- @鬼平や忠臣蔵などすみだの歴史スポットを訪ねる
- コース 踏破記
- 今日は、すみだウォーキングマップ2020年版で最初のコースである墨田区の「@鬼平や忠臣蔵などすみだの歴史スポットを訪ねる」を歩きます。最初に歩いたのは2022年の3月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年6月に改めて歩きました。
@鬼平や忠臣蔵などすみだの歴史スポットを訪ねる
高低差がなく、町並も碁盤の目状のため、ウォーキングにおススメ!「鬼平犯科帳」や「忠臣蔵」ゆかりのスポットも見逃せません。
「@鬼平や忠臣蔵などすみだの歴史スポットを訪ねる」の歩行距離は約4.2km(約6、000歩)、歩行時間は約1時間、消費カロリーは約190Kcalです。
スタート地点:都営新宿線菊川駅出入口A2
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- ポイント1 江島杉山神社
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江ノ島弁財天と、日本鍼灸を確立した杉山検校を祀っています。境内には江ノ島の岩屋を模した岩屋があります。
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- ポイント2 立川第二児童遊園(安兵衛公園)
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赤穂浪士・堀部安兵衛が剣術道場を構えていました。ここから出発し、吉良邸へ討ち入ったと伝えられています。
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- ポイント3 元徳稲荷神社
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腫物の平癒にご利益があるとされ、明治時代には九代目市川團十郎も参拝したと伝わっています。
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- ポイント4 長谷川平蔵住居跡
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池波正太郎の時代小説「鬼平犯科帳」で知られる長谷川平蔵の屋敷がありました。
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ゴール地点:都営新宿線菊川駅出入口A3
スタート地点の都営新宿線菊川駅出入口A2から新大橋通りを西に向かいます。
出入口A2の直ぐ先に東あられ菊川駅前店があります。本店は両国にありますが、足の遠いお客の要望に応えて、平成十七年早春に菊川駅前店を開店したそうです。この辺りにはあられの好きな方が多いのでしょう。炭・米問屋を営んでいた初代小林桝恵美が、取引先であったあられ・おかき業の「江戸あられ」の主人が関西に戻ることを期に、機械や技術などを引き継ぎ、現本店所在地であられ・おかきの製造元の東京元祖「東あられ」を明治四十三年(1910年)に創業したのが現在の「東あられ本鋪」の始まりです。取引先より引き継いだ「江戸あられ」の更なる発展を期し、江戸を含む東(あずま/西の京都に対する東)として「東あられ」と命名しました。
菊一児童遊園の脇から斜め方向に路地が延びています。
路地の先で左手方向に延びる小さな公園があります。この公園は、かってここを流れていた五間堀を埋め立てて、その跡地を公園にしたものです。
江東区登録史跡
五間堀跡
