運の菩薩様です。推古天皇の御世に百済より渡来し、当山に鎮座まします普賢様がお乗りの聖象は「見返りの白象さま」としてその意をよく表しています。白象さまの頭に戴く小判は努力した者が得られる天財(菩薩の恵)、鈴は天啓(菩薩の声)であります。皆様、白象さまと共に善き日々をお過ごしください。
押上の普賢さま 春慶寺
春慶寺は、「鬼平犯科帳」の舞台となりました。池波正太郎が作り上げた傑作「鬼平犯科帳」は、江戸末期に実在した幕臣長谷川平蔵(宣以)(1745年〜1795年)が火付盗賊改方として活躍するさまを描いたものですが、春慶寺はこの中で鬼平の親友岸井左馬之助の寄宿先としてたびたび登場しています。特に「明神の次郎吉」という作品は春慶寺を舞台とした筋立てとなっていて、当時の押上近辺の様子が生き生きと描かれています。
春慶寺を出て横川沿いの道を南へ行くと、川べりの草むらに蛍が飛んでいるのが見えた。夏の夜である。町家の灯りも消えていず、まだ子どもたちの遊ぶ声がきこえた。
鬼平の親友岸井左馬之助の寄宿先としてたびたび登場している春慶寺ですが、春慶寺入口に俳優の江守徹が揮毫した岸井左馬之助寄宿之寺碑が建てられています。また、墨田区による街歩き観光推進の一環として、「鬼平犯科帳」の縁を紹介する案内板も設置されています。
鬼平情景 春慶寺
元和元年(1615年)、真如院日理上人によって浅草森田町に創建され、寛文七年(1667年)に本所押上村に移転してきました。江戸時代から押上の普賢様と親しまれ、多くの参拝客で賑わっています。鬼平犯科帳では平蔵の剣友、岸井左馬之助の寄宿先として多くの作品に登場します。なかでも「明神の次郎吉」は、春慶寺が主な舞台になっていて、寺域や押上周辺の当時の様子が描かれています。左馬之助が盗人の次郎吉を荷車に乗せ、蛍が飛んでいる横川沿いの道を五鉄に向かい、もてなす下りは実に微笑ましい情景です。その左馬之助を何度も演じた俳優・江守徹の揮毫による石碑が平成十五年に建てられています。
春慶寺は、江戸随一の歌舞伎作家で「東海道四谷怪談」の作者として有名な四世鶴屋南北の菩提寺として知られています。文政十二年(1829年)11月27日に亡くなった南北の葬儀は、翌年1月13日に春慶寺で盛大に営まれました。深川の黒船稲荷の自宅からこの寺まで、裃を付けた役者衆の長い葬列が続き、参列した大勢の人々には竹皮に包まれた団子が振る舞われ、生前予め書き上げた自らの葬いを目出度い萬歳に仕立てた「寂光門松後萬歳(しでのかどまつごまんざい)」の台本が配られました。
四世鶴屋南北の墓
南北は「大南北」と尊称された江戸時代の狂言作者です。宝暦五年(1755年)に江戸日本橋の紺屋形付職人伊三郎の子として生まれ、幼名は勝次郎(または伊之助)でした。はじめは父とともに仕事をしていましたが、生来の芝居好きから安永五年(1776年)、狂言作者初代桜田治助の門に入りました。翌年には、中村座の「将門冠初雪」という作品に桜田兵蔵の名で作者の一人として初めてその名を連ねました。立作者(筆頭作者)となったのは、享和元年(1801年)といわれていますが、出世作は文化元年(1804年)河原崎座で上演の「天竺徳兵衛韓噺」です。尾上松助(後の松緑)扮する徳兵衛の水中早替りの妙技とあいまって、七十日余りにわたって大入り興行となりました。文化八年(1811年)には四世鶴屋南北を襲名し「於染久松色読販」、「東海道四谷怪談」など庶民の生活を克明に、時には大胆に描いた傑作を次々と世に送り、人々から圧倒的な支持を得ました。文政十二年(1829年)十一月二十七日、七十五歳で没しました。記録によると、墓石には正面に「南無妙法蓮華経」の題目が刻まれ、側面には墓誌名の記載もありましたが、震災・戦災による被災のためかなり損傷しました。昭和五十八年(1983年)、劇作家宇野信夫の染筆を以て新しい墓石が作られました。
2022年3月に訪問した時には、浅草通りに面して「おしなりくんの家」がありました。
しかし、シャッターは閉じられていました。
新型コロナウイルスオミクロン株の感染拡大を受け「おしなりくんの家」は営業を見合わせます。感染が収まるまで「おしなりくんと散歩」も残念ながら、引き続き休止いたします。感染収まりましたら、充分な感染症対策を施し、状況に適した営業を再開いたします。詳細につきましては、解除後に速やかに当商店街ホームページより、発信、お知らせいたします。
おしなり商店街振興組合
2025年5月に再訪した時は、「おしなりくんの家」は高級寿司店に変わっていました。もうおしなりくんには会えないのでしょうか?
みりん堂のある一帯は、江戸時代には鬼平犯科帳に登場する西尾隠岐守の屋敷でした。みりん堂ではおしなり焼きは今でも売っているのでしょうか?
鬼平情景 西尾隠岐守屋敷
遠江国横須賀藩三万五千石で、城中で将軍に諸事を取り次ぎ、礼式を管理した奏者番の職にあった西尾隠岐守の抱屋敷です。敷地はおよそ一万三千坪あり、津軽家上屋敷がおよそ八千坪といいますから、その1.6倍はあったことになります。当時、周辺は押上村、小梅村と称され、長閑な田園地帯が広がり、その中に寺社仏閣が点在していました。内河川が発達していたことから四季折々の変化を舟で楽しむ江戸市民の人気の行楽先でした。しかし、夜ともなると、明かりもめったに見えない実に寂しい土地となり、大名の下屋敷は博奕場に変わり、盗賊の盗人宿も加わって、脛に疵を持つ者が身を隠す恰好の場所になります。鬼平犯科帳では、賭場や盗人宿への経路としてたびたび登場します。
桜とスカイツリーの競演です。
ゴール地点の東武スカイツリー線とうきょうスカイツリー駅に着きました。2022年3月にはスカイツリー駅には正面口がありましたが、2025年5月には正面口は廃止され、代わりに右手奥に東口が新設されていました。
ということで、墨田区で十二番目の「K歩いた後はひとっ風呂!?緑と下町を感じるコース」を歩き終えました。次は墨田区で十三番目のコースである「L潤いあふれる憩いの場。都会のオアシス散策コース」を歩きます。
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