五間堀は小名木川と竪川を結ぶ六間堀からわかれる入掘です。五間堀という名称は川幅が五間(約9m)であるところから付けられ、六間堀とともに江戸時代から重要な水路でした。五間堀の初見は寛文十一年(1671年)の江戸図で、六間堀とともに記載されており、五間堀が開削された時期は、明暦の大火(1657年)によって付近一帯の再開発がなされた万治年間(1658年〜1660年)ころか、それ以前と考えられます。五間堀は江戸時代には富川町(森下三)までで堀留となっていましたが、明治八年(1875年)、付近の地主であった元尾張藩主徳川義宜により掘りすすめられ、明治十年ころに小名木川まで貫通しました。昭和十一年(1936年)・昭和三十年の二度の埋め立てにより、現在、五間堀は全て埋め立てられています。
五間堀公園は森下駅の北側出口から直ぐの場所にあり、遊具も設置されていて、ちょっとした下町の憩いの場になっています。
五間堀公園
五間堀公園は、五間堀を埋め立て後の昭和十七年(1942年)に開園した公園で、区内でも非常に歴史のある区立公園です。時代の変化とともに、住宅が周辺に立ち並び、人口が増えていくにつれ、休養のために緑地の設置が切望されることとなり、当時の東京市により本園が開園されました。公園敷地の約半分は墨田区にまたがっていますが、昭和二十五年(1950年)に東京都から公園の全区域が江東区へ移管されており、現在でも江東区で公園の管理をしています。開園当時に発行された「五間堀公園案内」には、「園地は三方を道路に接したる路傍小公園であって、附近居住の方々の運動休養と安全なる兒童の遊戯場たることを目的として設計せられ、中央廣場には兒童の為にブランコ、滑臺砂場等の遊戯施設を設けると共に、地元有志よりの寄贈に係る鐵棒固定圓木を設置し、」と記載があります。また、埋め立てられた五間堀には、五間堀公園の他にも、高森公園、森下三丁目第一〜第三児童遊園があります。
清澄通りに出てコンビニの角で左折し、鍵型に進んで水道局の角を左折します。
喫茶ランドリーは、その名の通り、ランドリーが併設された喫茶店です。築55年の建物の1階にあり、元は手袋の梱包作業を行っていた建物をリノベーションし、店内は約100uの広さがあります。丁寧に入れるコーヒーや手作りのフードが評判で、メニューにはクラフトビールもあります。アイロンやミシンをレンタルすることもでき、店内には半地下の7席限定の「モグラ席」、多彩な家具を配した「フロア席」、喫茶店でありながら洗濯機と乾燥機が3台ずつ設置されている「家事室」などの客席があります。様々なイベントも開催され、地域のコミュニケーションスポットともなっています。
喫茶ランドリーの先に、初音森神社があります。初音森神社は、元弘年間(1331年〜1334年)に花山院師賢によって創建されたといわれています。元々は江戸浅草口見付(現在の中央区東日本橋)に位置していましたが、明暦三年(1657年)の明暦の大火によって現在地に移転しました。「初音森」の社名は、旧所在地の古名に由来します。ちなみに、「初音」とは鶯の美しい鳴き声を表し、かつては江戸浅草口見付付近に鶯が多く住んでいたそうです。初音森神社は隅田川の東岸に移されましたが、氏子地域は西岸の馬喰町一帯であるため、祭礼時には両国橋を渡って多くの氏子たちが訪れました。拝殿前の狛犬は江戸時代に建立されたものですが、阿形のみです。吽形は何かの理由で失われたのかもしれません。
案内板が立っています。
初音森神社
鎌倉中期に建立された神社で、江戸初期までは馬喰町初音ノ森(現在の中央区東日本橋馬喰町)の鎮守でした。明暦の大火後に郡代屋敷を建設するため、この地に移されましたが、その後も氏子はお参りやお祭りのために隅田川を渡って来ていました。昭和二十三年(1948年)に、東日本橋馬喰町に分社が建てられ、日本一の繊維問屋街にあるため、商売繁盛の神様として厚く信仰されています。しかし、長い間の習慣で、本社には今でも多くの氏子が参詣に来ます。社名の由来は、鶯が多く棲み、美しい鳴声の響く様を初音と称したことによります。
境内に、田部廼庵稲丸の歌碑が建っています。
田部廼庵稲丸
ここに来て
聞くそ
嬉しき葛飾の
初音の森
の鶯の声
初音森神社の先に、西光寺があります。西光寺は、慶長十一年(1606年)に小林治右衛門により開基されました。彼の子孫は商人となり、後に深川に住んでいます。明治時代後期に西光寺の住職となった渡辺海旭は、旧制芝中学校(現在の芝中学校・高等学校)の校長を務めたり、セツルメント運動に関わるなど多方面で活躍しました。
西光寺
旧両国橋が架かる半世紀以上も前の慶長十一年(1606年)、この地で土地の開拓と海苔の製造を行っていた小林治郎右衛門が、増上寺の信誉英松和尚を迎え当寺を創建しました。浄土宗に所属し、江戸時代には寺子屋を開くなど地域の教育にも貢献しましたが、大火・震災・戦災など度重なる災害にも遭遇しました。明治時代後半に第十六世住職となった渡辺海旭和尚は、ドイツに留学して仏教学の研究で博士号を取得し、帰国後は深川に浄土宗労働共済会を設立して、日本の近代社会事業の先駆者として知られています。また、没年まで芝学園の校長を務めた他、当寺に多くの学生を居留させ、門下生として著名な仏教者を多数輩出しました。学者としては「大正新脩大蔵経」を監修発行したことでも有名です。現在の本堂は、平成七年(1995年)に再建されました。
一ノ橋通りに出て、直ぐ先を右折した角に「マリーズ」というケーキ屋さんがあります。故安部首相の小学校の同級生であるオーナーの坂東氏のお店には、安倍首相も数度の訪問歴がありました。目立たない場所に立地しながらも地元の人に支持されている下町の人気店として知られています。両国すふれは看板商品です。
- ポイント1 江島杉山神社
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マリーズの向かいに、江島杉山神社があります。
江島杉山神社
鍼術の神様・杉山和一(1610年〜1694年)が五代将軍綱吉から、ここ本所一ツ目に約一万二千平方の土地を拝領し総録屋敷を建て、その西隣に弁才天の一社を建立したのが、江島杉山神社の始まりです。神奈川県藤沢市の江ノ島弁財天と、杉山和一総検校が祀られています。和一は、現在の三重県津市の出身で幼いころに失明しましたが、江戸に出て鍼術を学び、江ノ島弁天の岩屋にこもり鍼術の一つである管鍼術を授かりました。その後、京都でも鍼術を学び、再び江戸に戻り鍼の名人として活躍しました。この評判を聞いた綱吉は和一を「扶持検校」として召し抱え、日夜自分の治療に当たらせました。
境内にも由緒を記した案内板が立っています。
江島杉山神社 由緒
当社は神奈川県藤沢市江島神社の弁財天を奉斎し、またその弁財天を深く信仰した杉山和一を併せ祀る。杉山和一(慶長十五年<1610年>〜元禄七年<1694年>)は三重県津市の武家の生まれで幼い頃失明し、身を立てるために鍼術を志す。江戸の山瀬琢一に入門し修行に励む中、江島弁財天の岩屋にて七日七夜の参籠をした。業が明けた日外に出ると大きな石に躓いてしまうが何か手に刺さる物があり探ってみると、筒の様にくるまった枯葉(スダジイ)の中に一本の松葉が入っていた。「いくら細い鍼でも管に入れて使えば盲人の私にも容易く打つ事が出来る」。こうして、現在鍼治療の主流である管鍼術が生まれた。躓いた石は「福石」として、本社江島神社の境内に祀られている。この後より深く鍼治を学ぶため京都の入江豊明の元へ入門する。そして江戸で治療所を開くと、その噂は瞬く間に広がった。同時に多くの弟子を輩出し、世界初の盲人教育の場、職業の確立を進めた。寛文十年(1670年)一月、和一は六一歳にして検校の位を受けた。その名声により五代将軍徳川綱吉の医師として務めるようになる。元禄五年(1692年)五月九日将軍より総検校に任ぜられる。和一が八十三歳の時、綱吉公の難病を治療した功により「何か望みの物は「ないか」との問いに「唯一つ、目が欲しゅうございます」と答え、ここ本所一ツ目に総録屋敷の領地を賜り更に和一が高齢になっても月参りを欠かさなかった江ノ島弁財天が敷地内に勧請された。翌年には壮麗な社殿が建立、本所一ツ目弁天社と呼ばれ江戸名所となり、多くの信仰を集めた。元禄七年(1694年)五月十八日八十四歳没。明治四年、当道座組織が廃止され総録屋敷も没収されるが、当社は綱吉公が古跡並の扱いとしたため残され、社名も江島神社となる。明治二十三年四月杉山和一霊牌所即明庵も再興し、境内に杉山神社を創祀。震災、戦災により二つの社殿とも焼失するが戦後昭和二十七年合祀し、江島杉山神社となる。
総禄(録?)屋敷跡の案内板も立っています。杉山和一は、元禄六年(1693年)6月に五代将軍綱吉の治療の功で褒美を尋ねられ、目を請いました。そこで綱吉は頓知を効かせ、一ツ目(本所一之橋際の土地)と関東総録検校職を与えたと伝えられています。「総録(惣録/惣禄)屋敷」とは、関東周辺の琵琶法師や鍼灸師・按摩などの盲人を統括していた屋敷のことで、他に「一ツ目総録(惣録/惣禄)屋敷」ともいわれました。
杉山和一と総禄(録?)屋敷跡
ここは江戸時代、関東周辺の琵琶法師や鍼灸師、按摩などの盲人を統括していた総禄(録?)屋敷の跡です。杉山和一は慶長十五年(1610年)、伊勢国安濃津(三重県津市)で生まれました。幼時に失明、はじめ江戸の山瀬検校に鍼灸を師事しましたが、後に京都の鍼師入江豊明に弟子入りしました。厳しい修業の後、江ノ島の岩窟で断食祈願を行いました。その満願の明け方、霊夢を通して新しい鍼管術を考案しました。杉山流管鍼術は、鍼を管に入れ、的確にツボを押さえるという画期的なものでした。その後の和一の名声は日増しに高まり、寛文十年(1670年)、検校に任じられました。さらに五代将軍綱吉の治療の功で褒美を尋ねられ、和一は目を請いました。綱吉は一ツ目(本所一之橋際の土地)と関東総禄(録?)検校職を与えたと伝えられています。時に元禄六年(1693年)六月のことでした。一町四方(約一万二千平方メートル)の土地に総禄(録?)屋敷と神社が建てられ、現在の場所には鍼治講習所もありました。現在の神社の名は、土地の拝領者と厚い信仰をささげた江ノ島弁財天を意味します。社殿の南側には江ノ島の岩窟を模した洞窟があります。
鍼治講習所跡の案内板も立っています。
「杉山流鍼治稽古所(講習所)跡」
かつてこの地には盲人達が杉山流鍼按摩術を学んだ教育施設・稽古所がありました。杉山流鍼按摩術とは、江戸時代の盲人鍼医杉山検校和一(1610年〜1694年)によって創始された鍼按摩術で、「杉山流鍼治稽古所」の他に「講習所」「学校」とも呼ばれていました。この地には、明和年中(1764年〜1772年)関東の盲人の最高位で、第二十五代惣禄(録?)若村検校春一の時、神田小川町より移転し、明治四年(1871年)太政官布告により廃止されるまでこの地に存在しました。稽古所は「四間余に五間」で、二十畳余の建物でした。この稽古所を中心に江戸近郊四ヶ所(千住・板橋・新宿・品川)、さらに全国四十五ヶ所へと広がっていきました。当地の稽古所の源は、天和二年(1682年)九月十八日、麹町の杉山検校邸内で始まった稽古所にあります。また、墨田区にゆかりの勝海舟(1823年〜1899年)は、ここで学んだ米山検校銀一(1702年〜1772年)の曾孫にあたります。
境内の池の手前に、杉山検校頌徳碑が建っています。
碑文は点字で書かれています。当然私には読めません。でも、点字を翻訳した案内板が頌徳碑の脇に立っています。
(点字銘板)
贈正五位 杉山検校頌徳碑
天つ日昇りましてもの皆明し。杉山検校顕れまして世の病人と盲いとは皆済われたり。杉山検校和一は慶長十五年伊勢の国の津に生れましき。いとけなくして盲いとなられければ鍼の道を究めて世を済わばやと志し、江戸に出でて山瀬検校に学びつれども、飽かぬ節々多かりければ、終に江ノ島の宮居に詣でて食し物をさえ断ちて祈りを籠められけり。願果つる夜の夢に管と鍼とを得て驚き欣び、ここに初めて管鍼の技は世に顕れたり。のち京都に行きて入江豊明に学びあるは自ら究め、身を砕き歳を重ねて、ついにその上に栄えし鍼の博士の道を明からめ、元禄二年五月徳川の五代将軍に召されて奥医師となられけり。こはまさしく鍼科が内科、外科と並びて薬師の道の一科となれりしなり。五百歳余り廃れたる道を興したるにて、いみじき御功にこそ東山天皇の御代、元禄五年四月に盲官の式目を改めさせられ、總検校を江戸に置かせらるることとなりて、この検校ぞ先ず總検校に挙げられける。扶持八百石被づけられ、江戸本所一ツ目の橋の傍らに広らかなる大宅をさえ賜ばせられぬ。ここに鍼の道の学び舎を建てて、なお北は陸奥より南は筑紫の果てに至るまで、この道の学び舎を置き広く学ばしめられしかば、国内の盲いら皆ここに学びてその技を得けり。星移りもの代われども、いま鍼の道にかかずらうもの何時よろず誰かはこの検校の御影に寄らざるべき。世に育まるべき盲いにして、反りて世を済い、世を過ごすたずきを得つるは異国々に例なきことにして、こは皆この検校の御功なり。元禄七年、検校八十路余り五つという年の五月十八日、病にて身罷られぬ。著しし書に「医学節用集」、「撰鍼三要素」、「療治乃大概集」ありて永くこの道の鑑なり。天皇この検校の御功をしるし給い、こたび東宮の御慶事を折りとして正五位を贈らせらるる。貴きろかも畝傍の宮柱太しく仕え奉りしより、三千歳に近くすぐれたる人々いやつぎつぎに顕れしかど、盲いにしてかかる御功立てたる人は類あらじかし。ここにこの御影による遠近の人々諮りて大正十三年五月十八日二百歳余り五十歳の祭りに仕りて、その形見にとてこの碑を検校がおわしし所と偲びつつ、ここに建つることとはしつ。その人々が筆執りてよと言わるるままに不二之舎あろじ直正記す。
花は笑み波はさざめくぬばたまの
闇を払ひて日の出づるとき
昭和五年五月検校の二百八十歳の祭りも滞ることなく済ませける。その形見にと年古りて壊ちけるこの碑も読み難くなりしかば、新たにその板作りなしここに施復なせり。
岩屋は相州江ノ島の洞窟を模して寛政五年に造られました。宗像三神(田紀理比売命・市杵島比売命・多紀津比売命)、杉山和一総検校、宇賀神(人頭蛇尾)が祀られています。入口脇に岩屋の改修碑が掛けられています。
岩屋重修記
當社は相州江之島江島神社の御分社にして、元禄六年六月十八日五代将軍徳川綱吉公の台命にて総検校杉山和一大人創建せり。御本社に於ける信仰の根源は御霊窟なる奥宮にあり、當社亦之に模して岩屋を築き、寛政五年十月修理し、安政大正雨大震災にも被害なく昭和に至れり。然るに同二十年三月戦災の劫火(こうか:世界が崩れ去るときに起こる、全世界を焼き尽くすという猛火)には天井の石に亀裂を生じ、遂に壊れ落つ。慈に於て旧状を填せず、鉄筋コンクリートにて保強し山を高く植樹を選びて風致を増し古蹟を復現す。又池は堅川より隅田川に通じ、江之島の海邊に連りてゆかり深く魚鱗閃きしが今は川水汚染してその面影なく是亦昔に返へさんと改修せり。依ってその由来を傳ふべく之を撰す。
宗像三神は洞内の右手奥に祀られています。
宗像三姉妹像
弁才天が主尊として祀られるようになったのは平安時代頃からと推定され、本地垂迹説による神仏混淆で日本古来の神と習合してからのようである。本未宇宙神ではなく水と土地の神という観念が強いから、民衆との親しみは深く希いを託し易い存在の神として人気がある。特に農業神・海上神・施福・学問・音楽・弁舌等に霊験あり、又土地の鎮主とし地主神として祀られている。
杉山総検校像は、洞内の正面に祀られています。
宇賀神は、洞内左手奥に祀られています。
宇賀神
ウガは、ウカ・ウケ等食物を表す語で日本古来の穀霊信仰に根ざした食物神であり、神道の宇迦之御魂神(稲荷神)と同一神といわれる。音楽・学問・弁舌・福徳と幅広い御利益がある弁才天と習合したのは、農耕に深く関係する水神信仰によるものである。弁才天の使いが白蛇といわれることから宇賀神の姿が人頭蛇身になった。
キョワ!
本所二之橋南交差点で右折し、再び清澄通りに入ります。先ほど曲がった交差点を今度は左折しますと、左手に弥勒寺があります。弥勒寺は、慶長十五年(1610年)に僧宥鑁によって創建された後、元禄二年(1689年)に現在地に移転しました。弥勒寺は真言宗関東四ヶ寺のひとつとしての重要な役割を果たし、徳川光圀から寄進された薬師如来像など、江戸十三薬師のひとつとして、また御府内八十八ヶ所霊場の46番札所としても知られ、寺領100石の朱印状を拝領するなど、歴史的重要性の高いお寺です。お寺の門前には、「贈正五位杉山総検校墓所」の石碑が建っています。
本堂の左手奥には、杉山和一の墓所があります。杉山和一は、伊勢国安濃津(現在の三重県津市)出身の鍼灸師で、検校(盲人の役職の最高位の名称)であることから「杉山検校」とも称されます。鍼を管に通して打つ施術法である杉山流管鍼(かんしん)法を創始したと伝えられ、鍼・按摩技術の取得教育を主眼とした世界初の視覚障害者教育施設とされる「杉山流鍼治導引稽古所」を開設しました。
東京都指定旧跡
杉山和一墓
江戸時代の鍼医。慶長十五年(1610年)伊勢に生まれ名は和一といい、父は藤堂家の家臣。幼くして失明し、江戸に出て鍼術を検校山瀬琢一に学んだ。江ノ島弁天祠に詣でて断食祈願を行い、杉山流管鍼術を創案した。さらに京都の入江豊明について鍼術を学び、その道の奥義を窮めた。貞享二年(1685年)、五代将軍綱吉の病を治療して厚く賞され、のちに禄五百石を賜り、さらに三百石を加えられた。元禄五年(1692年)関東総検校に任ぜられ、本所一ツ目に方一町(約一万二千平方メートル)の宅地を与えられた。和一はここに鍼治講習所と弁天堂を建立したほか、諸国に講堂を建てて多くの門人を育てた。著書には「療治之大概集」「選鍼三要集」「医学節要集」等がある。元禄七年(1694年)五月十八日、八五歳で没した。
Historic Places
Sugiyama Waichi Haka
(The grave of Sugiyama Waichi)
Sugiyama Waichi (1610-94) is an acupuncturist in the early Edo period. He lost his eyesight in his childhood, and then came up to Edo and learned acupuncture from Yamase Takuichi, a Kengyo (the highest rank within an association of blind men). Fasting and praying at Enoshima Benten Shrine, he established the Sugiyama method of tube acupuncture. In 1685, he successfully cured the fifth shogun Tsunayoshi's illness and
received high praise. Waichi was appointed the first Head of Kengyo for Kanto region in 1692.
「はり供養塔」も建っています。
医療はり供養塔建立由来記
東洋医学は中国に始まり、三千年の歴史を数えますが、我が国も1600年「奈良朝」前に鍼術が伝わり?くての后、鍼灸の発達は官命により著しく進歩を遂げたことは申す迄もありません。江戸時代初期「1767年」幕府は医学館を創設し、中国の古法を学ばし?ひと云ふ記録があります。この度新しく建立した「はり」供養塔は先師杉山検校の鍼管を?り、先哲の遺徳を顕彰すると共に、鍼術を以て施療した幾多の同業の慰霊と同時に、使用ずみの管鍼に対する感謝の意味を表したものであります。即ち塔は六角の基礎は検校が帰依し、参籠中の霊告に依って発見したと伝えられる江之島弁財天の神徳を現はし、台座の三行三角は鍼法の?奥を究める熱意をこめて人体の基本的な型を象徴して居ります。身体の重要機能は古来から木は「青」、肝胆火「赤」は心と小腸、土「黄」は胃と脾金「白」は肺と大腸水「黒」は腎と膀胱の五要素であります。先端の小さな五輪は龍頭です。三輪は地水火風空の宇宙を表します。さて、五行は仏菩薩となる為の行為として・・・
何か五行の部分の意味が分からないので、ここで解読を断念。。。
心が折れて、杉山和一の墓石の隣の石碑も解読を断念。。。
中和小学校の角の交差点を左折して区役所通りに入ります。新堅川橋手前で右折し、竪川に沿って進みます。
- ポイント2 立川第二児童遊園(安兵衛公園)
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立川第二児童遊園は、昭和五十二年(1977年)4月に開園しました。滑り台やウンテイがついたコンビネーション遊具の他、ブランコ・スプリング遊具などがあり、柵で囲われた砂場も設けられています。公園内には桜の木が植栽されていて、例年3月下旬から4月上旬には満開の花を咲かせ、鮮やかな彩りで周囲に春の訪れを知らせてくれます。
立川第二児童遊園は、赤穂義士が吉良邸へ討ち入る際に集結した「堀部安兵衛道場」が存在したといわれる場所にあり、近隣の人たちからは「安兵衛公園」という愛称の名でも親しまれています。
忠臣蔵 堀部安兵衛道場跡
安兵衛は越後国新発田藩(現・新潟県新発田市)溝口家家臣中山弥次右衛門の嫡子として生を受ける。高田馬場の決闘での助太刀の大立ち回りで一躍有名になり、赤穂藩浅野家家臣堀部弥兵衛に見込まれ婿養子となる。そして家督を継ぎ堀部安兵衛武庸と名のる。此の地、林町五丁目に紀伊国屋店の二軒を借り長江長左衛門と称して剣術道場を開き、江戸急進派の中心的人物として吉良邸討入りの機会を探っていた。討入り当夜の同志集結場所の三ケ所のひとつであり、行装を整え出撃していった場所である。また、道路を挟み東の徳右衛門町一丁目には杉野十平次が杉野九一右衛門と称して、長十郎店一軒を借り住んでいた。
令和三年(2021年)8月には、吉良邸の跡地である本所松坂町公園までの討ち入りルートや、史実に因んだエピソードなどを盛り込んだ「歴史説明板」が設置されました。
「忠臣蔵」討ち入り出発の地 −吉良邸を目指す−
「吉良邸討ち入り」集結地のひとつ、堀部安兵衛の剣術道場はこの辺りにあった。ここから安兵衛らが、杉野十平次宅や前原伊助宅を出発した浪士と共に、表門と裏門の両門から吉良邸へ討ち入ったのは元禄十五年12月14日寅の刻。明け方には討ち取りの合図が鳴り響く・・・。吉良邸まではわずかな距離だが、「松の廊下事件」から1年と9か月、ここに至るまでの道のりは、長く、険しいものであったにちがいない。
-The Point of Departure of "Chushingura", the 47 Ronin on
Their Way to Raid the Kira Residence to Avenge their Master-
Before their raid of the Kira residence, this was one of the gathering places of the 47 ronin (masterless samurai), and the kendo dojo (Japanese swordsmanship training hall) of warrior Horibe Yasube, one of the ronin. From this place, Yasube and his men, along with other ronin who came from the residences of Sugino Juheiji and Maehara Isuke, raided the Kira residence from its front and back gates during the early hours of December 14, 1702. You can almost hear the raid's clanging signal during the early dawn...
堀部安兵衛道場は古地図の何処にあるのでしょうか?
- ポイント3 元徳稲荷神社
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立川第二児童遊園の左手先の三ツ目通り脇に、元徳稲荷神社があります。元徳稲荷神社は、慶長年間(1596年〜1615年)に創建されました。三河国の武士河村徳右衛門は伏見稲荷大社から分霊を勧請し、自邸の屋敷神として稲荷神を祀りました。その後、徳川家康の江戸入府と幕府開設に伴い、河村徳右衛門も江戸に移住し、江戸の新邸に稲荷社を移設しました。二代目徳右衛門の時、妻に難性の腫物ができたためにこの稲荷に祈願したところ、治癒することができました。このご利益が評判を呼び、河村家の屋敷神から一般に開放されました。河村家の手から離れた際、元徳右衛門邸の稲荷ということで「元徳稲荷神社」と呼ばれるようになりました。歌舞伎の九代目市川団十郎の顔面に腫物ができた時、元徳稲荷神社に詣でて祈願したことで治ったということです。明治から縁日が開かれるようになり、戦後一時断絶しましたが、昭和四十八年(1973年)に再開されました。
元徳稲荷神社略記
祭神 宇賀御魂命(うがのみたまのみこと)
元徳稲荷神社は、河村徳右衛門氏が未だ三河岡崎(現愛知県)に在った時、河村家の氏神様として、名匠に依頼して彫刻させ、伏見稲荷神社より神璽を遷してお祀りしたのが始まりである。徳川家康が江戸城を開いた折、河村氏も江戸に出府を命ぜられ、神田川沿岸に土地を賜わり、町名を徳右衛門町と称した。その際、稲荷神社も江戸の邸内に移された。そして、二代目徳右衛門の妻女が、難性の腫物を患い稲荷神社に祈願して平癒した。それを聞いた町の人々が三々五々お参りし、平癒すると土地の産物である里芋を供えてお礼をした。明暦三年(1657年)江戸に大火(通称「振り袖火事」)があって、幕府は火災に強い町づくりを進め、このニュータウン計画により河村家は本所(現在の立川三丁目付近)に移封され、この処を徳右衛門町と称して、稲荷神社も移祀した。しかし、その後も参拝する人が絶えず、多くの参拝の人の便を考え、屋敷内から三ノ橋畔に移祀した。邸内にあった時は正一位稲荷大明神と称していたが、三ノ橋畔に移祀したのを機に元徳稲荷神社(元徳右衛門邸内にあったお稲荷さんの意)と改称した。近在に飛火という腫物の病が大流行した折、里芋を供えて平癒祈願したと伝えられている。後に、明治の中期に活躍した九代目市川団十郎も腫物に苦しめられた時、当神社に参拝したと記録されている。
狛犬は狐のようですが、口に巻物のようなものを咥えています。
三ツ目通りを菊川駅に向かいます。左手にゴム風船専門店があります。「かねますや(金桝屋)」は、昭和二十五年(1950年)創業で、風船やスーパーボールなどゴム製品を専門的に取り扱う会社です。店頭販売の他、通信販売も行っています。
- ポイント4 長谷川平蔵住居跡
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菊川駅A3出口の前に、長谷川平蔵住居跡の案内板が立っています。
長谷川平蔵・遠山金四郎住居跡
長谷川平蔵宣以は、延享三年(1746年)赤坂に生まれました。平蔵十九歳の明和元年(1764年)、父平蔵宣雄の屋敷替えによって築地からこの本所三之橋通りの千二百三十八坪の邸に移りました。ここは屋敷地の北西端にあたります。長谷川家は家禄四百石の旗本でしたが、天明六年(1786年)、かって父もその職にあった役高千五百石の御先手弓頭に昇進し、火付盗賊改役も兼務しました。火付盗賊改役のことは、池波正太郎の「鬼平犯科帳」等でも知られ、通例二、三年のところを、没するまでの八年間もその職にありました。また、特記されるべきことは、時の老中松平定信に提案し実現した石川島の「人足寄場」です。当時の応報の惨刑を、近代的な博愛・人道主義による職場訓練をもって、社会復帰を目的とする日本刑法史上独自の制度を創始したといえることです。寛政七年(1795年)病を得てこの地に没し、孫の代で屋敷替えとなり、替わって入居したのは遠山左衛門尉影元です。通称は金四郎。時代劇でおなじみの江戸町奉行です。遠山家も家禄六千五百三十石の旗本で、勘定奉行などを歴任し、天保十一年(1840年)北町奉行に就任しました。この屋敷は下屋敷として使用されました。屋敷地の南東端にあたる所(菊川三丁目十六番十三号)にも住居跡碑が建っています。
ゴール地点の都営新宿線菊川駅に着きました。
ということで、すみだウォーキングマップ2020年版で最初のコースである「@鬼平や忠臣蔵などすみだの歴史スポットを訪ねる」を歩き終えました。次はすみだウォーキングマップ2020年版で二番目のコースである「A北斎案内板を見ながら歩く北斎ゆかりの両国コース」を歩きます。
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